2007-11-11

サナギ 山口優夢

サナギ ……山口優夢





月光のしたたりかかる鵜籠かな  飯田蛇笏

ケンは少し手を休めて、その句の表現している情景を頭に思い浮かべてみる。地上にいながらにして月が見えているのだから、時間帯はおそらく夜、つまり太陽が見えていない真っ暗な時だったのだろう。

しかし彼は、鵜籠がどんなものであるか、まるで想像がつかなかった。ステンレス製か何かなのだろうか。それとも鉄で出来ていたりするのか。形は四角なのだろうか。丸いのだろうか。鵜籠、と言うからには、やはり鵜という動物を入れておくための籠なのだろうか。彼は、図鑑でその動物の姿を見たことがあった。確か、鳥とかいうやつだった。・・・ところで、それはどのくらいの大きさの籠になるのだろうか。

窓の外を覗き見る。ケンの部屋はそのときちょうど、窓の向こうに月を眺めることの出来る位置にあった。つまり、地球とは反対側を向いているのだ。月は灰色にくすんでいた。太陽の光を照り返し、鈍くわずかに光を放っている。

こうしてまじまじと見ていると、それは宇宙の広大無辺な闇に浮く、ただのまるい岩石塊だった。ケンは胸ポケットから煙草を取り出しジッポでふかすと、そのまま、窓の向こうの青ざめた月に向けて、煙を吐きかけた。薄れゆく煙の中から、無数の星が覗いてくる。

彼がこの句に立ち止まったのは、「月光のしたたりかかる」という表現が胸の中へ水あめのように落ちて、甘ったるく蟠ったからである。彼の知る天体の光は、どれも硬質なものばかりだった。窓から見える遠い星の数々、くすんだ月、火のように赤い火星(彼はこの星を、さまざまな思いを込めて、よく眺めている)、光の束を抱えた太陽(そのまま見ると目が潰れるので、ステーションの端にある専用の天文台からしか見ることはないが)、そして今でも青く光り輝いている地球・・・。

どんな星の光でも、「したたりかかる」などと形容されるくらいに、それ自身がまるで水ででもあるかのような濃密な質感を持って降り注いでくることなど、ケンにはほとんど考えられなかった。彼にとって、星とは、闇の中に寄る辺なく浮き、ただその孤独に耐えて硬く光るものに過ぎなかった。

ケンの生まれ故郷は、ここ、オオエドである。その、右側地区第23病院産婦人科室のどこかで生まれた、ということ以外、彼はふるさとについての情報を持たなかった。物心ついたときには、彼は左側地区の一室で里親とともに暮らしていた。

「右側地区」「左側地区」というのは、オオエド内の地区の名称で、セントラル通りを境に、皇居を背にして立ったときに右側か左側か、で分けられている。宇宙ステーション・オオエドでは地球上とは違って東西南北という方向の指し示し方はできないため、右左で方向を表示するのが慣例となっているのだ。

このような宇宙ステーションは、オオエド以外に数十ほど存在した。一つのステーションに収容できる人数はおよそ数十万人程度。これらステーションに生活しているのが、現在生き残っている人類の全てであった。

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む  金子兜太

しかし、蟹すらも地上ではもう生き残っていないだろう。死の世界と化した地上から放射能が完全に消え去るまでの長い間、全ての生き物は地球の周囲をめぐるステーションに避難し、何世代も何世代も、宇宙の暗黒に息を潜め、じっとおとなしく生きているより他に選択肢を持たなかった。

ケンは、ステーションしか知らなかった。そこには、風が吹かなかった。山もなかった。水路はあったが、川はなかった。巨大貯水槽ならあったが、海はなかった。そもそも、太陽の光がなかった。夜も昼も、単一の青白い人工照明が燈っていた。だから、「夜」という概念自体、忘れ去られていた。人々は、プログラムに従った時間に寝起きした。

植物は、彼の目に付く限りでは申し訳程度の草花が舗道に植えられているのみであったが、ステーションの一画には、特殊加工した太陽光を浴びて樹木の育っている地区があった。その「森」は、一般人は立入を禁じられている。光合成によってステーションに酸素を供給する、人間生活のための云わば生命線とも言える場だったからだ。

ケンは先人の残した俳句を読むにつれて、そこに広がる自然の姿に驚嘆せざるを得なかった。図鑑や記録映画などで知識を整理しながら、ステーション世代の彼なりに、地球をなつかしんだ。

遠山に日の当りたる枯野かな  高濱虚子

たとえば、この句は、どの本を読んでも名句ということになっているが、最初のうち、彼にはその情景が全く分からなかった。遠山に日があたることで、どんな影がその世界に生まれるのだろうか。肌に触れてくる風は?どんな色が目に浮かぶ?彼にはさっぱり分からなかった。

ある日、彼がプログラム通り睡眠をとっていたとき、ふいにその夢は訪れた。ビデオに映し出された静止画のように、遠山に日のあたる枯野の姿がいつまでもいつまでも彼の面前にしずかに広がっているだけの夢。彼の知りたがっていた影も、光も、風も、何もかもが彼自身の肌に感じられた、なつかしい夢。

なつかしさの余り、その枯野に駆け出して行こうとするが、どんなにその景色に入っていこうとしても、どうしてもそれは遠すぎて、辿り着けないのだった。

夢から醒めたとき、ケンは我知らず涙を流していた。ケンは驚いた。自分の中のいったい何が涙を流させたのか、彼にはよく分からなかった。それ以来、この虚子の句は、彼には忘れられないものになった。

煙草を灰皿でもみ消したちょうどそのとき、ケンの部屋の直通電話が鳴った。番号表示を見ると、局長からである。

「もしもし」

「こんにちは、ケン。何をしていた」

月を捕らえた窓のブラインドを下ろしながら、ケンは答える。

「・・・月見です」

「そうか、風流を楽しんでいるところ申し訳ないのだが、今、私の部屋まで来れるか」

「分かりました。すぐ部屋を出て、十五分で伺います」

「ん、よろしく」

一瞬の間があって、その間に局長がニヤっとしたらしいことが、続いて出てきた彼の言葉の抑揚から感じ取られた。

「月見団子よりももっと君が喜ぶだろうものを用意して、待っている」



局長の部屋からは、地球が見えていた。

ケンの部屋がステーションの左舷にあるのに対して、局長の部屋は右舷にあるため、窓は反対側に開いているのである。太陽の側を向いたときには自動的に窓のブラインドが下りるため、彼らが自分の部屋の窓から見ることの出来る天体のうちで最も明るいものは、いま、部屋の窓に光り輝いている、あの、地球だった。

「そんなところに突っ立っていないで、こっちに来て座りなさい」

いつもどおり柔和な笑顔を浮かべている局長が、緊張して部屋に入ってきた彼に話しかけた。ケンのような若者が、局長の部屋に出入りするのは異例なことだった。

「は、失礼します」

椅子に座ったケンを、局長は目を細めて見ている。一つうなずくと、局長は自分の席を立ってなにやらごそごそと準備し始めた。

惑星探査局局長という激務についていながら、決して激昂せず、常に微笑をたたえて部下に接するその姿が、彼が若い世代に広く人望を集めている所以である。実際、局長は、いつでもぴりぴりしている上層部の中では特異な存在であった。逆にそのことで、惑星探査局はよほど楽な部署なのであろう、と他のお偉方に陰口を叩かれていることも、ケンの耳には入っていた。

しかし惑星探査局に勤め、日々の激務をこなしているケンには、それはただのやっかみに過ぎないことは明白だった。ケンもまた、若手の大部分と同じく、少なからず苦手に思っている上層部連中の中では、局長だけには心を許せるような気がしている。

地球が大きく映っている窓を背景に、局長はワイングラスを二つ、そしてワインを一本テーブルに持ってきた。

「ステーションパリから貨物船で輸入した高級ワインだ。ホンモノの葡萄から作った超貴重品だぞ。あちらのステーションにはわずかながらブドウ畑が作られていてね。何しろ数が少ないから一般には出回らないのだが」

いつもは整髪料でみっちり撫で付けられている局長の白髪が、自室にいるからか、リラックスしてふわふわ揺れている。局長の話が見えず、ケンは戸惑った顔になる。

「なぜ、そのような貴重なワインを・・・?」

「まだここで開けるかどうかは決めていない。まあ、君の返事次第、と言ったところだね」

 局長は一つ咳払いし、窓の外の地球に顔を向けたが、すぐケンに向き直った。

「実は、第三次ヒノトリに欠員が出た。探査チーム32番オリンポス火山地質調査隊副官のポジションだ。火星地質調査プロジェクトとしては、花形と言って良い部署だと思う。私としては、是非、君に、と思っているのだが。・・・どうだ?」

ケンは、驚きの余り全身の血が引いていくのを感じた。徐々に血流が戻ってきて、頬やら指先やらが熱くなってくる。ケンに異存のあるはずがなかった。彼は、正にその花形部署を志望して、通らなかったのだから。

ヒノトリと言うのは、ステーションオオエドが立ち上げている有人火星探査プロジェクトだ。五年に一度、探査機に乗せて数十人の精鋭部隊を火星に送り込んでいる。調査隊は、地形、地質、気候、砂嵐など、火星の調査を丸二年間に渡って行い、ステーションに帰還する。過去二回の調査でかなりの成果が得られており、今後もこのペースで探査が行なわれる予定だ。第三次ヒノトリの打ち上げは、あと三ヶ月に迫っていた。

ヒノトリ計画を推進しているのは惑星探査局である。惑星探査局火星調査研究所所員の肩書きを持つケンは、今までは、火星から送られてくる調査データの整理を担当していた。そこで十分経験を積んだ後、第三次ヒノトリ調査員に応募したのだが、あいにく選考を漏れて、五年後の第四次ヒノトリ乗船を目標に頑張っているところだったのである。―そこへ、正に降って湧いた幸運が、今回の欠員だったというわけだ。

このような惑星探査がそれぞれのステーションでたびたび行なわれるようになったのは、地球放射能の完全な消滅が早くともあと千年は先になる、というのがステーションの共通見解となってからである。千年!人類は、そんなに待てない。

火星探査は、二十世紀後半のような単なる冒険でもなければ、二十一世紀前半の学術的な調査でもない。もはや、もっと切羽詰った、人類移住のための本格的な準備段階に入っていたのだ。もちろん、現段階から火星への移住を実現するには数百年はかかるという見通しが立てられている。それでも、数百年だ。千年以上、何もせずに宇宙に浮かんでいるよりはよっぽどマシ、というわけである。

「どうだ?やはり、すぐ返事をもらうのは難しいかな?」

局長が、こめかみの辺りを指で掻きながら、微笑んだ。微笑を浮かべていても、こめかみに指をやるのは、局長が少しじれているときのクセだ。

「あ、いや・・・」

「何をためらうことがある?君がもともとやりたがっていた仕事だろう?」

第三次ヒノトリが旅立つのはわずか三ヵ月後。これからその計画に参加するとしたら、訓練やらなにやらで一日の猶予もないはずだ。ケンは、自分の背中が汗に濡れているのをひたひたと感じた。

