【週俳10月11月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅶ
瀬戸正洋
これは、明確な弔辞である
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい けふを鶴の忌とする 垂水文弥
壁がある。壁は弔辞である。霊前で、ごめんなさいを三度繰り返す。それも弔辞である。鶴の忌である。そのあと五十の塔がつづく。
春着でもつて包丁投げ合つて笑ふ 垂水文弥
年のはじめの衣服。包丁を投げ合う。笑い合ったのではない。笑うのである。笑われてはいない。
葱買うて振りて少女の真白き夢 垂水文弥
現実であるか否かがわからない。困っている。不安なのである。買った葱を振ってみたりもする。少女の真白き夢のはなしである。
汽車は雪永劫母を持た不るゆゑ 垂水文弥
ことばをながめていてもよくわからない。それでもながめていなくはならない。文字のない時代からの言い伝えである。文字がなくてもことばをながめることはできる。汽車、雪、永劫、母。「持た不る」、気を取り直しながめることになった。
水仙や日の厳を鳥死ぬまで航け 垂水文弥
「日の巌」である。願いなのかも知れない。命令なのかも知れない。水仙への餞なのかも知れない。鳥への餞なのかも知れない。
汝に汝のにほひよ汝の春の雪 垂水文弥
にほひを美、魅力、気品とするとつまらなくなる。にほひを不快さといったような負のものに置き換えてみる。春の雪は歪みはじめてくる。
春は葬(とむらひ)のseason! 激昂の亀と踊ろ 垂水文弥
葬のseason!。春としたことで亀は激昂した。踊ることとは平凡な暮しへと引き戻すための手段である。
ゆきやなぎからはじまつてゐるこども 垂水文弥
こどももおとなもとしよりもゆきやなぎである。何ごとにもはじまりがあるとすることは誤りである。ましてはこどもからはじまるなどということはあるはずがない。
春の海力士のにほひしてゐたる 垂水文弥
春の海の匂いは知らない。力士の匂いも知らない。取組前に顔やからだを拭く色とりどりの濡れているタオル。そんなものを思いうかべたりしている。
喉潰したら風船になる約束 垂水文弥
約束は自分とするものである。他人とするものではない。喉を潰すとは声の出ない状態になっていることである。いつのまにか風船は見えなくなっていってしまった。
松公と叫びて松を伐りにけり 垂水文弥
親しかったから叫んだ。松公を伐る(殺す)のである。そうでなくては伐ることはできなかった。狂わなければ伐ることなどできるわけがない。
福楞察の川をさんぐわつびとの名に 垂水文弥
福楞察とはイタリア中部のトスカーナ州の都市の名である。「花の都」「芸術の都」とも呼ばれている。福という文字は三月にふさわしいのかも知れない。
春も人参ホラー映画で盛り上がる 垂水文弥
人参はいつでも収穫できる。春でなくても収穫できる。ホラー映画である必要はない。盛り上がる必要もない。
進級してゆく眼(まなこ)の海を搔き出して 垂水文弥
眼(まなこ)の海を掻き出す。進級とは次の学年に進むことである。級、段位が上がることである。おめでたいはなしである。
酔神父すこし歌ひぬ花林檎 垂水文弥
林檎ではない。花林檎である。神父である。気楽に歌うことはできない。酒に酔わなくてはならない。歌に酔わなくてはならない。自分に酔わなくてはならない。
野遊の上等兵と呼ばれけり 垂水文弥
暮らしのなかのできごとである。上等兵と書いてみる。気易く書いてみる。気易くなくては疲れる。気易ければいいということでもない。
ゆふぐれの海市はためきゐやまずを 垂水文弥
