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2026-10-18

瀬戸正洋【週俳8月9月の俳句を読む】ことばを捜してⅡ

【週俳8月9月の俳句を読む】
ことばを捜してⅡ

瀬戸正洋


敵はいつも背後にいる。敵はいつも目前にいる。

まあ、基本的には入れなくてよかったと思ってます
蛍烏賊めあてに端座してをられ  岩田奎

端座している。胡坐をかいている。どちらにしても何も変わらない。どちらにしても蛍烏賊がそこにいる。

夏の川大きくなりて流れつつ  岩田奎

夏の川が大きくなる。動いている。夏の川が刻々と通り過ぎていく。夏の川は夏の川であることをやめない。夏の川は夏の川であることを自覚する。

意味意味と叫んで英語塾冷房  岩田奎

意味をふたつ続けると無意味になる。叫んだとなると無意味であることがさらに膨らむ。英語塾冷房とはやさしさをあたえ続けることだ。

ひいでたるくらげとほかのもろくらげ  岩田奎

ひいでているものはある。ほかのとはひいでていないもののことである。そのくらげだという。くらげのなかのひいでているもの。あるいはひいでてはいないもの。ほかのものくらげであることに幸福を感じる。

扇ずらりと売りてくらせりナーバスに  岩田奎

ナーバスに生きている人を尊敬する。ナーバスに生きていない人は信じられない。(こともない)扇を売るとは不快さを差し出すことだ。「ずらり」とはこころをおだやかにさせることばである。

違ひよく分り避暑地の馬を見る  岩田奎

違いがよくわかるということは経験があるということだ。避暑地の馬である。違いがよくわかったとしても何も変わらない。

日焼して優雅に夜に走者流れ  岩田奎

多くの人が走っている。よいことではない。日焼けしている。よいことではない。優雅であること。よいことではない。故に流れるのだと思う。

熱心にそして玉巻く芭蕉かな  岩田奎

熱心とは「深く心を打ち込み熱意をもって取り組む様子を意味する言葉」だという。好きなことばではない。玉巻く芭蕉がこころを慰めてくれる。

バナナ食ふ皮ひややかに手の甲に  岩田奎

ひややかであることは大切なことである。食べてしまったバナナであるからなのである。食べてしまったバナナはてのひらにはない。食べてしまったバナナが手の甲にあることも不思議なことだと思う。

秋も炎え空を来日する選手  岩田奎

夏も炎えていた。いつだって炎えていた。「元気をあたえたい」「勇気をあたえたい」などという人がいる。自分のことをどう思っているのか。想像してみる。恥ずかしくて下をむいてしまう。

茉莉花やコインで回る洗濯機  上田信治

洗濯物を抱えてコインランドリーへ入る人がいる。茉莉花は洗い終えた白いシャツのイメージだ。八月のとある日、隣接している珈琲店で珈琲を飲む。なまけものの老人はそんな光景をぼんやりとながめている。

雨蛙キャベツの上にゐて雷鳴  上田信治

キャベツ畑である。家庭菜園なのかも知れない。オーガニックである。遠くから雷が聞こえる。

ゴミ袋たためば青い川の風  上田信治

川の流れに青空が映っている。ゴミ袋はたたむ理由がある。青い川の風は好きである。

まだ暮れない浴衣の柄の山斜め  上田信治

浴衣の柄が気になっている。山が斜めであることが気になっている。浴衣の女性のことが気になっている。日はまだ暮れてはいない。

唄歌ふやうに転がす夏のカー  上田信治

ドライブが好きなのである。車は歌うように転がすのである。海の見えるカフェテラスで夏野菜が食べたい。

風鈴を家の左に釣る人よ  上田信治

右利きの人だから家の左に釣る。風鈴には興味がない。釣りやすいところに吊ることにした。それでいいのだと思う。

噴水と雲と相ひ似て夕方よ  上田信治

噴水について考えている。雲について考えている。ふたつのことを考えている。いつのまにかふたつのものはひとつになる。夕方である。

ガム銀紙ひらけばガムよ八月の  上田信治

ガムがふたつ書いてある。唄唱うと同じである。「銀紙ひらけばガムよ八月の」。あたまに「ガム」を置き、銀紙のあとに「を」を置かなかった。それが、この作品である。

郭公のこゑしてホームセンターよ  上田信治

郊外にあるホームセンターである。国道に沿ったホームセンターである。老人の遊び場である。軽トラがひっきりなしに出入りしている。余計なものまで買ってしまった。郭公が鳴いていたからなのかも知れない。

這ふやうに泳ぐ子亀が秋のうた  上田信治

子亀は秋のうたなのである。這うように泳いでいるから秋のうたなのである。秋のうたは唄うものである。秋のうたは聴くものである。

濁流に錨を投げて星涼し  曾根 毅

濁流に錨を下ろす。不思議である。星が涼しく感じられる。不思議である。不思議でないことへの旅に出る。

血を交わす兄弟(けいてい)の盃夏の月  曾根 毅

血を交わさなければならない理由があった。酒を交わさなくてはならない理由があった。兄弟である。夏の月が出ている。

秋風や張飛の髭の酒乾き  曾根 毅

豪快に酒を飲んでいる。酒は乾き髭をひからせる。乾かせたのは秋風である。乾かせたのは時の流れである。

煮えたぎる大釜の肉秋の蟬  曾根 毅

弱々しい蝉の鳴き声。大釜は煮えたぎっている。そのなかの肉も煮えたぎっている。

泥しぶき天地に通う鬨の声  曾根 毅

鬨の声をあげることには胡散臭さを感じる。人が一斉に叫ぶことには胡散臭さを感じる。泥しぶきがあがっている。

跳ね返す盾の閃光秋驟雨  曾根 毅

盾が跳ね返す。強い光が瞬間的に発する。急に雨が降ってくる。季節は秋である。

秋霖や役人の首引っ提げて  曾根 毅

暴力を肯定する。暴力を否定する。それぞれの考え方である。捕らえた役人の首を引っ提げている。

血に染まる川の面や秋の空  曾根 毅

**場の前の川。流れ出した血は川面を染めていく。血は川面を流れていく。首を落とされたのは役人なのかも知れない。何もなかったような青空。秋である。

閑かなる砂塵の向こう側に月  曾根 毅

しずかな砂塵である。向こう側に月が出ている。月は地上にある何もかもを鎮めていく。

青天や孤高の舟の重き舵  曾根 毅

青天である。孤高とは俗世間から離れ気高く生きること。舟の舵は重いこともある。船の舵は軽いこともある。


■岩田奎 『敵』補遺 10句 ≫読む
■上田信治 秋のうた 10句 ≫読む
■曾根毅 翼徳 10句 ≫読む

2026-08-09

瀬戸正洋【週俳2月7月の俳句を読む】ことばを捜して

【週俳2月7月の俳句を読む】
ことばを捜して

瀬戸正洋


声優と同じインフルエンザかな  きりばらい

同じ型のインフルエンザに罹った。直接、声優からなのかは解らない。好きか嫌いかによって罹ったことへの思いは異なる。ただ、タイトルが「愛日」なので不快であるということではないだろう。

試食品乾き続ける成人日  きりばらい

ショーケースの前に試食品がある。成人の日は一月の第二月曜日である。成人になった人を祝い励ます日である。試食品は乾き続ける。祝い励ます感情も薄れていくのである。

無視すると決めた歯痛に春隣  きりばらい

消極的な無視がある。積極的な無視がある。どちらも必要な無視である。歯痛を治すにはエネルギーが必要である。もうすぐ春は来る。

被告人は人狼でした日脚伸ぶ  きりばらい

被告人とは罪を犯した疑いで起訴された人のことをいう。会話とは共通の話を進めることである。推理とはまだわからない事柄をおしはかることである。人狼とは会話と推理の心理ゲームだという。

春の水跳ね肛門に滲み入る  きりばらい

春の水が跳ね肛門に滲み入ったという経験はない。肛門に水が滲み入ることを想像することはできる。だが、春の水であるかないかは解らない。

トルソーの肩出す建国記念の日  きりばらい

トルソーとは頭部や手足を除いた「胴体」をいう。店舗のデスプレイに使われることが多い。建国記念の日に肩を出す必要があった。必然(偶然)である。

沈丁花余つたケーキ往復す  きりばらい

余ったケーキは不要である。テーブルの上を往復する。往復するから不要なのである。往復することにより何かがはじまる。沈丁花の濃すぎる香が窓から入ってくる。

成歩堂の指少し垂れ日永し  きりばらい

成歩堂とは架空のキャラクターとあった。指が少し垂れているのは、成歩堂であるためのかたちなのかも知れない。

義理チョコに開けた跡ある参観日  きりばらい

人として守るべき正しい道筋や道理のことを義理という。人として守るべき正しい道筋や道理のことをチョコレートという。あらゆるものに正しい道筋や道理がある。開けた跡があることに何の不思議もない。参観日とは学校等の活動を保護者に見てもらう日のことである。

制服に吸血鬼だつた春埃  きりばらい

制服は吸血鬼である。春埃は吸血鬼である。人は吸血鬼である。春埃とは春風に舞い上がった塵のことである。

日の闌けて花びら怠き菖蒲かな  依光陽子

盛りの時期を迎える。盛りの時期は過ぎでしまった。からだが怠い。真昼の水辺である。菖蒲が咲いている。

見ることは読むこと夏至の日の蝶よ  依光陽子

俯瞰して見ている。一字一句を熟視するのではない。全体を掴もうとしている。夏至の日にまぎれこんできた蝶である。

夏雲雀四つ葉を探す目で空を  依光陽子

夏雲雀である。四つ葉のクローバーを探している。それを探すためには目が必要である。空には四つ葉のクローバーが隠れている。

夏の雨きのふの声の未だある  依光陽子

自然に生きていきたい。余計なことは言うべきではない。夏の雨をながめている。後悔が残る。後悔とは生きている時間に比例して増えていくものである。仕方がないと思う。

昼顔よ真鍮の鳥啼くまいよ  依光陽子

真鍮の鳥は鳴かない。昼顔も鳴かない。真鍮とは銅と亜鉛の合金である。亜鉛の割合が二十%以上のものをいう。合金とは金属に他の金属などを混ぜ合わせて作った鳥のことである。

