2007-11-11

「青の会」論

「青の会」論

飯田哲弘/生駒大祐/上野葉月/岡本飛び地/河本いずみ/小林鮎美/谷雄介/中田八十八/瑞穂/モル/山口優夢





脱・青の会宣言 飯田哲弘



「青の会」の発足はTHCの誕生と重なる。このことは谷雄介(以下、ユースケ氏)と僕が「学生俳句会、いや、俳句界に新しい人々を呼び込みたい」という願望を同じくして意気投合したことを意味する。

過去一年間に開催した「青の会」は公式なもので十回を数え、記録に残っていないものを含めると、毎月何らかの形で初心者の獲得に成功している。参加者数は平均して15名前後であろう。

僕が「俳句の門戸開放」を望んだのは自身の経験からである。全国的な俳句甲子園が存在しない時代に高校を卒業してしまった僕が、生まれて初めて俳句を作ったのは二度目の大学入学後、東大俳句会(本郷俳句会)の現場に図々しくも参加したときのことである。有馬朗人先生を始め、岸本尚毅さんや日原傳さんなどという大御所が参加下さるのであるが、当時はその価値を全く計り得ず、大の大人達と若々しい学生達が席を同じくして僅か17音の日本語にあーだこーだ意見を述べあうその光景がただ新鮮で、感動と同時に秘かなおかしみをさえ抱いたのだっけ。句会の最中にふと顔を上げると、参加者全員がなんと真剣そのものであることか。僕は思わず「凄い世界があるものだ」と嬉しくて可笑しくてニヤニヤしていたのを覚えている。

# 祖父母は結社「青山」で長年句作を楽しんでいるが、釣りや野菜・草花の育成は喜んで教えてくれた彼らも、俳句については「お前には向かない」と断言した上、俳句のハの字も教えてくれなかった。今年の夏に初めて句会で同席したのは良い思い出である。

ところが、その東大俳句会は初心者にとって、必ずしも馴染みやすいものではなかった。確かに皆さんはとても親切で、句会のシステムを知らない僕が戸惑っても訊けば何でも教えて下さった。が、残念ながら僕の俳句との最初の出会いは「新鮮味」という感動以外のものを残せなかったようで、他の部活・サークルにかまけ、最初の一年間は二度か三度しか参加せず、句帖も作らなければ歳時記も買わないという実に不真面目な参加者であった。

また、学生俳句“界”という存在もまた閉塞の感を否めなかった。大半のメンバーが俳句甲子園出身者という中で小さなコミュニティを形成し、初心者に対する開放性という意味では(つまり積極的に俳句学生人口を増やそうという意気込みという点では)僕とは相容れないものがあったのである。学生が少人数で固まって健康的であるわけがなく、僕はそこに思い切り風穴を空けてやりたいと考えていた。

そこへ、恐らくは同じように考えていたユースケ氏と出会う。新宿の某しゃぶしゃぶ食べ放題店であった。このときのエピソードはここにはとても書けぬ、THCの句会に参加した折に二次会にて訊いて欲しい。とにかく話は急に進み出し、あれよという間にTHCが誕生したのである。

俳句と短歌の区別が付かない人、句会が風流の体現であると空想する人、句会は自作を披露して皆で褒め合う場と思い込んでいる人、俳句は老人の専売特許だと思っている人、伊藤園「お~いお茶」の新俳句こそ俳句だと思っている人…とにかく百聞は一見に如かず、誰でも良いから僕らの句会の席に座らせてやれ!これがTHCのスタートであった。無論、THCは「青の会」だけではない。俳句鍛錬の場である「薔薇の会(旧・赤の会)」や「犬の会」の他、様々な吟行句会も行っている。しかしTHCを最もTHCたらしめるのは、やはり「青の会」であろう。

「青の会」は初心者対象の句会であるが、一口に初心者と言っても、句会に初心者が数%混じるのと半数以上を占めるのとではまるで意味が違うのだ。その運営方法は過去の十回においてかなりの試行錯誤を要した。




