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2026-02-15

田中目八【週俳6月7月8月の俳句を読む】 僕の……自由さっ!

【週俳6月7月8月の俳句を読む】
僕の……自由さっ!

田中目八


本文を書き終わって書く前書

アニメ『おでんくん』(原作はリリー・フランキーの絵本)にニセおでんくんというキャラクターが出てくる。
彼の口癖に「僕の……自由さっ!」というものがある。
ちなみに私はガングロたまごちゃんがファン。
そのガングロたまごちゃんが釣りをしているニセおでんくんにそんなの楽しいのかと問うと「何を楽しもうと…」と言ったあと上記の台詞でキメるのである。
ニセおでんくんはこのあと、魚が自由に生きているつもりでも川の流れから外には出られない、ちょっと飛び跳ねてみせるだけだというようなことを言うのだが、ここで突然前書は終わる。


ミスター諦念退職andミセス胃癌退色  ミテイナリコ

うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア

初めに作者のミテイナリコ氏に謝っておきたい。
私にはこの句の面白さがわからなかった。
更に言えば、今この句を冷静に客観的に、また肯定的に捉えることができない。
それは私の個人的事情、状況によるものであることは断っておく。
以上のことからこの句及びこの句を含むことで連作全句の鑑賞を辞退させてもらうことにした。
重ね重ねお詫び申し上げる。

以下、未整理のままながら、句会における、いわゆる取らざるの弁を若干述べて鑑賞の代わりとさせてもらいたい。

まず、この句は実質、内容としては

  うるせえなババア!殺すぞ!死ね(ラリア)

であろう。
『日本では「死ね」に通じるのでサイネリアと呼ばれることの多い』シネラリアがまさに「死ね」の文脈で使われていることの安易さ。
この句だけ言葉の変換が行われていないのは「死ね」を「シネラリア」に変換したということなのかもしれないが、安易なことに変わりない。
そもそも「うるせえなババア!殺すぞ!」からして慣用句的な罵詈の類だ。
「ババア」「殺すぞ!」などという強い言葉は、どういう文脈で使われるかが重要だと私は考えるが、同時にそれに耐えうるだけの内容と構造が必要だとも思う。
特に「殺すぞ!」という、この恐ろしい不穏な言葉が、ただ言葉通りのそれらしか持ち得ておらず、それはやはり「シネラリア」が「死ね」と言ってしまっているからだと思われる。
故に全体として日常から切離されず、異化されず終わってしまっているように私には感じられる。
つまり現実の罵詈、恫喝と変わらないと言ってしまってもよいだろうか。
そうであるならば、この句が俳句か川柳か一行詩かに関わらず、果たして詩足り得ているだろうか。
と言ったら言い過ぎだろうか。言い過ぎかもしれない。
だが、臆病な私は実際に怒鳴られたかのように硬直してしまい、ここから飛躍して読むこと、偉大な誤読へと踏み出すことができなかったのである。

更に突き詰めれば、何故殺してしまわなかったのかということ。
徹底して非情になれなかった中途半端さこそがこの句から詩を奪った一番の要因ではないか。

単に私が今、不寛容に陥っているだけかもしれない。
また、私のこの振る舞いはこの場を得ることができたものの特権の行使でもあり、俳句の内側に、俳句らしさに慣れてしまった者の物言いであるかもしれない。

ここまで勝手を書いてきたが、作者には考えがあり、むしろ私のような反応は想定内、それこそを期待してのことで、私はまんまと罠にかかったのかもしれない。
そうであればとも思う。

恐らくちぐはぐで十全な文章になっていないだろうことは承知している。
作者を非難するものではないが、気分のよいものでもないだろう。
もちろんここに書いたことなどスルーして当然構わない。
そもそも私にしてもスルーして書かないほうが楽だし批判を怖れる必要もないわけだが、結局書くことを選んだのは、黙ることから抜け出そうというごく個人的な事情に過ぎない。
作者がこの句を作り発表したように、私もこの文章を書き発表するということだ。
最後にこの句を世に問うたミテイナリコ氏の勇気、気概を称えたい。


彌榮浩樹 小屋へ

姿見に映らぬ武闘水馬(あめんぼう)

燃えよドラゴン……失礼しました。
垂直に立つ姿見が映すのは水平世界である。
水馬の立つ水鏡が映すのは垂直世界である。
そこに映るのは神々と阿修羅か。

駒鳥や麺麭(パン)を数ふるだけの唄

鳥に唄はいわゆる付き過ぎ、何だったらパンも近いと言えるわけだが。
そして何故駒鳥なのかと考えると、恐らくマザー・グース。
つまりこの唄は英語であろう。
英語でパン(ブレッド)は不可算名詞と言って、日本語のように簡単に一つ二つ、一個二個とは数えられないのである。
故に「数ふるだけの唄」が面白くなるわけだ。
駒鳥が美しい声で鳴くことで一層可笑しみが増すように感じる。

セロニアス・モンクの螢袋かな

モンクと言えば帽子。
螢袋を被ったモンクを想像するだけで笑ってしまうが、韻律だけでも不思議と納得させられてしまうところがある。

蜜豆を混ぜて鳥葬日和とも

缶詰の、シラップ漬けのそれではなく、おそらく甘味処の、あとから黒蜜などを掛けて食する類と思われる。
この人は味が均一であることを好むのだろう。
肉体が啄まられて空へと還元されてゆくイメージと蜜豆を混ぜる行為とが不思議に違和感なく重なる心地よさがある。
風通しのよささえ感じるのは寒天の半透明が空、或いは魂を思わせるからか。

黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか

下唇の長さを問うているのか、小屋まで運ぶことが出来るかを問うているのか。
下七にその隔たりや困難さを感じもする。
しかし、現実は距離を消滅することはできないが、詩にはそれが可能である。
小屋が動いたって構わない。
詩人(俳人でも構わない)なら答えは「届く」だろう。
不思議なもので、私には黒鯛と小屋の大きさが同じのように見える。

最後まで読めばSF梅雨茸

SFの度量は広い(「朝は早い」ふうに)
これもSFなのかと思うことはよくあるが、このSFは最後にSFだと納得させられる要素があるのだろう。
最後まで読まれるとは限らないが、読めば茸というSF(少しふしぎ)は待っている。
サルマタケかしら。

鉛筆で描いて青唐辛子の絵

熟した唐辛子と青いものとでは質感なども異なるだろうが、それが伝わるには描き手の技量と観る者の唐辛子への観察眼などが必要になる。
一般的に言わなければ先入観もあって赤い唐辛子だと思うだろう。
わからないからこそ青唐辛子の絵だと言っているのではないか。
それは「鉛筆で描いて」という説明的な描写が文字通り説明しているのだと思われるからだ。
しかし実際に赤か青か、決めるのは誰か。
作者か鑑賞者か。

印度式計算術を瓜の花

印度式計算術はインドの学校教育で教えているメソッド。
瓜の花は本来は甜瓜の花だが、胡瓜だとしてもインド原産に違いないようだ。
通常の計算術では時間がかかって花が咲いてしまうが、印度式計算術なら一瞬で胡瓜のスープになる。

さざなみの昼の胡瓜のスープかな

夏の昼の静かさは不思議なもので、それをさざなみと言うのかもしれない。
「さざなみ」が胡瓜のスープにも掛かっていると読めば湯気の立たない冷製が相応しく思える。
胡瓜の効果で火照った身体もさざなみへ。

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)の間(はざま)蟻地獄

禿頭は髪の抜け落ちた頭、またはその人。
禿は髪がないの意で、童子の肩まで切り揃えた髪型及びその童子。
ここでは遊郭云々は置いておく。
つまり本来はどちらも髪がないことを言うのだが、実際は大違いであり、その違いの間に、或いはそうなるまでの時間に蟻地獄があるのだろうか。
頭に蟻地獄があり、髪(蟻)が落ちてゆくほうが落語のようで面白いか。


押見げばげば 眩暈

唐黍の花かきわけて水平線

ぐんと天へ垂直に伸びた唐黍の海から一点、水平線、夏の海が広がる。
「花かきわけて」からは人物の目線の高さも伺えるだろう。
晩夏とは言え、唐黍の葉の青さから海の青さという色の移ろいは鮮烈だろうが、私には静かで淋しく感じる。
それは、海ではなく水平線という遠きを眼差しているからだろう。
連作を一巡してこの句に立ち返ると、水平線とはまさに夏の果でもあったかと。