柴又はとうすみも川音もなく  依光陽子

柴又は雑踏であった。柴又帝釈天、矢切の渡しなど、昭和の古い町並み、下町情緒の残っているところである。

誰の母か昼顔は空向いて咲く  依光陽子

たくさんの母がいる。誰が誰の母なのか解らない。朝顔ではない。夕顔でもない。昼顔である。空を向いて咲いている。

画の奥に耳を澄ますや光の夏  依光陽子

絵画は視覚で楽しむものではない。絵画は耳を澄ませて聴くものなのである。俳句は読むものではない。少し離れて眺めるものなのである。光の夏が存在している。

Tシャツにアイロン蟻の背ナに翅  依光陽子

Tシャツにアイロンをかける。アイロンとは衣類のしわを伸ばしたり折り目をつけたりする道具である。翅のある蟻を見つけたらシロアリの駆除のことを考えなくてはいけない。

その人の書く字を愛し蟻の国  依光陽子

署名をする。疲れていた。なぐり書きで済ませた。しっかりと書けばよかったと思う。字は愛されなければならない。愛されない字は悲しい。

バンガロー初めて話すことありぬ  百瀬一兎

Stargazerとは天文学者、占星術者のこととあった。ロケーションが変わる。キャンプの夜である。非日常である。何かが変わる気配がする。何もかもが揃っている。

籐椅子の籐の突き出て旅の夜  百瀬一兎

どの部分が出ているのかわからない。籐椅子である。旅の夜である。思い出である。

御守りの紐の長すぎ黒ビール  百瀬一兎

長すぎてもいけない。短すぎてもいけない。御守りの紐はちょうどでなくてはならない。冷えた黒ビールは美味しくなくてはならない。

日盛やアンスリウムの地平線  百瀬一兎

全体に毒性を持つ。自然毒である。毒とは「生命活動に害や不都合をあたえる。量や使い方によっては薬にもなる。比喩として、人の悪意、嫉妬、狂気」とあった。花言葉は「殺して欲しい」である。日盛である。地平線まで続く。

爪切りにあてがふ指や旱星  百瀬一兎

夜に爪を切ると不幸になる。手の指を足の指にあてがうのである。あてがうとは添え当てることである。

香水の霧噴きだして火のかたち  百瀬一兎

火のかたちである。香水を細かい粒子に変える。霧のように吹きかける。火は気体ではない。火とは科学反応の起きている状態をいう。

太陽がダチュラを釁るらしきかな  百瀬一兎

この植物も毒を持つ。アンスリウムといい、ダチュラといい「毒」に興味がある。
釁るとは「新しく作った武器に生贄の血を塗る。清めたり魂を入れたりする。刀などで人を傷つけて血に染める」とあった。そんな気を人に起こさせるのは決まって太陽なのである。

夏深しおほかみ真似る読み聞かせ  百瀬一兎

絵本を読んでいる。その役になりきって読んでいる。子どもたちは身を乗り出して聞いている。夏も終わりのひとときである。

飴色に透けて蠅取リボンの螺  百瀬一兎

見たままの蠅取りリボンである。飴色のねばねばした粘着剤を塗った紙が天井から下りている。昭和の夏の風物詩である。殺虫剤は使わない。

星降る夜冷やし中華に噎せてゐる  百瀬一兎

冷やし中華に噎せている。星降る夜である。豪華な冷やし中華ではない。インスタントの冷やし中華である。麺とスープと粗末な具材。そのスープに噎せている。


■きりばらい 愛日 10句 ≫読む 第983号・2026-02-22

■依光陽子 同一 10句 ≫読む 第1003号 2026年7月12日 

■百瀬一兎 Stargazer 10句 ≫読む 第1005号 2026年7月26日


2026-02-01

瀬戸正洋【週俳6月7月8月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅹ

 【週俳6月7月8月の俳句を読む】

サングラスと珈琲Ⅹ

瀬戸正洋


退職とは職を辞すこと。定年とは退職する決まりの年齢。諦念とは道理を悟ること、あきらめの境地。依願とは本人から願い出ること。胃癌とは病名。退色とは色褪せること。退職することには変わりはない。

田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く  ミテイナリコ

レールを敷くとは、道筋をつけること、手はずをととのえること。その前に、「タノシクナイカ」とひとりごとをいう。

腹空かすハイビスカスを誑かす  ミテイナリコ

誑かすとは、欺く、惑わすこと。腹空「かす」ハイビス「カス」誑「かす」の「かす」に誑かされる。

草生える大草原不可避の歌碑  ミテイナリコ

不可避とは避けられないこと。歌碑とは歌や詩を刻んだ石碑。文学的な功績を歌碑にする。無意味なことだと思う。草の生え続ける大草原であること。それに勝るものはない。

ハルを売り紅花さ買う握手会  ミテイナリコ

握手会をする。不愉快になる。ハルを売る。紅花を買う。不愉快になる。何かをすると不愉快になる。

サフランの卵管千切れ腐爛孵卵  ミテイナリコ

サフランの卵管をずたずたにする。腐り爛れた卵である。まっとうなサフランに近づいたのかも知れない。

うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア  ミテイナリコ

「シネ」ラリアから「殺すぞ!」になり「殺すぞ!」から「うるせえなババア!」になった。ババアは本当にうるさかったのだろう。

情状酌量の石楠花背負い投げ  ミテイナリコ

情状酌量とは、様々な理由により刑罰を軽減することとあった。その理由が石楠花である。背負い投げとはナンセンスである。俳句とはナンセンスなものなのかも知れない。

伸びな病み気で気を病んで五月病み  ミテイナリコ

成長が鈍化している。気が気を病んでいる。病むことは幸いである。幸いであるとは生きることである。五月病であるから生きる勇気が湧いてくる。

尨犬の浮腫みて無口雪を欺く  ミテイナリコ

「ムク」イヌノ 「ムク」ミ 「ムク」チ ユキヲアザ「ムク」。尨犬とは「長い毛がふさふさと生えている犬」。浮腫むとは「皮下組織余分な水がたまった状態」。欺く(アザムク)とは「偽りだます」こと。生きていくためには、浮腫み無口で欺かなければならないのかも知れない。

向日葵の悪阻御代わり種変わり  ミテイナリコ

ヒマ「ワリ」ノ ツ「ワリ」 オカ「ワリ」 タネガ「ワリ」。悪阻とは妊娠時の食欲不振や吐き気。御代りとは遊里で馴染が不在とき代りに呼ぶ遊女のこと。種替わりとは父親が異なる兄弟姉妹のこと。向日葵は咲いている。

姿見に映らぬ武闘水馬(あめんぼう)  彌榮浩樹

姿見とは全身を映す鏡である。誰もが誰か(何か)と闘っている。知られないことは幸いである。生きるとはめんどくさいこと。水馬は水面を滑るように移動する。

駒鳥や麺麭(パン)を数ふるだけの唄  彌榮浩樹

駒鳥は麺麭(パン)を数えるために鳴いている。ひとは麺麭(パン)を数えるために唄っている。

セロニアス・モンクの螢袋かな  彌榮浩樹

セロニアス・モンクは、西暦1917年ノース・カロライナ州生まれのジャズピアニストである。蛍袋の中にはピアノがある。ながめている。どこからともなく奇妙な音色が聴こえる。

蜜豆を混ぜて鳥葬日和とも  彌榮浩樹

「蜜」と「豆」とを混ぜる。混ぜるとはいっしょにすることである。日和とはひかりと風とをほどよく混ぜることである。

黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか  彌榮浩樹

下くちびるがしゃくれているのは捕食の効率化のためである。不要なものは退化する。

最後まで読めばSF梅雨茸  彌榮浩樹

わからないことはいくらでもある。終わってはじめて気づくこともある。梅雨茸はSFである。怪しいことからは逃げるに越したことはない。

鉛筆で描いて青唐辛子の絵  彌榮浩樹

消しゴムで修正はできる。便利なものである。唐辛子を描くのではない。青唐辛子を描くのである。

印度式計算術を瓜の花  彌榮浩樹

印度式計算である。しかも「術」とダメを押す。しかも「を」で切ってある。瓜の花がある。

さざなみの昼の胡瓜のスープかな  彌榮浩樹

さざなみの立つほどの出来事である。スープである。胡瓜のスープである。とある日の出来事である。

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)の間(はざま)蟻地獄  彌榮浩樹

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)とは蟻地獄のことである。うすばかげろうの幼虫はすり鉢状の穴を巣としている。穴に落ちた蟻は這い出すことができない。体液を吸い取られてしまう。

