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2024-01-21

三島ゆかり 岡田由季『中くらゐの町』を読む

【句集を読む】
岡田由季中くらゐの町』を読む

三島ゆかり
『みしみし』第12号(2023年秋分)より転載

岡田由季『中くらゐの町』(ふらんす堂、二〇二三年)は、『犬の眉』(現代俳句協会、二〇一四年)以来の第二句集であり、その間の二〇二一年に第六七回角川俳句賞を受賞している。私にとってはまだ豆の木句会がお茶の水の談話室滝沢で句会をやっていた一九九九年以来の句友であり、今回三二八句から気に入った句を数えたら百句を超えてしまった。紙数もあるので、その三分の一くらいについて触れたい。あとがきに「編年体を採らず、内容を踏まえて章立ておよび配列を行いました」とあるが、それぞれの章がどういう内容なのかを読者が言い当てるのはなかなか難しい。とにかく頭から見ていこう。

一.一〇〇〇トン

章のタイトルは「一〇〇〇トンの水槽の前西行忌」に拠る。場所を示して西行と来れば「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」を思い出すが、マグロやエイが群泳しているであろう水槽との遠さにくらくらする。

仏領の島の切手や秋の雨  岡田由季(以下同)

郵便が届いたのだろうか。それとも夏休みの旅行の思い出だろうか。「秋の雨」との距離のある取り合わせが心地よい。

日向ぼこ赤べこ同意しつづける

赤べこは会津地方の郷土玩具で、首を縦に振る。「ぼこ」「べこ」と強い響きの呼応のあと、余韻のように首を振り続けている。「同意」という俳句になじまない言葉が妙に可笑しい。

父の字のブルーブラック降誕祭

毎年クリスマスプレゼントにはお父上が万年筆の端正な文字でカードを添えていたのではないか。インクの色以外ではあまり使わないブルーブラックが懐かしい。

食堂に死角の席やぼたん雪

実際には単に入口から見つけにくいとか、ウエイトレスがいつまでも注文を聞きに来ないとかなのだろうが、「死角」という言葉にとにかくどきりとする。「ぼたん雪」が時間の経過をありありと感じさせる。

ラテン語を掲げる校舎鳥曇

大学により「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」とか「QUAECUNQUE SUNT VERA」とか掲げられている訳だが、当の学生は意味を知らなかったりする。知の時代ではないのかもしれない。「鳥曇」から陰りのような気分を感じる。

三笠山ほどの膨らみ夏布団

夏布団の膨らみを形容するのに、「三笠山ほどの」はひどく可笑しい。多少しんなりしているような気もする。


二.土筆の範囲

章のタイトルは「自宅から土筆の範囲にて暮らす」に拠る。この章が『中くらゐの町』に住む現在の暮らしのようにも見えるし、子どもの頃の思い出の句が多々混ざっているようにも見える。

着る洗ふ誰にも会はぬ夏の服

誰かに会うときは決して着ない服というのは確かにある。「着る洗ふ」のたたみかけによって、じつはかなりの頻度でそれを着ていることが伝わる。と、ここまで書いて、もしかしたら「誰にも会わぬ夏」とはコロナ禍のステイホームのことなのかも、と思い至った。身につけるものの句では他に「水鳥に会ふときいつも同じ靴」も印象深い。

海見えて見えなくなって墓参

その墓にたどり着くまでに何度か曲がったり、坂があったりするのだろう。そしてもしかすると、その墓に眠る人よりも海の方が身近なのかもしれない。

殺生をせぬ里芋のぬめりかな

殺生のぬめりといえば、例えば血糊だろうか。里芋を食べながら、頭の中ではものすごく飛躍したことを人知れず思っている。

対岸の光は機体鰡跳ねる

鰡が跳ねる時間帯なので灯火ではないだろう。反射する日の光がなんだか分からないくらい眩しいが、それが機体であることは知っている、というくらいなじんだ場所で今、鰡が跳ねている。

兄弟に見える板前今年酒

あらためて確認するような近しい間柄ではないが、でもあの板前二人、兄弟だよなあ、という解決しないもやもや感を抱きながら、それはそれとして、今年酒を味わい、いい気分になっている。

雑炊の吹いても消えぬ光かな

できたての雑炊は泡が光っていて、口に運ぶ前に冷ますために息をかけると泡ははじけてなくなるが、泡のあったところに光は残る。そんな些事をよく俳句に仕立てたものだ。この雑炊はぜったい美味しい。


三.光の粒

この章は自然観察者・岡田由季が捉えた鳥、魚、昆虫などの小動物の句を集めている。タイトルは「笹鳴や光の粒の見えてくる」に拠る。

加減して禽舎飛ぶ鳥蔦若葉

環境に順応して、自然界ではそんな飛び方はしないような飛び方で飛んでいるのだろう。まるで人間のような「加減して」という措辞が妙に可笑しい。そしてちょっと淋しい。

蚊喰鳥空と町との間より

蚊喰鳥は蝙蝠。夕方になると空の低いところに湧いて出るが、「空と町との間より」が言い得て妙である。

一瞬の猿の諍ひ緑濃し

猿の生態は詳しくは知らないが、実際に一瞬で終わる諍いを何度も見ている。序列上位の猿が下位の猿をたしなめているのだろうか。

鳰の巣の喫水線の上がりをり

巣の住民が餌を求めて出ているのだろうか。船舶のような物言いが楽しい。

色鳥の来てそれぞれに意中の木

渡り鳥としてやってきて、まずは営巣だろう。「意中の」という恋人のような表現が、思いがけず楽しい。

肉眼にも魚群探知機にも鯨

船で沖に出るホエール・ウォッチングだろう。肉眼で吹き上げる汐を認め、魚群探知機は水面下の大きさを認めたのだろうが、委細を割愛してたたみかけた「肉眼にも魚群探知機にも」によってその場の興奮が伝わる。


四.女たち

章のタイトルは「青梅雨の麻雀卓の女たち」「空梅雨の骨つつきあふ女たち」「歌仙巻く女たちみな素足かな」に拠る。なお「…たち」という表現を岡田由季はわりと好んでいるようだ。この章には他に「表のみ焚火にあたる男たち」があり、句集全体では「水無月の舞台の袖のこどもたち」「鹿剥ぎの幹に集まる生徒たち」「蛞蝓の出るまでめくる神鶏たち」がある。

矢絣の方が妹冬紅葉

双子だろうか。区別する手がかりを矢絣に見出している。他に「ふらここの双子静かに入れ替はる」も。

人よりも雛の気配の濃くありぬ

桃の節供に向けて雛人形を飾ると、家の気配は一変する。妖艶である。

物流の激しくありぬ朧の夜

単にトラックとか市場ではない。倉庫を行き交う人やロボット、通信網、…。それらすべてが物流として翌日に向けてフル稼働しているのである。対比的に置かれた「朧の夜」が効いている。

解体の和室のあらは木瓜の花

通りがかりに解体の現場に出くわすと、「これ、壊しちゃったんだ」という感慨に襲われることがある。品のいい和室だったのだろう。庭の植栽は後から伐採するのだろうか。そんなことは知る由もなく木瓜が咲いている。

山伏の走る全山芽吹きをり

山伏が山の神の使いとして草木を芽吹かせているような、奇妙な可笑しさがある。

吠ゆる犬見つめ返して日の盛

犬を飼う人の習性として、他人の犬であっても咄嗟に凜と見つめ返すのだろう。それがどんなに過酷な日の盛であっても。


五.自動筆記

章のタイトルは「夏はじめ自動筆記のやうな雨」に拠る。自動筆記はもと心理学用語、のちにシュルレアリスムの旗印となるが、大雑把には意識による抑制を解放し、書きまくることによって無意識を表出する手法と言っていいだろう。章全体の印象としては、自動筆記とは裏腹に隣り合う句をきめ細かく配列することによる、単独の一句では持ち得なかった可笑しみを感じる。それはすなわち連句ではないかと思い至ると、じつは前の章に「歌仙巻く女たちみな素足かな」という伏線があったことに気づく。

コスモスが一番高き花壇かな

晩夏の向日葵、晩秋の皇帝ダリアの間に、コスモスが一番高い時期がある。不在を見ている趣がある。この一句前は「索引部のみの一冊星月夜」。本文の不在を感じさせる。

トラックを見送る仕事北颪

交通誘導員だろうかと読んでいると、次の句は「繰り返しストップウォッチ冬木の芽」で、陸上競技のトラックに読み替えられている。連句のような読み替えがスリリングである。

春光の窓も眺めて美術館

美術館という空間は、陳列された作品だけでなく、建物や窓外の景色も含めて特別なものなのだと思う。そしてページをめくると「船どれも働いてゐる春の海」で、人の営みのすべてが作品のようである。

穴すぐに塞がつてゐる花筏

川の流れの関係で、ひとかたまりに見えていた花筏がほどけて水面が見えたり、もとに戻ったりする。花筏というできあがった言葉の側から「穴」と呼ぶところに諧謔がある。その一句前は「球根を植うる端より忘れたり」。花壇の穴のイメージが推移しているのである。

県庁と噴水おなじ古さかな

高度経済成長期に作られた、当時としては最新鋭の庁舎と噴水なのだろう。どこでも同じようなものが作られたので、妙に懐かしい。前の句は「なで肩に着て人絹のアロハシャツ」。そう、人絹なんて言葉があった頃の古さだ。そして次の句は「あたらしく咲きなほしたり時計草」。人工物の古さに対し、自然はいつもあたらしい。

鳰の背をこぼれ鳰の子泳ぎ出す

この前の句は「南風子午線通る島の端」。大きく提示した景からクローズアップされて、句集全体の挙句となる。次の世代へ命がリレーされ読後感が心地よい。


岡田由季『中くらゐの町』2023年6月/ふらんす堂

2024-01-14

三島ゆかり 【句集を読む】清水径子『雨の樹』を読む

【句集を読む】
清水径子雨の樹』を読む

三島ゆかり


清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)について書く。作者は秋元不死男、永田耕衣に師事、耕衣没後『らん』を創刊。本句集は九十歳で上梓した第四句集。I~IVの四章からなる。

Ⅰ.

まずは順不同で何句か見てみたい。

露なんぞ可愛ゆきものが野に満つる  清水径子(以下同)

巻頭句である。「露」は王朝和歌以来はかなきもののたとえに用いられるのが通例であるが、それを「可愛ゆきもの」と捉えてみせる。本句により、以後冥界と幾たびも行き来することになる径子ワールドの扉を開ける。

朝顔はさみしき色をとり出しぬ

人滲むやうに菫はすみれいろ

全体に植物あるいは色と取り合わせた句はかなり多い。それを基本的なトーンとして、心象の世界へ出入りするような進行となっている。

白桔梗よりも古風な撫で殺し

人間はまたも謝る月の下

「撫で殺し」と言えば「撫で殺す何をはじめの野分かな三橋敏雄」思い出さない訳にはいかないし、並べられたもう一句は広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を踏まえた「あやまちはくりかへします秋の暮三橋敏雄」をも思い出させる。奥付によればこの句集は二〇〇一年十二月二〇日発行で、三橋敏雄は先立つ同年十二月一日に亡くなった。訃報を聞いて句集に入れることはまず不可能な期間だと思うので、まさに「奇しくも」というところであろう。なおこの年の九月十一日にはアメリカで同時多発テロが起きている。

とはいえ、社会で起きた事件と結びつけて読む必要もないし、三橋敏雄と結びつける必要もないのかもしれない。径子ワールドにおいて、死はどこかエロスをまとっている。

亡弟と花を摘みます雪の暮

あれは父あれも父かと雲の峰

「亡弟と」の句は「人間は」の句の次で、雪の暮に摘む花などなかろうに故人が現れる妖気を帯びた句となっている。「あれは父」の句はだいぶ離れたところに置かれていて、故人を回想しているというよりは、天上からしきりにお迎えが来る趣である。

菊といふ名の残菊のにひるかな

春の野のどこからも見えぼへみあん

うぐひすやまだ体内のあるこほる

外来語はひらがなで表記される。一九一一年生まれの作者にとって自然なこととしてそうなのか、特殊な効果を狙ってのことなのかはさだかでない。さだかではないが、「にひる」といい「ぼへみあん」といい「あるこほる」といい、遠く懐かしい青春時代の甘くて切ない響きが感じられる。

俤のまた吹きすさぶ芍薬忌

忌のごとし泉にもある生(なま)夕暮

「芍薬忌」はどなたか作者に近しい方の忌日なのか、架空の誰のでもある忌日の造語なのか。一方、ルビをふられた「生(なま)夕暮」は明らかに造語だろう。こんこんと湧く生命の根源のような泉が、「生(なま)夕暮」の時間帯には忌のようだという。なんという生と死の交錯。

水の精かかときれいな葦の花

前後するが、「忌のごとし」の句の一句前に置かれた句。「葦」は「足」と掛詞になっていて、みずみずしくもなまめかしい。

枯るるまでさ迷うて居る恋慕とは

ほととぎす言葉みじかきほど恋し

九十歳での句集であることにとらわれすぎてはいけないのだろうが、狂おしい。

梟やこころ病まねど山坂がち

欲望や都忘れのあたり過ぎ

単純に狂おしいばかりではない。ヤマ、ヤマと韻を踏み、植物名には原義を掛ける。いろいろな技法が熟成し渾然一体となってあらわれる感がある。

かの夜から菊の根分けを指図せり

驢鳴集おぼろの雨戸しめかぬる

『驢鳴集』は師・永田耕衣の句集。あたかも冥界との通信が途絶えないように雨戸をしめかねている風情がある。


II.

Iの句を見たときには、全体を通じての特徴を把握したかったので敢えて順不同に取り上げたが、IIではなるべく作者が並べた順に取り上げたい。なお私の記事の常で最後まで読み終わる前に書くことを旨とし、序文、跋文、他の方の書かれた文献などは極力読まず伝記的な事実も無視し、ただ書かれた句に沿って実況中継的に読みたい。

卯の花の一心不乱終りけり

妄想の花咲く二人静かな

桐の花半日遊び一日病む

「…の花」で漢数字を伴った句が三句続く。「一心不乱」と言い「妄想」と言い、花への感情の仮託が続く。また章中、「青空よごす十一月を俯きて」「冬一日腹這ふと死が近く居る」などもあるので、いかに伝記的な事実を無視しようとしても病がちであったことは察しがつく。

ああああと春のこころの塞ぎをる

人の亡きあとの牛蒡をささがきに

倦怠または死と対置する現実として、「牛蒡をささがきに」を持ってきた。料理は生命を維持するための忍耐強い地味な作業であるが、よりによって「牛蒡をささがきに」は絶妙である。

めんどりはここここといふ夏の花

華厳とよかなかなも樹も雨あがり

塞ぎがちな句が並ぶ中で、一転して「ここここ」「かなかな」と続き、気分が上向く。

左みて右みて遠し鬼薊

鬼の色少し足りねど鬼薊

一句目の「遠し」は何が遠いと言っているのだろう。交通標語のような「左みて右みて」からすると道路の向こうに鬼薊があって遠いと言っているようにも思えるが、二句目と並べると、どこか遠くの鬼がいる世界を夢見ているような気もしてきて怖い。

大夕立あとの大字(おおあざ)夏木立

青痣の榠樝と忍び笑ひせり

大字は市区町村の区画であるが、それほどまでに大きい夏木立というのが、なんとも飄逸である。そして「大字」の次に「青痣」を並べてみせる。じつに可笑しい。

落椿見付けられすぐ見捨てられ

青簾たちまち吾れの無くなれり

章の最後の二句は、「すぐ」に対し「たちまち」を並べている。ただの青簾なので、現実的には見えなくなるだけだが、この世からの消滅のイメージを重ねているに違いない。


III.

いまものを言へばみぞれが雪になる

章の最初の句。なんともファンタスティックな心象のものいいである。

かの世から秋の夜長へ参加せり

お彼岸のをみならはみな蝶であれ

南風(みなみ)吹きはかなくなれり姉は草

転生の直後水色野菊かな

彼岸此岸を自在に行き来し、人でないものに転生する自在な句境に達している。

白夕立われも物質音立てる

いい顔で睡てゐる月の列車かな

二句目は乗客ではなく列車が寝ていると読める書きっぷりで、擬人法というよりは生命体と非生命体の間をも行き来する趣がある。

濁世とは四、五日さくらじめりかな

「濁世」は辞書的には、仏教で、濁り汚れた人間の世。末世。だくせ。それが「さくらじめり」だと言う。「さくらじめり」は辞書にない。辞書にはないが桜蘂を濡らすあの頃の万物に生命をもたらす雨のことだろう。濁世とはまさに生命のみなもとなのだ。

浅き川なら足濡らす今日虚子忌

虚子忌の四月八日はまた仏生会。灌仏の行事の故に発想は水に及ぶ。余談となるが「虚子の忌の大浴場に泳ぐなり辻桃子」もそのひとつだろう。

夢に見て紅い椿を折りにゆく

折りとりて指揮棒によき濃りんどう

いずれも濃い色の花を手折る句だが、「指揮棒によき」は夢というよりも狂気に近い妖しさがある。

まだ生きてゐるから霜の橋わたる

章の最後の句は、章の最初の句と呼応する趣がある。どこか口語めいた「いまものを言へば」に対し「まだ生きてゐるから」。「みぞれ」「雪」に対し「霜」。


IV.

雪は止んで一月真昼それから

章の最初の句は6+7+4=17音の破調。四音で打ち切られた「それから」の後に余情がある。

裏口に帰つてゐたり夏の月

月のぼるよと二階より声まぼろし

文学は真実である夏の月

春の月やさしき人と居る心地

二階にてもてなす春の月まんまる

月に濡れ森閑と樹の倒れをる

寝ころんでしばらく春の月と居る

「月」を詠んだ句がこの章には多々ある。全体として月にも人格があって、帰っていたりもてなしたりしばらく一緒にいたりする関係のようである。

白露(はくろ)けふ淋しきものに昼ご飯

「白露(はくろ)」は二十四節気のひとつで九月七日ごろ。そして「けふ」。暦が進んだだけで「昼ご飯」が痛切に淋しい。ただならぬ吐露である。

わたくしの電池を替へてみても秋

もう少し歩き秋風たのしまむ

どこからか姉来て坐る秋の風

一句目は飄逸な詠みっぷりであるが、この「秋」はまたしても痛切に淋しい。二句目はそういう秋の風に浸ろうと言っているようである。そして故人である姉がふとどこからか現れる。

手を入れて野川の春をそそのかす

「そそのかす」が抜群にすばらしい。この世に生きていて何かをすれば世界が作用する。

比較的あきらめのよき落椿

およそ詩のことばとは思えない「比較的」がじつに効いている。

病みて幾日吹雪くとは胸の中

章の最後の句は7+5+5=17音。「雪は止んで」に始まり「吹雪く」で終わる。この句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る芭蕉」の裏返しとなっていて、内面が外界をかけ廻るのではなく、内面は内面のまま吹雪いている。人生の最後の句集としてまとめたであろう『雨の樹』は、本句を挙句として終わる。




2023-12-10

三島ゆかり【句集を読む】宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読む

【句集を読む】
宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読む

三島ゆかり
『みしみし』第6号(2020年晩夏)より転載

『三〇一号室』(港の人、二〇一九年)は、宮本佳世乃の第二句集である。第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(二〇一二年、現代俳句協会)からどのように変化を遂げたのか。第一句集を読んだときには、特徴的な要素をグルーピングして述べたが、今回は頭から章ごとに見ていきたい。

1.片側の

一ページに三句ずつ配列された句集の最初のページは、【取扱注意】の宣言として置かれている。

来る勿れ露草は空映したる  宮本佳世乃(以下同)

わざわざ「勿」の字を使っているからには、「勿来の関」を踏まえたものだろう。「どうか~しないでください」の意の「な~そ」に「禁止」の意味の「勿」を当てた「勿来の関」は、東北の関所としての実在性はともかく、歌枕として異界の入口であったり、恋の障害であったりしたようである。それを句集の冒頭に置くということは、私の句集を普通の句集だと思っているならどうか来ないで下さいという表明だろう。

キツネノカミソリ金網の向うは水

キツネノカミソリはヒガンバナ科(旧分類ではユリ科)の植物だが、その名の妖しさによって選ばれたものだろう。金網によってここでも世界が区切られている。

からすうり里の朝から母を逃がす

大罪を犯すと決意したように肉親を逃がしている。この句集は最初のページからして、そのように始まるのだ。句から作者の現実的な生活を思い浮かべて解釈するような読みは通じない。