愛国心みづやうかんの匙に棘

水羊羹を食べること、匙を口に入れること、愛国心を言葉にすること、何れも「口にする」ことである。
愛国心という言葉もそれを持つことも、何も問題ない筈だが、なかなか口に出せないのが実際ではないか。
また、話題になることもなかなかないと思われる。
匙に刺があっても水羊羹は掬えるが口に入れれば怪我をするかもしれない。
その感じと愛国心という言葉。
もちろん自ら愛国心を口にしなくても、持ち合わせているだけでもよいわけだ。
しかし匙は、お店と仮定するが、まずは交換してもらうよう声にする。
お店のためでもある。
そして存分に清らかで純粋な水羊羹を味わおう。
 
梯梧落ちて白き睡魔となりにけり

一度だけ見たことがあるが、梯梧の花が散っている様はなかなか凄まじい印象だった。
その燃えたつ赤い花が転じて白き睡魔とは午睡、微睡みというより眩暈、白昼夢のごとき感。
抗えない故に睡魔であろう。
 
草合歓の共感性に触れてより

草合歓は夕方に葉を閉じる就眠運動を行なうが、それはその共感性故なのかもしれない。
とすれば太陽に共感しているのだろうか。
そして恐らく、その共感性に触れた私もその共感性故に眠るのだろう。
前句からもそう感じる。
 
蝉暮れて燃えのこりなき手紙かな

すべて燃え尽くしてしまえばそれは灰であり、手紙とは言わない。
しかし手紙のあったことは、その内容とともに心のなかに残っていて、それはやはり手紙なのだ。
もっと言えば心のなかで燻り続けているのかもしれない。
燃やせばあっという間だが、燃やすまでの長い逡巡があったのであろうことが「蝉暮れて」に感じられる。

ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者

「睫毛を濡らす」とは騙されないように注意する意だが、ここでは濡らしたのではなくあくまでも濡れたのだと読む。
死者のそれは水漬き、生者のそれは涙であろうか。
夕顔は夕暮れに咲いて翌朝萎む。
そのほの白い花は死者の顔か。

爪切ればさびし阿蘭陀獅子頭

爪を切る音は淋しい。
切られた爪も何故か淋しいものだ。
自分の爪だろうか、それとも死者のそれだろうか。
恐らく鉢に一匹の阿蘭陀獅子頭もまた淋しい。
切られた爪のシンプルさとは対極にあるような阿蘭陀獅子頭だが、何故か淋しいものだ。 

優曇華の影に眩暈を得たりけり

眩暈を「得た」のは欲していたからだろう。
そもそも優曇華、草蜉蝣の卵自体が眩暈を可視化したような雰囲気があるが、しかもその影である。
その眩暈の向こうに三千年に一度と言われる本物の優曇華の花を見たのかもしれない。

にんげんの真中つめたし鰻切る

まず背骨の白さを思うだろう。
連作を通しても白のモチーフは感じられるところだ。
「割く(裂く)」ではなく「切る」のだというのが、より直接的に具体的に刃の冷たさと鰻の肉の冷たさへの実感を思わせる。
生きたまま切開かれた鰻の肉の冷たさ。
冷血動物であるから当然なのだが、あらためてその驚き。
生き物を生きたまま切り開くという行為も相まって「にんげん」もそうであろうと感じたのだろう。
もちろん触れれば肌は温かい。故に触れ得ない「真中」は冷たくあって欲しいのである。
晩夏の連作のここにこの句があることで最後の句が俄然活きてくるようになっている。

前髪を焦がして夏を惜しみけり

前句から焦がしたのは鰻を焼いたからか、などと読むのも可能だが、それは置いておく。
惜しんではいるが、それは決して後ろ髪引かれるようなものではない。
それは春や秋に対するもので夏のものではないだろう。
もちろん夏への焦がれる思いはある。
だからこそ夏の日を目一杯、真正面から受け止めて、自らの意思で焦がしたのだ。


細川洋子 夜の秋

落丁に似たる病歴春の闇

落丁に似ているのは病歴そのものではなく、その間の時間のことではないか。
確かにあるのに欠落している(と思える、感じる)時間。
しかし、その人生の数頁或いは十数頁が春の闇だというのであれば。
月は出ていないが、柔らかく優しく、春の息吹を孕んだ闇である。

枝切りの音の木霊や聖五月

五月はマリアの月で聖母月とも言う。
新緑の頃でもあろう。
枝切りは木の健康のために行われる。
この木霊は単なる響きではなく、まさしく字の通り精霊だろう。
キリスト教と精霊は関係ないが、前句を踏まえれば、病後生まれ変わったように万物すべてを新鮮に感じているのかもしれない。
この木霊する空間、そして五月がまるまる聖母の身内なのだ。

そこかしこ風の衣擦れ牡丹園

木霊に続いてこの風も精霊めいてくる。
前句を踏まえれば、剪定して風通しがよくなったのであろう。
視覚的に強い花の王様、牡丹よりも、今は風や音という目に映らないものへ心惹かれるのかもしれない。

捩花の左巻きとは男前

捩花の巻く方向は左右両方あり、割合も変わらず、なかには捩れないものもあるとのこと。
では何故左巻きが男前なのか。
恐らくダーウィンの言うところの「太陽に逆らう巻き方」故だろうと思われる。
ダーウィンが出てくると、連作内で浮いて見えたこの句が馴染んでくる。
進化論とキリスト教の関係は言うまでもないだろう。
連作を踏まえれば男前は恐らく父であり、「太陽に逆らう」ことと先天色覚異常が重ねられているのではないか。

脈拍の豊かに打てり夏の星

脈拍の打つ回数のことではあるまい。
落ち着き、且つ確かに、不足なく体内を巡っている、そういう実感だろう。
脈拍の豊かさ、血の巡りは体温にも影響し、少し火照った身体は涼を求めて屋外へ。
星が涼しく瞬くリズムと脈拍のリズム。
星も豊かなるものであり、光であるだろう。

炎昼のトロンボーンの乱反射

炎昼からもメッキの反射を思わせるが、連作を踏まえればトロンボーン=神の楽器であり、かつて教会音楽の要であったことも考える必要があるだろう。
連作を踏まえても、この乱反射は光且つ音のことのように思える。
乱反射と言っても不快なわけではなく、音さえも眩い、そういう感覚なのではないか。
神の息吹を連想してもよい。

打水の水は風の穂光の穂

ここにも風と光がある。
瞬間と永遠、そして静けさ。
錬金術のようでもある。
連作の中で読めば麦の穂も幻視もしようか。

書を曝す父の色覚検査本

今までは父自身がしていたのだろう曝書を今、子がしている。
恐らく初めて知ったのではないか。
家族でも知らないままのことは多い。
いや、家族だからこそ知り難い、知り得ないことは数多ある。
先天色覚異常は遺伝し、男性の発症率が多いとのこと。
子が発症しているかはわからないが、連作内の目に映らないものや光への感心はこのことに少なからず影響しているように思えてくる。

先づ父へ捧ぐる一書夜の秋

今から書くのであろう。
曝書するほどの蔵書のある父であるから、子が書をものすることは何よりの孝行、供養になるのではないか。
肌に覚える涼しさが淋しいのは夏の終わりだからか、秋が近いからか、父がいないからか。

神域の森の洗礼夕ひぐらし

神域の多くは禁足地であろうし、それも夕方に入るとすれば尋常のことではない。
つまり、連作からも、洗礼をキリスト教のそれと読めば、罪の浄化、神の子としての再生を意味する。
つまりこの神域は現実のそれだけではなく、文字通り神の坐します森、或いは神の懐と言ってもよいだろう。
森へ入ること能わぬ、残されたものに夕ひぐらしの声が優しく降りそそぐ。


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
細川洋子 夜の秋 10句 ≫読む 第954号 2025年8月3日


2026-02-08

三宅桃子【週俳6月7月8月の俳句を読む】滲みだすもの

【週俳6月7月8月の俳句を読む】
滲みだすもの

三宅桃子


◆ミテイナリコ ミスター諦念退職andミセス胃癌退色

田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く ミテイナリコ

空と田んぼ、雲、畦道。それ以外はなにもない。人もいない。斜めに伸びる自分の影。聞こえるのは、自分の呼吸音だけ。言葉をとくに必要としない世界。これで充分と感じる反面、何もないことがおそろしくなる。蟹は横歩きをして、砂浜に棒を引きずったような線を描く。そんな蟹の足跡を目で追う私。この砂浜も、見渡す限り何もない。日々積み上げているもの、勝手に積み上がっていくもの。仕事、生活。先に進んでいるようで、進んでいない。いつか何かになるような気もするし、何にもならないまま終わる気もする。まるでこの句は人生そのものだ。楽しいともいえるし、楽しくないともいえる。

たのしいかたのしくないかにれーるしく。


草生える大草原不可避の歌碑 ミテイナリコ

不可避の歌碑がそびえ立っている。2001年宇宙の旅の黒い石板、モノリスのようで鳥肌がたつ。だだっ広い草原に、遮るものは何もない。目を逸らしたくても逸らせない、そんな歌碑。不可避の歌碑。見過ごすことのできない歌。ある意味強制的だ。まるでジャイアンの歌のようで、耳をふさいでも入ってくる。

