2026-02-01

瀬戸正洋【週俳6月7月8月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅹ

 【週俳6月7月8月の俳句を読む】

サングラスと珈琲Ⅹ

瀬戸正洋


退職とは職を辞すこと。定年とは退職する決まりの年齢。諦念とは道理を悟ること、あきらめの境地。依願とは本人から願い出ること。胃癌とは病名。退色とは色褪せること。退職することには変わりはない。

田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く  ミテイナリコ

レールを敷くとは、道筋をつけること、手はずをととのえること。その前に、「タノシクナイカ」とひとりごとをいう。

腹空かすハイビスカスを誑かす  ミテイナリコ

誑かすとは、欺く、惑わすこと。腹空「かす」ハイビス「カス」誑「かす」の「かす」に誑かされる。

草生える大草原不可避の歌碑  ミテイナリコ

不可避とは避けられないこと。歌碑とは歌や詩を刻んだ石碑。文学的な功績を歌碑にする。無意味なことだと思う。草の生え続ける大草原であること。それに勝るものはない。

ハルを売り紅花さ買う握手会  ミテイナリコ

握手会をする。不愉快になる。ハルを売る。紅花を買う。不愉快になる。何かをすると不愉快になる。

サフランの卵管千切れ腐爛孵卵  ミテイナリコ

サフランの卵管をずたずたにする。腐り爛れた卵である。まっとうなサフランに近づいたのかも知れない。

うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア  ミテイナリコ

「シネ」ラリアから「殺すぞ!」になり「殺すぞ!」から「うるせえなババア!」になった。ババアは本当にうるさかったのだろう。

情状酌量の石楠花背負い投げ  ミテイナリコ

情状酌量とは、様々な理由により刑罰を軽減することとあった。その理由が石楠花である。背負い投げとはナンセンスである。俳句とはナンセンスなものなのかも知れない。

伸びな病み気で気を病んで五月病み  ミテイナリコ

成長が鈍化している。気が気を病んでいる。病むことは幸いである。幸いであるとは生きることである。五月病であるから生きる勇気が湧いてくる。

尨犬の浮腫みて無口雪を欺く  ミテイナリコ

「ムク」イヌノ 「ムク」ミ 「ムク」チ ユキヲアザ「ムク」。尨犬とは「長い毛がふさふさと生えている犬」。浮腫むとは「皮下組織余分な水がたまった状態」。欺く(アザムク)とは「偽りだます」こと。生きていくためには、浮腫み無口で欺かなければならないのかも知れない。

向日葵の悪阻御代わり種変わり  ミテイナリコ

ヒマ「ワリ」ノ ツ「ワリ」 オカ「ワリ」 タネガ「ワリ」。悪阻とは妊娠時の食欲不振や吐き気。御代りとは遊里で馴染が不在とき代りに呼ぶ遊女のこと。種替わりとは父親が異なる兄弟姉妹のこと。向日葵は咲いている。

姿見に映らぬ武闘水馬(あめんぼう)  彌榮浩樹

姿見とは全身を映す鏡である。誰もが誰か(何か)と闘っている。知られないことは幸いである。生きるとはめんどくさいこと。水馬は水面を滑るように移動する。

駒鳥や麺麭(パン)を数ふるだけの唄  彌榮浩樹

駒鳥は麺麭(パン)を数えるために鳴いている。ひとは麺麭(パン)を数えるために唄っている。

セロニアス・モンクの螢袋かな  彌榮浩樹

セロニアス・モンクは、西暦1917年ノース・カロライナ州生まれのジャズピアニストである。蛍袋の中にはピアノがある。ながめている。どこからともなく奇妙な音色が聴こえる。

蜜豆を混ぜて鳥葬日和とも  彌榮浩樹

「蜜」と「豆」とを混ぜる。混ぜるとはいっしょにすることである。日和とはひかりと風とをほどよく混ぜることである。

黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか  彌榮浩樹

下くちびるがしゃくれているのは捕食の効率化のためである。不要なものは退化する。

最後まで読めばSF梅雨茸  彌榮浩樹

わからないことはいくらでもある。終わってはじめて気づくこともある。梅雨茸はSFである。怪しいことからは逃げるに越したことはない。

鉛筆で描いて青唐辛子の絵  彌榮浩樹

消しゴムで修正はできる。便利なものである。唐辛子を描くのではない。青唐辛子を描くのである。

印度式計算術を瓜の花  彌榮浩樹

印度式計算である。しかも「術」とダメを押す。しかも「を」で切ってある。瓜の花がある。

さざなみの昼の胡瓜のスープかな  彌榮浩樹

さざなみの立つほどの出来事である。スープである。胡瓜のスープである。とある日の出来事である。

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)の間(はざま)蟻地獄  彌榮浩樹

禿頭(とくとう)と禿(かむろ)とは蟻地獄のことである。うすばかげろうの幼虫はすり鉢状の穴を巣としている。穴に落ちた蟻は這い出すことができない。体液を吸い取られてしまう。

