【句集を読む】
岡田由季『中くらゐの町』を読む
三島ゆかり
『みしみし』第12号(2023年秋分)より転載
岡田由季『中くらゐの町』(ふらんす堂、二〇二三年)は、『犬の眉』(現代俳句協会、二〇一四年)以来の第二句集であり、その間の二〇二一年に第六七回角川俳句賞を受賞している。私にとってはまだ豆の木句会がお茶の水の談話室滝沢で句会をやっていた一九九九年以来の句友であり、今回三二八句から気に入った句を数えたら百句を超えてしまった。紙数もあるので、その三分の一くらいについて触れたい。あとがきに「編年体を採らず、内容を踏まえて章立ておよび配列を行いました」とあるが、それぞれの章がどういう内容なのかを読者が言い当てるのはなかなか難しい。とにかく頭から見ていこう。
一.一〇〇〇トン
章のタイトルは「一〇〇〇トンの水槽の前西行忌」に拠る。場所を示して西行と来れば「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」を思い出すが、マグロやエイが群泳しているであろう水槽との遠さにくらくらする。
仏領の島の切手や秋の雨 岡田由季(以下同)
郵便が届いたのだろうか。それとも夏休みの旅行の思い出だろうか。「秋の雨」との距離のある取り合わせが心地よい。
日向ぼこ赤べこ同意しつづける
赤べこは会津地方の郷土玩具で、首を縦に振る。「ぼこ」「べこ」と強い響きの呼応のあと、余韻のように首を振り続けている。「同意」という俳句になじまない言葉が妙に可笑しい。
父の字のブルーブラック降誕祭
毎年クリスマスプレゼントにはお父上が万年筆の端正な文字でカードを添えていたのではないか。インクの色以外ではあまり使わないブルーブラックが懐かしい。
食堂に死角の席やぼたん雪
実際には単に入口から見つけにくいとか、ウエイトレスがいつまでも注文を聞きに来ないとかなのだろうが、「死角」という言葉にとにかくどきりとする。「ぼたん雪」が時間の経過をありありと感じさせる。
ラテン語を掲げる校舎鳥曇
大学により「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」とか「QUAECUNQUE SUNT VERA」とか掲げられている訳だが、当の学生は意味を知らなかったりする。知の時代ではないのかもしれない。「鳥曇」から陰りのような気分を感じる。
三笠山ほどの膨らみ夏布団
夏布団の膨らみを形容するのに、「三笠山ほどの」はひどく可笑しい。多少しんなりしているような気もする。
二.土筆の範囲
章のタイトルは「自宅から土筆の範囲にて暮らす」に拠る。この章が『中くらゐの町』に住む現在の暮らしのようにも見えるし、子どもの頃の思い出の句が多々混ざっているようにも見える。
着る洗ふ誰にも会はぬ夏の服
誰かに会うときは決して着ない服というのは確かにある。「着る洗ふ」のたたみかけによって、じつはかなりの頻度でそれを着ていることが伝わる。と、ここまで書いて、もしかしたら「誰にも会わぬ夏」とはコロナ禍のステイホームのことなのかも、と思い至った。身につけるものの句では他に「水鳥に会ふときいつも同じ靴」も印象深い。
海見えて見えなくなって墓参
その墓にたどり着くまでに何度か曲がったり、坂があったりするのだろう。そしてもしかすると、その墓に眠る人よりも海の方が身近なのかもしれない。
殺生をせぬ里芋のぬめりかな
殺生のぬめりといえば、例えば血糊だろうか。里芋を食べながら、頭の中ではものすごく飛躍したことを人知れず思っている。
対岸の光は機体鰡跳ねる
鰡が跳ねる時間帯なので灯火ではないだろう。反射する日の光がなんだか分からないくらい眩しいが、それが機体であることは知っている、というくらいなじんだ場所で今、鰡が跳ねている。
兄弟に見える板前今年酒
あらためて確認するような近しい間柄ではないが、でもあの板前二人、兄弟だよなあ、という解決しないもやもや感を抱きながら、それはそれとして、今年酒を味わい、いい気分になっている。
雑炊の吹いても消えぬ光かな
できたての雑炊は泡が光っていて、口に運ぶ前に冷ますために息をかけると泡ははじけてなくなるが、泡のあったところに光は残る。そんな些事をよく俳句に仕立てたものだ。この雑炊はぜったい美味しい。
三.光の粒
この章は自然観察者・岡田由季が捉えた鳥、魚、昆虫などの小動物の句を集めている。タイトルは「笹鳴や光の粒の見えてくる」に拠る。
加減して禽舎飛ぶ鳥蔦若葉
環境に順応して、自然界ではそんな飛び方はしないような飛び方で飛んでいるのだろう。まるで人間のような「加減して」という措辞が妙に可笑しい。そしてちょっと淋しい。