くさはえるだいそうげんふかひのかひ。


サフランの卵管千切れ腐爛孵卵 ミテイナリコ

この句から連想するフランフランといえば、女の子達に人気のインテリア雑貨店だ。ラメやミラー仕様のパステルカラーの雑貨達。蛍光灯の明るい照明。そこに突然、卵管が千切れるという暴力的なイメージが投げ込まれる。まともにくらって頭がくらくらする。ふらんふらんが腐爛孵卵だなんて思いもしなかった。パステル調がけばけばした原色とネオンの世界に打ってかわり、華やかさや可愛さの裏に潜むどろっとした世界を想像せずにいられない。裁かずに直視する視線。どこまでも潜っていけそうな句の深さにはっとさせられる。

さふらんのらんかんちぎれふらんふらん。


尨犬の浮腫みて無口雪を欺く ミテイナリコ

浮腫むと漢字にするだけで、一種の痛々しさが伴う。単純に冬毛でムクムクしている犬と思えばそうではない。おしだまる長毛の犬だ。異様でただならぬ雰囲気がある。最大限にむくみ、膨らみ、おしだまる犬は雪の景色に同化するかのように静かだ。ただの物体と化し、生き物感を消し、雪さえも欺いてしまう。

むくいぬのむくみてむくちゆきをあざむく。


ことばあそびに留まらない重層的な世界。

句を反芻しながら、勝手なイメージを広げてしまいました。


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2026-02-01

瀬戸正洋【週俳6月7月8月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅹ

 【週俳6月7月8月の俳句を読む】

サングラスと珈琲Ⅹ

瀬戸正洋


退職とは職を辞すこと。定年とは退職する決まりの年齢。諦念とは道理を悟ること、あきらめの境地。依願とは本人から願い出ること。胃癌とは病名。退色とは色褪せること。退職することには変わりはない。

田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く  ミテイナリコ

レールを敷くとは、道筋をつけること、手はずをととのえること。その前に、「タノシクナイカ」とひとりごとをいう。

腹空かすハイビスカスを誑かす  ミテイナリコ

誑かすとは、欺く、惑わすこと。腹空「かす」ハイビス「カス」誑「かす」の「かす」に誑かされる。

草生える大草原不可避の歌碑  ミテイナリコ

不可避とは避けられないこと。歌碑とは歌や詩を刻んだ石碑。文学的な功績を歌碑にする。無意味なことだと思う。草の生え続ける大草原であること。それに勝るものはない。

ハルを売り紅花さ買う握手会  ミテイナリコ

握手会をする。不愉快になる。ハルを売る。紅花を買う。不愉快になる。何かをすると不愉快になる。

サフランの卵管千切れ腐爛孵卵  ミテイナリコ

サフランの卵管をずたずたにする。腐り爛れた卵である。まっとうなサフランに近づいたのかも知れない。

うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア  ミテイナリコ

「シネ」ラリアから「殺すぞ!」になり「殺すぞ!」から「うるせえなババア!」になった。ババアは本当にうるさかったのだろう。

情状酌量の石楠花背負い投げ  ミテイナリコ

情状酌量とは、様々な理由により刑罰を軽減することとあった。その理由が石楠花である。背負い投げとはナンセンスである。俳句とはナンセンスなものなのかも知れない。

伸びな病み気で気を病んで五月病み  ミテイナリコ

成長が鈍化している。気が気を病んでいる。病むことは幸いである。幸いであるとは生きることである。五月病であるから生きる勇気が湧いてくる。

尨犬の浮腫みて無口雪を欺く  ミテイナリコ

「ムク」イヌノ 「ムク」ミ 「ムク」チ ユキヲアザ「ムク」。尨犬とは「長い毛がふさふさと生えている犬」。浮腫むとは「皮下組織余分な水がたまった状態」。欺く(アザムク)とは「偽りだます」こと。生きていくためには、浮腫み無口で欺かなければならないのかも知れない。

向日葵の悪阻御代わり種変わり  ミテイナリコ

ヒマ「ワリ」ノ ツ「ワリ」 オカ「ワリ」 タネガ「ワリ」。悪阻とは妊娠時の食欲不振や吐き気。御代りとは遊里で馴染が不在とき代りに呼ぶ遊女のこと。種替わりとは父親が異なる兄弟姉妹のこと。向日葵は咲いている。

姿見に映らぬ武闘水馬(あめんぼう)  彌榮浩樹

姿見とは全身を映す鏡である。誰もが誰か(何か)と闘っている。知られないことは幸いである。生きるとはめんどくさいこと。水馬は水面を滑るように移動する。

駒鳥や麺麭(パン)を数ふるだけの唄  彌榮浩樹

駒鳥は麺麭(パン)を数えるために鳴いている。ひとは麺麭(パン)を数えるために唄っている。

セロニアス・モンクの螢袋かな  彌榮浩樹

セロニアス・モンクは、西暦1917年ノース・カロライナ州生まれのジャズピアニストである。蛍袋の中にはピアノがある。ながめている。どこからともなく奇妙な音色が聴こえる。

蜜豆を混ぜて鳥葬日和とも  彌榮浩樹

「蜜」と「豆」とを混ぜる。混ぜるとはいっしょにすることである。日和とはひかりと風とをほどよく混ぜることである。

黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか  彌榮浩樹

下くちびるがしゃくれているのは捕食の効率化のためである。不要なものは退化する。

最後まで読めばSF梅雨茸  彌榮浩樹

わからないことはいくらでもある。終わってはじめて気づくこともある。梅雨茸はSFである。怪しいことからは逃げるに越したことはない。

鉛筆で描いて青唐辛子の絵  彌榮浩樹

消しゴムで修正はできる。便利なものである。唐辛子を描くのではない。青唐辛子を描くのである。

印度式計算術を瓜の花  彌榮浩樹

印度式計算である。しかも「術」とダメを押す。しかも「を」で切ってある。瓜の花がある。

さざなみの昼の胡瓜のスープかな  彌榮浩樹

さざなみの立つほどの出来事である。スープである。胡瓜のスープである。とある日の出来事である。

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)の間(はざま)蟻地獄  彌榮浩樹

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)とは蟻地獄のことである。うすばかげろうの幼虫はすり鉢状の穴を巣としている。穴に落ちた蟻は這い出すことができない。体液を吸い取られてしまう。