唐黍の花かきわけて水平線  押見げばげば 

唐黍畑である。花を左右へとかきわける。海からの風はおもたい。水平線を見ることができる。

愛国心みづやうかんの匙に棘  押見げばげば 

微妙なバランスである。あまい水羊羹を食べた。くちびるに痛みを感じた。愛国心とは、匙のうえの気づかない棘のようなものなのかも知れない。

梯梧落ちて白き睡魔となりにけり  押見げばげば

落ちたのは葉である。落ちたのは花である。「落」「白」の文字は、睡魔を呼ぶのにふさわしいような気がする。
 
草合歓の共感性に触れてより  押見げばげば 

草合歓へのリスペクトである。考えることは無駄である。共感性に触れる。共感性が揺れる。誰とも触れることなく生きていければいいと思う。

蝉暮れて燃えのこりなき手紙かな  押見げばげば 

手紙は燃え尽きた。意思は何の迷いもなく結果となる。何ら感情をはさむ余地もない。夕ぐれである。蝉が鳴いている。

ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者  押見げばげば 

睫毛のためだけに「ゆふがほ」は咲いている。睫毛は目を守るためのものである。死者の目を守る。生者の目を守る。故に、濡れていなくてはならない。

爪切ればさびし阿蘭陀獅子頭  押見げばげば 

何から何まで派手である。派手なものはとかくさびしい。派手でなければ静かに暮らすことができたものを。飛び散った爪の欠片のような人生である。それで十分だと思う。

優曇華の影に眩暈を得たりけり  押見げばげば

眩暈を覚えたのである。優曇華の影が眩暈を連れてきたのである。影とは光のことである。光とは影のことである。

にんげんの真中つめたし鰻切る  押見げばげば 

冷淡である。温情がない。にんげんとはそんなものである。切った鰻のことなど何も考えてはいない。

前髪を焦がして夏を惜しみけり  押見げばげば

喜ぶこと。悲しむこと。悩むこと。寂しいこと。夏を惜しむこと。絶望であること。希望を持つこと。前髪を焦がすこと。そのとき、何もかもがはじまる。

落丁に似たる病歴春の闇  細川洋子

健康である。不健康である。どちらであっても人である。落丁とはページが抜け落ちていること。不完全であっても役には立っている。薄墨のながれているような春の夜である。

枝切りの音の木霊や聖五月  細川洋子

木霊とは樹木に宿る精霊、山や谷で音が反響する現象、とあった。剪定鋏で小枝を切る。はずんだ音がする。新緑が目に眩しい。

そこかしこ風の衣擦れ牡丹園  細川洋子

そこかしこから小さな風が立ちあがる。牡丹園である。衣擦れとは裾などが擦れあうこと、またはその音とあった。

捩花の左巻きとは男前  細川洋子

容姿、態度の立派な男である。男前を演じるのは辛いことだ。捩花に左巻きがあるのかどうかは知らない。

脈拍の豊かに打てり夏の星  細川洋子

涼を求めて星をながめている。脈拍を自覚する。血液は豊かに流れている。生きていることを全身で感じる。

炎昼のトロンボーンの乱反射  細川洋子

トロンボーンは鏡ではない。ものやかたちをうつすものでもない。正反射とは不自然である。人がそこにいるから乱反射となる。人は余計なことばかりするものである。

打水の水は風の穂光の穂  細川洋子

水は地面には届いていない。だから風の穂、光の穂なのである。地に落ちた水は、あっというまに、そこにあるものに紛れ込んでしまう。

書を曝す父の色覚検査本  細川洋子

父の「色覚検査本」を曝す。日差しを浴びた書物は美しい。手ずれのあとが残っている。父との思い出に浸っている。

先づ父へ捧ぐる一書夜の秋  細川洋子

父へ捧げるのである。はじめて書いたものなのかも知れない。そのときの苦労がよみがえってくる。夜になると暑さもやわらぎ秋の気配を感じる。

神域の森の洗礼夕ひぐらし  細川洋子

キリスト教の信者となるための儀式である。夕がたの神域の森のひぐらしに全身全霊で応える。


■ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
■彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
■押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
■細川洋子 夜の秋 10句 ≫読む 第954号 2025年8月3日

2025-06-15

瀬戸正洋【週俳3月4月5月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅸ

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅸ

瀬戸正洋


◆巣箱

甘海老を殻より抜きて春の山  松田晴貴

殻は剥くものか抜くものか知らない。殻がついているのだから新鮮な甘海老なのだと思う。あたたかな春の日を浴びて山も海も生気に満ちている。

鞦韆をかけて昔の木となりぬ  同

木の枝にロープを二本垂らす。台座を置く。そこに座り前後に漕ぐ。昔のことがよみがえる。何もかもが幼い日の風景となる。

狛犬の筋目あかるし春落葉  同

獅子に似た想像上の動物である。一対の神獣両方を指して狛犬と呼ばれる。狛犬は寺社だけを守るものではない。春落葉とは晩春、常緑樹から落ちた葉のことである。

浮くやうな凭れるやうな巣箱かな  同

巣箱は不安定なものである。巣箱は頼りないものである。ひとの目線で置かれたからである。世のなか、このようなことが多すぎる気がする。他人のことを思いやる。

足跡とサーフィン摺つてゆく跡と  同

足跡は砂浜に残る。サーフボードを摺った跡は砂浜に残る。サーフィンとはサーフボードで波のうえを滑る動きのことである。跡とはものごとが行われたことを思い出すためのものである。

気兼ねなく水打つてゐる男かな  同

無心に水を打っている。不愉快なことだらけの世の中である。こんな日がたまにあってもいい。

藻の花や日影日向とくりかへし  同

揺れ動いている。くり返すことが人生である。日影と日向は伸びたり縮んだりしている。太陽にまかせておけばいいのである。

雪の下午前いつぱい手紙書き  同

しっくりといかない。文字が汚い。誤字を見つける。破り捨てる。便箋一冊を使い切ってしまう。手紙とは、そのようにして仕上げるものである。雪の下とはちいさく白く群がって咲く花である。

腕の毛のかがやいてゐる砧かな  同

細かいところまでは見ない。老眼になることは幸いである。砧を打つひと。砧を打つ腕。そこまで見ることができれば十分なのだと思う。

鳰のまたあつまつてきし浮御堂  同

集ったり離れたりしている。鳰に浮御堂はにあう。離合集散、ひとに限らず鳰に限らず。万物にとっての日常なのである。


◆ゆらめくようにだめなとこ

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお

ゆらめくとはゆらゆらとゆれることである。だめなことをすることは精神衛生に有益である。自己破壊衝動は誰にでもある。

ゆがみちらほらかえって痛々しい春の連取  同

歪みとは外圧時に生じる変形である。結果はどうであっても無理をしてはいけない。歪むことは悪いことではない。

空き地でかたるねねどこ再び翅まみれ  同

翅まみれは御免である。身のまわりは清潔にしておきたい。空き地とは利用目的がなく放置された土地のことである。

しっぱい、でした◦・*:かたくりの花籠にゆれ  同

「◦・*:」とある。理由は。反省している。照れている。日常である。非日常である。「しっぱい、でした」という。かたくりの花が籠にゆれている。

もっと来ないでね王子 五月のびる群送りながら  同

「もっと」「来ないでね」「王子」「五月の」「びる群」。送るもの。送られるもの。もっととは量や程度を増す際に用いる。特別なことなどどこにもない。

しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵  同

楽をした。もうけた。ふるくなった。傷んでいる。梅雨である。けがれている。煩わしい。こんな世の中で生きている。

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ  同

抉るには比喩的な心理的な物理的な意がある。炎昼、円柱、宴中、園中等々。よくわからない。何も望んではいけない。

だいぶ難あり銀河こそこそ描写して  同

かなり難がある。隠れてする必要はない。銀河とは、星やガスや塵などが重力であつまった天体である。描写とは、あるがままのすがたを描きだすことである。

つゆしぐれ 鋒ずっとかりものの  同

思い入れはない。興味があったのではない。買えばよかった。鋒のまわりはしぐれている。鋒とは刃物の先端のことである。不要であるが必要なときは突然にやってくる。

あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない  同

ためらっている。言ってみてもしかたがない。初雪を見ている。あのねとは、話しかけるとき相手の注意をひくことばである。またはつなぎ言葉として使われたりもする。


◆ハプスブルク家の春

ふるえるか。書けば春夜の水面あり  超文学宣言

吹きさらしである。軽薄である。文字をしるすと春の夜の水面があらわれる。水面にはさざなみが立っている。

劇のまなかをしろい灯火ら萌えてゆく  同

何かがはじまる予兆がある。それを劇という。劇とは激しくはなはだしいものである。しろい灯火らしきものを確認する。

ステンドグラスを割りうみを漏らすな  同

色硝子を組み合わせて描く。割るのである。割ったあとうみを漏らしてはならない。

ゆるやかに回転しつつ庭が咲く  同

回転しているのは時間である。庭に咲いているのは時代である。庭とは領土のことである。

チューリップ持ち雑踏のトラムぬけ  同

チューリップを持つひとがいる。日常ではない。非日常でもない。雑踏のなかをトラムがぬけていく。

遠くよばれて離宮の門が灼ける  同

離宮とは、皇居や王宮とは別に造られた宮殿や別荘のことをいう。居住、避暑、避寒、静養、接待会合等のために使われる。主従関係がある。敵味方が入り乱れる。離宮の門が灼けたのである。血なまぐささを感じる。

うつむけばペルソナに木の洞うかぶ  同

ペルソナとは仮面のことである。ペルソナとは外的側面、内側に潜む自分とある。木の洞とは隠れる場所である。弱いから強いふりをする。自信なさげにうつむく。そのくり返しである。仮面をつけ微妙なバランスのなかを生きる。

宙に吊るひとつの逆説の運河(だ)  同

逆説の反対は、整合性、順接、直説とある。整合性とはものごとに矛盾がなく調和のとれていることとあった。運河とは、人工的な水路のことである。目的はかたちにしておかなくてはならない。世のなかは矛盾に満ちあふれている。