初心者(というよりこれから初心者になる人々)に、筆記用具持参とだけ伝えて集合を掛け、それでどうやって句会を成立させるのか。さらにはどうやって「句会・俳句が楽しいものである」ことを知って貰えるのか。初心者と上級者が同席するにあたって様々な問題点が思い当たる。

1.選句基準
2.出句数
3.兼題か席題か雑詠か
4.指導の有無

そして、そもそも俳句の作り方とは…???何しろ対象は今まで一句も作ったことがないような人々である。うまきいつこさんに「あなた、狂ったように句会してるわね」とまで言われた僕はときどき忘れそうになるが、俳句を始めてみたい人に必ずしも自発的に俳句が込み上げてくるものではないのである。

それに、初心者が経験者に遠慮するような場にもしたくない。これは上述の「学生俳句界の閉塞感」へと繋がりうる。初心者も経験者も等しく席を並べて楽しめる場を作るのでなければ意味がない。普段の句会に初心者を招くのとは明らかに異なる空間を作りたかったからだ。

考えれば考えるほど面倒くさい問題である。なるほど、諸先輩がたが初心者ばかりを集めて句会をしようとしなかった理由が何となく分かる。

これに対する現時点での僕らの答えはこうだ。
選句基準は自由!しかし、既存の“俳句らしい”体裁を取っていない(恐らく初心者の)作品でも面白みがあれば積極的に評価する、というのは経験者の皆さんにも暗黙のうちに伝わったようだ。さらに出句数は2若しくは3、全て当季席題。これで初心者にも敷居が低く、経験者にも一定の制約が掛かるはずだ。そして指導はしない。もっとも、後述する「5分で俳句を作る方法」を説明するときに、季重なりや「説明」への忌避、その他ごく基本的な約束はさらりと述べる。勿論、披講後には各自好きずきに論評して良いものとする…。大体以上である。

とはいえ、素人がいきなり席題で二句作れ!と言われても戸惑うばかりである。ここでユースケ氏は「5分で俳句を作る方法」を皆に紹介することを提案した。つまり「取り合わせ」に全面的に依存して、「季語」と「季語を含まない語句」を結び付けて17音、つまり俳句にしてしまおう、というかなり荒っぽい手法である。なるほど、確かにこれなら誰でも簡単に俳句が作れてしまう。初心者は大変感激する。この手法を全員に強制すれば経験者と初級者の差は極めて小さくなる。実際、過去の「青の会」の選句結果を見れば初心者がかなり健闘しており、これは普通の句会ではまず考えられないことである。句会は参加するからこそ楽しい。句会で自分の句に点が入ればなお楽しい。大量の初心者を句会の席に平等に着かせて楽しんで頂く、という「青の会」の設立の趣旨からみれば最善の策に見える。

かくして「青の会」は発進した。その成果は今回の「週刊俳句」に寄稿した人々(ほんの一部である)を見て頂ければよい。もちろん試行錯誤は今も続いている。例えば、12音技法と俗称される(?)ように

  『季語の5音+季語と無関係な12音』 或いは 『季語と無関係な12音+季語の5音』

という形式を取るにしても、「季語と無関係な12音」を作るのは席題である「季語の5音」を知らされる前なのか後なのか、という問題がある。「季語」は誰でも知っているようなものを選ぶべきか、俳句性の高い季語(おかしな言い方であるが)を交えても良いのか、なども検討の余地がある。例えば「青の会9」では、席題の「月見草」を知っている者が僅か2名のみという中で強行されたのだ。しかもそのときは、席題を選んだ人自身が月見草を知らないと言い切った。




先に結論を述べると、僕自身は上記のような句会に相当の疑念を抱いている。更にいえば、俳句に強い関心のある初心の友人がいたとしても、「青の会」へ勧誘することに躊躇するだろう。

今まで何十人も「青の会」へ勧誘しておいて何を勝手なこと言ってるんだ!と怒られるかも知れない。それは確かにその通りである。が、変わるべきところは変えるべきである。ここで正直な思いを告白しておく。