唐黍の花かきわけて水平線  押見げばげば 

唐黍畑である。花を左右へとかきわける。海からの風はおもたい。水平線を見ることができる。

愛国心みづやうかんの匙に棘  押見げばげば 

微妙なバランスである。あまい水羊羹を食べた。くちびるに痛みを感じた。愛国心とは、匙のうえの気づかない棘のようなものなのかも知れない。

梯梧落ちて白き睡魔となりにけり  押見げばげば

落ちたのは葉である。落ちたのは花である。「落」「白」の文字は、睡魔を呼ぶのにふさわしいような気がする。
 
草合歓の共感性に触れてより  押見げばげば 

草合歓へのリスペクトである。考えることは無駄である。共感性に触れる。共感性が揺れる。誰とも触れることなく生きていければいいと思う。

蝉暮れて燃えのこりなき手紙かな  押見げばげば 

手紙は燃え尽きた。意思は何の迷いもなく結果となる。何ら感情をはさむ余地もない。夕ぐれである。蝉が鳴いている。

ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者  押見げばげば 

睫毛のためだけに「ゆふがほ」は咲いている。睫毛は目を守るためのものである。死者の目を守る。生者の目を守る。故に、濡れていなくてはならない。

爪切ればさびし阿蘭陀獅子頭  押見げばげば 

何から何まで派手である。派手なものはとかくさびしい。派手でなければ静かに暮らすことができたものを。飛び散った爪の欠片のような人生である。それで十分だと思う。

優曇華の影に眩暈を得たりけり  押見げばげば

眩暈を覚えたのである。優曇華の影が眩暈を連れてきたのである。影とは光のことである。光とは影のことである。

にんげんの真中つめたし鰻切る  押見げばげば 

冷淡である。温情がない。にんげんとはそんなものである。切った鰻のことなど何も考えてはいない。

前髪を焦がして夏を惜しみけり  押見げばげば

喜ぶこと。悲しむこと。悩むこと。寂しいこと。夏を惜しむこと。絶望であること。希望を持つこと。前髪を焦がすこと。そのとき、何もかもがはじまる。

落丁に似たる病歴春の闇  細川洋子

健康である。不健康である。どちらであっても人である。落丁とはページが抜け落ちていること。不完全であっても役には立っている。薄墨のながれているような春の夜である。

枝切りの音の木霊や聖五月  細川洋子

木霊とは樹木に宿る精霊、山や谷で音が反響する現象、とあった。剪定鋏で小枝を切る。はずんだ音がする。新緑が目に眩しい。

そこかしこ風の衣擦れ牡丹園  細川洋子

そこかしこから小さな風が立ちあがる。牡丹園である。衣擦れとは裾などが擦れあうこと、またはその音とあった。

捩花の左巻きとは男前  細川洋子

容姿、態度の立派な男である。男前を演じるのは辛いことだ。捩花に左巻きがあるのかどうかは知らない。

脈拍の豊かに打てり夏の星  細川洋子

涼を求めて星をながめている。脈拍を自覚する。血液は豊かに流れている。生きていることを全身で感じる。

炎昼のトロンボーンの乱反射  細川洋子

トロンボーンは鏡ではない。ものやかたちをうつすものでもない。正反射とは不自然である。人がそこにいるから乱反射となる。人は余計なことばかりするものである。

打水の水は風の穂光の穂  細川洋子

水は地面には届いていない。だから風の穂、光の穂なのである。地に落ちた水は、あっというまに、そこにあるものに紛れ込んでしまう。

書を曝す父の色覚検査本  細川洋子

父の「色覚検査本」を曝す。日差しを浴びた書物は美しい。手ずれのあとが残っている。父との思い出に浸っている。

先づ父へ捧ぐる一書夜の秋  細川洋子

父へ捧げるのである。はじめて書いたものなのかも知れない。そのときの苦労がよみがえってくる。夜になると暑さもやわらぎ秋の気配を感じる。

神域の森の洗礼夕ひぐらし  細川洋子

キリスト教の信者となるための儀式である。夕がたの神域の森のひぐらしに全身全霊で応える。


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
細川洋子 夜の秋 10句 ≫読む 第954号 2025年8月3日

曾根毅【週俳6月7月8月の俳句を読む】俳句のテクニック

 【週俳6月7月8月の俳句を読む】

俳句のテクニック

曾根 毅


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色

田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く  ミテイナリコ

同音異語のリズムで、その意味を転換させながら、俳句の自由を思わせる句群。例えばこの句は音で「楽しいか、楽しくないかにレール敷く」と受け取れます。次に漢字の意味で捉えると、季語を主とした田園風景、素朴な生活に準じた自然情緒を題材とするような、ステレオタイプな俳句のイメージ。一つ一つの作品は創造性をもっていても、振り返って俯瞰して見た時に敷かれたレールの上を行っているというような画一的に見える作家態度への疑念。「楽しいか」を「田の詩歌」、「楽しくないか」を「他の詩句無いか」に変換し、二つの意味を当の俳句のリズムで提示することで、二重というか二乗くらいのメッセージにする面白いテクニック。楽しい仲間との切磋琢磨も良いですが、蟹が我が身を守るための固い甲羅を背負い、前を向きながら横歩きしているような滑稽な姿に見えるということもあるでしょう。ちょっと過激な作品ですが、詩に対する姿勢、誠実で孤独な思いを感じました。

サフランの卵管千切れ腐爛孵卵  ミテイナリコ

サフランはクロッカスの一種のめしべを乾燥させ、エキゾチックな香りと鮮やかな黄色が特徴の最高級スパイス。腐爛は組織や物体が腐って崩れ落ちる状態。孵卵は鳥類などの卵を適温・適湿で温め、人工的または自然に孵化させること。それに加えて、もしかすると「Francfranc」が関係しているのでは。フランは、「正直な」「自由な」といった意味のフランス語。それをリズムよく重ねた「Francfranc」は、現在多数の商業施設に出店している人気の家具インテリアグッズ店の名称。様々な趣向に応じた、明るく豊かな生活提案がコンセプトの楽しいお店です。一方でこの句には少子化などの社会問題も内包されているように思いますし、一連の作品群から、俳句は和歌に詠まないことを詠んできた俳の自由な文学であることなど、問題意識が感じられ、鋭い問いを突き付けていると思いました。


彌榮浩樹 小屋へ

黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか  彌榮浩樹

以前、波多野爽波の「掛稲のすぐそこにある湯呑かな」について、彌榮さんとご一緒した勉強会で様々な鑑賞解釈が交わされたことを思い出しました。稲掛と湯呑、ひいてはそれらにかかわる人の存在など、それぞれの距離がはっきりしないというのが一つのポイントだったと記憶しています。この句にも、俳句で表された空間における距離のおかしさがあって、爽波句に見る不思議な距離に、取り合わせ要素を加えて奥行をもたせたような感じがします。黒鯛のくちびると小屋、それらの物が醸し出す生々しさ、実感、同時に想起したときの妙な肌触り、空気感などが、物同士の不思議な距離感と関連しながら、言葉のうえで把握しようとするときの変な感覚が表れていると思います。彌榮さんの言葉を借りれば、俳句における「気持ち悪さ」ということになるのでしょう。理論を実作で表した力作。


押見げばげば 眩暈

ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者  押見げばげば

「ゆふがほ」という言葉を俳句の中で読むと、辞書や図鑑で見るユウガオや散文の中で物を示す夕顔という言葉とは違って、その意味の広がりとともに、詩情を伴う詩語としの働きを意識することになります。この句は特に上五にや切れがあって、旧かなで示された季語としての象徴的な意味合いで受け取れそうです。その場合、続く中七の睫毛や濡れが、例えば洗面における物理的な睫毛の濡れる状態とは違ったニュアンスで、やはり詩語としての含みを持つ言葉で受け止められるでしょう。一つの意味を明示するというより、多義を抱えた言葉ということだと思います。この含みは読者の経験を容れ、読み手がそれぞれの思いで受け止めることになります。死者生者も同様。詩情を伴った詩語と、多義を抱えた言葉を省略で表した俳句。私はこの句に、人間の儚いいのちや、朝夕と生死を繰り返す人々の営為、濡れた睫毛には生死にかかわる時間などを思います。


細川洋子 夜の秋

捩花の左巻きとは男前  細川洋子

捩花の右巻きと左巻きの比率はほぼ半々といわれています。株や場所によって巻き方も違い、途中から巻き方が変わるものや、捩れないものもあるようです。この句は左巻きのものは男前だという断定の強みを生かしています。そこに確たる理由はなくても、そうであったら楽しいというようなニュアンスで受け取れます。男前は、イケメンや格好いいとは違って、態度や頼りがいなど、見た目だけではない印象もあるように思います。捩花を見てそんな楽しい想像を巡らせる句。


句の鑑賞からは少し離れますが、俳句について最近思っていることをちょっと書いてみます。俳句は本来、何でもないただの五七五、そのリズムではないでしょうか。その正体は、のっぺらぼうのようなものだと思います。五七五に素直に従えば、ほぼ只事の表現になるのでしょう。表面的には只事だけれど、そうでないものが定型のうえに表れて機能するとき、それこそが俳句なのではないかと期待しています。表面的な味気無さに耐えられないというような、読者または創作に向かうサービス精神のようなものが、季語や切れ、二物衝撃、取り合わせ、言葉の妙味や内容の面白さ、表現の上手さなどのテクニックを生じ、様々な読ませどころを俳句に付加してきたのではなでしょうか。それは一つの表現の豊かさでしょう。ただ、本来ののっぺらぼうのような定型、そのリズムを生かすことが、俳句本来というのか、俳句そのものだと思えば、私は今そのことに最も興味があります。それはもしかして、単に五七五定型に適っていればどんな俳句にも通底してある自明のことなのか、それとも、テクニックや意図を超えたところに表れる、または全く抜きにしたところで機能するものか、おそらく摑めそうで摑みきれないところにあるのであろう俳句そのものに注目しています。


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
細川洋子 夜の秋 10句 ≫読む 第954号 2025年8月3日

青木ともじ【週俳6月7月8月の俳句を読む】写実と虚構の間

【週俳6月7月8月の俳句を読む】
写実と虚構の間

青木ともじ


うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア ミテイナリコ

意味としては上五中七で切れがあるのですが、韻律としては「うるせえなババア!」と「殺すぞ!シラネリア」という対句のように聞こえます。全体的に理不尽ですが、殺すぞ!が後ろにかかるようにも見えるため、シラネリアが一番可哀想かもしれません。そういう可笑しみがあります。

最後まで読めばSF梅雨茸 彌榮浩樹

高原英理さんの『日々のきのこ』(河出書房新社)という本を不意に思い出しました。SFを含めファンタジーというのは不思議なもので、世界観が現実からかけ離れているほど、その世界の人物(人じゃないかもしれませんが)にとって、その世界が日常的であるように描く必要があると思っています。この句においても、小説の中ではあまりに日常的に世界が描かれているからこそ、読了したときに改めてSF世界だったことを思い出す、という気づきにつながるのだと解しました。そのまま視線を外へ向けたときにそこにあるきのこ。普段は単なるきのこだなと思うだけなのに、その時にはファンタジーの世界と現実世界が地続きの日常のように感じられ、異様な存在に思えたのかもしれません。たしかに、巨大きのこが惑星を覆い尽くすSFはありそうですよね。