エジプトがくらがりを来てさえずっている  同

やかましくしゃべることを蔑んでいる。ひかりがとどかない場所から来たのである。しかたがないと思っている。純潔には意義がある。ないなどとも思ったりしている。

回転扉よりおもむろに日浴びする  同

静かにゆっくりと日浴びする。静かにゆっくりと回転扉を通り抜ける。日浴びをしなくてはならないということではない。

臉をうつ硬水育ちらしく風  同

瞼をうつとは瞼を閉じるということである。硬水育ちがあれば軟水育ちもある。何を育てるのかということだ。風が立ったりしている。

炉の影が雫の中をたぶらかす  同

巧みな言葉や行動がある。影とは光が当たることによってできる形である。影はたぶらかすことができる。無形や非形がたぶらかすのである。炉とは燃えつづけさせるための道具である。

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  同

堕ちるとは、落下する、失敗する、上から下へ移動する、とある。そんな時でも「Grüß Gott, Grüß Gott」という。ひたきは堕ちたのである。

高木の口語に風の拍がする

拍とは、手のひらを打ち合わせる、うちたたく、ひょうしをとるとある。手は風を立たせる。風の拍がするのは高木の口語だからなのである。

みず巡る接吻もみずあさくあり  同

巡るとは、回ってもとにもどる、取り囲むとある。みづとは水素と酸素の化合物である。無味、無臭、無色、透明である。いわゆるひとにとって必要なみづは、地球全体の0.01%程度でしかないとあった。

接吻とは愛情、尊敬、挨拶などを表す行為である。ふかいよりもあさい方がいい。身の安全を守るためにはその方がいいのである。

合図なくたおれて鹿は孕んでいた  同

合図などろくなものではない。くらしに合図など不要なものである。ながれるままでいいのである。どこでたおれるのかわからない。鹿が孕んでいたことなど誰も知らない。

玉ねぎ焦がしてきっととりのゆめだ  同

フライパンに油をひいて玉ねぎをおく。玉ねぎはしなり尻に焦げ目がつく。とりのゆめとはしなった玉ねぎのことなのである。

天球を腹に匿い泳ぎだす  同

海を匿うことは不可能である。それでも匿っているような錯覚におちいることはある。波は静かである。一面の青空とひとつの太陽。天球を腹に匿い泳ぎはじめる。

ふらん、せ、得、ずに野を遊ぶ有神論  同

「ふらん、せ、得、ず」とは、物質のことである。あまくしたにとろける物質である。有神論とは、あまくしたにとろけるものなのかも知れない。神の存在を肯定する立場である。無神論の対義語である。

造形を馬二匹駆け微風あり  同

様々なものを媒介とする。形あるものを作りだす。「馬二匹駆け」「微風あり」とは、目の前のできごとをことばにしたものである。


◆夏の詰合せ

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

同じカロリーのもので調整する。炊飯器が壊れたこととは関係がない。体重の維持は難しい。過食はいけない。拒食もいけない。

あぢさゐや子を通訳に保護者会  同

通訳は必要である。世代や国が同じでも必要である。たいした案件でなくても必要である。保護者会には雨が似合う。あぢさゐにも雨が似合う。

白鷺を中心点に風立ちぬ  同

風が立つとは風が吹くことである。白鷺は飛び立ったのである。白鷺をまんなかとして風が吹きはじめたのである。

カルピスの薄めの実家青田波  同

微妙な加減が必要である。濃すぎるといけない。薄すぎるとさびしい。庭の先には青田がひろがっている。青々と育った稲の葉が風になびいている。

掛軸を退かせば穴や蚊遣香  同

蚊遣香の役割はひとつである。掛け軸にはもうひとつの役割があった。掛け軸を入れ替える度に思い出す。

月涼し言葉を文字にして記す  同

ことばを文字にしてみる。話した内容のうすっぺらさを感じる。文字にしても変わらないことばを発したい。夜更けの月のひかりには涼しさを感じる。

いい距離の同居でゐたし黄薔薇咲く  同

老妻と暮らしている。この暮らしが最良だと思う。子どもが孫をつれて遊びに来る。憂鬱になる。不快になる。何もしない静かな一日が続くことを願う。

健康であることに感謝している。このバランスが崩れると「いい距離の」同居について考えることになる。

成長曲線を飛び出す跣の子  同

成長曲線、飛び出す、跣の子、なんと逞しい言葉だ。幸せな気持ちになる。幸せな気持ちになることが不安になる。それほど年老いてしまったのだと思う。

夏の詰合せ余つたのを貰ふ  同

詰合せには、箱、かご、包装紙、余計なものばかりである。

誰もが不要と思うものでいい。余ったと思うものでいい。判断を信用してはいけない。自分の判断ほどあてにならないものはない。余ったと思うもので十分だと思う。

何者か閉ぢ込められてゐるゼリー  同

部屋に閉じ込められる。容器にゼリーを流しこむ。身動きがとれなくなる。ゼリーも同じ運命である。何者とは自分自身のことなのである。


◆とは

日の色の春のふすまや目の当り  上田信治

当るには、対象があてはまる、ぶっかる、影響を受ける、あるいは、触れたときの感じ、強い力が及ぶとあった。目の前に日の色の春のふすまがある。

タッパーの蕗味噌四角くて天地  同

畦に蕗はいくらでもあった。最近はほとんど見かけない。刈払機で雑草もろとも刈ってしまったからなのかも知れない。四角いタッパーに蕗味噌をたっぷりと入れる。天地とは、全世界ということである。

流連の命預けて雲丹の鮨  同

流連の命とは大げさである。雲丹がかすんでしまう。新鮮な雲丹は美しい。新鮮な鮨は美しい。遊興にふけっているひとは美しい。もとの場所、もとの状態にもどることは難しい。

濡れてゐて考へ顔のあざらしよ  同

考えている自分がいる。あざらしがいる。あざらしも考えているような顔に見える。濡れているとなおさらである。

干し網のむかう三月晴れてゐる  同

干し網の向うは三月である。干し網のこちらも三月である。干し網の向うは晴れている。干し網のこちらも晴れている。不思議なことだと思う。

散る花のパジャマの下が干してある  同

上が干してない理由を考える。男ものなのか女ものなのか。そんなことも考えてみる。来年の花は見ることができるのかなどと考えてみる。

花烏賊のみなとに雲の多かりし  同

桜の咲くころの烏賊を花烏賊という。ひとの身勝手である。烏賊にとっては迷惑なはなしである。みなとに雲が多い。それは雲の抗いなのかも知れない。

花かつお人生は春ひらひらと  同

時間が若者と同じように残っている。春になると老人はそう錯覚する。季節がそうさせるのである。人生の春とは戻ることである。

薄く削れば万能である。ひらひらとはかるくひるがえるように動くさまのことをいう。ひらひらと生きていきたいと思っている。

はまぐりや夜開いてゐる喫茶店  同

怪しい喫茶店である。はまぐりやとしたことで、さらに怪しさがました。はまぐりのにおいがする。醤油のにおいがする。油のにおいがする。不気味な喫茶店である。

パン工場消えてもぬけの春の空  同

春の空にパン工場はある。パン工場は存在している。ただ、パンを焼く道具がない。小麦粉、酵母、塩などもない。

富士山もいそぎんちやくも穴開いて  同

穴とは開けたり掘ったりしたくぼみのことである。開くとは場所や物事が通り抜けられる状態のことをいう。心や時間に余裕があることもいう。富士山もいそぎんちやくも穴が開いている。困ったことだと思っている。不安なことだと思っている。

海苔の海だれも見てゐない昼の  同

見ていないのは海苔の海だけではない。だれもが何も見ていないのである。もちろん昼に限ったことではない。四六時中、だれもが何も見ていないのである。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

晴れた日には菠薐草を食べてはいけない。曇りの日にも菠薐草を食べてはいけない。菠薐草を食べていいのは雨のあとだけなのである。菠薐草のソティー、菠薐草のお浸し。だれもが雨のあとに菠薐草を食べている。

会館に昔の松や雲に鳥  同

抗っている松である。故に「昔の」なのである。抗うことは無駄な努力ではない。それでも、そんな努力は疲れる。そう思うと悲しくなる。

春になると鳥は北方に帰っていく。自然なことである。不自然なことである。会館とは松のある建物のことである。

日永とは鯉一つゐる町の川  同

日永とは「鯉のゐない」町の川。日永とは「鯉一つゐる」町の川。日永とは「鯉二つゐる」町の川。日永とは「鯉・・・・」町の川。鯉がゐなければ何もはじまらない。「とは」とは連語である。着目する事物を提示するために使われる。


■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日

■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日

■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日

■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日

■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日

2025-02-16

瀬戸正洋【週俳1月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅷ

【週俳1月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅷ

瀬戸正洋


寒林に肩甲骨をほどき合ふ  西生ゆかり

寒林と対峙している。肩甲骨は固く結ばれている。束縛されることは疲れる。ほどき合ってみる。精神と肉体。筋肉、関節、血液などのバランスが整いはじめる。

寒林を抜けて演技の小部屋まで  西生ゆかり

小部屋での演技。寒林を抜けなくてはならない。見物人のまえで芝居をする。演技とはくらしのなかで自分を見せることである。

枯葉踏む三角形の音立てて  西生ゆかり

三つの冬木の根元に直線を引く。三角形になる。三角形の枯葉を踏む。めぐりめぐって三角形の音になる。

小指もて冬のまぶたにすつと銀  西生ゆかり

まぶたとは眼球を覆う器官である。眼球の保護、光量の調整などをおこなう。そこへ小指の先ですつと銀の線をいれる。

踊り子の臍に光るや冬の星  西生ゆかり

踊る。臍を出している。通りにはひとであふれている。空気は澄んでいる。さえざえとした満天の星空である。

一月の舞台に汗と投げテープ  西生ゆかり

汗は確信。投げテープは称賛。一月の舞台は歓声。自己満足だけで十分なのである。他にはなにもいらない。

花は山茶花まなざしは眼をあふれ  西生ゆかり

目だけにとどまらない。山茶花だけにとどまらない。あふれることははじまりの一歩である。あふれることは幸いである。

山茶花は散る君だけが君を抱く  西生ゆかり

よくあることである。理由を考えてみる。山茶花とは君のことである。山茶花の散る季節である。

喉奥に未遂の咳や終電車  西生ゆかり

犯罪への着手。外的な障害により未完成だった。意志により犯罪を止めることにした。これを未遂という。対義語は既遂である。咳のはなしにしては大げさである。終電車は未遂の温床であるのかも知れない。