例えば先日行われた「青の会10」では『季語と無関係な12音』を季語の発表前に作るよう強制された。各自が思い付くままに12音のコトバを書き連ねていき、最後に季語である『鳥渡る』と『曼珠沙華』が発表され、各自の作成した12音のコトバの中からこれらの季語に最も適合すると思われるものを選び、短冊に清書して出句する、という形式であった。

この作句方法に疑問を抱くか抱かないかは、実は俳句観の根深い相違に基づくものであり、両者の溝は容易に塞がらないように思う。完成した17音がたとえ名句だとしても、僕には頭のどこかに妙なしこりが残るのである。

以前ブログで「谺して山ほととぎす欲しいまま 杉田久女」の作者がホトトギスの鳴き声を知らなかったら(それでも原理的には作句可能である!)僕はこの句を全く評価できない、ホトトギスの鳴き声を知らない人がどんなにこの句の良し悪しを論じても聞く耳を持てない、という内容のことを書いた。僕の「青の会」批判はここに通じる。

「青の会」の作句法は或る意味で、季語を軽視することで成立している。季語はそれ自体に詩情を湛えている。だからこそ俳句という僅か17音の短詩文学が大衆性を獲得し、これほどまでに発達し得た、というのは今さら僕が語るまでもない。むろん僕自身は無季俳句を否定するものではないし、実際いくつかの無季俳句を作ってもみたが、無季俳句の「無」は季語に依存しない意味での「無」であり、季語を無視・軽視した意味での「無」ではないと考えたい。歳時記至上主義・季題趣味へのアンチテーゼとしての無季俳句の試みは大変興味深いが、季語を知らない或いは知ろうとしない人間の作った“有”季俳句を読みたいとは少しも思わない。そして、僕の拙いながらの作品も、季語をよく知らない人にまで読んで貰いたいとは思わないのが本音である。

季語には詩情という威力があると書いたが、それ以外にも普遍性や日常性、印象の連想・連鎖性といった、読み手と書き手の主観距離を手っ取り早く短縮する作用がある。「別に俺は俳句で花鳥諷詠なんぞやりたくない」という人間にとっても、いや全ての日本語使用者にとっても季語は重宝するものなのだ。無季俳句というのは思うに、それら季語の効用を知り尽くした人間が敢えて挑戦すべきもので、僕などが作っても偶然の結果に左右されるだけのような気がしている。然るに、「青の会」における作句法は季語を含んだ“無”季俳句(無論この“無”は無視の無である)、それも「この季語とこの12音の出会いは偶然ではなく必然であった!」という感動を生み出せない、実に底の浅い「俳句」を量産しているだけような気さえする。

「青の会」形式の作句法・鑑賞法に何故僕は疑問を払拭し得ないのかを明らかにする上で、僕自身が何のために俳句を作り、読んでいるのかという根本に立ち返る必要がありそうだ。

日常の「…あ」という、密かな呟きこそが俳句の原点でなかろうかと僕は思う。ほんの些細な感性の揺らぎ、連想からこみ上げる筆舌に尽くし得ぬ心情の瞬き、それを他者に伝え得るのが俳句であり、俳句を堪らなく魅力的なものとしているのではなかろうか。ある俳句に感動するとすれば、それは「よくぞ言い表してくれた!」という敬意と、「ちくしょう!これは俺が表現したかったのに…」という悔しさ故である。だから俳句は作っても読んでも面白いし、しかし句会に参加しないとイマイチ面白くない。端的に言えば、結局、僕は俳句を通じて作者と共感したいのである。自作を通じて読者と共感したいのである。それも薄っぺらなものではない、何か言葉に出来ない深い感動を共有したいのだ。

従って、たとえ出来上がった17音が俳句作品として優れていても、深い根拠もなく(いわば偶然性に左右されたゲーム感覚で)構成したに過ぎない俳句なのだと思った途端、一気に力が抜けて白けてしまう。そのような俳句に感動するなんて誰がなんと言おうと僕には無理なのだ。

僕が冒頭で知人を誘うのに躊躇すると記したのは、「青の会」こそ俳句と句会のスタンダードだと思われることを恐れたからである。無論「青の会」はあくまで入り口、オリエンテーションであって、そこから先へ進むか否かは各人の意志を尊重すべきかも知れないが、多くの「青の会」参加者が結局は「青の会」にしか参加していないという事実に目を背けてはならない。