「・・・五分だけ、一人で考えさせてもらっていいですか?」

「うむ。では、私は隣の部屋で待っているよ」

局長は、あくまで紳士的に相好を崩さず、隣へしずかに歩いていった。ケンが今になって第三次ヒノトリへの参加をためらうのには、二つ理由があった。

一つは、第二次ヒノトリのことである。第一次ヒノトリは、無事ミッションを終えてステーションに帰還することができた。第二次は、その火星滞在期間中に火星から電波に乗せてさまざまなデータを送っては来たものの、岩石などのサンプルを持って帰ってくるはずだった調査隊の船は、ステーションに帰ってくる途中、突然交信が途絶え、そのまま行方不明になってしまったのである。

この事故の原因は、ステーションの公式見解としては、太陽のフレアのために太陽風の影響が予期し得なかったほど大きくなり、船のシステム系に誤作動を引き起こしたからだとされているが、調査隊が帰ってこなかった今では、本当のところはよく分からない。

つまり、現在の強大な科学力をもってしても、火星への航行は決して生易しいものではないのである。ケンは、こんな時代だったから、自分の命はいつかは宇宙のチリとなって消えていくだろうと漠然と思ってはいたし、その覚悟もできていたのだが、今、死ぬのは嫌だった。

もう一つの理由は、欠員の原因が分からないという点である。もともと、オリンポス火山地質調査隊副官の役職は、リュウのものだったはずだ。ケンとリュウは同じ学校出身で、幼いころからの友達である。

同じように学校を卒業し、同じように惑星地質学に興味を持って、二人とも第三次ヒノトリ調査隊に応募したが、通ったのはリュウだけだったのだ。リュウはどうしたのだろう。それを思うと、素直にヒノトリへの参加を喜んでいいものかどうか、ケンには判別がつきかねた。

局長が、隣のドアから入ってきた。

「お聞きしたいことがあるのですが」

「なんだね」

局長は背筋を伸ばし、正しい姿で席についた。ケンはその目をまっすぐ見据えて、質問する。

「欠員になったのは、リュウですか?」

「・・・そうだ」

「欠員の理由をお聞きすることはできないでしょうか?」

局長は、何度かうなずいた。ケンの言葉を彼なりに納得して聞いたというふうだった。

「やはり気になるかね」

「同窓生ですから」

「まあ、隠しても仕方ないことではあるし、別に言うのは構わないのだが」

今度は、局長がじっとケンの目をみつめる。

「しかし、そのことを聞くことで、君がこの話を受けるかどうか変わってくるのかね?」

「それは・・・分かりません。しかし、聞かずに決めることはできないように思います。それがどんなにつらいことであっても、知りうることは全て知ってから、きちんと判断したいと思っています」

ケンには分かっていた。逆にここまで質問してしまったら、どんなに辛い答えを聞いたとしても、やっぱり辞めます、とは言えない。本当は質問をした時点で、覚悟は決めていたと言っても良かった。

「・・・まあ、そう暗い顔をせずとも良い。別にリュウが死んだというわけではないんだ。リュウの肩書きは、昨日付けでもう火星調査研究員ではなくなった。彼のいま所属しているのは、オオエド自衛軍第13方面軍司令部だ。そこで、砲兵訓練を明日から始める予定になっている」

「じゃあ」

「そう、志願兵、と言うことだ」

地球のまわりには数十に及ぶステーションが浮かんでいた。一つのステーションが昔で言うところの一つの国家に対応していると考えて良い。地球を死の星とした過去の核戦争は彼らに国家間の戦争の恐怖を思い知らせたはずだった。

しかし、お互いのステーション内で何をやっているかわからないという疑心暗鬼から、それぞれのステーションが自衛の名のもとに軍隊を持つことを止める術はなかった。確かに現在は、表向き、ステーションは連合を組み、協力体制をとっており、どこにも戦争の火種などはなく、百年以上も平和のときが続いていた。しかし、それが十九世紀ヨーロッパのような勢力均衡、冷ややかな緊張関係をごっそり抱え込んでおり、いつどんなことから何が起こるとも分からないという雰囲気は、むしろ一般的なものとなりつつあった。

砲兵訓練―。なぜリュウはそんなに思い切った決断を下したのだろう。せっかく決まっていた、人類の未来を担う火星探査の職を蹴ってまでも。

「私が行きます」

ケンの声は、自分で思ったよりもしずかに、重々しく部屋の中に響いた。そして彼は、自分では気付いていなかったが、とても苦々しい顔つきになっていた。局長は何も言わず、きゅっきゅっとワインのコルク栓を回し始めた。



戦争十句

戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡辺白泉
訓練空襲しかし月夜の指を愛す  西東三鬼
やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ  富澤赤黄男
霧去りて万歳の手の不明かな  攝津幸彦
「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク  川崎展宏
大榾の裏を返せば一面火  高野素十
手がありて鉄棒つかむ原爆忌  奥坂まや
あやまちはくりかへします秋の暮  三橋敏雄
死ねば野分生きてゐしかば争へり  加藤楸邨
忘れちゃえ赤紙神風草むす屍  池田澄子

ステーションの一画に酒場が集まっている地区があった。大昔の飲み屋街から名をとって、ゴールデン街と呼ばれている。ただし、ステーションの中はどこも驚くほど清潔なので、飲み屋街とは言ってもかつてのゴールデン街のような汚らしさとは無縁ではあるのだが。

ケンは、十五時間に及ぶ火星ローバーシュミレーション室での訓練を終えると、軽く食事を摂り、その足でゴールデン街に直行した。リュウと会うのは何ヶ月ぶりだろうか。ゴールデン街の外れの小奇麗なバー「サムライ」の、茶色い扉の前に立つ。

扉を押して入ることを躊躇している自分を、彼は持て余した。まるで、あの日、局長室でヒノトリへの参加を即断できなかったときと同じようだった。少し深めに、息を肺に入れる。いくら親しかったとは言え、数ヶ月会っていなかったのだからそういうものかな、とも思った。心臓がざわざわしていた。左胸をぎゅっと掴み、空いている方の腕で重たい扉を押し開けた。

「いらっしゃい」

招き猫を磨いていたマスターが、ぼんやりと呟いた。バーらしく、ひどく薄暗い。マスターが招き猫を置いたコトリという音の向こうに、ジャズが遠く流れている。ケンには何と言う曲かさっぱり分からなかったが、どこかで聞いたことがあるようにも思えた。でも、ジャズを聴けばいつでもそんな気分になるものだから、やっぱり聞いたことのない曲なのかもしれない。

リュウは、窓際のスツールにもたれていた。窓の向こうには、月も地球も太陽もない。ちらちらと光る多くの星が、より一層闇を深めているだけだった。ケンは、しずかに隣に座った。

「何を飲んでいる」

リュウは切れ長な瞳をちらとケンの方に向けた。

「ヘネシー」

「ちょっと会わないうちに、ずいぶん金遣いが荒くなったと見えるね」

「いいじゃないか。旅立ちのときは近い。俺にとっても、おまえにとっても。出立にはいい酒だよ」

「・・・僕は、ラスティーネイルを」

「はいよ」

マスターが答える。

「そんな甘いもの飲むのか。おまえは昔と変わらないな」

リュウが笑いかけた。ケンは少し身構える。「おまえは」か。リュウの言葉があまり重い意味を持ってしまわないように気を遣いながら、ケンは言葉を継いだ。

「この前、局長室で高級ワインを飲んだ。高級酒はもう十分だよ」

「局長室で?ああ、辞令が出た日か。局長のいつものやり口だな。こちらがイエスと答える前からワインを用意しておいて、断りづらい雰囲気にするんだ。人当たりのいいあのオーラだけでも十分断りづらいなのにな」

「それだけ困ってたんだろ。誰かさんのおかげでね」

わざとらしく短いため息をついてみせる。それは、リュウの身勝手を責めるというよりは、友人の間だから通じる親愛の情の証としての軽口で、だからこそリュウはケンをふりむいてにやりとして見せた。

ずんぐりした容器に入れられたラスティーネイルが運ばれてくる。

「乾杯だな」

自分のグラスを目の高さに持ち上げ、リュウが言った。

「我々の旅立ちに・・・?」

「ああ、死出の旅の、な」

いやらしい言葉だ、と口の中で笑いながらケンもまたグラスを持つ。チン、とグラスが触れ合う。口に含むと甘ったるく舌に絡みつく蜂蜜の底から、やりきれないアルコールのにおいが浮かんでくる。昔好んで飲んでいたものと同じ、あのラスティーネイルだった。

「ふぅ。酔いが回りそうだよ」

「訓練、きついのか?」

「今日は火星ローバーシュミレーション室に十五時間入っていた」

「ああ、あれか」

小皿に盛られた柿の種をつまみ、リュウは、

「あれはしんどいな。しかし、火星で本当にローバーに十五時間も乗っているものなのかね」

ローバーと言うのは、惑星探査において使われる、地表面を移動するための簡易型の車のようなものだ。さまざまな測定器が積んであるため、人間の入るスペースはごくせまい。

「何があるか分からないからな。今日のは、砂嵐で立ち往生したときを想定した訓練だった」

火星には時折、ひどい砂嵐が吹く。それがどういうものなのか、ステーション育ちの彼らには想像もつかなかった。

「火星の砂嵐か」

それだけ言って、リュウは柿の種をつまんだ。ケンもそれに倣った。二人の口の中で柿の種を噛み砕く音が、しばらく響いた。窓に星がまたたいた。リュウが、また口を開いた。

「一度、この足で大地というものを踏みしめてみたかったな」

あまりさらりと言ってのけるので、思わずその顔を覗き見ると、リュウはおだやかな笑みを浮かべている。だからケンも、ことさらにこともなげな様子で、本題に水を向けた。

「なぜ軍隊に志願した?」

「必要があるからさ」

「必要?それは、ヒノトリを蹴ってまでも、ということなのか?」

「・・・ああ」

「分からない」

もう降参だ、といった様子でリュウはおどけた顔を作ってみせる。

「いいじゃないか。そのおかげでお前は念願の火星に行くことができるんだ」

「そんなことは今関係ないし、そんなことが関係ないということはおまえにはよく分かっているだろう?」

なるべく苛々を見せないように言ったつもりだったが、それがどのくらい成功しているかは、ケン自身には分からなかった。ちらりとリュウを見ると、その高い鼻を指で触れながら、気まずそうな笑みを浮かべていた。喉の奥へ、ラスティーネイルを押し通す。その勢いで、次の言葉を吐いた。

「同じ死にに行くなら、なぜ大地を目指さない?」

肩をすくめて、リュウが笑う。

「俺にとっては同じことだ」

「どこが?」

リュウがおもむろに携帯電話を取り出した。何かボタンを操作して、どうやらメールを打っているらしい。呆れたケンは、わざとため息をついてそっぽを向く。しばらくすると、彼はケンに画面を向けた。そこには、次のような文章が書かれていた。

『第二次ヒノトリが帰ってこなかった理由を、知っているか?』

「話をそらすなよ。あれは事故だろ?」

リュウは無言で、唇に人差し指をあてた。しずかに、という意味らしい。ケンは戸惑ったが、彼がまた何か文字を打ち始めたので、仕方なく待つことにした。

『これはステーション上層部しか知らないトップシークレットだ。誰かに聞かれるとまずい。』

「ああ、分かった。気をつけよう。それで?」

『実は、第二次ヒノトリは、撃墜されている。某ステーションの策略によって船を乗っ取られ、持ち帰るはずだった火星のデータを全て取られた挙句、エンジンを破壊された。船はそのまま、地球の重力圏に入って地球に落ちていった。』