ここまでの三句のうちの二句は句尾が助動詞や動詞である。特に「たる」で終わる句は句集全体で二十句以上に及びかなり多い。単に一句として見れば、重厚感、安定感の点で体言止めや「かな」「けり」などの切れ字に分があるが、配列として見渡した場合、動詞終止形による進行感、連体止めによる浮遊感などが適切に組み合わされてこそ、それぞれが互いに効果を発揮する。

六階のあたりに今日の月が居る

配列への配慮という点では、「転じ」による変化も著しい。宮本が編集する『オルガン』誌では連句が継続的に取り上げられているが、そこからのフィードバックもあるのだろう。「片側の」の章は秋・冬の句からなる。冒頭から季語だけ拾うと露草、キツネノカミソリ、からすうり、七夕笹、秋祭、と続く。どこか林に隣り合った集落のイメージが立ち上がってくるが、それを裏切るように置かれるのが掲句である。この「六階」のようにして、以後「スーパーの袋」「真空管」「透明な傘」「トランプ」「ナイロンテグス」「患者」「鍵盤」などが現れては転じ、気がつくと生死の境に連れて行かれている。転じつつも概して静謐にして空気の薄い世界…。佳世乃ワールドとはそんなところである。

かなかなに血の集まつてゐるばかり

「に」が独特である。移動を表す動詞とともに使われているととれば、血がかなかなに集まっているともとれるし、動作・作用の起こる原因ととれば、かなかなのせいで私に血が集まっているともとれる。が、韻文のことばなので、どちらかに断定してそこから論理的に現実を説明しようとするのは、あまり意味のあることではないだろう。かなかなの鳴き声は、種を保存するための哀切な求愛行動である。それを万感で受け止めて得られたのが、本句の措辞だろう。

ざぶざぶと芒掻き分けあなた鍵

鍵を忘れて出勤した夫を駅まで追ったことがあるのかも知れない。そんな「あなた鍵」であるが、記憶を塗り替えて悪い夢にうなされるような「ざぶざぶと芒掻き分け」が凄まじい。とりわけ「ざぶざぶと」がオノマトペとして尋常ではない。

冬の点描みな健康の紐を曳く

点描といえばスーラに代表される新印象派の、光を捉えるために輪郭を失った絵画が思い浮かぶ。意図的に曖昧にした「健康の紐」は、ある人にとっては綱引きの綱かも知れないし、ある人にとっては生命維持装置の管かも知れないし、ある人にとっては祭りのひもくじかも知れない。句全体のイメージはつかの間の幸福のように儚い。

佳世乃句の多くは、もののかたちや作者の意思を明確に伝えるために書かれているものではない。まさに「点描」のように、句の世界全体が輪郭の曖昧な光の現象のようなものとしてそこにあり、読者に問いかけている。


2.あをき石

次の章は春と夏の句が並ぶ。

貝寄風に顔出す穴のありにけり 

「顔出す穴」でまず思い浮かぶのは観光地にある記念撮影用のボードである。その地に縁のあるドラマの主人公や歌手が描かれ、顔だけが穴になっていて、訪れた観光客が自分の顔を出しては恋人や家族に写真を撮ってもらう、あれである。しかし取り合わされる季語は「貝寄風」なのである。その地に誰も訪れなくなって、ただ風が吹いているのか。それとも、崖の巣穴から様子をうかがうために鳥か小動物が顔を出すのか。気がつくと、顔の不在について考えている。

さつきから三羽さんかく鳥の恋

一転しておどけた句である。「さつき」「三羽」「さんかく」とsa音で調べを整え、ひらがなの表記も楽しい。「鳥の恋」にも三角関係ってあるのかなあなどと眺めているのだろう。

目はひばり教はり雲雀好きになる

同語反復の片側をひらがなにするのは鉄則ではあるが、ここではもともと知識として知っていたものについて、あれがそれだと教わったのだろう。「ひばり」があれであり、「雲雀」が知識である。

クリアそれから川べりの芽吹かな

クリアは、ゲームなどの中間目標の達成のことだろう。精神集中がほどけ周囲にも気が回るようになる感じを、十七音着地の破調で巧みに表現している。

ボールペンごと春服の掛かりをり

仕事で使うボールペンを胸ポケットに挿している人の上着が、そのままハンガーに掛けられているのだろう。忘れたのではなく今は仕事中ではないのである。

木漏れ日がくちなはを動かしてゆく

リモコンの赤外線の類推だろうか。一筋の木漏れ日の光から不思議な感じ止め方をしている。

うつすらと背中の透けてゐる泉

「からだ」でも「下着」でもなく「背中」であることによって、より官能的な句に仕上がっていると感じる。泉が光をまとった神のすがたをしているようでさえある。

沖すこしゆるんでゐたる黒揚羽

近景の黒揚羽の出現により遠景への観察は一瞬途切れる訳だが、人は経験的に遠景にはなにも発生していないことを知っていて無視している。その無視をやめて俳句の二物衝撃のフォーマットに落とし込むと、遠景は弛緩しこんなことになる。ひとつ前の「うつすらと」にしても本句の「すこし」にしても、微妙な差異によって佳世乃ワールドでは異常を検知して振り切れる。


3.その他は

この章は東日本大震災の被災地を訪ねたのであろう十五句からなっている。

その他はブルーシートで覆はるる

最後に置かれた一句である。震災から何年も経つのにじつは圧倒的大多数が放置され、「その他」として目隠しされているのだろう。


4.かうかうと

この章はふたたび秋と冬の句からなる。「片側の」の章とどのように句を振り分けているのかは、あとがきに書いてない。が、こちらの章はできるがままに即吟したものを極力無加工のまま伝えようとしたものではないかと思う。「片側の」が書かれた曲だとしたら、「かうかうと」は即興演奏なのではないか。言い方を変えると、この第二句集では、一冊の句集の中でふたつの面があるのではないか。

満月の歩く速さでくるメール

子どもの頃、どれだけ歩いても月が後ろに行かないことを不思議に感じたものだった。月が自分と同じ速さで動いているように感じるのと同じ違和感を、すぐメールを返してくる相手の速さに感じているのではないか。

水澄んであとはバドミントンでいい

秋の爽やかさを万感で受け止めての一句だろう。この場合のバドミントンはもちろんオグシオとかタカマツとかの高度な競技ではない、もっとも手っ取り早い娯楽としてのそれである。

日脚伸ぶいまらふそくのらのあたり

表記と発音が異なる歴史的仮名遣いの盲点をつき興じて見せた一句だろう。句会で出されたのであれば、披講者は困ったに違いない。

この章では「ニュータウンの短き坂よ木の実降る」の八ページ後に「十一月坂の短き団地かな」があったり、「音は動いて冬の欅の虚となる」の四ページ後に「ふくろふのまんなかに木の虚がある」があったりするが、日々の即吟の中で同じモチーフが姿を変えて現れているのではないだろうか。


5.ひかる絃

この章は、「あをき石」と同じく春と夏の句からなる。ふたつの章の関係は前章で述べたことと同様だろう。

魚のゐる昼のきはより芽吹きたる

「きは」とは水と大地の境界だろうか、夜と昼の境界だろうか。「魚のゐる昼の」という連体修飾が意味を弛緩させており、得体の知れぬところから芽吹きが始まっている。

末黒野と菜の花の空隣り合ふ

書かれた通りに読むと「末黒野」と「菜の花の空」が隣り合っているように読めるが、すると末黒野には空がないのだろうか。末黒野が隣り合っているのは「菜の花の空」ではなく菜の花が広がる大地ではないのか。という意味上の弛緩を敢えて作り込むことにより、末黒野の黒さと、隣り合った視界の明るさを詠み上げているのではないか。技術として弛緩を作り込んでいるのだとしたら、「ゆるい」とか「意味が分からない」という指摘は当たらない。

空蟬の摑む時間のやうなもの

脱皮する前の蝉は枝を掴んでいたが、それがそのままになっているだけで、空蝉が意思をもって何かを掴んでいるわけではない。しかし眼前の空蝉は確かに何かを掴んでいる。俳人の直観で詠み上げた「時間のやうなもの」という直喩に舌を巻く。


6.フリスク

最後の章は『三〇一号室』で暮らした人の思い出が季節に関係なく集められている。

二階建てバスの二階にゐるおはやう

句集の最後を飾る句である。「来る勿れ」で始まった句集は「おはやう」という挨拶で終わる。もしかすると、宮本にとってふたたび「おはやう」と言うために、この第二句集が必要だったのかも知れない。そんなことを感じる。

2023-11-26

三島ゆかり【句集を読む】永遠の転校生 岡田由季『犬の眉』を読む

【句集を読む】
永遠の転校生
岡田由季犬の眉』を読む

三島ゆかり

『みしみし』第10号(2021年冬至)より転載

本稿の初出は『豆の木』第二二号(二〇一八年)。今回転載にあたり多少の改稿を行った。

岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会、二〇一四年)を読む。内容は六章に分かれほぼ経年順とのこと。章ごとに見て行きたい。


一.「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じ

章のタイトルは「一塁ベース」。

美術館上へ上へとゆく晩夏

朝礼の一人上向く今日の秋

新生児室の匂ひや星祭

十月の家庭裁判所の小部屋

章の中の見開きに並んだ四句である。たまたま開いたページがそうというわけでもなく、岡田由季の句は総じて状況の提示が簡潔にして鮮やかである。なんでこんなにうまく切り取れるんだろう。そんな中で三句目は異質だ。いわゆる二物衝撃の作りとなっていて、新生児室が中心で星祭を取り合わせたようにも、星祭が中心でそこに「新生児室の匂ひ」を感じたようにも取れる。新しい生命と星祭をめぐる伝説との取り合わせの中で、読者の想像は自在に広がる。

自動ドアひらくたび散る熱帯魚

遠足の別々にゐる双子かな

日常のなかの曰く言い難い違和感を印象深く句に仕立てている。「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じである。

父と子が母のこと言ふプールかな

人日やどちらか眠るまで話す

血のかよった人間関係というか、了解しあえる機微というか、そういうものがそのまま句に定着されている。この句の世界、そうとう好きだ。


二.あるがままにそこにある感じ

次の章は「城へ」。

卒業を小部屋に待つてゐたるなり

釣堀の通路家鴨と歩きけり

日の溜まる時代祭の支度部屋

かなかなや攻守の選手すれ違ふ

岡田由季の句には、華やかな舞台へ出る前とか、場面交代の奇妙な間合いを詠んだものが少なからずある。それも、不安だとか感情が高まるとかの描写ではなく、ただそういう間合いがあるという提示なのである。

しやぼんだま見送りてから次を吹く

花水木荷物と別に来る手紙

これらも奇妙な間合いの仲間かも知れない。

春日傘立つて見てゐるイルカショー

百日紅モデルハウスの中二階

自宅兼事務所のまはり田水沸く

だからなんだ、ということはほとんど言っていないのに、この場所の提示の面白さは何なんだろう。

だんだんと案山子の力抜けてくる

霧の這ふ卓球台の上と下

なにか、見えるものすべてが力が抜けて、あるがままにそこにある感じなのである。いいなあ。


三.七番センター岡田

次の章は「アフリカ」。

大人のみ部屋に残れる三日かな

正月に親戚が集まると、いとこ同士の子どもばかりで外へ出て行って遊びに興じたりすることがある。それを回想するのではなく、小学生の少女・岡田由季として詠む。前章の「悴んでドッジボールに生き残る」も、あるいは「目覚めては金魚の居場所確かむる」も、小学生の少女・岡田由季が息づいている。

犬笛の音域に垂れ凌霄花

凌霄花は校庭のネットなどかなり高いところに垂れているのを見かけるが、それを「犬笛の音域に垂れ」と詠めるのは愛犬家の岡田由季ならではだろう。犬と言えば「敷物のやうな犬ゐる海の家」も楽しい。

秋蝶もゐてセンターの守備範囲

野球の句では他に「どくだみや一塁ベース踏みなほす」「かなかなや攻守の選手すれ違ふ」「ブルペンの音聞こえ来るクロッカス」「敵側のスタンドにゐてかき氷」があり、どの句もじつにリアリティがある。もしかすると、少女・岡田由季は男子に混じって実際にグラウンドに立っていたのではないだろうか。だとすると句集の最初の章が「一塁ベース」だったのは深い必然性があってのことだったのだ。


四.奇妙なずれの可笑しさ

次の章は「好きな鏡」。

菜の花の奥へと家族旅行かな

日常会話であれば旅行の行き先は鴨川であったり館山であったりだろう。そこへいきなり「菜の花の奥」と置く。岡田由季の句では、しばしば解決すべき因果のレイヤーがずれていてなんとも飄逸な味わいが感じられる。

拾はれて七日目の亀そつと鳴く

「亀鳴く」は、歳時記を開けば「実際には亀が鳴くことはなく、情緒的な季語」とされている。そこまでは周知のこととして俳人は腕を競うわけだが、岡田由季は何かと取り合わせるでもなくしれっと「拾はれて七日目の亀」などと嘘のディテールを付け加える。そうとう可笑しい。

帰国して朝顔市に紛れをり

まるで犯罪者が潜伏しているようなものいいである。

百号の絵に夏痩せの影映る

絵画を鑑賞すべき場所で、絵画ではなくその場所にいる自分を俯瞰して詠んでいる。「マスクして大広告の下にゐる」という句もあるが、「百号の絵」も「大広告」も人間界の意味情報としての機能を失い、宇宙人としてそこに佇む趣となっている。

要点をまとめて祈る初詣

前の章に「喪失部分ありて土偶の涼しかり」という句もあったが、「要点」とか「喪失部分」とか、詩的とは言えない実務的な語彙が岡田由季の句の世界にはしばしば入り込んでいて、奇妙なずれが絶妙に可笑しい。 


五.極端に単純化された不動の犬

次の章は「ネコ科」。

隣り合ふ家の朝顔似てゐたり

二つの絵が左右にあって「この絵には違うところが何ヶ所あるでしょう」というのがあるが、岡田由季の句の世界も、読者が問われているようなところがあって、よく知っているものがなにか違うものに感じられ始めたり、逆に違うものだったはずのものが同じに見え始めたりする。掲句、「そりゃ朝顔なんだから似てるでしょう」と片付けられない佇まいを感じる。

天高し待つときの犬三角に

私自身は犬を飼ったことがないのだが、これは「おすわり」の姿勢だろう。広がる秋空の下、「三角」とまで極端に単純化された不動の犬の従順さ、飼い主への信頼が胸を打つ。

ギリシャ語をふたつ覚えて秋の航

「はい」と「いいえ」だろうかとか、「こんにちは」と「ありがとう」だろうかとか、読者の方で想像がふくらむように仕組まれた「ふたつ」がいい。

川沿ひは歌はずにゆく聖歌隊

なんだか現金な聖歌隊である。 


六.永遠の転校生

最後の章は、「超軽量」。

すこし先の約束をして猫じやらし

約束の中身については何も触れていない。ただ、まったく平生と変わらぬかのような季語と取り合わせる。だから却って人生の転機となる約束なのではないかと想像がふくらむ。

枯芝に思ふぞんぶん菓子こぼす

句集全体を通して句の幅としても作中主体の生活態度としても非常に抑制が効いていて、おもいっきり羽目をはずして「やったぜ」という感じのものはほとんど見当たらない。そんな中での「思ふぞんぶん」が「菓子こぼす」であるのがひどく可笑しい。

追ふ蝶と追はるる蝶の入れ替はる

急がぬ日急ぐ毛虫を見てゐたり

句集全体を通して表面的な作句技法に走る傾向はほとんど感じられないし、むしろそういうことを感じさせないように周到に配慮しているのではないかとも思うのだが、そんな中でのリフレインの二句である。

ひとりだけ言葉の違ふ茄子の紺

東京から関西に移り住んだ境遇を籠の中の茄子に託しているようにも見えるが、そんな断定はしない方がいいだろう。これまで見てきたように岡田由季の句は、その場所に初めて立ったような奇妙なずれや、小学生が初めて感じたような違和感を打ち出すことによって、岡田由季ならではの飄逸さに充ち満ちている。いわば、岡田由季とは永遠の転校生なのだ。


2023-04-02

三島ゆかり【句集を読む】川合大祐川柳句集『スロー・リバー』を読む

【句集を読む】
川合大祐川柳句集『スロー・リバー』を読む

三島ゆかり


いつの頃からかツイッターでフォローさせて頂いている柳人で川合大祐さんという方がいらして、つねづね句を拝見しては「おお、そうきたか」と感じ入っていたのだが、川柳句集『スロー・リバー』(あざみエージェント。2016年)を上梓されていて、しかも版を重ねているということを最近知り、遅ればせながら拝読した。この句集が川柳界でどのように評価されているのかはまったく存じ上げないし、そもそも私に川柳のことが語れるのかも分からないのだが、感想文をしばらく書きたい。私が書く記事の例に漏れず、伝記的な事実はほとんど無視し、章ごとにあたまに映るよしなしごとを綴る。
 
.表記の快楽

第Ⅰ章は「猫のゆりかご」。そういえば人に勧められてカート・ヴォネガット・Jrの同題の小説をKindleでダウンロードしたまま、それっきりになっている。読んでいれば見えるものががらっと変わるのかも知れないが、委細構わず進む。

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む

冒頭の一句がいきなりこれだ。「ぐびゃら岳」も「じゅじゅべき壁」も「びゅびゅ」も、経験的になぜか固有名詞であることは分かる。そして実在しないであろうことも。「猫のゆりかご」をやり過ごしたように、もう知らない固有名詞はやり過ごそう。そう、大したことじゃない。

兄弟よわたしは한が読めません

読めないと言っているのに、五七五の中に読まれることを想定して収まっている。困ったものだ。ちなみに私も読めないので、その字をブログに転記するのに、ハングルを要素ごとに組み合わせるサイトを使用した。ところで句集の字をよく見ると左上はなべぶたではなく、二になっている。活字上区別があるのかも知らないが、もしかすると本当にだれも読めないのかも知れない。

この二句のあと、…、()、/、▽、ルビ、空白などを駆使した句群が続く。俳句ではあまりやらないやり方だが、ポストモダン的な素養があればさらに楽しいのだろう。三句ほど紹介しておこう。こんな感じである。

この紙は白色しかし     空白だ

あ、の字形崩れるような叫びして

」あるものだ過去の手前に未来とは「

句自体が作品として向こう側にあるのではなく、現在進行形で読者にしかけてくるトリックというのも、俳句ではやらないことかも知れない。

郎読をしてほしいから誤字にする

振り向いてごらん次の字読まないで

2.永遠にシニフィエになり得ないシニフィアン

第Ⅱ章は「まだ人間じゃない」。章のタイトルを見て最初に思い出したのは『妖怪人間ベム』の主題歌中の台詞「早く人間になりたい」だが、どうもそういうことではないらしい。
 
二億年後の夕焼けに立つのび太

この句を筆頭に作中人物や作家を題材とした句が果てしなく続き、「ロボットに神は死んだか問うのび太」で章が終わる。章の最後まで読み終えてもう一度、章のタイトルを見たとき、はたと気づく。シニフィアン(記号表現)が永遠にシニフィエ(記号内容)になり得ないように、作中人物ののび太は、たとえ二億年経ってもほんものの人間そのものではない。章全体がそう問いかけている。

体言であろうタモリという男

指し示す表現は、ここでも指し示される内容そのものではなく、絶妙なずれが可笑しい。

そうこれはムーミンですね下顎骨

物語の世界から逸脱し、化石として解剖学的に扱われるムーミン。

鳥がいて隠れる犬の吹き出しに

絵の一部に描かれるのに、通常はそれが絵の一部を隠していることを暗黙的に問われない、漫画の吹き出し。その問うてはいけない約束を問うとこんなことになる。

翻訳の町にブラック・レイン降る

井伏鱒二である。「黒い雨」だろうが「ブラック・レイン」だろうが、記号表現が指し示す記号内容は同じはずである。しかしそれが同じではないこと、また記号表現そのものが翻訳不能な価値であることを、私たちは知っている。
 
3.乱反射するベスト・ヒット・アルバム

第Ⅲ章は「幼年期の終わり」。これまで見てきたふたつの章と異なり、たぶん章としてのテーマ性はない。最終章として、方向性を限定せずベスト・ヒット・アルバム的に句が集められたものだろう。

眠るものまさに時間のかたちして

時間という抽象的な概念を用い「まさに時間のかたちして」という。虚を突かれ、ついし信用してしまいそうになる。

目の裏を見るように見る月の裏

目の裏を見ることはできない。そして月は自転の速さだかの関係で、つねに地球に同じ面を向けていて、月の裏を見ることはできない。できないこと同士が力業で「ように」で連結され、読者をだましにかかる。そのもっともらしさは、短詩系ならではのものだ。