「青の会」は確かに一定の役割を果たしてきた。今後もTHCの看板句会として継続していくだろう。そして多くの初心者が句会というものを、恐らく日本中で最もフランクに、フレンドリーに体験していくだろう。その功績は(些か自画自賛的ではあるが)無視できない。

がしかし、設立メンバーとして敢えて言いたい。
もっと「薔薇の会」を楽しもうではないか。初心者を「青の会」に閉じ込めるな!と。




青に座す 生駒大祐

青の会というのは非常に不思議な場である。俳句経験者、未経験者が何処からともなく集まり、言われるままに文字数を合わせて単語を並べているうちに何時の間にやら俳句が出来上がっている。気が付けば句会が始まっており、思いつくままに喋ってみるともう帰り支度だ。教えられる作句方法は、人によっては俳句を皮肉っているようにしか見えないようなものだと言うのに、参加者達は(おそらく)全員大真面目である。

会の趣旨は「俳句初心者を俳句に引き込むこと」であると聞いた。この句会形式が本当に俳句未経験者を俳人化するための適解かどうかは正直分からない。「少なくとも適切なひとを適切なタイミングで惹きこむ程度の魅力を俳句は有している」と無邪気にも信じていたりもする。

しかし、「己にとって」という観点から見ると、この青の会という句会はなかなかどうして有意義な場である。「時には初心者の句を見るのも反省になってよい」などと偉そうに言うつもりはない。むしろ、時にはきちんと「俳句」が出来上がってしまうことが驚異であり脅威である。俳句をコミュニケーションと捉えると、「共感してくれる読み手に対して、詠み手は自分なりの実感を込めて提示する」という最低限の「モラル」に欠けるとも言える句会を楽しむ。偶然の取り合わせに共感が集まり、情景が生まれる。それは俳句という文芸の未完成故か大円熟故か。清記用紙上に完成された俳句は無いが、句会の楽しみのエッセンスは確かに青の会に宿されている。

座の文学に何座りで臨もう。選択肢が多いと脚も痺れまい。




青の会断想 上野葉月

「青の会」というのは名前がいい。THCでは珍しい。
なんとなく風が吹くとさわやかな音がしそうではないか。「青の会」。たしか前にも似たようなことをどこかに書いた憶えがある。

「薔薇の会」というと完全に誤解する人がいるし(誤解なのだろうか?)。「犬の会」と聞いて尻尾を振る人もある(人か?)。

「ダムの会」「蕎麦の会」なんかはそのまんまだ。俳味があるという言い逃れは可能だが(俳味というのは本当に便利な言葉である)。
「の・ぼーるの会」というのはもしかしたら傑作タイトルのような気もする(たぶん気のせいであろう)。たしかどこかの美女俳人が子規のあの有名な写真を見ると「のぼーる!」といいながら頭を撫ぜてみたくなるというようなことを書いていたような気がする(お前は美女俳人の挙動と俳句にしか興味がないだろ)。

トーキョーハイクライターズクラブをトーキョーHライターズクラブと略して呼ぶのは止めにしていただきたい。略すなら徹底的に略してTHC。間違ってもトーハイ倶楽部なんて中途半端なのは勘弁していただきたい。

「青の会」。少なくとも名前は良い。



キャミソールと青き天国 岡本飛び地

青の会との出会いは今年の4月に遡るが話はさらに前の年の5月に遡る。

某男子寮のホワイトボードにある日、寮句会開催のお知らせが書かれた。文責・谷雄介。ただならぬ雰囲気でホワイトボードが薄緑に染まらんばかりであった。念のために一句用意してから句会当日を迎えた。季語はキャミソールだった。

飛「1句用意してきたんだけど。」
谷「いや、いらないっすよ。」

衝撃であった。句会なのに俳句がいらないなんて。胸に秘めたキャミソール句はどうすれば成仏できるのであろうか。私のキャミソールを返してくれ!そんな魂の叫びをよそに谷の口から「5分で俳句ができる魔法のテクニック」が語られた。そしてこの方法で各々が句を詠んだ。俳句、意外と面白い。そう感じ、その後も寮句会に参加した。ちなみに皆勤。

