2025-06-15

瀬戸正洋【週俳3月4月5月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅸ

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅸ

瀬戸正洋


◆巣箱

甘海老を殻より抜きて春の山  松田晴貴

殻は剥くものか抜くものか知らない。殻がついているのだから新鮮な甘海老なのだと思う。あたたかな春の日を浴びて山も海も生気に満ちている。

鞦韆をかけて昔の木となりぬ  同

木の枝にロープを二本垂らす。台座を置く。そこに座り前後に漕ぐ。昔のことがよみがえる。何もかもが幼い日の風景となる。

狛犬の筋目あかるし春落葉  同

獅子に似た想像上の動物である。一対の神獣両方を指して狛犬と呼ばれる。狛犬は寺社だけを守るものではない。春落葉とは晩春、常緑樹から落ちた葉のことである。

浮くやうな凭れるやうな巣箱かな  同

巣箱は不安定なものである。巣箱は頼りないものである。ひとの目線で置かれたからである。世のなか、このようなことが多すぎる気がする。他人のことを思いやる。

足跡とサーフィン摺つてゆく跡と  同

足跡は砂浜に残る。サーフボードを摺った跡は砂浜に残る。サーフィンとはサーフボードで波のうえを滑る動きのことである。跡とはものごとが行われたことを思い出すためのものである。

気兼ねなく水打つてゐる男かな  同

無心に水を打っている。不愉快なことだらけの世の中である。こんな日がたまにあってもいい。

藻の花や日影日向とくりかへし  同

揺れ動いている。くり返すことが人生である。日影と日向は伸びたり縮んだりしている。太陽にまかせておけばいいのである。

雪の下午前いつぱい手紙書き  同

しっくりといかない。文字が汚い。誤字を見つける。破り捨てる。便箋一冊を使い切ってしまう。手紙とは、そのようにして仕上げるものである。雪の下とはちいさく白く群がって咲く花である。

腕の毛のかがやいてゐる砧かな  同

細かいところまでは見ない。老眼になることは幸いである。砧を打つひと。砧を打つ腕。そこまで見ることができれば十分なのだと思う。

鳰のまたあつまつてきし浮御堂  同

集ったり離れたりしている。鳰に浮御堂はにあう。離合集散、ひとに限らず鳰に限らず。万物にとっての日常なのである。


◆ゆらめくようにだめなとこ

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお

ゆらめくとはゆらゆらとゆれることである。だめなことをすることは精神衛生に有益である。自己破壊衝動は誰にでもある。

ゆがみちらほらかえって痛々しい春の連取  同

歪みとは外圧時に生じる変形である。結果はどうであっても無理をしてはいけない。歪むことは悪いことではない。

空き地でかたるねねどこ再び翅まみれ  同

翅まみれは御免である。身のまわりは清潔にしておきたい。空き地とは利用目的がなく放置された土地のことである。

しっぱい、でした◦・*:かたくりの花籠にゆれ  同

「◦・*:」とある。理由は。反省している。照れている。日常である。非日常である。「しっぱい、でした」という。かたくりの花が籠にゆれている。

もっと来ないでね王子 五月のびる群送りながら  同

「もっと」「来ないでね」「王子」「五月の」「びる群」。送るもの。送られるもの。もっととは量や程度を増す際に用いる。特別なことなどどこにもない。

しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵  同

楽をした。もうけた。ふるくなった。傷んでいる。梅雨である。けがれている。煩わしい。こんな世の中で生きている。

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ  同

抉るには比喩的な心理的な物理的な意がある。炎昼、円柱、宴中、園中等々。よくわからない。何も望んではいけない。

だいぶ難あり銀河こそこそ描写して  同

かなり難がある。隠れてする必要はない。銀河とは、星やガスや塵などが重力であつまった天体である。描写とは、あるがままのすがたを描きだすことである。

つゆしぐれ 鋒ずっとかりものの  同

思い入れはない。興味があったのではない。買えばよかった。鋒のまわりはしぐれている。鋒とは刃物の先端のことである。不要であるが必要なときは突然にやってくる。

あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない  同

ためらっている。言ってみてもしかたがない。初雪を見ている。あのねとは、話しかけるとき相手の注意をひくことばである。またはつなぎ言葉として使われたりもする。


◆ハプスブルク家の春

ふるえるか。書けば春夜の水面あり  超文学宣言

吹きさらしである。軽薄である。文字をしるすと春の夜の水面があらわれる。水面にはさざなみが立っている。

劇のまなかをしろい灯火ら萌えてゆく  同

何かがはじまる予兆がある。それを劇という。劇とは激しくはなはだしいものである。しろい灯火らしきものを確認する。

ステンドグラスを割りうみを漏らすな  同

色硝子を組み合わせて描く。割るのである。割ったあとうみを漏らしてはならない。

ゆるやかに回転しつつ庭が咲く  同

回転しているのは時間である。庭に咲いているのは時代である。庭とは領土のことである。

チューリップ持ち雑踏のトラムぬけ  同

チューリップを持つひとがいる。日常ではない。非日常でもない。雑踏のなかをトラムがぬけていく。

遠くよばれて離宮の門が灼ける  同

離宮とは、皇居や王宮とは別に造られた宮殿や別荘のことをいう。居住、避暑、避寒、静養、接待会合等のために使われる。主従関係がある。敵味方が入り乱れる。離宮の門が灼けたのである。血なまぐささを感じる。

