2025-01-26

瀬戸正洋【週俳10月11月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅶ

【週俳10月11月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅶ

瀬戸正洋


 これは、明確な弔辞である
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい けふを鶴の忌とする  垂水文弥

壁がある。壁は弔辞である。霊前で、ごめんなさいを三度繰り返す。それも弔辞である。鶴の忌である。そのあと五十の塔がつづく。

春着でもつて包丁投げ合つて笑ふ  垂水文弥

年のはじめの衣服。包丁を投げ合う。笑い合ったのではない。笑うのである。笑われてはいない。

葱買うて振りて少女の真白き夢  垂水文弥

現実であるか否かがわからない。困っている。不安なのである。買った葱を振ってみたりもする。少女の真白き夢のはなしである。

汽車は雪永劫母を持た不るゆゑ  垂水文弥

ことばをながめていてもよくわからない。それでもながめていなくはならない。文字のない時代からの言い伝えである。文字がなくてもことばをながめることはできる。汽車、雪、永劫、母。「持た不る」、気を取り直しながめることになった。

水仙や日の厳を鳥死ぬまで航け  垂水文弥

「日の巌」である。願いなのかも知れない。命令なのかも知れない。水仙への餞なのかも知れない。鳥への餞なのかも知れない。

汝に汝のにほひよ汝の春の雪  垂水文弥

にほひを美、魅力、気品とするとつまらなくなる。にほひを不快さといったような負のものに置き換えてみる。春の雪は歪みはじめてくる。

春は葬(とむらひ)のseason! 激昂の亀と踊ろ  垂水文弥

葬のseason!。春としたことで亀は激昂した。踊ることとは平凡な暮しへと引き戻すための手段である。

ゆきやなぎからはじまつてゐるこども  垂水文弥

こどももおとなもとしよりもゆきやなぎである。何ごとにもはじまりがあるとすることは誤りである。ましてはこどもからはじまるなどということはあるはずがない。

春の海力士のにほひしてゐたる  垂水文弥

春の海の匂いは知らない。力士の匂いも知らない。取組前に顔やからだを拭く色とりどりの濡れているタオル。そんなものを思いうかべたりしている。

喉潰したら風船になる約束  垂水文弥

約束は自分とするものである。他人とするものではない。喉を潰すとは声の出ない状態になっていることである。いつのまにか風船は見えなくなっていってしまった。

松公と叫びて松を伐りにけり  垂水文弥

親しかったから叫んだ。松公を伐る(殺す)のである。そうでなくては伐ることはできなかった。狂わなければ伐ることなどできるわけがない。

福楞察の川をさんぐわつびとの名に  垂水文弥

福楞察とはイタリア中部のトスカーナ州の都市の名である。「花の都」「芸術の都」とも呼ばれている。福という文字は三月にふさわしいのかも知れない。

春も人参ホラー映画で盛り上がる  垂水文弥

人参はいつでも収穫できる。春でなくても収穫できる。ホラー映画である必要はない。盛り上がる必要もない。

進級してゆく眼(まなこ)の海を搔き出して  垂水文弥

眼(まなこ)の海を掻き出す。進級とは次の学年に進むことである。級、段位が上がることである。おめでたいはなしである。

酔神父すこし歌ひぬ花林檎  垂水文弥

林檎ではない。花林檎である。神父である。気楽に歌うことはできない。酒に酔わなくてはならない。歌に酔わなくてはならない。自分に酔わなくてはならない。

野遊の上等兵と呼ばれけり  垂水文弥

暮らしのなかのできごとである。上等兵と書いてみる。気易く書いてみる。気易くなくては疲れる。気易ければいいということでもない。

ゆふぐれの海市はためきゐやまずを  垂水文弥

気温に差があるからではない。大気の密度が一定だからではない。光の屈折が原因だからでもない。ゆふぐれであるからなのかも知れない。不安であるからなのかも知れない。