いつしか寮句会の頻度が落ち、谷に催促したところ誘われたのが青の会だった。谷は皆勤の私を差し置いて別のコミュニティでエンジョイしていたのか。ささやかな憤りは青の会会場で多大なる感謝へと変わった。形式が全く同じはずの寮句会と青の会。この2者の最大の違いは男女比にある。女性が著しく少ない大学に通う私にとっては青き天国であった。ありがとう、谷。後に大学の友人から青の会を「出会い系俳句」と呼ばれるようになるがそれはまた別の話である。

寮句会と青の会の違いはもう一つある。当然だが好みが違う。寮句会では良くも悪くも男子学生らしい句が多いなどといった傾向の違いはあるが、それとはまた別に。例えば、どちらかというと寮句会では離れ気味の句が、青の会ではつき気味の句が好まれる。最近の青の会で常連ばかりが高得点なのを憂いているが、これもある程度は好みのせいなのだろう。それに、点云々より初めての人に楽しんでいただけたかどうかの方が大事。俳句、意外と面白い、って。そして、そう思っていただけるためのお手伝いができたなら幸い。

でもまた寮句会やりたいな。




一初心者の曰く 河本いずみ

俳句に出会える人というのは、特に若者の中では、今の日本においてそう多くない。それは俳句の危機だといえる。ましてや少子化の進むこの日本では、このまま順当にいけば、俳句はたやすく滅んでしまうだろう。そこで俳句の衰退を食い止めようと(?)、せっせと人々と俳句を出会わせているのが「青の会」だ。青の会の行っていることは、ゆえにとても偉大である。俳句との出会いの場は、昨今の若者にとってはとにかく貴重なのだ。

青の会の強さは、構えさせることなく、きわめて自然に、俳句と句会の楽しさの一面を初心者に体感させてしまうところにある。もちろん、それは俳句の世界のほんの一片の味わいに過ぎないのではあろうが、他にここまで大きな変化をある程度の人数に短期間で提供できる方法を、私は知らない。

俳句に縁なく生きてきた人は、俳句を作れと言われても、どうすればよいのか見当もつかないものだ。あの「お手上げ感」は、俳句の世界に一度漬かってしまった人にはもう思い出せないのかもしれない。そうしたところへ、青の会は明るい顔をして、やさしい言葉でもって、俳句に触れる方法を与えてくれる。すると、俳句は突如として、触るべきかたちのある遊具として私の前に姿を現すのだ。ただし、そこにおいて俳句は遊具以上のものではない。それが誰かの人生にとっての深みや意味をもう少しばかり有するまでには、詠み手にあと幾らかの経験と勉強とが求められるからだ。

青の会が最も批判を受けやすいのは、その点ではないだろうか。だが、青の会の限界は、なにも青の会に固有のものではない。人と何かを出会わせようとするとき、他人が用意できるのは単にきっかけだけなのだ。

青の会が与えてくれたその貴重なきっかけが、私においてもいつか花開いたらいいと、一初心者として願っている。今よりももっと、俳句が私の世界をうたい、また私の世界を押し広げるのは、いつの日になるだろうか。




騙されて青の会 小林鮎美

去年の11月下旬、学生句会でお世話になっている飯田哲弘さんからメールがあった。

件名:青の会

「明日の夕方に席題句会やるので来ませんか?」

会場は新宿とのこと。学園祭の最中で若干慌ただしかったが、大学から近かったので行くことにした。

新宿駅に着くと10人弱が集まっていた。学生句会の知り合いと初対面の人が半々ぐらいの割合。会場のルノアールにつくとレジュメを渡された。1ページ目にこう書いてあった。