唐黍の花かきわけて水平線  押見げばげば 

唐黍畑である。花を左右へとかきわける。海からの風はおもたい。水平線を見ることができる。

愛国心みづやうかんの匙に棘  押見げばげば 

微妙なバランスである。あまい水羊羹を食べた。くちびるに痛みを感じた。愛国心とは、匙のうえの気づかない棘のようなものなのかも知れない。

梯梧落ちて白き睡魔となりにけり  押見げばげば

落ちたのは葉である。落ちたのは花である。「落」「白」の文字は、睡魔を呼ぶのにふさわしいような気がする。
 
草合歓の共感性に触れてより  押見げばげば 

草合歓へのリスペクトである。考えることは無駄である。共感性に触れる。共感性が揺れる。誰とも触れることなく生きていければいいと思う。

蝉暮れて燃えのこりなき手紙かな  押見げばげば 

手紙は燃え尽きた。意思は何の迷いもなく結果となる。何ら感情をはさむ余地もない。夕ぐれである。蝉が鳴いている。

ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者  押見げばげば 

睫毛のためだけに「ゆふがほ」は咲いている。睫毛は目を守るためのものである。死者の目を守る。生者の目を守る。故に、濡れていなくてはならない。

爪切ればさびし阿蘭陀獅子頭  押見げばげば 

何から何まで派手である。派手なものはとかくさびしい。派手でなければ静かに暮らすことができたものを。飛び散った爪の欠片のような人生である。それで十分だと思う。

優曇華の影に眩暈を得たりけり  押見げばげば

眩暈を覚えたのである。優曇華の影が眩暈を連れてきたのである。影とは光のことである。光とは影のことである。

にんげんの真中つめたし鰻切る  押見げばげば 

冷淡である。温情がない。にんげんとはそんなものである。切った鰻のことなど何も考えてはいない。

前髪を焦がして夏を惜しみけり  押見げばげば

喜ぶこと。悲しむこと。悩むこと。寂しいこと。夏を惜しむこと。絶望であること。希望を持つこと。前髪を焦がすこと。そのとき、何もかもがはじまる。

落丁に似たる病歴春の闇  細川洋子

健康である。不健康である。どちらであっても人である。落丁とはページが抜け落ちていること。不完全であっても役には立っている。薄墨のながれているような春の夜である。

枝切りの音の木霊や聖五月  細川洋子

木霊とは樹木に宿る精霊、山や谷で音が反響する現象、とあった。剪定鋏で小枝を切る。はずんだ音がする。新緑が目に眩しい。

そこかしこ風の衣擦れ牡丹園  細川洋子

そこかしこから小さな風が立ちあがる。牡丹園である。衣擦れとは裾などが擦れあうこと、またはその音とあった。

捩花の左巻きとは男前  細川洋子

容姿、態度の立派な男である。男前を演じるのは辛いことだ。捩花に左巻きがあるのかどうかは知らない。

脈拍の豊かに打てり夏の星  細川洋子

涼を求めて星をながめている。脈拍を自覚する。血液は豊かに流れている。生きていることを全身で感じる。

炎昼のトロンボーンの乱反射  細川洋子

トロンボーンは鏡ではない。ものやかたちをうつすものでもない。正反射とは不自然である。人がそこにいるから乱反射となる。人は余計なことばかりするものである。

打水の水は風の穂光の穂  細川洋子

水は地面には届いていない。だから風の穂、光の穂なのである。地に落ちた水は、あっというまに、そこにあるものに紛れ込んでしまう。

書を曝す父の色覚検査本  細川洋子

父の「色覚検査本」を曝す。日差しを浴びた書物は美しい。手ずれのあとが残っている。父との思い出に浸っている。

先づ父へ捧ぐる一書夜の秋  細川洋子

父へ捧げるのである。はじめて書いたものなのかも知れない。そのときの苦労がよみがえってくる。夜になると暑さもやわらぎ秋の気配を感じる。

神域の森の洗礼夕ひぐらし  細川洋子

キリスト教の信者となるための儀式である。夕がたの神域の森のひぐらしに全身全霊で応える。


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
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