気温に差があるからではない。大気の密度が一定だからではない。光の屈折が原因だからでもない。ゆふぐれであるからなのかも知れない。不安であるからなのかも知れない。
くらければ昏いランプの中を見る 垂水文弥
覚悟を決めることが肝心である。それがはじまりの一歩だ。昏いランプに火を投げ込む。ただそれだけでいいのである。
全身が鎖骨で風鈴売になる 垂水文弥
全身が鎖骨でなければ風鈴売になることはできない。よくよく考えてみればあたりまえのことなのである。
あぢさゐととても謝りつつ思ふ 垂水文弥
あぢさゐが咲いている。心は穏やかである。あやまることは無限にある。あやまる方法も無限にある。
わたくしはくちなはのくちびる あなたは? 垂水文弥
山村暮しである。くちなはは嫌いだ。嫌いと念じているから滅多にお目にかからない。意志をもつことは大切なことである。嫌いなものに会うことは不快なことである。
王様は女王様に似て涼し 垂水文弥
王様は住む世界がちがう。女王様も住む世界がちがう。王様と女王様が似ているのは当然のことである。涼しいことは幸せなことではない。
もはや昆布刈ですよね違つたらウケる 垂水文弥
異なることは愉快である。同じことは不快である。如何ともしがたく不快である。追いつめられているのかも知れない。
茄子は或る日の腕(かひな)ひらがなめくふたり 垂水文弥
茄子は腕(かひな)である。ひらがなになったふたりである。決してひらがなになりたかった訳ではない。
我が名は麦死にえいゑんの馬を走らす 垂水文弥
えいゑんであることは錯覚である。えいゑんの時間へと馬を走らすことは錯覚である。自覚していればいい。ただそれだけのことである。
昼寝子にgood byeといふ寝言二度 垂水文弥
寝言による会話である。二度の会話である。昼寝のときの会話である。昼寝には会話はつきものである。
夏ゆふぐれ飛行機売となりにけり 垂水文弥
飛行機を売りに歩いている。夏のゆうぐれである。売れそうな気がしない訳でもない。今日こそは売ってやろうなどと思っている。
わたくしの生前よりの蚯蚓かな 垂水文弥
生前は蚯蚓である。生前はひとである。その前はなんであったのかは忘れてしまった。
背泳にぎりしあびとのきたりけり 垂水文弥
そらをながめながら泳いでいる。しずかないちにちである。どこの国のひとが来てもかまわない。ぎりしあのひとでなくてもかまわない。
蛇征ケル時一片ノ炎(ほ)モ不許 垂水文弥
勇ましいはなしである。迷惑なはなしでもある。許さないといわれてもしかたのないことだ。困ることではない。そんなことはいくらでもある。
これは恋シャワーの中のまるごとが 垂水文弥
恋とはそんなものなのかも知れない。シャワーとはそんなものなのかも知れない。精神のはなしではない。肉体のはなしでもない。
母ゆゑに氷室に母を連れてきし 垂水文弥
氷室とは冷温貯蔵庫である。母とはやさしくてあたたかい存在ではないのかも知れない。
ゐる姉と秋の螢を見に来たり 垂水文弥
そこにいなければ見に行くことはない。そこにいなければ何もはじまらない。一瞬のうちに何もかもを決めることは難しい。
雨すてふ町より来しと云ひをどる 垂水文弥
「雨」「すてふ」「町」「より」「来しと」「云ひ」「をどる」。すべてのものがゆれ動いているようである。
踊りけりあなたの彗星となつて 垂水文弥
あなたは困っている。彗星となって踊ることに困っている。故に踊っているのである。
休暇明スパムスパムと三人来 垂水文弥
ひとは嫌いである。ひとりでいることが好きだ。休暇明けだからといって耐える必要はない。三人も来られたらたまったものではない。
生前の台風の眼で吐きにけり 垂水文弥
吐くことは快楽である。死んだ台風がうようよといる。死んでいるのだから眼は閉じている。眼の閉じている台風は吐くことはできない。困った。
