2025-06-22

細村星一郎【週俳3月4月5月の俳句を読む】かつてなく自由

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
かつてなく自由

細村星一郎


最近「俳句におけるおもしろみの隘路について」というような話があった(というか僕がまとめた)。個人的には面白さや上手さといった尺度に対する危機感を常に持っており、ここ1〜2年で「作品そのものの価値は漸減し続けている。それ以上に作者の姿勢や発言、志向や振る舞い、そして俳句史への視座といったAttitudeこそが重要であり、Attitudeなき作品はその巧拙に関わらず無意味である」といった主張をしてきた。大筋では今もそう思っているが、今回の「週刊俳句」に寄せられた作品からはそんな俳句に対する後ろ向きな覚悟に光が差してくるようなイメージを受け取った。


松田晴貴 巣箱

甘海老を殻より抜きて春の山  松田晴貴

もとより繊細な甘海老を露わにした時に生まれる儚さ。殻を剝くのは人間の捕食行為だが、脱皮は彼らにとって新たに生まれ直す行為でもある。

浮くやうな凭れるやうな巣箱かな  同

巣箱の固定はしばしば心もとない。時にはビス打ちもなく、角度のある枝の隙間に挟み込まれているだけのこともある。そのふわふわした巣箱の佇まいを描写されると、その中に生きる鳥という命の軽さを思わずにはいられない。


おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ

ゆがみちらほらかえって痛々しい春の連取  おおにしなお

何かが何かから何かを連取するとき(この場合ではそのポイントは春なのかもしれないが、だとしても)、連取”される側”が存在する以上、それは基本的に一定の痛々しさを伴う。更に言えば、何らかのポイントを取り合うというやり取りにおいて連取という状況は本質的に歪んでいる。すなわち掲句は、見た目に反して内容の意外性が少ないのだ。その不器用ささえもどこか若さの、そして春の痛々しさに見える。

だいぶ難あり銀河こそこそ描写して  おおにしなお

人には誰しも難がある。ところが、その至極ふつうの前提を抜きにしてもだいぶ難があるらしい。とはいえメタ認知というのは難しいから、「あの子もあの子も自分よりすごくてやんなっちゃうよ」という僻みからくるものかとも思った。ところがどうもそういう様子ではないようだ。銀河というのは地球どころか火星や太陽すら包括する巨大な概念であり、あろうことかそれを描写しようとしているというのだから。こそこそと進めるにしては、やけに大胆な計画である。


超文学宣言 ハプスブルク家の春

自分の置かれた状況を徐々に知覚していくような序文も相まって、いわゆる異世界転生モノのような趣が漂っている。といってもそれはテンプレートに満ちた所与の異世界ではなく、俳句という形式を通して探索されてゆく未知の空間だ。

全体として華美な語が多いゆえに作劇調のロマンティックがやや過剰なきらいはあるが、連作を通してそのニュアンスが通底している点で読ませている。

ふるえるか。書けば春夜の水面あり  超文学宣言

一句目には思わずたじろいだ。書けば→春夜の水面、へと接続してゆくことは読めば当然わかるのだが、脳がどうしても「ふるえるか。書け。」という命令のメッセージを受け取ってしまう。書くことから(時に)逃げ出したくなる人間の弱さが、水面に映し出されているようである。

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  同

Grüß Gottとはオーストリア・ドイツ語の挨拶だという。訳するなら「神のご加護を」という意味が当てはまる。英語圏の「God bress you」やアラブ圏の「インシャアッラー」(あるいは、May the force be with you)に近いものだろう。思えば日本では皆がゆるやかに自然を信仰しているゆえか、日本語は何か特定の存在からのエネルギーをあなたに吹き込むといった意味合いの言葉を持たない。その意味でこの句には書かれ得たことの必然性があるのだが、二度もこの呪文を投げかけたにも関わらずひたきは堕ちてしまう。呪文というより、ある種の呪詛だったのかもしれない。

造形を馬二匹駆け微風あり  同

一読、坂本繁二郎が描く馬の姿を思った。コマ送りで再生される馬の疾走はそれ自体が「造形」を形づくり、眼前にわずかな風を残す。この連作そのものが、読者に一筋の風を見せる馬のようであった。