牧場に両親だけが残される

幼い兄弟が残されるなら、そんな童話がありそうである。ここでは逆転して両親が残される。どんなブラックでノンセンスな結末が訪れるのだろう。

もう靴は脱がなくていい世紀末

選択肢のひとつとして人類の滅亡があたまをよぎる。そりゃあ、もう靴は脱がなくていいよね。

燃える町過去はいつまで過去なのか

「もはや戦後ではない」と発言したのは誰だったか。過去はいつまでも過去である。

石鹸をきたないものとしてながす

確かに。しかし使用前と使用後で区別する呼び名を私たちは持たない。

一日は十七時間よりながい

俳句では当たり前の事実に季語などをくっつける「日にいちど入る日は沈み信天翁 三橋敏雄」みたいな作り方があるが、当たり前の事実だけで五七五を使い果たしているのがなんともすごい。
 
電線の先に聖なる人がいる

OSI参照モデルみたいなものを思い浮かべるまでもなく、電線を介して私たちの思考はネット上を駆けめぐる。ときとして宗教も恋愛も電線の先の像に過ぎない。

東京に全員着いたことがない

本来着くべき一団が着かないのならそれはそれで怖いし、地球人全員とかを思い浮かべればそれはそれで真理である。

構造化されているので北酒場

どう考えても「構造化」と結びつかない「北酒場」の、なんというか階層のずれ具合が可笑しい。

というわけで、硬直した俳句脳にはじつに刺激的な句集なのだった。


川合大祐川柳句集『スロー・リバー』2016年1月/あざみエージェント

2023-03-26

三島ゆかり【句集を読む】生駒大祐『水界園丁』を読む

【句集を読む】
生駒大祐『水界園丁』を読む

三島ゆかり

『みしみし』第三号(2019年10月吉日)より転載。

生駒大祐『水界園丁』(港の人、二〇一九年)には、約十年間に作られた句が「冬」「春」「雑」「夏」「秋」の五章に収められている。「冬」から始まっているところに謎がありそうだし、「雑」の章があるところも興味深い。装幀はかなり凝った作りとなっていて、紙の質感も印字の具合も独特である。

さっそく「冬」から見ていきたい。なお、私の記事にはよくあることだが、全体を読み終わる前に章ごとに書き始め、実況中継の体裁をとるものとする。読者としての私のなかで、要するにこういうものだとフィルターができてしまうと、それに落とし込む作業になってしまいそうだから、そうなる前の一句一句に出会いたいのだ。

1.冬

鳴るごとく冬きたりなば水少し  生駒大祐

「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句である。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から始まって豊穣の秋に至る句集なのか。

奥のある冬木の中に立ちゐたり

疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音に味わいがある。

肉食ひしのち山や川なんの冬

いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。

ときに日は冬木に似つつ沈みたり

オーソドックスな万感の自然詠である。

数へてゐれば冬の木にあらはるる

一読かなり分かりにくい。何を数えていたのか、またなにが現れたのか。鳥とか洞とか数えられるもので冬の木に現れそうなものを思い浮かべても釈然としない。そもそも数える対象が現れるものなら、現れるまではゼロで数えられないだろう。そのあたりで「冬の木」をひとかたまりに季語だと思って読んでいたことに気がつく。現れたのは「冬」ではないか。だとすれば、対象物を数えていたのではなく、時間を数えていたのではないか。例えば自分がかくれんぼの鬼で、木に添えた腕に額をつけて目をつむりゆっくり十数えている間にみんないなくなる気配、孤独感。そこに不意にとりとめもなく冬を感じたのではないか。

目に見える対象やできごとを簡潔にあざやかに描く俳句もあれば、とりとめのない感じをとりとめのないままに描く俳句もあっていいだろう。

たそかれは暖簾の如し牡蠣の海

そもそも「暖簾の如し」という着想を得たのは、「たそかれ」の方からではなく一本の紐に牡蠣がいくつもぶら下がり、それが何十本も何百本もある養殖の景の方だろう。それを「たそかれや暖簾の如き牡蠣の海」としなかったのは、小津夜景がいうところの倒装法〔*〕だろう。漢詩によくある修辞の意図的な逆転である。「暖簾に腕押し」ということわざがあるが、倒装法によりつかみどころのない「たそかれ」が広がっている。

〔*〕小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(『豆の木』第19号、二〇一八年)

2.春

春雨の暗きが夜へ押し移る

道ばたや鰆の旬のゆきとどき

雨のとびかひてあかるき花の昼

いずれも明確な対象物があっての叙景句ではない。とはいえ個人に属する気分とも異なる、曰く言い難い大気感のようなものだ。たまたま選んだ一句目と三句目は雨を題材としているが、必ずしも雨そのものではなく幼児期の感覚のように暗くて怖い夜や明るくて華やかな昼と結びついている。また二句目は漁村を歩いてでもいたのだろうか、「鰆の旬」という普通なら知覚しがたいものの横溢を感じている。このような句に出会うと、そうそう、これこれ、と思う。

鳥すら絵薺はやく咲いてやれよ

八田木枯の句には「鶴」や「針」が頻出するが、生駒大祐にとっての「絵」も同じような頻出アイテムなのかも知れないと思い始めている。ここまですでに「よぎるものなきはつふゆの絵一枚」「手遊びに似て膝掛に描かれし絵」「大寒の寝べき広間に一枚繪」「二ン月はそのまま水の絵となりぬ」「芝焼の煙や壁の真中に絵」がある。共通するのは、動くことができない封じ込まれたもののイメージである。それは希望や危機に直面しても同じである。

3.雑

「雑」の章は十四句からなる。「無季」ではなく「雑」というあたり、単に有季にこだわって捨てることがはばかられた句群というばかりではなく、連句的な付け合いを意識したものなのではないか。実際、この章では、「冬」や「春」の章に比べると、前後の句の響き合いにもより強く考慮しているようである。前の句のイメージを引き取ったり、前の句との同字反復をしたりを、連句とは違うマナーで行っている。

星々のあひひかれあふ力の弧

一句目では、万有引力や惑星の軌道に関する科学的な知識が、句のことばに昇華されている。なるほど、ここに季を加えたら余分な感傷が生じてしまうだろう。ここで作者は句そのものではなく、配列の妙味により句と句のあわいに余情をあからさまではなく配置しているようにも思える。この句に後続する五句を挙げると②「いつやらの季題を君としてしまふ」③「友失せぬ欅を楡を置き去りに」④「在ることの不思議を欅恋愛す」⑤「恋いまや狐の被る狐面」⑥「小面をつければ永遠の花ざかり」である。最初の句の「ひかれあふ」から②「君」、②「君」から③「友」が導かれ、④「欅」⑤「恋」⑥「面」はそれぞれ前句の同字反復となっていて、全体的に星々があいひかれあうように隣り合う句は影響を及ぼし合っている。

西国の人とまた会ふ水のあと

七句目は六句目の「永遠」から導かれている。極めて抑制された書き方であるが、「水のあと」が喚起するのは津波もしくは干ばつの傷跡であり、永遠に続くはずだったものの破壊である。そして、この句に続く八句目は「鉄は鉄幾たび夜が白むとも」である。この鉄は廃墟かもしれないし、武器かもしれないが、句としてはまたしても極めて抑制された書き方で「鉄は鉄」だとしか言っていない。前後する「水のあと」の句と「鉄は鉄」の句のあわいに、文明の危機に直面した現代への言い知れぬ思いを感じる。

4.夏

すでに作者の術中にかなりはまっている自分にあらためて気がつく。

五月来る甍づたひに靴を手に

現代俳句の骨法として二物衝撃というものがあることは無論承知の上で書くのだが、この句は「五月来る/甍づたひに靴を手に」と切断して取り合わせの妙味を味わえばいいだけのものだろうか。むしろ切断ではなく、「甍づたひに靴を手に/五月来る」を倒置したものとして、五月が主語としても読めるようにわざと書いているのではないか。見回せは、この二句後には「夏立つと大きく月を掲げあり」があり、さらにページをめくると「夏の木の感情空に漂へり」や「雲は雨後輝かされて冷やす葛」がある。生駒大祐の作品世界では「五月」も「夏」も「木」も「雲」も世界の構成要素として生命を与えられて感情や意思があるように書かれているのではないか。「春」の章には「佐保姫に紅ひく神の大きな手」があったが、動植物のみならず時や気象現象も佐保姫と同じように神に司られた生命体で、ときに人の姿をまとっているようだ。

雲を押す風見えてゐる網戸かな

ここでの「風」もそのようにして生命体である。この一句だけ見れば、人によっては聖教新聞のテレビCMの「僕は風さん見えるよ」という子役を思い出すかもしれない。が、句集をここまで読んできて感じるのは、俳句を通じて自然と接することにより獲得したであろう独自にして強固な、俳人としての世界設計である。その設計に基づいて完成したのが、句集という作品世界である。そこでは現実世界とは異なる生命活動や時間の流れがある。単に擬人化によりうまいこと言ったぜという底の浅い措辞ではなく、生駒大祐にとって俳句とは現実世界から、違う秩序を持った作品世界への射影であり再配置だと考えた方が、腑に落ちる。

心中のまづは片恋たちあふひ

道ならぬ一途な想いの行く末が初めから見えているのだろう。「たちあふひ」の軽佻浮薄なうつくしさがなんとも不吉である。

蟬の穴より浅くあり耳の穴

「蟬の穴蟻の穴よりしづかなる 三橋敏雄」へのオマージュだろう。まこと人間が見聞きできるのは表層のできごとでしかない。

蚊遣の火消えゐる波の響きかな

幼少の旅行の記憶だろうか。波の響きにふと目が覚めると蚊取線香の火が消えている。それからしばらく眠れぬままだったのだろう。状態の持続の「ゐる」と「波の響きかな」と、句末に詠嘆する語順が絶妙である。

夕凪の水に遅れて橋暗む

「遅れて」がよい。平面である水面に比べれば鉛直に立ち上がっている橋の側面は、そのぶん夕日を受けている時間が長いのだろう。それが暗くなるまで見届けている時間の経過が「遅れて」である。先の「蚊遣」句の「ゐる」といい、本句の「遅れて」といい、時間の経過の捉え方のゆるやかさがじつによい。俳句は一瞬を切りとったものがよいとする言説をしばしば見かけるが、決してそれだけが俳句ではない。

暇すでに園丁の域百日紅

そのあたりを自解した句なのだろう。『水界園丁』という句集では、そのように時間が流れている。

5.秋

これまで見てきたような無生物の生命体化や「絵」への固執は本章においてもますますあらわで豊穣な季節を彩る。が、同じような句を挙げてもしょうがないので、違う観点からもう少し見てみよう。

烏瓜見事に京を住み潰す

「住み潰す」はあまり見かけない複合動詞であるが、壊れるまで住み続けるということだろう。あくまで実作者としての直感でしかないが、この句、最初は「今日を住み潰す」と一日の終わりを詠んだものだったのではないだろうか。そこから同音異義語である古都を得て最終稿としたのではないかという気がしてならない。複合動詞の句では他に「擦りへりて月光とどく虫の庭」「鳥渡る高みに光さしちがふ」などが印象的である。

天の川星踏み鳴らしつつ渡る

複合動詞に限らず、生駒句には一句の中に動詞をふたつみっつと詰め込んだものが多い。「ある」「ゐる」なども動詞に数えるならばじつに多い。生駒句を特徴づけているのは「覚えつつ渚の秋を遠くゆく」「雁ゆくをいらだつ水も今昔」などである。無生物の生命体化と一句の中の動詞の多用は、たぶん密接な関係がある。その一方で「虫籠の中の日暮や爪楊枝」「星空にときをりの稲光かな」のような動詞のない句ももちろんある。

ゆと揺れて鹿歩み出るゆふまぐれ

挙句である。多分にもれず動詞三個(うち二個は複合動詞を形成)を畳み掛けるが、眼目は句頭の「ゆ」だろう。動作の作用や状態を表す格助詞「と」の前に置かれ、句中に四回現れるyu音として調べを整えるとともに、たった一音、たった一文字で曰く言い難い状態を表現している。これは田島健一の「ぽ」〔*2〕とともに語り継がれるべき「ゆ」であろう。

〔*2〕「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」(田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂、二〇一七年))

6.まとめ

途中、私は「生駒大祐にとって俳句とは現実世界から、違う秩序を持った作品世界への射影であり再配置だと考えた方が、腑に落ちる」と書いた。違う秩序を持った作品世界では、時間も天体の運行も気象現象も生命体として扱われる。その作品世界を「水界」と名付け、現実世界から射影し再配置する作業者を「園丁」と名付けたのではなかったか。そんなことを感じている。

2023-03-05

三島ゆかり【句集を読む】八上桐子『hibi』を読む

【句集を読む】
八上桐子『hibi』を読む

三島ゆかり
『みしみし』第8号(2021年節分)より転載

『hibi』(港の人、二〇一八年)は、八上桐子の第一句集。すでに川柳界で評価を得て増刷までされている句集であるが、私は俳人なので川柳の読み方を知っている訳ではない。丸腰で頭から読む。

すずめのまぶた

一頁に二句ずつ配置された余白の多い句集の最初の見開きを見よう。

降りてゆく水の匂いになってゆく  八上桐子

冒頭の句である。レイアウトさながら句も余白が多い。誰が降りていくのか、なにが水の匂いになってゆくのかは読者に任されていて、「…てゆく」「…てゆく」と畳みかけ調べを作っている。私たち生命体にとって水はかけがえがないものである。これから行く場所は非日常の郷愁に満ちた場所なのではないか。そんな期待が膨らむ。

指先の鳥の止まっていたかたち

かつて飼っていた手乗りの文鳥とかインコとか。もういないが、指先は覚えている。それは不在のかたちであり、寂寥のかたちである。

皆去ってさくらの下が濡れている

畳みかけるように不在と水が続く。伝統的な素材のさくらはそれ自体ではなく抒情として濡れている。

子に足を長めに描かれ春の象

ほんものの象ではない。デフォルメして描かれた象である。子が描いたという事実の痕跡だけが重要なのである。もしかすると、その子はとうに大人になっていて、手のかかった頃が懐かしさの対象なのかも知れない。

この句集はまず、そんなふうに始まる。機知とか諧謔とかは後回しなのだ。ここからは飛ばしながら見ていこう。

空豆のおそらく知っている雲間

風に溶けのこる泡立ち草の泡

どちらもものの名前に触発された句である。こんなふうに詠まれると、私の知っているそのものはなぜ空豆と呼ばれるのだろう、なぜ泡立ち草と呼ばれるのだろうとうろたえる。相手をうろたえさせたらもうしめたものだ。

梟の声だけ聴いている梟

どんな動物だって危険が迫らない限りは同じ仲間の声しか聴いていないのだが、「鵯の声だけ聴いている鵯」では句にならない。しばしば知性の象徴とされる梟だからこその諧謔である。

少年の一人は川を読んでいる

これが「少年の一人は本を読んでいる」だったら日本語の教科書に載っていてもおかしくないありふれた文章なのだが、ありふれた文章をなるべくそのまま残し一箇所だけ置き換えると、たちまち句として立ち上がる。「川を読んでいる」ってなんだ。思春期の心のざわめきが聴こえるようである。

川沿いに来るえんとつの頃のこと

高度経済成長の頃、社会として環境意識が未熟で、川沿いに林立する工場の煙突は煤煙を撒き散らしていた。空気は汚れ川は悪臭を放ち人々は生活に追われていたが、でも今とは違い全体にもっと生き生きしていなかったか。しかし、句はひらがな表記を生かし「えんとつの頃のこと」としか言っていない。余白に余情がある。

ねじれたガラス

よごれてもよい手と足で旅に出る

服とか靴なら分かる。ここでもありふれた文章からの置換で句が立ち上がっている。そもそも手も足もいつもと同じものしかないのだから、まるで普段のままなのだ。妙に可笑しい。

真鍮の把手のついている地名

これも同じ手法によるもの。不思議とオーストリアあたりのイメージが立ち上がるが、読んだ人それぞれだろう。同様の手法の句としては、「地下に出る笑うところを間違えて」「おひとりさまですかと闇に通される」「ヒツウチでいっぱいになる冷凍庫」などがある。カタカナで書かれたヒツウチは国籍不明な魚のようでもある。

両脚にはさんでつぶした半日

もちろん時間をつぶすという慣用表現はあるわけだが、物理的につぶしましたか…。

アサガオノカスカナカオススガシカオ

正木ゆう子の句集にも「ヒヤシンススイスステルススケルトン」という句が入っているが、句集にこういうものを入れるのは、今どきの若者のラップよりももっと古典的な感覚なのかもしれない。

水に溶ける夜

はじめての町をいちじく揺らすバス

これは俳句のようである。「いちじく揺らすバス」だけで、狭隘な道路を民家の植栽ぎりぎりに突っ走る路線バスの景が立つ。

くちびると闇の間がいいんだよ

こういう結局どこなんだか分からない句を読むと身体感覚がむずむずする。遊び慣れた男の口調がうらめしい。

からかって男の肺をふくらます

人工呼吸のマウス・トゥ・マウス法だろうか。遊び慣れた女のようである。

レシートが長くて川を渡りそう

いまどきのレシートは購入商品の列挙だけでなく、カード利用の内訳やクーポンなども連なり、とにかく長い。「川を渡りそう」とはよく言い止めたものだ。

夢に意味があってぬるいコカ・コーラ

向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ

ともに商品名の句だが、このふたつは交換不能だろう。コカ・コーラは夢や青春と強く結びついて刷り込まれているし、ヴェポラップは家族の無事と結びついている。地球上なら昼か夜かくらい分かるだろうと思ったとき、あの世の可能性に気づき愕然とする。 

植物園の半券に似たおわり

一度園から出て昼食をとってから戻るといったケースを想定し、植物園では半券を持っていれば規約として再入場できるようにしているところがある。でもつまらなかったら話は別だ。人間関係でも、戻れるのにそれっきりになってしまう終わりはある。

ままごと

三月の水にもたれている金魚

沈むでもなく浮くでもなく均衡しているのは、まさに水にもたれているからだろう。そんなこと、考えたこともなかった。

向き合ってきれいに鳥を食べる夜

通常は加工された食肉を食べているので、魚に比べると原型を思い出すことは少ないものの、やっていることはこういうことである。俳句でこんな残酷な句はあまり見たことがない。

紫陽花へ向く六月の頭蓋骨

同様に真実を暴いた句である。解剖学的にじつに正しい。

おとうとはとうとう夜の大きさに

これは怖い。肉体の成長とともにこころの闇も広がっている。家族間は無防備なので、同じ屋根の下に夜の大きさのおとうとがいると思うと、ほんとに怖い。

器ごとあたためる

たんたんと等身大にする床屋

「たんたんと」は淡々となのかも知れないし、擬態語なのかも知れない。伸びた髪を切り、本来の自分のサイズになってゆくのかも知れないし、肩や首のこりがとれ、血行の回復とともに本来の自分の姿勢になってゆくのかも知れない。いずれにせよ、もともと1/1スケールの実物に対し、等身大と言っているのが眼目である。

素直に泣くには髪が多すぎる

上五が一音足りない破調である。上五が足りないせいで、ぼわっと髪があふれでた印象がある。床屋はこういうのを等身大にするのだろう。

その岬の、春の

隙間なく触れ合っている海と闇

本来「闇」は大気ではなく光がない状態であるが、こう詠まれると広大な夜の海が広大な夜の大気と触れ合っているさまを捉えて過不足ない。「海と闇」という、本来並べようもないものが、語呂のよさによりぴったり決まっている。

なのはなのひかりはるばるくるひかり

菜の花から目までの光の移動だけでなく、はるばるというのだから太陽から地球までの光の移動を詠んでいるのだろう。すべてひらがなの表記により、敬虔さが感じられる。

まとめ

いろいろな様相の句を見てきたが、句集に収められたその姿は概して静謐である。ざらざらの質感のカバーと余白が心地よく、何度でも繰り返し眺めたくなる。次に読めばまた別の日々や罅が見えてくるのだろう。



2023-02-26

三島ゆかり【句集を読む】岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む

【句集を読む】
岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む

三島ゆかり


本稿は最初『らん』第八四号(二〇一九年一月二〇日発行)に紙幅が限られたかたちで掲載され、のち『ウラハイ=裏「週刊俳句」』(二〇一九年四月一六日)に全文が掲載された。今回転載にあたり多少の改稿を行った。

『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、二〇一八年)は、岡田一実の第三句集。四章からなり、章ごとにしかけがあるようである。頭から見ていこう。

1.暗渠

暗渠とはいうまでもなく、川を治水、衛生、交通などの観点から上にふたをして見えなくしたもの。川としてなくなった訳ではなく、暗いところで脈々と流れているところが眼目である。普段気にかけることはないが確実に存在するものへのまなざしは、岡田一実にとってのテーマであろう。 

