2024-01-21

小川楓子【週俳12月の俳句を読む】南インドの手刷り絵本

【週俳12月の俳句を読む】
南インドの手刷り絵本

小川楓子


川田果樹 ペリカン

2003年生まれの作者が書きたいものは何だろう。

寒濤や骨締めつける腕時計  川田果樹

きつく締めるとすれば紳士物で幅広の革バンドの腕時計だろうか。『火曜サスペンス劇場』(2005年終了)の真犯人が自白するシーンを彷彿とさせられたが、その想像はさすがに古すぎる。たとえば、メンズライクな腕時計を締める女性が、寒濤を眺めながら考え事をしている方が今の時代には合っているように思う。

骨格の弾けて戻る嚏かな  同

掲句においても骨が登場する。裂けて割れるほど動いた骨が何事もなかったように戻る様子に諧謔はあるが、丁寧な描写から伝わる作者の生真面目な印象の方が強い。二句ともに動きの描写に関しては雄弁なのだが、言葉そのものは寡黙で作者の心情、性別、年齢などの属性の反映が少ないように感じる。

しあはせがながびかぬやう毛糸巻く  同

数へ日のあちこちに置くマグカップ  同

一句目「しあはせがながびかぬよう」とかな書きされた幸せはどこかたどたどしく、いつかは終わるものという諦めを自らに言い聞かせるような様子だ。それでも「毛糸巻く」にはささやかな祈りが込められているように感じる。二句目、年末の大掃除をするわけでもない部屋の時の流れはゆったりとしており、雑然とした住処の心地よさが漂って来る。作者像を結ばない作品とある程度結ぶ作品。それぞれ書き分けているのか、自然と分かれてしまうのか。今後の作品が楽しみである。


竹岡一郎 敬虔の乳

意欲的な連作の初句と最終句に配された雪女の作品に注目した。社会において女性より優勢ともいえる男性の精を吸って命を奪う、美しく恐ろしい雪女は異形の女性として定番である。さらには、王子に縋るが彼のために死を選ぶマイノリティである人魚姫もまた悲哀がある。人魚姫を思い出したのは〈踊るならあたしの鱗お守りに〉という作者の句があるからだろう。さて、一連において雪女はどのように描かれているだろうか。

乳粥の零れより起つ雪女  竹岡一郎

敬虔の乳噴く天を雪女  同

一句目では、釈迦の命を救ったと言われる乳粥が零れたところから凜々しく立ち上がる雪女が登場する。二句目では天へ噴く乳の流れるところを雪女が飛翔してゆくような姿が思い浮かんだ。旧約聖書では、約束の地を「乳と蜜の流れる地」としてその豊穣さを表している。乳の潤いや豊かさを与えられた雪女は、恐ろしく哀れな者から聖母のように清らかで大きな存在として再生している。そのことに安堵しつつ、雪女が母性に回収されることでよいのか少し立ち止まってみたくなる。


サンタクロース 村田篠

梟が螺旋の夜を連れてくる  村田篠

山の端のかたちに燃えて遠い火事  同

南インドの手刷り絵本のあざやかな動物や樹木を思い出した。螺旋や三角形を思い浮かべるだけで、意味は消えて描かれたものの気配が心にすっと入ってくるように感じる。読者は、夜の匂いや遠火事が空を煙らせる景に近づいたり遠ざかったりしながら句中で遊ぶことができる。


上田信治 この空

黄色くてあたたかコインランドリー  上田信治

誰もゐない塩と胡椒とテーブルと  同

一句目、黄色の乾燥機が並んでいるコインランドリーは、昭和レトロと呼ばれるようなものだろうか、それともアメリカにあるような巨大で乾燥力が強いものだろうか。映画でコインランドリーのシーンがしばしば登場するのは、ワンシーンで街に住む人の暮らしを伝えることができるからだろう。掲句からは、街に住む様々な人が思い浮かぶ。二句目は、個人の家よりは、映画『バクダッド・カフェ』に登場するモーテルを兼ねたカフェのようなところで物思いにふけっている景を思った。少し切ない追想のような作品である。


岡田由季 テノール

始まつてゐる教室へ綿虫と  岡田由季

転送の電話枯野の端に受く  同

始点と終点の描かれた二句に注目した。一句目、不登校の生徒が学校に来たのか。いや、ただの遅刻かもしれない。いずれにしてもすでに授業の始まっている教室へ一人で入ってゆくのは勇気がいるだろう。教員のよく通る声や生徒たちのざわめきが思い浮かぶ。飛んできた綿虫ははかない存在でありながら、生徒の相棒として教室へと向かう励みとなる。二句目、事務所あるいは自宅の電話からスマートフォンに転送される設定がされているのだろう。吹き渡る風や声の調子で電話の相手方も枯野原を思い浮かべることができるかもしれない。枯野の端という言葉から地の広がりを感じられる。さえぎる物もなく風を受けながらの電話の声は、周囲の音に負けないように元気よく発せられる。


福田若之 果て

生という枯れ野の空の果てとしか  福田若之

1991年生まれの作者は思春期の悩みのなかにあるわけでも、老境にあるわけでもない。慌ただしい日々を送る三十代、生きるとは何かについて振り返る間もないということが多い世代である。しかし、ふとした時に蕭条とした枯野の上の空を見上げ、自らの生を重ね合わせたのだろう。金子兜太の〈よく眠る夢の枯野が青むまで〉は老境と言える年齢の作だが、兜太はその後二十年を旺盛に生きた。その上、当人はもっと長生きをするつもりだと何度も語っていたので、当時であればまだ壮年の枯野と実際は感じていたに違いない。同じく枯野を心に持つ壮年前期の作者は今後どのような世界へ向かってゆくのだろう。〈年の瀬の雪の曇りの奥の月〉にも「果て」を希求する作者の心情が表れているように感じる。作者の「果て」に見えてくるものへこれからも注目したい。


川田果樹 ペリカン 10 ≫読む 868号 20231210

竹岡一郎 敬虔の乳 42 読む 870号 20231224

村田 サンタクロース 5 読む

上田信治 この空  5 読む

岡田由季 テノール 5 読む

福田若之 果て 5 読む

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