蛇穴に入るブラウスを買うて来よ 垂水文弥
ブラウスを買う。必要であるから買う。それでも、できるだけ先延ばしにしたい。珈琲代を確保するために余計な金は使いたくはない。蛇は嫌いである。巳年であっても「蛇穴に入る」についてはノーコメントとしたい。
秋の風鈴吊つて本屋はうつくしいぞ 垂水文弥
風鈴の吊ってある本屋は美しい。確かにそう思う。本屋へは行かない。年金暮しになるとノーキョーの通帳の残高が気になる。残高は減る一方なのである。
僕ら惑星万の鶏頭が身の裡 垂水文弥
惑星である。鶏頭である。惑星とは太陽をまわる天体である。まるい形をした圧倒的な天体である。
夜食人法(ふらん)を数へゐたるかな 垂水文弥
貨幣は法である。法律、てだて、方法等々。数えることとは生きるための知恵なのである。
煙草てふさびしき塔を持ちあるく 垂水文弥
人差し指と中指にはさめば塔になる。それに火をつければ間違いはない。塔になれない煙草を持ち歩く。それはさびしいことである。
木のバット鉄のバットよ火恋し 垂水文弥
木製のバット。金属製のバット。短い秋は通り過ぎていく。火が恋しくなる季節である。
神いくらか我にちかづき眠るかな 垂水文弥
ちかづいたなどと思うことは間違いなのである。神であってもひとであっても間違いなのである。知覚は千差万別である。眠ってしまうに限るのである。
冬がくるおほきな顎をたづさへて 垂水文弥
季節とはひとのことである。冬とはひとのことである。おおきな顎をたづさえてひとはくる。あたりまえのことなのである。
落葉して山羊の喧嘩を父と見る 垂水文弥
喧嘩はひとりで見るものである。ましてや父と見るものではない。ましてや落葉の季節に見るものではない。
家の中に雪ふる桂信子の忌 垂水文弥
雪はどこにでも降る。亜米利加にも雪は降る。阿弗利加にも雪は降る。欧羅巴にも雪は降る。家の中にも雪は降る。桂信子の忌でも雪は降る。
何にあこがれ少年はきつねをころす 垂水文弥
現在(ここ)から離れたい。それがあこがれである。ものごとに心を奪われうわの空になる。これもあこがれである。少年はきつねにあこがれた。故にきつねをころしたのである。正しいことなのかも知れない。
アルバムの七曲目くらゐの雪が 垂水文弥
アルバムの一曲目からが雪なのである。すべての曲が雪なのである。そのなかの七曲目くらいの雪ということなのである。
凍蝶の国と数へきれない扉の家族 垂水文弥
ひととひととの間には数えきれないほどの扉がある。まして家族なのである。凍蝶なのである。動くことはない。ひとも家族も蝶も国も動くことはない。扉のなかでじっとしている。
抱きしめに来いよ水仙のくせしてなんだよ 垂水文弥
欲しがらないに限る。ことばは欲しないに限る。ひとに対して失礼である。水仙に対して失礼である。
そして産声
われらみなしごすすめ誰が忌かもわからず 垂水文弥
弔辞の壁からはじまり産声の壁で終る。五十の塔である。みなしごはすすむ。誰が忌かもわからぬままにすすむ。
●
春やうつりにけりな腕(かひな)の刺青(たとぅー)のlife 関灯之介
いのち、ひと、くらし、生、春。視線、こころは定まらない。腕(かひな)には刺青(たとぅー)。
街はジャズ何処へ帰るも星が要る 関灯之介
ジャズの語源はフランス語の“JASER”(元気をつける)とあった。ひとが居場所を決めるのには星が必要である。
木仏の手粗々と夜を束ねたる 関灯之介
木仏とは木で作った仏像のこと。融通のきかないひと、情に動かされないひとのたとえもある。粗々と夜を束ねる。生きていくためには粗々さは必要である。
夢に汝と我はらからに食(くら)ひあふ 関灯之介
夢のはなしである。たがいにものを食う。たがいの領域を侵す。母を同じくするものをはらからという。国を同じくするものをはらからという。