火蛾は火に裸婦は素描に影となる  岡田一実

巻頭の句である。「火蛾は火に」で切れるという読みもあり得るが、「火蛾は火に」と「裸婦は素描に」とが助詞を揃えた対句で、両方が下五の「影となる」にかかると見るのが順当だろう。しかしながら「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」は「影となる」のありようが全然違う。前者は単に火という光源に対し火蛾が光源を遮ることを言っているのに対し、後者は光源を遮るという意味ではあり得ず、芸術作品の完成度に関わる内面的な描写のことを言っている。次元の異なるものをあえて対句とすることにより、この句自体が曰く言い難い影をまとっている。その曰く言い難い影とある種の水分が、まさに「記憶における沼」のように、句集を読み進めるにつれ繰り返し現れるのに読者はやがて直面する。巻頭の句にふさわしい一句であろう。

眠い沼を汽車とほりたる扇風機

二句目で「記憶における沼」の核たる「沼」が出現する。「眠い沼」とは現実界の沼に対する措辞なのか、それとも心象なのか。そのあたりはっきりしない茫洋とした感じこそがこの句の味なのだろう。ノスタルジックに汽車が通り、人がいるのかいないのかも定かでない世界で扇風機が回っている。

蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

全句鑑賞になってしまいそうな勢いで恐縮だが、三句目も押さえておこう。この句では句集全体を通じて見られる外形的な特徴がはっきり見てとれる。ひとつはリフレインである。以前『ロボットが俳句を詠む』の連載で後藤比奈夫について書いたことがあったが(『みしみし』第五号参照)、そこで触れたリフレイン技法のすべてを岡田一実はマスターしている。巻頭の「火蛾は火に」など、むしろリフレインの新たな領域を開拓している感もある。もうひとつの特徴を言えば、十七音の調べの中で岡田一実のいくつかは、短い単位をこれでもかと詰め込んだ感がある。とりわけ下五への詰め込み効果については別の句を例にあらためて触れたい。

暗渠より開渠へ落葉浮き届く

治水行政が進んでしまったので、暗渠から開渠に転じる場面はそうあるわけではないが、あるところにはある。流れ出た落葉を見て、暗渠区間の様子に思いを馳せている。「浮き」「届く」と動詞を畳みかけることにより、着地を決めている。とりわけ「届く」が絶妙である。

喉に沿ひ食道に沿ひ水澄めり

水を飲んだときの快感を詠んでいるが、詠みようは暗渠の句と同じで、体内の見えない器官に思いを馳せている。「水澄む」は伝統的には地理の季語であるが、もはやなんでもありである。ちなみに章に六十句ほどあるうち、二十句近くはリフレインや対句を使用している。いかにその技法にかけているかが偲ばれる。

馬の鼻闇動くごと動く冷ゆ

馬にぎりぎりまで迫って詠んでいる。馬に慣れ親しんだ人ならこうは詠まないだろう「闇動くごと動く」の違和感、下五に押し込めた「冷ゆ」が喚起する鼻息の温度差、湿度差がよい。下五の残り二音で切れを入れて来る、この危ういバランス感覚はリフレインへの信頼があるからできることなのかも知れない。「闇動くごと動く」に律動的に現れるgo音がなんとも不気味である。

2. 三千世界

現代国語例解辞典(小学館)から引く。①「三千大千世界」の略。仏教の想像上の世界。須弥山を中心とする一小世界の千倍を小千世界、その千倍を中千世界といい、更にそれを千倍した大きな世界をいう。大千世界。②世界。世間。「三千世界に頼る者なし」

①の説明によれば、三千というより、千の三乗、ギガワールドである。章中「三千世界にレタスサラダの盛り上がる」という句がある。外食業界で一時期、大盛りの極端なのを「メガ盛り」とか「ギガ盛り」とか言っていたような気もするが、それはさておき「三千世界」、どんなバラエティの世界なのか見て行こう。

夢に見る雨も卯の花腐しかな

甘美である。夢と現実とが「卯の花腐し」という古い季語によって融けあっている。「夢に見る雨も」に現れるm音の連鎖と「夢」「卯の花」「腐し」で頭韻的に現れる母音u音によって、やわらかな雨のなかにとろけてゆくようである。

早苗饗や匙に逆さの山河見ゆ

こちらは徹底的に頭韻にsa音を置いて調べを作っている。早苗饗は田植えが終わった祝い。ほんとうに匙に逆さの山河が見えたのかはどうでもいいことだろう。音韻的な美意識によって句集に彩りを添えている。

あぢさゐの頭があぢさゐの濃きを忌む

リフレインの句である。「あぢさゐの頭」は植物としてのアジサイの意思なのか、七変化する作者の意識のことをそう呼んでいるのか。もはや区別する必要もないのが、作者にとっての「三千世界」なのではないか。

夕立の水面を打ちて湖となる

湖に降る夕立は、ただちにそのまま湖水となる。明らかなことがらをあえて俳句に仕立てているわけだが、このように書かれると、夕立と湖が一体となる不思議を思う。ここでも「夕立」「打ちて」「湖」と母音u音を畳みかけて調べを作っている。

母と海もしくは梅を夜毎見る

三好達治「郷愁」の一節に「――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。/そして母よ、仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。」があるせいで、後から来た私たちは類想を封じられてしまった感もあるのだが、岡田一実はさらにこれでもかと「梅」「毎」を重ね、あっさりとハードルを越えてしまった。

どうだろう。なにかしら言い止めるべき現実があって俳句をものしていると思っていると、岡田一実の表現しようとしていることは、捉えられないのではないか。岡田一実の「三千世界」は俳句としての調べや表記の純度を追求した、架空の世界のような気がする。

3.空洞

この章では何句かごとに鳥が飛び、ひとところに留まらない。

麺麭が吸ふハムの湿りや休暇果つ

岡田一実の食べ物の句は必ずしも美味しそうでない。つきまとうノイズのようなものを正確に捉えている。朝作ってもらったお弁当のパンを昼食べるときの情けないようなだらしないような感じ。その通りなんだけど、それ、詠みますか。

口中のちりめんじやこに目が沢山

すでに口のなかに入っているのにちりめんじやこの目の気持ち悪さに言及してやまない、この感じ。「栄養なんだから食べなさい」と叱られる子どもの恨みのようである。

かたつむり焼けば水焼く音すなり

これは食べ物の句なのか。エスカルゴとは書いていない。あえてかたつむりと書きたかったのではないかという気もする。食べ物の句だとしたら、いかにも不味そうである。ちなみに俳句にとってはどうでもいいことだが、ネットによれば、自分で採ってきたカタツムリを食べるには、二三日絶食させるか清浄な餌を食べさせ続ける必要があるらしい。

火を点けて小雨や夜店築くとき

「水焼く」といえば、こんな句もある。また最終章には「雨脚を球に灯せる門火かな」というあまりにもうつくしい句がある。なにかしら煩悩のように、気がつくとまたしても水がある感じ。それが記憶の沼につながって行くのかも知れない。

煩悩や地平を月の暮れまどひ

「くれまどう」は通常「暗惑う」「眩惑う」と書き、悲しみなどのために心がまどう、どうしたらよいか、わからなくなる、といった意味だが、ここでは敢えて「暮れまどひ」と書き、月が暮れることができないというシュールな情景を重ねている。

室外機月見の酒を置きにけり

かと思うとこんな句も。こんなふうに風流に詠まれた室外機を私は知らない。

ちりぢりにありしが不意に鴨の陣

ここまで挙げたような日常些事から心象まで多岐にわたる対象世界を、いちいちご破算にするかのように数句ごとにさまざまな鳥が飛ぶ。掲句以外にも「常闇を巨きな鳥の渡りけり」「飛ぶ鴨に首あり空を平らかに」「歩きつつ声あざやかに初鴉」など。句集におけるこういう鳥の使われ方は、見たことがなかったような気がする。

揚花火しばらく空の匂ひかな

この章の最後を飾る句である。「火薬の匂ひ」ではない。「空に匂ひ」でもない。書かれた通り「しばらく」、「空の匂ひ」と置かれた六音を書かれた通り玩味する。そして記憶の中をさまよう。幼年期の記憶は理路整然と分析できない渾然一体の「空の匂ひ」としか言いようのないものだ。そして詠嘆する。

4.水の音

最終章では特に章頭の句「海を浮く破墨の島や梅実る」と句集全体の最後を飾る「白藤や此の世を続く水の音」に見られる「を」について注目したい。これらの「を」は岡田一実にとって万感の「を」であり畢生の「を」であるはずだが、現代日本語としてはいささか尋常ではない。『岩波古語辞典』の巻末の基本助詞解説によれば、格助詞の「を」は本来、感動詞だったものがやがて間投助詞として強調の意を表すようになったらしい。そこからさらに目的格となるくだりを少し長くなるが引用する。

こうした用法(ゆかり註。間投助詞として「楽しくをあらな」のように使われていたことを指す)から、動作の対象の下において、それを意識するためにこの語が投入された。そこからいわゆる目的格の用法が生じたものと思われる。しかし、本来の日本語は目的格には助詞を要しなかったので、「を」が目的格の助詞として定着するにあたっては、漢文訓読における目的格表示に「を」が必ず用いられたという事情が与っていると思われる。

対象を確認する用法から、「を」は場合によっては助詞「に」と同じような箇所に使われる。たとえば、「別る」「離る」「問ふ」などの助詞の上について、その動作の対象を示すのにも用いる。また、移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示すことがある。

後者の例としては以下が挙げられている。「天ざかる鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」〈万三六〇八〉「長き夜を独りや寝むと君が言へばすぎにしひとの思ほゆらくに」〈万四六三〉

違和感ゆえに詩語として絶妙に意識させられる岡田一実の「を」は、作者の意図はさておき、日本語の用法としては万葉集由来のものだということらしい。「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」という用法を頭に叩き込んでおこう。

海を浮く破墨の島や梅実る

破墨は水墨画の技法だから、一幅の作品に対峙していると見るのが順当だろう。描かれたときから作品の中でそうあり続けている海と島の玄妙な関係に思いを馳せる。そんな時の流れを想起させもする「梅実る」がよい。モノクロームの世界に取り合わせられるふくよかな緑。

白藤や此の世を続く水の音

過去から未来までの長大なスケールの中での自分が今生きているこの一瞬。水がある限り白藤を愛でることができる生命体が長らえる。句集の最後を飾る、そんな万感の「を」だと思う。

2023-02-19

三島ゆかり【句集を読む】岡田一実『光聴』を読む

 【句集を読む】

岡田一実『光聴』を読む

『みしみし』第9号(2021年夏至)より転載

三島ゆかり

『光聴』(素粒社、二〇二一年)は、岡田一実の第四句集。ツイッターを見ていると、岡田一実がものすごいいきおいで後藤比奈夫や山口誓子の全句を読破している様子がリアルタイムに伝わってくるのだが、それらは自身の句作にどのように反映しているのだろうか。頭から見ていこう。

描線

本章には二〇一八年の句が収められている。一頁に三句ずつ配置された句集の最初のページを見よう。

疎に椿咲かせて暗き木なりけり  岡田一実

いきなり意表をつかれる。現実には椿の木に花が咲いている訳だが、まるで花と木が別物であるかのような書きっぷりである。でも認識の仕方としてじつに正しい。私たちは花が咲くことによって「椿が咲いた」とか「山茶花が咲いた」と認識するのであって、花以外の部分は名もない「暗い木」でしかない。この大胆な書きっぷりこそが、科学ではない俳句の方法である。

空に日の移るを怖れ石鹼玉

直接的には石鹼玉をなんら形容していないのに、石鹼玉が石鹼玉として漂う刹那を詠み上げ、油膜のぎらぎらさえ見えるようである。擬人化の手法で対比的な大景を取り込み、擬人化にありがちな陳腐さをも回避して巧みである。

白梅の影這ふ月の山路かな

渋い。花そのものでも香りでもなく、月光によって地に生じた梅の影を詠んでいる。影でありながら「白梅」と明示することにより、モノクロームな世界を描くとともに季感をも持たせている。

最初のページから、俳句の素材になりそうもないありふれた景が、熟練した俳句の方法により次々、句としてスリリングにせり上がってくる。私は最後まで読み通せるか。

雨の中賑はふ川よ菜の花よ

雨によって川は勢いを増し、菜の花は生気を取り戻す。そのことを一語で「賑はふ」と言い止めている。ちなみに雨の句は多いかもしれない。ここまですでに「かんばせに雨のかかるも梅の花」「樹に雨の重さ加はる春にして」がある。また「賑はふ」については後で「虹立ちて市をにぎはふ銭の音」という句もある。

唾もて濡るる氷菓かなしも海を見る

霜状になった表面を舌で舐めるとそこだけ霜が溶ける。ソーダ味のシャーベットなら青が濃くなる。それだけのことを擬古典で句に仕立てている。家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」や虚子の「川を見るバナナの皮は手より落ち」を呼び込み、かなしい。「かなしも」の「も」は詠嘆の係助詞。

描線を略さず烏瓜の花

夜に咲く烏瓜の花は、星形の花弁の回りに無数の糸状のものがレース編みのように広がっている。その糸状のものは一本一本が夜目にくっきりとしており、決してもやもやではない。その自然界のありようを「描線を略さず」と言い止めている。「描線」は本章のタイトルともなっており、作者にとって二〇一八年中の会心の句だったに違いない。

金魚田に空映る日の金魚かな

出荷され金魚売りに揺られたり金魚掬いに追われたり小さな金魚鉢に閉じ込められる苦難を思うと、金魚田にいる時期は金魚にとっていちばん平安な時期なのだろう。後藤比奈夫風のリフレインで詠嘆しているが、「空映る日の」が心憎い。リフレインの句では他に「鶏のまへ鶏の影ある西日かな」「送火の烟とものを炊く烟」「縄跳の吾をはなれて吾の影」などがあり、舌を巻くばかりである。

火の上の秋刀魚の眼沸きにけり

いわゆる台所俳句であるが、それ俳句にしますか、というなんでもないものをみごとに仕立てている。

数へ日や重ねて玻璃の青く澄む

年末の大掃除で窓を全開にしていて、重なった部分が光の加減で青く見えるのだろう。古くからある家の、木枠のガラス窓に違いない。  

解纜

続いて二〇一九年の句である。

書初の墨を遁るるみづの跡

ひらたく言えばにじみのことだろうが、「跡」となる前の刻々と紙の繊維を伝わり広がる水の様子を思い起こさせる。

狐火にけもの心や跳ねて飛ぶ

一転して諧謔の句である。なんだか楽しい。

ものの芽や空かたぶくと風あふれ

この一句だけ見ると科学的知識の欠如のようにも見えるが、前句「渦潮のうづ巻く前の盛り上がり」からページをめくるとこの句で、エネルギーの詩的イメージが推移している。また大地に視点を落とした「ものの芽」から一気に空に視点を転じているので、立ちくらみにも似て「かたぶく」が効いている。

雨は灯に乱れて夏の欅かな

灯火に照らし出された雨がひときわ激しく見えるのはおなじみの光景だが、背後に暗く欅がそびえている。どこか原風景のようでもある。ちなみに「雨は灯に」とか先に見た「疎に椿」「空に日の」「火の上の」など、上五で短い単語を畳み掛けてリズムを作るのが、一実は憎たらしいほど巧い。

水流を逃しながらに蛇泳ぐ

蛇自身が流されないように水流と接する面積が最小になるように棒状を保ちながら泳ぐ訳だが、「水流を逃しながらに」が巧い。失われつつある見なれた田園風景の句としては他に「沢音のごと蟬のこゑ湧き揃ふ」「照りまさりたり夕方の雲の峰」「冬雲うごく明るきところ変へながら」などがある。詠み尽くされたはずの景と対峙し、今なお格調ある調べとともに新たな句が生み出されるのは驚くばかりである。

駆けて来る夏の帽子を手づかみに

「おっと、危ないよ」といったところか。つばが広いので顔も姿さえも見えないのである。近所の子だろうか。他に「流れくる浮輪に子ども挿してあり」「吾
を見て縄跳のまま横へ逸(そ)る」などがあるが、人間関係の距離がクールで、ありがちな吾子俳句やお孫俳句とは一線を画している。

こゑ

二〇二〇年の句である。この句集には三年分が収められているが、厚さにして三分の二ほどは二〇二〇年の句にあてられている。この年人類はコロナ禍というスペイン風邪以来の災厄に直面した訳だが、誓子が太平洋戦争で失われ行く人々の暮らしを俳句で書きとめるべく『激浪』を残したのと同じことを岡田一実はやろうとしたのではないか。手当たり次第に書きとめようとしたのだろう。興が乗ると、同じ題材が何句も続く。それは蟭螟であったりバナナであったり枯れた向日葵であったり滝であったり背子であったりする。全体を浴びるべきものであるが、泣く泣く切りとって何句か見てみよう。

初旅や脚を交互に前に出し

あまり歩くことのない日常生活なのだろうか。ことさらにいう「脚を交互に前に出し」が可笑しい。たまさかの歩ける喜びと若干の負荷をひしと感じているのだろう。

松明のあと一月の依然とある

松明のあとの一月の長さは、一般人よりも俳人にとってより長く感じられるのではないか。太陽暦が採用されたあと、歳時記には春夏秋冬の他に新年が追加され、新年によって冬が二分された。立春までの残りの冬はなんだか収まりの悪い期間なのである。

昼よりの雪を灯しの中に見る

降雪の少ない地方であれば、まだ降り続いていることにそれなりの感慨があるだろう。

梅まつり幟の裏の鏡文字

寒々とした梅林を盛り上げるためか、梅まつりにはやたら幟が目につく。簡素な幟なので、逆方向から見れば字は裏返り、ますます寒々とする。山口誓子は連作を構成する際に、フィクションとして美的空間のみを描くのではなく、それをぶち壊しにするような題材を敢えて加えた。例えば「天守眺望」に「桐咲けり天守に靴の音あゆむ」を加えたり、「枯園」に「部屋の鍵ズボンに匿(かく)れ枯園に」を加えたりする、露悪趣味と言ってもいいやり方だ。岡田一実があえて触れなくてもよい負の題材をも詠まずにいられないのは、誓子の影響もあろう。「密に糞あり鳥の巣とわかりけり」のような句にも、それは感じられる。

半袖を長袖に替へ袖を折る

ちょっと肌寒いなと感じて長袖に替え、結局袖を折っている景のようでもあるが、エアコンが苦手とか蚊が苦手とか日焼けが苦手とか、いろいろな理由で外出時に半袖を選ばない人は少なくない。

雨後そのまま明るくならずソーダ水

ソーダ水が似合うのは行楽とかデートなので、本来浮き浮きするべき場面で心が晴れないのだろう。季語の選択だけでドラマを感じさせる。

水馬の水輪の芯を捨て進む

水馬の一歩ごとに水輪が広がる訳だが、広がりに着目するのではなく「水輪の芯を捨て」と捉えたところに俳人ならではの目を感じる。

裸寝の醒めデバイスに顔灯す

スマホ画面の明るさを詠んでいる。「西鶴忌Bluetoothに歌を聴き」という句もあったが、岡田一実が詠んでいるのは現代の今である。

草刈の歩むに障るところのみ

三鬼に「雪ちらほら古電柱は抜かず切る」があるが、それに通じるものを感じる。割り切った業者の仕事は限定的であるが、それを批判することは俳句の役割ではない。事実を記録するばかりである。「蜘蛛の囲を撮る其を払ひ他を撮る」も。もっとも、草刈も撮影も自分がやっているのかも知れないが…。

藤万緑日を洩らしつつ日を断ちつつ

葉の茂る藤棚だろう。日覆いとして下にベンチが置かれたりもするが、人工物ではないので差し込む日もある。「日を洩らしつつ日を断ちつつ」のリフレインに夏の午後の静寂を感じる。

水着著て水着素材の上着著る

ボレロのようなものが組み合わされた水着だろう。「ああ、あれ」としか言いようのないものを持って回って「水着素材の上着」と表現していてなんとも可笑しい。

繋がつてゆく人影と片蔭と

片蔭の始まりのようなところで、暑を逃れ炎天から人が集まってくるのだろう。次々と人影は片蔭と一体化する。あるいは、片蔭を行くのだが人影がはみ出しているのかもしれない。いずれにしてもシルエットだけに着目して詠んでいて面白い。

吾がキャンプ他家のキャンプと関はらず

現代というのは家族単位で孤独なのかも知れない。誓子流の吐いて捨てるような否定形を用いている。家族については、「行く秋の余所の家族と昇降機」という句もある。

麦茶沸かす傍に冷たき麦茶飲む

昨今は水出しのティーバッグとかペットボトルの麦茶もあるが、美味しさから言ったらきちんと沸かしたものが格別だろう。玉の汗を流して麦茶を沸かしていると、横では冷蔵庫から冷えた麦茶を出して飲んでいる。家族って楽しい。