くらければ昏いランプの中を見る  垂水文弥

覚悟を決めることが肝心である。それがはじまりの一歩だ。昏いランプに火を投げ込む。ただそれだけでいいのである。

全身が鎖骨で風鈴売になる  垂水文弥

全身が鎖骨でなければ風鈴売になることはできない。よくよく考えてみればあたりまえのことなのである。

あぢさゐととても謝りつつ思ふ  垂水文弥

あぢさゐが咲いている。心は穏やかである。あやまることは無限にある。あやまる方法も無限にある。

わたくしはくちなはのくちびる あなたは?  垂水文弥

山村暮しである。くちなはは嫌いだ。嫌いと念じているから滅多にお目にかからない。意志をもつことは大切なことである。嫌いなものに会うことは不快なことである。

王様は女王様に似て涼し  垂水文弥

王様は住む世界がちがう。女王様も住む世界がちがう。王様と女王様が似ているのは当然のことである。涼しいことは幸せなことではない。

もはや昆布刈ですよね違つたらウケる  垂水文弥

異なることは愉快である。同じことは不快である。如何ともしがたく不快である。追いつめられているのかも知れない。

茄子は或る日の腕(かひな)ひらがなめくふたり  垂水文弥

茄子は腕(かひな)である。ひらがなになったふたりである。決してひらがなになりたかった訳ではない。

我が名は麦死にえいゑんの馬を走らす  垂水文弥

えいゑんであることは錯覚である。えいゑんの時間へと馬を走らすことは錯覚である。自覚していればいい。ただそれだけのことである。

昼寝子にgood byeといふ寝言二度  垂水文弥

寝言による会話である。二度の会話である。昼寝のときの会話である。昼寝には会話はつきものである。

夏ゆふぐれ飛行機売となりにけり  垂水文弥

飛行機を売りに歩いている。夏のゆうぐれである。売れそうな気がしない訳でもない。今日こそは売ってやろうなどと思っている。

わたくしの生前よりの蚯蚓かな  垂水文弥

生前は蚯蚓である。生前はひとである。その前はなんであったのかは忘れてしまった。

背泳にぎりしあびとのきたりけり  垂水文弥

そらをながめながら泳いでいる。しずかないちにちである。どこの国のひとが来てもかまわない。ぎりしあのひとでなくてもかまわない。

蛇征ケル時一片ノ炎(ほ)モ不許  垂水文弥

勇ましいはなしである。迷惑なはなしでもある。許さないといわれてもしかたのないことだ。困ることではない。そんなことはいくらでもある。

これは恋シャワーの中のまるごとが  垂水文弥

恋とはそんなものなのかも知れない。シャワーとはそんなものなのかも知れない。精神のはなしではない。肉体のはなしでもない。

母ゆゑに氷室に母を連れてきし  垂水文弥

氷室とは冷温貯蔵庫である。母とはやさしくてあたたかい存在ではないのかも知れない。

ゐる姉と秋の螢を見に来たり  垂水文弥

そこにいなければ見に行くことはない。そこにいなければ何もはじまらない。一瞬のうちに何もかもを決めることは難しい。

雨すてふ町より来しと云ひをどる  垂水文弥

「雨」「すてふ」「町」「より」「来しと」「云ひ」「をどる」。すべてのものがゆれ動いているようである。

踊りけりあなたの彗星となつて  垂水文弥

あなたは困っている。彗星となって踊ることに困っている。故に踊っているのである。

休暇明スパムスパムと三人来  垂水文弥

ひとは嫌いである。ひとりでいることが好きだ。休暇明けだからといって耐える必要はない。三人も来られたらたまったものではない。

生前の台風の眼で吐きにけり  垂水文弥

吐くことは快楽である。死んだ台風がうようよといる。死んでいるのだから眼は閉じている。眼の閉じている台風は吐くことはできない。困った。

蛇穴に入るブラウスを買うて来よ  垂水文弥

ブラウスを買う。必要であるから買う。それでも、できるだけ先延ばしにしたい。珈琲代を確保するために余計な金は使いたくはない。蛇は嫌いである。巳年であっても「蛇穴に入る」についてはノーコメントとしたい。

