2026-02-01

曾根毅【週俳6月7月8月の俳句を読む】俳句のテクニック

 【週俳6月7月8月の俳句を読む】

俳句のテクニック

曾根 毅


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色

田の詩歌他の詩句無い蟹レール敷く  ミテイナリコ

同音異語のリズムで、その意味を転換させながら、俳句の自由を思わせる句群。例えばこの句は音で「楽しいか、楽しくないかにレール敷く」と受け取れます。次に漢字の意味で捉えると、季語を主とした田園風景、素朴な生活に準じた自然情緒を題材とするような、ステレオタイプな俳句のイメージ。一つ一つの作品は創造性をもっていても、振り返って俯瞰して見た時に敷かれたレールの上を行っているというような画一的に見える作家態度への疑念。「楽しいか」を「田の詩歌」、「楽しくないか」を「他の詩句無いか」に変換し、二つの意味を当の俳句のリズムで提示することで、二重というか二乗くらいのメッセージにする面白いテクニック。楽しい仲間との切磋琢磨も良いですが、蟹が我が身を守るための固い甲羅を背負い、前を向きながら横歩きしているような滑稽な姿に見えるということもあるでしょう。ちょっと過激な作品ですが、詩に対する姿勢、誠実で孤独な思いを感じました。

サフランの卵管千切れ腐爛孵卵  ミテイナリコ

サフランはクロッカスの一種のめしべを乾燥させ、エキゾチックな香りと鮮やかな黄色が特徴の最高級スパイス。腐爛は組織や物体が腐って崩れ落ちる状態。孵卵は鳥類などの卵を適温・適湿で温め、人工的または自然に孵化させること。それに加えて、もしかすると「Francfranc」が関係しているのでは。フランは、「正直な」「自由な」といった意味のフランス語。それをリズムよく重ねた「Francfranc」は、現在多数の商業施設に出店している人気の家具インテリアグッズ店の名称。様々な趣向に応じた、明るく豊かな生活提案がコンセプトの楽しいお店です。一方でこの句には少子化などの社会問題も内包されているように思いますし、一連の作品群から、俳句は和歌に詠まないことを詠んできた俳の自由な文学であることなど、問題意識が感じられ、鋭い問いを突き付けていると思いました。


彌榮浩樹 小屋へ

黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか  彌榮浩樹

以前、波多野爽波の「掛稲のすぐそこにある湯呑かな」について、彌榮さんとご一緒した勉強会で様々な鑑賞解釈が交わされたことを思い出しました。稲掛と湯呑、ひいてはそれらにかかわる人の存在など、それぞれの距離がはっきりしないというのが一つのポイントだったと記憶しています。この句にも、俳句で表された空間における距離のおかしさがあって、爽波句に見る不思議な距離に、取り合わせ要素を加えて奥行をもたせたような感じがします。黒鯛のくちびると小屋、それらの物が醸し出す生々しさ、実感、同時に想起したときの妙な肌触り、空気感などが、物同士の不思議な距離感と関連しながら、言葉のうえで把握しようとするときの変な感覚が表れていると思います。彌榮さんの言葉を借りれば、俳句における「気持ち悪さ」ということになるのでしょう。理論を実作で表した力作。


押見げばげば 眩暈

ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者  押見げばげば

「ゆふがほ」という言葉を俳句の中で読むと、辞書や図鑑で見るユウガオや散文の中で物を示す夕顔という言葉とは違って、その意味の広がりとともに、詩情を伴う詩語としの働きを意識することになります。この句は特に上五にや切れがあって、旧かなで示された季語としての象徴的な意味合いで受け取れそうです。その場合、続く中七の睫毛や濡れが、例えば洗面における物理的な睫毛の濡れる状態とは違ったニュアンスで、やはり詩語としての含みを持つ言葉で受け止められるでしょう。一つの意味を明示するというより、多義を抱えた言葉ということだと思います。この含みは読者の経験を容れ、読み手がそれぞれの思いで受け止めることになります。死者生者も同様。詩情を伴った詩語と、多義を抱えた言葉を省略で表した俳句。私はこの句に、人間の儚いいのちや、朝夕と生死を繰り返す人々の営為、濡れた睫毛には生死にかかわる時間などを思います。


細川洋子 夜の秋

捩花の左巻きとは男前  細川洋子

捩花の右巻きと左巻きの比率はほぼ半々といわれています。株や場所によって巻き方も違い、途中から巻き方が変わるものや、捩れないものもあるようです。この句は左巻きのものは男前だという断定の強みを生かしています。そこに確たる理由はなくても、そうであったら楽しいというようなニュアンスで受け取れます。男前は、イケメンや格好いいとは違って、態度や頼りがいなど、見た目だけではない印象もあるように思います。捩花を見てそんな楽しい想像を巡らせる句。


句の鑑賞からは少し離れますが、俳句について最近思っていることをちょっと書いてみます。俳句は本来、何でもないただの五七五、そのリズムではないでしょうか。その正体は、のっぺらぼうのようなものだと思います。五七五に素直に従えば、ほぼ只事の表現になるのでしょう。表面的には只事だけれど、そうでないものが定型のうえに表れて機能するとき、それこそが俳句なのではないかと期待しています。表面的な味気無さに耐えられないというような、読者または創作に向かうサービス精神のようなものが、季語や切れ、二物衝撃、取り合わせ、言葉の妙味や内容の面白さ、表現の上手さなどのテクニックを生じ、様々な読ませどころを俳句に付加してきたのではなでしょうか。それは一つの表現の豊かさでしょう。ただ、本来ののっぺらぼうのような定型、そのリズムを生かすことが、俳句本来というのか、俳句そのものだと思えば、私は今そのことに最も興味があります。それはもしかして、単に五七五定型に適っていればどんな俳句にも通底してある自明のことなのか、それとも、テクニックや意図を超えたところに表れる、または全く抜きにしたところで機能するものか、おそらく摑めそうで摑みきれないところにあるのであろう俳句そのものに注目しています。


ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
細川洋子 夜の秋 10句 ≫読む 第954号 2025年8月3日

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