【週俳10月11月の俳句を読む】
くぐもる慟哭
垂水文弥「両の壁と五十の塔、そのかなしき王たち」を読む
叶裕
これは、明確な弔辞である
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい けふを鶴の忌とする 垂水文弥(以下同)
俳句だけでなく、芸術や音楽も含め、鑑賞とは予備知識や先入観を入れず、まず作品を丸呑みすべきだと考えている。スルリと喉越しの良い句、イガイガと引っかかる句、濃厚、淡麗、さながら唎酒を愉しむようにぼくは句を読む。そしてその時感じた直感をこそ信じている。
この前書き付きの句には恋に逸るあまり、勇み足をしてしまった青年の、戻れるのなら事前に戻りたいという悔悟と羞恥心が早口で述べられている。そこに建てられた「鶴の忌」の墓碑に向けられた弔辞は一つの恋への訣別ともとれ、かつて自分がそうであった頃のような「初心(うぶ)」を思わせる、拙い性急さを覚えるのだ。
進級してゆく眼(まなこ)の海を搔き出して
海で発生した生物を祖に持つぼくらは海水に近い成分である羊水の中で育まれ、眼球の中に「房水」という最小の海を持って生まれ落ちる。ぼくらは生きている限り、海から離れる事はできない。人生の折々に流す涙はきっと海の最果てなのだろう。
進級をするたび、恋を実らせてゆく友人たちが水面を目指し煌めく泡のように見え、忸怩が積もる海底に息を潜める自分を半ば憎む作者の低い叫びに触れた気分だが、初老のぼくにはそれすら眩しくてならない。
煙草てふさびしき塔を持ちあるく
いまや喫煙は社会悪のごとく嫌われているが、沈思するとき、孤独を噛み締めるとき、煙草は佳き友となる事を非喫煙者は知らない。
イヤホンで耳を埋め、隙あらばスマホを覗き、常に心ここに在らずの現代人は過去どの時代よりも孤独でありながら孤独を恐れている。「ぼっち」「キョロ充」。孤独を現す多くのネットスラングが生まれては消費されてゆく現代、作者はそれを自覚しながらさみしさの象徴である煙草を持ち歩く。
もしかしたら作者は非喫煙者なのかもしれないとふと思った。 掲句はなにより句の姿が良い。作者の卓抜した言語センスが味わえる一句だ。
何にあこがれ少年はきつねをころす
この句を眺め、「きつね」が何を示しているのか考えていた。我が国における狐の比喩表現は狡賢さの他に性的に魅力的な女性を表しているとされる。だいぶ偏った見方かもしれないが、少年たる作者は恋に破れるたびに憧憬の対象である女性を「きつね」として悪魔化し、想像の上で「ころす」事で次のステージへ転生するのではないか?これは少年から大人へ成長するための儀式なのかもしれない。
そして産声
われらみなしごすすめ誰が忌かもわからず
疎開のための飛行機が墜落し、子供だけが生き残った南洋の孤島。そこはミルトンの描いた理想的楽園のようであったが、自由を謳歌するうち少年たちの中に獣性が芽生え、小さなホモソーシャルが崩壊してゆくというゴールディングの『蝿の王』を掲句に重ねる。
すでに21世紀だというのに経済格差や社会的分断、戦争は止まず、扇動者のペテンに無辜の民草が殺されてゆくこの世界を構成する大人達への強い怒り、そして生き辛さを実感しながらもどうにも出来ない不甲斐なさへの失望を強く感じた。
前書きから察するに作者は子供を授かったのかもしれない。この絶望の時代に子をなすことがどれだけ勇気の要ることか。応援しよう。ぼくはきみらの味方だ。ぼくもまたみなしごなのだから。
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垂水文弥。
普段、俳壇に無縁のぼくは若手俳人の動静に疎く、作者について何も知らない。しかし俳人にとって句こそが顔であり、履歴書であると思っているので、これでよいのだ。氏はアウトプットがとても巧い。静かに狂ってゆく我が国で、無数に積もる様々なレイヤーにより隔離され、ゆっくり窒息してゆく若者たちのくぐもった慟哭が聞こえて来るようであった。
全く違う!と怒られるかもしれないが、それはそれ。どんな俳人なのか興味が出て来た。是非氏と飲みながら話がしたいと思ったのだった。
良いものに触れた。
垂水さん、これからもがんばってね。
どうもありがとうございました。
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