2025-06-15

西生ゆかり【週俳3月4月5月の俳句を読む】存在するとは

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
存在するとは

西生ゆかり


松田晴貴「巣箱」は、余計な力みや強張りの無い作品だと感じた。とは言え、ふにゃふにゃして倒れそうというわけではない。見えないところで体幹を使っているのだろう。

甘海老を殻より抜きて春の山  松田晴貴

甘海老を殻より抜いたら、ぽん、と春の山が出現したような驚き。「甘海老の形を山に見立てた」という鑑賞も出来るが、あまり理屈で囲い込まない方が良いだろう。

狛犬の筋目あかるし春落葉  同

〈狛犬の筋目〉って何だろう、と思い「狛犬」で検索したところ、こちらのサイトを見つけた。世の中にはまだまだ知らない事があるものだ。〈狛犬の筋目〉が何なのかは結局まだわからない。〈春落葉〉のほんのりとした淋しさが利いている。

足跡とサーフィン摺つてゆく跡と  同

サーフボードを〈サーフィン〉と呼んでしまう初心者が、サーフボードを引き摺っている景と見た。大らかで良し。

腕の毛のかがやいてゐる砧かな  同

〈砧〉と言うと着物の女性が打っているようなイメージがあるが、実際には腕まくりをする事もあるだろうし、そこに毛が輝いている事もあるのだろう。

 

おおにしなお「ゆらめくようにだめなとこ」は、俳句と俳句以外の境界線を揺らすような、揺るがすような、揺さぶるような、甘く破壊的な作品だと感じた。

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお

〈ちゅー〉で唇を尖らせたり〈めみ〉で唇をくっつけたり、音読するととにかく気持ちいい。一方、〈ゆー〉の繰返しが中原中也「サーカス」の〈ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん〉を連想させるためか、少し不安な気持にもなる。

もっと来ないでね王子 五月のびる群送りながら  同

「もっと来てね」でもなく「もう来ないでね」でもなく〈もっと来ないでね〉。これは「正しくない」言葉遣いであり、このような言葉遣いで王子を拒む姫(?)の振舞いも、古き良き童話の世界においては恐らく「正しくない」。しかしそのような「正しい/正しくない」のジャッジを自らに向ける事なく、主体は〈五月のびる群〉(五月伸びる群?五月のビル群?)を〈送りながら〉、何やらのびのびと踊っている。

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ  同

〈こころになれるかなあ〉と言いつつも、あまりなる気はなさそう。〈こころ〉以前の、魂?深淵?みたいなものが、ぷにぷに揺蕩っている。

あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない  同

口から零れ出た〈はつゆき〉という音は、すぐに〈初雪〉に変換される。〈なんでもない〉と発言を取り消したところで、既にそれは皆が知っているあの〈初雪〉になっており、〈はつゆき〉という存在は失われている。言葉にする事で、その都度我々は何かを壊し、別の何かを生み出している。

 

超文学宣言「ハプスブルク家の春」は、なかなかトリッキーな作品だと感じた。(これは前書ではない)から始まる文章が冒頭に置かれているが、これをどう捉えれば良いか。例えばルネ・マグリット《イメージの裏切り》に書かれた「これはパイプではない」という言葉は、少し考えれば理解できる(そこにあるのは「パイプの絵」であり、「パイプそのもの」ではない)。一方、「本文の前に置かれた文章」は普通「前書」と呼ばれるので、(これは前書ではない)という言葉が「本文の前に置かれた文章」に含まれている限り、(これは前書ではない)を真として受け止めるのは難しい。では偽として受け止めれば良いのか(つまり、本当は前書であるにも拘らず作者は嘘を吐いている?)または、「前書」をもっと狭い意味で捉えれば良いのか(つまり、「俳句の背景を説明するもの」という意味で作者は「前書」という言葉を使っている?)ちょっとした論理クイズを解いているような気分になった(まだ解けていない)。

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  超文学宣言

Grüß Gottはドイツ語の挨拶だが、直訳すると「神のご加護を」という意味らしい。〈ひたき〉は鳥の鶲の事だろうか。「神のご加護を」と言った直後に鳥が堕ちてくるとは、コミカルな景のようにも思えるし、深刻な状況のようにも思える。

ふらん、せ、得、ずに野を遊ぶ有神論  同

〈ふらん、せ、得、ず〉はfrançais(フランス人、フランス語)を日本語表記したものだろうか。「腐乱」という語を読み取る事もできるが、〈得、ず〉と言っているという事は、腐乱してはいないのだろう。〈野を遊ぶ〉事と〈有神論〉を唱える事との間に因果関係があるのかはわからない。〈Grüß Gott〉の句と共通するテーマがあるような気もする。

 

上田信治「とは」と竹岡佐緒理「夏の詰合せ」は、対照的な2作品だと感じた。前者は限りなく空っぽな世界を志向している。後者は要素がぎゅっと詰め込まれた世界を志向している。

花かつお人生は春ひらひらと  上田信治

「花かつおひらひらと」に〈人生は春〉が割り込んだような、不思議な語順。「人生は今が春」の意とも取れるし、「人生とは即ち春」の意とも取れる。H音の繰返しが、春の明るさと柔らかさ、それに微かな不安を呼び寄せる。

はまぐりや夜開いてゐる喫茶店  同

客がいるかはわからない。店員がいるかさえ怪しい。ただ、はまぐりのようにぼんやりと、その喫茶店は〈夜開いてゐる〉。

海苔の海だれも見てゐない昼の  同

〈だれも見てゐない〉とわざわざ言われることにより、〈海苔の海〉は「誰かに見られている具体的対象」ではなく、「誰にも見られていない抽象的イメージ」として我々の前に立ち現れる。その存在の仕方は、神秘的であると同時にどこか危うい。その危うさが、中七下五の字足らずで表されているように思う。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

雨と菠薐草との間に因果関係は感じられない。しかし〈菠〉に含まれる「波」の字に、ほんのりと雨の余韻が感じられる。

会館に昔の松や雲に鳥  同

芭蕉の〈此秋は何で年よる雲に鳥〉には「老いていく私」が描かれているが、掲句には「私」が無い。会館には昔の松があり、雲には鳥があるが、それらを認識している「私」の気配は希薄である。しかし〈雲に鳥〉という引用が呼び寄せた芭蕉の幽霊が、ぼんやりとそこにいる、ような気もする。

日永とは鯉一つゐる町の川  同

直感的に把握できる意味としては、「日永=鯉一つゐる町の川」という事になる。しかしこの〈とは〉はイコールの役割を果たすだけでなく、直前の〈永〉と手を繋ぎ、永久(とことわ)のムードをも醸し出している。日永の時間的長さと永久の時間的長さ/鯉の空間的長さと川の空間的長さ、という対比を読み取る事もできる。

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

「ちょーしょくはひょーか」。後半の音がたまらなく気持ちいい。ちなみに朝のアイスは健康に良いという説もあるらしい。

あぢさゐや子を通訳に保護者会  同

外国語通訳かもしれないし、手話通訳かもしれない。通訳を介さないと交流できないもどかしさを想像する事もできるし、逆に通訳を介することで生まれるカラフルなコミュニケーションを想像する事もできる。〈あぢさゐ〉の繊細な美しさが利いている。

いい距離の同居でゐたし黄薔薇咲く  同

「良い」ではなく〈いい〉および「赤薔薇」ではなく〈黄薔薇〉という選択が、くつろいだ雰囲気を醸し出している。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525

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