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2026-07-19

もっと時間のかかる俳句 井口可奈 工藤吹  大塚凱 生駒大祐

もっと時間のかかる俳句


井口可奈
工藤 吹
大塚 凱
生駒大祐

(『ねじまわし』第10号より転載)

時間のかかる俳句≫読む 

 

 一

凱 前号に続いてですが、変わって今回の出題者は大塚です。よろしくお願いします。

生 あとに「一枝」とか、「一匹」とか名詞がつく形もあるし、「一二片」とか「一二倍」みたいに続くこともあり得るから、まだわかんないですね。あと「一緒」とか熟語的につく場合もあるから難しいな。そういう計算をしてもたぶん当たらないけど。

凱 じゃあ次行きますか。

 一瞬

井口可奈(以下、可) 一瞬か。

生 次、助詞が来ると思うんですよね。「一瞬間」とかにはならないから、一瞬に、〈一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子〉とかもありますけど。「一瞬に」なのか「一瞬の」とか「一瞬で」とか。

工藤吹(以下、吹) うん。上がしっかり五音だなって感じ。

生 うん。そうですね、たしかに。あんまり、字余りしてなさそう。

 一瞬よ

生 おー、「よ」か。切れがきたね。

吹 「一瞬よ」って入りとして壮大な気がします。

可 あ、でも、「一瞬より」とかって可能性もあります?

生 ありますけど、ちょっとオッズは高めかな?

吹 「一瞬より」、万馬券になるぐらいの感じがする。

生 最後は、倒置で来ると思うんで。最後の文字は「〜は」とか「〜も」とか。でも、「一瞬より」もなくはないな。

可 今の段階だとありえる。

凱 あります。ありえる。生駒さんの言ったことが「一瞬よ」だったら下五の最終音が「〜も」とか「〜は」かっていうのは、すごく良いフォーメーションの買い目だなと。

吹 ここで切れてるとしたら、「一瞬」をちゃんと「一瞬」として楽しもうっていう気概を感じられるので、意外と手堅いやり方の人なのかなって感じがします。

生 そうですね。あんまり、なんだろう、本当に印象だけですけど、前衛の人はあんまりこういうやり方をしない気がする。伝統系の結社の書き手の可能性も全然ある。次に「り」が来るか、別の全然わからん名詞とか語頭とかが来るかによって、結構句の雰囲気変わるな、これが。

 一瞬よ紀

吹 あはは。

生 「一瞬よ」が上五というのが確定でいいでしょう。

可 うん、いいと思う。紀元前の紀ですね。

生 そうですね。でも紀元前の紀とかだと、上五で時間感覚の話をしてるんで、自然とつながりができるのでけっこう確率高いんじゃないですかね。

可 時空の話ですもんね。

吹 壮大になっていきそうな。

凱 遥かなるものも一瞬に過ぎないみたいな方向に行き得ますよね。

吹 「紀」の一字だけで遥かなる感じはします。

可 うん、もう遥かなる感じする。

生 俳句でよくあるのがなんか、明確な言葉は浮かばないですけど、「一瞬よ紀◯◯も◯◯も」って言って、で下の「◯◯も」に「初秋も」とかって季語を持ってくる、あるいは本当に瞬間を感じさせるような季語を持ってきておいて、上の方は壮大なことを言って、それはどっちも一瞬だよって、僕だったらそういう作り方しちゃいそうな気がしちゃいますね。でも違うかな、なんか「一瞬よ」って一言だけで、あんまり想像つかない。

 一瞬よ紀貫

可 あー! 「紀貫之」か。

吹 人名だとしたらやっぱりすごく長い時間の話になりそうな気がする。

生 そうっすね。そうなると話変わってくるな、ちょっと(笑)

吹 えー、まってー。 ちょっと。 難しい……(笑)

凱 いま、「紀貫之」だと長くなるって言ってたところの意図を、もうちょっと教えてもらってもいいですか。

吹 あ、えっと、昔の人だから「紀元」みたいな語があることとあんまり効果が変わんないんじゃない?と。この時間の長さを想起させる方向に行くのかなと思いました。

凱 まあ、古人ですもんね。

可 うーん。ここに、例えば、「紀貫之」が入ってきたとして、割と文字数、「紀貫之」に持っていかれません?

吹 確かに6文字あれば、とはいえ助詞でなんとか。

生 助詞しかないですよ、絶対ね。その場合、なんかこの雰囲気的に、無季ってことはなさそうな気がするから、その場合「紀貫之の◯◯は」とか「◯◯も」かな。ちょっとこれ、次が「之」だった時点で、季語を当てに行きたいな。

 一瞬よ紀貫之

吹 確定演出だ。

生 まあ、「の」だろうな。

可 そう、私も思ったもん。

凱 皆さんどうですか? 「の」の単勝買いって感じですか?

吹 「の」の単勝。応援馬券でもう千円くらい。いや、でもここで季語を予想して、馬単を狙いたい。

生 ここで考えたい、僕は。結構考えてる。紀貫之……「も」はないよ。「紀貫之」が「一瞬」って言わないから、「の」なんだよ。紀貫之の、なんちゃらは、とか、なんちゃらも、なんだよな。

吹 たぶん、「土佐日記」の人だから、なんか、季語はモノじゃなくて季節に重心が寄りそう……。

生 そう……ですね。

可 季語で終わるパターンなんですかね。紀貫之の、なんとかの夏みたいな。わかんないけど、それもありそう。

生 あー、ありそう。

可 季節って予想できます?

凱 合っていそうかは別にして、予想はご自由に(笑)

可 予想はできるか。絞れなくていいなら。

吹 ……「梅」じゃないですか?(笑)

可 あーでも、「梅」って言われたらなんかそれ……。

吹 花の和歌が有名だからスタンダードに行くのかなという、そういう予想です。

 一瞬よ紀貫之も

可 あー、そう。え、生駒さんの読み、いいのかもしれない、構造的に。「◯◯も」?

生 「◯◯も◯◯も」。でも「紀貫之」が「一瞬」ってわかんないな。なんだろう、あー、でも、季語の付け方次第でわかるのかもしれない。

吹 「の」じゃない。ハズレ馬券だ(笑)……思った方向性じゃなさそうですね。

生 すごい、俳句的に言えば多分「紀貫之も◯◯も」なんですけど、なんだろう、別にそれ以外も当然あり得る、全然あり得るから……「一瞬よ紀貫之も言っている」とかそういう、わけわからんことも。

可 わかんないけど、わかんないけどそういう……ね(笑)

生 「も」を並列の「も」じゃなく、「紀貫之も見た梅の」とかなんか、そういう系もあり得るかな。いやむしろ、なんかそっちに行くのかな。「紀貫之も◯◯も」とかしちゃうと、「紀貫之」が「一瞬」って、ちょっとよくわかんないから。時間を意味する季語を持ってきつつ……。

吹 逆に「風」とか? 「一瞬よ」は機能する気がする。

凱 大きなものというか、実体があるというよりは、存在はするけど具体物ではないようなものが来るようなイメージでいます?

吹 今はそんな感じもあるなと思いつつ、「紀貫之も」だと、「紀貫之」が時間の長さ的な部分を担保するんじゃないかと思って。風とか物とか、「はっきりとした一日」みたいな尺で、もうちょっと短めの何かが来そうだと。

可 「紀貫之」でバキッと固有名詞が来てるから、もう一個名詞みたいなのが来るなら、ちょっと広いところの方が私も面白いかなと思いますけど。

凱 井口さん的には仲良くできそうですか? 今のところ、どうですか。(注:前号p40参照)

可 いや、「紀貫之」とか言う人はダメかな(笑)

生 マウントを取られる感じですか?(笑)

可 はいはい、ってなっちゃうかもな。

 一瞬よ紀貫之もら

一同 ら!?

生 でも紀貫之は紀貫之だから、「ら」で始まる……なんだろうな。要は、「も」で切れて五七が切れてるのは前提だと思うんで。にしても、「ら」? めっちゃおもろいじゃん、これ。

可 ひらがなの「ら」ですか?

凱 ひらがなの「ら」です。

吹 ひらがなの「ら」なんだ。 「落雷」とかならわかるけど、ひらがななんだよなと思うと……。

可 そうそうそう。そうなんだよね。

生 なんだろう、これはさすがにここまで来たらちょっと、探りたいな。…………ひらがな? 本当?

可 そこ一回疑いません? え、ひらがな?(笑)ってなる。

吹 むずい。

生 だんだん、ゲシュタルト崩壊してくるね。

可 あ、分かる、めっちゃ分かります。

生 ラ、ライオン……は季語じゃなかった。なんだ、難しい。

可 あー、季語が入ってくるとしたら……「ら」?

吹 らっきょう?

生 まあ、らっきょうは、ギリ、季語。

吹 らっきょうって季語なんですか?

可 紀貫之とらっきょうを並立するのめっちゃ面白くないですか(笑)

生 ある意味いいかもしれないけど(笑)

吹 なんかもう、ひらがなの「ら」っていうのが念頭に、あると……。

生 平仮名はそうですよね。花が落ちる「落花」は季語だけど、ひらがなによって書かれるのはほぼないから、たぶん違うし。むずいな、ひらがなは意外だな。……え、むずい。急にわかんない。

可 めっちゃむずい。

 一瞬よ紀貫之もらつ

生 あ、「らつきよう」ありうるな。

可 「もらつた」とか? 紀貫之をもらうの?

吹 (笑)

可 どうしよう。

吹 貫之をもらうってどうするんだ……。もらえたら嬉しい気がしてきた。

生 でも「一瞬よ」で絶対下五に落ちる句になるはずだから、仮に「らつきよう」だとしてもわけわからんから、なんか。

吹 わかんないな。本当に難しい。

生 え、マジわからん。

吹 「一瞬」がちょっと跳ねてる音だから、「つ」もちっちゃい「っ」だと思うんですけどね。

可 なるほど。

生 そもそも「らつ」で始まる言葉って季語とか抜いておいても、あんまないですよ。「辣腕を振う」の辣腕くらい。

吹 確かに。

可 助詞の省略? 「も」の前に、「紀貫之から」の「から」が省略で、「からもらった」みたいな意味? もうわかんない!

生 「ら」で急にわからなくなったな。なんかでも、紀貫之自身の生涯が「一瞬」っていう可能性もあるし、紀貫之の歌なり日記文学なりを一瞬で読んだよっていうことの可能性もあるから、なんかそういう「らつ」の次第で、どういう読みもあるようなって感じですかね。「らつ」はマジでわかんない。

可 そう、面白い読みがやっぱり収束しないですね、まだまだ全然。

 一瞬よ紀貫之もらつき

吹 来た! よしよしよし!

凱 完全に最後の直線に入ったときの声出てましたね(笑)

吹 来ましたね。

可 「らつきよう」の可能性がかなり出てきているぞ。

吹 いや、でもここから「ラッキー」とか言われてすべてが終わってしまう可能性もある。絶対仲良くなりたくない。

可 マジ「ラッキー」やだな。「ラッキー」は割と嫌だな。

 一瞬よ紀貫之もらつきよ

一同 あー。

可 本当そうじゃん。

生 すごいな。

吹 意味がまだ全然わからない……。

可 え、めっちゃ面白いけど、意味がわからない(笑)

吹 旬とか時期の話なんですかね。

生 そうなんですかね。そういうことなんでしょうね。あとはなんか、美味しいらっきょうすぎて、一瞬で食べたよ、みたいな。

可 酢漬けにするから、持つ気がするけどな。

凱 持つとは思うんですけどね。あんなに作ったのに、食べるのは一瞬で……という、らっきょう自体はそういうものではあるなとは思う。そこから紀貫之に最後、逆にかかっていく感じなのかなと思って読んでましたけど。

吹 誰なんだ、これは。

生 確かに誰だろうね。これ作者名も一文字ずつ開く感じですか。

凱 ですね。では、一気に最後まで開けましょう。

 一瞬よ紀貫之もらつきようも

凱 生駒さんはどこらへんの書き手だと思いますか?

