2007-11-11

俳句の解釈と時代性 小説『サナギ』前書きに代えて 山口優夢

俳句の解釈と時代性 小説『サナギ』前書きに代えて ……山口優夢



もう二年前になるだろうか。丸の内某所で当時、(自称)「俳壇のヨン様」とお酒を飲む機会があった。女の話が大部分を占めたが、その中で申し訳程度に出た俳句の話が、妙に心に残った。

「山口誓子の『炎天の遠き帆やわがこころの帆』って句があるでしょ?私なんかはねえ、どうしてもあれがいいとは思えないんだよなあ」

僕は激しく首肯した。わが心の帆、って言われても、なんだか無理に格好つけている感じがしちゃって、そんなのが気恥ずかしくって、どうにもこうにも、「滑ってるなあ」と思っていた。

それから間もないある日、僕は寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』をぱらぱらめくっていた。これは素敵な本だ。「月光仮面」や「不良少年入門」など、傷つきやすい感性で書かれた斬新な文章や詩が美しい。

その中に「自殺学入門」というものがある。自殺機械の作り方、上手な遺書の書き方など、寺山一流のアジテーションが散りばめられてあり、藤村操、星の王子さま、気狂いピエロらの自殺について紹介した後、次のような文句でこの章は締めくくられている。少々長いが引用してみる。

×××

わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことのむずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになる。そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまったことを、かんがえながら、しみじみとえんぴつをながめている。

  炎天の遠き帆やわが心の帆  誓子 (原句ママ)

×××

このとき読んだ誓子の句からは、生き死にの彼方に遠く眩しく見えている海、そこに寄る辺なく浮かぶ小さな白い帆が鮮烈に心の真ん中へ入り込んできた。思いもかけないことだった。名句だ、と思ったのだ。さすが引用の天才寺山である。そうして、この経験―つまり、最初は面白くないと思っていた俳句が、ある文脈の中に置かれることによって輝きを放つ、ということ―が、今回、小説『サナギ』を書くはるかな遠因となった。

寺山の書いた文脈に置いたとき、この句の良さが初めてしみじみ心に沁みたということは、この句の良さを引き出すような文脈を僕は自分の胸の中に用意できていなかったということを意味している。

俳句に限らず、文藝作品を読むということは、読者がその作品を自分という文脈の中のどこに位置づけるか、ということに深く関係してくる。もちろん、作品そのものが生み出されたときの文脈を完全に忘却し去ることはできないにしても(たとえば誓子の句であれば、それは病気療養中に詠まれたものである、ということをベースにおいて鑑賞することを妨げるものは何もない)。

特に、十七文字という極小に言葉を閉じ込める文藝である俳句は、短いゆえにぬけぬけと読者の文脈の中に入り込んで鑑賞を待つ、ずうずうしい戦略をとっている。となれば、読者の存在している時間軸が、作品の鑑賞に多大な影響を与えることは間違いない。作者の意図とは異なった解釈が、時代とともに生み出される結果となろう。名作と呼ばれるものは、そうやって時代ごとに上着を着替えながらも、来たるべき世代の胸の中へ、まるで座敷童子のように次々と入り込んでいくヤツのことを言うのである。

いい例が、芭蕉の「古池や」の句だ。一般には、一匹の蛙が池に飛び込んだ、その閑寂さが幽玄な境地を誘う、という句として解釈される。坪内稔典氏の著書によれば、虚子は、蛙が何匹も何匹もぼちゃぼちゃ飛び込んだという春の生命感を感じ取ったそうだ。最近では、長谷川櫂氏が古池は心に浮かび出た幻影であると言っている。

読む人それぞれ、思い浮かぶイメージに幅があり、それは作者の意図を離れて自由に飛翔すべきものだ―では、次に気になるのは、現在名句と呼ばれているものが、未来にはどのように読まれるだろうか、ということである。しかも、十年、二十年後なんていう近い未来ではない。百年、二百年後の世界、もっといって、千年後の世界。

現在とはまるで環境の異なるその世界を文脈として設定し、そこに今ある俳句を再配置してみたとしたら、そこに置かれた俳句たちは新しい解釈を獲得し、うまくすれば寺山が鮮やかにやってみせたようにキラキラと新しい輝きを放ち始めたりしないだろうか―『サナギ』の一つの試みは、その点にある。

  忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 池田澄子

この句、「忘れちゃえ」というのをあまりにも日本の戦後の状況に縛られて読まれすぎてはいないだろうか?もし、日本の戦後史という文脈から切り離した場合、この句の向こうに立ち上がるものは一体なんだろうか?

  雪まみれにもなる笑つてくれるなら 櫂未知子

あるいは、これを読んでつくづくこの句の主人公がうらやましくてそれに引き換え自分の身が情けなくて切なくて泣けてくる、というのは一体どのような女の子だろうか?自分が男であるという文脈を超えて、そういう女の子の反応をリリックに描き出すことはできないだろうか?

たとえば、そういう問いかけがSF俳句小説というイロモノ臭のぷんぷんと漂うような新ジャンルの小説『サナギ』における俳句の解釈の試みにつながっていくことになる。

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