【週俳6月7月8月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅹ
瀬戸正洋
退職とは職を辞すこと。定年とは退職する決まりの年齢。諦念とは道理を悟ること、あきらめの境地。依願とは本人から願い出ること。胃癌とは病名。退色とは色褪せること。退職することには変わりはない。
田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く ミテイナリコ
レールを敷くとは、道筋をつけること、手はずをととのえること。その前に、「タノシクナイカ」とひとりごとをいう。
腹空かすハイビスカスを誑かす ミテイナリコ
誑かすとは、欺く、惑わすこと。腹空「かす」ハイビス「カス」誑「かす」の「かす」に誑かされる。
草生える大草原不可避の歌碑 ミテイナリコ
不可避とは避けられないこと。歌碑とは歌や詩を刻んだ石碑。文学的な功績を歌碑にする。無意味なことだと思う。草の生え続ける大草原であること。それに勝るものはない。
ハルを売り紅花さ買う握手会 ミテイナリコ
握手会をする。不愉快になる。ハルを売る。紅花を買う。不愉快になる。何かをすると不愉快になる。
サフランの卵管千切れ腐爛孵卵 ミテイナリコ
サフランの卵管をずたずたにする。腐り爛れた卵である。まっとうなサフランに近づいたのかも知れない。
うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア ミテイナリコ
「シネ」ラリアから「殺すぞ!」になり「殺すぞ!」から「うるせえなババア!」になった。ババアは本当にうるさかったのだろう。
情状酌量の石楠花背負い投げ ミテイナリコ
情状酌量とは、様々な理由により刑罰を軽減することとあった。その理由が石楠花である。背負い投げとはナンセンスである。俳句とはナンセンスなものなのかも知れない。
伸びな病み気で気を病んで五月病み ミテイナリコ
成長が鈍化している。気が気を病んでいる。病むことは幸いである。幸いであるとは生きることである。五月病であるから生きる勇気が湧いてくる。
尨犬の浮腫みて無口雪を欺く ミテイナリコ
「ムク」イヌノ 「ムク」ミ 「ムク」チ ユキヲアザ「ムク」。尨犬とは「長い毛がふさふさと生えている犬」。浮腫むとは「皮下組織余分な水がたまった状態」。欺く(アザムク)とは「偽りだます」こと。生きていくためには、浮腫み無口で欺かなければならないのかも知れない。
向日葵の悪阻御代わり種変わり ミテイナリコ
ヒマ「ワリ」ノ ツ「ワリ」 オカ「ワリ」 タネガ「ワリ」。悪阻とは妊娠時の食欲不振や吐き気。御代りとは遊里で馴染が不在とき代りに呼ぶ遊女のこと。種替わりとは父親が異なる兄弟姉妹のこと。向日葵は咲いている。
姿見に映らぬ武闘水馬(あめんぼう) 彌榮浩樹
姿見とは全身を映す鏡である。誰もが誰か(何か)と闘っている。知られないことは幸いである。生きるとはめんどくさいこと。水馬は水面を滑るように移動する。
駒鳥や麺麭(パン)を数ふるだけの唄 彌榮浩樹
駒鳥は麺麭(パン)を数えるために鳴いている。ひとは麺麭(パン)を数えるために唄っている。
セロニアス・モンクの螢袋かな 彌榮浩樹
セロニアス・モンクは、西暦1917年ノース・カロライナ州生まれのジャズピアニストである。蛍袋の中にはピアノがある。ながめている。どこからともなく奇妙な音色が聴こえる。
蜜豆を混ぜて鳥葬日和とも 彌榮浩樹
「蜜」と「豆」とを混ぜる。混ぜるとはいっしょにすることである。日和とはひかりと風とをほどよく混ぜることである。
黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか 彌榮浩樹
下くちびるがしゃくれているのは捕食の効率化のためである。不要なものは退化する。
最後まで読めばSF梅雨茸 彌榮浩樹
わからないことはいくらでもある。終わってはじめて気づくこともある。梅雨茸はSFである。怪しいことからは逃げるに越したことはない。
鉛筆で描いて青唐辛子の絵 彌榮浩樹
消しゴムで修正はできる。便利なものである。唐辛子を描くのではない。青唐辛子を描くのである。
印度式計算術を瓜の花 彌榮浩樹
印度式計算である。しかも「術」とダメを押す。しかも「を」で切ってある。瓜の花がある。
さざなみの昼の胡瓜のスープかな 彌榮浩樹