竹岡佐緒理 夏の詰合せ

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

炊飯器が壊れる(=コメを食べられなくなる)というのは日本に暮らす人間としてかなり重大な危機である。特に僕はパンやお菓子を基本的に食べないのでコメが食べられないという状況になるとかなりの焦りを覚えるのだが、掲句では飄々とアイスで代用している。問題を問題として捉えすぎず、このくらい軽率に受け流してみるのもいいのかもしれない。

掛軸を退かせば穴や蚊遣香  同

虫か何かによって壁に小さな穴が空けられている。事実として提示されているのはそれだけだが、掛け軸の裏の壁の穴という極小の範囲に集中した視界を現実に引き戻すような蚊遣香が効果的である。穴とは何かの出口であり、入り口である。ハッと我に返ったあともしばらく、頭の片隅からその穴の印象が離れない。連作中でもっとも印象に残った句であった。

上田信治 とは

読み手の期待や力みを心地よく裏切るマジックのような句群。意気込んで捕まえようとすればするほどやわらかに動き、手からするりと抜け落ちていく。何か本質的なものを捉えようとするのではなく、むしろその滑落のプロセスや手触りを楽しむべき俳句だろう。それでいてかすかに残る後味のようなものも兼ね備えている。一筋縄ではいかない連作だ。

干し網のむかう三月晴れてゐる  上田信治

干し網の中には基本的に何かが干されている。魚や椎茸などその内容は使用者や置かれているシチュエーションによるだろうが、いずれにしても干し網というものの情緒はその中にあるものも”込み”で解されるものである。ところが掲句はいきなり干し網の向こうを見やり、サア何があるんだと思えばそこには春の晴れ間が覗いているだけである。本質的である(と思われる)部分を後景化した書きぶりにしばらくは呆然とするほかなかったが、そののち、思えば自分がそもそも干し網のことを読み違えているという可能性に行き当たった。この句ははじめからはじめから何もしようとなどしておらず、自分が勝手に吊り下げられた布をパンチし続けていただけであった(あろうことか、そのカウンターに怯えてすらいた)。

散る花のパジャマの下が干してある  同

上は?

富士山もいそぎんちやくも穴開いて  同

たしかにそうで、そしてただそれだけのことだと思うのだが、こうして並列させられるとイソギンチャクが持つ妙な生命力を看取せざるを得ない。そしてそれは翻って、富士山の湛える膨大なエネルギーをも示唆する。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

よかったですね。滋養をたしかに摂取している感覚がある。思えば菠薐草というのは食事の場に供されるとき、いつも雨後のようにぬらぬらとした光沢を放っている。


今回の作品を読んで思ったのは、いま、俳句はふたたび俳句そのものとしての面白さを取り戻しつつあるのではないか、ということである。

例えば、今回のおおにしなおや超文学宣言の挑戦的な(という語すら、もはや老人のことばである)作品に対して今では賞賛や批判こそあれ、「驚いた」「変わっている」といった感想を持つものはずいぶん減ったことだろう。これらは十年、二十年前の論壇であればその文体や構成の特異さだけを以て話題となっていたかもしれないような作品だが、今では読者がSNSなどで素直に思い思いの感想を語り合うまでに自然なものになった。ヘンな俳句がヘンであること自体をもてはやすのではなく、どうヘンでそしてそれがどう面白いのか、という議論が生まれる土壌ができている。

そしてその”土壌”は、いわゆる「平成無風」の時代が積み上げてきた大きな遺産に他ならないのではないか。〈コンビニのおでんが好きで星きれい/神野紗希〉〈セーターから首出すときの真顔です/藤田哲史〉〈蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ/関悦史〉〈愛かなしつめたき目玉舐めたれば/榮猿丸〉〈注意しろ関が余計に揺れだした/御中虫〉……平成という時代に生み出されたこれらの俳句が、ちょうど氷山が溶けてゆくようにゆっくりと、俳句を文体やモラルや媒体やモチーフといった些事から解き放ったのだ。もとより「俳諧自由」と言われて久しいが、今、俳句はかつてなく自由だと思う。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525


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