生 えー……あ、でもね、意味は捉えにくいが、なんだろう、結構伝統寄りというか、俳人協会系の結社の人だと思っていて、その根拠は、結局……さっき凱くんが言ってくれた読みだと、らっきょうを寿いでいるというのかな、すぐ無くなるぐらい良かったよっていうのを言ってるので、そういうふうな、なんか、季語を大切にするやり方は俳人協会系だから……で、かつ、あんま「澤」っぽくないんだよな。「澤」っぽくないし、いろいろ無理矢理さはあるんだけど、なんか。鷹っぽい。と思ってます。小川軽舟さん。鷹っぽい。と僕は読んでます。でも、人まではまだ分かんないです。

凱 じゃあ一文字目開けます。

 一瞬よ紀貫之もらつきようも 永

生 「永」って誰だっけ。

凱 「鷹」で「永」って言ったらもう、永島靖子さんですけど(笑)

生 あ、そっか。じゃ、合ってんじゃん。

凱 いや、永島さんではないです(笑)言っちゃいますけど、永島さんじゃないです。

可 じゃないんだ(笑)

生 あ、永末恵子さん?

凱 あ、正解です。そう。

 一瞬よ紀貫之もらつきようも 永末恵子

生 じゃあ僕の読みは結構外れてて、そういう系か。ちょっと、なんだろう、詩的飛躍みたいな切り口が多分、本筋の意味なんだろう。

可 「らつきよう」当てたのすごくないですか?

生 いや、すごい。

吹 最近はじめた競馬が役に立っている。

凱 工藤さんの推理は終始、鋭いなと思いました。

生 めっちゃ鋭いっすよね。

吹 俳句の知識が、初めて読んだ歳時記とかに依存している感じがします。かもしれないで適当なことが言えてしまう。

凱 まあ、歳時記って狭いですからね(笑)

可 うんうんうん。

生 「◯◯も◯◯も」の構造を当てたことは想像の範囲だったんだけど、その時のモードがなんか、もうちょっと理がつく感じの句を想像してたから、作者名出て初めてちょっと「紀貫之」のニュアンスがわかったというか。必ずしもめちゃくちゃ真面目に「人生が」とか言わなくて、とらえなくていいんだっていうのがやっぱり作者の名前つくとちょっとわかるな。「紀貫之」の想起させる、象徴する何かが一瞬で、「らつきよう」の想起させる何かが一瞬で、それぐらいの理解でいいんだっていうのは、なんか名前ついてわかったという感じがしてます。

凱 生駒さんのは、展開予想は合ってたけど、買う馬間違えたみたいな感じでしたね(笑)

生 そうです、そうです。

吹 全部読んでもまだそこまで飛躍か分からないのが個人的にはあって、とはいえやっぱり俳句って四季を書き出す詩型だから、そこの制限の影響が一番ある気がします。「旬よ」って言われたら「何着てもおかしくないぜ」みたいな気持ちに、全部納得できちゃいそうな気が。その人のやってる連想ゲームが分かる気がする。

凱 納得します。井口さん的にはどうですか。

可 句の全体の意味じゃなくて恐縮なんですけど、「一瞬よ」の「よ」って詠嘆じゃないですか。で、女性の喋る時の口調みたいな「よ」ってあるじゃないですか。あれと詠嘆の「よ」が似てるっていうか、同じような使われ方をするっていうのが最近ちょっと面白いなと思ってて。この「一瞬よ」は多分詠嘆だけど、これも難しい話をしてしまうと、話し言葉の「よ」にもとれなくはないっていうか、その感じってすごい、なんでしょう、面白いと同時に……ちょっと思ってます、最近。

凱 この句の場合には、詠嘆としての「よ」よりも、話し言葉的なモダリティ、ちょっと女性的なモダリティの「よ」で読んだ方が面白いのではないかと思っているんですよね。それは、「土佐日記」が女性の仮託で書かれたという事実が響いてくる読みとしても。

可 なんか、最初は絶対詠嘆だろうって思ったんですけど、開いていく前は。全部開いていくと、なんかどっちかっていうと、喋り言葉っぽいなと思ったんですよ。で、あんまりジェンダーの話したくない、作者も女性の方なんで、そういう語尾の「よ」みたいな感じなのかなって思って、ふんふんと思ってたんですけど、なんで詠嘆の言葉と一緒なんだって思って、急に。……面白いけど、言われたらなんで納得してるんだろう、私。なんとなく納得させられるのはなんでなんだろう。なんかその並列、ちょっと面長な感じ? わかんない(笑)すごい適当なこと言ってる気がします、今。でもちょっとやっぱり面白い。あんまり「紀貫之」と「らつきよう」のつながりを考えていくと、だんだん難しいところに行くのかもしれないけど、なんとなく遠くないような気がするのが面白いかもしれないです。全く近くはない、すごい近いわけじゃないけど、なんか微妙に、ある。そのくらいの即き方はいいなと。なんとなく白いから?

吹 わかる。

凱 でもなんかそういうのもある気がするんですよね。

可 なんとなくそういう微妙な即き方にちょうどいいかもしれない。意外と嫌じゃないかも。

凱 最初「紀貫之」でちょっと嫌がってましたもんね(笑)

可 あの時は「マジか」と思ったけど、「らつきよう」をここに持ってくる人はそんなに嫌いじゃないですね。だから一句読み解く中で好きになったり嫌いになったりする。面白いですね。

吹 それで言うと、栗木京子の〈観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生〉という短歌も割と「一瞬よ」に近い気がするんですけど、あっちはかなり嫌なんですよ、個人的に……。

可 そうなんだ!

吹 重くされたな、という気持ちになる感じで。ちょっと似てるなって思うけど「紀貫之」と「らつきよう」の距離感が個人的には好きかもしれない。こっちのほうがやっぱりなんていうか軽いというか。切実な問題とせずとも読める。

凱 「らつきよう」の歯応えなのかな、最後に立ってくるのは。

生 なんかあと音の感じも影響あると思うんですよね。キノツラユキだから、キで挟まれていて、キって結構音として短めというかカラッとしてる。音から「一瞬」っていうのはちょっと説得力があるし。

可 あんまりア段の音ないですよね。

生 そうですね。そうですね。ラぐらい。

凱 ツラユキのラとラッキョウのラぐらいですね。

生 うん。でも音がちょっと近いですよね。ラッキョウにもキが入ってるし。

可 あ、ラとキが入ってる。

吹 さらに「一瞬よ」でイ音がめちゃくちゃ下支えしてる感じですかね。

生 うん、そうですね。

凱 確かに、使ってる母音と子音はほとんど一緒なんですね、ラッキョウとキノツラユキ。全然気づかなかったけど(笑)

可 そうね、そういうことか。

生 これ、パスというか繋がってて。あとなんかちょっと思ったな、その「一瞬よ」の「一瞬性みたいなものが、逆に梅とか近しいものだったら、切り替えがなく「紀貫之」を読んでる感じなんですけど、「らつきよう」って、たぶん紀貫之あんま関係ないと思うんで、「紀貫之もらつきようも」っていう、違うものを取り合わせる感じの、取り合わせの速度みたいなもの自体が「一瞬よ」と、すぐに切り替わるよみたいな、そういうふうな読みもできて、そう読むとなんか、単純に語の斡旋としての「紀貫之」と「らつきよう」の取り合わせで読めるので、そう読むと結構、句が深いというか、おもろいなあって思います。

吹 これは、二物衝撃ってやつなんですか?

生 うん、そう言っていいんじゃないですかね。

凱 そうですね、モチーフとしてはそう言っていいんじゃないかなと思いますけど、いわゆる、俳句の二物衝撃って言うと、大きめの季語にもうちょっと具象性のあるもの、具体物をぶつけるっていうのが割とスタンダードではあるから、「紀貫之」と「らつきよう」っていうのは、いわゆる普通のパターンではないっていう感じ。もちろん同じような詩的な力学は働いてるんですけど、まあ、裏拳みたいな感じ?(笑)(了)

二〇二四年十月二十日ZOOMにて収録

ねじまわし第10号
2025年5月11日発行
■『ねじまわし』誌・問い合わせ先 819neji@gmail.com
■オンライン購入先 https://819neji.booth.pm


2026-06-28

柳俳合同誌上句会2026・選句結果

柳俳合同誌上句会2026・選句結果


参加者
伊野こう 生駒大祐 小野寺里穂
上田信治 暮田真名 大塚凱
榊陽子■中山奈々 森砂季 南幸佑

【千】

金魚草群れ咲くころは千葉の旬  生駒大祐

友引が千日続く青山椒  中山奈々
◯伊野こう
■大安の次に縁起がいいとされる「友引」ですが、葬式を行うことはできませんし、勝負事もよしとされません。なにも起きないことを平和と呼ぶのなら、「友引」の続く「千日」はそれにあたるのかもしれませんが、どこか抑制されたディストピアのようにも感じます。そこへ置かれた「青山椒」の鮮烈な香りや痺れが、その静寂にちいさな亀裂を入れているようでした。(伊野こう)
◯暮田真名
■季語「青山椒」から夏の句だとわかるが、一年をゆうに超える「友引が千日続く」によって時間感覚が無化され、結果的に無季のような味わいが生まれているのではないか。(暮田真名)
〔以下選外〕
■「友引が千日続く」という時間の宙づりは面白い。ただ「千日」が題の「千」を消化する説明に寄って、措辞が観念のまま着地しきらない印象はあった。(大塚凱)
■俳句って噓ついていいんでしたっけ?(川柳はOK。)噓じゃないとしたら比喩なのでしょうか。ともかく青山椒の概念が新たに誕生したことは喜ばしい。と書きつつ、「季語があるから俳句」は早計だったかもと反省。(榊陽子)

千鳥格子の隙間に生まれ  暮田真名
◯大塚凱
■千鳥格子という、無数の小さな単位が反復してできた模様。その「隙間」に何かが「生まれ」る、と中止形で言いさしたまま句を閉じる手つきがいい。完成された幾何学の、埋め尽くされたはずの織り目に余白を見つけ、そこを生成の場へ変えてしまった。何が生まれたかを言わないことで、模様そのものがまだ動き続けている。(大塚凱)
◯伊野こう
■「千鳥格子」という規則的な模様において、本来「隙間」は存在しないはずですが、「隙間に生まれ」と言われた瞬間に、その場所が隙間として立ち上がってしまいます。そうなると、むしろ模様のほうが「隙間だらけ」の不安定なものに見えてきてしまいました。秩序が言葉によって、いとも簡単に揺らいでしまう瞬間を見せているように感じ、またこの崩壊のなかで何が生まれるのかを問いかけているようにも思いました。(伊野こう)
◯中山奈々
■「千」で千鳥格子を持ってきたところにまず惹かれた。格子の隙間に生まれたものは、そこに居続けたらいつか格子同士ががしゃんしたときに潰されてしまうのだ。だから生まれて、逃げるまでがセット。はやく逃げなさい。(中山奈々)
◯小野寺里穂
■「千鳥格子の隙間」という着眼点が絶妙。読み手に対して、隙間に生まれ落ちた主体が何かを想像させる。(小野寺里穂)
◯南幸佑
■なにが生まれるのだろう。千鳥格子柄のあの密で規則的な見た目からは、たしかになにかが生まれそうな感じがしないでもない。連用形の結びからは、「千鳥格子の隙間に生まれ、そしてそのことをいまだにからかわれ続けている」といったような、生まれの事実が現在にまで影響を与えているようなニュアンスを感じた。(南幸佑)
〔以下選外〕
■千鳥のモチーフには幸せを手に入れるという意味が込められているらしい。隙間は暗くて狭くで産声は誰かに届くことはないかもしれないけれど、千鳥が羽ばたいて格子から差し込む光のように、未来に幸あれ!と思った。(榊陽子)

一千年後のあたらしい息を吐く  小野寺里穂
◎森砂季
■「一千年後」「あたらしい」にすっかりしてやられた。単にこの主体は一千年生きて、息を吸って吐いただけなのだ。息を吸う時、それは「新しい息」なのだ。しかもこの句には神秘性があり、ループも感じる。川柳で叙述トリックを使われて、もう「しまった!罠か!」が止まらない。地団駄踏むほど騙されてしまった。うれしい。(森砂季)

千里眼で地球一周した風景  森砂季
〔以下選外〕
■どこまでも見透せる「千里眼」という世界征服すら可能にしそうな能力を使って、ごく私的な世界旅行でもするかのようでおもしろかったです。地球を一周しているのに身体はどこにも動いていかないような不思議な無力さも感じました。(伊野こう)
■千里眼は離れた場所も見える能力なので、身体は一地点にいながら、目だけで世界一周の風景を見たということか。世界一周の楽しみは、視覚だけではないと教えてあげたくなる。滑稽な設定が上手い。(小野寺里穂)