凍空や口を逃れし煙の香  西生ゆかり

煙の香を捕まえることはできなかった。不快である。あまりに寒かった。口をおおきく開くことができなかった。

カメラロールのほぼ花ふぶきあとはあなた  知念ひなた

あなたのことしか考えない。花ふぶきのなかにあなたがいる。あなたがいるから花ふぶきが存在している。あなたがいるから私が存在している。

逆光の卒業写真落花踏む  知念ひなた

何十回もシャツターを押す。そのなかからいちまいを選ぶ。逆光でしか撮るチャンスがなかった。承知でシャツターを押した。花ふぶきのなかの卒業である。

あおぞらにまみれたがって風車  知念ひなた

風車がまわっているのは風が吹いているからではない。風車がまわっているのはあおぞらにまみれたがったからではない。

タイムマシンのない町に風車からから  知念ひなた

タイムマシンは現存する。雑踏の中には未来人であふれている。タイムマシンのない町といっているのは現代人だけである。からからと風車はまわっている。

夜の海は少し光るよ風車  知念ひなた

海は光っている。反射して光っていることもある。夜の海が少しひかっているのは風車がまわっているからである。

アザレアのしなびるパドックを見てた  知念ひなた

生気は衰えた。みずみずしさは消えた。枯れたアザレアである。パドックとは小さな放牧場のことである。

ばあちゃんのコップ花柄夏はじまる  知念ひなた

遠い過去の思い出である。夏がやってくる。季節の変わり目である。ばあちゃんのコップは花柄である。

自転車に轢かれたひまわりがきれい  知念ひなた

ひまわりは道端に落ちていた。自転車で轢いた。そのまま行ってしまった。花束のなかのひまわりが気になる。

さざなみにプールの壁が剥がれて浮く  知念ひなた

プールは何十年も存在していた。さざなみがプールの側面を剥がす。こころにちいさな動揺がうまれる。

檸檬水くちびるが皮膚めいて来る  知念ひなた

檸檬水にはビタミンCやクエン酸などの栄養素がふくまれている。知識が檸檬水を飲んだ時そんな気にさせた。

フードコート海の見えない席につく  知念ひなた

海の見える開放的な席は不可。壁を前にしたうす暗い席は可。食べるすがたは誰にも見られたくない。

ゆうぐれが都市に馴染んで暑い社旗  知念ひなた

サントリーオールドの「夜が来る」のコマーシャルを思い出す。カラオケで唄っていたころのことを思い出す。軽いはなしではない。「暑い社旗」なのである。もっともっと働かなくてはならない。

ずぶ濡れの犬がいっぴき花木槿  知念ひなた

木槿は庭木や生垣として植えられている。すぶ濡れの犬とはのら犬のことなのかも知れない。最近、のら犬は見かけない。世のなかがよくなったのか悪くなったのかはわからない。

踏んだものはたぶん花火の屑だった  知念ひなた

急いでいた。よけることができなかった。振り向いて確認すればよかった。それもしなかった。屑だからではない。とにもかくにも急いでいた。

瓶詰めの果肉きよらか秋の声  知念ひなた

瓶詰の果肉はどろどろしている。どろどろしたものもまとわりついている。物音がさやかに聞こえる季節である。果肉も驚いたにちがいない。

生命しんどい冬のはじめの風車  知念ひなた

季節の変わり目である。こころもからだも乱れる。寒くなる季節はとくに乱れる。風車もしんどいに違いない。それでも風車はまわっている。

湯たんぽが湯たんぽ型の痣になる  知念ひなた

湯たんぽに湯を入れてねむる。肌にゆたんぽ型のあざができていた。それを「湯たんぽが湯たんぽ型の痣になる」としてみた。

憂国忌クリームパンが生ぬるい  知念ひなた

生ぬるいとは中途半端のことである。熱いクリームパンよりも、冷たいクリームパンよりも生あたたかいクリームパンの方が旨い。それがジレンマなのである。憂国忌とは三島由紀夫の忌日である。

記憶より明るい書店日記買う  知念ひなた

薄暗いのは古書店。明るいのは書店。夏の終わりのころ。書店には来年の手帳、日記が並びはじめる。

ぼたん雪ロボットに支配されたい  知念ひなた

支配されたい。頭のバネが外れる。思わず言ってしまった。ぼたん雪が降っている。 

日替わりで家族の顔が点滅す  暮田真名

父を相手にする。母を相手にする。誰を相手にするのかその日に決める。顔の点滅で決める。点滅しないことを願っている。必ず誰かが点滅している。

隠された上履きだから言えること  暮田真名

上履きを隠された。好きだからなのかも知れない。嫌いだからなのかも知れない。どちらにしても上履きがなくては困る。

重箱に意中の人がいないんだ  暮田真名

そんなものである。重箱に限らず意中の人がいることの方が珍しい。すこしでもましなものを選択していくことになる。

モテ期かどうか相撲で決める  暮田真名

こんなこと決めてもしかたのないのである。何で決めようとどうでもいいことである。相撲で決める。あまり興味がなかったということなのかも知れない。

白衣では伝わることも伝わらない  暮田真名

白衣とは制服である。制服とは仮面をつけることである。仮面をつけることとは演じることである。演じるとは伝えることである。演じるとは自己を隠すことである。

悪意があればチュウしたものを  暮田真名

善意によるチュウなどないのかも知れない。悪意によるチュウは世のなかにあふれている。悪意によるチュウは有用である。

濡れた手で就業規則さわっちゃった  暮田真名

引っ張り出して確認する。社労士に聞いてみる。弁護士にも聞いてみる。濡れた手でさわったことを咎められている。

物陰で前撮りしたよなつかしい  暮田真名

なつかしさについてはよくわからない。写される側は承知していない。ひさびさの出会いである。気取りのない表情を撮りたかった。二度と会うことはない。

子猫ちゃんたち地鳴りはやめて  暮田真名

地面の振動は空気に伝わり音となる。地鳴りである。数匹の子猫がじゃれ合っている。その状況をおおげさに描写してみたのである。

ネーミングセンス光って、帰らなきゃ  暮田真名

特性や魅力を的確に捉える。創造的で印象的な名称を考える。満足したから帰るのである。


■西生ゆかり 室内楽 10句 ≫読む 第926号 2025年1月19日

■知念ひなた 風の街を住む 20句 ≫読む 第926号 2025年1月19日

■暮田真名 芋づる式 10句 ≫読む 第927号 2025年1月26日


2025-01-26

瀬戸正洋【週俳10月11月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅶ

【週俳10月11月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅶ

瀬戸正洋


 これは、明確な弔辞である
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい けふを鶴の忌とする  垂水文弥

壁がある。壁は弔辞である。霊前で、ごめんなさいを三度繰り返す。それも弔辞である。鶴の忌である。そのあと五十の塔がつづく。

春着でもつて包丁投げ合つて笑ふ  垂水文弥

年のはじめの衣服。包丁を投げ合う。笑い合ったのではない。笑うのである。笑われてはいない。

葱買うて振りて少女の真白き夢  垂水文弥

現実であるか否かがわからない。困っている。不安なのである。買った葱を振ってみたりもする。少女の真白き夢のはなしである。

汽車は雪永劫母を持た不るゆゑ  垂水文弥

ことばをながめていてもよくわからない。それでもながめていなくはならない。文字のない時代からの言い伝えである。文字がなくてもことばをながめることはできる。汽車、雪、永劫、母。「持た不る」、気を取り直しながめることになった。