飛花落花ばらばらの木乃伊を思へ 関灯之介
花は散る。散るとは離れ離れになることである。さくらの古木。正しく木乃伊なのである。
浜は伽藍のしづけさにして陽炎へる 関灯之介
海岸や湖岸に沿った平らな砂地のことを浜という。伽藍とは僧侶が集まり修行をする場である。ひろい室内の何もない様子をいうこともある。陽炎とはひかりの屈折率の変化でおこる現象である。
波を打つ舳先どんどろどんどろろ 関灯之介
波に打たれるのではない。波を打つのである。「どんどろどんどろろ」囃すことは餞になっている。
千の繭浮かぶ蔟(まぶし)の格子中 関灯之介
蔟(まぶし)とは蚕が繭をかけやすいようにとつくった道具である。蚕にとってありがた迷惑なことなのかも知れない。
飛礫(つぶて)うちたる夏空をしばし見つ 関灯之介
誰かが誰かのために飛礫(つぶて)を打つ。それだけのことである。故に、夏空をしばし見たのである。
丸むればほとぼる背(せな)や羽化はいま 関灯之介
羽化の途中、うすみどりいろの幼虫、熱を感じた。夏休みの自由研究で取り上げることも多い。教師は、二、三人をひとつのグループとして発表させたりしていた。教師も苦労していたのだろう。
われらの夢を集めし塔のうすけむり 関灯之介
夢を集めたものが塔である。塔からはうすけむりがあがっている。うすけむりとはひとつの成果なのかも知れない。
虹の巨人は脛ばかり見せくるよ 関灯之介
虹とは脛のことである。七色の虹とは七色の脛のことである。脛とは巨人のことである。
玻璃窓に我その奥の窓にも我 関灯之介
玻璃窓は鏡。その奥の窓は鏡。玻璃窓に映っているのは私ではない私。玻璃とは硝子のことである。我とは一人称のことである。
停電の夜の鏡へ顔を寄す 関灯之介
闇のなかでは自分の顔が見たくなる。自分を知りたくなる。自分の顔を見ることは不可能である。自分の顔が見えたと思わせる鏡。それはまやかしの道具である。
うすばかげろふghostと言ふときの息 関灯之介
うすばかげろうもghostである。アリジゴクもghostである。息もghostである。
手は供花(くげ)のごと死にがほへ押し寄せぬ 関灯之介
死に顔にふれることは嫌いだ。薄情なのかも知れない。妻や子や孫よりもはやく死ねば、その思いは遂げられる。死に顔にふれることなく死にたいと思う。
鹿の皮被りて鹿の姿なす 関灯之介
これは生き方である。皮を被っていればそれでいいのである。本心を隠し通せればそれに越したことはない。誰も知りたがりはしない。
鬼迫り来芒薙ぎ倒し薙ぎ倒し 関灯之介
鬼も苦労している。ゆっくりと歩いて来る訳はいかない。鬼らしく来なくてはならない。芒をなぎ倒すことで鬼であることを演じている。
酔(ゑ)うて拾ふ石を冷やさぬやう胸に 関灯之介
酔って拾う石(意志)はホンモノである。大切にしなくてはいけない。冷さぬように胸であたためておかなくてはならない。
夢の塔より貝殻を盗みきし 関灯之介
貝殻を盗むことは犯罪である。夢の塔からであっても犯罪である。ただ、それが犯罪であるかどうかは紙一重のことである。
夕は沖より訪ねくるもの鈴の音と 関灯之介
夕は沖よりやってくる。夕は自分のことがよくわからない。故に、鈴の音に付きそわれながら沖よりやってくる。
街灯のごとき体で生れけり 関灯之介
街灯とは道路灯のことである。そのような体で生まれたことは運命である。運命とは身にめぐってくる吉凶禍福のこと。あまんじて受け止めなくてはならない。
襖絵の鶴と歩めば眠くなる 関灯之介
いつのまにか鶴になってしまった。それではまずいと思い鶴を忘れてみる。襖絵に没頭することは間違いであることに気づく。
ひらがなを含んで愛しあひませう 関灯之介
