中村光声 奥の細道
月隠れ海の音聞く芭蕉の忌
冬霞国境をも包みけり
冬夕焼旅人の背も染めにけり
行き止まりのこの道照らす冬の月
山寺に辛夷の冬芽うれしかり
橋ふたつ濡らす時雨を歩きけり
老い歩む時雨の色のこの道を
ほの蒼き白さまで透く寒の月
標なき来た道帰る冬木立
けものみちただひとすじに冬木立
塀越しの花いちもんめ冬座敷
日輪へ自転緩やか冬の鳶
極月や無住寺の庭掃かれけり
纏うもの還し冬木の芽のひかり
生まれ還るこの星止まず去年今年
そこばかり光零れて福寿草
寒林やその一木を標とす
はるかなるものの力や冬の月
冬の雷去りいちまいの青残す
森の香を四方に放ち春の月
ふらここや漕げば真青な海展け
里山は花菜の海となりてをり
囀りのなかにひかりと眠りたり
春昼や画布にはいまだ色置かず
奥州路分け入り余花に遇いにけり
一湾のたゆらに寄せる卯波かな
九十九折腰を下ろせば花いばら
沙羅の木を標としたる角の家
葉脈に力溢れて花菖蒲
平らかに空色零し額の花
峡の底ありとも見えぬ鮎の宿
地の酒を振舞い山車の動き出す
浮雲のひとつなき空石榴咲く
青き風捉え風鈴鳴り出しぬ
海境の空深きより夏かもめ
良寛の見据えし佐渡へ天の川
夏祭り所言葉の輪に入りぬ
旅の日のゆつくりありぬ菊日和
風啼けば紅葉乱舞す五大堂
霧襖峡の一村消しゆきぬ
独りならこのゆびとまれ赤とんぼ
日溜りの石に蜻蛉の翅透けり
水涸れし橋までつづく曼珠沙華
鬩ぎ合う陸地と海や秋の声
釣り人の身じろぎもせぬ秋時雨
一木を撫でれば繋がる秋の空
層々の蒼き高さに鳥渡る
くくられて軒に忘らる唐辛子
黄落の道がつづきて遠嶺まで
月の道果てなむ辺り色の浜
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2007-10-28
中村光声 奥の細道
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7 comments:
表題にまずたじろぐ。
作者は実直なパーソナリティの方と想像する。やや説明過多の句が多いように感じた。もう少々読者を信じていただいて、放り投げてくれるような句があると嬉しく思う。
以下好きな句。
寒林やその一木を標とす
森の香を四方に放ち春の月
旅の日のゆつくりありぬ菊日和
釣り人の身じろぎもせぬ秋時雨
「奥の細道」と題しながら(いや、だからこそ、かもしれませんが)どこか幻想的。
「その時その場」という臨場感のある句があれば、より、一連としての強さが出たかもしれません。
選ぶなら
橋ふたつ濡らす時雨を歩きけり
森の香を四方に放ち春の月
森の香を四方に放ち春の月
旅の日のゆつくりありぬ菊日和
タイトルが「奥の細道」、作品では何回か「標」を用いていらっしゃる。
旅に行くのは何度も行き慣れたところというのもあるが、大抵は見知らぬ土地である。
見知らぬ土地をたった一人で歩くとき、拠るところがない。
道に迷ったときのためという実利的な意味もあるが、これを「標」と決めておくと急に
「標」と決めたものがこちらの味方になったような気がする。
背の高いビル。近所の質屋の看板が付された電柱。家の前にこじんまりとした庭があり、庭とは不釣合いに大きな犬が眠っている民家。
そういったものが孤独な自分の味方になる。
だから旅で標を求めることは孤独なままで生きることができない人間というものの証である。
「標」を何度も詠みこまれていることは、
とても人間的な方なんだろうと思うと同時に、実際に何度も旅に足を運ばれたのだと想像する。
そこから生まれた俳句たちなのだろう。
ただ他の方のコメントで書かせていただいたのだが、文芸とは虚実皮膜の間にあるものだと思う。
実というのは日常のことである。
虚とは非日常であり、狂である。
この方の俳句は実の部分が大きいように思う。
「旅の日」が「ゆつくり」ある「菊日和」を
詠まれていることから勝手に想像させていただくと、旅が非日常ではあっても、虚ではないように察する。
とても真面目な方と想像する。私のような若造はそのような真面目な方がふと危ない橋を渡るような句を作られるとどきどきしてしまう。
好きな句
里山は花菜の海となりてをり
葉脈に力溢れて花菖蒲
海境(峡?)の空深きより夏かもめ
私も文法のことはよく解らないのですが、たとえば、「くくられて軒に忘らる唐辛子」の場合、「忘らる」では舌足らずな印象です。また、文語と口語が同居している感じもあるようです。全体に、感情移入して読もうとするときに、そういう違和感が邪魔をしているようで、勿体無いという思いが残りました。失礼なことばかり書いてすみませんでした。
葉脈に力溢れて花菖蒲
日溜りの石に蜻蛉の翅透けり
水涸れし橋までつづく曼珠沙華
一木を撫でれば繋がる秋の空
あたりが好きでした。
何か大きなことを言おうと力んでいるものよりは、ふっと力の抜けた作品の方に惹かれました。
中村光声様
鮟鱇です。玉作五十句、拝読いたしました。
春昼や画布にはいまだ色置かず
と玉句にありますので、絵も描かれる方かと推察します。
五十句、いずれも絵心を言葉に託されているのかと推察しました。
俳句は写生でもあると思います。そう信じている方が、大勢であるのかと思います。
ただ、私自身は、そういう俳句に読みごたえを覚えません。
子規が取り入れた「写生」は、キュービズムやシュールレアリズムの画法を知らなかった明治の頃の画法です。
そこで、若いみなさんが、言葉をけっこうシュールに扱って成功しているなかでは、古さばかりが眼につきます。
「不易」はあるのですが、「流行」が致命的に欠落しているのです。
「流行」とは、「え、そんなのあり」という驚きを伴うものです。
「流行」の致命的な欠落は、角川俳句賞自体にも認められることですから、若いみなさんの野心的な作品が陸続として落選になるのは当然であると思いますが、「写生」を軸とする作句は、どんなに言葉が磨かれていても、もはや古いと思います。
角川俳句の落選には、選者の対象内の落選と対象外の落選があります。
対象内は「不易」のなかでの落選と、対象外は「流行」による落選。
私は「不易」を語る資格のない粗野な人間です。言葉が過ぎています点、どうぞご容赦ください。
中村さんの言葉がよく磨かれていること、不易の写生のなかで、言葉が正確であることはよくわかります。
発句 夏祭り所言葉の輪に入りぬ 中村光声
付句 復讐相手しかと確認 民也
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