秋の風鈴吊つて本屋はうつくしいぞ  垂水文弥

風鈴の吊ってある本屋は美しい。確かにそう思う。本屋へは行かない。年金暮しになるとノーキョーの通帳の残高が気になる。残高は減る一方なのである。

僕ら惑星万の鶏頭が身の裡  垂水文弥

惑星である。鶏頭である。惑星とは太陽をまわる天体である。まるい形をした圧倒的な天体である。

夜食人法(ふらん)を数へゐたるかな  垂水文弥

貨幣は法である。法律、てだて、方法等々。数えることとは生きるための知恵なのである。

煙草てふさびしき塔を持ちあるく  垂水文弥

人差し指と中指にはさめば塔になる。それに火をつければ間違いはない。塔になれない煙草を持ち歩く。それはさびしいことである。

木のバット鉄のバットよ火恋し  垂水文弥

木製のバット。金属製のバット。短い秋は通り過ぎていく。火が恋しくなる季節である。

神いくらか我にちかづき眠るかな  垂水文弥

ちかづいたなどと思うことは間違いなのである。神であってもひとであっても間違いなのである。知覚は千差万別である。眠ってしまうに限るのである。

冬がくるおほきな顎をたづさへて  垂水文弥

季節とはひとのことである。冬とはひとのことである。おおきな顎をたづさえてひとはくる。あたりまえのことなのである。

落葉して山羊の喧嘩を父と見る  垂水文弥

喧嘩はひとりで見るものである。ましてや父と見るものではない。ましてや落葉の季節に見るものではない。

家の中に雪ふる桂信子の忌  垂水文弥

雪はどこにでも降る。亜米利加にも雪は降る。阿弗利加にも雪は降る。欧羅巴にも雪は降る。家の中にも雪は降る。桂信子の忌でも雪は降る。

何にあこがれ少年はきつねをころす  垂水文弥

現在(ここ)から離れたい。それがあこがれである。ものごとに心を奪われうわの空になる。これもあこがれである。少年はきつねにあこがれた。故にきつねをころしたのである。正しいことなのかも知れない。

アルバムの七曲目くらゐの雪が  垂水文弥

アルバムの一曲目からが雪なのである。すべての曲が雪なのである。そのなかの七曲目くらいの雪ということなのである。

凍蝶の国と数へきれない扉の家族  垂水文弥

ひととひととの間には数えきれないほどの扉がある。まして家族なのである。凍蝶なのである。動くことはない。ひとも家族も蝶も国も動くことはない。扉のなかでじっとしている。

抱きしめに来いよ水仙のくせしてなんだよ  垂水文弥

欲しがらないに限る。ことばは欲しないに限る。ひとに対して失礼である。水仙に対して失礼である。

 そして産声
われらみなしごすすめ誰が忌かもわからず  垂水文弥

弔辞の壁からはじまり産声の壁で終る。五十の塔である。みなしごはすすむ。誰が忌かもわからぬままにすすむ。


春やうつりにけりな腕(かひな)の刺青(たとぅー)のlife  関灯之介

いのち、ひと、くらし、生、春。視線、こころは定まらない。腕(かひな)には刺青(たとぅー)。

街はジャズ何処へ帰るも星が要る  関灯之介

ジャズの語源はフランス語の“JASER”(元気をつける)とあった。ひとが居場所を決めるのには星が必要である。

木仏の手粗々と夜を束ねたる  関灯之介

木仏とは木で作った仏像のこと。融通のきかないひと、情に動かされないひとのたとえもある。粗々と夜を束ねる。生きていくためには粗々さは必要である。

夢に汝と我はらからに食(くら)ひあふ  関灯之介

夢のはなしである。たがいにものを食う。たがいの領域を侵す。母を同じくするものをはらからという。国を同じくするものをはらからという。

飛花落花ばらばらの木乃伊を思へ  関灯之介

花は散る。散るとは離れ離れになることである。さくらの古木。正しく木乃伊なのである。

浜は伽藍のしづけさにして陽炎へる  関灯之介

海岸や湖岸に沿った平らな砂地のことを浜という。伽藍とは僧侶が集まり修行をする場である。ひろい室内の何もない様子をいうこともある。陽炎とはひかりの屈折率の変化でおこる現象である。

