2007-11-11

短歌ノススメ:本郷短歌会 飯田哲弘

短歌ノススメ:本郷短歌会 ……飯田哲弘



本郷短歌会はTHC「人生遠回り組」代表の飯田が、東大俳句会(本郷俳句会)OBで歌人の大野道夫さんのご協力を仰ぎ、昨年の11月に設立し、今年11月に東京大学公認となる予定の学生短歌会である。毎月一度、平日の夜に文京区本郷で歌会を開催している。

本郷短歌会の誕生は、従ってTHC及び「青の会」の誕生とほぼ同時である。そしてこの歌会の最大の特徴は、参加者のほぼ全員が俳句経験者であり、短歌初心者であるということだ。そして、その多数がTHCのメンバーである。

大学教授(社会学)の肩書きを持つ大野さんは酒にめっぽう強く、大変気さくな方で、東大俳句会の二次会の席で我々学生に混じって話して下さった短歌論がとても面白く、「じゃあ僕らで歌会しちゃいましょうか!」と提案したのが最初である。

THC「青の会」が俳句初心者を集めた句会であるのと対照的に、こちらは短歌初心者を集めたスタートであった。大野さんの特に強い要望で学生俳句会の面々を招集したが、俳句経験者が「青の会」に臨んで抱くような、いや、それ以上の興味を大野さんは感じてらっしゃるかも知れぬ。

ところで、僕が短歌会を経験したのはこれが最初ではない。以前、早稲田大学俳句研究会と早稲田大学短歌会の合同忘年会に混ぜて頂いたことがあった。各自俳句一句、短歌一首の持ち寄りで、高田馬場で鍋をつつきながらの句会・歌会を同時開催したのである。この体験はなかなか印象的で、俳句の人間と短歌の人間がどのような作品を選び、どのように論評するのか、が、俳句を始めて間もない僕にも興味深く刺激的であった。このときのエピソードはまた改めてご紹介したいと思う。

さて、週刊俳句の読者には歌会のご経験のない方もいらっしゃるであろうから、簡単にそのシステムをご紹介しておく。

句会と異なり「短冊での出句→清書」という手順を踏まないのが普通で、事前に司会役まで出詠(投歌)しておき、それを司会がシャッフルして番号を振ったものを印刷し、歌会の席で配布する。つまり歌会はいきなり選歌から始まるのである。投歌は普通一首または二首で、題詠(兼題)または自由詠(雑詠)であるが、本郷短歌会では題詠一首、自由詠一首、計二首の出詠としている。選歌は題詠、自由詠から各自がそれぞれ一首を選び、その番号をこっそり司会に伝える。司会はそれらを集計して発表し、高得点歌から順に評論を始める、というのが一般的な流れである。俳句よりも合理的といえば合理的かも知れぬ。多くても十名強の参加者が一人二首しか投歌しないのだから、全ての作品について俳句とは比べものにならないほど粘着質に味わい、ねっとりと感想を述べることが出来るのが特徴で、それはしばしば二次会へも持ち越される。

俳句経験者の多い当歌会作品群の特徴として、上の句(五七五)と下の句(七七)が意味の上で切れているものや、ご丁寧に季語が含まれたものが当初は多く見られたのはご愛敬であるが、回を重ねる毎に外来語や句跨り、空白や句読点、括弧など、俳句ではまず使われない手法を駆使したものが増えていった。もちろん俳句と同様に「つきすぎ」「切れ字」「説明的」などの用語は同用法で使用される。みんな実に愉しんでるなぁ、挑戦的だなぁという印象を抱く。それに、ほぼ決まったメンバーで一年も経つと、次第にその人の個性とそれを打ち破ろうとする努力が見えてくる。

なかでも僕が注目したいのはその作品群における「自我」「恋愛」の出現率の高さである。当初、日頃俳句では詠みにくい鬱屈した欲求が短歌において突如爆発したのかとも思ったが、手元にある現代の歌集をめくってみても、やはり「自我」や「恋愛」がこれでもかと言わんばかりに出現する。俳句が得意とする類の感動、「…あ」という呟きに似た、謂わば自発的な心の揺らぎとは異なり、これらヒトとしての「叫び」は何も短歌の専売特許ではなく、小説や映画、歌謡曲やCMなど至る所に同じ根を有する「叫び」が存在し、それだけに短歌として完成度の高い作品を得るのは難しいようである。