一ト時の間を片蔭のひた伸び来

昼下がりのちょっとした時間にも太陽は回り片蔭が伸びている。たっぷり詠んだ「一ト時の間を」と対比的に詰め込んだ「ひた伸び来」の塩梅がよい。

光を引く宙の万緑地の万緑

「白猪 六句」と前書きのある一句目である。滝の上にも下にも万緑があり、それを下から見上げている構図だろう。「光を引く宙の万緑」の措辞が神々しい。

顔弾く滝の風なる水の粒

同じ句群の一句である。滝壺あたりの空気感を捉えて余すところがない。

蜻蛉つかふ空そのうへの空高し

蜻蛉はそんな高いところは飛ばない。蜻蛉にとっての交通機関かなにかのような「つかふ」がよく出てきたものだ。その上にははるかな秋の空があるのだ。

ゑのころの翠も金も一叢に

気がつけばすっかり枯れている猫じゃらしだが、過渡期には一叢に枯れていないものと枯れたものが混在することもあるのだろう。「翠も金も」の措辞が雅である。

読んでゐる字の脳に鳴る榠樝の実

「かりん」と鳴ったのである。

栗飯や食卓のほか灯を滅し

この句を読みながら、自分の行いを振り返った。確かに食卓に座る前にキッチンを消灯する。節電もあるけれど、そうではなくて、ここまでは調理モード、これからは食事モードないし団欒モードという切替のために消灯しているような気がする。

一切のせせらぎが夜や冷まじく

句集全体の掉尾を飾る句である。「小田深山 六句」と前書きがある句群の最後でもある。かなり賑やかだった一日もすっかり寝静まり、せせらぎの音ばかりが聞こえるのだろう。災厄に見舞われた二〇二〇年を締めくくることばが「冷まじく」であるが、そこには祈りにも似た明日への希望が込められているのではなかろうか。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の「一切のせせらぎが夜」である。

2023-02-11

三島ゆかり【句集を読む】浅沼璞『塗中録』を読む

【句集を読む】
浅沼璞『塗中録』を読む

三島ゆかり
『みしみし』第4号(2020年節分)より転載

浅沼璞『塗中録』(左右社、二〇一九年)は、俳人、連句人として長いキャリアを持つ浅沼璞の第一句集である。俳句だけをひたすら追求してきた俳人の句集と、連句にも深く関わってきた人の句集は違うものなのか。もちろん人それぞれで一般論に敷衍などできないのだが、私の関心はもっぱら連句人の出す句集とはどういうものかにある。

もともとは俳諧の発句だったものが明治時代に正岡子規らによって「俳句」と呼び名を変えたのは、俳諧の集団性を離れ近代的な自我による文学を指向したからであった。俳諧は、発句であれば挨拶という性格があり、平句であれば前句の内容次第で、あるときは謎の運転手であったりあるときはニヒルな渡り鳥であったりして、そこに本来の自我はない。俳諧とは自己表現ではなくその場に応じた受注生産に他ならず、個性とはそのようにして生産された製品としての句に見え隠れする特徴にすぎない。あとがきで浅沼璞は「これまで私が句集を編まなかったのは、版元や予算等の問題以前に、編集主体が立ちあがってこない、という根本的な難題があった」と書いているが、これは俳句だけをひたすら追求してきた俳人、とりわけ嘘を書かないことを旨としてきた俳人には分からないかも知れない感慨だろう。

俳諧に限らず俳句でも題詠などで虚構を詠むことは少なからずある訳だが、そのような場合、虚構の中に身体感覚や実体験に裏打ちされた真実が部分的にでも含まれていれば、その微量の真実を核としてその句は力を持つことがある。『塗中録』では六篇の随筆により明確に章立てする訳でもなく句群が仕切られているが、どうやらその随筆は、微量の真実を読者と共有するために書かれたものと見受けられる。出現する順では随筆が先だったり句が先だったりしながら、微量の真実が「さっきのあれ」として印象づけられて行く。
 さて、随筆による仕切りを位置情報としながらつぶさに見て行きたい。随筆の内容はこれから読む方のために詳しくは触れない。随筆と句とをひもづけて解説するようなこともしない。以下、基本的に句について書く。

1.入院

最初の随筆は入院体験と健康不安を綴っている。

あら玉の汗とゞろかす大太鼓  浅沼璞

「あら玉の」は一般には新年にかかる枕詞であり、そういう意味で句集全体の巻頭を飾るにふさわしいようにも見える。初詣の大混雑の熱気の中、身動きできずにいると元日ならではの大太鼓が轟く。ところが、本当はそれだから巻頭なのではない。「璞」という字が、あら玉なのである。掘り出したままでまだ磨いていない玉、その真価や完成された姿をまだ発揮していないが素質のある人、という意味である。つまり、私が璞と名乗る者です、と読者に挨拶している句なのである。単独の句集なので脇が付いて挨拶が返される訳でもなく、「玉の汗」と読み替えられ、後ろには夏の句が続く。

ゆつくりと蛇口漏れゆく夏の海

上五中七の近景に対し、下五に遠景を配した二物衝撃の句であるが、どちらも水であるため、蛇口から海が漏れて行くようで、じわじわと可笑しい。

秋高し抗凝血薬忘る

同じく二物衝撃の句であるが、こちらはずっと俳句らしい佇まいがある。ちょっとガタが来た年齢であれば誰にでも共感できる微量の真実があり、今この一瞬の秋空のうつくしさに対し緊張とともに釣り合っている。

俗情が耳にかゝりて春の髪

上から読んだときに一句の中で連句でいうところの「三句のわたり」となっている。中七「耳にかゝりて」は上五に付けば世間の事情が耳に入ってきて煩わしいという意味になるし、下五に付けば即物的に髪の毛が耳に触れるという意味になる。連句では付合いの中でこのように意味がすりかわることが醍醐味なのだが、俳句しかやっていない人なら、中七が観音開きになって句意がぶれるとか、駄洒落のような掛詞は本人が思っているほど面白くないのでやめましょうとか言うのだろう。

学歴もはらわたもなき鯉幟

「学歴」と並置する「はらわた」であれば性根とか野心という意味だろうかと次を読むと、唐突に「鯉幟」が出てくる。一瞬食べ物としての秋刀魚のはらわたあたりが頭をよぎりつつ、「鯉幟だったら、そりゃねえよ」と爆笑に至る痛快で破壊力のある句である。「はらわた」はかなりのパワーワードで、橋閒石にも「噴水にはらわたの無き明るさよ」というユーモラスにして寂寥感のある句がある。

海原に生まれ野分として吹ける

現代に生きる者としてことばの面白さを共感するが、「野分」ということばができた頃には、熱帯の洋上で発生した積乱雲の渦が時間をかけて海を渡ってくることなど知る由もなかったのだろうとも思う。百人一首の「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀」の逆を行ったような味わいを感じる。

竹夫人すこし年上かもしれぬ

飄逸な句である。竹夫人は竹で編んだ抱き枕であるが、先人のネーミング・センスに舌を巻く。擬人化されたその名を興じて付けた中七下五がじつに可笑しい。

年月のうちに茶色く変色して光沢を放つ質感がありありと伝わる。

2.

次の随筆は、独立した七七定型の句を十一句と、それを枕に、自覚ある年齢に達してからのわがままと母の寛容さの思い出。誰しもエピソードこそそれぞれ違えど、身に覚えがあることだろう。

この脛はかつての父の冬の脛

「冬の」の位置が眼目である。実際には肌の露出の多い夏季の方が父の脛を目にしていただろうが、通常は露出しない季節だからこそ、何かの事情で見てしまったものが微量の真実の核となっている。単に見かけが歳とともに似てきたということなのかも知れないし、体質的ななにかなのかも知れないが、微量の真実の核は濃厚である。「親の脛をかじる」という慣用句があるが、自分が父親になって改めて思い出したなにかという可能性もある。

また母が降つてきたのか細雪

父の句と隣り合って置かれている。肉親ならではの繰り返し思い出される、ありがたさばかりではない苦々しさは、誰にでも身に覚えがあるだろう。

魚ならここで手をあげたりしない

雑の平句のようだとも川柳のようだとも言える機知の句である。慣用句「手をあげる」には降参するとか暴力をふるおうとするといった意味があるが、いずれにせよ魚はそんなことをしないし、そもそも手がない。のであげようがない。

こういう機知のありようは、いわゆる無季俳句とも違うものだし、俳句だけをひたすら追求してきた俳人の句集であれば出会えない種類の句だろう。大雑把に言うと俳諧の発句は俳句となり平句は川柳となった訳だが、連句人が句集を出すとき「編集主体が立ちあがってこない」とは、できてしまった俳句と川柳を一冊の中でどう落とし前をつけるか悩ましいということでもあろう。

さみだれといふ部首さがす最上川

その隣の句。季語「さみだれ」がゲシュタルト崩壊して、「やまいだれ」「がんだれ」などの仲間になりかかっている。芭蕉句のパロディとしてそうとう可笑しい。

札付きの風鈴としてならしけり

人間界で極悪人として評判が立つときの言い回しをそのまま風鈴に適用して、めちゃくちゃ可笑しなことになっている。風を受ける部分の、あの紙の呼び名など考えたこともなかったが「札」なのか…。

3.

次の随筆は恋。一冊の句集の中で発句性と平句性に分裂して拮抗し、臨界点に達する頃合いで随筆が現れてはリセットし、微量の真実の核が餌付けのように撒かれる。笑窪、月齢表示のある腕時計、ポニーテール、…。

ゆく春の英文墓のうらに廻る

放哉の自由律俳句「墓のうらに廻る」に付け足して、ほぼ普通サイズの俳句に仕立て直している。「英文」が効いていて、横書きに誘われ廻りたくなる。

初東雲祈りはいつも目尻から

このように書かれると、自分が今まで寺や神社で折々に祈っていたものは何だったんだろうと、うろたえる。祈りとは対象に向かって念波のようなものを放射することなのか。それは身体の特定の場所から発射されるものなのか。そして、しあわせな気持ちにしてくれた恋人の笑顔を思い出したりもする。

4.

次の随筆は旅もしくは定住者としての父。微量の真実の核として、海と結びついた父上の記憶が綴られている。このあと妙に客観写生的な句と妙にリフレインに固執した句が続く。

短夜の底黒々と醤油差し

使っているうちにこぼれた醤油が醤油差しの底のまわりに黒々と乾いて、ざらざらに固まっているのだろう。短夜の蒸し暑さと醤油のにおいが脳の中に再生される。

秋霖や駅見下ろして駅の中

鉄道が立体交差する乗換駅だろう。片方の駅で電車を待ちながら、見るとはなしにもう一方の駅を眺めている情景であろうが、季語「秋霖」がやるせない。閉じ込められた日常の中で、ふつふつと別の人生を思い描いては打ち消しているのかも知れない。

耳鳴りもちあきなおみも冬隣

敢えて検索などせずに書くが、ちあきなおみはある日突然表舞台から姿を消した往年の大歌手で、記憶の中にしかいない。耳鳴りが他人には気づかれないように、ちあきなおみが記憶の中にいることも他人には気づかれない。「耳鳴り」という言葉は耳鳴りそのもののように母音iが鳴り続け、「ちあきなおみ」も母音の半分はiで、「冬隣」も脚韻としてiで呼応する。全体が耳鳴りのようであり、そのようにしてやがて冬がやってくるのである。

5.公衆電話

次の随筆は自分のことをなんと呼ぶかという話であるが、公衆電話の記憶が生々しい。携帯電話が普及する以前、日本人は公衆電話で恋をしていたのではないかと思うほど、記憶がざわざわする。

近景の心音となる冬かもめ

直前まで近景だった恋人の胸に耳をうずめ、心音と体温の深い安らぎの中で遠景の冬かもめを見ている。奥ゆかしい表現ながら甘美なロマンがある。

腕相撲してゐる影の腕うらゝ

腕相撲をすればその影もまた腕相撲をする。うららかな春の光の中で、腕相撲そのものではなく影の方を見ている。安心しきった充足感がそこにある。

6.曳尾塗中

最後の随筆は荘子の「曳尾塗中」の故事と攝津幸彦の思い出に触れ、故人の句に脇起しすることについて述べている。浅沼璞の書斎は「曳尾庵」であり、この句集のタイトルは『塗中録』であり、反骨精神で一貫している。レイドバックという言葉をふと思い出す。

東日本大震災のあと、実際に被害に遭われた方だけでなく多くの人々が心に傷を負ったにも関わらず、俳句界ではそれを俳句にしてはいけない空気があった。その空気は奇妙な同調圧力ともなり、震災句集を刊行したある俳人が被害者でもないのにと大バッシングを受けたりもした。浅沼璞は書く、「俳句ではできなかった震災詠が、脇起しでは自然とできた。いずれも三・一一以前の作品に対する挨拶だから、ためらいなくできたのだろうか。そんな挨拶でいいのだろうか」と。

随筆のあと西鶴、芭蕉、其角、蕪村、一茶、子規、虚子、久女、茅舎、幸彦の句に対しての脇起しが並んでいるが、十九ある脇起しのうち五つで震災について触れている。ここでは震災詠ではない、句集の最後を飾る脇起しを見てみたい。

菊月夜君はライトを守りけり  幸彦
 かぼそく伸びる影の秋風  璞

脇について触れる前に、攝津幸彦の句がまず多義的である。「ライトを守る」といえば、第一義には野球の守備であるが、菊月夜なのである。ナイターであれば、こんな風流な季語は選ばないだろうから、第二義としては野球の言い方を借用したことに面白みがあって、実際には灯火を守っているという解釈が成り立つ。第三義として菊を皇室と捉えたりライトを政治的立場としての右翼と捉える見方も世にあるようだ。太平洋戦争前の京大俳句事件では、警察の弾圧に協力した某俳人がなんでもかんでも共産主義の隠喩とする読みをでっち上げたことにより、新興俳句系の多くの俳人が投獄されたものだが、十七音しかない俳句において底の浅い隠喩読みは慎むべきだろう。さて、脇を見よう。摂津句に対し「かぼそく伸びる影」と付けているということは、浅沼璞は第二義を採用したのだろう。ここで眼目は「影の秋風」の「の」である。普通に考えれば影という視覚情報に風を添えるのであれば「影に秋風」となるだろう。写生ならそれでもいいが、それでは挨拶として弱いのである。多義的な摂津句に対し、脇もまた多義的なのである。「影」は灯火としての「ライト」の影であるのみならず、攝津幸彦が俳句の現在に与えている影響力の意味も重ねられているのであろう。

あなたが亡くなって随分の時が流れました。決して多数ではないながら心ある俳人によってあなたの句業は脈々と読まれ続け、その影響は秋風に触れるように今に至っているのです。

という故人への語りかけではなかったか。脇起しとは、挨拶とは、そういうものである。
  
7.最後に

私自身の乏しい連句の知識を総動員して『塗中録』を読んだ。「俳句だけをひたすら追求してきた俳人」ではない自分を自覚しては句に深入りし、逆に深入りしないだろう読者層も思い浮かべた。連句をやっていてよかったと思う。

(了)

2023-02-05

三島ゆかり【句集を読む】岡村知昭句集『然るべく』を読む

【句集を読む】
岡村知昭句集『然るべく』を読む

三島ゆかり

『みしみし』第7号(2020年)より転載

『然るべく』(草原詩社、二〇一六年)は、岡村知昭の第一句集。氏の『みしみし』誌参加は今回で二回目だし、ネットの句会では十五年以上前から名をお見かけしていたのだが、実際にはいまだお目にかかっていない。あとがきによれば一九九六~二〇一四年の句から収められているとのことで、作句当時に時事性があったはずの句は、タイムカプセルを開けるようにして現れる。全体は六章に分かれ季節順で推移するが、一年を単純に二ヶ月ごとに切ったものではない。また、特定の季語ないし単語が続くときは徹底的に続く。では、章ごとに見ていこう。

1.チューリップ

二月~三月頃の句を収めている。巻頭の句は立春前の冬で始まる。

バス停や牡蠣食べてより脈早く

なにやら体調が悪そうである。早退きでバスを待っているのか。青春性が輝く波郷の「バスを待ち大路の春をうたがはず」とはずいぶん様相が違う。巻頭がこれだということは、俺は俳句でかっこつけたり気取ったりはしない、という宣言なのだろう。立春や元旦で句集が始まることさえ、美学として避けているに違いない。


マフラーを外し仮病のおともだち

二句目である。連句の脇のように一句目に付いている。接頭語「お」を含みひらがな表記の「おともだち」のゆるさがこの句集の性格を方向づけている。仮病なのは「おともだち」だけではなく作者自身もであり、これから読む句集全体が擬態ないし韜晦なのかも知れないのだ。


春立ちぬ鱗あろうとなかろうと

三句目である。ここでようやく立春であるが、無関係な仮定構文により結果的に真実を述べている。

以下、目に止まった句について触れたい。


春寒し化石は「さがすよりつくる」

化石とはちょっと違うが、旧石器捏造事件を思い出す。それがスクープされたのは二〇〇〇年のことだった。


三叉路やプロデューサーの春の風邪

時代を創り出す存在として、アーティストやアイドルよりもプロデューサーが注目される時期があった。秋元康やつんく♂が大いに話題となったのは、いつの頃だったか。「三叉路」のどれかこそは指し示すべき明日の流行であり、プロデューサーが風邪を引けば、時代が床に伏せるのだった。


白粥や四月一日には終わる

四月一日になったら「終わりました」と嘘をつくのだろう。いかにも馬力の出なさそうな「白粥」が妙に可笑しい。


年上のすべり台なり夕桜

年上の子どもに占有されているすべり台という読みも可能だが、すべり台そのものが自分より年上だと読みたい。戦後の復興が一段落し、行政が福祉に目を向けた時代が少しだけあった。横断歩道橋があちこちに作られた頃、児童公園もあちこちに作られた。少子高齢化の今、遺構のようにその時代のすべり台が眼前にある。夕桜が切ない。


自転車へたどり着かざる朧かな

自転車に乗ればあとはすっと帰れるのに、その自転車に辿り着かないのである。悪夢のように朧の夜が更けて行く。


本名はいらなくなりて春の海

かりそめの恋の成就のようでもあるし、亡くなって戒名となったようでもある。東日本大震災以後の今、「春の海」は後者を暗示する。


石棺の蓋どこへやら春暑し

古墳をめぐる歴史探訪のロマンのようでもあれば、放射能事故を起こした原子炉がいまだ石棺化されない現状を詠んだもののようでもある。社会批判するならはっきり言えという意見もあろうが、はっきり言えば、ただのスローガンとなってしまう。本来笑いの対象ではないものへのブラックな扱いが曰く言い難い。


2.なんじゃもんじゃ

四月から六月くらいの句群である。

宵闇の揉めることなき断種かな

「宵闇」をここでは季語として使っていない。「断種」は手術によって生殖機能を失わせること。「揉めることなき」とは、円満な断種だったのか。


ヒトラーの忌に頼まれて然るべく

前の句からページをめくるとこの句なのである。優れた漫画のコマ割りのような運びである。ナチス・ドイツでは優生政策として、障害者・病者四〇万人に断種を断行した。前句の「揉めることなき」とは有無を言わせずということだったのだ。ヒトラー忌は四月三十日。本句の「然るべく」は句集タイトルでもあるが、何を頼まれて何をしたのか、じつにそら恐ろしい。


初鰹この人握手会帰り

この人は握手会帰りだとどうして分かるのだろう。一様にある同じ顔つきをしているのか、それと分かるグッズを手にしているのか、会場からわらわらと出てきたのか。同好の士なら分かるしるしがあるのだろう。「初鰹」に切望していた感がある。


純国産せんこうはなび震度三

そういえば純国産のH-Ⅱロケットが一九九八年と九九年に続けて打ち上げ失敗したことがあった。ひらがなの「せんこうはなび」には痛烈な皮肉が感じられる。震度三の揺れに花火の玉は落ちずに耐えられるか。


3.遠浅

七月から八月くらいの句群である。冒頭は「夏来たる」だが、立夏ではなく現代人としての季感によるものだろう。


みどりごの固さの氷菓舐めにけり

氷菓の固さの比喩として「みどりごの固さ」はおよそ尋常ではない。比喩なのにその固さを思い出せず、体温やよだれでどろどろになった名状しがたいものを思い出す。たぶん、それで比喩は成功しているのだ。