千代田区の電柱にある夏日かな  南幸佑
◯生駒大祐
■今回”何も言っていない/言わないようにした”句が多く出た印象なのですが、その中でこの句は形式だけで成り立っているように思えます。この句に「いかにも千代田区の風景ですね」のようにコメントしたところで実は何の意味もなく、俳句の骨組みがそのまま歩いているような軽さがあります。今回の出句傾向の中でよい風に見えた部分もあるとは思うのですが、好きな句でした。(生駒大祐)
〔選外〕
■千代田区は無電柱化が進められているらしい。まだ手付かずで残っている電柱が一身に夏の太陽を背負う。見慣れた風景が懐かしい風景になっていくことへの一抹の寂しさを感じる。(榊陽子)
■電柱を含めて千代田区全体が夏日のはずなのに、電柱一本だが夏日を抱えているように見えるのは、落書きもステッカーも貼られていないずんべらぼんのせいか。あるいは電柱でさえ夏日(というような情熱)を有しているのに、日々出向いてくるずんべらぼんのひとたちときたらという皮肉なのかもしれない。いやいや電柱にもひとたちにもちゃんとね、ちゃんと暑い/熱い思いはあるんですよと前向きな句として読めないわたしがずんべらぼんなのかもしれない。(中山奈々)

たのしい王手の千年でした  伊野こう
◯榊陽子
■王手はたのしい。共感。たぶん勝利するよりも。だけど千年は長すぎませんか? ていうか誰? 京都?(榊陽子)
◯生駒大祐
■千日だと”千日手”が浮かんでそのまま過ぎるので千年にしたのではないかと邪推しますが、軽々しく千年間王手を繰り返して遊んでしまう姿を想像するとなかなか痛快です。(生駒大祐)
〔選外〕
■「たのしい王手」という勝負の一瞬を、「千年でした」と長尺の過去へ畳む時間操作が独特。ただ、「千日手」という言葉が既にあるので、面白がりきれなかった。(大塚凱)
■千年逃げ続けて、終わった王様、好感がもてる(上田信治)

鳥除けの針千本と蜘蛛の子と  大塚凱
◎伊野こう
■鳥の落とし物から街を守るための「鳥除け」と、鳥のいなくなった場所に現れる「蜘蛛の子」。このふたつが並ぶことで、ひとの都合で整えられた場所の静けさが立ち上がってきます。また、「針千本」という言葉からは指切りの約束が連想され、その静けさは最初から運命付けられていたもののようにも感じ、ひとが介入することで生まれるつめたいさみしさが印象に残りました。(伊野こう)
〔以下選外〕
■先端恐怖症のわたしは逃げ出す。無数の蜘蛛の子が一本一本の針の先端をカバーしてくれたとしても。(中山奈々)
■鳥除けはあのツンツンしたやつ。蜘蛛の子を散らすというくらいだから蜘蛛の子も千匹くらいうようよしてる。先端恐怖症と集合体恐怖症の方はお気をつけください。(榊陽子)

くしゃくしゃの千円札のアレやって  榊陽子
◯上田信治
■アレってたぶん、手品か物真似か。前、見せてくれたアレをやって、と甘えている、その関係は、くしゃくしゃの千円札のような手ずれた、捨てられない、どこにでもあるそれなのだ(上田信治)
〔選外〕
■子供がたまにしか会わない親戚に話しかけているような、適度な親密さが感じられる。(小野寺里穂)
■くしゃくしゃの千円札の(阪神優勝)やってってことですね。わかります。みんな千円札握りしめて角打ちの端のまだブラウン管のテレビを見つめている。買っても負けてもその千円分は飲むんや。(中山奈々)

どうしても千枚通しだとしても  上田信治
◯大塚凱
■意味を立てるより先に、「どうしても」「だとしても」という譲歩の構文がぐるりと一周して戻ってくる音が気持ちいい。千枚通しという、ひたすら一点を貫く細い道具の即物性が、その堂々巡りの中心へぽつんと刺さっている。論理の空転をそのまま韻律へ変えた、言葉の遊びとして強い。(大塚凱)
〔以下選外〕
■句意というよりも音による論理の捻れに惹かれました。「千枚通し」であることを受け入れざるを得ないような妙な緊張感がおかしく、どこか切実でもありました。(伊野こう)
■許すわけにはいかない。認めない。(中山奈々)
■どうし→通し、しても→してものリフレインで一句がループしながら、5-7-5の真ん中に「千枚通し」が刺さっている。こうなったらもう抜け出せない。(榊陽子)

【たべもの関連】

おとうさんもやしのひげ根取りましょう  暮田真名

暗に麩は往復はがきねばならない  榊陽子
◎大塚凱
■文がどこかで関節を外している。わかりやすく読むのであれば「麩は往復はがき(で)ねばならない」という、述語の宛先を失った義務の構文が、読むそばから意味の足場を崩していく。あるいは、中七で切れて「ねばならない」という言葉だけがぶん投げられるという読みでもいいと思う(私はその方が好き)。強い断定の身ぶりだけは残り、何かを命じられている気配が立ち上がる——軽い麩と、往って復ってくる葉書と、宙づりの義務。思えば、麩というもの自体が、乾燥されて届けられ、現場で水に晒し戻されるものだ。そう思うとそれは、往復はがきのニュアンスを帯びてくる。意味の体系を一度壊し、読みのプロトコルそのものを問い直してくる。今回はこれを特選に採る。(大塚凱)
◯暮田真名
■本来は動詞に接続する「ねばならない」を、「往復はがき」という名詞に接続した、と読んだ。麩が「往復」の動きをするイメージは、まるで一反木綿のようだ。「暗に」というのも、暗闇に浮かんでいるようだし。(暮田真名)
◯伊野こう
■「麩」と「往復はがき」の意外な取り合わせに見えたのですが、よくよく「麩」という漢字を眺めると、「来」や「又」といった往復を思わせる字が隠れているようにも見えてきます。すると「麩」には暗に「往復」が刻まれているようにも感じられ、その白さに浮かぶ模様にもどことなく必然性が生まれてくるようです。また「ねばならない」には義務を表す言い回しと、「粘らない」という響きが重なって聞こえます。気づけばそう見えてくる騙し絵みたいな説得力があり、「麩」という文字や食べものから広がる両面性がおもしろかったです。(伊野こう)

ずんだずんだずんだ すごい気持ちです  伊野こう
◎小野寺里穂
■「ずんだ」の濁点によって刻まれるリズムは意外にも心地よい。一拍置いて、「ずんだ」が「すごい」に転調する。「すごい気持ちです」という言い切りは、ずんだのリズムに身を委ねたことによって起こった心情の変化として受け取った。(小野寺里穂)
◯森砂季
■スキップだろうか。オノマトペであり、食べ物でもある。「ず」と「す」が2文字おきに並び、その次は7文字離れた大ジャンプをしている。どこに飛んでいったのか? やはり口の中だろう。甘くてウキウキした楽しい気分になる素晴らしい句。リズム感も素敵だ。(森砂季)
〔以下選外〕
■「ずんだ」三連打の音と「すごい気持ちです」の脱力した口語で、理屈を越えた高揚を押し通す勢いは買う。(大塚凱)
■広瀬ちえみさんの「松林だっただっただっただった」など、言葉にできない気持ちをリフレインに仮託した作品は多く、「すごい気持ち」は説明的とも感じるが、「ずんだずんだずんだ」は足踏みをする音のよう。(暮田真名)
■ほらずんだってめちゃくちゃハイカラな色しているじゃないですか。おいしそうじゃないですか。でもなんか口にしたときに思っていた味、いや食感じゃないってぐるんぐるんと思考が固まったことのあるひと、多いはず。決してまずいんじゃなくて、これをどう取り込もう、どう表現しようと試行錯誤しているわたくしの、すごい気持ち、わかってくれますよね?(中山奈々)
■リンダリンダとダンス・ダンス・ダンスを思い起こさせるずんだずんだずんだ。ショックが大きすぎたとき、誰しも語彙力を失うが、そもそも575は言語化への抵抗だから気にしなくていい。(榊陽子)
■ずんだ餅に、思い入れがあるのでは、たぶんなくて、ブルーハーツのようにそうつぶやくと、自分にすごい気持ちがあるような気がするということだろう。気持ちが分かる気がする(上田信治)

缶詰の中に戦争入ってる  森砂季
〔以下選外〕
■なんの缶詰だろうか。シロップがひたひたの黄桃やパイナップル、乾パン、コンビーフ、ドロップも広くは缶詰に入る。おいしいもののなかに戦争が入っている。缶詰の中だけではなく、日々知らぬ間に戦争はわたしたちのなかに入り込んでいるのだ。食べ終わった缶詰のなかにもヤドカリのようにもう戦争が入って街を転がっている。(中山奈々)
■「戦争が廊下の奥に立ってゐた」より一見軽い句に見える。しかし缶詰の長期保存、開けたらすぐに食べられるなどの便利な特性が戦争に内包されたとき、この言い回しの軽さが戦争に対する意識の危うさに変わる。(榊陽子)

はよ食べなさい空気が抜けてしまう  中山奈々
◎暮田真名
■「冷めてしまう」や「溶けてしまう」ならわかるが、「空気が抜けてしまう」のだという。いったいどんな食べ物だろうか。たとえばおなかとゴム風船が口を経由してつながっていて、片方がふくらめば片方がしぼみ、片方がしぼめば片方が膨らむような、奇妙な相互関係を想像させられもする。(暮田真名)
◯榊陽子
■空気でふくらんでいて、時間経過で萎んでしまう食べ物はある。たとえば綿あめやかき氷。でもそれらの食べ物から空気がぬけるという意識はなかった。でも原理は合ってる。「早く」じゃなくて「はよ」という関西弁がすでに時短になっているのもおもしろい。(榊陽子)
〔以下選外〕
■「空気が抜けてしまう」前に食べろという、飲食の刹那性を捉えた口語が生きている。(大塚凱)

白桃をてこてこ運び来て小声  生駒大祐
◎南幸佑
■「てこてこ」がツボだった。「とことこ」「てくてく」であれば歩き方だし、「へこへこ」であれば態度の問題だが、「てこてこ」とは両者を兼ねた、人物の全体的な雰囲気のことを言うのだろうか。白桃のようなそれなりに値の張る果物を買える人物というのはやはり裕福なのか。「小声」の結びも含め、ユーモラスな句。(南幸佑)
◯小野寺里穂
■白桃を持ち上げることも大変なくらい小さい何者かが、白桃を運んでいる様子が伝わる「てこてこ」というオノマトペ。もちろん声も小さい。小声で話している内容が気になる形で締めくくられているのもまたよい。(小野寺里穂)
◯上田信治
■イレギュラーな動作で運び、小声で話している。白桃には、跡などがつきやすいことを心配しているのか、そのへんなムーブに説得力がある(上田信治)
〔以下選外〕
■てこてこがかわいい。とことこよりもてくてくよりもおぼつかない感じ。大きさも重さもこの子の頭部と同じくらいの白桃だと思う。(榊陽子)
■眠るわたしの横に置いて反応を待っているんだ、彼らは。(中山奈々)
■「白桃」への過保護が、そのまま「てこてこ」という歩みに現れているように感じます。また「小声」も、とっておきをこっそり教えてくれるようで、白桃の甘さまで運ばれてくるようでした。(伊野こう)

口蓋を燃やす鋭い形容詞  小野寺里穂
◯南幸佑
■「鋭い形容詞」をたとえばだれかを非難するためのキツい言葉などと取って、そういう言葉を発することへの自責の念が描かれていると読んでも読めなくもないのだろうが、自分としてはむしろ、口の中を燃やすほどの熱を持ち、しかも鋭いものを視覚的に想像したほうがたのしく読めると思う。「口蓋」「形容詞」はじつに厳密な言葉遣いで、どこか外科医のカルテのような正確さがある(南幸佑)
〔以下選外〕
■辛い食べ物の刺激を「鋭い形容詞」と言語の側へ翻す転換が知的だが、ちょっとそれが見え透く印象があった。(大塚凱)