「主催:トーキョーハイクライターズクラブ(半角で記載!)」

なんか胡散臭い・・・・・・・。トーキョーって。ハイクライターズって。全部半角カタカナって。

そこで青の会の説明を受けた。初心者向けの句会であること。席題句会で、5文字の季語と、それに全く関係ない12文字の言葉の組み合わせで俳句を作ること。簡単なやり方で俳句っぽいものが作れることに驚いた。このやり方については色々と問題もあるけれど、俳句を作ったことがない人に、句会を経験させるためには、有効なシステムだと思う。

句会のことを誤解している人は多い。というか俳句をやらない人は句会がどういうものか想像もついていないと思う。私が「これから句会なんだ」と言ったら、「え、句会って和服着ていかなくていいの?」と訊いた友人がいる。「句会って自分が作った句を詠み上げるんじゃないんですか?」と訊いてきた後輩がいる。私も最初に句会に行ったときはわからないことばかりで不安だった。すぐに慣れたけど。

句会は楽しい。だからもっとたくさんの人に、気軽に句会に来て欲しい。

初めて行った青の会は単純に楽しいところだった。ひとつの俳句への入り口として、青の会はそれだけでいいじゃないかと思う。入り口から先に進むのは、各人の自由だろう。そしてそういった道案内的役割として、トーキョーハイクライターズクラブは実にしっくりくる胡散臭さであると思っている。




アウェイ感について 谷雄介

先日の青の会に参加してくれた某嬢、とても楽しんでくれたよう。次回もぜひ参加したいとのこと。その日の夜に送られてきたメールの中に「アウェイ感がなくて、すごく居心地のいい句会でした」という言葉があって、少しずつ青の会もいい方向に向かっているのかなと感じた。

彼女の言うところの「アウェイ感」を排除することは、青の会の大きな目標のひとつだと思っている。もともと俳句をやっている僕でさえ、ほとんど知っている人のいない句会に参加するということは、大きなアウェイ感を伴う。ましてや、俳句を作った経験がなくていきなり句会に参加だなんて、そのアウェイ感、そして、そこから生じる不安や緊張はいかほどのものだろう。
 
この不安や緊張への想像力が決定的に重要だ。そして、この想像力が、青の会であったり、いわゆる「十二音技法」の精神的支柱だと思っている。俳句未経験者に対する「どんな俳句でもいいから作ってみなよ!」という一見ざっくばらんな提案が、どれほどの不安や緊張を彼らに強いているか。わからない人には、おそらく、一生わからない。

そういう不安や緊張を経験することも大事なんだよ、と反論する向きもあるかもしれない。しかしながら、こういった場面で、せっかく足を運んでもらった俳句未経験者に不必要な不安や緊張を強いるのは、僕にはナンセンスとしか思えない。

さて、俳句の世界にこういった不安や緊張への対策が講じられているかと考えてみると、僕の知っている限り、それは皆無だ。一部の例外を除いて、俳句をやるなんていう人間は、洒落っ気がなくて、精神構造も甚だしく子供である場合が多い。現状を憂うのが趣味で、口からは立派な言葉がたくさん並べられるのだけれど、自分では決して何もしない。そんな俳句の人たち、人間としては嫌いではないのだけれど、俳句の未来には無駄だ。

「青の会」という名称だけを聞くと、若々しいイメージだったり、清新なイメージが先行するのだろうか。しかし、その為しているところを鑑みると、実に「大人のはからい」が要求される会だと言える。みんな同じ土俵で真剣勝負をするわけで、ベテランも初心者も関係ない。その態度において、アウェイ感は消失する。目の前の1句がすべて。それに対する参加者相互の評価がすべて。それ以上を言うだなんて、それは饒舌すぎるというもの。

その上で、その真剣勝負を楽しめなきゃ「大人」とは言えない。そこのところは、何度強調しても強調しすぎるということはない。あと、句会後のおいしいお酒ね。



青の会考 中田八十八

「パパさん(=八十八)、このデザートを喩えるとすると?」
「うーん...日陰に残っていた雪も融けて、最後に残された白鳥の一団が遂に飛び立とうとする時のような...春の喜びと同時に、去っていく冬へのそこはかとない寂寥感だね!」
「何ですかそれ(笑)。このアイスのところが雪ですか!」

