2007-11-25

上州の反骨 村上鬼城 第1回 新時代・明治と若き日の鬼城 斉田仁

上州の反骨 村上鬼城
連載第1回  新時代・明治と若き日の鬼城   斉田 仁




三重県鳥羽に『南風』の増田河郎子さんを訪ねた折、しばらくぶりにこの俳誌の師系である臼田亜浪の話などを聞く機会を得た。

臼田亜浪は周知のように、長野県に生まれ大正期の『ホトトギス』で活躍、その後虚子と河東碧梧桐の対立の中、そのどちらにも与せず、自ら『石楠』を創刊し独自な立場に立った人だが、そんな特異な俳人の系列が伊勢の国に今もたしかな根を張っているのに出会い、ちょっとびっくりした気持ちであった。

これに関連して私はそのとき別な人物を思っていた。それは村上鬼城のことである。鬼城は亜浪より十四年前、慶応元年(1865)七月二十日、鳥取藩主小原平之進の長男として江戸小石川鳶坂の藩邸に生まれ、明治四年廃藩置県のとき父が縁あって前橋に移り住み、やがて高崎区裁判所勤めとなったため高崎に移住、明治八年鬼城十歳のとき、村上家の養子となって村上荘太郎と名乗ることになった人である。江戸に生まれたとはいえ、幼少の頃から上州で過ごしているので、ほとんど上州人といってもよいと思う。

前述の亜浪が長野県、そして鬼城は群馬県、隣り合った国に生まれた俳人であり、同じく大正期の『ホトトギス』で活躍したという点だけで見れば同じ系統に属する俳人ともいえる。もっと言えば、亜浪は長野県の小諸から東京に出て、法政大学に進んだのに対し、鬼城もやはり東京の明治義塾法律学校に入学している。地方より志に燃えて東京に出ていったのである。

亜浪はともかくとして、鬼城に話を戻せば、若き日は軍人志望であった鬼城村上荘太郎は十九歳の頃から耳疾を病みはじめ、軍人から転じて司法への道を目指した法律学校も結局その耳疾の悪化のため断念せざるを得なかった。

鬼城がまだ勉学の志が高かったこの頃、明治十年すぎはいわゆる自由民権運動の波が次第に高まった時代である。板垣退助が来高して高崎市内の大信寺という寺で大演説会を開催し、多くの観衆を集めたという記録がある。

上州は反骨の国である。江戸に幕府があった頃から、いわゆるお上に対する不満をこの地はいつも持っていた。若い頃から寺子屋式の私学に通い、ある程度の教養を身につけていた鬼城も、当然それに参加したことは想像に難くない。筆者は未見だが、現在の群馬県藤岡市のある寺に民権を詠んだ鬼城の漢詩が残されているという。

こんな鬼城が結局司法官への道をあきらめ、高崎区裁判所の司法代書人という職を得るのは明治二十七年、二十九歳のことである。

鬼城はのちに『ホトトギス』で活躍するようになってから、いつも「境涯の俳人」というレッテルを張られてきた。それは上記に書いてきたそんな事情が下敷きになっているからである。

しかし「境涯の俳人」という単純なことだけで鬼城を評価していいのだろうか。そんな疑問を私は長い間持ち続けてきた。同じ上州の血を持つものとして、この問題を考えてみたいのである。

 *

村上鬼城という名前も現在ではほとんど知らぬ人が多い。たとえ知っているとしても、大正時代の『ホトトギス』にいた地方の一俳人、それもやや暗い境涯と聾唖というハンデキャップを背負った一人の人間ぐらいとしか思われていないのではないかと思う。

また、こうした一人の俳人を取り上げることに、はたして今日的意義があるのだろうかと疑問に思われる向きもあるかもしれない。

しかし、私が鬼城をあえて書こうとしたのは、まさにそこのところである。やや閉塞し、次第に体制側に傾いてゆく現代、そして俳句作者、従来とは違った鬼城の一面を捉えることによって、このへんの問題にも踏み込んでみたい。

そもそも鬼城が現在のような取り上げ方をされたのはどうしてであろうか。

鬼城の名がはじめて登場してくるのが、明治三十二年の『ホトトギス』一月号である。河東碧梧桐の「募集俳句」という欄に入選した次の一句である。

 埋火や遺孤を擁して忍び泣く  鬼 城

鬼城三十五歳のときである。これより二年前、明治三十年一月、四国松山において、柳原極堂編集の『ホトトギス』が創刊されているから、この雑誌のごく初期のことである。このあと、『ホトトギス』の誌上に、少しずつ作品や写生文を載せることになる。

この頃『ホトトギス』は俳句誌というより一種の文芸誌であったから、鬼城の名は句よりも文章の方で多く見られるのである。ちなみに、夏目漱石が「吾輩は猫である」を同じ『ホトトギス』に発表するのは、これより遅れること七年、明治三十八年のことである。

鬼城はどんな文章をかいていたのか。とりあえずタイトルだけでも列挙してみよう。

 写生記事「明治三十三年十二月十六日」 明治三十四年
 募集課題文「諸君は如何なる縁にて我新俳句を作りはじめたか」に入選 明治三十五年
 課題募集文「新奇と陳腐」    明治三十年
 写生文「催眠術」        明治三十七年
 写生文「上京」         明治四十三年
 写生文「十年間」        明治四十三年

以下、同じ『ホトトギス』に執筆しただけでも「日蔭」「芸者と従弟」「雪の下」「来たッちゃす」「死んで行く人」と枚挙にいとまがない。高濱虚子が本格的に『ホトトギス』の雑詠欄の選をはじめるのが明治四十五年のことであるから、これより前に鬼城はこれだけの文章を書いているわけである。ちなみに、写生文といっても今日のいわゆる写生とは違って、一種の小説的なもの、創作である。鬼城三十五歳から四十八歳頃、まさに油の乗った時代である。