梅雨晴間すごく透きとほるゼリーたち  上田信治
〔以下選外〕
■凡庸な事柄に「すごく」をつけることで主観が嫌味なく伝わる。(榊陽子)

ひるがほの花へ煙や鳥を焼く  南幸佑
◎生駒大祐
■”たべもの関連”の題の中での一句なので「鳥を焼く」が焼鳥のことだとわかるのですが、題から切り離して読んでみると飼っていた鳥が死んだので火葬するような状況も想起されます。焼鳥と火葬では趣きも句における昼顔の花の印象も大きく異なるのですが、即物的に現象だけをみると焼鳥も火葬も同じことをやっていて、そこに個人的に発見がありました。昼顔を「ひるがほ」と開いているところにもフェティシズムを感じて嫌いではない筆致でした。(生駒大祐)
◎中山奈々
■この煙は鳥を焼く煙だろうか。無臭ではないのだけど焼鳥のようなおいしそうな匂いがしてこない。なんなら色も見えてこない。輪郭だけ。輪郭だけの、静かな世界。食べるために焼いている鳥なのに。昼顔の花へ煙を吸われたせいだろうか。食欲も小さく萎むような、いや元々食欲なんてあったのだろうか。(中山奈々)
◯榊陽子
■切れ字界のなかで、中七のあとの「や」が一番かっこいいと思っているので、この句の煙の正体を明かす前の絶妙なタメにキュンとした。あと花鳥風月の月以外入っていることに気づいたとき鳥肌が立った。(榊陽子)
◯上田信治
■よく見るタイプの句ではあるけれど、空間の狭さと、湿っぽさがよい。たぶん店から出る煙がとどくほどに、店の前が狭いのだ。そういう、その季語らしさの句(上田信治)
◯小野寺里穂
■夏のよく晴れた日に、焼き鳥屋の煙が道端のひるがおに向かって流れていく景色が浮かんだ。夏のワクワク感と酒により少し気だるい身体の感覚、自分も体験したことのある夏のひと時が立ち現れている。(小野寺里穂)
〔以下選外〕
■昼顔の儚い花へ、焼く鳥の煙が流れていく——清楚な季語と生臭い現実の取り合わせに毒がある。「煙や」の切れも効いている。ただ「鳥を焼く」が直截的な印象で、「焼く」が冗長に感じられてしまった。(大塚凱)

ゼリー、きみは憲法の何条が好き?  大塚凱
◎榊陽子
■川柳として読んだとき、まず色あざやかなぷるぷるのゼリーの可愛らしさがあり、まるで恋人同士の甘い雰囲気と思わせて、質問の内容が尖りすぎててヤバいと思った。時勢柄9条を思わせるが、そうじゃなかったら憲法に興味ないか、時代や場所が変われば答えも変わってくるだろう。俳句として読んだとき、夏にこれを聞いてくるということは、当然9条って答えるよねという圧を感じた。季語きっかけの読みに、少しだけど受け取り方に違いがあるのがなんかうれしかった。(無意識に「俳句ってこう読み方だよね」が強いだけかも。)どちらにしてもゼリーと憲法の取り合わせが最高なのは言うまでもない。(榊陽子)
◎上田信治
■そう呼びかける、主体も、相手も、どういう立場の誰だよと思わせる、ぶよぶよさと透明さ。つかみどころがないなあ、でもそういうことを、オシャレなふりをしながらでも言いたいという切実さはわかるのよ(上田信治)
◯森砂季
■「前文です」と答えそうになってしまったのだが、ゼリーに聞いているので本人の声に耳を傾けないといけない。武力を持つことを永久に許さない9条。9条推しゼリーはそのしなやかさでミサイルを避けていきそうだ。しかし基本的人権である11条だとしよう。現在まさに消えかけている基本的人権。火にかけるだけで簡単になくなってしまうゼリーに似ている。なるほどこの句は、推し憲法によって解釈が変わりそうで面白い。(森砂季)
〔以下選外〕
■問われたゼリーも問うたわたくしも困ってふるふるするしかない。こんなにも純粋に透き通っているから濁らないように、ね、ゼリー。(中山奈々)

【写真で一句】


都市とはに水めぐらする青葉かな  南幸佑
◯中山奈々
■青葉城城下でなくとも、都市とは永遠に水を巡らせるものなんだと納得した。水(川)へふちどるような青葉、それにパワーをもらうように繁栄している都市の関係が見えてきた。(中山奈々)
〔以下選外〕
■「水めぐらする」の古典的な措辞で、都市に水を巡らせる青葉の景を大きく構える格調はあるが、「青葉」はややイメージから脱しきれていない印象だった。(大塚凱)

さかなのうわさにふさわしかった  伊野こう
◯暮田真名
■うわさ話をする魚を想像すると、かわいい。「うわさにふさわ」の頭韻と「わさ」「さわ」の裏返した音も、くすぐられているようなうれしさがある。(暮田真名)
◯生駒大祐
■さ”かな”、う"わさ"、ふ”さわ”と2連続のa音で韻を踏んでいて、その軽やかな韻が気に入りました。(生駒大祐)
◯森砂季
■さかながうわさ話をしている。あまりにもかわいい。かわいすぎる。口がぱくぱく動いて、泡が出ている。韻の踏み方が巧妙だ。「うわさ」が「うきわ」に似ていることもなんだか愛おしい。すてき。(森砂季)
◯南幸佑
■海中で魚同士の噂話を立ち聞きしていたら、いかにも魚らしい話題が飛び交っていた。「どこそこの藻場は日当たりがよくて気持ちがよい」とかだろうか。「ふさわしかった」と過去形で書くと、この人が実際に聞いたのだろうというリアリティ(現実味がある内容ではないので、リアリティというのもヘンな話だが)が生じるのがおもしろい。(南幸佑)
◯小野寺里穂
■写真で切り取られている渋谷ストリームを起点とした渋谷川は、基本的に再生水を流しているため、少なくともこの地点には魚は住んでいそうにない。魚にとって評判が悪いと予想されるこのエリアを、魚の目線で語っているところに面白みがある。(小野寺里穂)
〔以下選外〕
■すべてひらがながおとぎ話のようでようでかわいい。さかなたちがにんげんの世界ってね、きらきらしているんだよという、あのきらきらの世界にこの写真はふさわしかった。さかなでなくとも憧れてしまう。(中山奈々)
■「さかな」が「うわさ」をし、うそかほんとかわからない「うわさ」に対して「ふさわしかった」と断言するという不確実性の連続が、画像にも感じられた。(榊陽子)
■「さかなのうわさ」という不穏で涼しいフレーズの手ざわりを買いたい。(大塚凱)

アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ  榊陽子
〔以下選外〕
■「「アヴェ・マリア(Ave Maria)」は、ラテン語で「こんにちは、マリア」または「おめでとう、マリア」を意味する言葉です。転じて、聖母マリアへの祈りの言葉、およびその祈祷文に美しい旋律をつけて歌われる宗教的・クラシック楽曲の総称を指します」。音が楽しい。でも「にも」なのか、とそれだけは気になった(上田信治)

あばら屋にきれいなビルを積んでいく  森砂季
◯伊野こう
■「積んでいく」という動詞に惹かれました。本来であれば、あばら屋の跡地にきれいなビルは「建つ」はずで、同じ場所にはどちらかしか存在しません。しかし写真のなかでは、それらがひと続きの光景となっています。都市がゆっくりと更新されていく時間のいくつかを一枚の写真に重ねているようで、その足元では開発のさなかに見過ごされたなにかが下敷きとなっているように感じました。(伊野こう)
〔以下選外〕
■お題の写真に映っているのは東急の開発物件だが、むしろこの句に読まれているジェントリフィケーションの風情は森ビルによるそれっぽい。朽ちたあばら屋の上へ、きれいなビルを「積んでいく」。再開発事業のもつ暴力性を一息で見せた構図だろうが、「積む」はややレトリックが先行している印象だった。(大塚凱)
■主体が二人いる。積んでいる人と積んでいるのを見ている人。主体をあえて曖昧にすることで、建築構造の揺らぎと主体が行ったり来たりする揺らぎが同時に起こり、読み手に波及する。(榊陽子)

まやかしがまやかしを呼び照り返す  小野寺里穂
◯中山奈々
■あの青をどう言おうかと思っていたが、なるほど、まやかしか。ひとつのまやかしの持つ光なんて小さいのだけど、まやかし同士が光を放ち合い、照り返しあったら、そのぴかぴかは眩しいだけでなく、ちょっと冷静な気持ちにさせてくれる。不思議。(中山奈々)
◯森砂季
■呪術的に感じる。まやかしの繰り返しが心地よく面白い。「照り返す」は太陽のはたらき。蜃気楼とまぶしい光の明滅。句の全体像が見えないことが楽しく感じられ、不思議な世界に連れて行ってくれる。(森砂季)
◯大塚凱
■「まやかし」が「まやかし」を呼ぶ反復で、像が合わせ鏡のように奥へ増殖していく。そこへ「照り返す」が来ると、増殖した虚像が今度はこちらへ眩しく跳ね返ってくる——見ている側まで巻き込む明るさが効いている。同語反復を、ただの強調ではなく光学的な往復運動にまで仕立てた構成がよかった。(大塚凱)
◯南幸佑
■「照り返す」と書くことで、このまやかしの質感(光を照り返すような、つるつるした表皮なのか)が想像されるのがおもしろい。百鬼夜行のはじまりの趣がある。(南幸佑)

メタリック休憩をいますぐとれよ  暮田真名
〔以下選外〕
■「メタリック休憩」という造語として読んだ。喫煙者にたばこ休憩があるように、メタリックが切れると業務に集中できない人に必要な「メタリック休憩」。「いますぐとれよ」と心配してくれるとか、なんてホワイトな職場だ。(榊陽子)
■メタリックに対して休憩を促しているのか。はたまた「メタリック休憩」をとるように言っているのか。どちらの読みをしても楽しい。「メタリック休憩」はテンション高そう休憩すぎて反対に疲れてしまわないか。いや硬質でしっかりとした休憩と捉えることも出来る。(中山奈々)

青梅雨や和菓子を買うて橋の上  上田信治
◯生駒大祐
■題の写真から「和菓子」を出してきたのがいいなあと思いました。「橋の上」の収め方もいいと思います。(生駒大祐)
〔以下選外〕
■この和菓子は自分のために買ったのだろう。迎える客のためにいそいそと帰ることはなく、好きなペースでゆっくり帰る。たとえ近所だったとしても橋を渡るって信号を渡ることより遠くに行く気持ちになる。自分のために足を使うのは楽しい。(中山奈々)

てのひらの蚊を捧げたり雨あがり  中山奈々
◯暮田真名
■「てのひらの蚊」は、打って潰してしまった蚊のことだろう。やっていることはなかなか呪術的だが、読み味は明るく爽やかだ。「捧げたり雨あがり」の軽快さも一役買っているだろうか。(暮田真名)
◯大塚凱
■掌に潰した蚊を「捧げ」と言い切ったところで、殺生がそのまま小さな祭祀へ反転する。「雨あがり」の洗われた空気が、その手のひらの一点を聖別するように働く。蚊という卑近な季語を、悼みの所作まで持ち上げた手際がいい。(大塚凱)
◯榊陽子
■蚊を殺したときに流れる血は人間の血だ。人間の犯した罪を人間の血で償うのは生贄の最適解だが、それは神への冒涜だし、「雨あがり」を過剰な演出のために使っているのも自然(季語?)への冒瀆だ。(榊陽子)
〔以下選外〕
■起きている出来事としては「蚊をつぶした」だけですが、意識としては「つぶしてしまった」という感覚があり、それゆえに「捧げたり」という演出めいた表現が導き出されているように思いました。また、「てのひら」「捧げたり」「雨あがり」と繰り返されるR音がこの演出に音楽性を与えています。ちいさな殺生がまるで古典悲劇の一幕のように響いてくる句だと思いました。(伊野こう)