THCにも参加しているげんじょう君とは学生時代からの友人で、よくこんなくだらない言葉遊びをやっていた。居酒屋でそんな話をしていると、周りの友人たちもけらけら笑ってくれたものだ。

言葉やモノに対する愛着や、それを表現する喜びは、少なからず誰でも持っているものだろう。俳句が、そのような欲求を効率よく満たしてくれるものの一つであることは疑いようがないが、残念ながらその認識はあまり浸透していない。

あるいは俳句に触れることで、自分の中に思わぬ広がりがあったと知る人も多いかもしれない。青の会は、そのような人の為の「発見」の場である。

青の会ではいわゆる十二音技法を用いて句会を行うが、これは一種の「方便」であると言えよう。俳句は、初心者であっても「たまたま面白いことが起きる」ことがあるわけだが(勿論はじめから初心者の域を越えている人もいるだろうが)、十二音技法を使うとこの「たまたま」がうんと起きやすくなる。仮にたまたまだったとしても、それが自分が生み出した作品であることに変わりはなく、そのような経験を通して、参加者が今まで気づかなかった、自分の内にある「俳句的世界」を発見することができたとすれば、それは大きいことだ。




青の会へ愛をこめて! 瑞穂

合コンではないけれど、人が足りないから来て!と友人に誘われて人生で初めての句会に参加することとなった。清記用紙やら短冊やらトメやらいただきましたやらの飛び交う中、一体何が起きているのか右も左もわからないまま句会は終わり、大学そばにある某レストランで2次会が行われた。そこに、細身(当時)に眼鏡の知的な青年が現れた。谷雄介氏である。

その谷氏から「青の会」の誘いがきたのはしばらくたってからのことだった。

なんでも「5分で作れる俳句講座」をやるから是非来て欲しいとのこと。

私は躊躇した。5分で俳句がつくれるわけがないし、作れたところで「575にはなっていますが」という程度のものだろう、と思っていたのだ。 1度くらいなら…という気持ちで出かけてみたものの、いざ行ってみれば待ち合わせ場所にいた人たちはみな揃って知的な顔を連ねており、私みたいな不勉強な人間がいていいものなのかと疑問に感じながら句会の場となる喫茶店へ向かうことになった。その時の季語は二つ、「卵酒」と「日記買う」。日記買う、だなんて動詞まで季語なんだ、と感心しながらTHC流「初心者でも5分で作れる!」俳句の技法の説明を受ける。これなら私にもできるかも知れない。

しかし、季語を説明しない12文字と言われてもそれで俳句になるのかわからない。その青の会初体験から早1年がたとうとしているが、実は今でもそれが本当に俳句として成り立つのか、いまいちよくわからない。 真剣にやろうとすればやるほど、よくわからなくなってきてしまうのかも知れない。

ちなみにその時に出した句は「卵酒ばきりと音のする背中」。

このまま進歩がないまま続けていたら俳句にも俳人の皆様にも失礼なのではないかと感じることもあるけれど、それでも初心者の私が自分なりの距離で「俳句」を楽しいと思えている、 これはTHCだからこそ触れることのできた俳句の世界なのだと思う。




青の会に関する短いレポート モル

青の会に出席するようになり三ヶ月ほどたったころだろうか。青の会主催のうちの一人、タニユースケから一冊の本を渡された。小林恭二著「俳句という遊び」。これは小林恭二が当代最高の技量を有する俳人8人を呼び、流派を超えた最高の句会をプロデュースするという内容の句会録である。小林恭二が目指した句会、それは”大人の遊び”としての句会である。参加者全員が同じ立場となる句会。コミュニケーションとしての句会。俳句を楽しむための句会。何かを彷彿させはしないか。そう、青の会だ。青の会主催であるタニユースケ、飯田哲弘両氏が青の会の目的を我々メンバーの前で明らかにしたことはない。しかし、この独自のルールと多様な参加者をほこる青の会は、単純に俳句仲間を増やしたいという目的だけでなく、”遊び”としての俳句を楽しみたい、”ゲーム”としての句会を楽しみたいという欲求がその根底にあるように思えるのだ。