八月の雨より国のおびただし

雨と国という比較しようのないはずのものを並べている。六日、九日、十五日がある八月は、語り継ぐべき戦争によって思考も感情も重い。再び戦争ができる国にしようとする勢力が跋扈する昨今、まさに「雨より国のおびただし」は実感なのである。


4.タンク

九月から十月くらいの句群であるが、無季の句も少なからず含む。福島第一原発の「処理水」という名の安全性のさだかでない水を貯蔵するタンクが増設され続ける件や、オリンピック誘致をめぐる「アンダー・コントロール」発言が題材となった句が並ぶ。


寝室や熟柿のごとく麗子像

章の最後の異質な一句である。岸田劉生は短い生涯におびただしい数の麗子像を描いた。素人目には怪奇趣味にも見える作品だが、暗赤色系の色彩のみならず熟柿に通ずる円熟味と安らぎがあったのだろうか。すべての混乱を鎮めるかのように置かれている。


5.雨音

十一月から十二月くらいの句群であるが、ここでも無季の句を少なからず含む。また結婚や出産を題材にした句が続く。

行列の先に階段寒の雨

またしても章の最後の句を拾ってみた。散々待たされた行列の先に試練のように階段があり、折しも寒の雨が降っている。行列は見知らぬ人ばかりで、こんなに人間がたくさんいるのに孤独なのだ。そして階段の先に本当に待ち望んでいたものがあるのかは明かされていない。


6.見物

ここで一月の句群だけがあれば一年を網羅したことになるが、なんと鯉幟の頃まで句は続く。そして卒業式中止、解雇を題材にした句が散見される。が、句集全体が、深刻な病気なのに仮病のふりをするような美学に貫かれているので、作者の伝記的事実はなにも分からない。俳句の「俳」は俳優の俳でもある。

(了)

2023-01-22

三島ゆかり【句集を読む】橋閒石『微光』を読む

【句集を読む】
橋閒石『微光』を読む

三島ゆかり

『みしみし』創刊号(2019年4月)より転載

橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)は閒石の最後の句集である。章立ては、ローマ数字で単純にⅠからⅤまで五章となっている。順に見てみたい。

1 枯山水の微光

春の雪老いたる泥につもりけり

巻頭の一句である。「春泥」であれば春のぬかるみを指す季語であるが、あえてそうせず「老いたる泥」と詠み、老境の自身を投影させ雪を積もらすことにより消し去った。晩節への思いが感じられる。


火とならず水ともならず囀れる

「火とならず水ともならず」は人間のややこしい男女関係を念頭に置いた措辞であろう。


ほのぼのと芹つむ火宅こそよけれ

一句置いて、またしても火。「火宅」は仏教で、この世の、汚濁(おじょく)と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさかる家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。それを「ほのぼのと芹つむ」と修飾し、係り結びとしている。普通に考えれば形容矛盾であるところに諧謔が感じられる。


男手がなくて日暮や春の蔵

いかに老人とはいえ、男性がこのように詠んでいるところがじつに飄逸である。


ものの影猫となりたる朧かな

なんだか分からない影にぎくっとすると、ひと呼吸おいて猫の影だと分かる、その間合いを詠んでいる。朧だけに、なんだか分からない妖気が偲ばれる。ちなみにこれを発句として澁谷道、秋山正明と巻いた十八句からなる非懐紙連句『ものの影』が、橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(私家版)に収められている。第三までを紹介しておこう。

  ものの影猫となりたる朧かな  閒石
    乾の蔵に匂う沈丁  道
  ならべたる猪口は伊万里の赤絵にて  正明


人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人

ものすごい字余りであるが、中七下五がきちんと定型に収まり着地を決めている。「人」の繰り返し、「云う」「云える」の繰り返しが無限ループ的で、人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人…と永遠に続きそうな可笑しさがある。


掻き氷水にもどりし役者かな

閒石の句にはしばしば慣用句のパロディがある。役者といえば「水もしたたる」だろう。そのパロディだとすれば「掻き氷水にもどりし」は大爆笑ものである。


噴水にはらわたの無き明るさよ

そりゃあ、ない。


藁しべも円周率も冬至かな

無意味だが非の打ちどころがないくらい真実である。だが、無関係なものを並べているようでいて、藁しべの断面も円だし、冬至から地球の公転軌道を思い浮かべ他の二つが導かれたような気もする。


体内も枯山水の微光かな

枯山水は、水を用いずに石や白砂で山水を表現した日本式庭園。そのような抽象的な把握は、当然眼前の風物以外にも及ぶだろう。そんな直感がもたらした一句に違いない。ちなみに句集のタイトルは『微光』で、函から出した本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっている。


雪山に頬ずりもして老いんかな

章末の句は、巻頭の句と呼応し雪と老いの取り合わせとなっている。雪に頬ずりをするのではない。雪山である。俳句的なずれ具合と「も」による強意が妄執めいていて、老いの表現としてすさまじい。

2 良夜は月に任せたり

Ⅱ章は順不同で見ていこう。

あかつきの瞳孔や草萌えんとす

中七の五音目の「や」で切る。しかもその前がなんとも固い語の選択である。視覚器官を「や」で強調し、あかつきに光を知覚するように季節を知覚している。


蝌蚪の水地球しずかに回るべし

しずかに回らないと、慣性力で蝌蚪もろとも水がぶっ飛んでしまうのだ…というなんともアホクサな諧謔をしれっと句にまとめている。「べし」が効いている。


郭公の朝の雲形定規かな

おそらくは「雲形定規」ということばの面白さに導かれてできあがっているのだろう。どんな季語と取り合わせても雲形定規は雲形定規でしかないのだが、郭公の朝の静謐な空気感と、かの製図用具の取り合わせは、これはこれで効いている。


早寝して良夜は月に任せたり

閒石の晩年の句には独特の老境が感じられるものがいくつもあるが、本句もその類いだろう。「良夜は月に任せたり」の機知がじつによい。


心音もお多福豆も冬うらら

日輪も氷柱も呼吸始めたり

前章にも「藁しべも円周率も冬至かな」があったが、閒石にとって「も」のたたみ掛けは、まさに自家薬籠中のものだったに違いない。

3 ラテン語の風格

芹の水言葉となれば濁るなり

最近俳句界隈で「プレインテキスト」という言葉をよく見かけるのだが、もとより「言葉となれば濁るなり」などと書かれてしまっては二の句が継げないだろう。


足音がしておのずから草芽ぐむ

この足音は誰の足音だろう。「おのずから」とあるのだから春をつかさどる存在ないし自然そのものなのではないか。


さくらさくら少年少女より聰し

もともとは大学生のサークルなどがやっていた合否確認代行電報の「サクラサク」はすっかり市民権を得て、予備校の広告あたりでも普通に見かける訳だが、この句の場合はどうなんだろう。二〇一七年三月十六日に放送されたTBS『プレバト』の「車窓には桜つぎこそサクラ咲け 相島一之(夏井いつき添削後)」が頭をよぎる。そういう意味なら、毎年必ず咲くさくらは確かに「少年少女より聰し」だ。


入口も出口もなくて春の昼

またしても「も」のたたみ掛けであるが、永遠に続くような春昼の気分がよく表れている。


粽ほどきつつ枕詞のこと

十七音着地の大破調である。粽寿司のいぐさの紐をほどきながら、ううう、長い、あしひきの山鳥の尾の粽かな…なんてことを思い始めた心の状態を詠んだのだろうか。そう思うと大破調が効いているような気がする。


ラテン語の風格にして夏蜜柑

これは名句だと思う。木にわんさかなった果実は、まさに南方伝来の風格がある。ところで夏蜜柑の学名はCitrus natsudaidaiといい、後半は日本語そのままである。検索してみると、現在夏蜜柑として知られるものは、江戸時代中期、黒潮に乗って南方から山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長が播き育てたのが起源とされ、本来の名称は「夏代々(なつだいだい)」だったが、明治期に上方方面へ出荷する事となった際に、大阪の仲買商人から、名称を「夏蜜柑」に変更するよう言われ、それ以来商品名として命名された「夏みかん」または「夏蜜柑」の名前で広く知れ渡ったらしい。


水ごころ無くて落葉を掃きいたり

閒石の句には故事成句のパロディが多い。「魚心あれば水心」は「相手が好意を示せば、こちらも好意を持って対応しようということ」であるが、知るかと落葉を掃いている屈折のし具合が妙に可笑しい。

4 銀河系のとある酒場の

きさらぎや抛物線また双曲線

「も」はないが、これも並列たたみ掛けのひとつのバリエーションである。硬い数学用語をふたつ、これもまた硬質な響きを持つ季語と取り合わせて読者に委ねた作りなので、委ねられた読者として読まねばならないのであるが、本格的な春に向かって万物がダイナミックに変化するイメージがこれらの語の取り合わせによって立ち上がらないだろうか。閒石の時代にそんな言葉はなかったかも知れないが、人によっては「板野サーカス」と呼ばれるアニメの演出技法を思い浮かべるかも知れない。


またひとつ椿が落ちて昏くなる

「昏くなる」は漢字の用い方により日が暮れて暗くなることだと分かるので、「またひとつ椿が落ちて」と直接的な因果はない。次第に暮れていたのだが、またひとつ椿が落ちてにわかに気がついた、という感じだろうか。「また」が絶妙に効いていて、なんともやるせない老境の時間の流れを感じる。


銀河系のとある酒場のヒヤシンス

この句集の中でもっとも知られた句だろう。「とある酒場」はこの地球のものだろうか、それとも銀河系のどこかにパラレルワールドのように存在する生命体のいる惑星に思いを馳せているのだろうか。言い知れぬ寂寥感とともにいま今が過ぎて行く。


大旱やエンサイクロピディヤブリタニカ

長い固有名詞と季語だけでできた人を食った句である。ブリタニカ百科事典は一七六八年創刊で、一九九四年以降は光ディスクとオンラインでデジタル版が発売され、二〇一〇年の第一五版を最後に紙媒体での百科事典編纂を取り止めた。この句集が上梓されたのは一九九二年であるが、すでにデジタル化が話題に上り百科事典の日照りの時代が予見されていたのだろうか。普通エンサイクロペディアと表記するところ、発音に忠実に「エンサイクロピディヤ」としているあたり、思わずにやっとしてしまう。なお、大鑑とか大巻とかの語呂合わせの可能性も捨てきれない。


夕ずつや揺るるほかなき百合鷗

語呂合わせといえば、こちらの句ではyuで頭韻を揃えている。「夕ずつ」は宵の明星である金星。ユリカモメは夜間は飛行せず海上を漂うので、事実としてまったく正しいが雅語を駆使して頭韻を揃え、うつくしい句に仕上がっている。


冬空の青き脳死もあるならん

最近は脳死という言葉が話題になることがあまりないような気がするが、一九八〇年代後半から一九九〇年代にかけては、臓器移植などをめぐる倫理的な観点から関連書籍がいくつも出版され議論がかまびすしかった。そんな中での掲句だろう。生きているのに冬空が青いこともなんにも分からない、それもまた生なのだろうかという感慨だろう。


5 不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき

最終章は挙句についてだけ触れておく。

老人と別れてからの真冬かな

自身が十分老人なのだから、他人のことを「老人」とは呼ばないだろう。ということは、これは自身の肉体が滅びたあとの、さっぱりした魂の存在を仮定して詠んだ句なのではないか。思えば巻頭の句は「春の雪老いたる泥につもりけり」であった。巻頭句において春の雪で消した「老いたる泥」なる肉体と、巻末ではついに別れる。最初から最後まで老いがテーマだったのだ。輪廻する魂は銀河系のとある酒場にもふらりと立ち寄ったりするのだろうか。

(了)

2022-11-27

三島ゆかり ロボットが俳句を詠む

ロボットが俳句を詠む

三島ゆかり

『みしみし』第5号(2020年・晩春)より転載

本稿は『俳壇』(本阿弥書店)二〇一六年新年号から二〇一七年一二月号まで二年間連載された記事をほぼそのまま転載している。ディアゴスティーニの組立キットよろしく、新しい号が出るたびにネット上で機能追加し、それとリンクした記事を目指したが、開発状況により適宜脱線した随筆となっている。


一.福笑いのように

お正月と云えば炬燵を囲んで福笑いに興じたことを思い出す人も多いことだろう。顔の輪郭を描いた紙の上に目隠しをした子が目、鼻、口を並べてゆき、できあがった変な顔を面白がるという単純な遊びではあったが、おさなごころに偶然の快楽ともいうべきものを強烈にインプットされたのだった。

さて、俳句である。袋回しという遊びをやったことがある人も多いだろう。五人なら袋を五つと短冊をたくさん用意して一題ずつ袋に題を書き、五分とか時間を決めたら後はひたすら全員で自分の手許の袋の題で時間内にできる限り句を作って短冊を袋に入れ、五分経ったら隣の人に袋を回し、というのを一巡するまで繰り返す。そのような追い詰められた状況の中から、なんでそんな句ができたのか自分でも分からないようなよい句ができることがある。なまじ考えると、人はマンネリズムに陥りやすい。語の思いがけない衝突を「とりあはせ」として重んじる俳句においては、偶然をあなどってはいけないのだ。その考えをさらに発展させると、コンピューター・プログラミングというテクノロジーを利用して、客観的、散文的に意味をくみ取ることができない語の連なりをランダムに無尽蔵に作り出そうという試みに至る。俳句自動生成ロボット「はいだんくん」の誕生である。

手始めに句型の雛形をいくつか用意して、そこに季語や名詞をランダムに流し込んでみよう。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル
 ④ララララにリリのルルルのありにけり
 ⑤ララララにしてリリリリのルルルルル

などいくつかの句型の「ララララ」とか「リリリ」に音数だけ合わせ意味を無視してランダムに名詞や新年の季語を流し込むとこんな句が生まれる。

 あかるさを今年と思ふ烏かな  はいだんくん
 をととひがなくてつぎめの年男
 正月の影正月の水あかり
 身長に去年の昭和のありにけり
 しろがねにして真空の鏡餅

私は一年中こんな福笑いみたいなことをしている。


二.二月は春の季語なのか

ロボットで季語を扱おうという観点から歳時記を眺めていると、あらためて品詞のこととか暦のこととか人間なら気にしないようなことに気づく。

ロボットなので「ララララや」とか「リリリかな」のララララやリリリに字数の合った季語をランダムに流し込むことを考えるわけだが、まずそこで行き詰まる。歳時記に載っている季語はざっと八割方くらいは名詞だと思うが、そこに断りもなく「春浅し」のような形容詞や「冴返る」のような動詞が混在している。「や」や「かな」はその前が動詞でもさまになるが、「ルルルルの」のルルルルにはさすがに動詞は入れられない。「春立つの」にはできないのだ。そんな訳で名詞、動詞、形容詞などを分類し出すと、日常生活ではまず出会わないような「霾(つちふる)」とか「雪しまく」とか品詞すらよく分からないものに出くわしては途方に暮れる。

また、現在日付から本日使える季語を取得しようなんてことを考えると、暦の問題に直面する。歳時記の中では二十四節気と新暦、旧暦が混在する。大抵の歳時記で【春】を引くと、立春から立夏の前日まで、みたいな説明がある。この立春とか立夏とかは、二十四節気に由来する。二十四節気は純粋な太陽暦なので、うるう年のある新暦とは、四年に一日程度の誤差がある。だから立春を引くと(二月四日ごろ)というふうに「ごろ」という表記がある。これに対し旧暦はややこしい。月の運行をベースにすると一年が太陽暦にくらべ約十一日短くなってしまうことから、二十四節気との折り合いにおいてずれが拡大すると閏月を置いて補正した。そんな補正量の大きさなので陰暦の睦月とか如月とかは、新暦の何月何日ごろから何月何日ごろまでという記載がない。

さて、ロボットの話なのであった。では立春から立夏の前日までを「春」として、二十四節気ベースで二月四日から五月五日までの期間、歳時記にある春の季語を使えるとしようとすると、あれ? 春の季語には「二月」がある。では二月一日から二月三日までは「二月」を春の季語として詠んではいけないのか。ロボットはここで悩んで自爆したくなるのだった。

 立春の鏡は夢となりにけり  はいだんくん


三.動詞て?

前号まではランダムに変化するのは名詞だけだった。今回はロボットで動詞を扱おうという観点から考える。日本語がネイティブな人なら普通にできることが、ロボットに取り込もうとするとあらためて難しい。

その一。動詞は活用する。活用の種類として文語文法なら四段とか下一段とかカ行変格とかあって、それぞれが未然形、連用形、終止形、連体形、已然形、命令形に変化する。口語文法ならさらに五段とか仮定形とかになる。「はいだんくん」は語彙を句型に流し込んでいる訳だが、あらかじめ語彙を登録するときに四段とか下一段とかの種類を併せて登録し、句型の側で未然形とか連用形とかを指定し、流し込むその場でロジックにより活用させている。ところで動詞は語幹と活用語尾に分かれる訳だが、二音の動詞の一部では語幹が活用語尾になっている(例えば「見る」の未然形、連用形)。単純に終止形から活用語尾をとって、未然形とかの活用語尾を足せばできあがりという訳ではない。日本語はじつに難しいのだ。

その二。動詞によってその前に使える助詞は決まっている。「水を飲む」というが「水に飲む」とは言わない。「朱に染まる」というが「朱を染まる」とは言わない。助詞「を」「に」は、動詞によって使えたり使えなかったりする。対策として語彙を登録する際に助詞と動詞を組み合わせ「を飲む」「に染まる」という単位で語彙登録する考え方もある。が、助詞を省略して切り詰めた表現をすることもある俳句でそれをやることは面白くない。かくして語彙を登録するときに動詞の属性として「を」「に」が使えるかを併せて登録することにする。

その三。動詞の語尾は音便して「ん」や「つ」になり、動詞の次に来る「て」はときどき濁音となる。「見て」「聞いて」「言つて」「楽しんで」…。 このあたり、ネイティブな日本人はなまじ自然にできてしまうので、法則として理解を超えている。ロボットを開発するために、外国人相手の日本語学校に通おうかと思ったりもする今日この頃である。

 ふるさとに辛夷の少女満ちてきし  はいだんくん


四.修飾語をあしらう

前号までで季語、名詞、動詞をランダムに変化させるようになり、だいぶ俳句らしい目鼻立ちが整ってきた。さらに細やかな表現を獲得するために、今度は修飾語について考えてみよう。ただしロボットにやらせたいのは、意味が通ることではない。うわべだけもっともらしく、そのじつ、何言ってんだかさっぱり分からないもの、それでいて俳句以外のものではなさそうなもの、そんな句が求めるところだ。

さて、修飾を機能的に考えると、活用しない体言(名詞、代名詞)を修飾する連体修飾と、活用する用言(動詞、形容詞、形容動詞)を修飾する連用修飾があるわけだが、その区分よりは品詞ごとに見て行った方が分かりやすいだろう。

その一。形容詞。形容詞は事物の性状または事物に対する感情を表す。活用としてはク活用もしくはシク活用がある。赤し→赤く、など活用時にシが落ちるものがク活用で、うれし→うれしくなどシが落ちないものがシク活用であるが、動詞ほど複雑な活用ではない。
その二。形容動詞。「きれいだ」「すてきだ」の類いで、「だ」をとると名詞となる。異論はあるかも知れないが、ロボットとしては、名詞のひとつの特殊な属性として形容動詞を管理するものとし、活用語尾である「なり」とか「たり」は句型の一部として管理することにする。 形容詞や形容動詞は活用形により連体修飾となったり、連用修飾となったりする。ここまで来れば、修飾語として残る主なものはひとつだ。

その三。副詞。副詞は自立語で活用がなく主語にならない語で、主として連用修飾語として用いられる。状態副詞、程度副詞、叙述副詞などの分類があるにはあるが、俳句自動生成ロボットにとってそんな区別はあまり意味がないだろう。字数だけ気をつけて「いつせいに」とか「たちまち」とか「一寸」とか「やや」とか、俳句の表現として手垢にまみれた陳腐な語を登録しておこう。修飾語とは大体そういうものである。そこに本質はない、たぶん。

 人体は空よりうれし花の昼  はいだんくん


五.句の姿かたち

俳句自動生成ロボット「はいだんくん」は、ごく大ざっぱにいうと、かちっとした句型に対しランダムに語彙を流し込んでいる。前号までで季語、名詞、動詞、修飾語と、ランダムに変化する語彙の種類を増やしつつ、特に説明することもなくおのずと句型も増えていたのだが、今度は句型について着目してみよう。俳句入門書みたいな進行となり、改めて人間として作句のありように思いを馳せることになるかも知れない。