タピオカ吸ふ暗渠の果てのあをぞらに  大塚凱
◯中山奈々
■吟行でよく言われる「わたしも◯◯を見て作りたかったけれど、作れなかった。この句はきちんとそれを句にしているから惹かれた」。この句はまさに暗渠を出したことでそうやって言われてしまうん(わたししか言ってなかったらごめんね)だけど、それだけで終わらせなかった。タピオカを吸うわたしく。それは入口。果てに青空がある暗渠。それは出口。対をなすふたつなのに重なってみえるのは、秘めている暗さが同じだからだろうか。(中山奈々)
〔以下選外〕
■この句を読んで、初めてタピオカと暗渠が似ていることに気づいた。タピオカはキャッサバの根から取ったでんぷんである。キャッサバの根は地下に埋まっているし、でんぷんは澱粉だ。タピオカと呼ばれるものになってもコップの底に沈み、蓋をされ、さらに暗渠みが増す。光を奪われたものが最後に出会う空が限りなく明るい。(榊陽子)

夏川とさて明日はなき摩天楼  生駒大祐

2026-06-07

『ねじまわし』生駒大祐さんへの「10の質問」〔俳誌の中の人に訊く〕

〔俳誌の中の人に訊く〕
生駒大祐さんへの「10の質問」


Q1 関わっていらっしゃる俳誌の名前と概要、そしてご自分の役割を教えてください。

大塚凱さんと二人で『ねじまわし』という同人誌を作っています。ゲストをお呼びしつつ俳句を中心に企画・評論・座談会や作品を毎号異なる特集を設けて制作しています。役割としては共同発行人としてほとんど全ての記事を大塚さんと分担しながら作っています。

Q2 『ねじまわし』の特徴・アピールポイントを教えてください。

Q1にも少し書きましたがゲストを毎号その特集内容に合わせてお呼びしており、執筆者が毎号異なるため読んでいて飽きにくいのではないか、と思っています。ちょっとした仕掛けのある企画を実施することも多く、読者として”油断ならない”誌面になっているのではないかと思います。ちなみに個人的にかなり面白かった企画である第9号の「時間のかかる俳句」は週刊俳句に転載していただきました(https://weekly-haiku.blogspot.com/2026/02/blog-post_562.html)。未読の方はぜひご一読ください。

Q3 『ねじまわし』を発行/維持していくうえで、苦労することを教えてください。

若干メタ的な回答になりますが、発行にまつわる労力を共同発行人双方で公平にすることが今後苦労すべき課題だと思っています。不公平感があると長く続けられないので……。今は大塚さんの負荷が大きくなっていると思います。

Q4 『ねじまわし』をつくっていくうえで、だいじにしていること・たいせつに思っていることを教えてください。

俳句の作風におけるフロンティアとは異なる話として、俳句にまつわる企画の方向性やテーマはまだまだ未開拓の余地があると考えています。既にある議論のネタをこう掘り下げたら面白くなるんじゃないかとか、新しくトピックスになっている事柄をこう論じてみようとか、二人でアイデアを出し合っています。

Q5 『ねじまわし』を動物に譬えてください。その理由を教えてください(理由がなければ、言いたくなければ無回答でかまいません)

……すみません、何日か考えたのですがよい譬えが思いつきませんでした。僕が動物ごとにあまり固まったイメージを持てないのが原因だと思います。

Q6 数日間ものあいだ頭を悩ませてしまい、恐縮です。ご自分のことに質問が移ります。理想的な休日の過ごし方を教えてください。

朝起きてコーヒーを飲んで家を出て、一人で電車に乗って都会に出て午前中は散歩したり遊んだりし、昼ご飯を食べます。午後は書店に寄って本を買い、喫茶店でその本を読んだり俳句を作ったりして過ごし、夕方には家族への簡単なお土産を買って家に帰ります。年に二日くらいはそういう日があるとリラックスできますね。

Q7 現在お住まいの町は、どんなところですか?

神奈川県のThe 郊外、という感じのところです。幹線道路沿いに街が発達しており、山と海のどちらにも少し車に乗れば行けるという意味では良いところかも、と思います。答えてみて思いましたが僕の出身地である三重県とそういう意味では似ているかもしれません。

Q8 好きな自然現象について、教えてください。

北海道旭川のプラタナス並木の落葉が好きです。学生時代よく行っては落葉を踏んで歩きました。堀込高樹の「冬来たりなば」という歌を毎回思い出していましたね。純然たる自然現象としてそれが好きかと言われると少し意味が違うかもしれませんが……。

Q9 10年後、『ねじまわし』はどうなっていると思いますか。「こうなっていたい」という野望・願望でもかまいせん。

同人誌なので二人のどちらかが「やめようか」と思った瞬間に終わるんですよね……。ちょっと僕は最近落ち込んで俳句アンテナの感度が下がったりしていたので、新しくて面白いと思える雑誌を10年後も作り続けていられたらシンプルに幸せなことだと思います。

Q10 最後に、ご自分の最近作を5句教えてください。ベスト・オヴでも、単に直近の5句でも、どちらでもかまいません。

夏フエスも久々なれば拝みけり
口つけし水ぶちまけぬ日雷
氷水踏みしだかれて地となりぬ
遠く歌声大蒜根元切り落とす
待てば経つ百年だかや薄衣


■『ねじまわし』誌・問い合わせ先 819neji@gmail.com
■オンライン購入先 https://819neji.booth.pm



2026-02-15

時間のかかる俳句 井口可奈 工藤吹  大塚凱 生駒大祐

時間のかかる俳句


井口可奈
工藤 吹
大塚 凱
生駒大祐

(『ねじまわし』第9号より転載)


生
 今日の趣旨は企画者が用意した過去の俳句作家によって書かれた俳句一句を、長い時間をかけて座談会形式で読み解く企画です。今日の出題者は生駒です。よろしくお願いします。

凱 はい、お願いします。

 鯉


可
 ここの五音、「鯉のぼり」とかかなあ。

凱 ああ、確かに。季語で抑えていくパターンですかね。なんか、蛇笏とか龍太とかかな。山廬にね、鯉いますし。でも、「鯉」から入ってくるイメージもあんまりないな。

生 うん。そう。季語的にやるんだったら「白鯉」とか「寒鯉」とかはあり得るけど、「鯉」って始まるのって、そんなないような気はしますね。

凱 逆に言うと、かなり写実的な句なんですかね。「寒鯉」みたいな、決まった言葉では書かない。早速、二文字目次第な感じでしょう。
 

 鯉の
 

生 まだ、「鯉のぼり」の線が残ってますね。

可 キタコレ。でも「鯉のナントカ」みたいな? んー?

凱 「鯉の冬」とか、季節を倒置させるみたいな。「秋の雲」じゃなくて「雲の秋」みたいな感じにして、ちょっと洒落た感じに抑えるという書き手もいなくもない感じもしますけど。

吹 「の」って付いた瞬間に、ぐっと近づく感じがします。魚が切り身になるみたいな感じで。ちゃんと部位を認識させてくる感じがある。

凱 鯉が魚へんに里なのは、よくできた漢字ですね。今まで全く考えたことなかったけど。

可 なんか鯉って、結構割と近しい感じを覚えるから、面白いですね。

凱 人工的ですもんね、鯉って。鮒から金魚ができたように。

可 うんうん。確かに池とかでしか見ないもんな。

凱 里ですもんね。里山も要するに、自然ではありながら人間が手を加えないと残り得ないものというか、維持できないものなわけで。鯉も確かにそういう存在だよなっていうのは、腑に落ちますね。

可 「鯉の愛」とか、そういう変なのだったら面白いけど、わかんない。「鯉の愛」、何? なんか「の」をどうやってとるかだな、まだわかんないけど。

生 そうですよね。だからね、助詞の「の」なのか、自立語の一部の「の」なのかによってかなり変わりうる気がしてますね。

凱 「鯉の愛」か、なんか鯉たちのテラスハウス見てるみたいな視点?

吹 もし「愛」ってきたら中七以降をそわそわしながら読まなきゃいけなくて、急にどぎまぎしてきたかも(笑)

 鯉の顔

凱 ああ、そっち!?

可 なになになに? 「鯉の顔」って、どっからどこまでですか? 何? なんか首上?

凱 エラ上? エラの先? エラから先じゃないですか?

可 エラ上か。あ、でも正面から見ても口がパコって見えて。

凱 そうですね、正面から見てる感じなんでしょうね。ふと、水面の下から出てくる感じというか。

可 あー、そっから出てきますもんね、口からぬっと出てくる。

凱 結構これはもう、写生句に行きそうな手つきをしてる気がしますけどね、このまま。で、季語で落とすような。

吹 なんか、お〜いお茶新俳句大賞でもありましたよね。魚の口の句。第三十回の一般の部Bの大賞の、〈まんぼうの口のくらがり雪降りぬ 今田保雄〉っていう。顔ではないですが。

凱 あ、そうなんですか。

吹 鯉でもないんですけど。

生 なんかあんまり俳句で、そんなに見かけないこの3文字というか。

可 なんか鯉って使うなら割と季語にしちゃうなと思ってました。

凱 そうですよね。「寒鯉の顔」とかって言ってるわけではないですからね。割とこう、もともとある季題を処理するというよりは、情景を書き込んでいこうとしている感じの句なのかなと思いますけど。確かに魚に、顔ってあんまり言わないですよね。頭だもんな。それもやっぱり。鯉というのが人に親しくて、顔も割と存在感があってっていうので、顔っていう言葉が出てきた感じはしますけどね。

可 擬人までいかないですけど、でもなんか「鯉の顔」で納得しちゃったもん、わたし。


 鯉の顔し



可
 し?

凱 し?

吹 し?

生 し?

吹 なんか「し」って言われると、逆に鯉の写生句じゃなくて「鯉の顔して」とかの、人の句に持っていきそうだなっていう感じがします。

凱 あー、比喩の方に行くっていう。その可能性ありますね。

生 あと、散文だったらわかりやすく続く感じになりますけど、俳句だから、切れがどこで発生するかみたいな、この読み方だと予想が結構難しいですよね。次の事柄に行っている可能性もゼロじゃない。「鯉の顔」で。

凱 そうです。上五で切れている可能性もある。個人的には「鯉の顔」で切れている方が好きだけどな。だとすると「鯉の顔」は下五に置きたくなる気もしますけどね。

生 あー、確かにね。

 鯉の顔して

凱 あー、じゃあもう吹さんの言う通りじゃないですか(笑)

生 予想が当たりましたね。

吹 当たったとて、ですね、これ(笑)

凱 いやー、ちょっと……ちょっと写生句で見たかったなー! 比喩に行っちゃうのかー。

吹 「鯉の顔」がすごい面白かったから、どんどんハードルが上がっていってる気がしますね。

可 確かに。なんか、普通に、「している」みたいなので、文字数使っちゃうのかなー。「して」の後にこういう、変化っていうか、動作とか、わかんないけど、入ってくるのかな。

凱 次、名詞に行くのか、「している」みたいな感じで、韻律にひとつ緩みを作りに行くのか。

可 私は緩くしちゃうんで、「している」が思いつくけど。でも、なんかもっと詰めた方が内容的には……。

凱 井口さんの俳句を読んだ上で今の話聞くと、「ああ、なるほど」って思います。井口さんの俳句のあの韻律って、そうか、確かにそこから出てきてそうだなって感じします(笑)

可 そうなんですよ。私、韻律をそういう風に(笑)

凱 中七でちょっと、なんか抜きますよね。

可 抜く抜く!(笑)

 鯉の顔してた


可
 マジか!?

吹 (笑)ここで切れたらどうしよう……。すごい、どうなるんだ……。

凱 前振りがあるとめちゃめちゃ面白いな、これ(笑) これで、このまま終わるのが一番面白いかもしれない(笑)

吹 そんな(笑)

可 「鯉の顔してたら」みたいな? あ、でもそっか、その後普通に「たづねる」に続くとか。わかんないけど。でも「してた」で、過去……面白いって思っちゃった。ここで切れたら超面白いんだけどな。

凱 あるいは空白があって、中間切れとなってまた始まるみたいな。

可 俳句であんまりスペース使う人って多くない気がするんですけど、います?