さざなみの立つほどの出来事である。スープである。胡瓜のスープである。とある日の出来事である。
禿頭(とくとう)と禿(かむろ)の間(はざま)蟻地獄 彌榮浩樹
禿頭(とくとう)と禿(かむろ)とは蟻地獄のことである。うすばかげろうの幼虫はすり鉢状の穴を巣としている。穴に落ちた蟻は這い出すことができない。体液を吸い取られてしまう。
唐黍の花かきわけて水平線 押見げばげば
唐黍畑である。花を左右へとかきわける。海からの風はおもたい。水平線を見ることができる。
愛国心みづやうかんの匙に棘 押見げばげば
微妙なバランスである。あまい水羊羹を食べた。くちびるに痛みを感じた。愛国心とは、匙のうえの気づかない棘のようなものなのかも知れない。
梯梧落ちて白き睡魔となりにけり 押見げばげば
落ちたのは葉である。落ちたのは花である。「落」「白」の文字は、睡魔を呼ぶのにふさわしいような気がする。
草合歓の共感性に触れてより 押見げばげば
草合歓へのリスペクトである。考えることは無駄である。共感性に触れる。共感性が揺れる。誰とも触れることなく生きていければいいと思う。
蝉暮れて燃えのこりなき手紙かな 押見げばげば
手紙は燃え尽きた。意思は何の迷いもなく結果となる。何ら感情をはさむ余地もない。夕ぐれである。蝉が鳴いている。
ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者 押見げばげば
睫毛のためだけに「ゆふがほ」は咲いている。睫毛は目を守るためのものである。死者の目を守る。生者の目を守る。故に、濡れていなくてはならない。
爪切ればさびし阿蘭陀獅子頭 押見げばげば
何から何まで派手である。派手なものはとかくさびしい。派手でなければ静かに暮らすことができたものを。飛び散った爪の欠片のような人生である。それで十分だと思う。
優曇華の影に眩暈を得たりけり 押見げばげば
眩暈を覚えたのである。優曇華の影が眩暈を連れてきたのである。影とは光のことである。光とは影のことである。
にんげんの真中つめたし鰻切る 押見げばげば
冷淡である。温情がない。にんげんとはそんなものである。切った鰻のことなど何も考えてはいない。
前髪を焦がして夏を惜しみけり 押見げばげば
喜ぶこと。悲しむこと。悩むこと。寂しいこと。夏を惜しむこと。絶望であること。希望を持つこと。前髪を焦がすこと。そのとき、何もかもがはじまる。
落丁に似たる病歴春の闇 細川洋子
健康である。不健康である。どちらであっても人である。落丁とはページが抜け落ちていること。不完全であっても役には立っている。薄墨のながれているような春の夜である。
枝切りの音の木霊や聖五月 細川洋子
木霊とは樹木に宿る精霊、山や谷で音が反響する現象、とあった。剪定鋏で小枝を切る。はずんだ音がする。新緑が目に眩しい。
そこかしこ風の衣擦れ牡丹園 細川洋子
そこかしこから小さな風が立ちあがる。牡丹園である。衣擦れとは裾などが擦れあうこと、またはその音とあった。
捩花の左巻きとは男前 細川洋子
容姿、態度の立派な男である。男前を演じるのは辛いことだ。捩花に左巻きがあるのかどうかは知らない。
脈拍の豊かに打てり夏の星 細川洋子
涼を求めて星をながめている。脈拍を自覚する。血液は豊かに流れている。生きていることを全身で感じる。
炎昼のトロンボーンの乱反射 細川洋子
トロンボーンは鏡ではない。ものやかたちをうつすものでもない。正反射とは不自然である。人がそこにいるから乱反射となる。人は余計なことばかりするものである。
打水の水は風の穂光の穂 細川洋子
水は地面には届いていない。だから風の穂、光の穂なのである。地に落ちた水は、あっというまに、そこにあるものに紛れ込んでしまう。
書を曝す父の色覚検査本 細川洋子
父の「色覚検査本」を曝す。日差しを浴びた書物は美しい。手ずれのあとが残っている。父との思い出に浸っている。
先づ父へ捧ぐる一書夜の秋 細川洋子
父へ捧げるのである。はじめて書いたものなのかも知れない。そのときの苦労がよみがえってくる。夜になると暑さもやわらぎ秋の気配を感じる。
神域の森の洗礼夕ひぐらし 細川洋子
キリスト教の信者となるための儀式である。夕がたの神域の森のひぐらしに全身全霊で応える。
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