愛とはひらがなのことである。愛は口のなかで育んでいかなくてはならない。飲みこんではいけない。口に含んだあとゆっくりと育んでいかなくてはならない。
死のことを浴槽に湯をはりながら 関灯之介
なるべくなら忘れていたい。それでも考えなくてはならない。浴槽に湯をはりながら考える。日常のなかで死について考える。
冬薔薇鏡の中の遠き部屋 関灯之介
鏡の中にはいくつもの部屋がある。冬薔薇を置いたことで遠近感が生まれる。過去と現在と未来という時間が確認できる。そのはるか遠くに自分がいる。
敏雄忌や帆柱がいま納屋の梁 関灯之介
納屋には過去が置いてある。納屋の梁は帆柱である。見せるものではない。極めて個人的なものである。敏雄忌は俳人三橋敏雄の忌日である。
連山を灰吹かれきし氷かな 関灯之介
連山を、灰吹かれきし、氷かな。ことばのとおりである。実景を見たのではない。見たいと思った風景なのかも知れない。ただ、それをことばとして書き連ねてみたかったのである。
河は母語わが後方へ流れけり 関灯之介
河は母語である。河は前方へ流れていく。河は後方へ流れていく。そのうち河は動かなくなる。
橋よわれはゆるされずして写真に笑む 関灯之介
知られてはならないことがある。それを写真に撮られてしまった。一瞬の虚をつかれてしまった。笑うとは誤魔化すことである。橋とは障害を越えるためのものである。
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ピントが合わないことをピンボケという。パンフォーカスは不自然である。呆けることは生きていくためには必要なことなのかも知れない。
ピンボケは涙のようで豊の秋 三宅桃子
なみだが焦点をずらす。なみだをながすと何故か落ちつく。ストレスは解消される。秋とは呆ける季節なのかも知れない。豊作であるとひとはおだやかに呆けたりもする。
つくつくし紙人形の溶けたあと 三宅桃子
紙人形は溶けることで厄を落とす。そのあとのことは誰も知らない。厄を落とせばそれでいいからである。つくつくしは忙しく鳴いている。ひとは日常に戻っていく。
紙コップの紙の香強き秋燕 三宅桃子
無味無臭でありたい。余計な感情をあたえたくない。紙コップの強き香は不快なものである。燕は南の地へと帰っていく。
どんぐりの小さくなって石の墓 三宅桃子
石の墓にどんぐりを供える。どんぐりは小さくなったり大きくなったりする。秋の太陽は沈みはじめている。
父斜めに写りて犬の墓を指す 三宅桃子
父は犬の墓を指差している。父は正常である。斜めとは犬の意志である。季節感を消した作品。これも犬の意志である。
翌日は草乾くように鹿の立つ 三宅桃子
乾いた草である。鹿は草が乾くことを知っている。明日はいいことがある。そう思って立っている。
白鳥や時計あつめて時こわす 三宅桃子
未来へとひたすらに時は流れる。当着点は死である。時計をあつめたところで何もはじまらない。白鳥もひともなすすべがない。ただ気づかないふりをしている。それを幸福という。
くつしたの裏を表にする花野 三宅桃子
裏を表にするのである。もとにもどすのではない。強引にするのかも知れない。何となくするのかも知れない。わからないようにするのかも知れない。野には秋の花が咲き乱れている。
息白く糸を漏らさず立っており 三宅桃子
息は白い。糸は漏れてはいない。ひとが立っている。それだけのことである。ただ、「糸が漏れる」についてはゆっくりとながめてみることにする。
三角に響いておりしふゆの星 三宅桃子
角が三つある。音や振動が遠くまで伝わる。冬の星が三角に響き合っている。どこへも行くあてはない。
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