生 スペースはあんまり……作風によってはいるけど。

凱 伊丹三樹彦とか。あと前衛俳句。

生 改行はあるけど、空白はあんまり、ないかも。

凱 空白……スペースとは思ってない感じがしますよね、俳句における一字空けって、そもそも。

可 なんかやっぱり短歌だと切れって割とスペースで表したりっていうか、その独特のスペースによる効果ってかなりあるけど、俳句ってあんまりスペース使わないよなと思ったのでした。

吹 上五が八音で、確変が入るとかないですか。

凱 いやいや、ありえますよ、全然。

生 作者も時代も分かんないから、どういう手で来るか分かんないですよね。

凱 次の一字で、大体どの時代の書き手か分かるような気がしますね。

生 なるほど。まあそうねっていうか、ここでいきなり別のことを言い出したら、かなり現代寄りとかなんか、あるかもしれない。

可 確かに。中七ゆるーく使う可能性もまだありますからね。「してたのに」みたいな感じで。

凱 まだあります(笑)

吹 「のに」やばい(笑)

 鯉の顔してたま


吹
 「たまに」……とか?

凱 前の書き手じゃない感じがなんかしますよね。少なくともなんか……一九七〇年代以降。

可 「たまごなんとか」みたいな感じなのか? でもどっちにしろ、そうですね。あんまり古い人ではなさそうっていうか。

凱 動詞じゃないって感じですよね。「たまる」とかは動詞であるけど、意味通じない感じするし。

吹 「たまご」とかだったら、中七に季語が入ってくるぞ、という感じになるんですかね……いや、「たまご」だけだと季語にならないですもんね。難しい。

生 あとは構造的に、「して」を上五に詰めるのか、中七で受けるのか、ここの展開がまだわかんないですね。

可 うんうん、それでどっちかにくるのかなって思ってました。

凱 まあでも、上五で「鯉の顔して」はけっこう重たい感じがしますけどね。漢文訓読体みたいになっちゃうというか。それこそ芭蕉の初期みたいな感じの韻律になりますよね、〈芭蕉野分して〉みたいな。奇妙な韻律になりそうです。

 鯉の顔してたまし


凱
 お、「たましい」か。

可 「たましい」? え、めっちゃわかんなくなった。

凱 意外と抽象的な作風なんですかね。

可 わかんない。この後に合う言葉があんまり今思いつかなくて。「たましい」っていい句いっぱいあるな。

凱 「たましい」っていい句いっぱいあるけど、全部「たましい」の句なんですよね。

可 「たましい」が強いですよね。

生 はい。じゃあ「たましい」なのかってところで。

可 そっか、まだわかんない。

 鯉の顔してたましい

可 「たましい」だ!!!

凱 「たましい」だ!!!

吹 「たましい」だ!!!

生 「たましい」だ!!!

吹 わかるところがあると、安心する。

凱 まあ、こうなったらやっぱり「鯉の顔」でイメージは切れてるのかな。そして「たましいの」とかって別の物事とぶつかっていくのか。

可 「の」ありそう。

凱 次は助詞なのかなって感じがしますけど。

可 そう、助詞来そうですね。え、じゃあ最後に季語を置くのかな。

凱 まあ、無季の可能性もありますけど。

可 確かに。

凱 まあでも、置くとしたら下五に季語でしょうね。

可 えぇ? ちょっと季語を予想しよう。すごい広い……でも季語を予想するの難しい……待って、できないかも(笑) …「たましいの空」? ……違うなあ。なんかすごい気をつけないと陳腐になりそう。

生 そうですよね。けっこう強い、どっちかっていうとけっこうパワーワードが並んでいる感じはある。どうこの後抜いてくるのか、あるいはさらに押すのかっていうところはある。

可 あ、確かに抜いてくるってパターンがありますね。強い語だから強い語を下に並べてくるのかと思ったけど、このまますんと抜けるのも面白いかも……強い語来てほしいなぁ、私としては。

吹 意外と「鯉の顔」って言われて「たましい」って言われたときに、確かに魚の口って丸くて大きいから、ぽかんとした感じわかるなーみたいな。この時点でも割と理が見えなくはない立て方な気がしていて、何が来てもわかるなって思っちゃいそうかも。

凱 いい読みだなあ。なるほどって思いました。

生 そうですね。意外と近い。

凱 鯉って子音とか発音できなさそうだもんな。なんかサ行とか発音できなさそうじゃないですか?

吹 (笑)

凱 「たましい」って鯉が発音できるギリギリの単語ですわ。

 鯉の顔してたましいす

可 「す」って言ってる! 待って!

吹 「たましいす」? 「たましい」って動詞じゃないですよね。

凱 ここから句またがりしていく可能性があるのかな。

可 何? ちょっと、なんだ、え、すべすべ、すべすべしてるみたいな感じ? え? 「す」にかかる言葉が、全然。

吹 急に、上五が七音になるとかの可能性もまだ残ってるの、ありません?

可 そういう感じで、なるほどね。「たましいすがる」とか。

凱 今の「す」で予想が違ったのがわかる。

生 へへへ。

吹 「たましいす」で切りたくないな。

可 切りたくない。

凱 難しくなりますね、ここで切れちゃうと。

可 めっちゃ句またがりなのかな。でも、それじゃ文字数的に締められない気がする。

生 意外な「す」が来たところで、次に行きましょう。


 鯉の顔してたましいすわ


可
 「すわる」? でも「すわる」だったら漢字にするかな?

凱 でも、あり得ますよね。……下五だって、季語で、ひらがなの「わ」で、みたいなのを考えると、あんまりこう、ストンと下五で落ちる感じしないよな。

可 でも、スッて流しちゃう感じで終わるのかな。

凱 けっこう複雑なことやってるな、この句。

生 さっき時代の話してましたけど、凱くん、今の段階でいつぐらいの人っぽい気がしてます?

凱 えっと、なんだろうな。最近の若手じゃない感じがするんですよね。けっこう、お年を召した方の、二〇〇〇年代の句みたいな感じなのかなと思いました。完全に当てずっぽうですよ、これ。

生 いや、まあ、当てずっぽうしかないから、この場合は(笑)

可 え、それは、なんでお年を召した方だと? 「して」の操作とか?

凱 いや、「鯉の顔」とか明らかに上手いんですよね。

可 それはめっちゃわかる。

凱 明らかにこう、なんだろうな……「俳句やってきてんな、こいつ!」っていう感じの入りじゃないですか。その、勘どころを押さえてる感じがあって。で、そして「たましいすわ」の、この中七の感じは、なんかもう俳句を三周ぐらい回ってる感じの人なのかなと思っちゃって。とっくに俳句に飽きてる人の書きぶりなんじゃないかと思っちゃったんですけど。

生 (笑)

可 なるほどね、そういうことか。私なんか割と新しい人なのかと思ったんですけど……なんだろう、この韻律のまたがる感じとか。今の読みの感じでいくと、またがりそうな感じだから。……でも、そうかも。「鯉の顔」なんかは確かにうますぎてるんだよな。それはめっちゃわかる。

凱 なんでしょうね。

吹 じゃんけんに勝ったら蛍に生まれる的な思想の。

凱 池田澄子さん的なね。

吹 思想の、人生なりに達観した方の可能性が出てきた。

凱 まあ澄子さんは『たましいの話』を出されていますからね(笑) ……何かプリミティブなものに戻ろうとしているというか、俳句を書き込みに行くんじゃなくて、もうちょっとプリミティブな詩魂というか……詩の魂みたいなものに何周かして向かっていこうとしているのかなと、ここまで読んで思った。そう勝手に、思い詰めた感じです。

可 でも、季語を入れるやつじゃなさそうな気がするんですけど、ここから。座って、で、季語とか分かんない。なんか入れ方が難しそう。

生 例えば、井口可奈さんが、これまでこの文字をもらって、このあと自分の句にするにはどんな展開されますかね。

可 「鯉の顔してたましい座り込んでる」みたいな(笑)

生 あー、はいはい。なるほどね。

可 うん。またがりまくりみたいな。なんかやっぱりそこに季語も入れられない。「鯉の顔」がやっぱ強いから、季語入れないでスッて逃がしちゃうかもしれないですね。うん。無理に入れるとなんかぶつかりそうだし。


 鯉の顔してたましいすわつ


吹
 でっかい「つ」だ。文語とかのときに使う「つ」だ。

可 旧かなの「つ」っぽい。うん、旧かなの感じ出てきますよね。やっぱすわっちゃうのかな……。

吹 すわっちゃったらどうしよう……どうしようもない……。

可 「魂スワッ!」とかにして、最後、季語をグンって入れる。季語に「五月」みたいなことがありうるんですね。

吹 助詞の「て」で韻律を何とかして進む。

凱 仮に「たましいす」で切れたとして、「わつ」で始まる季語ってないと思うんですよね。

吹 なさそう。

凱 存在しない気がするから、もうその線はない感じしますね。だから韻律の上でも、穏当に終わらせられる可能性は、もうこの時点でなくなってるんじゃないかと。

生 なるほどね。じゃあ総意としては、「して」までが上五で、「たましいすわつ」の後に何かがつくと。

凱 が、一番なんか、アガリ確率が高い感じしますけど(笑)

生 じゃあちょっとそれが正しいのかどうか。


 鯉の顔してたましいすわつて

凱 吹さんの言った通りだ。

吹 複勝みたいなことしか言ってない。

可 それなら本当に季語つけれるかもしれない。

吹 季語しかない!

可 そこに集結させるのかな。え?

凱 上五、七音でも読めますよね、やっぱり。「て」で押韻したことで、下五が五音だとしても、なんかこう、リズム感よく読める感じになりましたよね。

可 そうね、変なところで切れないと。

(生駒さんのお子さんYさん登場)

Y おとうさんがいないとさみしいんだー。

凱 「おとうさんがいないとさみしいんだ」?

生 ごめんね、ごめんね。ちょっと、あの……。(子供を部屋から出す)

Y おとうさん、おとうさんがいないとさみしいの。

可 面白い(笑)

凱 なんかいい……なんかいい瞬間に立ち会った気がするな、今。

吹 心がほっこりしています。

可 (笑) ……なんかめっちゃ、この句作った人と仲良くなりたい。だって「鯉の顔してたましいすわつて」って、めっちゃ面白いもんな。

凱 上手いですね。

生 「て」が二つ入るってやっぱり少ないですよね。どっちかちょっと別の言葉で逃がしちゃうっていうか。

可 なんかそう、私もさっき考えたときに逃がすパターンでも、そこで「〜して〜して」にしようと思うのかっていうか。でもこうやって踏んでくるんで面白い。

 鯉の顔してたましいすわつてい

可 「いる」みたいな感じ?

吹 あ、「いる◯◯◯」で三文字とか。

凱 終わる感はありますね。楽しい。座っている。

可 でもそれは、私が好きなだけなんだけど。ひらがなの「い」ですもんね。

生 そうですね。

凱 そうですね、でも旧かなの「ゐ」じゃない。

可 あー、そうか。「ゐ」は古くなっちゃうのか。古くなっちゃうって言い方……ね?

凱 季語だったら、「いのこづち/ゐのこづち」とか?

吹 「いつの◯◯」みたいな?

生 あー、さらに展開していくパターン。

可 あ、それだとそうだ。……なんかずっと飽きないな、これ。面白い。

 鯉の顔してたましいすわつている

可 「いる」だ。

吹 「いる」?

可 いいの? これで。え? じゃあ、その、私の「座っている」じゃないってこと?

吹 イルカとか。

可 待って、イルカはちょっと面白すぎるだろ。ダジャレだろ、それは。

吹 旧かなの「ゐ」じゃないとしたら……。

可 うん。じゃあ、やっぱり、旧かなの「ゐ」じゃないとしたら名詞になるの? 例えば……イルカ。

凱 イルカだったら、まあ、仮名遣い合ってるけど。季語だし。でも、鯉とイルカじゃ、ちょっと、ちょっとさすがに。急に下手くそになってます。

可 「鯉いるからイルカ出しちゃおう〜〜」

凱 鯉からイルカに行くのはさすがに下手すぎませんか(笑)

吹 そんな奴とは仲良くなれないかも。

可 仲良くなりたくなくなった! 急に仲良くなりたくなくなった!

吹 イルカはものの例えですけど(笑)

可 居留守? わかんない、なんか。でも、あんまり。え、ひらがなで書くようなことなのかな。

凱 これで終わりの可能性もありますもんね。まあ、仮名遣いはあれとして。

可 確かに。もう先がない。ここで終わり。

生 僕は特に否定しないです。

可 え、それはかっこいいな、ちょっと。魂が据わっている。

凱 うん。だから、この仮名遣い違う感じもなんか、ちょっと、自由律俳句に通じている。百年前の……百年前ちょい前の感じ。ありうる。

 鯉の顔してたましいすわつているか


可
 (笑)

凱 (笑)

吹 (笑)

生 (笑)

吹 まずい!!!!!!