鉛筆で描いて青唐辛子の絵 彌榮浩樹

デッサンということでしょうか、おそらくこの絵は白黒で描かれているのでしょうが、たしかに色がなくても色まで見えてくるような絵はあります。例えば赤唐辛子やししとうとも形は似ていますが、質感や形のニュアンスはたしかに違う、という気付きの句だと思いました。これを直接的な気付きとして述べるのではなく、一旦デッサンするという過程を経由して見せるというのは回り道のようであって、文字通りの「写生」のプロセスと意義を再確認させる写生句になっています。すべての情報を述べずに一部の情報のみを切り取って見せることでモノの深いところを描くという点で、デッサンと俳句には似通った部分があると再認識するメタ的な句でもありました。

愛国心みづやうかんの匙に棘 押見げばげば

昨年末の臨時国会のなかで、ある議員が「愛国心とは何か」を防衛大臣、外務大臣に問う場面がありました。愛国心という言葉は安易に使おうと思えば簡単な言葉ですが、その実を問われれば明確な答えがないものです。水羊羹は舌触りも喉ごしも良いもの。その匙、おそらく木製なのでしょうが、それにささくれがあるとは想像せずにこの人は使ってしまう。この人は怪我をしたかもしれませんが、水羊羹のほうには傷はつかないでしょう。こうした素材の組み合わせは愛国心という概念を考えながら見ると象徴的です。まもなく選挙ですね。有権者の皆さんはきちんと投票に行きましょうね。

枝切りの音の木霊や聖五月 細川洋子

木霊というと、人の声の印象が強いですが、当然他の音でも木霊は起こります。枝を打つ音の乾いたパチンという音の反響は想像しただけで気持ちよいですが、木から生まれた音が、山々、すなわち再び木々からはねかえってくる構成になっているのがこの句の素材のよろしさと思います。また、谺ではなく木霊のほうの文字を使ったことも、霊という字と聖五月の神聖さがうまく合っており、句材は即物的でありながら木から木へ、聖なるものから聖なるものへ緩やかに反響してゆく、まさに木霊のような句です。


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2025-06-22

細村星一郎【週俳3月4月5月の俳句を読む】かつてなく自由

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
かつてなく自由

細村星一郎


最近「俳句におけるおもしろみの隘路について」というような話があった(というか僕がまとめた)。個人的には面白さや上手さといった尺度に対する危機感を常に持っており、ここ1〜2年で「作品そのものの価値は漸減し続けている。それ以上に作者の姿勢や発言、志向や振る舞い、そして俳句史への視座といったAttitudeこそが重要であり、Attitudeなき作品はその巧拙に関わらず無意味である」といった主張をしてきた。大筋では今もそう思っているが、今回の「週刊俳句」に寄せられた作品からはそんな俳句に対する後ろ向きな覚悟に光が差してくるようなイメージを受け取った。


松田晴貴 巣箱

甘海老を殻より抜きて春の山  松田晴貴

もとより繊細な甘海老を露わにした時に生まれる儚さ。殻を剝くのは人間の捕食行為だが、脱皮は彼らにとって新たに生まれ直す行為でもある。

浮くやうな凭れるやうな巣箱かな  同

巣箱の固定はしばしば心もとない。時にはビス打ちもなく、角度のある枝の隙間に挟み込まれているだけのこともある。そのふわふわした巣箱の佇まいを描写されると、その中に生きる鳥という命の軽さを思わずにはいられない。


おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ

ゆがみちらほらかえって痛々しい春の連取  おおにしなお

何かが何かから何かを連取するとき(この場合ではそのポイントは春なのかもしれないが、だとしても)、連取”される側”が存在する以上、それは基本的に一定の痛々しさを伴う。更に言えば、何らかのポイントを取り合うというやり取りにおいて連取という状況は本質的に歪んでいる。すなわち掲句は、見た目に反して内容の意外性が少ないのだ。その不器用ささえもどこか若さの、そして春の痛々しさに見える。

だいぶ難あり銀河こそこそ描写して  おおにしなお

人には誰しも難がある。ところが、その至極ふつうの前提を抜きにしてもだいぶ難があるらしい。とはいえメタ認知というのは難しいから、「あの子もあの子も自分よりすごくてやんなっちゃうよ」という僻みからくるものかとも思った。ところがどうもそういう様子ではないようだ。銀河というのは地球どころか火星や太陽すら包括する巨大な概念であり、あろうことかそれを描写しようとしているというのだから。こそこそと進めるにしては、やけに大胆な計画である。


超文学宣言 ハプスブルク家の春

自分の置かれた状況を徐々に知覚していくような序文も相まって、いわゆる異世界転生モノのような趣が漂っている。といってもそれはテンプレートに満ちた所与の異世界ではなく、俳句という形式を通して探索されてゆく未知の空間だ。

全体として華美な語が多いゆえに作劇調のロマンティックがやや過剰なきらいはあるが、連作を通してそのニュアンスが通底している点で読ませている。

ふるえるか。書けば春夜の水面あり  超文学宣言

一句目には思わずたじろいだ。書けば→春夜の水面、へと接続してゆくことは読めば当然わかるのだが、脳がどうしても「ふるえるか。書け。」という命令のメッセージを受け取ってしまう。書くことから(時に)逃げ出したくなる人間の弱さが、水面に映し出されているようである。

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  同

Grüß Gottとはオーストリア・ドイツ語の挨拶だという。訳するなら「神のご加護を」という意味が当てはまる。英語圏の「God bress you」やアラブ圏の「インシャアッラー」(あるいは、May the force be with you)に近いものだろう。思えば日本では皆がゆるやかに自然を信仰しているゆえか、日本語は何か特定の存在からのエネルギーをあなたに吹き込むといった意味合いの言葉を持たない。その意味でこの句には書かれ得たことの必然性があるのだが、二度もこの呪文を投げかけたにも関わらずひたきは堕ちてしまう。呪文というより、ある種の呪詛だったのかもしれない。

造形を馬二匹駆け微風あり  同

一読、坂本繁二郎が描く馬の姿を思った。コマ送りで再生される馬の疾走はそれ自体が「造形」を形づくり、眼前にわずかな風を残す。この連作そのものが、読者に一筋の風を見せる馬のようであった。


竹岡佐緒理 夏の詰合せ

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

炊飯器が壊れる(=コメを食べられなくなる)というのは日本に暮らす人間としてかなり重大な危機である。特に僕はパンやお菓子を基本的に食べないのでコメが食べられないという状況になるとかなりの焦りを覚えるのだが、掲句では飄々とアイスで代用している。問題を問題として捉えすぎず、このくらい軽率に受け流してみるのもいいのかもしれない。

掛軸を退かせば穴や蚊遣香  同

虫か何かによって壁に小さな穴が空けられている。事実として提示されているのはそれだけだが、掛け軸の裏の壁の穴という極小の範囲に集中した視界を現実に引き戻すような蚊遣香が効果的である。穴とは何かの出口であり、入り口である。ハッと我に返ったあともしばらく、頭の片隅からその穴の印象が離れない。連作中でもっとも印象に残った句であった。

上田信治 とは

読み手の期待や力みを心地よく裏切るマジックのような句群。意気込んで捕まえようとすればするほどやわらかに動き、手からするりと抜け落ちていく。何か本質的なものを捉えようとするのではなく、むしろその滑落のプロセスや手触りを楽しむべき俳句だろう。それでいてかすかに残る後味のようなものも兼ね備えている。一筋縄ではいかない連作だ。

干し網のむかう三月晴れてゐる  上田信治

干し網の中には基本的に何かが干されている。魚や椎茸などその内容は使用者や置かれているシチュエーションによるだろうが、いずれにしても干し網というものの情緒はその中にあるものも”込み”で解されるものである。ところが掲句はいきなり干し網の向こうを見やり、サア何があるんだと思えばそこには春の晴れ間が覗いているだけである。本質的である(と思われる)部分を後景化した書きぶりにしばらくは呆然とするほかなかったが、そののち、思えば自分がそもそも干し網のことを読み違えているという可能性に行き当たった。この句ははじめからはじめから何もしようとなどしておらず、自分が勝手に吊り下げられた布をパンチし続けていただけであった(あろうことか、そのカウンターに怯えてすらいた)。

散る花のパジャマの下が干してある  同

上は?