うつむけばペルソナに木の洞うかぶ  同

ペルソナとは仮面のことである。ペルソナとは外的側面、内側に潜む自分とある。木の洞とは隠れる場所である。弱いから強いふりをする。自信なさげにうつむく。そのくり返しである。仮面をつけ微妙なバランスのなかを生きる。

宙に吊るひとつの逆説の運河(だ)  同

逆説の反対は、整合性、順接、直説とある。整合性とはものごとに矛盾がなく調和のとれていることとあった。運河とは、人工的な水路のことである。目的はかたちにしておかなくてはならない。世のなかは矛盾に満ちあふれている。

エジプトがくらがりを来てさえずっている  同

やかましくしゃべることを蔑んでいる。ひかりがとどかない場所から来たのである。しかたがないと思っている。純潔には意義がある。ないなどとも思ったりしている。

回転扉よりおもむろに日浴びする  同

静かにゆっくりと日浴びする。静かにゆっくりと回転扉を通り抜ける。日浴びをしなくてはならないということではない。

臉をうつ硬水育ちらしく風  同

瞼をうつとは瞼を閉じるということである。硬水育ちがあれば軟水育ちもある。何を育てるのかということだ。風が立ったりしている。

炉の影が雫の中をたぶらかす  同

巧みな言葉や行動がある。影とは光が当たることによってできる形である。影はたぶらかすことができる。無形や非形がたぶらかすのである。炉とは燃えつづけさせるための道具である。

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  同

堕ちるとは、落下する、失敗する、上から下へ移動する、とある。そんな時でも「Grüß Gott, Grüß Gott」という。ひたきは堕ちたのである。

高木の口語に風の拍がする

拍とは、手のひらを打ち合わせる、うちたたく、ひょうしをとるとある。手は風を立たせる。風の拍がするのは高木の口語だからなのである。

みず巡る接吻もみずあさくあり  同

巡るとは、回ってもとにもどる、取り囲むとある。みづとは水素と酸素の化合物である。無味、無臭、無色、透明である。いわゆるひとにとって必要なみづは、地球全体の0.01%程度でしかないとあった。

接吻とは愛情、尊敬、挨拶などを表す行為である。ふかいよりもあさい方がいい。身の安全を守るためにはその方がいいのである。

合図なくたおれて鹿は孕んでいた  同

合図などろくなものではない。くらしに合図など不要なものである。ながれるままでいいのである。どこでたおれるのかわからない。鹿が孕んでいたことなど誰も知らない。

玉ねぎ焦がしてきっととりのゆめだ  同

フライパンに油をひいて玉ねぎをおく。玉ねぎはしなり尻に焦げ目がつく。とりのゆめとはしなった玉ねぎのことなのである。

天球を腹に匿い泳ぎだす  同

海を匿うことは不可能である。それでも匿っているような錯覚におちいることはある。波は静かである。一面の青空とひとつの太陽。天球を腹に匿い泳ぎはじめる。

ふらん、せ、得、ずに野を遊ぶ有神論  同

「ふらん、せ、得、ず」とは、物質のことである。あまくしたにとろける物質である。有神論とは、あまくしたにとろけるものなのかも知れない。神の存在を肯定する立場である。無神論の対義語である。