「・・・調査員は?」

「さあ・・・。海に落ちたのだったら生きているかもしれないが、いずれにしろ連絡がないところをみると絶望的だろう」

ケンは、半信半疑ながら小声で聞いた。

「どこのステーションの仕業なんだ?」

「それは、おまえは知らないほうがいい。・・・まあ、敢えて言えば、最近、めざましく火星研究が進んでいるところは容疑者ということになるだろうがな」

「しかし・・・」

ケンはリュウの手から携帯電話を取って、文字を打ち込んだ。

『しかし、どうしてそれほどのことが誰にも疑われることなく事故として処理されているんだ?』

『撃墜自体は、オオエドから電波の届かない空間地点で行なわれた。これがこちらに知られた後も、オオエドは大きな戦力がないから攻撃できなかった。むしろ、そのステーションからオオエドが食糧品などを頼っている現状をかんがみれば、オオエド側は撃墜の事実を公表することもできなかった。』

「全部、彼らの計算どおりということだ。全てが、実に巧妙に仕組まれていた。しかし、オオエドだって全く手をこまねいているわけではない。気付いてたか?ここ二、三年で少しずつオオエドの軍隊は増強されているんだ。それは、今度同じことが起きたら前のように泣き寝入りはしない、という牽制だよ」

「おまえは、なんでそんなことを知っている?」

「俺とおまえでは、火星研究所での部署が違った。俺の仕事内容は、このことに気づくことができ得るものだった。きっと、おまえが俺の立場だったら、やっぱり気付いていただろう。まあ、それで軍隊に志願していたかどうかは別としても、な」

なるほど、とケンは頷いた。思い当たる節があった。それと共に、某ステーションというのがどこなのかもほぼ分かった。

リュウは、火星研究所では惑星表面の岩石サンプルを分析するチームにいた。その関連の国際学会で、自分達が手にするはずだった火星の岩石サンプルを使った分析結果などが発表されているのを目の当たりにしたのだろう。その方面の研究で某ステーションのチームがめざましい成果を挙げたのは、畑違いのケンの耳にも聞こえてきていた。

「ヒノトリはもちろん重要なミッションだ」

リュウが煙草を取り出す。

「しかしヒノトリ以前の問題として、このようなことを許していたら、オオエドは他のステーションから利用されるだけ利用されて最後はポイだ」

煙草に火を点けると、空き箱となった煙草入れをくしゃっと握りつぶし、わざとらしく放り出した。

「おそらく、近いうちに大々的な争いが始まる。前回の、第三次世界大戦以来最大の・・・ひょっとしたら、第四次世界大戦」

「人類存亡の危機だと言うのに・・・。遠い未来、人類に大地を取り戻すため、今は足を引っ張り合っている場合ではないのに」

言っても詮無いことだと知りながら、ケンの口をついてそんな言葉が出てきた。リュウは深々と煙を吐き出す。窓の向こうを見つめるその目が、やや焦点が合っていないようだ。

「『人類存亡』とか、『遠い未来のために』とか、話がでかすぎると人はなかなか動けないものなのさ。よほど身につまされるような経験がない限りね」

『たとえば、第二次ヒノトリ撃墜のような。』

リュウはその文章を画面で見せて灰皿をにらんだ。

「『あやまちはくりかへします』・・・ってところだな」

ケンが言うと、リュウは不思議そうな顔をした。

「なんだ、それは?」

「おまえに頼まれて持ってきた戦争十句の中に入っている」

ケンは、ごそごそと平たい鞄の中から紙を取り出して、リュウに渡した。戦争十句、と題されたその横には、縦書きで十の俳句が並んでいる。リュウはそれらの句にじっと見入った。

「なるほど。今言ってたのは、『あやまちはくりかへします秋の暮』ってやつか?」

「その句は原爆に被災した都市・広島にあった碑文『あやまちはくりかへしませんから』をもじったものさ」

「実際、人類はあやまちをくりかえしたってわけだな。それで大地を離れ、こんな闇の中を漂っている」

ケンは、両手の指を深く組み合わせて、ため息をついた。

「僕は正直に言って、その句が憎たらしいよ。作者に対してネガティブな感情は抱いていないが、あやまちはくりかへします、という・・・なにか不吉な予言のようにして書かれたその言葉は、ステーションに暮らす我々を嘲笑っているような気がしてならない」

「そして俺達はくりかえしつづけるんだ。そうだろう?何度も何度も」

ふっとリュウが皮肉な笑みを浮かべた。茶化したり、笑ったり、ということが彼の身につけた世界への対処法なのだった。

「嫌な句だ。トランプのジョーカーみたいに、薄気味悪く、僕らを見下して笑っているような気がしてくる」

ケンの口の中にラスティーネイルが甘苦く広がってくる。リュウは煙草を灰皿に押し当てて、何度も頷いている。

「なるほど、面白いものだな、俳句というのも」

「しかし、どうしてこんなことを?以前のお前だったら、俳句どころか、文学だってびた一文も価値を認めていやしなかったじゃないか」

リュウがわずかにうつむいた。

「気が、変わったのさ」

間。

「一つには、これから死にに行くのかもしれないと思うと、今までじっくり見ることもなくやり過ごしてきてしまった世界がある、ってことがなんだか急に耐え難いくらい悔しい、というか、もったいない、というか、まあ、そんな気分になってね。それで、せめてケンが一身を捧げていると言ってもいい、そういう俳句ってものを一度見ておきたかったなあ、と思い始めた」

ヘネシーは、とっくに空になっていた。

「もう一つは?」

「もう一つは、・・・うん、」

リュウの笑顔が、今までとは違って、少しさびしくなる。

「やっぱり、恐いんだと思う。この感情は。別に俺だって、戦争なんて好きじゃないしさ。死ぬかもしれないと思うのも恐いし、殺すかもしれないと思うのも恐い。しかし、そんなことをつらつらと考えていたら、俺が一番恐いのはきっと、生きているということなんだろうってことに行き着いた。そうしたら、他の人がどういうふうに戦争を考えていたのか知りたくなった」

「それで、『戦争の名句を十句選んで見せてくれ』なんて言ったのか」

「しかし、やはり俺には難しいな・・・。この、ヨモツ・・・なんとか、ってなんだ?」

「これは、黄泉の国、つまりあの世へ行く途中の坂のことだ。戦艦大和が黄泉の国へ行く途中、菫が咲いていると打電してきた、って意味さ。だから、中七・下五がカタカナになってるだろ?」

「本当だ。ふーん、しかし、本当にそんなことがあったのか?」

「あるわけないだろ、馬鹿。想像の句だよ」

「へぇ。俳句って、本当にあったことだけしか詠まないんじゃないのか?」

「そうでもないさ。第一、今回選んできた中に入っている攝津幸彦なんて生涯に戦争を経験しちゃいないんだからな」

「そんなものか・・・」

沈黙があった。おもむろに、リュウが口を開いた。

「それにしても、大和は一体、誰に打電したのだろう?」

ケンは言葉に窮した。考えてみもしなかった。

「さあ・・・」

「俺、搭乗員の娘さんとかに宛てたんだと思うな、きっと」

「ロマンチストだね」

「ん・・・こっちの句の、大・・・」

「大榾」

「おおほた?って、なんだ?」

「俺も実際に見たことがあるわけじゃないが、昔、囲炉裏とかにくべられていたような木の切れ端のことを言うらしい」

「なんか、戦争のときに使うものなのか?」

「いや。全然」

「・・・」

「『裏は一面火』という言い方が切なかった。イメージとしては戦争につながるかなあ、と思ったまでさ」

「そう考えると、不気味だな」

「本当は、大榾っていうのがどういうものなのか知って鑑賞するとまた違うと思うんだけどな」

「それはそうだが・・・しかし、ないものねだりみたいなものだからな・・・。あ、そうだ、彦爺のところへ行ってみたらどうだ?」

「ああ・・・彦爺か。なつかしいなあ。もういくつくらいになるんだっけか」

「さあ。でも、もう二百歳は過ぎたはずだったぜ」

彦爺、と言うのは、二人が中学時代に習った国語の先生で、ケンにしてみれば大恩人である。なにせ、彼に俳句を教えてくれたのは彦爺だったのだから。そして、それ以上に彦爺がステーション内からある種の尊敬を受けているのは、彼が地球を知っている最後の人間だったからだ。

現在オオエドステーションで生きている中では彦爺は最年長である。今はもうほとんど寝たきりだったが、頭は確かなので、時折周囲の人間に昔のことを語って聞かせるらしい。

彦爺は二十歳になるまで地球で暮らしていた。地球の、日本列島の、長野の山奥の、佐久。彼が二十歳の夏、その故郷は一瞬で燃え上がって、消えた。核シェルターに避難していた彦爺と数人の大人たちがどうにか生き残った。

火星に飛び立つ前に、一度彦爺に挨拶に行かねば、とケンは思った。今はどこに暮らしているのだろう。隠遁生活を送っている彦爺の居場所を知るものは、ほとんどなかった。

「どうだ、リュウ。気に入った句はあるか?」

「うん、何と言うか・・・どれもこわいな。最初の一句もそうだし・・・俺には、腕が動いているような気がして」

「腕?」

「『霧去りて万歳の手の不明かな』で、胴体から切り離されて霧の中をさまよっていた二本の腕が、『手がありて鉄棒つかむ原爆忌』で、ダラリと鉄棒にぶら下がって出てくる、というような感じ。時空を超えてさまよう二本の腕・・・という印象を受けて、それがいやにこわかった。そう、戦場という現実には胴体がいるんだけれど、そこから切り離された腕たちは自分の子供時代の遊び場に戻ってきたんじゃないかな」

「・・・僕たちには戻る場所はない」

「全くだ。たとえ腕が切り離されても、どこに行ったらいいものやら。行き場がなくって土星の輪にでもなっているかもな」

ケンは笑って言った。

「ここに戻って来いよ。この店に。マスターは仰天して腰抜かすだろうけどな」

「招き猫の一つにとり付いて化けて出てやるか」

そう言って、リュウも笑った。マスターは、ちょっとほほ笑んだだけで何も言わなかった。

「リュウ、この句はどうだ?」

「・・・野分ってなんだ?」

「秋にくる嵐みたいなものさ。台風だと思ってもいい」

「ふーん・・・おれには良さがあまりよく分からないが」

「僕は、この句で大事なのは順番だと思うんだ。『生きていれば争っているし、死んだら野分だ』って順番じゃなくて、『死んだら野分だし、生きていても争うしかない』って順番になっているだろう?死ぬのはもちろんイヤだが、生きていても結局争いからは逃れられないという気がしてね」

リュウは顔をうつむけて黙り込んだ。顔を上げると、紙の上を指差しながら言った。

「俺が好きなのは、この一番最後の句だ」

「『忘れちゃえ赤紙神風草むす屍』」

「そう」

「この句が覚えられているうちは、赤紙も神風も忘れられはしないだろうな」

「ん、もちろんね・・・俺は門外漢だからよく分かってないんだが、この句はきっと兵士が書いたものだな。それも、おそろしくストイックな」

「・・・なぜ?」

「俺は、戦いに行く者はこうあるべきだと思うんだ・・・。戦いで死んで行った自分達のことなんか忘れて、残された者たちには幸せになってほしい。そうでなかったら、それこそ犬死にじゃないか。いつまでもいつまでも、死んで行った者に対してああだこうだ言うのは、違う。俺達は過去ではなく、未来を向いて走るべきなのだからね」