その一。切れ字。「はいだんくん」では「や」「かな」「けり」を使用している。切れ字によって何が何から切れているのかというのは諸説あるところであるが、俳句の前身である俳諧(連句)の発句が、脇(二句目)以降から切れて、一句として独立した世界を提示しているとする説に一票投じたい。切れ字のある句は切れ字によって独立するとともに、詠嘆し余韻を残す。ロボット自身は感情を持たないが、ロボットが切れ字とともに詠んだ句には詠嘆が感じられる。これは切れ字がまとった伝統とか文化とかによるものであり、読み手がその文化圏にいることを前提として成り立っている。これは人間が詠んだ句を観賞する場合でも同様である。作者の感情がどれほどの量で詠嘆していようと、句としてそれなりの形ができあがっていないと読者には伝わらない。多くの入門書が切れ字にページを割いているのは、手っ取り早くそれなりの形をマスターして先人と同じ文化圏に立ちましょうということなのだ。

その二。季語。「はいだんくん」は厳格な有季定型を貫いている。一句にひとつ季語を含み、季重なり、季またがりなど初心者にはタブーとされることはしない。一般的な入門書で季語を詠み込むにあたりもっとも注意されることは、「季語を説明しない」ということだが、その点ロボットはじつに気が楽である。季語もそれ以外もまったくランダムとしているので、大抵の場合、適度に意味が通らないのだ。もっとも偶然にまかせているので、意味が通り過ぎる駄目駄目な句ができてしまうこともあるが、そんなときは「次の一句」を押そう。

 蒲公英の影を漏らしてしまひけり  はいだんくん


六.俳句特有の言い回し

前号から句型について着目している。今回は俳句特有の言い回しについていくつか拾ってみよう。具体例はすべて俳句自動生成ロボットによる。

その一 直喩。比喩を行うときに「AはBのようだ」と直接に修辞する方法である。俳句なので「やうな」「やうに」「ごとし」あるいは「ごと」などを句型としては仕込む。「ごと」は「ごとし」の語幹だが、俳句以外でも多用されるのだろうか。変わったところでは、「○○を××と思ふ」というのも、俳句特有の直喩なのではあるまいか。

 たましひを裂け目と思ふ立夏かな  はいだんくん

その二。隠喩。たとえを引くとき、「ようだ」「ごとし」などの語を用いない修辞法である。俳句ではしばしば五七五のうちの十二音だけをフレーズを整え、残りの五音に季語など関係なさそうなことを取り合わせる二物衝撃の技法が行われるが、このときの十二音と五音の関係は、隠喩となっていることがある。

 こひびとの光り始める金魚かな  はいだんくん

その三。比較。「○○は××より△△だ」という文型において普通の散文では○○と××は比較可能な類似の概念であるが、この際、そんな垣根は飛び越えてしまうのもよいかも知れない。

 前髪は恋よりあはし夕薄暑  はいだんくん

その四。極端。「すべての」「あまねく」「いつせいに」「ばかり」などの極端な表現による言い切りは、俳句では心地よいものである。

 黒南風のやうな片恋ばかりなり  はいだんくん

その五。否定。不在を詠むことによって、逆にそれがあったときを読者に想起させるやり方である。反対概念の完全否定による強調という手法もある。

  サイダーがなくて鏡の乳房かな  はいだんくん

その六。段階。それが「はじまり」なのか「途中」なのか「跡」なのかに触れると、そこに鋭敏な感覚があるような思わせぶりな句ができることがある。

 階段は朝の始まり鉄線花  はいだんくん

それにしても、これだけの長さの記事のためにどれほど「次の一句」をクリックしたことか。馬鹿である。


七.ロボットは俳句を読めるのか

半年にわたって「ロボットが俳句を詠む」を連載してきたわけだが、俳句自動生成ロボット「はいだんくん」は今のところ人工知能ではない。単に、あらかじめ人間が仕込んだ句型に対し、あらかじめ人間が仕込んだ語彙を音数だけを合わせてランダムに流し込んでいるだけである。そのランダムであることが味噌で、ときに人間の常識に縛られない語の衝突が生まれる。それが楽しみでやっているだけなのだが、こういうことをやっていると、いろいろ言う人が現れる。「でもそれって『俳壇』に載せる句は最終的に人間が選んでるんでしょ?」「ロボットが自己学習して、句型や語彙を増殖してるわけじゃないんでしょ?」「そもそもロボット、俳句は作れても俳句を読むのは無理なんじゃないかしら?」「お気の毒にね」…。

いちいちごもっともである。でも、そんなことを言われると、人間はどうやって俳句を読んでいるのだろう。これはなかなか難しい。

 初夏の夜やふるさとの落し蓋  はいだんくん

今、はいだんくんが適当に作り出した文字列である。これを俳句だと識別し鑑賞しようとするとき意識的にせよ無意識的にせよ人間は何を行っているのか。ちょっと箇条書きしてみよう。

①既知の語や助詞を頼りに、文字列を構成要素に分解し意味を汲み取ろうとする。人間以外がやるには形態素解析という技術が必要となる。
 →初夏/の/夜/や/ふるさと/の/落し蓋

②五七五の定型に当てはめようとして、漢字で書かれた音数を補正する。初夏をショカと読むかハツナツと読むか、夜をヨと読むかヨルと読むか、などは、定型に当てはめてみないと多くの場合分からない。
 →ハツナツの/ヨやふるさとの/落し蓋

③俳句に特有な季語、切れ字、比喩、句またがり、破調、音の調べ、ひらがな/漢字の表記選択などの技法の使われ方を汲み取ろうとする。

④過去に同じような句がすでに存在しないかを確認する(何をもって「同じような」というのかも悩ましい問題だ)。

⑤以上をほとんど瞬間的に行い、いいか悪いか判断する(しかも判断基準は所属する共同体によって劇的に異なっているのだ)。

人間ってすごいですね、としかいいようがない。


八.ロボットは俳句を学べるのか

前号では「ロボットは俳句を読めるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を読めたとして、ではロボットが実作者として次の自作に役立つ要素を読んだ句から学べるのだろうか。それ以前にそもそも、人間の実作者はどういうプロセスで俳句を学習しているのだろう。

あるジャズ・ミュージシャンがどこかでジャズについて「いかにフリーだからといって、音階をドレミファソラシドと弾くわけには行かない。ジャズを弾くということは、ジャズのように弾くことなのだ」という意味のことを書いていた記憶がある。俳句だってたぶんそうなのだろう。俳句を詠むということは、俳句のように詠むことなのだ。では俳句のようだ、とは何なのか。じつに悩ましい。

悩ましいといえば、「はいだんくん」は今のところ人力で語彙と句型を増やし、語彙を句型にランダムに流し込んでいる訳だが、そもそも人間は俳句を学ぶときにそんなやり方を行っているのだろうか。半年前にこのコラムを始めたときに「はいだんくん」に仕込んだ句型には以下の3つが含まれていた。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル

これらはそれぞれ「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」が元になっている。幸彦句と閒石句は、私にとってかなり近いものだ。露地裏/夜汽車/金魚、階段/海鼠/日暮といった語の運びの意味的な脈絡のなさが、伝統的な「かな」止めの揺るぎない句型に乗って、言い知れぬ詠嘆を感じさせる。分けても、幸彦句の郷愁を帯びた語彙の「と思ふ」による強制的な合体の威力、閒石句の「無くて」がもたらす不在感、不安定さは格別のものだ。一方で、平明な語彙をリフレインで結合した龍太句の永遠性と姿かたちのうつくしさはどうだろう。

実作者としての私は、これら三句から句型としてのオールマイティな俳句らしさを感じたから、その句型をロボットに取り込んだのだが、一般論として人はそんなふうに句型を学習対象とするのだろうか。また、それはロボットが代替して学習することができるのだろうか。悩みは深まるばかりである。


九.ロボットは何を目指すのか

前号では「ロボットは俳句を学べるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を学べたとして、ではロボットは何を目指すのか。個性とは何か。このあたり、人間の実作者にとっても悩ましい。

ふつう人がロボットに抱くイメージは、正確、高速、で休まない、サボらない、気分によるムラがない…などだろう。で、工業用ロボットが生産した製品の仕上がりについては、安定的に高品質、個性がない、…といったイメージではないかと思う。

さて、身近にこんな俳人はいらっしゃらないか。目に映るものを片っ端から客観写生すべく日頃から凄まじい努力をし、「多作多捨」とか「俳句スポーツ説」とかを信奉し精進している…。頭が下がることではあるが、これってロボットに抱いていたイメージの「正確、高速で休まない、サボらない、気分によるムラがない、…」を人力でやろうとしているだけで、目標が俳句そのものからすり替わり、単に「私はロボットになりたい」と言っているだけではないのだろうか。そのような努力とともに生産される句がもし「安定的に高品質、個性がない、…」だったとしたら空しい。克己的な作句態度と、できた句が面白いかはまったく別のことだ。「多作多捨」も「俳句スポーツ説」も波多野爽波が唱えたことだが、爽波自身の句は飄逸にして今も輝いている。

作句態度としてのロボットの話は金輪際捨て置くとして、やはり俳句なのだから、ロボットだって個性的な俳句を作りたい。では人間にとって個性とはなにか。ある作風が人から個性だと認められたとき、それを伸ばそうとすることは自己模倣ではないのか。自己模倣とは自己の作句アルゴリズムをパターン化して再生可能とすることではないのか。それは、まさに自分をロボット化することではないのか。

山口誓子最晩年の句集『大洋』から何句か引く。

 大雪原人の住む灯の見当らず  誓子
 揺れてゐる壁爐の火には形無し
 まだ水田美濃は水田を憚らず
 獅子舞の鬼紅舌を隠さざる
 船は見えざれど烏賊火は前進す
 新蕎麦を刻む人間業ならず
 鯉幟身をくねらせて進まざる

いかがだろう。この動詞未然形への執着、不在への執着。最晩年の山口誓子は、もはやロボットのようにして個性を繰り出していたのではないか。


十.ロボットがどんどん増える秋の暮

前号では、俳人にとって個性とは時としてアルゴリズム化された自己模倣ではないのかという話の中で、山口誓子の最晩年の句をいくつか引用した。

ではその句型をロボットに組み込んだら誓子ふうの句を詠むのか。この稿は「はいだんくん」というロボットをネット上に置いて進行していた訳だが、「はいだんくん」に誓子ふうの動詞未然形への執着句型を組み込んだところで、全体として誓子ふうにはならない。「はいだんくん」にはすでに八十個ほどの句型が仕込んであって、すでにある句型がぜんぜん誓子的でないからである。また、語彙の選択も、切れ字に対する考え方も誓子は独特である。それらを徹底的にやれば、ロボットであっても個性的な何かができるかも知れない。そもそも俳句なのだから、ニュートラルなことをやっても誰にも見向きもされないのだ。

ということを推し進めると、「はいだんくん」というただひとつのロボットを改良するのではなく、単目的なロボットを数多く作った方が、より俳句的だという考えに至る。旧作で恐縮だが、私のホームページ上の「俳句自動生成ロボット型録」には、数年来の試作が置いてある。今でも公開しているのは十二個だが、特定の俳人を模倣した六個と、単機能で実験的な六個に大別される。いくつか見よう。

「ひていくん」は山口誓子の「流氷や宗谷の門波(となみ)荒れやまず」「海に出て木枯帰るところなし」のような否定表現の要素のみをフィーチャーしたロボット。

 秋の午後沖の降る日のはみ出さず   ひていくん
 乗つてゐる小鳥の目には鉄鎖なし
 海は舞はざれど残暑は浸食す
 夢に桃変身直前かも知れず

ううむ、こちらはどうか。「俳諧天狗」は、三橋敏雄をして「天狗俳諧」と言わしめた摂津幸彦の句型と、レトロで官能的な語彙をシャッフルしたもの。

 三越にやはらかき眉垂れてをり  俳諧天狗
 夜汽車よりあゝ彼方より南浦和
 みごもりをあふれて紐が来てゐたり
 からだとは指美しく折る花野 

収まる場所を変えてはつぎつぎと立ち現れる摂津語彙を眺めていると、くらくらしてくる。このふたつのロボットを合体させることはできない。


十一.俳壇賞をめざす(うそです)

前号では旧作のロボット群のうち、特定の俳人を模倣したものを紹介した。今回は、残った単機能で実験的なものについて紹介する。

この原稿を書いている時点で第三十一回俳壇賞の締切は数日後に迫っている訳だが、三十句なりのまとまった数の俳句を揃える場合、人はしばしば連作とかテーマ詠の方向に走る。一句一句ばらばらにできたものよりも、その方が統一性があって訴求力がありそうだと考えるからである。であればロボットでも、句型をあらかじめ五十くらい用意して、傾向の極端に偏った語彙を流し込み、ざっと見て箸にも棒にもかからぬ句を捨てれば、一丁上がりでポンと応募できるのではないか。じつに横着で舐めきった発想であるが、私はそういう人間なのである。前号と同じ「俳句自動生成ロボット型録」のうち、「綱吉」と「諸般」はそのようにして作られた。「綱吉」は犬にまつわる語彙、「諸般」はショパンにまつわる語彙を元にしている。誌面の都合で諸般の句のみ紹介する。

 雨だれに父のにほひのして花野  諸般
 蟷螂を洗ふバラード第一番
 秋の田をゆるす軍隊ポロネーズ
 革命のかたちに月はかへりけり

さて〈雨だれに父のにほひのして花野〉であれば、ショパンにまつわる語彙は「雨だれ」だけで、同じ名詞でも「父」「にほひ」はショパンには関係ない。「綱吉」も「諸般」も、名詞群に属性を持たせ、句型の中でテーマの名詞群は一回だけ現れるものとし、名詞が二度以上現れる句型では他を普通の名詞群としている。このように句型を作っておくと、テーマ詠に限らず、個性を注入しやすいのだ。以後に作成したロボットは「はいだんくん」も含め、属性により名詞群を二分している。

もうひとつ「忌日くん」というロボットを紹介しよう。ご存じのように歳時記には季語として忌日が多く収められている。「忌日くん」はそれらには目もくれず、新作の忌日を刻々生み出す。

 鎖骨忌のひとつの朝の電気かな  忌日くん
 おほぞらの体毛紅きおほぞら忌
 遺伝子の抽斗送りパジャマの忌

忌日は不思議である。人名に限らず名詞に「忌」とか「の忌」を付けるだけで、あらあら不思議、季語となるのだった。


十二.あなたとは違うんです

前号では旧作のロボット群のロボット群のうち、単機能で実験的なものについて紹介した。うち「忌日くん」に関しては、二〇一二年に週刊俳句で西原天気さんと私にて対談を行った(二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力)。対談の最後で私は、以下のように発言した(部分的な引用で文意が通じない部分のみ多少改稿)。

どこかの大学あたりでは真剣に俳句自動生成を研究されている方が多分いらして、そういう分野では日本語形態素解析技術やテキストマイニング技術を駆使して自己学習機能や共起表現機能を有するものがあるのではないかと想像します。今回はそのような先端技術に無縁なおもちゃにすぎない私のロボットを取り上げていただき、ありがとうございました。私のおもちゃではなく、先端技術の風を感じるような真の俳句自動生成ロボットの記事をいつの日か「週刊俳句」で拝見したいものです。

それから四年経つのだが、いまだに「私、大学で真剣に俳句自動生成を研究しています」という方には出会っていない。たぶん産業への応用の可能性が少なく、費用対効果に見合わないのだろう。自己学習機能については、俳句は囲碁や将棋と異なり勝ち負けがはっきりしないので、なにを成功体験として蓄積するのかが悩ましい。テレビ番組の評判解析なら、放送後ネット上を片っ端からその番組を示すキーワードでサーチして、それとともに用いられる特徴的な語彙を解析し、好評/不評を判断できようが、個々の俳句作品に対して、そのようなフィードバック解析を試みることは現実的には難しいだろう。

金に糸目をつけないなら、この際、大脳生理学分野での研究にも期待したい。人間が俳句を読んだとき、脳内でなにが起きるのか。被験者をふたつのグループに分け同じ俳句を読ませたときに、片方のグループでは脳内麻薬物質が大量に分泌され、もう片方はそうではなかった、なんて事実が科学的に説明できるなら、同じ傾向の人が同じ結社や同人に集まることが説明できるのかも知れない。そうなると科学のお墨付きで互いに、あなたとは違うんです、とか言うのだろう。でも、そんなことは解明されない方が、平和に暮らせるんだろうなあ…。

【追記】

この記事が掲載されたのは『俳壇』二〇一六年一二月号だったが、それから一年余りの間に世の中は劇的に進展した。二〇一八年二月二六日にNHKの番組でAI俳句が紹介された。北海道大学を中心とした「札幌AIラボ」で研究が進められているとのことである。

手許に札幌AIラボが二〇一九年に発行した『AI俳句』という冊子がある。俳人の大塚凱さんが選句したAI俳句十句とその鑑賞のほか、ラボ長の北海道大学大学院情報科学研究科教授・川村秀憲工学博士による「AI俳句集発刊にあたって」、ラボによる「AI俳句、その仕組みとは」という記事があり、そのすべてに英訳が付いている。川村博士の挨拶の1部を引用しよう。

人工知能で俳句を生成する試みの中には、強い人工知能を実現するために必要とされる様々な技術開発が含まれています。映像や音など現実世界の物事を言葉に結びつける技術、感情などの概念を理解し表現する技術、言葉の裏側に隠された多くの背景を読み取る技術、人がどんな物事に心を動かされるかを知る技術などです。人と人工知能が互いにわかりあえる存在になるためには、これらの困難な技術開発を実現させる必要があります。

そこには「人と人工知能が互いにわかりあえる」という目標に向かって、先端技術の風が確かに吹いている。今後の研究開発を大いに期待したい。


十三.打率を上げる

今回はいい句を作るのではなく駄目な句を排除することを、ロボットなりに考えたい。

今のところ、季語だろうがただの名詞だろうが意味判断せずに対等に現れる衝突の可笑しさを狙っている訳だが、いくらなんでもこれは駄目だろうという句ができることがある。

 初雪の雨の鏡を見つめけり  はいだんくん
 しづかなる小春の夜に遅れをり

どちらもだいたい同じ理由で駄目なのだが、「初雪の雨」も「小春の夜」も衝突を面白がる以前にあり得ない。天気に違う天気をぶつけてはいけないし、明らかに昼を詠んだ「小春」に「夜」をぶつけてはいけないのだ。

どうしたものか。大抵の歳時記には時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物といったカテゴリーがあるが、大ざっぱすぎて役に立たない。「小春」は時候だが、時候だというだけでは「小春の夜」を排除できない。「冬の星」は天文だが、明らかに夜だ。雨の日に「山眠る」とは詠まないだろう。季語に限らずある種の語は、裏情報として天気や時間帯を明確に特定しているのだ。であれば、timeとかweatherとかの属性を季語や名詞に持たせて、その特定のものに対しては「昼」とか「雨」とかあらかじめ設定するしかないだろう。

連句では自他場という考え方がある。前句が自分を詠んだものなら付句は他人を詠む。前句が他人を詠んだものなら付句は場所を詠む。このようにずらして付けることにより衝突を避けるという知恵だが、それをここでも応用しよう。天気を特定する語が出たら、もう天気の語は出さない。時間帯を特定する語が出たらもう時間帯を特定する語を出さない。季語と名詞間だけでなく、名詞間でもそれができれば、極端な話、「昼の夜」みたいなものは出現しなくなり、ぐんと打率は向上するはずだ。

また、そのような属性を保持していれば、発展型として時刻や天気を外部から取得することにより、まさに今の時刻や天気に対して即吟することができるのではないか。なんだか無駄にすごい。


十四.派手なことをやる

「や」「かな」「けり」などの切れ字を基本とした正統派の句型の中で、句型レベルでなにか派手なことをやろうと考えたとき、まず思い浮かぶのはリフレインではないだろうか。うまく行けば、華麗な調べとともに対象を詠み上げることができる。

リフレインの名手としては、後藤比奈夫、鷹羽狩行、若い世代では山田露結あたりの名を上げることができる。中でも後藤比奈夫は最初期からリフレインのオンパレードで、ライフワークのようにしてその技法にかけていたことが分かる。何句か、雛形として句型をロボットに取り込む観点から取り上げたい。