可 これだけ見ちゃったら、私、嫌だ。友達になりたかったよ〜。

吹 いや、でも、これは、イルカじゃない。

凱 名詞じゃない、ドルフィンじゃなければ。ドルフィンでさえなければ。

吹 まだ友達になれる余地はある。

可 まだいける。

凱 井口さんは友達になれるか、なれないかで、割と判断してるんですか?(笑) 作品に対する向き合い方として。

可 全部ではないけど、私けっこう友達になれるかで見てるかもしれない(笑) これをやって気づきました!

凱 友達になれると、加点なんですか? 作品もいい、って。

可 私にとってはいいかな。

凱 自分が読んでて、心地いいなって?

可 自分と作品の作風が近いからなれる、とかではなくて、魂が近そうか。もっとソウルメイトみたいな感じで、求めたいので。友達になりたいです。でもイルカだったらちょっと……ダジャレだもんなぁ。

吹 これで終わる可能性はあるんですか?

可 ある? なっているか? あんまりなさそう。

凱 まあでも、韻律的にはもう終わりな感じするけどなぁ。

生 うん、そう、上五をどこまで取るかによって、終わるかどうか決まりそうですよね。「鯉の顔して」まで上五に入ると「鯉の顔して、たましいすわつて」って感じになるから。逆に「て」を中七に入れると、「鯉の顔、してたましいすわ、つて」って感じになるから、これだったら終わるのもあり得るかっていう感じ。

凱 「すわつているかしら」とかってする可能性がありますね。なんか、それこそ澄子さんっぽくなっちゃって。

生 あとは正木ゆう子さんとか。

凱 まあ、仮名遣い間違ってますよ(笑)

可 そんな、そんな初歩的な。

 鯉の顔してたましいすわつているか神

吹 「イルカ神しん」「イルカ神かみ」

可 イルカ神……(笑) イルカ神だ。イルカが神のように持ち上げられてる。え。そういうことじゃないの?

(Yさん再登場)

Y だれのはなし? だれのおはなし? みたい、みたい。

可 今のままだとイルカが神になっちゃうから。そうじゃなくしたいんですけど。これで終わったらおもしろい。

凱 全然意味がわからなくなった!

可 でも「たましい」から「神」が出てきても別にいいのか。と、なんとなく私の中では、そうかしら? って思っちゃいました。

凱 基本的に情報が明かされていくというか、字数が増えていけば読むほど読みが定まってくるはずなんですけど、なんか、どんどん拡散していってる気がする。

可 全然ね。

凱 なんでこんなことが起こるんだ、と。

可 いかない、全然。「じゃあこういう意味で」ってならないんですね。

凱 ならないんですよね。怖い。怖いよな。

吹 でもなんか、「たましい」と「神」が近いから、せっかくの「鯉の顔」が微妙に独立しちゃうのもったいないよね、みたいな気もある気がして。

凱 そうなんですよね。

吹 まだ頑張ってほしい。お前はまだいける、と思う。

生 みなさん、これで終わりと捉えるか、これで終わるとちょっと煮え切らないものがあると捉えるか、どちらの感じですか。

可 もっと欲しいな。

吹 もっと欲しい。煮え切りはしてない。

凱 もっと欲しいですけど、もうこれ以上行かれても……みたいなところはありません? 塩を入れすぎた料理に、べつに砂糖を入れてもどうにもならない、みたいな。

生 砂糖を入れても別に合わせられない。

凱 それで中和はされないよね、みたいな(笑)

可 それもある(笑)

生 そうだね。OK、じゃあ最後かどうかをちょっと確かめましょう。はい、行きます。

 鯉の顔してたましいすわつているか神前

凱 おお! これで終わりなのかな。

可 あ、でもこれで私ちょっと納得したかも。やっと定まったかも。神だけだとちょっと……神の前なんだ。お祈りする? とか。

凱 ドルフィンじゃないことが確定しましたね、これ。

可 ドルフィンじゃなくなりました。

吹 「い」がやっぱり変だったんだ。

凱 「い」が悪いよー、「い」が。

生 何度も確かめたんですが、僕の誤植ではありません。はい、じゃあこれで終わりかどうかというところで。

鯉の顔してたましいすわつているか神前阿

可 あ、そこも一文字ずつなの。

凱 まあまあ、やっぱそう、そうか、やっぱそうですよねっていう感じですね。あの人か。

生 あの人だったようです。


 鯉の顔してたましいすわつているか神前 阿部

 鯉の顔してたましいすわつているか神前 阿部完

 鯉の顔してたましいすわつているか神前 阿部完市

 

生 はい、阿部完市と。

可 阿部完市ですね。きゃー。素晴らしい……素晴らしいって言っちゃった。

生 なんていうか、「神前」の「前」が来ることで、「すわつているか」にちゃんと景色が与えられるというか、神の前で座っている……「いるか」と疑問形ですけど、画が出てくるっていうので、けっこう納得感はそこそこはあるのかなっていう気はします。

可 こういうことしますよね。なんていうか、最後にバーってブーストかけるっていうか、最後でバッて景がまとまるみたいなのをする気がする。文字いっぱい使って。イメージで言ってます。

生 それは確かに阿部完市にすごく多いですね。

吹 「神前」だと「顔」もすごい納得です。うまさだけじゃなくて納得感がありますね。対面してる感じとか、彫りの深さみたいな感じが出るかもしれない。なんか、技術以上に「顔」の良さが最後に分かってきたなあ、という感じでした。

可 なんかめっちゃ短歌をやるようになった頃から、私、阿部完市の韻律が分かるようになってきて。なんか余ったりするじゃないですか。私それが全然分かんなかったんですよ、昔。でもなんか、ああ、もっと韻律に対して寛容でいいんだって思えるようになって、ああ、そういうことなんだって。全然、私もこれ読んで、スッと落ちるところが好きなんで。うん。韻律に対して寛容になったなあ、と思います。

生 七八七だな。

可 「いるか神前」って、パーッっていう感じっていうか。って読みました。

生 補足すると、阿部完市ってちょっと独特の仮名遣いなんですよね、実は。阿部完市の仮名使いってある時期から基本現代仮名遣いになるんですけど、なぜか促音の「つ」は大きく書くっていう独特の仮名遣いなんですよね。この句だけじゃなくて、阿部完市の文体としてそういうふうになってて、ずっと。

凱 個人的な反省でいうと、もう少し早く「い」の段階で阿部完市かなというふうに疑っておけたな……。読者には、思った人も多分いるでしょうね。言われりゃそうだよなぁって感じだなぁ……。なんか悔しいなぁ、めっちゃ真面目にやったのに。いや、阿部完市が真面目じゃないわけじゃないですけど、なんかこう、途中まですごい、こう、全然違うトーンで読んでたと思って。

生 うんうん。

凱 なんかこう、阿部完市って名前がつくと、阿部完市の作品だと思う、別のOSを駆動させて読みに行ってる感じがあって。

生 はいはいはい。

凱 なんか途中まで文字化けしてたなーって感じ。文字化けしてたというか、なんていうのかな……いや、あんまり良くないのかもしれないですけど、阿部完市という名前がつくと、なんか読めるものとして、読むモードに入る気がしてて。

生 でも、読みのモードの話って、実は、これやるとより分かった感じなんですけど、めちゃくちゃあるなって思ってて、伝統俳句と思って「鯉の顔」って見たときと、阿部完市と思って見たときの「鯉の顔」っていうのが全然、違う風に見えてくるって、それは普通のことって言うと変だけど、他のあらゆる句にに対して言えることだよなと思って。逆もまた然り。読み方によっては前衛だと思って読むと、その後に続くのもなんか違う、富澤赤黄男の句だと思って読むとなんか次違うよなーって思って、とかすると思うので。まあ句会は別ですけど、どうしても作者名が一般的に読みに含まれるので、読みのモードの話はあるよなーっていう感じがしました。

凱 この句が、いい句なのか問題っていうのも、聞いてみたいと思いましたが。

生 正直どうです? その辺。吹さんとかどうですか。

吹 今となっては普通にいい句だなって思います。全体を見ると、特に「神前」があるから、「すわつているか」の呼びかけとか応答の要請みたいなのが自分に向く感じがするというか。「神前」に「すわる」ことの空気感の重さとか、静謐さって結構自問自答ありきな気がする。考え事をしていた方が重く見える気がしました。「神前」があると、「鯉の顔」とか「たましい」とか、なんかある種の盆栽的なもの、の、格調高さとか精神性みたいなのがわかる気もする。ちゃんとかっこいいですよね。今思ったんですけど。でも、やっぱり途中まで読んでいる時点では全然そんな風には思えなかったり、「鯉の顔ちょっと浮いてるな」とか、「たましい」って割と抽象的というか、ふわっとしてるなと思って見てたから、名前が出てるのもそうなんですけど、語だけで読もうとしてたなって思いました。

可 私も好きなんですけど、どちらかと言えば好きな句で、バーッと読んでたときに、本当にどこで落ち着くか分からなかったんですけど、今バッと全体見たときにやっぱり「神前」がいいなって思って、それでバシッと一個、景がパキッと決まる感じがあって、それはすごいいいです。もう本当「神」だけだったときに「マジかよ。神来ちゃったよ、最悪」みたいな気持ちで(笑) そこに「前」がついて「神前」になるだけで、こんなに決まるのかと思って、すごい面白いです。

凱 友達にはなれるなって思いました?

可 なれるなれる! こういうこと言う人になりたい。

生 阿部完市が喜んでると思う(笑)

凱 「神前」っていうから、「神」があってその周りに民がいるような構図になるのが、人間から見たときの人と鯉との関係性というか、その景色というか、見え方と重なる感じがするのかな。あと「たましい」もね、「鯉の顔」みたいに現れたり現れなかったりするみたいなところもあるんだろうと思うので。なんだかんだやっぱり、叙景があるんだと思うんですよね、この句の後ろには。

生 うんうん。

凱 二つ面白いなと思ったのが、まず阿部完市に関することで言うと、阿部完市の俳句は韻律が気持ちいいみたいな、そこの依存性みたいなところでパッと読み進めていく、次々気持ちよくなって読み進めていくっていう感じで読んでたんですけど、意外と阿部完市ってめっちゃ時間かけて読んだ方が面白いのかもって思って。中途半端に一句一分ぐらいかけて読むのが、一番面白くないのかもしれない。パッ、サッて音だけで読むか、一句に三十分ぐらいかけて読むかのどっちかの方が……その中間が面白くないみたいなところがあるんじゃないかなと思ったんですけど。

生 あー、それはでも分かるな。要はあの、阿部完市でしょって思って、なんていうのかな。さらっと。

凱 アンビエントミュージックのように聴く。それか、めっちゃ分析的に読んでいくかの、どっちかの方が面白くて、その真ん中の部分の効用が急に小さくなるみたいな。すごく不思議だったのは、基本的に情報量が多くなれば、要するに句の言葉数が増えるほど、景色とか詠まれていることは確定していくはずじゃないですか。なんですけど、この句を読んでて途中まで何か「あ、この方向ね」って確定していたのがなんかこう、一字入ることでなんかブワーって急に選択肢が広がるみたいな、急に拡散するみたいなことがあって、情報量が増えることによってわけがわからなくなるみたいなことが起こったのが面白かった。だから情報量が少ないときは、何らかの読みの補助線が、作品の外部から無意識に利用されているんじゃないかなっていう感じがしましたね。

生 なんだろうな、型によって相当、人って枝を刈り落とすように可能性を削ぎ落としながら上から下に読んでるんだなっていうのはちょっと分かったというか。こういうタイプの句を一文字ずつ追っていくと、これまでに「これ以外にないわ」って思ってたところから一文字増える拡散することによって、読みが変化するのはおっしゃる通りだなと。

可 めっちゃ面白かったです。本当に全然読みが決まらなくて。「何? どうなるの?」みたいな感じがあったのが面白かったな。

吹 季語とかが分かってたら、その時点で逆算して、いいあつらえみたいなのってある気がしていて。そういうのがないだけでも……けっこう選択肢が増えたほうが面白いと思います。チャート式で既に良いものに近づいていくのってあんまり楽しくない気がしていて。