波を打つ舳先どんどろどんどろろ  関灯之介

波に打たれるのではない。波を打つのである。「どんどろどんどろろ」囃すことは餞になっている。

千の繭浮かぶ蔟(まぶし)の格子中  関灯之介

蔟(まぶし)とは蚕が繭をかけやすいようにとつくった道具である。蚕にとってありがた迷惑なことなのかも知れない。

飛礫(つぶて)うちたる夏空をしばし見つ  関灯之介

誰かが誰かのために飛礫(つぶて)を打つ。それだけのことである。故に、夏空をしばし見たのである。

丸むればほとぼる背(せな)や羽化はいま  関灯之介

羽化の途中、うすみどりいろの幼虫、熱を感じた。夏休みの自由研究で取り上げることも多い。教師は、二、三人をひとつのグループとして発表させたりしていた。教師も苦労していたのだろう。

われらの夢を集めし塔のうすけむり  関灯之介

夢を集めたものが塔である。塔からはうすけむりがあがっている。うすけむりとはひとつの成果なのかも知れない。

虹の巨人は脛ばかり見せくるよ  関灯之介

虹とは脛のことである。七色の虹とは七色の脛のことである。脛とは巨人のことである。

玻璃窓に我その奥の窓にも我  関灯之介

玻璃窓は鏡。その奥の窓は鏡。玻璃窓に映っているのは私ではない私。玻璃とは硝子のことである。我とは一人称のことである。

停電の夜の鏡へ顔を寄す  関灯之介

闇のなかでは自分の顔が見たくなる。自分を知りたくなる。自分の顔を見ることは不可能である。自分の顔が見えたと思わせる鏡。それはまやかしの道具である。

うすばかげろふghostと言ふときの息  関灯之介

うすばかげろうもghostである。アリジゴクもghostである。息もghostである。

手は供花(くげ)のごと死にがほへ押し寄せぬ  関灯之介

死に顔にふれることは嫌いだ。薄情なのかも知れない。妻や子や孫よりもはやく死ねば、その思いは遂げられる。死に顔にふれることなく死にたいと思う。

鹿の皮被りて鹿の姿なす  関灯之介

これは生き方である。皮を被っていればそれでいいのである。本心を隠し通せればそれに越したことはない。誰も知りたがりはしない。

鬼迫り来芒薙ぎ倒し薙ぎ倒し  関灯之介

鬼も苦労している。ゆっくりと歩いて来る訳はいかない。鬼らしく来なくてはならない。芒をなぎ倒すことで鬼であることを演じている。

(ゑ)うて拾ふ石を冷やさぬやう胸に  関灯之介

酔って拾う石(意志)はホンモノである。大切にしなくてはいけない。冷さぬように胸であたためておかなくてはならない。

夢の塔より貝殻を盗みきし  関灯之介

貝殻を盗むことは犯罪である。夢の塔からであっても犯罪である。ただ、それが犯罪であるかどうかは紙一重のことである。

夕は沖より訪ねくるもの鈴の音と  関灯之介

夕は沖よりやってくる。夕は自分のことがよくわからない。故に、鈴の音に付きそわれながら沖よりやってくる。

街灯のごとき体で生れけり  関灯之介

街灯とは道路灯のことである。そのような体で生まれたことは運命である。運命とは身にめぐってくる吉凶禍福のこと。あまんじて受け止めなくてはならない。

襖絵の鶴と歩めば眠くなる  関灯之介

いつのまにか鶴になってしまった。それではまずいと思い鶴を忘れてみる。襖絵に没頭することは間違いであることに気づく。

ひらがなを含んで愛しあひませう  関灯之介

愛とはひらがなのことである。愛は口のなかで育んでいかなくてはならない。飲みこんではいけない。口に含んだあとゆっくりと育んでいかなくてはならない。

死のことを浴槽に湯をはりながら  関灯之介

なるべくなら忘れていたい。それでも考えなくてはならない。浴槽に湯をはりながら考える。日常のなかで死について考える。