では青の会の楽しみとは何なのか。ご存知のとおり青の会は俳句初心者と経験者が対等に句会を楽しもうという会だ。私も青の会で始めて俳句を作り、句会というものにふれた一人である。この会に先生と呼ばれる人はいない。句会を始める前に「五分で出来る!かんたん俳句の作り方講座」で少しだけ俳句にふれ、あとはとにかく作ってみよう!と少し長めに時間をとって句作を行う。そして句会。注目すべきは「俳句の作り方講座」以降は作句に関しても披講に関しても一切指導をしないという点だ。それぞれの中で俳句は徐々に形作られていく。青の会はその一歩。私にとってはそうだった。さて、もう一つ注目すべき点に句会で発表された句が直ちにHP上に掲載されることをあげたい。つまり青の会において句会は活字発表のために俳句を品定めする場にはなりえない。句会が真剣に俳句を楽しむ”ゲーム”であり”勝負”の場となるというわけだ。思い出してほしい。初心者だったころこそ、句会が勝負の場ではなかっただろうか。あの句会が始まるまでの緊張感。どれだけ真剣な気持ちで一回一回の句会に臨んだか。青の会の内容を聞いたときに、青の会とは初心者が句会を楽しむための会だと思われたかもしれない。しかし私は、青の会は経験者が句会を句会として真剣に楽しむことのできる会だとも思うのだ。

前述のとおり、これまでTHCは青の会の活動目的をおそらく故意にあやふやなものとしてきた。メンバーの間でも腫れ物にさわるようにそうした内容が話題にのぼることを避け、私たちはいつも句会の連絡が来れば集まり、そして散っていった。ところがある出来事を境に一変する。遠藤治氏の記事である。ブログ上で、mixi上で、水があふれ出るようにそれぞれが思う青の会の像が語られた。みな若く、未熟で、真剣なのだ。

この青の会を一年以上続けてきたトーキョーハイクライターズクラブが、若者ばかりの集まりでる故の未熟さや不安定さを常に抱えていることは否めない。しかし私たちは初心者も経験者も関係なくそれぞれに俳句を真剣に楽しんできた。この俳句馬鹿な若者どもをこれからも暖かく見守っていただければ幸いである。




青の会とホトトギス 山口優夢

僕が青の会に参加したのは、これまで十回あったうちの二回である。僕自身と青の会との距離はやや遠いかもしれない。あるいは、それは回数ではなく態度の問題であったかもしれないが、青の会に対して、僕はいわば傍観者であった。あえてその立場から書きたい。

この会の画期的なところは、「俳句に初めて触れる人のための句会」というコンセプトであろう。これは僕には驚きだった。今まではなかっただろうし、あっても成功した例はないだろう(たぶん)。

十二音技法そのものは、何も青の会の独創ではない。僕の高校生時分にもそれはあった。青の会の独創は、この技法を初心者が経験者と対等に句会で渡り合うための技術として活用した点にある。つまり、そこで魅力の一つとして追求されていたのが、俳句というよりも句会の楽しみであった。これは、分かりやすい魅力だった。

いつの世も、分かりやすさは間口を広げるのに重要だ。子規は写生を世に喧伝し、それが大結社ホトトギスの礎となった。ホトトギスが写生なら、青の会は十二音技法か。

しかし、この二者の決定的な違いは、青の会ではその技法が絶対のものでない、つまり、十二音技法だけが俳句の作り方でないことは、誰もが心得ていた点だろう。

多くの人に俳句への興味を持たせるという青の会の目標は、ひとまずは成功を見た。それは、この会をきっかけに俳句を始めた人が何人もいることを見ても明らかだ。さあ、ここからまた問い直さなければならぬ。この先に何があるのか?俳句に興味を持った人を沢山作って何がしたいのか?あるいはそれが最終目標なのか?その答えに応じて、青の会は(あるいは、THCは、だろうか)十二音技法とは異なる何かを見つけなければならないはずだ。

昔の結社とは異なり、一つの俳句の作り方が絶対の教義に成り得ない、いわば戦略的に技法を採用する俳句集団がこの先どうなるのか。これはちょっとした見物ではなかろうか?



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