富士山もいそぎんちやくも穴開いて  同

たしかにそうで、そしてただそれだけのことだと思うのだが、こうして並列させられるとイソギンチャクが持つ妙な生命力を看取せざるを得ない。そしてそれは翻って、富士山の湛える膨大なエネルギーをも示唆する。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

よかったですね。滋養をたしかに摂取している感覚がある。思えば菠薐草というのは食事の場に供されるとき、いつも雨後のようにぬらぬらとした光沢を放っている。


今回の作品を読んで思ったのは、いま、俳句はふたたび俳句そのものとしての面白さを取り戻しつつあるのではないか、ということである。

例えば、今回のおおにしなおや超文学宣言の挑戦的な(という語すら、もはや老人のことばである)作品に対して今では賞賛や批判こそあれ、「驚いた」「変わっている」といった感想を持つものはずいぶん減ったことだろう。これらは十年、二十年前の論壇であればその文体や構成の特異さだけを以て話題となっていたかもしれないような作品だが、今では読者がSNSなどで素直に思い思いの感想を語り合うまでに自然なものになった。ヘンな俳句がヘンであること自体をもてはやすのではなく、どうヘンでそしてそれがどう面白いのか、という議論が生まれる土壌ができている。

そしてその”土壌”は、いわゆる「平成無風」の時代が積み上げてきた大きな遺産に他ならないのではないか。〈コンビニのおでんが好きで星きれい/神野紗希〉〈セーターから首出すときの真顔です/藤田哲史〉〈蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ/関悦史〉〈愛かなしつめたき目玉舐めたれば/榮猿丸〉〈注意しろ関が余計に揺れだした/御中虫〉……平成という時代に生み出されたこれらの俳句が、ちょうど氷山が溶けてゆくようにゆっくりと、俳句を文体やモラルや媒体やモチーフといった些事から解き放ったのだ。もとより「俳諧自由」と言われて久しいが、今、俳句はかつてなく自由だと思う。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525


中矢温【週俳3月4月5月の俳句を読む】きゅるきゅる

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
きゅるきゅる

中矢温


松田晴貴「巣箱」

甘海老を殻より抜きて春の山

海の幸と山が取り合わされていておめでたい。大きな山と手元の小さな甘海老が対照的で面白い。昨秋主体の行動から山への接続として、〈炬燵出て歩いてゆけば嵐山/波多野爽波〉を何故か思い出した。

足跡とサーフィン摺つてゆく跡と

着眼点が素敵。浜から波打ち際への二本の跡。〈泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ/芝不器男〉を想起した。ともに対象のA面ではなくB面を描く感じ。

気兼ねなく水打つてゐる男かな

ばしゃばしゃという音まで聞こえてきそう。こちらには(まだ)気がついてなさそう。そして作中主体よりももっと透明な視点だけがこの句にはありそう。

連作全体としてどの句も決して珍しくない句材を用いて有季定型のなかでまっすぐに詠んでおり、だからこそ松田氏の句が更新した差分が際立っている。遅くなりましたが、星野立子新人賞のご受賞おめでとうございます! 


おおにしなお「ゆらめくようにだめなとこ」

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖

言葉が次の言葉を読んでいる。湖という具体物が置かれていることで、読者は湖を起点としてのびのびと想像を広げることができる。

もっと来ないでね王子 五月のびる群送りながら

我々二十代後半の世代は、白馬の王子を待つことと待たないこと(白馬の王子の存在の否定や超越)の時代の狭間を生きて来た。故に、その存在は認めつつ自己への接近を拒否することに、個人的かもしれないが共感を覚えた。電車に乗りながら「ビル群」を目で流している感じ。あるいは「伸びる群」。どちらの読みも楽しい。

しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵

可愛い甘い言葉たちから一転、「しかしぼろいな」の導入は大変手厳しい。しかし「言葉の塵」たちを無下に払いはせず、顔を顰めながらも揺蕩うのを許す。

連作全体として柔らかい言葉や語りが、傷や痛みや屈折を包みこんでいる感じ。その「トゲトゲ」たちは「布団」のなかでもぞもぞとしていて、けれど穴を開けはしない。平成のデコメール文化を一部継承しているような記号の使い方など、日本語でしか書けない俳句を考える際には、おおにし氏の俳句は重要な参照先の一つであると思う。


超文学宣言「ハプスブルク家の春」

高木の口語に風の拍がする

背の高い木の葉擦れ。「こう」木の「こう」語で、口が心地よい。

みず巡る接吻もみずあさくあり

水は天下を巡るものである。西洋の雰囲気に導かれるようにして、水面に映った自身に接吻をしようとし落下し、溺死したナルキッソスの神話を思い出した。

合図なくたおれて鹿は孕んでいた

「鹿」をキーワードにして、〈青年鹿を愛せり嵐の斜面にて/金子兜太〉を思い出した。この「たおれて」には何となく死を思う。アニメや映画で銃声のシーンは無声(「合図なく」)でゆっくりとスローモーションでコマが進んでいくことが多いと思う。

像(情景)を簡単には結ばせない俳句たち。言語とか文化とか幅広く、この作者には俳句に先立つ教養というか興味があるのだろうと思った。この方向性において高める/書き続けるのはきっと楽なものではない。だから眩しい。だから凄い。


竹岡佐緒理「夏の詰合せ」

あぢさゐや子を通訳に保護者会

温又柔『来福の家』を思い出した。主人公は思春期で、母を疎ましく思ってしまう。何故なら母は中国語を母語とし、日本語を流暢に話せないことが恥ずかしいからだ。この子もヤングケアラーとして作中主体をサポーターとしているのかもしれない。あるいはもっとユーモラスに詠んで、親が子を何かと話の種に使って、媒介(通訳者)とすることで気の重い保護者会を乗り切るという俳句かもしれない。紫陽花は校庭に咲いているのだろう。

掛軸を退かせば穴や蚊遣香

ふふふとなった。穴があったからといって、『ナルニア国物語』のタンスよろしく物語が展開していくことはない。ごくごく小さな穴だ。この日常が続くことを暗示するようにいつもの蚊遣線香の香り。

何者か閉ぢ込められてゐるゼリー

ジブリ映画『猫の恩返し』で猫のムタがゼリーに閉じ込められたシーンが頭を過った。作中主体は半透明なゼリーを掘り進めていく。出て来るのはただのフルーツかもしれないけれど。

「夏の詰合せ」は一句から取られたものであるが、この連作自体も夏の色々な場面の詰め合わせであった。読者へのサービス精神のある楽しい連作だった。炊飯器が壊れたり、白鷺を目に留めたりと、パーソナルで固有な日々の瞬間が、俳句の形式に乗ることで却って普遍的になることは、いつも新鮮で嬉しく思う。


上田信治「とは」

散る花のパジャマの下が干してある

穏やかな軒先。下着もパジャマも靴下も組合せが狂うことはままあるが、書き留められると何だか不気味。

海苔の海だれも見てゐない昼の

誰もいない昼の海。静かに殖えて育つ海苔。綺麗な海なのだろう。誰も見ていないなら何でもできてしまう。そのことの怖さ、かつ穏やかさ。

雨のあと菠薐草を食べにけり

不思議で健やかな俳句。雨が降って雨があがることと、法蓮草を茹でることと食べることの二つのタイミングが重なった。人生とは遍くタイミングである、とすら思わされる。

上田氏の俳句は脱力したところが魅力であり特徴だと思うが、これは自然と脱力しているというより、脱力して見せている(魅せている)のだと思う。だからこそ、〈花かつお人生は春ひらひらと〉とさらっと書かれてしまうと、日常を脱力するのとは少し違って、どきっとしてしまうのだ。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525

谷口愼也【週俳3月4月5月の俳句を読む】翻訳

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
翻訳

谷口愼也


韻文である俳句を鑑賞文または批評文として述べる行為は、韻文を散文に翻訳するに等しい。だがその翻訳に特段のルールがあるわけではない。

であれば、「勝手読み」は別として、作品が生きるか死ぬかは個々人の「読み」のオリジナルティにかかっていると言えるのではないか――などと思いつつ、作品に当たってみる。

巣箱 松田晴貴

甘海老を殻より抜きて春の山

鞦韆をかけて昔の木となりぬ

藻の花や日影日向とくりかへし

気兼ねなく水打つてゐる男かな

鳰のまたあつまつてきし浮御堂

日常の事がらを韻文として表現しようとするのが俳句。為に季語を応用するのが一般的。だがその季語は、いわゆる「季題趣味」を誘引し易い。この作者は、そこを心得ていて、日常茶飯を平明な文体で描きながら、季語の変容をさりげなく、無理なく行っている。従ってまた作者の感情も、異和なく一句全体の情緒として納得させられる。