蚊喰鳥空と町との間より
蚊喰鳥は蝙蝠。夕方になると空の低いところに湧いて出るが、「空と町との間より」が言い得て妙である。
一瞬の猿の諍ひ緑濃し
猿の生態は詳しくは知らないが、実際に一瞬で終わる諍いを何度も見ている。序列上位の猿が下位の猿をたしなめているのだろうか。
鳰の巣の喫水線の上がりをり
巣の住民が餌を求めて出ているのだろうか。船舶のような物言いが楽しい。
色鳥の来てそれぞれに意中の木
渡り鳥としてやってきて、まずは営巣だろう。「意中の」という恋人のような表現が、思いがけず楽しい。
肉眼にも魚群探知機にも鯨
船で沖に出るホエール・ウォッチングだろう。肉眼で吹き上げる汐を認め、魚群探知機は水面下の大きさを認めたのだろうが、委細を割愛してたたみかけた「肉眼にも魚群探知機にも」によってその場の興奮が伝わる。
四.女たち
章のタイトルは「青梅雨の麻雀卓の女たち」「空梅雨の骨つつきあふ女たち」「歌仙巻く女たちみな素足かな」に拠る。なお「…たち」という表現を岡田由季はわりと好んでいるようだ。この章には他に「表のみ焚火にあたる男たち」があり、句集全体では「水無月の舞台の袖のこどもたち」「鹿剥ぎの幹に集まる生徒たち」「蛞蝓の出るまでめくる神鶏たち」がある。
矢絣の方が妹冬紅葉
双子だろうか。区別する手がかりを矢絣に見出している。他に「ふらここの双子静かに入れ替はる」も。
人よりも雛の気配の濃くありぬ
桃の節供に向けて雛人形を飾ると、家の気配は一変する。妖艶である。
物流の激しくありぬ朧の夜
単にトラックとか市場ではない。倉庫を行き交う人やロボット、通信網、…。それらすべてが物流として翌日に向けてフル稼働しているのである。対比的に置かれた「朧の夜」が効いている。
解体の和室のあらは木瓜の花
通りがかりに解体の現場に出くわすと、「これ、壊しちゃったんだ」という感慨に襲われることがある。品のいい和室だったのだろう。庭の植栽は後から伐採するのだろうか。そんなことは知る由もなく木瓜が咲いている。
山伏の走る全山芽吹きをり
山伏が山の神の使いとして草木を芽吹かせているような、奇妙な可笑しさがある。
吠ゆる犬見つめ返して日の盛
犬を飼う人の習性として、他人の犬であっても咄嗟に凜と見つめ返すのだろう。それがどんなに過酷な日の盛であっても。
五.自動筆記
章のタイトルは「夏はじめ自動筆記のやうな雨」に拠る。自動筆記はもと心理学用語、のちにシュルレアリスムの旗印となるが、大雑把には意識による抑制を解放し、書きまくることによって無意識を表出する手法と言っていいだろう。章全体の印象としては、自動筆記とは裏腹に隣り合う句をきめ細かく配列することによる、単独の一句では持ち得なかった可笑しみを感じる。それはすなわち連句ではないかと思い至ると、じつは前の章に「歌仙巻く女たちみな素足かな」という伏線があったことに気づく。
コスモスが一番高き花壇かな
晩夏の向日葵、晩秋の皇帝ダリアの間に、コスモスが一番高い時期がある。不在を見ている趣がある。この一句前は「索引部のみの一冊星月夜」。本文の不在を感じさせる。
トラックを見送る仕事北颪
交通誘導員だろうかと読んでいると、次の句は「繰り返しストップウォッチ冬木の芽」で、陸上競技のトラックに読み替えられている。連句のような読み替えがスリリングである。
春光の窓も眺めて美術館
美術館という空間は、陳列された作品だけでなく、建物や窓外の景色も含めて特別なものなのだと思う。そしてページをめくると「船どれも働いてゐる春の海」で、人の営みのすべてが作品のようである。
穴すぐに塞がつてゐる花筏
川の流れの関係で、ひとかたまりに見えていた花筏がほどけて水面が見えたり、もとに戻ったりする。花筏というできあがった言葉の側から「穴」と呼ぶところに諧謔がある。その一句前は「球根を植うる端より忘れたり」。花壇の穴のイメージが推移しているのである。
県庁と噴水おなじ古さかな
高度経済成長期に作られた、当時としては最新鋭の庁舎と噴水なのだろう。どこでも同じようなものが作られたので、妙に懐かしい。前の句は「なで肩に着て人絹のアロハシャツ」。そう、人絹なんて言葉があった頃の古さだ。そして次の句は「あたらしく咲きなほしたり時計草」。人工物の古さに対し、自然はいつもあたらしい。
鳰の背をこぼれ鳰の子泳ぎ出す
この前の句は「南風子午線通る島の端」。大きく提示した景からクローズアップされて、句集全体の挙句となる。次の世代へ命がリレーされ読後感が心地よい。
岡田由季『中くらゐの町』2023年6月/ふらんす堂
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