ケンは黙ってグラスを傾けた。リュウが続ける。

「戦いで死ぬってことは、未来のために過去に取り残されることを甘んじて受け入れるってことだろう?なんか、そんな気持ちになったな、この句を読んで。もっとも、俺達の死には草むすことすらない・・・たんぱく質の塊にまで分解されて、そのまま永遠に宇宙に漂うだけだがな」

ケンが、たまりかねたように顔を上げた。

「しかし・・・おまえは戦うしかないのか?本当に」

窓の中の星空を、巨大なステーションが近づいてきて、オオエドとすれ違っていった。そのステーションが小さくなって見えなくなるまで、二人は沈黙した。リュウはふっと力を抜いたようなやさしい笑みを浮かべて、ケンに訊ねた。

「ずっと聞いてみたかったんだが、おまえ自身は俳句を作らないのか?」

「・・・まだ、作ったことはない。人の作品を鑑賞するのは好きなんだが、自分で作るのは苦手と言うか・・・第一、ここには四季がないしな」

「なるほど、でも、季語が入っていなくてもいいんだろう?ここにある句は、ほとんど季語が入っていないようだ」

「それはもちろんそうだけれど」

「なあ、俺は今までこんな時代に必要なのは文学じゃないと思っていた。今俺達がすべきなのは、・・・こんなこと言うのはどうも気恥ずかしいんだが、一日でも早く大地を取り戻し、人間らしい生活を取り戻すために、実際に役に立つことを一生懸命こなすことだと思っていた。その思いは今でも変わっていない。遠い未来のために、俺は戦うつもりだ」

ちょっと、言葉を切る。マスターが、磨いていた招き猫を置くコトリという音が、かすかに響いた。

「でも、今こうなってみると・・・文学ってのは、いいもんだなあ。死ぬ直前に吸ういっぽんの煙草くらいの価値なら、あるものなのだな」

二杯目のラスティーネイルを、ケンは一人で飲んだ。砲兵訓練中のリュウには、ケン以上に時間がない。ケンはリュウが帰ったあとも、一杯だけ飲んでいくことにした。

「マスター、この鉢植えは・・・?」

招き猫に囲まれて気がつかなかったが、棚の奥に一つの鉢植えが置かれていた。

「ヒヤシンスですよ。こいつだけはいつも枯らさないようにしているんです。・・・実は、橋閒石が好きでしてね」

そう言って、マスターがニヤリとする。ケンはびっくりした。

銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋閒石

「じゃあ、あなたも俳句を・・・?」

「この店の最初のオーナーがちょっと凝ってましてね。もともと私はそんなに好きでもなかったんだが、実はある人の影響で」

「・・・そういえば、彦爺が昔、ゴールデン街のはずれに行き着けのバーがある、って話をしたことがあった」

「うちのことです」

「そうだったんだ・・・あ、ひょっとして、彦爺の連絡先とか知らないですか・・・?」
マスターは黙って、店の奥からコースターを出し、住所と電話番号をしたためるとケンに渡した。

「あまりお体の具合が良くないそうだから、早めに行っておあげなさい」

「ありがとう」

「ところで、さきほどお話されていた戦争十句ですが」

「はい」

「私の好みでは、是非、

てんと虫一兵われの死なざりし  安住敦

も、入れて欲しいと思いながら聞いていました」

ケンは楽しそうに目を細めて頷いた。

「あなたとは一度、じっくりと俳句の話をしたいですね」

マスターはちょっと頭を下げる。ケンは、そんなマスターの手元のあたりを眺めて呟いた。

「僕もその句、すごくいいと思うんです。でもこれは、出征していく彼に贈るものではないかな、と思って」

「なるほど・・・これは、出すぎた真似をいたしまして」

「いえいえ」

「お友達に、生きて帰ってくることが恥だなんて思わせたくないのですね」

ケンはちょっぴり哀しげに微笑んだ。マスターが、棚の奥からヒヤシンスの鉢を引き出して、窓際に置いた。ヒヤシンスが星々に囲まれて存在しているのは、なんだかとても奇妙な具合に思えた。そういえば、ケンはひどく久しぶりに、季語になるものを見た。

「マスター、地球は今なんの季節かな」

「どうでしょうねえ」

「春かなあ・・・」

「春だといいですね」

「どうしてですか?」

「なんとなく、です」

窓に地球が見えてきた。

「そうですね」



恋愛十句

少年の見遣るは少女鳥雲に  中村草田男
笑いあう春のオルガン弾くように  大高翔
冷蔵庫に冷えゆく愛のトマトかな  寺山修司
雪はげし抱かれて息のつまりしこと  橋本多佳子
避妊具を買ふマスクより己が声  石川桂郎
「君トナラトモニ殺セル青イ鳥」  関悦史
がんばるわなんて言うなよ草の花  坪内稔典
次の世は茄子でもよし君と逢わん  折笠美秋
秋風や殺すにたらぬ人ひとり  西島麦南
雪まみれにもなる笑つてくれるなら  櫂未知子

「気持ち良かった?」

「ああ、・・・うん、いつもどおりさ」

「煙草、吸う?」

「頼む」

「やだ、私、マッチしか持ってないわ」

「いいよ、火さえつけば」

真っ暗闇の中、ぼっと灯った橙の火を大事そうに手で守りながら、ミーナがケンの咥えている煙草に火をつけた。マッチの火で、ミーナの白い肌がみずみずしくケンの目に映る。内腿の丸みがなまめかしい。

しかしそれも一瞬で、彼女が無造作にマッチを吹き消してしまうと、また闇が戻った。真っ赤な煙草の先だけが、闇の中の一点として蛍のようにせわしくなく行き来する。持っていたマッチを、ミーナはうまく見当をつけて灰皿に投げ捨てたようだ。

薔薇よりも淋しき色にマツチの焔 金子兜太

「やっぱり、明かりをつけてくれないか?灰が落ちそうだ」

ミーナがベッドから降りる気配があった。

「ちょっと待って。タオル巻くから」

ブラインドを半分下げた窓から入るわずかな星の光と煙草の先の火だけでは、女の輪郭くらいしか分からなかった。それでもケンは、その体がタオルを巻きつける様子をじっと観察していた。

「やだ。見ないでよ」

「見えちゃいないよ」

しばらくして、ぱっと部屋の明かりがついた。ミーナはふふっとケンに笑いかけると、ベッドに腰かけ、その長い黒髪を両手に束ねて、ゴムでとめた。ここはケンの部屋だ。片隅の書棚に俳句の本が何冊も何冊も積んである。

「私、二十三時までよね?」

「ああ」

「そろそろ仕度しようかしら」

この時代、ケンたちにとって、娼婦を呼ぶことは少しも疚しいものではなかった。むしろ、これは正常な性教育プログラムの一環であり、合法的な性欲処理の方法でもあった。無論、男女間の格差があってはならないから、一方では男娼と呼ばれる人たちも活躍している。

ケンもまた下着を着けた。ミーナはもう手早く服を着終えていた。彼女とは今夜が初めてだ。しかし、彼女ならどうやら大丈夫そうだ。ケンは自分に言い聞かせる。そう、時間がないんだ。出立はあと一ヶ月後に迫っていた。この際、彼は少々強引な手も辞さないつもりだった。

「ミーナ、少し話をしないか」

「鏡借りるわよ」

彼女はテーブルの上に置かれた小さな鏡の前に座ると、自分の真っ赤な鞄から同じように真っ赤なポーチを取り出して、なにやら顔をいじり始めた。ケンには背を向けている。

「ミーナ・・・」

「大丈夫よ、聞いてるから。なんの話?あ、延長ならダメよ。このあと飲みに行く約束入ってるの」

「君はプロフィールに文学が好きだと書いてあったね?」

「そう?うん、そうね。書いたわ、確か」

「どんなのが好きだ?」

「そうねえ・・・たぶんこれ言ったら驚くと思うけど、あたし、古典とか好きなのよ、結構。村上春樹とか、川上弘美とか。でも、今はほとんど読まないけどね」

「小説が好きなのか?」

「うーん、そうねえ。小説とかマンガとか」

「マンガって文学とは言わないだろう」

「とにかく、そういうお話みたいなのが好きなの。マンガだったら竹宮惠子とか」

「俳句は?」

ぱたぱたとファンデーションを塗っていた彼女の手が止まった。

「ハイク・・・?」

「違う違う、ハイキングのことじゃない。五七五の俳句だよ」

「あ、ああ、ああ、俳句ね。まるで興味ないわ。いくら古典が好きって言ったってねえ。古臭すぎてついていけないわよ」

「たとえば、これを見てどう思う?」

彼はテーブルの上に一枚の紙を乗せた。恋愛十句、と書かれたその紙には、十の俳句が記されている。

「何これ?あなたが作ったの?」

「僕は作らない。ちゃんと下を見ろよ。それぞれ作者名が書いてあるだろう?」

「ふうん」

彼女はさっと目を通すと、その紙を置いた。

「ちょっと待ってて。化粧終わったらちゃんと読むわ」

「ああ」

「でも、この、最後のやつ、なかなかいいわね」

「『雪まみれにもなる』か?」

「そうそう、なんか、分かりやすくて。俳句じゃないみたい」

ケンは苦笑しながら訊ねた。

「そんなに俳句は分かりづらい印象なのか?」

「そうね、私が今まで見たことのある俳句は、何を言ってるのか分からないやつと、何が言いたいのか分からないやつが大半だったわ。今の句は、そのどっちでもなかった。こんなのもあるのね」

「いい仕事があるんだ、ミーナ」

ミーナが鏡に向かっている間、ケンは彼女に気付かれないようシーツの下に隠したリモコンで、部屋のロックをかけていた。彼は、なんでもないことのようにさらりと、次の言葉を口にした。

「その仕事を請けてくれるなら、君はもう娼婦をする必要もなくなる」

ミーナは彼の方をちらりと振り返り、ほとんど嘲笑するように笑みを浮かべた。まるで彼を馬鹿にしきっている態度だった。

「何よ、それ?」

「中央図書館にある俳句の本を借りてきて、パソコンに入力してほしいんだ。全部」

「全部?」

「数百冊、かな」

「なんのために?」

「僕のやってきた仕事の続きだよ」

「仕事?だって、あなたヒノトリの研究者じゃないの?」

「もちろん。だから、仕事と言っても僕にとっては無報酬でやってたことで、まあ、謂わば趣味のようなものだったんだが、人類にとっては非常に重要な仕事だ」

「・・・」

いぶかしげな彼女は、ケンを振り返ってしばらく無言でいたが、鏡に向き直るとさっきまでよりてきぱきと化粧を再開した。

「僕は、中学のとき、

さまざまのこと思ひ出す桜かな 松尾芭蕉

と言う句を、当時僕の国語教師だった彦爺という人に習った。不思議なんだ、僕には桜と言って思い出すことなんか何もないはずなのに、「さまざまのこと思ひ出す」と言われたら、確かにそんなような気もしてきたんだ。記録映画でしか見たことのない、あの花吹雪を実際に浴びたような気分さ。それ以来、俳句というものがひどく好きになってしまってね。中央図書館でよく本を借りてきた。その頃からずっと、俳句を自分のパソコンにデータとして入力し、手元に残して置くようにしていたんだ」

ケンが遠い目になる。ミーナのことなど目に入っていないようだ。

「だから、最初は本当に趣味だった。しかし、僕が高校を卒業する年に、ちょっと大変なことが起きた。『文化財保護に関する法律』の改正があったのさ」

ステーションでの生活と、地球での生活。何が一番違うかと言ったら、人間に利用できる空間の広さ、深さであったろう。それは、最初に人類が予想していたよりもはるかに強力に、彼らの生活を規定することになった。