 人の世に翳ある限り花に翳  比奈夫

「翳」という名詞が二回繰り返される。リフレインとしてはシンプルなものだろう。

 老に二時睡蓮に二時来てをりぬ  比奈夫

単語レベルでは「二時」という名詞が二回繰り返されているが、それだけでなく「老に二時」「睡蓮に二時」という対句表現でゆったりとした調べを獲得している。

 滝道といひて坂道のみならず  比奈夫

「滝+道」「坂+道」という同じ構造の複合名詞の一部を重ねリフレインとしている。

 蒐めたるフラスコにバラ展の薔薇  比奈夫

「バラ+展」という複合名詞に、そのかたわれの名詞を重ねリフレインとしている。

 深秋といふは心の深むこと  比奈夫

音読する限りリフレインとはいえないが、音読みの「深秋」に対し、訓読みの「深む」を重ね、字面としてのリフレインを実現している。日本語の漢字ならではの表現だろう。

ひとことに「リフレイン」と言っても、名手の技法は多彩で奥が深い。ロボットはいつの日かその境地に達することができるのだろうか、と思うはいだんくんなのであった。

 これは夢これはテレビの冬日かな  はいだんくん


十五.ロボットが『ただならぬぽ』を読む

二〇一七年一月に出た田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)が面白い。俳句自動生成ロボットはランダムな言葉の衝突が身上だが、そのロボットが嫉妬するくらいランダムだ。ロボットの観点で二句見てみよう。

 翡翠の記録しんじつ詩のながさ  田島健一

巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなんとも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。これはまさに私が俳句自動生成ロボットでやろうとしていることそのものではないか。あえて散文訳を試みると、翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の詩(俳句も含む)のなんと長くてばかばかしいことよ、という感じか。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば霊感に満ちた仙田洋子の句を思い出しておこう。〈父の恋翡翠飛んで母の恋〉

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ  田島健一

「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音iで揃え全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作り。助詞は何ひとつない。ただのランダムではなく音韻を手がかりにしている。じつは「はいだんくん」は音を管理していない。「水着」だったら、文字としての漢字二文字の「水着」、それから三音であること、夏の季語であることは管理しているが、「みずぎ」という読みはこれまで管理していなかったのだ。抜本的改修となるが、考えたい。


十六.ロボットが韻を踏む

すでに前号で予告してしまったようなものだが、音韻の話を書く。

子音と母音が必ずセットで現れるような日本語において、ましてや俳句において韻など踏んでなんの足しになるのか、という向きもあるかも知れないが、やはり作句においても鑑賞においても、音韻の使われ方に思いを馳せたとき、偶然に導かれることも含め認識を新たにすることはあろう。

 去年今年貫く棒の如きもの  高濱虚子

この句に含まれる母音oの数は、棒をボオと発音することにすれば、なんと十七音のうちの十一音を占める。この天体の摂理のようなスケールの大きな句の言い知れぬ感じは、もしかすると母音oの多さによってもたらされているのではないか。因果関係を公式化することはできないが、少なくとも無縁ではないのではないか。

 クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜  浦川聡子

「クロイツェル」「折り鶴」「凍る」「夜」と、ru音で脚韻を踏みながら音数が次第に短くなることによってもたらされる(であろう)祈りにも似た切実感。

 海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ  田島健一

前号にも書いた「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」の頭韻をi音で揃えたmi音の執拗な反復。

特にここに挙げた浦川句、田島句では音韻先行で思いがけない語の結びつきを達成している、と感じられる。いや、注意深く言えば、そのように作者と読者が音韻について価値観を共有する文化圏があるはずだ。

であれば、そのような文化圏の存在を信じてロボットも韻を踏もうではないか。もっともロボットの場合、もともと思いがけない語の結びつきしかできないのに音韻先行のふりをして、そのような文化圏の読者に句を委ねるわけだけど。

 風花にかざす恋するふたりかな  はいだんくん


十七.ロボットに伝記的事実はあるか

 老人と別れてからの真冬かな

まずは句会のルーティーンに従って、作者匿名で読んでみよう。「…からの真冬かな」というもの言いは季節の推移を感じさせるので、老人と別れたのは少し前のことだろうとは察しがつく。では「老人」と作中主体の関係は? あるいは「別れる」とは「生き別れ」なのか「死に別れ」なのか? 「生き別れ」であるなら、例えば徒弟制度の厳しさがいやになって飛び出したが社会の厳しさに直面し、いかに自分が師である老人から庇護を受けていたかを思い知らされた「真冬」なのか。また「死に別れ」であるなら、故人の人柄を偲ぶにつけその不在が「真冬」なのか。いずれの読みも可能だし、句そのものが具体的事実を消し去り、読者によってどうとでも受け取れるような作りになっている。句にはとにかく「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてないのだ。

そろそろ作者を明かそう。作者は橋閒石。この句は八十九歳で上梓した第十句集『微光』の最後の句で、句集上梓の数ヶ月後に閒石は他界した。全集には『微光』以後の六五句が載っているものの、掲句が周到に用意された辞世の句と言って差し支えないだろう。句集のタイトル『微光』は集中の「体内も枯山水の微光かな」による。函から出した句集本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっていて、なんとも生命の薄明かりを感じさせる。また、同じ句集の中には「人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人」「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」といった巨視的な句も見受けられる。

それらを踏まえて掲句をもう一度見てみよう。すると作中主体は作者の魂で、「老人」とはまもなく捨てることになる人間の肉体なのではないか、という可能性に気づく。そんな間近に迫る魂の「真冬」。いかにも閒石の辞世の句らしいではないか。しかしながら、しつこいようだが、句には「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてない。

「はいだんくん」は連載を進めながら、俳句的思考とともにそのアイデアをロボットに盛り込むという体裁をとっている。「ノート」にバージョンアップの情報を記載しているわけだが、いつしかそのノートが「はいだんくん」の伝記的事実として、それを読むことによりロボットの句の読みが一変してしまう事態に至るのだろうか。


十八.ロボットがつぶやく

私が制作してネット上に公開している俳句自動生成ロボットのシリーズは、それぞれツイート・ボタンによりツイッターと連携していて、句が気に入ったらそのままツイートすることができる。

『俳壇』誌向けに制作しているロボットは「はいだんくん」であるが、別に「ゆかりり」というロボットがある。「ゆかりり」は実物の三島ゆかりが作りそうな俳句を自動生成するロボットで、俳句実作上の奇想にとらわれると、それをロボットでやったらどうなるんだろうと、しばしばアイデアを「ゆかりり」に仕込んで試してみる。それでうまく行ったものを「はいだんくん」に移植したり「ロボットが俳句を詠む」の原稿のネタにしたりする。「ゆかりり」と「はいだんくん」はそういう関係で、「ゆかりり」はより先進的で、「はいだんくん」はより枯れている。

というわけで、開発者の私に関心があるのはむしろ「ゆかりり」の方で、ツイート・ボタンでツイートするのはもっぱら「ゆかりり」の句である。ロボットの作った句をツイートしても二三人が「いいね」を付けてくれるのが関の山だったのだが、ここへ来て「あわ・みかわ」さんという面識のない方が「ゆかりり」の句をかなりの頻度でツイートしてくれるようになった。私をなぞらえたロボットの句を他人がツイートするのを私が読むのはかなり奇妙な体験である。つい返信で短評してしまう。以下「ゆかりり」の句はあわ・みかわさんがツイートしたもので、短評は私。

 彼女みなギリシャ彫刻春惜しむ  ゆかりり

→「みな」によって「彼女」が複数であるところが眼目ですね。同時に複数人の彼女がいるのか、歴代の彼女なのか。「春惜しむ」にそこはかとない徒労感があります。

 極楽や首都に遅れる抱卵期  ゆかりり

→「極楽」と「首都」、もしくは「遅れる」と抱卵期の「期」というふたつの対比が組み合わさることによって、微妙な意味の混乱が発生していますね。また「首都に遅れる」からは高度成長時代の残像が感じられます。

 ブラウスの略し始める春暑し  ゆかりり

→ぎゃ、非名詞の季語について手を抜いていることが露見している。非名詞の五音の季語を下五とする句型を登録するときに、春暑しとか風光るとか山笑ふとか、大抵のものは名詞+用言ではないかと、直前を連体形にして、変なことになってしまったようです。

この記事の読者の皆さんもせっかくですからツイート・ボタンでつぶやいて下さいね。


十九.俳句ソフト不正使用問題

二〇一六年に世を騒がせた将棋ソフト不正使用問題は、疑いをかけられ出場停止処分を受けた棋士に将棋連盟が慰謝料を払うことで双方が合意し和解した、と二〇一七年五月二十四日に発表があった。まずはめでたしであるが、技術の進化が第二、第三の同種の問題を引き起こすであろうことは想像に難くない。俳句界とて同様であろう。

さて、我らが「はいだんくん」を実作支援に使用しようと考えたとき、これはどうにも使い勝手がよくない。ユーザインターフェースが「次の一句」ボタンしかないのがなんとも物足りないのだ。やはり、ユーザが自分で季語や特定の語句を入力でき、それを用いた句を返すようなものでないと、実作支援には使えないだろう。いくつかの改善策を考えてみる。

◆季語
「はいだんくん」の季語は、現在日付をもとにその日使えるものをランダムに返している。二十四節気や忌日も登録されているので、今日から小暑か、とか今日は重信忌か、とか気づくのには役に立つが、数ヶ月後に発行される原稿の季節には合わない。デフォルトは現在日付で構わないが、日付はユーザが指定できるようにしたいではないか。

◆語彙
句会で出題される兼題/席題をそのまま指定してロボットに作らせたいではないか。余談ながらスマホの角川合本俳句歳時記アプリでは全文検索という機能があり、季語だけでなく検索ができる。例えば「告ぐ」で検索すると、〈癒え告ぐるごとく北窓開きけり 佐藤博美〉〈鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨〉がヒットする。これは紙の歳時記ではできない便利な機能である。

◆差し替え
ロボットが作った句が、大体いいんだけどここがねえ、という場合、大体いいところは固定して、ここがねえというところを部分的に差し替えたい。

◆複数案表示
デジカメでブラケット撮影というのがあり、露出とかホワイトバランスとかISOとかを少しずつ変えて、一回のシャッター押下で複数枚の写真を撮ることができる。であれば、「はいだんくん」でも季語を上五、中七、下五に置いた三案を表示すると
か、季語だけ異なる三案を表示するとかあると、ユーザがそうそう、これこれと選べるではないか。

このくらい便利になれば実作支援に役立つことだろう。ところで、俳句のことをよく知らない人に、俳句には歳時記というものがあって、そこには季語の意味と例句が載っていて、俳人は歳時記を引きながら俳句を作るのだという説明をしたら、「え、それってカンニングじゃないの」と言われた。そこか…。


二十.動詞の語彙を収集する

ロボットのことを考えていないときはネット上で連句を巻いている。八年ほど年間十巻前後を捌いているのだが、ネット連句ならではというべきか連衆もいろいろで、面識のない人もいれば、ここだけのお忍びの俳号で参加されている方もいる。いちばん最近満尾した巻の冒頭は以下。

 葉脈のみるみる伸びる立夏かな  伸太
 薫風わたる河岸段丘  ゆかり
 国境を超える列車に身をおきて  媚庵
 ユーロ紙幣で払ふ飲み代   銀河

ここまで巻いたところで捌き人の私が茶目っ気を発揮し、伸びる→わたる→超える→払ふ、と続いたのだからすべての付句に動詞を入れようと突飛な提案をし、実際そのように進行した。中間を割愛して名残裏の花の座と挙句のみさらに記そう。挙句では最後とばかりになんと三個も動詞を投入している。

 新聞を綺麗にたたむ花の午後  桃子
 来ては睦みて消ゆる双蝶  伸太

 かくして三十六句で使われた動詞は以下四十九個。

ア行:上ぐ、あり、おく、追ふ、泳ぐ
カ行:抱へる、帰る、聞く、消ゆ、崩る、来、零す、
 超ゆ
サ行:さぶらふ、凍む、棲む、する
タ行:確かめるたたむ、呟く、つむる、飛ぶ、とる
ナ行:ながれる、鳴く、なる、にじむ、濡らす、
 眠る、伸びる、登る
ハ行:走る、果つ、はびこる、払ふ、吹き抜ける、
 ほかす
マ行:負ける、まるめる、むづかる、睦む
ヤ行:焼け落ちる、揺れる、読む、捩よぢれる
ラ行:弄す、論ず
ワ行:わたる、笑ふ

さて、連句を巻いていないとき私はロボットのことを考えている。これら、連句の運びの中で自然に得られた、まとまった量の動詞は俳句自動生成ロボットに取り込む語彙としてじつに貴重である。そういう観点でみると、文語(上ぐ、あり、…)、口語(おく、追ふ、泳ぐ、…)、方言(ほかす)、カ変(来)、サ変(弄す)、濁るサ変(論ず)、複合動詞(吹き抜ける、焼け落ちる)など、じつに多岐にわたっている。動詞の活用についてはこの連載の三回目で一度触れたが、法則として理解を超えているところがあり、カ変、サ変のあたり、これまでロボットへの取り込みを棚上げしていたところもある。ここは魔法の呪文を自分にかけよう。「しゃあねえ、やるか」と。


二十一.頭韻を踏む

先月「はいだんくん」を大改修してリリースした。いろいろ手を入れた中で目玉と言えるのは、頭韻を踏むことができるようになったことだろう。この連載の十五で田島健一について触れて以来、懸案だったものだ。

「はいだんくん」では、以下の三通りで頭韻を踏むことができる。

(一)母音+子音(つまり同音)
 あかるさは姉より紅し洗ひ髪  はいだんくん
 夕立のゆびきりやけふ揺れんとす
 図書館の鳥図書館の心太
 肩ひもの風の多くて髪洗ふ
 ありのまま汗のあくびをあふれけり

(二)母音
 顔文字をまるめてゐたるはだかかな  はいだんくん
 ふくらみや閏皐月のくだり坂
 ががんぼは睫毛のやうに果てにけり
 ひらがなを西日と思ふ時間かな
 バタフライぱらぱら漫画よりたのし

(三)子音
 先生としづかな空とゐて涼し  はいだんくん
 駆けてゐる金魚の子には海馬なし
 にんげんもにほひもなくて夏帽子
 過ぎ行きて裂ける水星百日紅
 マニキュアの森を用ゐる祭かな

 もちろん韻を踏まないこともできるし、韻を踏むように指定しても、条件に合致する語がなければ、韻は踏まない。また、母音か子音を指定しておけば自ずと同音も現れるので、現状は「母音」「子音」「なし」がランダムに一対一対三の割合となるように設定してある。

こうして掲句を見渡すとどうだろう。(一)はいかにも言葉遊びとして意外な語の連結を求めているように、(二)(三)は繊細な調べに気を使っているように見えてこないだろうか。もしわずかでもそんな気がしてくるとしたら、それは読者のあなたの心の中で起こっていることに違いない。なぜならロボットは韻を踏むにしても踏まないにしても、今までどおりなにも考えていないのだから。


二十二.節という概念を導入する

またまた「はいだんくん」を大改造した。これまでその日使える季語をまずひとつ決定して、その音数の季語を使う句型を選択していたのだが、逆にした。単純に句型をひとつ決定してから、その音数のその日使える季語を選択するようにした。従来季語から決めるようにしていたのは、「勤労感謝の日」とか「建国記念の日」とか変な長さの季語をフィーチャーしようとしたら、季語から決めた方がいいだろうという考え方だったのだが、このままだと季語とその他との互換性の点で決定的に発展性がないだろうと考えを改めた。その上で芭蕉に立ち返ろう。

 古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

この句は主語+述語という普通の文章のかたちではない。俳句独特のかたちである。上五に名詞節、下五に名詞節、そして中七に下五にかかる連体修飾節がある。大ざっぱにふたつの名詞節で構成されているので、先に現れる方を首名詞節、最後に現れる方を尾名詞節と仮称することにする。また「や」は切れ字ではあるがほぼ首名詞に従属して現れることから首名詞節に含むものとする。また切れ字に限らず「の」「は」「が」などの格助詞とも互換だろう。

同様にこの句には現れないものの「かな」はほぼ尾名詞に従属して現れることから、尾名詞節に含むものとする。中七はこの句では「三音の季語+動詞連体形」となっているが、全体として連体修飾節でありさえすればその中は、「六音の季語+の」とか「三音の季語+のごとき」とかいろいろ代替は可能である。さらに句全体でどこか一箇所に季語が現れることが制御できるのであれば、すべての名詞と季語は互換である。同じように切れ字も句型ではなくロジックの側の制御により、句全体でどこか一箇所に切れ字が現れることにすればよい。

こんなふうにして先に季語を決めることをやめたことにより、季語を節の中に置いて名詞と互換に扱うことが可能になり、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉という単一の句型からロボットは以下のようなバリエーションを生み出すに至った。

 放課後や桃に遅れるお下げ髪  はいだんくん
 色鳥のいつもあふるるふたりかな
 少年の蜩らしき耳の穴
 稲妻の一浪といふ泣きぼくろ
 空気椅子秋の灯しのお下げ髪
 蟋蟀の行き過ぎてゐる重みかな


二十三.節という概念についてもう少し

前回の記事はロボットの改造の話と、「節」という概念を導入する話が錯綜し、後者が多少説明不足だったかも知れない。要は単語レベルではなく、もっと大きな節でざっくり俳句を捉えることにより、句型・節・単語という入れ子構造として、三段階のかけ算でできあがる句のバリエーションが広がるということだ。で、「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」は主語+述語という普通の文章のかたちではなく、首名詞節+連体修飾節+尾名詞節という俳句独特のかたちであることに着目したのだった。

思えば二年前この連載は以下の句型から始まった。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル

連載八回目で種明かししたとおり、それぞれ摂津幸彦、橋閒石、飯田龍太の句が元になっている。

 露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな  摂津幸彦

一見主語と述語がありそうだが、節で分解すると連体修飾節(12)+尾名詞節(5)である。「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」には首名詞節と尾名詞節があることにより二物衝撃を構成していたが、こちらは見かけ上一物からなる。「露地裏を夜汽車と思ふ」と続いたものはすべて、「金魚かな」に連体修飾として連なる。外形的に連なっているのに意味的に切断があるというのが、俳句ならではなのだ。

 階段が無くて海鼠の日暮かな  橋 閒石

「階段が無くて」が期待する「困る」とか「落ちる」とかがなく、解決しない副詞節となっている。副詞節(8)+尾名詞節(9)である。述語がないのに副詞節があるということが俳句的なのだ。

 一月の川一月の谷の中  飯田龍太

首名詞節(7)+副詞節(12)。主語的な「一月の川」が副詞的な「一月の谷の中」にリフレインの調べで連結しているが、述語がない。これも俳句ならではだ。

もちろん主語と述語がきちんとある句もある。

 夏草に機罐車の車輪来て止る  山口誓子

「夏草に」は主語に先行した目的語であり「機罐車の車輪」が主語だが、述語はふたつの動詞をたたみかけていている。「機罐車の車輪」は中七としては字余りなのに格助詞の省略と動詞のたたみかけによって、句としてみごとに着地を決めている。誓子だからできることだ。こういう句に出会うと、これまでに作ったロボットをすべて破壊したくなるのだった。


二十四.最終回 ロボットは死なず、ただ壊るるのみ

最終回である。せっかくだから最後にロボットが詠んだ句を三十句載せよう。


 鱗  はいだんくん

ふくらみに渦巻く丘を桔梗かな

水澄むや胸の谷間の喫茶店

おだやかに天国を積む秋の恋

虫の夜にひとり染まつて更衣室

恋愛の行き過ぎてゐる秋黴雨

図書館に遅れる羽を夜露かな

色鳥を絞り始める除光液

秋霖に首都と染まつてゐる如し

骨盤も予感もなくて女郎花

うつくしき鮭は火星に染まるかな

おほぞらや鵙に微笑むお下げ髪

稲妻に染まるさみしさふくらはぎ

なかんづくしづかな耳を菊日和

秋の日のあふれ始めるハイヒール

兄弟のなめらかにして秋の雨

高気圧案山子の鼓膜消えかぬる

撫子の前髪や窓泣かんとす

惑星をしみじみ濡らす鰯雲

蟋蟀はをかしな森をもみあひぬ

いつせいに野分に染まる進路かな

聴覚の長月といふくだり坂

少年の耳の多くて鳥渡る

自ずからかなしき波を秋灯

幻聴の鱗となりてねこじやらし

爪先に渦巻く窓を秋の雲

倍音にかへる石榴や束ね髪

はらわたの花野のやうなひびきかな

これは櫛あれは耳かと秋の雲

長き夜の迅き漢字もあるならん

木星に微笑む影を冬支度

結局のところ、俳句のようであろうとすることに何の意味があるのだろう。ロボットは気がつくと銀漢亭の前に立っていた。


【追記】
『プレバト』で、あるとき夏井いつきさんが「初心者はとかく、舞う、踊る、染まるなどを使いたがる」という話をされた。面白がってロボットの語彙の頻度設定を変えて遊んでみたのだが、一部戻し忘れていて、上記三十句生成時にはなんと「染まる」の頻度が百倍になったままだった。上の句群で「染まる」の句が何句あるかお暇な方は数えてみて下さい。

(了)