【週俳3月4月5月の俳句を読む】
身体は水を
羽田野 令
鞦韆をかけて昔の木となりぬ 松田晴貴
木がだんだん大きくなっていく時、蟬が来て鳴いたら一人前の木になったなあと喜べるし、ぶらんこが出来るぐらいのしっかりした枝が出来てきたら、自分の子どもが大きくなったように嬉しいものだ。掲句では、ぶらんこの掛けられている木は昔の木だと言う。作者にとっての昔は幼少の時なのだろう。木のぶらんこを作ると幼い時遊んだ景が広がっていく。
藻の花や日影日向とくりかへし 松田晴貴
美しい景である。藻の花の咲くところは相当きれいな水の流れるところだ。水も冷たくなければならない。澄んだ水の中に白い小さな藻の花がいくつも咲いていて、川面に木洩日が差している。「日陰日向とくりかへし」という表現は、水が流れているということを言ってはいないのだが動きが感じられる。風で木々が揺れると葉の影も動き、藻の花は日の差すところへ出たり又影の部分に入ったりしているのだろう。観察が行き届いている。
抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ おおにしなお
ひらがな表記にこだわっているのは、音の一つ一つが仮名に対応して判ることが作者にとっては大事なことなのだろうか。
この表記だとまず、パッと見て読みにくい。「なれるかなあ」はどの「なれる」だろうか。
慣れる/成れる/馴れる/熟れる/狎れる
どの意味で読まれてもいいということだろうか。
抉れている円柱がいつかは慣れて自分の意に沿うようになるのか。
或いは、いつか心になるのか。
私は「慣れるかなあ」と思ったのだが。
と、ここまで書いてきてもう一つ気づいた。「えんちゅう」を「円柱」だと疑わず読んできて、円柱の一部が抉り取られているような形を頭の中で描きこの句が何を言ってるのかと考えてきたが、「えんちゅう」は「炎昼」かもしれない。
抉れるという言葉から具体物が抉り取られているように思ったから「えんちゅう」は「円柱」とすんなり解釈したが、抽象的な表現として「炎昼」という時を「抉れて」と表現しているのかも知れないし、「抉れて」の後ろに切れがあると読むと「円柱」より「炎昼」の方が解り易いか。
句の繋がりで見ると、かたくりの花→五月→梅雨→えんちゅう→銀河→つゆしぐれ→初雪、と並んでいる。これでは、梅雨の句と銀河の句に挟まれている掲句は「炎昼」に違いないと思えてくる。
抉れているという普通ではない状態、かなりマイナス要因の強い状況の暑さの盛りの真昼間が提示されている。「え」の頭韻は心地よい。
はてさて、いつかこころになれるかどうなのか。
エジプトがくらがりを来てさえずっている 超文学宣言
くらがりは長きにわたって横たわり続けている。何千年もの彼方にある輝きを籠めて。
誰かがその扉を開けようとして少し覗くと彼方なるものは来てさえずる。
天球を腹に匿い泳ぎだす 超文学宣言
水に腹這いになって泳ぐ時、身体は水を抱えている、海を抱えているというのがが普通のことなのかと思うが、水とは反対の天を言う作者。水を抱きながら上の天球も持つという。腹に隠して持っている。誰も知らない自分の内で抱え持つ。腹の辺りから天と通じあう身体は、水を自在に泳ぎ始める。人間の発生時にそうであったように。
造形を馬二匹駆け微風あり 超文学宣言
形造られたものは何なのかわからないのだが、そこを駆ける馬そして風。馬が駆けても風は微かである。二匹と言っているが馬ぐらい大きな動物になると、二頭の方がカッコいいと思う。二匹というと猫か犬みたいな感じである。二頭が駆けてほしい。颯爽と。
造形とは建築物などではなくて、例えばここに文字で作られた世界であってもいいのかな等と考える。最後に置かれていることがそう思わせる。
「ハプスブルク家の春」という作品の最初は、前書きではないという散文がある。散文から始まってこの句で終わる連作という形なのだろうか。散文部分はそれだけで独立した詩のように読める。線や砂場やオーストリアの風景や盆地や林や風が為す世界は、俳句作品と離して読んでそれでいいのではないかと思うが、それは作者の意図を私が解っていないからであろう。
何者か閉ぢ込められてゐるゼリー 竹岡佐緒理
ゼリーはよくフルーツなどを入れて固めるから、出来上がった透明のゼリーの中に桃があったりミカンがあったりというのがわかる。だが中に入っているものを「何者か」と書くとそれが生き物だったものような語感だ。それに入れてあるのではなくて「閉ぢ込められて」いるというのもそうだ。動物感いっぱいに読んできて最後にゼリーと書かれているが、そのゼリーの形状を浮かべると同時に琥珀を思う。昔の生物がそのまま籠められている琥珀とゼリーはよく似ている。ゼリーがふっと琥珀とダブルイメージとなり別の位相へ浮かび上がっているのが面白い。
タッパーの蕗味噌四角くて天地 上田信治
四角いタッパーにふき味噌が入っている。ダンボールだったら天地無用と書かれているところ。
上下をひっくり返さないようにねと言われて、あ、そうか天地があるんだ! この小さい世界にも、と思った作者を想像した。
流連の命預けて雲丹の鮨 上田信治
「流連」とは、楽しくて遊び続けて家に帰ることを忘れた浦島太郎、そんな感じだと思うが、「命預けて」などという任侠の世界に飛び交う言葉が続く。食べることにそんな大仰に言うのが少し可笑しい。でも、雲丹の鮨だから許される。雲丹はしょっちゅう食べられるものでもないし、その格別の旨さはこの表現に価するのだろう。
海苔の海だれも見てゐない昼の 上田信治
海辺に海苔が干されているという真昼。斜めに立てかけられた簾のような物の上に海苔が四角く貼り付けられて並んでいる。海辺は空も広い。大きな景の中に誰もいない。今は人はいないが、人の営為による海苔が干され昼の日差の中で乾きつつある。太陽と海と海苔の深閑とした風景に波音だけが聞こえてくるようだ。
■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日
■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日
■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日
■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日
■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日
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