その一つが、非人道的とも思える、子作りの制約だった。いや、それはもはや制約ではなく、禁止と言っていい。無軌道に子供が増えてしまっては、ステーションでその生活をまかなうことはもはやできなくなってしまう。

当初、政府は、二十世紀後半に中国で行なわれた一人っ子政策と同様のことを行おうとしたが、規模があまりにも違いすぎるため、ステーションにおいてはそれが有効にはたらかないことが徐々に知れてきた。それに、あまり子供が少なすぎると、それは本当に人類存亡の危機となる。

そうなると、次に出てくる方法は自然分娩の否定である。全ての子供は、政府の計画に沿って、人工的に造られることになる。産婦人科医の仕事は大きく変わった。ランダムに選び出された女性の子宮と男性の精巣からそれぞれ取り出された卵子・精子が、シャーレの中で受精させられ、ガラスケースの中で子供が作られた。

そして、その子供は、血縁の全くない夫婦のもとに送られ、彼らが里親として育てることになった。もとより、恋愛結婚などは認められていなかった。全ては、政府の定めたプログラムどおりに行なわれた見合いによって強制的に結婚させられたのだった。夫婦は、むしろ、子育てのためのプロジェクトチームと言うべきものだったのだ。

自然分娩の否定は、必然的に、自由恋愛の否定へとつながった。ガラスケースで生まれた子供が勝手に恋愛して、さらにその子供が生まれてしまっては、気付かないうちに近親婚が起きている可能性もあった。ステーション上層部は、「ヒトも動物である以上、恋愛すれば子供を残したがるに違いない。我を忘れてケモノになるに違いない」ということをよくわきまえていた。

このようにして恋愛は禁止された。人々は、コンピューターのバーチャルリアリティによって生み出された恋人との擬似恋愛で満足するしかなかった。そうして、性欲処理のために、娼婦・男娼が重宝された。コンドームの使用が完全に義務づけられていたため、決定的な感染症の危険はほとんどなかった。このことも手伝って、現在、娼婦・男娼を利用したことのないものなど一人もなかったと言っていい。

同じことは、文化財に対しても起こった。地球から運ばれた文化財は、最初のうちこそ、全て中央文化館に保存されていた。その中にあるのが、中央図書館である。

しかし、保存されるべき文化財は、やがて人々の生活を圧迫するようになった。文化財保護のためにエネルギーをかけることのできるほど、人類には余裕があるわけではなかったのだ。

図書の場合、それはスペースの問題として如実に表れた。紙でできた書籍は、意外と重い上にとてつもなくスペースを食うのだった。ある研究グループの試算によれば、もしも全ての書籍がなかったとしたら、ステーションの推進力は0.1パーセント少なくて済むという話だ。たったそれだけでも、ぎりぎりの資源で稼動しているステーションには大いなる節約であった。

そこでステーションは、「文化財に関する法律」の改正を行なった。この年から百年計画で、全ての書籍をステーション外に廃棄処分することを決定したのだ。技術的に必要なもの、実学上大変重要なものについては、チームが組まれ、本に書いてある内容がすべてデジタル情報に変換されることになった。

では、それ以外の本は・・・?基本的には、放置である。ボランティアが中央図書館から本を借り受けて、自分でデジタル情報に変換しない限りは、そのまま百年後の一括廃棄(「最後の審判」と呼ばれる)でその本の情報は永久に失われることになった。

「村上春樹や手塚治虫の本は人気だったから、すぐにボランティアによってデジタル情報への変換が行なわれた。つまり、パソコンへの入力がなされたのだ。しかし、文学のうちでもいまやほとんど顧みられないもの・・・即ち、俳句の本などは、中央図書館で埃をかぶったまま、最後の審判のときを待つしかなくなっていた」

ケンがミーナのほうを見ると、彼女はもうほとんど仕度を終えていた。

「僕は、それらの本を引っ張り出しては、パソコンに打ち込んで行った。俳句が好きだったから、そんなに苦痛でもなかった。しかし、何しろ途方もない量だったし、本職の合い間にやっていることだったから、これは一生かかる仕事だろうな、と覚悟を決めていた。・・・いや、それは違うな。僕はもともとヒノトリに志願していたから、遅かれ早かれこの作業ができなくなることは分かっていた。それでも、当初の心積もりでは、ヒノトリに乗るまでには誰か後継者を見つけておくつもりでいた。しかし、あまりにも急にヒノトリへの参加が決まってしまったために、そのような人物を選んでいる時間がなくなってしまったというわけだ」

「それで、その作業を私に頼もうというの?今日会ったばかりで、ただの娼婦にしか過ぎないあたしに?」

「そうだ」

ミーナは腕時計を見た。

「時間よ。・・・残念ながら、あたしには無理。それほど俳句に愛があるわけでもないしね。誰か他の人に頼みなさいよ。あなたと俳句には同情するけど、まあ、仕方がないわね」

ミーナは立ち上がり、ベッドに座っているケンに一瞥をくれると、まっすぐにドアへ向かって歩いて行った。

ドアを開けようとするが、それはびくともしなかった。

「ちょっと、開けなさいよ」

「そもそも、俳句に興味を持っている人って少ないんだ。ほとんどいないと言っても良い。『サムライ』のマスターは確かに俳句が好きだが、彼には無理なんだ。重度のアルコール依存症でね、とてもじゃないが本を読んでパソコンに文字を打ち込むなんて作業、こなすことはできない。リュウは軍隊に行ったし、彦爺はもう寝たきりだ。誰もいないんだよ」

「開けなさい。警察呼ぶわよ」

「おまけに、僕には時間がない。あと一ヶ月。しかも、そのほとんどの時間は火星に行ったときのための訓練に充てられる。絶望だよ」

「私には関係ないわ」

ケンは、きっと彼女をにらみつけた。

「君は、松尾芭蕉や、高濱虚子や、飯田龍太や、山口優夢の残した数々の傑作が、このまま宇宙のチリに消えていってもいいと言うのか!?」

「・・・私には、関係ない。いいわ、警察を呼ぶから」

ミーナは、恐怖を必死で押し隠した目の色で、気丈にケンをにらみつけた。そのまま、ケンを警戒するように見据えながら、自分の鞄の中を探っている。携帯電話を取り出す気なのだろう。

「・・・どうやって呼ぶんだい?君の携帯電話は、ここにあるのだが」

真っ赤な携帯を手にしたケンが、ミーナの厳しい非難に満ちた目をまっすぐに受け止めた。

「返してよ」

ベッドに向かって突進してこようとするミーナを、ケンは手で押しとどめた。

「おっと待った。それ以上近づくと、携帯を壊すよ。こんなものへし折るくらいなんでもないんだ」

ミーナはケンの目の前で立ち止まった。肩で息をしている。

「・・・何を考えているの?なんでこんなこと。私、何かいけないことした?」

最後の方は涙声になっていた。ケンは弱りきった顔になる。

「手荒なことはしたくない。とにかく、僕の仕事を引き継いでくれればそれでいいんだ」

「・・・」

「ヒノトリの調査員が受け取る手当てがいくらか、君は知っているか?」

ケンはベッドサイドの引き出しを開けると、紙を一枚取り出し、ミーナに渡した。

「一ヶ月で、そこに書いてあるだけの金額がもらえる」

「こんなに・・・!一と月で?」

「それを全部、君にやる。仕事の報酬だ」

ミーナが目をまん丸にした。

「本気なの?」

「僕の親はもう死んでいる。扶養すべき家族はない。俳句以外の趣味もない。火星では金も使わない。つまり、僕にとっては要らない金だ。俳句のことに使えるなら本望だよ」

「・・・でも、帰ってきたら使うでしょう?」

「帰ってこられたら、な」

ケンがため息をつく。

「帰ってくるとしたら二年後だ。その間の手当ては全部君に支払う。なに、火星研究所ってのはただでさえ給料がいいんだ。ヒノトリの手当てくらいなくたって、その後の生活に困りはしない。僕が無事帰ってこられたら、君はもう仕事からは解放される。そこで契約終了だ。帰ってこなかったら、ヒノトリの保険金受け取り人を君の名義にしておくから、それを給料ということにして、作業が全て終了するまで、君にやってほしい」

「・・・あたしがお金だけ持ち逃げしたらどうするの?」

「それは大丈夫だ。一ヶ月に一度、火星に進行状況を報告してもらう。一度でもそれがなかったら、給料は全部没収だ。もし僕が死んでしまったら、その後のことは『サムライ』のマスターに頼むことにしてある。彼に進行状況を報告してほしい」

ミーナは、ベッドのそばに突っ立ったまま、考え込んでいた。

「君は、俳句なんてつまらないと思ってるかもしれないが、なかなかいいものだよ」

ケンがミーナに「恋愛十句」の紙をもう一度手渡した。今度は、ミーナはじっくりと俳句を読んだ。しかし、残念そうに首を振る。

「ダメね、やっぱり、あたしには分からないわ」

「・・・全部?」

「ええ、全然。何よ、愛のトマトって」

「それは・・・」

ケンは言葉に詰まった。なんだか、説明しようとすればするほど陳腐になっていくように思えた。

「茄子でも良し、なんて言われたってピンと来ないし。避妊具を買うなんて句がどうして恋愛十句の中に入るのかしら?そもそも、女に俳句を見せるのだったら恋愛関係のものがいいだろう、っていうあなたの安易な考え、好きじゃないわ」

ここぞとばかりにミーナが畳み掛けてくる。

「それに、あたし、あなたが思ってるよりは、今の自分の仕事が好きなの。ひょっとしたら、あなたが俳句を好きなのと同じくらいにね。これでも、結構誇り持ってやってるのよ。特別、お金に困っているわけでもないし・・・たぶん、世の中には、あたしよりお金に困ってて、あたしより俳句を読むことに苦痛を感じない人はいくらでもいるわ。そういう人を脅したほうが早いんじゃない?あるいは、ひょっとしたら、誰か全く予期していなかった人が出てきて、あなたの仕事を継いでくれるかもしれないし」

ミーナが、ケンにぐいと顔を寄せてきた。

「だから、携帯を返して頂戴」

その、有無を言わせぬ気魄に押されて、しぶしぶケンは彼女に携帯を手渡した。

「ありがと。いい人が見つかるといいわね。じゃあ」

ケンに投げキッスして、ミーナは出て行こうとする。今度は携帯があるから、ケンも扉を開けるだろうと言う彼女なりの目算があるようだ。

「ソラくんのことはいいのか?」

ミーナの体がぴくっと反応し、立ち止まった。

「あまりこの話にはしたくなかったんだがな・・・」

「なんの話?」

ケンをにらみつけてそう言いながらも、ミーナには何のことかすっかり分かっているようだった。さっきまでの勢いが見る影もなく、今にも倒れこみそうだ。

「なんで僕が恋愛十句を選んできたかと言ったら、あなたが烈しい恋愛に身を焦がすような女性だということを知っていたからだよ。ミーナ。君には自然分娩で生んだソラ君という息子がいるね?」