漱石の「吾輩は猫である」の時代はこの国の文芸上でも多くの重要な事項が見られる。

 明治四十年  田山花袋「布団」発表
 明治四十一年 『アララギ』創刊
 明治四十二年 『スバル』創刊
 明治四十三年 『白樺』創刊
 明治四十四年 西田幾多郎「善の研究」刊
 明治四十四年 平塚雷鳥『青踏』創刊

鬼城ばかりではなく、青年が従来のものを抜け出してなにか新しいものを模索し始めた時代である。鬼城はこんな場所から出発した点をまずおさえておきたい。

鬼城をこういった世界に駆り立てていったものは一体なんであったのか。前に書いたように彼は印旛鳥取藩士小原平之進の息子として慶応元年に生まれている。この翌々年慶応三年には徳川慶喜による大政奉還があり、その翌年には明治への改元があった。夏目漱石が生まれたのは慶応三年であるから、鬼城と漱石はまさに同年代といってよい。

ともかく鬼城が生まれてすぐ徳川は崩壊した。鳥取藩士小原氏も陥没武士となっていく。そして小原平之進は吉川平助と改名、縁あって当時開設したばかりの熊谷県前橋支庁の県吏として赴任、長男鬼城、本名荘太郎もこれに帯同する。そして明治六年前橋支庁廃止、高崎支庁設置に伴い、高崎宮元町に移住してゆく。鳥取藩の元武士が上州高崎まで漂泊していった。鬼城九歳、現在鬼城の記録はここからすべてはじまっているので、上州の俳人としてその名が残っているのである。

*

鬼城の父吉川平助が上州高崎支庁に勤務したのは明治五年、この頃の高崎は中山道の宿場町として、また三国街道や日光例幣師街道のなどの交差する諸国物資の集積場として商業の発展している町であった。当然、物資と共に、各地からの文化も流れこむ。そして明治初期の新しい風潮も生まれてくる。

高崎尋常小学校が発足したのは明治六年二月、同年五月には二つ目の鞘町学校も作られた。鬼城が入学したのは高崎小学校である。もちろん義務教育の時代ではない。この高崎小学校は旧名文武館、もと高崎藩の士分の子弟を教育した学校である。鬼城はここに十三歳まで学んだ。当時この学校は高崎の町にある大信寺という寺院にあった(筆者はこの寺から百メートル離れた土地に生まれ育った)。

この高崎学校を卒業した鬼城は続いてこの大信寺の隣安国寺にある私学「高崎漢字書院」に進み、和漢学を学んでいる。さらには明治十六年には、この町から程遠くない高崎宮元町にある基督教会の牧師星野光多について英語の勉強もした。

先に述べた大信寺の片隅には徳川忠長の墓がひっそりとある。忠長は徳川二代秀忠の子、弟家光との家督争いに敗れ、駿河、甲斐を没収されたうえ、寛永八年その家光から高崎藩に閉塞を命じられ。その翌々年寛永十年高崎城にて自害、この上州高崎の地にただひとりの墓として残されている。

鬼城が学んだ当時もその墓はあったわけで、徳川本流に反抗しようとした忠長のことは当然知っていたはずである。

さらに明治十年過ぎた頃、この大信寺を舞台として鬼城の思想形成に重要な影響を与えた事柄がある。自由民権運動である。

岩倉具視、大久保利通等と袂を分かった板垣退助、後藤象二郎、江藤新平等の標榜したこの運動が高崎の地まですさまじい風を起こしていた。上州は養蚕の国、古くから農民の間に養蚕が盛んであり、また今年世界遺産候補となった官営富岡製糸工場もあって、その流通等の影響で農村ではこの運動を受け入れる意識が十分発達していたのである。

明治十三年、上州の民権運動を進める有志により政治結社「上毛有志会」が結成されたが、この本部がまたこの大信寺であった。明治十四年には板垣退助らが来高、この寺に観衆千余名を集めて大演説会をおこなっている。時に鬼城二十歳に近い頃、当然この観衆の中にいたに相違ない。

鬼城が残したものに詩文演説集「紅顔」があるが、板垣らの演説に触発された鬼城、村上荘太郎は時の政府に対する反抗の精神をこの頃から抱いていたことは間違いない。あたかも徳川忠長が反逆したように。

没落した武士の鬱然とした血と、明治の新しい文化を受け入れながら、しかしその新しい意識を封じ込めようとした国家に対する反抗、鬼城の若き日はこのような場所で形成されていったのである。

(つづく)



※『百句会報』第110号、第111号、第112号(2007年)より転載(タイトル・本文に若干の改稿)

3 コメント:

堀本 吟 さんのコメント...

お。凄い長文。でも、ゆったりと一人の俳人の足跡をたどっているので、読み疲れはありません。続きを楽しみにしています。

鬼城は、初学の時期に早くその名を覚えた冷え人なので、好い復習になります。

明治の文化興隆の機運は、様々な個性を育てたんですね。続きを楽しみにしています。

さんのコメント...

お邪魔します。桜です。村上鬼城は、明治生まれの祖母が好きだと言っている俳人なので何となく気になる作家でした。これも何となく、松山あたりの出身のような認識でしたが、初めて上州の血脈を継ぐ俳人ということを知り大変勉強になります。続きが楽しみです。また、臼田亜浪に関しても何も知らない体たらくですが、たったひとつだけ「河鹿啼く水打って風消えにけり」の句が戦慄として記憶に残っています。あんな句が一句詠めたら後は俳句を忘れて余生を浪費してもいいかもです。

weekly-haiku さんのコメント...

ご愛読ありがとうございます。

「上州の反骨 村上鬼城」第2回は第33号掲載予定です。