2024-01-21

湊圭伍【週俳12月の俳句を読む】プルタブ

【週俳12月の俳句を読む】
プルタブ

湊圭伍


プルタブは墓標と思ふ土に雪 川田果樹

句の作者の生まれる前のことなのでどうでもよいことなのだが、かつて、缶ジュース・缶コーヒーのプルタブは缶を開けると本体から外れるようになっていた。捨てるのに気を使うときには飲むあいだは小指にひっかけておいて、飲み終えると缶の中に入れるなどした。あるいは、プルタブをさらに指をかける部分と缶のふたの水滴型の部分を切り離して、後者を前者の出っ張りに引っかけて飛ばす遊びをしたりもした。句のプルタブはここまでで説明したものとは違って、日本では1980年代の終わりに登場したらしい本体から外れないタイプだろう。ググっと立てて缶を開け、邪魔になるのでちょっと押し戻してから飲む。ただしっかりもとに戻るわけではなく、ちょっと浮いた、斜めに立ったかたちになるので、それは仮に立てられた墓標を思わせるのかもしれない。万人が「プルタブは墓標と思ふ」わけではないあたりを巧みに選んでいるところが上手いと思った。


親指を引いて漲る冬のパー  川田果樹

先週の瀬戸正洋さんの評に、「ゴルフは知らない。冬の「パー」といわれても解らない。親指を引いたら何かが漲る。それもよく解らない。」とあって、「ん?」と思った。どうしてゴルフに限定するのかがよく解らない。「親指」とあるのだから自然に読めばこれはグーチョキパーの「パー」だろう。解らないのは「親指」をどのように引くか、だが、私が実際に自分の手でやってみたところ、右手をぐっとパーにして、左手で右手の親指をつかんでぎゅっと引っ張って、右手がそれに抵抗して小指まで緊張してさらに開く、ということではなかろうか。冬の海を前にしていると想像すると雰囲気も出る気がする。


耳塚聴けり鼻塚嗅げり餅搗を  竹岡一郎

聴いたり嗅いだりしているということは成仏していないんでしょうね。


骨の手の忽と銭置く夜鷹蕎麦  竹岡一郎

「夜そは切ふるへた声の人たかり」(『誹風柳多留』初・28)。意外と気づかれないかもしれません。
 

襟巻きをして親切な警備員  村田篠

実際に「親切な警備員」に出会った、または見かけたのだとして、それをちょっと突き放して「親切な」とわざわざ表現するのは不思議だなと思った。


この空かこの青空のふゆのそら  上田信治

これで句になっているのかどうか、よくわからない。いちばんの要因は「この空か」の「か」である。この「か」があることで語り手の視点がぎりぎり担保されているとも(感嘆、のような意味で)し、「空(そら)」を別の表記や音で重ねる言葉遊びがぼんやりとしているとも言える。前者かなと思うが、それなら「や」ではっきりするだろうとも考えるけれども、切れ字「や」を使わないでおこうという理由があるのかもしれない。後者なら「この空の」にすると明瞭だが、それはそれで句としてのしまりがないようだ。ということで、たぶん「か」が残るのだろう。


亀固く蛇やはらかに冬眠す  岡田由季

「固く」「やはらかに」の感覚的把握はじっさいに触れてのもの(とりわけ冬眠中のもの)ではない虚構だが、爬虫類を硬軟で対比する遊びによって現実的印象が生まれている。ひともこの中間あたりで冬眠できればよいのに。


生という枯れ野の空の果てとしか  福田若之

「としか」が難しい。照れくさい内容になりそうだが、これは分かりやすくシンプルにいったほうがよいのではないか。


偽の木に金の林檎を吊る冬至  福田若之

クリスマスを「冬至」にずらした句。狙いが分かりやす過ぎるか。「偽」「金」あたりの皮肉っぽさに救われている句のような、そうでもないような。


はやぶさに都市は夜が来るたび滅ぶ  福田若之

「はやぶさ」は、猛禽か、東北新幹線か、小惑星探査機か。どれでも読めそう。いずれにせよ、「都市」はそもそも「滅ぶ」を属性としてもつ気がする。


暖炉に火ビンゴ!と指を鳴らし笑む  福田若之

タノシソウダネ。


年の瀬の雪の曇りの奥の月  福田若之

季語3つかあ。五七五定型を助詞「の」の多用で活かしていてとてもよいと思いました。


川田果樹 ペリカン 10 ≫読む 868号 20231210

竹岡一郎 敬虔の乳 42 読む 870号 20231224

村田 サンタクロース 5 読む

上田信治 この空  5 読む

岡田由季 テノール 5 読む

福田若之 果て 5 読む

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