ミーナの顔から血の気が引いていく。ケンは早速、自己嫌悪を覚えた。しかし、ここまで来ては引き下がれなかった。

「どうするんだい?戸籍もなくって・・・」

「やめて!」

彼女の手から鞄が滑り落ちた。

「お願いだから、あの子には手を出さないで。子供には何の罪もないじゃないの」

「別に、君にもなんらかの罪があるというわけじゃないんだけどね・・・」

ケンは哀れみを込めた目つきで、床に崩れ落ちた彼女を見つめた。シンとした部屋の中を、ミーナのすすり泣く声だけが聞こえている。

自由恋愛が禁止されたとは言っても、だからと言ってそれが全くなくなるなんてことは考えられないのだった。今もおそらくステーションのどこかでは、星々の中で秘密の恋が生まれ、息づき、その結晶として自然分娩の子供が出来ている。そういう子供の数は、年間で百人に達すると言われていた。

生まれてくる子供は全てステーションが管理していることになっているから、そのような自然分娩による計画外の子供は、一生戸籍ももらえず、隠れて生きるほか道がなかった。あるいは、ステーション側に見つかれば、戸籍をもらえる代わりにボイラー室の劣悪な環境で重労働に従事させられるしかなかった。

「どうしてあなたはそのことを・・・?」

ミーナがうつむいたまま訊ねた。

「腕のいい探偵がいてね。いろいろと調べてくれた。ソラくんのお父さんが、今どこにいるのかもね」

ミーナが目をむいた。

「本当?彼、どこにいるの?」

「なあ、取引しよう」

手早く服を着ながら、ケンがにっこりして言った。

「君が仕事を引き継いでくれるなら、彼が今どこにいるのか教えてあげるし、それだけじゃない、ソラくんに正式な戸籍をとってあげよう」

「でも・・・」

「大丈夫、ボイラー室送りになんかされない。いつの時代も、コネと金は一般に思われている以上に役立つものなんだ。戸籍係にいる友人にちょっと操作をしてもらえば、ソラ君がステーションのプログラムどおりに産み落とされたことにして、君をソラ君の里親として認定することくらい、わけないことだ」

「本当?本当なの?」

涙できらきら光った目で、ミーナはケンを見上げた。ケンは、なんでもないことだ、とでもいったふうに頷いてみせる。

「でも逆に、僕は彼をボイラー室送りにすることもできるんだ。そうしたら君はソラくんと二度と会うことも叶わない」

「・・・」

しばらく俯いていたミーナの肩が揺れ始め、ケンには彼女が泣いているのかと思われたが、そうではなくて、彼女は笑っているのだった。

「なんだ?」

女の真意が読めず、ケンは戸惑った。

「だって、可笑しいじゃない。なんでこんなことまでするんだろう、って考えたら、所詮、俳句のためなんでしょう?なんだか、馬鹿馬鹿しくって」

「・・・」

気が抜けたような、それでいてせいせいしたような笑顔で、彼女ははっきりと答えた。

「いいわ、あなたのお仕事、やって差し上げましょ」

ケンもまた、ぱっと笑顔になった。

「本当か?やってくれるのか?」

「ええ、ただし、さっき言ったこと、本当なんでしょうね?」

「ああ、ああ、もちろん。ただ、ソラくんの戸籍を取得するために結構お金を注ぎ込まなくてはならないから、ヒノトリの手当てを全て君にやるわけにもいかなくなってしまうが」

「構わないわ。さっきも言ったけど、あたし、自分の仕事に誇りを持ってるの。お金くらい、なんとでもなるのよ」

ケンは肺の中が空っぽになるのではないかというくらい深く息を吐いて、ベッドに崩れた。安心したのだ。心の底からの安堵だった。

「それにしても、本当にあなたには俳句しかないのね」

「・・・ああ」

「さびしくないの?」

「さあ、どうだろう。そんなこと、考えたこともなかったな。僕の一生の仕事は、惑星地質学に貢献することと、俳句を残すこと。この二つだけなんだ。そのためだったら、何でもやる。でも、それ以外のことをする時間も余裕も、今まで全くなかったから」

ミーナは恋愛十句の紙を手にした。

「だからあなたは女を分かってないのよ。恋愛で手痛い失敗をして、もう二度と恋なんかしないと誓っている女に、恋愛の俳句なんか見せたって心が傾くわけないじゃない」

「そうなのか・・・?心に響いてこない、ということか?」

「逆よ」

少しだけ笑って、彼女は言った。

「切なすぎて、読めたものじゃなかったの。心が痛くってね」

強く抱きしめられて息が出来なかったこととか、本当に楽しくて二人で笑い合ったこととか、「がんばるわなんて言うなよ」って、その言葉のままじゃないけれど同じようなことを言われたなあ、とか、それにそういう幸せな気持ちがいっぱいあったから、「殺すにたらぬ人ひとり」って気持ちも、痛いくらいによく分かるの。

呟くように、囁くように、彼女は言った。

「『雪まみれにもなる』の句はね、本当は、さっき見たとき、すごくイライラしたの。あたしだって、彼のためなら泥まみれでもなんでも、場合によっては血まみれになったって構わないって思うから。でも、彼はもういない。雪だって、こんなステーションにはない。私だって雪まみれにくらいなるわよ。彼が笑ってくれるならね。でも、それは叶わないことで、だから、なんだか情けなくって、つまらなくって」

「彼とはどうして・・・?」

ミーナは、ふぅ、とため息をついた。

「煙草、いっぽんくれない?」

ケンは黙って差し出して、自分のジッポで火をつけてやった。

「子供が出来たってわかった翌日には、もう連絡がつかなかったわね」

「そうか」

「私、本当に一人きりで生んだのよ。お医者どころか、産婆さんもなにもなしで。彼は何もしてくれなかった。だから、さっきは彼の居場所が分かるって聞いて、ちょっと嬉しかったけど、やっぱりいいわ。きっと、彼は私を見ても、笑ってはくれない。ソラがかわいそうだわ。知らないほうが、結局、幸せなんだと思う。彼にとっても、あたしにとっても、もちろん、ソラにとってもね」

煙が目にしみる。独り言のように、彼女が言った。

「彼には、命を生まないようにすることの違和感を覚えながらも自分で避妊具を買いに行ってくれるような、そういう意味での愛情はなかったってことよね」

彼女のその言葉で、ようやくケンには「マスクより己が声」の持っている空気感が分かった気がした。

「ところで、あなたは自分では俳句を作らないの?」

「ん・・・今のところは、作らないなあ。ステーションには四季もないし」

「作ったらいいのに。それだけ俳句が好きなら、いいものが書けるんじゃないの?もったいないわよ」

「そうかなあ・・・いや、でも・・・」

ミーナはそんなふうに言葉に詰まるケンを横目で見ながら、言葉を付け足した。

「もっとも、あなたに恋愛の句は100年早いでしょうけどね」



十句

ごはん食べて母ていねいに生きにけり  阿部完市
魚籠の中しづかになりぬ月見草  今井聖
春やああ一日分の髭の伸び  桑原三郎
産むというおそろしきこと青山河  寺井谷子
菜の花の中へ大きな入日かな  夏目漱石
大寒の埃の如く人死ぬる  高濱虚子
冬蜂の死にどころなく歩きけり  村上鬼城
つひに吾れも枯野のとほき樹となるか  野見山朱鳥
空へゆく階段のなし稲の花  田中裕明
春風が空の中から吹いて来る  松瀬青々

左側地区のもっともはずれたところに、軍港と呼び習わされている場所がある。オオエド自衛軍が常駐・訓練を行なっており、ステーションオオエドより外へ軍隊が出立するときには、ここから発つことになっている。

ケンは、リュウを見送りに、軍港を訪れた。ヒノトリの訓練は、この日だけ休みにしてもらっていた。ケン自身の出発もあと二週間に迫っている。主要な訓練はほぼ終了し、あとは万全の体調で臨むことだけが大事であった。

リュウは宇宙航行用の巡洋艦「葉月」に乗り込むことになっていた。見送りは、巡洋艦に乗り込む直前の廊下を乗船員たちが通る際、ほんの少しだけ言葉を交わせるのだった。ケンはほかの見送りたちと一緒に、その廊下で彼を待った。

リュウは、勇ましいトランペットの音の中、まっ白な昔の水兵の格好で登場した。それがオオエド自衛軍の正式な制服であった。目は鋭く、彼の提げているサーベル同様、切れ味鋭いもののようであった。

リュウはケンを認めると、その鋭い目のまま、ほほ笑んだ。つまり、ちっとも笑ってなんかいやしなかったくせに、笑おうと努力していた。その顔を、ケンは妙に凛々しいと感じた。近づいてきたリュウに、ケンは小声で、「死ぬなよ」とだけ言った。リュウは真正面からケンを見つめ、数秒間もそのまま固まったように彼を凝視していたが、かすかに頷いてみせると、ケンの肩に左手で触れた。ぐっと肩を掴み、「おまえがな」と低い声で言って、またほほ笑んで歩いていった。今度はきちんと笑顔になっていた。

ケンはその足で人を訪ねに行った。マスターに書いてもらったコースターの住所を参考に辿り着いたのは、他の住居と何も変わらない、集合住宅の一室だった。彦爺の家だ。

「どうぞ」

ケンを家の中に通してくれたのは、彦爺についている看護士の方だった。三十代後半くらいの、やや疲れたところのある女性だったが、仕事をこなす動作はさすがに機敏だった。

十年以上ぶりに会う彦爺は、以前に見たときより一層皺が深くなっているようだった。爺はベッドの上で上半身だけ起きている格好で、パジャマの上にカーディガンを羽織っていた。

「よく来たな、ケン」

「先生、ご無沙汰しています」

ケンが頭を下げた。春の日差しのような柔らかさで、彦爺がそんな彼を見つめていた。

「こんな格好ですまないね。ここ五年くらい、体調が良くなくて」

「いえ、思ったより元気そうで、安心しました。起き上がっていて大丈夫ですか?」

「うん、今日は心持ちが良くてね。春だね」

「春、ですか?」

「ああ、自分の体調とか気分で、今がいつの季節か決めるのは楽しいものだよ。今日はケンが来てくれたし、体調もすっきりしているから、春だ」

分厚い皺の中にまぎれた小さな目が、あたたかく笑っていた。失礼します、と言ってケンが椅子に腰掛けた。

「そういえば、念願のヒノトリ参加が決まったようだね。おめでとう」

「ありがとうございます」

「いつ発つんだい?」

「二週間後です」

「二週間・・・。あっと言う間じゃないか」

「はい」

「そうかそうか、お祝いしてやらなくちゃな。おい、何やってるんだ、早くお茶持って来てくれ」

彦爺が看護士に声をかけた。その声は思ったより妙に鋭いものだった。ケンと話しているときの柔和さとはギャップがあったので、ケンには意外に思えた。

何も言わず、看護士が熱いお茶を二つお盆で持ってきた。

「わしがあと二十年若ければ酒で乾杯したんだが」

「いえ、気にしないでください。・・・どっちにしろ、僕が二十年若かったら酒では乾杯できてないですから」

「ふっふふ、それもそうだな。では、ケンのヒノトリ参加を祝って」

「乾杯」

彦爺は湯呑みに手を添えただけだったので、ケンがそっと自分の湯呑みを彦爺の湯呑みに触れさせた。ケンは湯呑みを両手で持って、お茶に口をつけた。

看護士が匙を持ってやってきた。爺はおそらく湯呑みを持つ腕の力ももう残っていないのだろう。彼女が匙ですくって飲ませてやった。一口二口すすると、彦爺は

「もういい、いらないから、おまえはあっちに下がっていてくれ」

と、彼女を邪険にした。言われたとおり、彼女は黙って部屋を出て行った。

「見苦しいところを見せてすまないね。齢はとりたくないもんだよ。お茶も一人で飲めないなんて、本当に情けない」

「いえ・・・」

なんと言っていいか分からず、ケンは口ごもった。

「先生は、もうおいくつになられるのですか?」

「さあ・・・そんなことはもう忘れちまったなあ。二百歳までは律儀に年を数えていたがね、なんだかもう馬鹿馬鹿しくなって、最近じゃさっぱりだよ。わし以外の者に聞いたほうが、はっきり分かるはずさ」