凱 吹さんが元々触れていた俳句から離れたのは、やっぱりそのせいですよね、多分ね。

吹 それなんですよ。上手い先行句があったら、やっぱりそっちのあつらえの方がよく見えるからみんなそうした方がいい、みたいなところがあるなと結構思っていて。微差じゃなくて類型で、類型だったら正解に近いものがもうある。そうなってくると、作者の句っていうよりは、語彙の斡旋の良い悪いの判定をずっとしなきゃいけないっていうところになってくる気がして、それ、、人の形を借りた集合体というか、その人の手柄じゃない気がすると思うと、「手柄欲しいぞ」みたいな気持ちがすごい悩ましい。わからないまま一字ずつ読むと、そういうあつらえの話から一瞬離れる時間とかもあるじゃないですか。

生 しかも作者消してるし、ね。全体としては最適かどうかってあんまり気にせずに読めるから、うん、そうですね。(了)

二〇二四年十月二十日ZOOMにて収録

ねじまわし第九号
二〇二四年十二月一日発行

2023-03-26

三島ゆかり【句集を読む】生駒大祐『水界園丁』を読む

【句集を読む】
生駒大祐『水界園丁』を読む

三島ゆかり

『みしみし』第三号(2019年10月吉日)より転載。

生駒大祐『水界園丁』(港の人、二〇一九年)には、約十年間に作られた句が「冬」「春」「雑」「夏」「秋」の五章に収められている。「冬」から始まっているところに謎がありそうだし、「雑」の章があるところも興味深い。装幀はかなり凝った作りとなっていて、紙の質感も印字の具合も独特である。

さっそく「冬」から見ていきたい。なお、私の記事にはよくあることだが、全体を読み終わる前に章ごとに書き始め、実況中継の体裁をとるものとする。読者としての私のなかで、要するにこういうものだとフィルターができてしまうと、それに落とし込む作業になってしまいそうだから、そうなる前の一句一句に出会いたいのだ。

1.冬

鳴るごとく冬きたりなば水少し  生駒大祐

「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句である。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から始まって豊穣の秋に至る句集なのか。

奥のある冬木の中に立ちゐたり

疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音に味わいがある。

肉食ひしのち山や川なんの冬

いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。

ときに日は冬木に似つつ沈みたり

オーソドックスな万感の自然詠である。

数へてゐれば冬の木にあらはるる

一読かなり分かりにくい。何を数えていたのか、またなにが現れたのか。鳥とか洞とか数えられるもので冬の木に現れそうなものを思い浮かべても釈然としない。そもそも数える対象が現れるものなら、現れるまではゼロで数えられないだろう。そのあたりで「冬の木」をひとかたまりに季語だと思って読んでいたことに気がつく。現れたのは「冬」ではないか。だとすれば、対象物を数えていたのではなく、時間を数えていたのではないか。例えば自分がかくれんぼの鬼で、木に添えた腕に額をつけて目をつむりゆっくり十数えている間にみんないなくなる気配、孤独感。そこに不意にとりとめもなく冬を感じたのではないか。

目に見える対象やできごとを簡潔にあざやかに描く俳句もあれば、とりとめのない感じをとりとめのないままに描く俳句もあっていいだろう。

たそかれは暖簾の如し牡蠣の海

そもそも「暖簾の如し」という着想を得たのは、「たそかれ」の方からではなく一本の紐に牡蠣がいくつもぶら下がり、それが何十本も何百本もある養殖の景の方だろう。それを「たそかれや暖簾の如き牡蠣の海」としなかったのは、小津夜景がいうところの倒装法〔*〕だろう。漢詩によくある修辞の意図的な逆転である。「暖簾に腕押し」ということわざがあるが、倒装法によりつかみどころのない「たそかれ」が広がっている。

〔*〕小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(『豆の木』第19号、二〇一八年)

2.春

春雨の暗きが夜へ押し移る

道ばたや鰆の旬のゆきとどき

雨のとびかひてあかるき花の昼

いずれも明確な対象物があっての叙景句ではない。とはいえ個人に属する気分とも異なる、曰く言い難い大気感のようなものだ。たまたま選んだ一句目と三句目は雨を題材としているが、必ずしも雨そのものではなく幼児期の感覚のように暗くて怖い夜や明るくて華やかな昼と結びついている。また二句目は漁村を歩いてでもいたのだろうか、「鰆の旬」という普通なら知覚しがたいものの横溢を感じている。このような句に出会うと、そうそう、これこれ、と思う。

鳥すら絵薺はやく咲いてやれよ

八田木枯の句には「鶴」や「針」が頻出するが、生駒大祐にとっての「絵」も同じような頻出アイテムなのかも知れないと思い始めている。ここまですでに「よぎるものなきはつふゆの絵一枚」「手遊びに似て膝掛に描かれし絵」「大寒の寝べき広間に一枚繪」「二ン月はそのまま水の絵となりぬ」「芝焼の煙や壁の真中に絵」がある。共通するのは、動くことができない封じ込まれたもののイメージである。それは希望や危機に直面しても同じである。

3.雑

「雑」の章は十四句からなる。「無季」ではなく「雑」というあたり、単に有季にこだわって捨てることがはばかられた句群というばかりではなく、連句的な付け合いを意識したものなのではないか。実際、この章では、「冬」や「春」の章に比べると、前後の句の響き合いにもより強く考慮しているようである。前の句のイメージを引き取ったり、前の句との同字反復をしたりを、連句とは違うマナーで行っている。

星々のあひひかれあふ力の弧

一句目では、万有引力や惑星の軌道に関する科学的な知識が、句のことばに昇華されている。なるほど、ここに季を加えたら余分な感傷が生じてしまうだろう。ここで作者は句そのものではなく、配列の妙味により句と句のあわいに余情をあからさまではなく配置しているようにも思える。この句に後続する五句を挙げると②「いつやらの季題を君としてしまふ」③「友失せぬ欅を楡を置き去りに」④「在ることの不思議を欅恋愛す」⑤「恋いまや狐の被る狐面」⑥「小面をつければ永遠の花ざかり」である。最初の句の「ひかれあふ」から②「君」、②「君」から③「友」が導かれ、④「欅」⑤「恋」⑥「面」はそれぞれ前句の同字反復となっていて、全体的に星々があいひかれあうように隣り合う句は影響を及ぼし合っている。

西国の人とまた会ふ水のあと

七句目は六句目の「永遠」から導かれている。極めて抑制された書き方であるが、「水のあと」が喚起するのは津波もしくは干ばつの傷跡であり、永遠に続くはずだったものの破壊である。そして、この句に続く八句目は「鉄は鉄幾たび夜が白むとも」である。この鉄は廃墟かもしれないし、武器かもしれないが、句としてはまたしても極めて抑制された書き方で「鉄は鉄」だとしか言っていない。前後する「水のあと」の句と「鉄は鉄」の句のあわいに、文明の危機に直面した現代への言い知れぬ思いを感じる。

4.夏

すでに作者の術中にかなりはまっている自分にあらためて気がつく。

五月来る甍づたひに靴を手に

現代俳句の骨法として二物衝撃というものがあることは無論承知の上で書くのだが、この句は「五月来る/甍づたひに靴を手に」と切断して取り合わせの妙味を味わえばいいだけのものだろうか。むしろ切断ではなく、「甍づたひに靴を手に/五月来る」を倒置したものとして、五月が主語としても読めるようにわざと書いているのではないか。見回せは、この二句後には「夏立つと大きく月を掲げあり」があり、さらにページをめくると「夏の木の感情空に漂へり」や「雲は雨後輝かされて冷やす葛」がある。生駒大祐の作品世界では「五月」も「夏」も「木」も「雲」も世界の構成要素として生命を与えられて感情や意思があるように書かれているのではないか。「春」の章には「佐保姫に紅ひく神の大きな手」があったが、動植物のみならず時や気象現象も佐保姫と同じように神に司られた生命体で、ときに人の姿をまとっているようだ。

雲を押す風見えてゐる網戸かな

ここでの「風」もそのようにして生命体である。この一句だけ見れば、人によっては聖教新聞のテレビCMの「僕は風さん見えるよ」という子役を思い出すかもしれない。が、句集をここまで読んできて感じるのは、俳句を通じて自然と接することにより獲得したであろう独自にして強固な、俳人としての世界設計である。その設計に基づいて完成したのが、句集という作品世界である。そこでは現実世界とは異なる生命活動や時間の流れがある。単に擬人化によりうまいこと言ったぜという底の浅い措辞ではなく、生駒大祐にとって俳句とは現実世界から、違う秩序を持った作品世界への射影であり再配置だと考えた方が、腑に落ちる。

心中のまづは片恋たちあふひ

道ならぬ一途な想いの行く末が初めから見えているのだろう。「たちあふひ」の軽佻浮薄なうつくしさがなんとも不吉である。

蟬の穴より浅くあり耳の穴

「蟬の穴蟻の穴よりしづかなる 三橋敏雄」へのオマージュだろう。まこと人間が見聞きできるのは表層のできごとでしかない。

蚊遣の火消えゐる波の響きかな

幼少の旅行の記憶だろうか。波の響きにふと目が覚めると蚊取線香の火が消えている。それからしばらく眠れぬままだったのだろう。状態の持続の「ゐる」と「波の響きかな」と、句末に詠嘆する語順が絶妙である。

夕凪の水に遅れて橋暗む

「遅れて」がよい。平面である水面に比べれば鉛直に立ち上がっている橋の側面は、そのぶん夕日を受けている時間が長いのだろう。それが暗くなるまで見届けている時間の経過が「遅れて」である。先の「蚊遣」句の「ゐる」といい、本句の「遅れて」といい、時間の経過の捉え方のゆるやかさがじつによい。俳句は一瞬を切りとったものがよいとする言説をしばしば見かけるが、決してそれだけが俳句ではない。

暇すでに園丁の域百日紅

そのあたりを自解した句なのだろう。『水界園丁』という句集では、そのように時間が流れている。

5.秋

これまで見てきたような無生物の生命体化や「絵」への固執は本章においてもますますあらわで豊穣な季節を彩る。が、同じような句を挙げてもしょうがないので、違う観点からもう少し見てみよう。

烏瓜見事に京を住み潰す

「住み潰す」はあまり見かけない複合動詞であるが、壊れるまで住み続けるということだろう。あくまで実作者としての直感でしかないが、この句、最初は「今日を住み潰す」と一日の終わりを詠んだものだったのではないだろうか。そこから同音異義語である古都を得て最終稿としたのではないかという気がしてならない。複合動詞の句では他に「擦りへりて月光とどく虫の庭」「鳥渡る高みに光さしちがふ」などが印象的である。

天の川星踏み鳴らしつつ渡る

複合動詞に限らず、生駒句には一句の中に動詞をふたつみっつと詰め込んだものが多い。「ある」「ゐる」なども動詞に数えるならばじつに多い。生駒句を特徴づけているのは「覚えつつ渚の秋を遠くゆく」「雁ゆくをいらだつ水も今昔」などである。無生物の生命体化と一句の中の動詞の多用は、たぶん密接な関係がある。その一方で「虫籠の中の日暮や爪楊枝」「星空にときをりの稲光かな」のような動詞のない句ももちろんある。

ゆと揺れて鹿歩み出るゆふまぐれ

挙句である。多分にもれず動詞三個(うち二個は複合動詞を形成)を畳み掛けるが、眼目は句頭の「ゆ」だろう。動作の作用や状態を表す格助詞「と」の前に置かれ、句中に四回現れるyu音として調べを整えるとともに、たった一音、たった一文字で曰く言い難い状態を表現している。これは田島健一の「ぽ」〔*2〕とともに語り継がれるべき「ゆ」であろう。

〔*2〕「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」(田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂、二〇一七年))

6.まとめ

途中、私は「生駒大祐にとって俳句とは現実世界から、違う秩序を持った作品世界への射影であり再配置だと考えた方が、腑に落ちる」と書いた。違う秩序を持った作品世界では、時間も天体の運行も気象現象も生命体として扱われる。その作品世界を「水界」と名付け、現実世界から射影し再配置する作業者を「園丁」と名付けたのではなかったか。そんなことを感じている。