1句目。〈春の山〉は〈甘海老〉の甘さやさくら色に著しく変容させられている。季語の変容・変換が表現として成立している一例かと思う。

2句目。なつかしい昔の風景は〈鞦韆〉という古語によってより強調され、本来、木の姿はそのようなものだと思わせるところが面白い。

3句目。時間の推移を〈藻の花〉に託している。日常茶飯の掬い上げ方が板についている。

4句目。叙述型の俳句だ。だから表層の意味性だけに目が行き、句か散文にしか過ぎないという読者も出てくるだろうが、そうではない。〈気兼ねなく〉の措辞に留意すれば、例えばそこに、退職後の〈男〉の解放感が、水打つ行為から精神の解放感にまで広がっていくその爽やかさが読み取れる。

5句目。この句、〈浮御堂〉が変容されている。浮御堂のまわりに鳰が集まって来たというのが表層の意味。〈きし〉は「來し」。この古語の使い方(意味や音調)が1句に微妙に影響し、〈鳰〉の群れは〈浮御堂〉本体の中にまで流れ込む。それを強調するのが〈また〉である。散文的事実を韻文に変容させるその行為が、極めて自然にできているはそのせいであろう。


夏の詰合せ 松岡佐緒理

あぢさゐや子を通訳に保護者会

白鷺を中心点に風立ちぬ

カルピスの薄目の実家青田波

何者か閉ぢ込められてゐるゼリー

まずはこの4句を抽出。作者は日常のある日ある時の一点を捉え、それをできるだけ素直に表現しようとしている。

1句目。少し緊張している〈保護者〉と、その場に慣れ親しんだ〈子〉との取合せだが、そこに〈子〉を〈通訳〉と評したおどけ心が何とも微笑ましい。それを〈あじさい〉という色彩で包んでいる。まるで一枚の絵のようでもある。

2句目。一見理知が先行しているかに見える。また〈中心点〉を起点としたその発想にも、特段の新しさはない。だが〈風立ちぬ〉の措辞は、作者そのものが秋風となって舞い上がる爽快感を感じさせる。

3句目。実家の親たちには「薄目のカルピス」が口に合うのだろうか。都会生活に慣れた「舌」は、〈青田波〉と「薄目のカルピス」との調和を感じている、あるいは思い出しているのであろう。

4句目。ゼリーの中には味を一つ付け加えた「何か」が入っているものが多い。そこを〈何者か〉が〈閉ぢ込め〉られていると擬人化した小さなユーモア。何でもないことが俳句(詩)になっている。


とは 上田信治

花かつお人生は春ひらひらと

濡れてゐて考へ顔のあざらしよ

はまぐりや夜開いてゐる喫茶店

富士山もいそぎんちやくも穴開いて

散る花のパジャマの下が干してある

花鳥賊のみなとに雲の多かりし

会館に昔の松や雲に鳥

日永とは鯉一つゐる町の川

作品は15句提出してある。表題の「とは」とは「永遠」のこと。いや、「人生とは」の「とは」か? 表題で少し戸惑うが、作品をみれば、作者の思いはその双方にまたがっているようだ。私が興味を持ったのは、この作者の「エモーション」(emotion)の在り方である。すなわちそれは、情感・情動・情想、等の「動き(流れ)」のこと。文学の根源的は「エロスとタナトス」と言われているが、そのエモーション(エロス)の在り方が面白い。

以下、抽出句は、こちらの都合のいいように順番を入れ替えてみた。

1句目。〈人生は春〉と言い切ったその青春性は、この作者の文学的な志向を言い放っている。すなわちそれは「解放感」。〈ひらひら〉がそれを軽く言い止めている。だがこれを単純に、薄っぺらなどと言ってはいけない。2句目、3句目、4句目に目を移せば、「濡れてゐるあざらし」も「夜開くはまぐり」も、「穴開いている富士山やいそぎんちやく」も、隠語を交えての性的暗示性にんでいる。そして「表現」としてのそれらの個体には現実以上の手触り感がある。すなわち作者は、個のエロスを、より直截に肉体的なものとして拡張、開放しているのである。

5句目。俳句定型の特色のひとつである「の」の文法とでも言うべきものの活用だ。〈散る花のパジャマ〉では意味不明。またこれは「散る花がプリントされたパジャマ」などではない。要はこれは下半身の話。夢想の果てのその様を軽い滑稽感に変換している。それを超論理としてが可能にしているのが〈の〉応用による〈散る花のパジャマ〉である。散文的な意味は成立しなくとも、読者にはそのエロチシズムを自然(じねん)納得できるのである。

6句目。ここにも〈の〉の文法が応用されていてるので、もちろん「花烏賊」は主語にはならない。すなわち「花鳥賊が所有する港」とはならない。表層の意味合いは(せいぜい)「花烏賊がたくさん獲れる港」ということになる。だが作者の情感は、夏雲の立つ美しい港を幽かなエロチシズムで成立させている。何故ならそこに〈花〉の一語があるからだ。これが単なる〈烏賊〉であれば、その生臭さしか残らない。〈花筏の港〉の〈の〉はそういう解釈を導き出している。

最後の2句はまさに「ザ・俳句」という感じ。6句目は「定型」の中に凝結した時間を開放し、7句目は逆に流れる時間を〈永遠〉という一語で凝結化している。

いずれにしてもこの作者は、俳句は「定型詩」であることを十分に理解し、その上で「生」(性)のエロスをどう開放していくかに挑戦している人のように思える。


ゆらめくようにだめなとこ おおにしなお

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ

だいぶ難あり銀河こそこそ描写して

あのねはつゆき、 あ、初雪の なんでもない

ふちゅーいゆーいゆ―えい禁止のゆめみる湖

しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵

この作者の特徴は、話し言葉の音調の不思議さにある。それは書き言葉とその意味性との相互干渉の程合いによって成立するもの。その程合いが(読者に取って)まずければ、それは難解句となる。その中でも私が気持ちよく読んだのが上の4句である。

1句目。〈えんちゅう〉は「円柱」かと思う。いや「炎昼」ではどうか? まずはそう思うのであるが、その私(読者)の「思い」は、最初から〈抉れて〉いるのである。その奇妙な不思議さが,下句〈いつか心になれるのかな〉をごく自然に導き出している。

2句目。この句、〈こそこそ〉によって、意味性と音調の調和が程よく伝わってくる。

3句目。これも面白い。〈あのねはつゆき〉は作者の呼びかけ。それが唐突に〈あ、初雪の〉という視覚的イメージに変換されるが、それも〈なんでもない〉の全面否定で打ち消される。読者に残るのは意味を成さない3つの意味性のバラバラの動き。すなわちその高低や飛躍の動きが不思議な音調となって伝わってくる。

解釈するに難解なのが4句目であろう。〈ゆ〉で押し通す音調。〈ふちゅうーい〉の後の〈ゆーい〉が問題。その言葉に「有意」(そうしようとする意志)を絡めてみるとかえって混乱する。〈ゆーい〉は次の〈ゆうえい〉を誘引するための仕掛けと見てよい。それでも「ゆうえい禁止の湖」を〈ゆめみる〉のであるから、それは確かに表題通りという面白さに通じてくる。

5句目は、〈ぼろい〉のは〈梅雨にはびこる言葉の塵〉という平板な比喩に終わっているのではないか。

残りの句は、今の私では理解が届かない。別の人の解釈を見て見たいものだ。


ハプスブルク家の春 超文学宣言

ながい前書のようなものが付いている。だが作者は(これは前書ではない)という。そこを読むと、これはシュールな「現代詩」のように思える。だが、ハプスブルク家の盛衰は豆知識としては知っているが、それにまつわる史実や物語などは知らない。ましてやシェーンブルグ宮殿やウイーン盆地などは全く知らない。すでにこの時点で私は読者失格なのであろうが、このシュールな風景を下敷きにして、作品が描かれていることは理解できる。従って、

ふるえるか。書けば春夜の水面あり

ゆるやかに回転しつつ庭が咲く

うつむけばペルソナに木の洞浮かぶ

などは、(前書のようなものがなくとも)なんとなくわかるような気がするが、次のような句は、現代詩の中の一行(断片)を読むようで、お手上げである。

ステンドグラスを割り海を濡らすな

劇のまなかを白い灯火ら消えてゆく

遠くよばれて離宮の門が灼ける

従ってここもまた、別の人の解釈を見て勉強してみたいと思っている。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525

2025-06-15

土井探花【週俳3月4月5月の俳句を読む】あなたのうしろから風を感じる

 【週俳3月4月5月の俳句を読む】

あなたのうしろから風を感じる

土井探花


松田晴貴 巣箱

甘海老を殻より抜きて春の山  松田晴貴

いわゆる「飯テロ」とはこのような作品をいうのだろうか。「食べ物は美味しそうに詠む」という俳句の常道にとても忠実である。もちろん誉めている。特に、「殻より抜きて」が良い。剥くんじゃなくて抜く。甘海老マスターの称号すら与えたい。次々と堪能する甘海老。目の前には半透明の赤い殻の山。そしてさらにその先には春の山。美食に舌鼓を打つ作者の食欲の旺盛さを寿ぎ見守っているかのようである。

