2007-11-11

胸キュン☆ 瑞穂

胸キュン☆ ……瑞 穂



不定期で、ホテルで配膳のアルバイトを始めて早2年になる。

高い戸棚にたたんでしまってあるテーブルクロスを取ろうとするが、手が届かない。脚立を探しに行くのも面倒臭いし、どうにか届かないものだろうかと手を伸ばしていると、後ろからやってきた先輩が「とってあげようか?」と軽く手を伸ばして取ってくれたことがあった。ただでさえ笑顔が爽やかなサービスマン風、というか本物のサービスマンなので、それだけで絵になってしまうような気がする。キュンである。

胸キュンという言葉を最初に知ったのは恐らく小学校6年生のとき、国語の授業で名木田恵子作「赤い実はじけた」を読んだときだろう。

「赤い実がはじけるって、どんな感じかしら。
想像するとなんだかどきどきしてくる。
それは本当だった。

まったく突然。
急に胸が苦しくなって。
パチン。
思わず飛び上がるほど大きな音を立てて、胸の中で何かがはじけたのだ。」
名木田恵子 「赤い実はじけた」(PHP研究所1999年)より

ふとそのとき、担任の先生が言った。「胸がキュンとするってこういうことでしょうね」。

もちろんいうまでもなくこれは赤い実のはじける「初恋」の話である。登場人物の綾子と哲夫のような、何気ない普段の1コマから恋をしてしまう純情な時代はなんらかの理由で通り過ぎてしまったようだが、そんな小さな赤い実のはじける胸キュン、な瞬間は、今でも心地よく胸に響くときがある。

今日は3回も目があった。後姿が少しだけ見えた。

校舎の窓からグラウンドを覗いたら、横顔が笑っている。また目が合ったような気がする。

秘かにおそろいのシャープペン。芯を名前の数だけ伸ばしてハートを塗り終えたら両想い。

そんな情景を、現在の私は「ときめき」と呼んでいる。

その大半に、書かずとも見えてしまう「あの頃の」という前置きもついている。

ここまでで書いた胸キュンは、平たく言ってしまえば恋愛感情が中心となっているものだ。特に「あの頃」、つまり中高生あたりのいわゆる青春真っ只中、頭の中は時折やってくる試験の憂鬱と、憧れの君への「ときめき」、それに加えて友達とのあったかい友情や、たまに起こるいざこざ、やっぱり恋愛のからんでいたりするヤキモチ、喧嘩。誰かを好きになったらまっしぐらにただ一途に想うひたむきさ、そんなものであふれていた気がする。しかしいつの間にか、恋愛に一喜一憂しているだけじゃいられない、なんて思っている自分を自分の中に見つけてしまう日がやってくる。

私も年をとったなあ、なんて言ったら怒られるのだろうけど、そんなときめいた情景を切り取って、眺めるたびにその頃の思い出に浸りたい。そんな風に思うようになったのはいつからだろう。

ときめきを得るためにはまず胸キュンしなければならない。

胸キュンはときめきをもたらすスイッチのようなもので、それを押した瞬間、心の中にときめきが広がっていくのである。そんな相互関係を朝6時から大真面目に考えている女子大生というのはなかなか寂しい気がしてくるけれどこの際もう気にしない。

その見た目の美しさ、愛らしさに「可愛い」としか形容してこなかった「胸キュン」もあった。

お弁当をあけるとご飯がピンク色。ウインナーがたこの形。りんごは、うさぎ。
桜の花びらをかたどった箸置き。オルゴール。

an.an.の最初のほうに出てくる、小物のページ。

きれいな模様の便箋に書かれた手紙に、文末のハートマーク。

ただ見た目が可愛いだけだったそれらのものに、ただ欲しいだけではなく見ていればそれだけで幸せになれそうな胸キュンアイテムたち。

もちろん、小さい頃にもそんなときめきはあった。しかし、お弁当を開けた瞬間の「わあ!」という歓喜の心や、贈り物のきれいなリボンをほどいた瞬間のドキドキする気持ちとはまた別の、どこか懐かしさを覚える「ときめき」がそこにはある。

その事に気づいたのはいつだっただろう。それらの胸キュンアイテムの置いてある棚に視線が届くまで、あの頃より少し背が伸びたせいかも知れない。

例えばお弁当に桜でんぶを乗せてピンク色にしたければ、スーパーで買ってくればいい。タコさんウインナーにしたければ端っこに切り込みを入れて。うさぎの作り方も覚えてしまった。

そう、ときめきを得るための胸キュンスイッチの押し方を、自分で知ってしまったのである。

胸がキュン!となって、心が揺れてどうしようもなくなる、そんな状況に置かれたいような、少し遠いところから見てみたいような。

5+7+5=17文字、というその数は、少しだけ胸が苦しくなるような体験を味わってみるのには充分すぎる数でもあるのかも知れない。

枇杷の実を空からとつてくれしひと  石田郷子『秋の顔』



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