そう言って、自嘲気味に笑った。ケンはますます何と言っていいかわからず、萎縮した。

「そうそう、頼まれていたやつ、作っておいたぞ。そこの、上から二番目の引き出しを開けてみてくれ」

「ありがとうございます、じゃあ、ちょっと失礼します」

木でできているものだとばかり思ったその引き出しは、触れてみるとあまりすべすべしているので、ステンレス製か何か、とにかく金属製品であることが知れた。それを茶色に塗りこめ、見掛けだけでも木であるかのようにしているのだった。

なめらかに滑って開いた引き出しの一番上に、「十句」と題された紙が置いてある。取り出して、ケンはじっくり眺めた。

「それにしても、好きな十句を選んでおいてくれ、っていうのは、どういう意味だったんだい?」

「最近、人に自分が選んだ十句を見せる機会が何度かありまして。それで、逆に先生の好きな珠玉の十句を見てみたいな、と思ったのです。先生以上に俳句をご存知の人は、もう他にいませんから」

「十句に絞るのはホネだったぞ。泣く泣く切った句が数え切れないくらいあったしな。切っていったら飯田龍太も攝津幸彦も入らなかった。残念無念じゃ」

楽しげな声で彦爺が言った。思ったよりも易しい言葉遣いで意味の通りやすい句が多かった。中学のころ習ったときには、もっと難解な夏石番矢の句、三鬼や白泉らの無季の句もかなり好んでいたように思ったが、ここに選ばれている句は、最初の一句以外は有季定型だ。

「先生、少し句の好みが変わったのですね」

「うん、まあな」

彦爺はケンの手元に眼を落としながら呟いた。

「昔好きだった言葉のかっこよさよりも、五臓六腑に染みとおってくるような句が好もしく思えるようになった。齢をとったからな。特に、寝込むようになってからは一層そうだ」

「『空へゆく階段』の句は、確か昔からお好きでしたよね」

「ふん。皮肉なものだよなあ。人類は空へゆく階段を手に入れた。それをつたってこのステーションにやってきた。その代わり、稲の花の本当の姿は、もう失われてしまったのだから」

「それにしても、ケンがこんなに俳句に興味をひかれるとは思っても居なかったなあ」

「僕もです」

「わしは必ず自分の受け持ったどのクラスでも俳句の話をしたが、こんなに俳句にはまったのはおまえくらいなものだよ」

「そうですか」

「中央図書館の俳句の本のデジタル化作業は進んでいるかい?君が火星に飛び立ってしまったら・・・」

「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。実はある奇特な女性が、その作業を引き継いでくれることになったのです」

「それは良かった」

彦爺が心底嬉しそうに笑った。

「一度、お会いしてみたいな、その女性と」

「こちらの連絡先を教えておくので、近いうち訪ねるように言っておきましょう」

「早いうちに頼むよ、わしもそう長くないようだ」

ケンは少し驚いた表情を作った。

「お元気そうじゃないですか」

「今日はね」

「弱気は禁物ですよ」

そう言いながら、むしろ彦爺の言葉に弱気になっている自分をケンは感じていた。気を取り直して、彦爺に質問することにした。

「先生、この、二句目のこれはなんて読むんですか?」

「ああ・・・そりゃ、『びく』だよ」

「ええっと・・・それは、何ですか?」

「そうか、そうだよな、知らないよな。魚籠と言われても。魚籠って言うのは、このくらいの大きさで、普通、竹で編んで作ってある籠なんだが」

と言って、彦爺は胸の前で両手をサッカーボールを掴むような格好にして見せた。

「渓流釣りなんかで、釣った魚を入れておくために使われたものなんだ。竹で編んであるのは、空気が出入りすることで魚が傷みにくくなるし、籠自体の強度も強くなるから、魚を新鮮なまま持ち帰ることができるんだそうだ」

「じゃあ・・・『しづかになりぬ』っていうのは」

「うん。最近、わしが好きな句は、こういうふうに、生まれてくること、死んでいくことに真正面から取り組んでいる句なんだなあ」

彦爺がしずかに笑っていた。

「ところで、君自身は作らないのかい?俳句を」

みんなに同じことを聞かれるな、と少々呆れてケンが答える。

「いえ・・・ここには四季もないですし、どう作っていいのか分からないんです」

「そうだな、それがいい。俳句なんて、作ることはない」

心底意外な答えだったので、ケンは彦爺の顔を凝視した。彦爺は、やや上目遣いになりながら、じっとケンの顔を覗き込んでいた。真剣な表情だった。

「俳句は季語と五七五だ。季節のない宇宙空間で作ることはできない。今や、俳句は望郷の唄なんだ」

「望郷の唄・・・」

「そう、そこには、我々人類のふるさとを懐かしむという意味しかない。もちろん、俳句を君が残そうとして尽力してくれているのはありがたいと思う。しかし、わざわざ新しく作る必要などもうないジャンルのものだ。いわば、もう終わった文藝なんだよ、これは。・・・あるいは、もしも遠い未来に我々が地球に戻ることがあったら復活するかもしれない。だが、少なくとも今は、無理に作ることはない」

彦爺がさびしく笑った。

「俳句は、時代に負けたのさ。もはや、我々老人の慰みものでしかない。そう、枯野に遠く見えている老樹のような老人の、な。未来ある若者には、望郷の唄なんかじゃない、冒険の唄を、わしは唄って欲しいと思う」

ごほごほ、という音が彦爺の中からして、看護士が隣から飛び出してきた。

「いらん、いらん、大丈夫だ。ちょっと、力みすぎた。君が来たら、いつか言おうと思っていたんだよ、このことを」

「心に留めておきます。冒険の唄、ですね」

「ああ、だから、君がヒノトリに参加すると聞いてわしは嬉しかった。若者はそうでなくてはな。いつでも前を向いているような」

「俳句を冒険の唄にすることは、不可能でしょうか?」

「わしは無理だと思う。でも、まあ、そういうことも含めて若い君が考えてみればいい。わしはつくづく年をとった。しかも、ここ四、五年で。来る日も来る日も、佐久のことばかり思い出すんだ」

彦爺は目をつむった。彼のまぶたの裏に、彼のふるさと、佐久はあるらしかった。

「わしにはもう未来なんか何一つない。あの、無愛想で気の利かない看護士と老いてゆくだけだ」

ため息がもれた。ケンには伝わってくるものがあった。地球に帰りたいのだ。誰でもそうなのだ。こんな宇宙の真ん中に漂って、季節どころか昼夜の別すらないステーションで、風も海も山もなくて、食料にもバリエーションがなくて、文学は廃れ、しかも自由に恋愛することすら許されない。

でも、帰りたいと言ってしまってはいけなかった。彦爺は、最長老としてそれをよくわきまえていた。じっと耐えている彼の気持ちが、ケンには分かる気がした。ただし、ケンにとっては最初からステーションが故郷だったから、彦爺の気持ちを完全に理解できているとは言い難かったのだが。

「ケン、わしのお願いを聞いてくれるか?」

彦爺が目を見開いて、唐突に口を開いた。ケンは座り直す。

「なんでしょう?」

「わしを、『森』へ連れて行ってくれないか?」

「えっ」

ケンは思わず短い叫びをあげた。「森」は、ステーション内のガス交換と食物生産のために木がたくさん植えられている地区のことだ。

「しかし、あそこは一般人は立ち入り禁止ですよ?」

「だから、君に頼んでいるんだ。同じこと繰り返させないでくれ」

彦爺は苛々した様子を隠そうともしなかった。その口調は悲しげでさえあった。

「どうして、『森』なんかに・・・?」

「ひょっとして、このステーションの中でわしの生まれ故郷に一番近いのは『森』ではないかと常々思っていた。死ぬ前に、一度、たった一度でいいから、行ってみたかったんだ」

確かに、ヒノトリのメンバーでステーション上層部に顔見知りの多いケンにしてみれば、「森」への立ち入り許可を求めるくらいわけのないことだった。少なくとも、この前のように戸籍を一つでっちあげるよりは簡単なことである。

ただし、不安なことが一つだけあった。彦爺は、自分に連れて行ってもらうつもりなのではないだろうか?ケンはこれから毎日、研究所に缶詰になる。今日が最後の外出日だったのだ。そんな時間が残されているとは到底思えなかった。

「いつ行きたいのですか?」

「いつ?わしは、明日死んでもおかしくない身なんだぞ?今日、今すぐ、行きたい」

「今・・・」

今すぐだったら、確かにケンが連れて行くことは出来る。

「ちょっと、待っててくださいね」

ケンが部屋を出て行った。「森」の管理人に連絡を取るためだ。五分ほどして、帰ってきた。

「『森』の方は大丈夫そうです・・・しかし、先生、体調は本当に大丈夫なのですか?」

「大丈夫だ」

「・・・看護士さんに相談してきますね」

「大丈夫だと言っているだろう」

鼻白む彦爺を説き伏せ、ともかく看護士さんに聞いてみると、今日は体調が良好だから大丈夫でしょうとのことだった。ただし、彼女が、体調の急変に備えて私もついていきます、と言い出したので、またひと悶着あった。

「なんでおまえなんぞがついてくるんだ!」

「先生、お体のためですから」

彦爺の顔が真っ赤だ。ケンはひそかにため息をついた。「森」へ行くことより、このやり取りの方でよほど消耗してしまいそうに思えた。

結局、彼女は彦爺の視界の範囲内には立たない、という奇妙な条件をつけられてようやく同道を許された。寝たきりの生活は、ケンの予想していた以上に彦爺を偏屈で依怙地な老人に変えているようだった。

彼女は平気なのだろうか、とケンはちらと視線を走らせてみる。後ろから車椅子を押す無表情な彼女の様子からは、どんな感情も見て取ることは出来なかった。

「森」の管理人はミューという男だった。体の大きな、力自慢の男である。

「久しぶり、ミュー」

「ケン、よく来たな。話は聞いている、彦爺の付き添いなんだって?」

「ああ、私用でここに来るのは初めてだ」

ケンの後ろから車椅子の彦爺と看護士がついてきた。彦爺は、来る途中、大して嬉しそうでもなくじっと黙りこんでいたが、さすがに「森」へ入る扉の前まで来ると、頬が紅潮し、興奮と緊張を隠せないようだった。

「しかし、一体何を見に来たんだい・・・?こんなところへ」

「うん、ちょっとな・・・」

ミューは不思議そうな顔をしていた。ケンには、その意味は痛いほどよく分かっていた。

「まあ、俺は一向に構わないんだけどよ。とりあえず、足元は気をつけてくれよな。あと、ちょっとでも俺の指示に従わない場合は、即刻出て行ってもらう。なんと言っても、ステーションの心臓部みたいなものなんだ、ここは」