鞦韆をかけて昔の木となりぬ  同

公園にある鉄骨と鎖の「ブランコ」ではなく、丈夫な木におそらくはロープでかけられた鞦韆。これが本来の姿に近いのだろう。「昔の木となりぬ」が秀逸で、明治や大正の時代の木を想起しても良いし、さらにさかのぼり、国境を越え、李商隠や蘇軾の漢詩にあった鞦韆がかけられた木に思いを馳せてもよいだろう。そんな読者の貪欲な妄想力に耐えうる、素朴ながらもロマンティックな措辞であるのだから。

雪の下午前いつぱい手紙書き  同

わたしは俳人失格の夜型人間で、句も手紙ももっぱら夜に書いている。「夜に手紙は書くな」と昔から言われているから、さらにいろいろ失格である。さて掲句、「いつぱい」は「午前中ずっと」という意味か、「たくさん」の意味か、おそらくは両方だろう。送りたい手紙、返事を書かなくてはいけない手紙、ちょっとため込んでしまったのかもしれないが、「書き」の連用形から終わってはいないもののだいぶ片付いたようだ。「雪の下」という控えめで可憐な花から作者の真摯な姿勢が伝わってくる。


おおにしなお   ゆらめくようにだめなとこ

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお

 「ゆめみる湖」は「ゆーえい禁止」であるという。そんな素敵な湖があったら、私もこっそり足ぐらい入れたいものだが、平仮名表記の中で「湖」「禁止」だけが漢字であることは意味深だ。言葉遊びのようにも感じる前半から一転、「禁止」が呪縛のように君臨する。わたしたちはこの湖で遊泳するばかりか、「ゆめみる」ことさえ「禁止」されているのか。ディストピア的現代世界を示唆するような作品である。

しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵  同

これも示唆的な句。「言葉の塵」は詩でもなく言葉ですらないゴミであるのだろう。梅雨にあって黴のようにはびこるこの「言葉の塵」。しかも「ぼろい」ときているから辛辣だ。このような新しく魅力的な詩を書く作者にとってぼろくて言葉のゴミとは何かと考えると、自分の俳句の陳腐さを言われているようでドキッとする。というより、この作品を読んでドキッとしない表現者は少々鈍感である、とわたしは思うのだが。

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ  同

「抉れて」いるのは「円柱」か「炎昼」か。どちらの読みも可能だがわたしは「円柱」で読んだ。遺跡などで壊れたり欠けたりしつつも千年単位で立ち尽くしている円柱のイメージが喚起された。「いつかこころになれるかなあ」にはそんな「えんちゅう」への優しさなのだろうか。アニミズム的に物が魂を持つこととも似ているが、「なれるかなあ」と「なれるかな」には大きな違いがありそうだ。凡百の詩人が無条件に信頼するアニミズムへの懐疑さえ感じる。


超文学宣言 ハプスブルク家の春 

ふるえるか。書けば春夜の水面あり  超文学宣言

わたしは倒置気味の句として読んだ。ただ「春夜の水面」と書く。それは日本語かもしれないしドイツ語かもしれない。書いた途端に、それは単なる言葉ではなく形を持った水面となって、ときにゆらめき、ときにふるえる。「ふるえるか。」の句点さえ、単なる区切りではなくふるえる世界の一部なのだろうか。

ステンドグラスを割りうみを漏らすな  同

うみを漏らさぬようにステンドグラスを割るのか、それとも割ってうみを漏らすようなことはするな、なのか。読みが正反対に割れるのは作者の意図だと思い、わたしはとりあえず後者で読むことにした。そもそも「うみ」とはなにか、「海」か「湖」か、あるいは「膿」か。これも勝手に自由に読んでくれというメッセージだと判断したが、どうもステンドグラスというと『薔薇の名前』のような醜悪な修道士が出てきそうだ。とすると「海」「湖」を「漏らすな」というファンタジーの読み方も、「膿」を隠し通せというグロテスクな読解も許容されている。懐の深い、多義的、多面的な作品で脱帽するしかない。

エジプトがくらがりを来てさえずっている  同

ヨハン=シュトラウス2世の「エジプト行進曲」がまず脳内を流れてきた。ハプスブルグ家のフランツ=ヨーゼフ1世もエジプトのスエズ運河開通に関わっており、また同家には独自の古代エジプトコレクションがあるようで、この連作の中での「エジプト」の出現はあながち唐突ではない。だが当時の世界のパワーバランスを考えれば決してポジティブな登場ではないだろう。不本意に持ち込まれたファラオの装飾品や、人為的に運河で結ばれた水がまさに「くらがり」を来て自己主張のごとく「さえずっている」のだ。

造形を馬二匹駆け微風あり  同

「造形」がなんとも挑戦的である。作者が冒頭で触れた「シェーンブルン宮殿」をはじめとして、たくさんの精緻な造形のあとが見いだせるウィーンにあって、現在進行形の「造形」が形として、あるいは想像の産物としてあり、そこを馬二匹が駆けた。微風ではあるが、確かに風を感じた。どこかには自分達の文学が無風であることを嘆いている方がおられるというが、その方々はこの微風を感じ取れることは果たしてできただろうか。あるいは突風になるかもしれないこの風に気づかないのだろうか。


竹岡佐緒理 夏の詰合せ

カルピスの薄めの実家青田波  竹岡佐緒理

夏というと麦茶やカルピス、アイスティーなどの薄さを指摘しがちだが、麦茶の薄さに比べ、カルピスの薄さには人為的、作為的な要素が多い気がする。要するにカルピスの支配者(?)の裁量でだいたいの濃淡が決まってしまうのだ。子が帰ってきて家族が多くなるならなおさら原液の量は減らされそうだ。そんな実家でも、やっぱり居心地は良い。特に青田波の美しくすがすがしいこと。座布団を枕にして、多少行儀の悪い格好で都会にはないこの感覚をしばし満喫しようではないか。

月涼し言葉を文字にして記す  同

言葉≒文字であるとつい私たちは思ってしまいそれを他者に押し付けようとする。でも世界には口承文化の国がたくさんあり、あった。身近ではアイヌ文化が現存している。あるいはインカやアステカ帝国をイメージしても良いだろう。だから「言葉を文字にして記す」という措辞は普通の行動というよりは、一長一短があるものの貴重な行為だ。「月涼し」の夜にあって、当たり前を当たり前でなく尊ぶのもまた一興だろう。

夏の詰合せ余つたのを貰ふ  同

そろそろお中元の季節。このような「夏の詰合せ」を贈ったり頂いたりする方もいるだろう。お菓子にしろ、調味料にしろ、なぜあの詰合せには当たりはずれがあるのか。ちょっと使わないもの、口に合わないものも残念ながら入っていることがままある。だが作者は「余つたの」を貰う。確かに当たりではないかもしれないが、思わぬ福も紛れているかもしれない。「のを貰ふ」という口語的な表現が気軽で束縛がなくて、幸せそうである。


上田信治 とは
  
散る花のパジャマの下が干してある  上田信治

いわゆる日本的な「散る花」の風情、例えば紀友則の「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」とはかけ離れた「パジャマの下」のインパクト。(誉めています)下というとパジャマの下着なのか、ズボンのことなのか、まあそれは良いだろう。この連作では掲句の前後と合わせ三句いずれも「~の」の上五の形をとっているが、この「の」だけは異質で、「や」より弱い切れの要素があると思われる。現代的な、かっこいい切れである。

花かつお人生は春ひらひらと  同

「人生」というパワーワードの登場に思わず身構える。春ならば明るく輝く人生なのかなと読み進めると「ひらひらと」が来る。それは落花のようでもあり、蝶の頼りない飛翔のようでもあり、さらに冒頭の「花かつお」とも連携しているようだ。花かつおの庶民性と、花や蝶のはかなさには前句と同じく大きなギャップがありながらも、「ひらひらと」の共通性を見出す作者の慧眼を感じずにはいられない。

日永とは鯉一つゐる町の川  同

表題句でもあり、かなり立ち止まってしまった作品でもある。魚の鯉の数詞は本来「一尾」「一匹」などであろうが、ここでは「一つ」。最近句会でも本来の数詞ではないものを敢えて用いて数える方法を見かけることがあるが、かなり異質な鯉をイメージした。あるいは掲句の鯉は生物ではないのかもしれない。いずれにせよこの町の川には「一つ」しか鯉がおらず、それが「日永」であるという。そして「とは」。単なる連語「とは」ではなく「永遠」の要素も感じるのは深読みしすぎだろうか。皆さんもこのなにか矛盾した日永にどっぷりと浸かってほしい。



松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525