冬薔薇鏡の中の遠き部屋  関灯之介

鏡の中にはいくつもの部屋がある。冬薔薇を置いたことで遠近感が生まれる。過去と現在と未来という時間が確認できる。そのはるか遠くに自分がいる。

敏雄忌や帆柱がいま納屋の梁  関灯之介

納屋には過去が置いてある。納屋の梁は帆柱である。見せるものではない。極めて個人的なものである。敏雄忌は俳人三橋敏雄の忌日である。

連山を灰吹かれきし氷かな  関灯之介

連山を、灰吹かれきし、氷かな。ことばのとおりである。実景を見たのではない。見たいと思った風景なのかも知れない。ただ、それをことばとして書き連ねてみたかったのである。

河は母語わが後方へ流れけり  関灯之介

河は母語である。河は前方へ流れていく。河は後方へ流れていく。そのうち河は動かなくなる。

橋よわれはゆるされずして写真に笑む  関灯之介

知られてはならないことがある。それを写真に撮られてしまった。一瞬の虚をつかれてしまった。笑うとは誤魔化すことである。橋とは障害を越えるためのものである。


ピントが合わないことをピンボケという。パンフォーカスは不自然である。呆けることは生きていくためには必要なことなのかも知れない。

ピンボケは涙のようで豊の秋  三宅桃子

なみだが焦点をずらす。なみだをながすと何故か落ちつく。ストレスは解消される。秋とは呆ける季節なのかも知れない。豊作であるとひとはおだやかに呆けたりもする。

つくつくし紙人形の溶けたあと  三宅桃子

紙人形は溶けることで厄を落とす。そのあとのことは誰も知らない。厄を落とせばそれでいいからである。つくつくしは忙しく鳴いている。ひとは日常に戻っていく。

紙コップの紙の香強き秋燕  三宅桃子

無味無臭でありたい。余計な感情をあたえたくない。紙コップの強き香は不快なものである。燕は南の地へと帰っていく。

どんぐりの小さくなって石の墓  三宅桃子

石の墓にどんぐりを供える。どんぐりは小さくなったり大きくなったりする。秋の太陽は沈みはじめている。

父斜めに写りて犬の墓を指す  三宅桃子

父は犬の墓を指差している。父は正常である。斜めとは犬の意志である。季節感を消した作品。これも犬の意志である。

翌日は草乾くように鹿の立つ  三宅桃子

乾いた草である。鹿は草が乾くことを知っている。明日はいいことがある。そう思って立っている。

白鳥や時計あつめて時こわす  三宅桃子

未来へとひたすらに時は流れる。当着点は死である。時計をあつめたところで何もはじまらない。白鳥もひともなすすべがない。ただ気づかないふりをしている。それを幸福という。

くつしたの裏を表にする花野  三宅桃子

裏を表にするのである。もとにもどすのではない。強引にするのかも知れない。何となくするのかも知れない。わからないようにするのかも知れない。野には秋の花が咲き乱れている。

息白く糸を漏らさず立っており  三宅桃子

息は白い。糸は漏れてはいない。ひとが立っている。それだけのことである。ただ、「糸が漏れる」についてはゆっくりとながめてみることにする。

三角に響いておりしふゆの星  三宅桃子

角が三つある。音や振動が遠くまで伝わる。冬の星が三角に響き合っている。どこへも行くあてはない。


垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち 52 読む 912

関灯之介 橋 30 読む 914

三宅桃子 溶けたあと 10 読む 915

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