「いいから、早くドアを開けてくれ」

彦爺が待ちきれない様子でそわそわと声を荒げた。こんなに・・・誤解を恐れずに言えば、こんなに少年のような彦爺を見たのは、ケンは初めてだった。ミューはやや気分を害したようだったが、何も言わず、とにかく扉を開ける作業に入った。

管理人室の奥にある、銀色の重たい扉。その真ん中あたりにつけられているやはり重たそうなハンドルを、ミューが力いっぱい回した。ハンドルがゆるくなると、彼は壁につけられた表示盤をいじる。ピッと電子音がして、扉が自動的に横に滑って開いた。

「さあ、『森』へようこそ。本当に、足元には気をつけてくれよ」

扉の開いた先にあるものは、ステーション世代のケンにだって明白なくらい、およそ地球上の森とは似ても似つかないものだった。まず、散々気をつけるように言われていた足元は、リノリウムの床で、人が通れるようにしているスペース以外は、細いものや太いものやさまざまの導線がヘビのようにうねって、床を覆いつくしていた。

真っ青であるべき空は、真っ赤な光に埋め尽くされていた。ここは、ステーションの回転とは独立して、常に太陽光があたるような位置にある。その太陽光と言うのも、光合成に多く使用される赤色光以外は特殊フィルムによってほとんど遮られ、効率よく光合成が行なわれるように工夫がなされいていた。

そして、木そのものは一本一本がガラスケースの中に入れられていた。木も人間同様に、ガラスケースの中で計画的に生産されているのだ。人間と違うのは、木がガラスケースの中から出てくることはない、という点である。木の一生は、ガラスケースの中で終わる。

そこは、森と言うより巨大な研究施設といった感じであった。事実、遠くに白衣を着た人々が、何事かの作業を行なっているようだった。

「ここが・・・『森』・・・?」

看護士が口を開いた。赤い光の降り注ぐ天を見上げている。

「あ・・・あ・・・森だ・・・帰ってきた、帰ってきたぞ」

ケンは耳を疑った。しかし、どうやらそれはケンだけではなかったらしい。看護士もミューも、彼が何を言っているのか理解できなくて、じっとこの車椅子の上の小柄な老人を見つめていた。

「日が暮れていく。何年ぶりだろう・・・こんなに綺麗な夕焼は」

誰も何も言えなかった。

「ケン、さっきの十句の中に、

菜の花の中へ大きな入日かな

って句があったろう?ちょうどこんな感じだよ。ほら、あそこに菜の花が。今は春なんだな。ふふ、私がさっき言っていたとおりじゃないか」

彦爺が指差したのはガラスケースの管理パネルだった。偶然、黄色かったのだ。

「・・・綺麗ですね」

ケンが言った。ことさら、どんな意味も込めないような、単調な言い方だった。彼には、それが精一杯だった。

老人の干からびた腕が、ガラスケースに向かって伸び、空しく空を切る。車椅子がガタガタ揺れて、危なっかしく、彦爺が立ち上がろうとする。

「あぶない!」

ケンが叫んだときには、もう、看護士が彦爺の前に回りこんで、彼を抱きとめていた。

「あ・・・あ・・・」

という声を漏らして、彦爺の喉は嗚咽していた。その声は、だんだん咆哮を押し殺すようなものとなった。あられもなくもらす声は、遠くにいた白衣の研究者にも聞こえたらしく、こちらを向いているように見えた。

看護士は、背中をさすってやっていた。

「かあさん・・・」

その言葉が聞こえたと思ったときだった。うっ、と彦爺が呻いた。それは嗚咽とは違う種類のものだったので、ケンは身を固くした。案の定、彦爺はげほげほと咳をはじめ、呼吸が目に見えて苦しげになった。

「先生!」

「おじいさん」

ケンとミューが同時に呼びかけた。

「いけない、発作だわ」

顔面蒼白の看護士が、ミューを縋る目で見た。

「任せてくれ」

ミューが彦爺を抱え上げ、一行は早々に「森」から退散した。

「良かったんですよ、あれで」

看護士は、ケンをかばうように、努めて優しい声で言った。彦爺の遺影は、つい三日前と同じように笑っている。

「私、俳句のことはよく分からないですけれど、先生が好きな句として

冬蜂の死にどころなく歩きけり

というのを挙げていらっしゃったでしょう?あれって、きっとご自身のことだったと思うんです」

「しかし」

「先生は故郷で死ぬことができたんです。私ではそれはして差し上げることは出来なかったでしょう。本当に」

看護士は深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

ケンは戸惑った。

「いえ・・・」

訓練の中、特別に許可をもらって出てきたので、ケンは早々に葬式を辞した。風の吹かないステーションの天を見上げる。

春風が空の中から吹いて来る

この句の、本当に体で感じていた最後の人が、いなくなった。ケンは足早に訓練へ戻って行った。



雁や太陽がゆき月がゆき 長谷川櫂

おそらくこれが最後となるであろうデジタル化作業をしていたとき、ケンはその句を見つけた。

彦爺はああいうふうに言っていたが、ケンには俳句が単純な望郷の唄だとは思えなかった。あの彦爺の言い種は、俳句を偏愛するあまりに出てきたもので、彼の中の俳句は全て故郷に結びついていったからこそなのではなかったろうか。

これからの人類の唄を、俳句で詠むことは不可能だろうかー。彦爺が死んでから、ケンの頭の片隅にはその疑問がいつもこびりついていた。果たして、季節のない宇宙空間において、俳句は生きながらえることはできないのだろうか?

雁の句は、彼にとって衝撃的だった。ケンは直観した。俳句は季節の唄ではない・・・俳句は、もっと普遍的な、自分の現在いる時空間を指し示す唄なのだ。そこにあるのは、過去でも未来でもない。

雁の句に現れてくるのは、太陽が昇っては沈み、月が昇っては沈みするその空間を一直線に渡っていく雁の列・・・。時間と空間の交差するその一点にこの句を置くことが、作者の現場存在証明だったのだ。自分の今生きている現在を文字に焼き付けた作者の矜持が、彼の心の中を、大空の中の雁の列のように遠く過ぎて行った。

かわいそうな彦爺。かわいそうな人類。ケンは、彦爺が死んでから初めて、彦爺のために泣いた。



ポマードでびっしり撫で付けられた局長の白髪が美しく見えた。ケンだけではなく、周りで立っている全ての乗船員が、しっかりと胸を張って、局長に相対していた。今日ばかりは、いつも温和な局長の顔が厳かに、きりりとしていた。

「諸君」

マイクで増幅された彼の声が全員に響き渡る。

「諸君には、これから第三次ヒノトリ計画のスタッフとして、火星に飛んでもらう。この日のために、何年間も訓練を続けてきた君たちの努力に、まず謝意を表する。よく頑張ってくれた。これから二年間、諸君には人類の最前線として火星研究を行ってもらう。この過酷なプロジェクトは、生半可な者にはとても耐えられないだろう。しかし、史上もっとも厳しい訓練に耐え抜いてきた君たちなら、必ずや最大限の成果を発揮してくれるものと私は信じている」

局長の顔が誇りに輝いているように見えた。

「前回、第二次ヒノトリの惨劇は諸君の記憶にも新しいところだろう。しかし、どうか安心してほしい。問題のあったエンジンブースターには改良が加えられ、前回のような事故はもう起こりえない仕組みにされている。機体の整備も、万全に整えられているから、諸君は心置きなく研究に励んで欲しい」

ケンは、リュウのことを思い出した。

局長は一旦言葉を切ると、またすぐに続けた。

「人類は、今、いわばサナギの状態にあると言っていい。幼虫時代を過ごしていた地球を離れ、なるべくじっと動かないことでこの冬の時代をやり過ごしているのだ。正に、地球という大きな木にぶらさがっている巨大なサナギなのである。しかし、サナギの時代と言うのは、必ずいつか終幕を迎える。いつまでもこのままで生活できるはずがないのだ。もしも我々が冒険心を失い、故郷を、そして過去ばかりを振り返っているようになってしまっては、人類はサナギのまま内側から腐って死滅してしまうだろう。我々は、常に未来に向かって突き進む必要があるのだ。どんなに厳しい時代であれ、いや、厳しい時代だからこそ。火星探査の最前線であるヒノトリ計画は、正にその成虫へ変態するための大きな一歩である。我々が自分たちの手で失ってしまったあの大地を、もう一度自分たちの足で踏みしめ、のびのびと生活することができるように、そんな素晴らしい時代をいつか築くために、諸君はその先陣を切ってあの赤い星を目指すのだ。どうか、遠い未来の人類がより大きく羽ばたけるように、諸君らの健闘を、ここステーションオオエドで祈っている。以上」

局長が、そして、ヒノトリの乗船員たちが、一斉に敬礼を交わした。その空気のふるえを、ケンは風のようだと感じた。



「ミーナか?この一ヶ月間の報告を、頼む」

イヤホンからミーナの耳に、今となってなつかしいとさえ言えるようなケンの声がとどいた。

「今月は、俳句研究の終刊分までをやり終えたわ。馬鹿みたいに大量にあるのね。これ本当に、全部やらせるつもりなの?」

「ああ・・・頼むよ」

少し困惑したような、気弱なケンの声が聞こえてくる。あらあら、あのときの勢いはどこに行っちゃったのかしら。ミーナはくすくすと笑った。

「大丈夫よ、仕事だものね、きちんとこなすわ。おかげさまでソラも晴れて小学校に通えるようになったし」

「そうか」

嬉しそうな声。

「おめでとう」

「ありがと。それで、そっちはどうなの?また砂嵐に巻き込まれたりしてない?」

「ここ二週間は大丈夫だ、たいしたことない。ところで、今から言う句もメモしておいてくれないか?」

「はいはい。・・・こっちは準備オーケーよ。どうぞ」

「あかあかと大地凍えてゐたるかな」

「旧かなでいいの?」

「ああ、そっちの方がかっこいいし」

「意外といい加減よね」

「あ、『あかあか』は平仮名で」

「はいはい。注文の多いこと。今回はその一句だけ?」

「ああ、それで、よろしく」

「はいはい」

「じゃあ、またな。後がつかえてるみたいだから」

「そう。また来月ね。・・・ケン」

「何?」

「気をつけてね」

「ああ。サンキュ。じゃあな」

「じゃあね・・・」

どうして火星に行ってケンが俳句を作り始めたのか、彼女はよく知らなかったが、その句を聞くのは楽しかった。彼が今いる火星の様子が、頭に思い浮かぶからだ。

ようやく分かったんだ。・・・そう、ケンは言った。過去は未来のためにあるんだ。君のやってくれている仕事をより一層意味があることにするために、僕は、自分で俳句を作ることにした。ケンははつらつとした声で言ってきたのだ。出発の直前のことだった。彼女の両手を掴んで言うその様子に圧されて、彼女は思わずこくりと頷いてしまったが、その実、彼が何を言っているのかよく分かっていなかった。

とにかく、ケンが生き生きしているので、ミーナとしてもそれで良しということにした。いつか、彼のことを愛し始めていたのである。

バー『サムライ』のマスターとも友達になった。バーにある大きな窓を背景に、ミーナとソラは写真を撮ってもらったことがあった。その写真は、いま、彼女の机の写真立てに飾られている。アル中のために震える両手をどうにかおさえて、マスターはシャッターを押してくれたのだった。

写真の背景の窓の中には、遠く、小さく、真っ赤な火星が二人の間に写っていた。

(おわり)



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