水仙や日の厳を鳥死ぬまで航け  垂水文弥

「日の巌」である。願いなのかも知れない。命令なのかも知れない。水仙への餞なのかも知れない。鳥への餞なのかも知れない。

汝に汝のにほひよ汝の春の雪  垂水文弥

にほひを美、魅力、気品とするとつまらなくなる。にほひを不快さといったような負のものに置き換えてみる。春の雪は歪みはじめてくる。

春は葬(とむらひ)のseason! 激昂の亀と踊ろ  垂水文弥

葬のseason!。春としたことで亀は激昂した。踊ることとは平凡な暮しへと引き戻すための手段である。

ゆきやなぎからはじまつてゐるこども  垂水文弥

こどももおとなもとしよりもゆきやなぎである。何ごとにもはじまりがあるとすることは誤りである。ましてはこどもからはじまるなどということはあるはずがない。

春の海力士のにほひしてゐたる  垂水文弥

春の海の匂いは知らない。力士の匂いも知らない。取組前に顔やからだを拭く色とりどりの濡れているタオル。そんなものを思いうかべたりしている。

喉潰したら風船になる約束  垂水文弥

約束は自分とするものである。他人とするものではない。喉を潰すとは声の出ない状態になっていることである。いつのまにか風船は見えなくなっていってしまった。

松公と叫びて松を伐りにけり  垂水文弥

親しかったから叫んだ。松公を伐る(殺す)のである。そうでなくては伐ることはできなかった。狂わなければ伐ることなどできるわけがない。

福楞察の川をさんぐわつびとの名に  垂水文弥

福楞察とはイタリア中部のトスカーナ州の都市の名である。「花の都」「芸術の都」とも呼ばれている。福という文字は三月にふさわしいのかも知れない。

春も人参ホラー映画で盛り上がる  垂水文弥

人参はいつでも収穫できる。春でなくても収穫できる。ホラー映画である必要はない。盛り上がる必要もない。

進級してゆく眼(まなこ)の海を搔き出して  垂水文弥

眼(まなこ)の海を掻き出す。進級とは次の学年に進むことである。級、段位が上がることである。おめでたいはなしである。

酔神父すこし歌ひぬ花林檎  垂水文弥

林檎ではない。花林檎である。神父である。気楽に歌うことはできない。酒に酔わなくてはならない。歌に酔わなくてはならない。自分に酔わなくてはならない。

野遊の上等兵と呼ばれけり  垂水文弥

暮らしのなかのできごとである。上等兵と書いてみる。気易く書いてみる。気易くなくては疲れる。気易ければいいということでもない。

ゆふぐれの海市はためきゐやまずを  垂水文弥

気温に差があるからではない。大気の密度が一定だからではない。光の屈折が原因だからでもない。ゆふぐれであるからなのかも知れない。不安であるからなのかも知れない。

くらければ昏いランプの中を見る  垂水文弥

覚悟を決めることが肝心である。それがはじまりの一歩だ。昏いランプに火を投げ込む。ただそれだけでいいのである。

全身が鎖骨で風鈴売になる  垂水文弥

全身が鎖骨でなければ風鈴売になることはできない。よくよく考えてみればあたりまえのことなのである。

あぢさゐととても謝りつつ思ふ  垂水文弥

あぢさゐが咲いている。心は穏やかである。あやまることは無限にある。あやまる方法も無限にある。

わたくしはくちなはのくちびる あなたは?  垂水文弥

山村暮しである。くちなはは嫌いだ。嫌いと念じているから滅多にお目にかからない。意志をもつことは大切なことである。嫌いなものに会うことは不快なことである。

王様は女王様に似て涼し  垂水文弥

王様は住む世界がちがう。女王様も住む世界がちがう。王様と女王様が似ているのは当然のことである。涼しいことは幸せなことではない。

もはや昆布刈ですよね違つたらウケる  垂水文弥

異なることは愉快である。同じことは不快である。如何ともしがたく不快である。追いつめられているのかも知れない。

茄子は或る日の腕(かひな)ひらがなめくふたり  垂水文弥

茄子は腕(かひな)である。ひらがなになったふたりである。決してひらがなになりたかった訳ではない。

我が名は麦死にえいゑんの馬を走らす  垂水文弥

えいゑんであることは錯覚である。えいゑんの時間へと馬を走らすことは錯覚である。自覚していればいい。ただそれだけのことである。

昼寝子にgood byeといふ寝言二度  垂水文弥

寝言による会話である。二度の会話である。昼寝のときの会話である。昼寝には会話はつきものである。

夏ゆふぐれ飛行機売となりにけり  垂水文弥

飛行機を売りに歩いている。夏のゆうぐれである。売れそうな気がしない訳でもない。今日こそは売ってやろうなどと思っている。

わたくしの生前よりの蚯蚓かな  垂水文弥

生前は蚯蚓である。生前はひとである。その前はなんであったのかは忘れてしまった。

背泳にぎりしあびとのきたりけり  垂水文弥

そらをながめながら泳いでいる。しずかないちにちである。どこの国のひとが来てもかまわない。ぎりしあのひとでなくてもかまわない。

蛇征ケル時一片ノ炎(ほ)モ不許  垂水文弥

勇ましいはなしである。迷惑なはなしでもある。許さないといわれてもしかたのないことだ。困ることではない。そんなことはいくらでもある。

これは恋シャワーの中のまるごとが  垂水文弥

恋とはそんなものなのかも知れない。シャワーとはそんなものなのかも知れない。精神のはなしではない。肉体のはなしでもない。

母ゆゑに氷室に母を連れてきし  垂水文弥

氷室とは冷温貯蔵庫である。母とはやさしくてあたたかい存在ではないのかも知れない。

ゐる姉と秋の螢を見に来たり  垂水文弥

そこにいなければ見に行くことはない。そこにいなければ何もはじまらない。一瞬のうちに何もかもを決めることは難しい。

雨すてふ町より来しと云ひをどる  垂水文弥

「雨」「すてふ」「町」「より」「来しと」「云ひ」「をどる」。すべてのものがゆれ動いているようである。

踊りけりあなたの彗星となつて  垂水文弥

あなたは困っている。彗星となって踊ることに困っている。故に踊っているのである。

休暇明スパムスパムと三人来  垂水文弥

ひとは嫌いである。ひとりでいることが好きだ。休暇明けだからといって耐える必要はない。三人も来られたらたまったものではない。

生前の台風の眼で吐きにけり  垂水文弥

吐くことは快楽である。死んだ台風がうようよといる。死んでいるのだから眼は閉じている。眼の閉じている台風は吐くことはできない。困った。

蛇穴に入るブラウスを買うて来よ  垂水文弥

ブラウスを買う。必要であるから買う。それでも、できるだけ先延ばしにしたい。珈琲代を確保するために余計な金は使いたくはない。蛇は嫌いである。巳年であっても「蛇穴に入る」についてはノーコメントとしたい。

秋の風鈴吊つて本屋はうつくしいぞ  垂水文弥

風鈴の吊ってある本屋は美しい。確かにそう思う。本屋へは行かない。年金暮しになるとノーキョーの通帳の残高が気になる。残高は減る一方なのである。

僕ら惑星万の鶏頭が身の裡  垂水文弥

惑星である。鶏頭である。惑星とは太陽をまわる天体である。まるい形をした圧倒的な天体である。

夜食人法(ふらん)を数へゐたるかな  垂水文弥

貨幣は法である。法律、てだて、方法等々。数えることとは生きるための知恵なのである。

煙草てふさびしき塔を持ちあるく  垂水文弥

人差し指と中指にはさめば塔になる。それに火をつければ間違いはない。塔になれない煙草を持ち歩く。それはさびしいことである。

木のバット鉄のバットよ火恋し  垂水文弥

木製のバット。金属製のバット。短い秋は通り過ぎていく。火が恋しくなる季節である。

神いくらか我にちかづき眠るかな  垂水文弥

ちかづいたなどと思うことは間違いなのである。神であってもひとであっても間違いなのである。知覚は千差万別である。眠ってしまうに限るのである。

冬がくるおほきな顎をたづさへて  垂水文弥

季節とはひとのことである。冬とはひとのことである。おおきな顎をたづさえてひとはくる。あたりまえのことなのである。

落葉して山羊の喧嘩を父と見る  垂水文弥

喧嘩はひとりで見るものである。ましてや父と見るものではない。ましてや落葉の季節に見るものではない。

家の中に雪ふる桂信子の忌  垂水文弥

雪はどこにでも降る。亜米利加にも雪は降る。阿弗利加にも雪は降る。欧羅巴にも雪は降る。家の中にも雪は降る。桂信子の忌でも雪は降る。

何にあこがれ少年はきつねをころす  垂水文弥

現在(ここ)から離れたい。それがあこがれである。ものごとに心を奪われうわの空になる。これもあこがれである。少年はきつねにあこがれた。故にきつねをころしたのである。正しいことなのかも知れない。

アルバムの七曲目くらゐの雪が  垂水文弥

アルバムの一曲目からが雪なのである。すべての曲が雪なのである。そのなかの七曲目くらいの雪ということなのである。

凍蝶の国と数へきれない扉の家族  垂水文弥

ひととひととの間には数えきれないほどの扉がある。まして家族なのである。凍蝶なのである。動くことはない。ひとも家族も蝶も国も動くことはない。扉のなかでじっとしている。

抱きしめに来いよ水仙のくせしてなんだよ  垂水文弥

欲しがらないに限る。ことばは欲しないに限る。ひとに対して失礼である。水仙に対して失礼である。

 そして産声
われらみなしごすすめ誰が忌かもわからず  垂水文弥

弔辞の壁からはじまり産声の壁で終る。五十の塔である。みなしごはすすむ。誰が忌かもわからぬままにすすむ。

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春やうつりにけりな腕(かひな)の刺青(たとぅー)のlife  関灯之介

いのち、ひと、くらし、生、春。視線、こころは定まらない。腕(かひな)には刺青(たとぅー)。

街はジャズ何処へ帰るも星が要る  関灯之介

ジャズの語源はフランス語の“JASER”(元気をつける)とあった。ひとが居場所を決めるのには星が必要である。

木仏の手粗々と夜を束ねたる  関灯之介

木仏とは木で作った仏像のこと。融通のきかないひと、情に動かされないひとのたとえもある。粗々と夜を束ねる。生きていくためには粗々さは必要である。

夢に汝と我はらからに食(くら)ひあふ  関灯之介

夢のはなしである。たがいにものを食う。たがいの領域を侵す。母を同じくするものをはらからという。国を同じくするものをはらからという。

飛花落花ばらばらの木乃伊を思へ  関灯之介

花は散る。散るとは離れ離れになることである。さくらの古木。正しく木乃伊なのである。

浜は伽藍のしづけさにして陽炎へる  関灯之介

海岸や湖岸に沿った平らな砂地のことを浜という。伽藍とは僧侶が集まり修行をする場である。ひろい室内の何もない様子をいうこともある。陽炎とはひかりの屈折率の変化でおこる現象である。