造形を馬二匹駆け微風あり  同

様々なものを媒介とする。形あるものを作りだす。「馬二匹駆け」「微風あり」とは、目の前のできごとをことばにしたものである。


◆夏の詰合せ

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

同じカロリーのもので調整する。炊飯器が壊れたこととは関係がない。体重の維持は難しい。過食はいけない。拒食もいけない。

あぢさゐや子を通訳に保護者会  同

通訳は必要である。世代や国が同じでも必要である。たいした案件でなくても必要である。保護者会には雨が似合う。あぢさゐにも雨が似合う。

白鷺を中心点に風立ちぬ  同

風が立つとは風が吹くことである。白鷺は飛び立ったのである。白鷺をまんなかとして風が吹きはじめたのである。

カルピスの薄めの実家青田波  同

微妙な加減が必要である。濃すぎるといけない。薄すぎるとさびしい。庭の先には青田がひろがっている。青々と育った稲の葉が風になびいている。

掛軸を退かせば穴や蚊遣香  同

蚊遣香の役割はひとつである。掛け軸にはもうひとつの役割があった。掛け軸を入れ替える度に思い出す。

月涼し言葉を文字にして記す  同

ことばを文字にしてみる。話した内容のうすっぺらさを感じる。文字にしても変わらないことばを発したい。夜更けの月のひかりには涼しさを感じる。

いい距離の同居でゐたし黄薔薇咲く  同

老妻と暮らしている。この暮らしが最良だと思う。子どもが孫をつれて遊びに来る。憂鬱になる。不快になる。何もしない静かな一日が続くことを願う。

健康であることに感謝している。このバランスが崩れると「いい距離の」同居について考えることになる。

成長曲線を飛び出す跣の子  同

成長曲線、飛び出す、跣の子、なんと逞しい言葉だ。幸せな気持ちになる。幸せな気持ちになることが不安になる。それほど年老いてしまったのだと思う。

夏の詰合せ余つたのを貰ふ  同

詰合せには、箱、かご、包装紙、余計なものばかりである。

誰もが不要と思うものでいい。余ったと思うものでいい。判断を信用してはいけない。自分の判断ほどあてにならないものはない。余ったと思うもので十分だと思う。

何者か閉ぢ込められてゐるゼリー  同

部屋に閉じ込められる。容器にゼリーを流しこむ。身動きがとれなくなる。ゼリーも同じ運命である。何者とは自分自身のことなのである。


◆とは

日の色の春のふすまや目の当り  上田信治

当るには、対象があてはまる、ぶっかる、影響を受ける、あるいは、触れたときの感じ、強い力が及ぶとあった。目の前に日の色の春のふすまがある。

タッパーの蕗味噌四角くて天地  同

畦に蕗はいくらでもあった。最近はほとんど見かけない。刈払機で雑草もろとも刈ってしまったからなのかも知れない。四角いタッパーに蕗味噌をたっぷりと入れる。天地とは、全世界ということである。

流連の命預けて雲丹の鮨  同

流連の命とは大げさである。雲丹がかすんでしまう。新鮮な雲丹は美しい。新鮮な鮨は美しい。遊興にふけっているひとは美しい。もとの場所、もとの状態にもどることは難しい。

濡れてゐて考へ顔のあざらしよ  同

考えている自分がいる。あざらしがいる。あざらしも考えているような顔に見える。濡れているとなおさらである。

干し網のむかう三月晴れてゐる  同

干し網の向うは三月である。干し網のこちらも三月である。干し網の向うは晴れている。干し網のこちらも晴れている。不思議なことだと思う。

散る花のパジャマの下が干してある  同

上が干してない理由を考える。男ものなのか女ものなのか。そんなことも考えてみる。来年の花は見ることができるのかなどと考えてみる。

花烏賊のみなとに雲の多かりし  同

桜の咲くころの烏賊を花烏賊という。ひとの身勝手である。烏賊にとっては迷惑なはなしである。みなとに雲が多い。それは雲の抗いなのかも知れない。

花かつお人生は春ひらひらと  同

時間が若者と同じように残っている。春になると老人はそう錯覚する。季節がそうさせるのである。人生の春とは戻ることである。

薄く削れば万能である。ひらひらとはかるくひるがえるように動くさまのことをいう。ひらひらと生きていきたいと思っている。

はまぐりや夜開いてゐる喫茶店  同

怪しい喫茶店である。はまぐりやとしたことで、さらに怪しさがました。はまぐりのにおいがする。醤油のにおいがする。油のにおいがする。不気味な喫茶店である。

パン工場消えてもぬけの春の空  同

春の空にパン工場はある。パン工場は存在している。ただ、パンを焼く道具がない。小麦粉、酵母、塩などもない。

富士山もいそぎんちやくも穴開いて  同

穴とは開けたり掘ったりしたくぼみのことである。開くとは場所や物事が通り抜けられる状態のことをいう。心や時間に余裕があることもいう。富士山もいそぎんちやくも穴が開いている。困ったことだと思っている。不安なことだと思っている。

海苔の海だれも見てゐない昼の  同

見ていないのは海苔の海だけではない。だれもが何も見ていないのである。もちろん昼に限ったことではない。四六時中、だれもが何も見ていないのである。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

晴れた日には菠薐草を食べてはいけない。曇りの日にも菠薐草を食べてはいけない。菠薐草を食べていいのは雨のあとだけなのである。菠薐草のソティー、菠薐草のお浸し。だれもが雨のあとに菠薐草を食べている。

会館に昔の松や雲に鳥  同

抗っている松である。故に「昔の」なのである。抗うことは無駄な努力ではない。それでも、そんな努力は疲れる。そう思うと悲しくなる。

春になると鳥は北方に帰っていく。自然なことである。不自然なことである。会館とは松のある建物のことである。

日永とは鯉一つゐる町の川  同

日永とは「鯉のゐない」町の川。日永とは「鯉一つゐる」町の川。日永とは「鯉二つゐる」町の川。日永とは「鯉・・・・」町の川。鯉がゐなければ何もはじまらない。「とは」とは連語である。着目する事物を提示するために使われる。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525

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