また、季語という「印象の簡便な伝達手段」に必ずしも依存しない短歌においては、主観の伝達に一層の困難が伴う。思ったように伝わらないもどかしさは俳句の比ではなく、かといって分かり易いものは何も面白くない。立体的に隙無く構成された短歌はまさに噛むほどに味の滲み出すスルメのようで、読者の年齢や性別によって解釈が大きくずれることもあり、それが長時間に及ぶ論評の愉しみでもある(当歌会では男女で異なる解釈を示すことがある)。しばしば俳句は写真に比せられるが、それに倣えば短歌はさしずめ映画であろうか。たった14音が増えただけでこれほどまでに世界が時空的に変化するものか、といつもながら驚嘆してしまう。

俳句にもあるが俳句以上に短歌らしいと感じる性質に、とにかくも「音楽性」を挙げておきたい。俳句が「句」であるのに対して短歌が「歌」であるのは、単なる歴史的な呼称の経緯以上の意味合いがあるように思われる。会話文を許し、オノマトペを含み、直喩・隠喩を駆使し、リフレイン、そして「自我」と「恋愛」、まさに「歌」。それらを許容する文字数を誇る短歌ならではの性質である。優れた短歌は是非とも発声してみたい。そして、俳句でも舌頭千転というが、短歌を作るに当たってこそ積極的に発音していきたいと思っている。

僕らTHC所属ハイクライターは一年間に渡って俳句と短歌を並行し、対比しながら味わってきた。もし大野さんが短歌初心者しかいない僕らの歌会を楽しんで下さっているとすれば、それは俳句学生が短歌に持ち込んだ“何か”の為かも知れない。それが何なのか、今もってよく分からないが、少なくとも短歌と俳句は相反するところと相通じるところがあり、その相互作用はとても新鮮で飽きが来ない、ということは断言できる。

読者の中には短歌経験者もいらっしゃるだろう。THCの俳人としても若い我々が短歌を通じてどのような変化を得て、何を学びうるのか、いずれ別の機会にご紹介できれば幸いである。

何のために短歌を作るのか。
短歌でも俳句でも、僕にはまだまだ分からないことが多い。しかし少なくともいえることは、僕はやはり誰かと共感していたい、精神的に繋がっていたいという根深い欲求があるようだ。そのメディアとしての短歌には短歌にしかない大きな魅力があり、それは当然俳句の持つメディア性ともまた異なるものである。

僕が明確な意思を持たないまま俳句を作り始めて二年が経過した。様々な句会を通じて様々な人々と出会い、彼らの俳句に共感し反感し、膨大な時間と労力を作句と句会とに費やした。それでも自分が何故俳句を作っているのか分からなくなるときが二日に一度はあるように、何故短歌を作るのか分からなくなっても、僕はきっと短歌を続けていくのだろう。



本郷短歌会:公式ブログ http://hongotanka.exblog.jp/

3 コメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして。私も短歌と俳句を平行して4年ぐらいになります。

本文に登場するのは『短歌の社会学』という本を書かれている大野先生なのでしょうか?(同姓同名なのでそうかなと思いつつ^^;

てっち さんのコメント...

匿名さま

執筆者の飯田です。

コメントありがとうございます!
短歌と俳句、互いに刺激的で楽しいですね。

大野さんはその大野さんです!
僕もその著作は読みました。

さんのコメント...

短歌と俳句・・この二卵性双生児みたいな詩の形態が根っこの部分でどう絡まって吸い合っているのか興味は尽きませんが私にとっては謎です。ただ、俳句をやっているうちにどうしても短歌というものを無視できなくなるのは自然の成り行きみたいなものなのではないでしょうか。俳句という拘束具にも似た詩の形態にどっぷり浸かっていると、短歌の世界はいかにも自由です。たった十四文字増えただけで世界が一変するような気がして、憧れにも似た疚しい気持ちを抱いてしまうのは私だけでしょうか。ただ、そんな安易な気持ちで踏み込んで来るものに短歌における芸術の喜びは遙かに遠いものなのだろうという気はしますが・・。とにかく、俳句漬けの日々ではありますが、短歌にも興味があります。まだ、先人が遺した歌を気の向くままに諳んじるだけでとても実作までの力はありませんが、長塚節、いいです。彼の写生歌みたいな俳句ができたらなんて、夢みたいなことを考えたりします。現実は厳しい!取り止めもないコメントで失礼しました。