波を打つ舳先どんどろどんどろろ  関灯之介

波に打たれるのではない。波を打つのである。「どんどろどんどろろ」囃すことは餞になっている。

千の繭浮かぶ蔟(まぶし)の格子中  関灯之介

蔟(まぶし)とは蚕が繭をかけやすいようにとつくった道具である。蚕にとってありがた迷惑なことなのかも知れない。

飛礫(つぶて)うちたる夏空をしばし見つ  関灯之介

誰かが誰かのために飛礫(つぶて)を打つ。それだけのことである。故に、夏空をしばし見たのである。

丸むればほとぼる背(せな)や羽化はいま  関灯之介

羽化の途中、うすみどりいろの幼虫、熱を感じた。夏休みの自由研究で取り上げることも多い。教師は、二、三人をひとつのグループとして発表させたりしていた。教師も苦労していたのだろう。

われらの夢を集めし塔のうすけむり  関灯之介

夢を集めたものが塔である。塔からはうすけむりがあがっている。うすけむりとはひとつの成果なのかも知れない。

虹の巨人は脛ばかり見せくるよ  関灯之介

虹とは脛のことである。七色の虹とは七色の脛のことである。脛とは巨人のことである。

玻璃窓に我その奥の窓にも我  関灯之介

玻璃窓は鏡。その奥の窓は鏡。玻璃窓に映っているのは私ではない私。玻璃とは硝子のことである。我とは一人称のことである。

停電の夜の鏡へ顔を寄す  関灯之介

闇のなかでは自分の顔が見たくなる。自分を知りたくなる。自分の顔を見ることは不可能である。自分の顔が見えたと思わせる鏡。それはまやかしの道具である。

うすばかげろふghostと言ふときの息  関灯之介

うすばかげろうもghostである。アリジゴクもghostである。息もghostである。

手は供花(くげ)のごと死にがほへ押し寄せぬ  関灯之介

死に顔にふれることは嫌いだ。薄情なのかも知れない。妻や子や孫よりもはやく死ねば、その思いは遂げられる。死に顔にふれることなく死にたいと思う。

鹿の皮被りて鹿の姿なす  関灯之介

これは生き方である。皮を被っていればそれでいいのである。本心を隠し通せればそれに越したことはない。誰も知りたがりはしない。

鬼迫り来芒薙ぎ倒し薙ぎ倒し  関灯之介

鬼も苦労している。ゆっくりと歩いて来る訳はいかない。鬼らしく来なくてはならない。芒をなぎ倒すことで鬼であることを演じている。

酔(ゑ)うて拾ふ石を冷やさぬやう胸に  関灯之介

酔って拾う石(意志)はホンモノである。大切にしなくてはいけない。冷さぬように胸であたためておかなくてはならない。

夢の塔より貝殻を盗みきし  関灯之介

貝殻を盗むことは犯罪である。夢の塔からであっても犯罪である。ただ、それが犯罪であるかどうかは紙一重のことである。

夕は沖より訪ねくるもの鈴の音と  関灯之介

夕は沖よりやってくる。夕は自分のことがよくわからない。故に、鈴の音に付きそわれながら沖よりやってくる。

街灯のごとき体で生れけり  関灯之介

街灯とは道路灯のことである。そのような体で生まれたことは運命である。運命とは身にめぐってくる吉凶禍福のこと。あまんじて受け止めなくてはならない。

襖絵の鶴と歩めば眠くなる  関灯之介

いつのまにか鶴になってしまった。それではまずいと思い鶴を忘れてみる。襖絵に没頭することは間違いであることに気づく。

ひらがなを含んで愛しあひませう  関灯之介

愛とはひらがなのことである。愛は口のなかで育んでいかなくてはならない。飲みこんではいけない。口に含んだあとゆっくりと育んでいかなくてはならない。

死のことを浴槽に湯をはりながら  関灯之介

なるべくなら忘れていたい。それでも考えなくてはならない。浴槽に湯をはりながら考える。日常のなかで死について考える。

冬薔薇鏡の中の遠き部屋  関灯之介

鏡の中にはいくつもの部屋がある。冬薔薇を置いたことで遠近感が生まれる。過去と現在と未来という時間が確認できる。そのはるか遠くに自分がいる。

敏雄忌や帆柱がいま納屋の梁  関灯之介

納屋には過去が置いてある。納屋の梁は帆柱である。見せるものではない。極めて個人的なものである。敏雄忌は俳人三橋敏雄の忌日である。

連山を灰吹かれきし氷かな  関灯之介

連山を、灰吹かれきし、氷かな。ことばのとおりである。実景を見たのではない。見たいと思った風景なのかも知れない。ただ、それをことばとして書き連ねてみたかったのである。

河は母語わが後方へ流れけり  関灯之介

河は母語である。河は前方へ流れていく。河は後方へ流れていく。そのうち河は動かなくなる。

橋よわれはゆるされずして写真に笑む  関灯之介

知られてはならないことがある。それを写真に撮られてしまった。一瞬の虚をつかれてしまった。笑うとは誤魔化すことである。橋とは障害を越えるためのものである。

●

ピントが合わないことをピンボケという。パンフォーカスは不自然である。呆けることは生きていくためには必要なことなのかも知れない。

ピンボケは涙のようで豊の秋  三宅桃子

なみだが焦点をずらす。なみだをながすと何故か落ちつく。ストレスは解消される。秋とは呆ける季節なのかも知れない。豊作であるとひとはおだやかに呆けたりもする。

つくつくし紙人形の溶けたあと  三宅桃子

紙人形は溶けることで厄を落とす。そのあとのことは誰も知らない。厄を落とせばそれでいいからである。つくつくしは忙しく鳴いている。ひとは日常に戻っていく。

紙コップの紙の香強き秋燕  三宅桃子

無味無臭でありたい。余計な感情をあたえたくない。紙コップの強き香は不快なものである。燕は南の地へと帰っていく。

どんぐりの小さくなって石の墓  三宅桃子

石の墓にどんぐりを供える。どんぐりは小さくなったり大きくなったりする。秋の太陽は沈みはじめている。

父斜めに写りて犬の墓を指す  三宅桃子

父は犬の墓を指差している。父は正常である。斜めとは犬の意志である。季節感を消した作品。これも犬の意志である。

翌日は草乾くように鹿の立つ  三宅桃子

乾いた草である。鹿は草が乾くことを知っている。明日はいいことがある。そう思って立っている。

白鳥や時計あつめて時こわす  三宅桃子

未来へとひたすらに時は流れる。当着点は死である。時計をあつめたところで何もはじまらない。白鳥もひともなすすべがない。ただ気づかないふりをしている。それを幸福という。

くつしたの裏を表にする花野  三宅桃子

裏を表にするのである。もとにもどすのではない。強引にするのかも知れない。何となくするのかも知れない。わからないようにするのかも知れない。野には秋の花が咲き乱れている。

息白く糸を漏らさず立っており  三宅桃子

息は白い。糸は漏れてはいない。ひとが立っている。それだけのことである。ただ、「糸が漏れる」についてはゆっくりとながめてみることにする。

三角に響いておりしふゆの星  三宅桃子

角が三つある。音や振動が遠くまで伝わる。冬の星が三角に響き合っている。どこへも行くあてはない。


■垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち 52句 ≫読む 第912号

■関灯之介 橋 30句 ≫読む 第914号

■三宅桃子 溶けたあと 10句 ≫読む 第915号

2024-11-17

瀬戸正洋【週俳9月10月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅵ

【週俳9月10月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅵ

瀬戸正洋


星飛んでうすき傷ある銀の匙  村上瑠璃甫

誰もが傷ついている。傷には思い出がある。思い出には濃淡がある。見あげるとながれ星。銀の匙を見つめる。

朝顔に猫の尾ちよつと触れてゆく  村上瑠璃甫

「ちよつと」に魅かれた。軽い気持ちで行われるさまとあった。たいした生き方はしていない。猫の尾が朝顔に触れるのである。ちよつと触れるのである。そんな暮しにあこがれている。

いますこしままこのしりぬぐひをみる  村上瑠璃甫

いま少し見るのである。継子の尻拭いを見るのである。何故見るのかは知らない。生きるとは、ままこのしりぬぐひをみることなのかも知れない。

なにかもの言ひだしさうな真葛原  村上瑠璃甫

余計なことをいうのではないかと怯えている。何かのはずみでいわなくてもいいことをいってしまう。葛の葉が眼に沁みる。

蜻蛉の風に凭れてゐたりけり  村上瑠璃甫

蜻蛉の風に凭れている。蜻蛉の風がどんな風なのかは知らない。蜻蛉の風に凭れたいと思ったりもしている。

イーゼルの脚の展がり野分晴  村上瑠璃甫

珈琲店である。扉のまえにはイーゼルが置かれている。イーゼルにはメニューが書かれている。野分の去ったあと珈琲の香が漂っている。

秋繭のたゆたふほどの恋であり  村上瑠璃甫

恋とはたゆたうものなのかも知れない。ゆらゆらとゆれ動くから恋なのかも知れない。

腥き辞書の匂ひも無月かな  村上瑠璃甫

辞書とは腥いものである。辞書とは俗なものである。辞書には打算や利害がうず巻いている。辞書からは悪臭がする。無月である。

大学に忘れものして草虱  村上瑠璃甫

そんな気がしているだけのことである。忘れものが何であるのかは理解していない。忘れものとは草虱のことなのかも知れない。気付かずに生きていければそれにこしたことはない。

しん/\と菊人形の肩に水  村上瑠璃甫

菊人形の肩である。肩に水だからしん/\となのである。江戸川乱歩、横溝正史の作品を思い出したりしている。

火焔土器に蛍が一つ付いた  マブソン青眼

一匹でもない。一頭でもない。一つである。蛍とは螢のことである。火焔土器とは火焔土器のことである。蛍が一つ付いたのである。蛍が決めたことなのである。

此岸彼岸半狼半蛍(はんろうはんけい)火焔  マブソン青眼

此岸彼岸なので半狼半蛍(はんろうはんけい)である。火焔はひとつである。どちらにもなければならないものなのである。

陽が射せば鵠(くぐい)の影ぞ狼  マブソン青眼

霊魂のことを影という。ひかりを遮って反対側にできる黒い像のことを影という。鵠(くぐい)の影である。陽が射さなければ何ごともはじまらない。真昼の狼である。

飛び立てば火焔型なり鵠  マブソン青眼

飛び立っている。燃えさかっている。鵠は古代人を見ている。鵠は現代人を見ている。

火焔土器の鶏冠(とり)啼き魚(うお)は泪  マブソン青眼

芭蕉は変(現代的)な俳句を作った。時代はさかのぼる。古代にも別れはある。生きるとは耐えることなのである。

魔物死んで天使も死んで焚火  マブソン青眼

魔物は死んだのである。天使は死ななければならない。焚火は癒してくれる。魔物と天使とはおなじものである。

焚火跡踏めば浅間のけむり  マブソン青眼

焚火とは浅間山のことである。踏むとは生きることである。浅間山は白い噴煙をあげている。

不死鳥を踊らせて土器吹雪く  マブソン青眼

炎に飛び込むのである。よみがえるのである。永遠を生きるのである。土器とは煮炊きをするためのものである。雪が降っている。強い風が吹いている。

残酷なほど輝くや氷柱  マブソン青眼

生きるとは残酷なことである。たまに理性が現れる。微妙なバランスである。それでいいのだと思っている。ある日そんな暮らしを思い出すのである。氷柱は雫となり流れはじめる。

逆さなる火焔(どき)に凍土と死児と  マブソン青眼

死の順番が逆である。児のかたわらに火焔(どき)を置く。火焔(どき)を置いたことは偶然である。まいねん、凍土を見るたびにその児のことを思い出す。

ワッフルに足すシロップと秋日差  月野ぽぽな

足りないのである。足すのである。申し訳なさそうに足すのである。足すものはシロップと秋日差である。ワッフルとはワッフルのことなのである。

人声の途絶えて秋の薔薇匂う  月野ぽぽな

途絶えるのである。途絶えるのはひとの声である。気付いたのである。気付いたものは秋の薔薇の匂いである。聴覚から臭覚へと動いている。

鶏頭花ざわめく鋏入れるとき  月野ぽぽな

鋏を入れる。何もかもがざわめく。鋏を入れるとはおだやかな表現である。ことばとは現実をオブラートにつつむようなものなのかも知れない。

白菊の白に屈めば街消える  月野ぽぽな

ちょつとしたことで、ものごとは大きく変わる。異なったものが見えてくる。街を消し去ってしまうのである。屈むとはからだを低くすることである。白菊が咲いている。白菊の白さが気になっている。

遥かなるものに従い鳥渡る  月野ぽぽな

遥かなるものだから従うのである。決めたことに従うのはしかたがないと思う。眼の前にあることを決めるのは難しい。先延ばしにしたくなる。

流れゆく釣瓶落しの人くるま  月野ぽぽな

人生は流れていくものである。流れると決めたのは釣瓶落しである。流れることは疲れる。流れにのることはさらに疲れる。

長き夜の高きを灯し機体ゆく  月野ぽぽな

夜の長さが身にしみる。搭乗中である。身も心も不安定である。理解するために灯すのである。理解してもらうために灯すのである。

月あかりシナゴーグにもモスクにも  月野ぽぽな

こころが歪むと判断も歪む。ひとは幸福でなければならない。影にも限界がある。月あかりにも限界がある。それでも、月あかりを頼らなくてはならない。

てのひらが脈打っている銀河かな  月野ぽぽな

手の甲が脈打っている。てのひらが脈打っている。てのひらは天空にひろがる。銀河とはながれる血液のことである。

秋気澄むピアノのピアノピアニシモ  月野ぽぽな

ビアニシモということば(記号)には魅かれる。強いものは必ず滅びる。なるべくなら弱く流れていきたい。冷ややかに澄んでいる。秋である。


■村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日

■マブソン青眼   火焔土器に蛍(五七三)10句 ≫読む 第909号 2024年9月22日
■月野ぽぽな ピアニシモ 10句 ≫読む 第911号 2024年10月6日

2024-11-10

西原天気【句集を読む】悪徳への所作 瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その7

【句集を読む】
悪徳への所作
瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その7

西原天気



花より団子悪徳商法かも知れぬ  瀬戸正洋

この句の可笑しみについて説明するのも野暮だけれど、「悪徳商法かも知れぬ」とひとりごつこの人に、「いや、それ、絶対、悪徳商法だから!」と一瞬で反応できる/したい、読者の心の動きは、やはりあって、ひっかかちゃう寸前か、すでにひっかかっちゃったかしたであろうこの人の面持ちやら挙措やらが、全体として、可笑しい。可笑しいなんて言っちゃいけないのだけれど、やはり可笑しい。

してみると、商売人の詐術によってもたらされた悲劇を、ことばの詐術で喜劇に換えるのが、俳人のひとつの仕事であるかもしれない。

だなんて。

《花より団子》は、どうだろう? この《花》は桜とは解せないので無季。なんだけれど、この箇所は季語がくることが多い。。《大寒や見舞にゆけば死んでをり 高浜虚子》も、《大寒》であって「花より団子」とはしない。

改悪例だが〈強東風や悪徳商法かも知れぬ〉やら〈亀鳴くは悪徳商法かも知れぬ〉やらも、選択肢としてないわけではないが、《花より団子》。

このへんの作者の理路やら心の機微を、例えば、この成句の意味するところに忠実に、風流より実利を重んじた結果、悪徳商法にひっかかっちゃったと嚙み砕いても、あまり愉しくない。作者の内部の秘儀として、季語ではなく《花より団子》が置かれた、つまり、なんでこうなのかはわからない、こうなのだからこうなのだ、と、読者として分際をわきまえておくほうが、愉しい。

ところで、悪徳商法について知りたいと思ったら、警察のウェブサイトが手助けになるようです(≫悪質商法の種類:千葉県警察)。いやはやじつにいろんな商法があって、掲句が〈花〉なら、このウェブ情報が〈団子〉です。

余談の極みですが、誰もがそうであるように、私にも過去、何度か悪徳商法のアプローチがありました。ひとつは学生の頃、下宿に、「消防署のほうから来た」と言って消火器のセールス。はっきりした金額は忘れたけど、消火器1本にたいそうな値段でした。このときもし私が完全に騙されて購入の意思を固めたとしても、オカネがないので、買えない。しかたがって被害には合わない。オカネがないって最強だな、と、当時、また子どもだった私は思いました。

(つづく)

瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』2024年3月/新潮社

2024-11-03

【句集を読む】季語の宛先 瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その6 西原天気

【句集を読む】

季語の宛先
瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その6

西原天気


瀬戸正洋の句には、「がんばってつくった」感がない。そこがいい。

それは例えば、

グルコサミンコンドロイチン余寒かな  瀬戸正洋

デルモンテトマトケチャップこどもの日  同

など、音数たっぷり・字数たっぷりのカタカナ語に季語をくっつけた「だけ」の句にも言えて、そこには、苦労して絞り出した感じもなければ、俳人さんがたまに言う「降りてきた」感じもない。言ってしまえば、安易。

安易がいい。安易、最高。

不真面目と、あえて断じてもいいかもしれない。

不真面目がいい(ただし、不真面目があざとく前面に出てしまうタイプの句ではない。本人が本気なのかそうでないのかわからないところが、瀬戸正洋句の魅力だろう)。不真面目、最高。

もちろん、がんばってつくるのもいいのだけれど(つくる人の勝手だ)、読者たる私は、そういう句を読むと、たびたび息が詰まるし、窮屈を感じる。肩の力ぬいたほうがいいですよ、と言いたくなる句がたくさんある。

ま、それはそれとして、12音かそれに近いカタカナ語や商品名を見つけたら、安易に句にしてみる手はある、それがそのまま瀬戸正洋的に仕上がるかどうかは別にして。

 はつふゆのヘリコバクターピロリかな 10key

あ、それと、カタカナというだけで忌み嫌い、怒り出す人もいるかもしれません。そういう人がいそうな句会には、こういう句をどんどん出すといいです。人生には刺激も必要です。

(つづく)

瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』2024年3月/新潮社

2024-10-27

西原天気【句集を読む】余計なもの 瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その5

【句集を読む】
余計なもの
瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その5

西原天気


ようやく、ほんとうにようやく、暑くない日が増えてきました。それはつまり、冷奴から湯豆腐へ。豆腐の更衣です。


冷奴余計なものがうへにたつぷり  瀬戸正洋

私などは、冷奴に載せる薬味が愉しくて、生姜やらかつぶしやらすり胡麻やら茗荷やら葱やら、果てはいわゆる食べるラー油やら、いろんなものをたっぷり載せて食しているので、この句を読むと、自分の欲深さ・低俗さが恥ずかしくなります。

余計なものを載せずに、あるいは載せても最小限に。そういう人間になりたいと、思ったことでした。

(つづく)

瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』2024年3月/新潮社