【週俳3月4月5月の俳句を読む】
ドーナッツと穴と
山田耕司
ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖 おおにしなお(以下同)
意味をコントロールする手綱からふっと手を離してみると、言葉は音としてふるまい始める。
音を遊ばせながら、また、意味への手綱をふいに引き締める。
文学とは命の重みを映し出す器であるという考え方があるとするならば、弛緩と緊張の繰り返しを与えられた意味と音との痙攣は、その器を蹴飛ばすことになる。
軽々と信じられてきたような文学に揺さぶりをかけること。その行為そのものがテーマになっているのが、おおにしなおの作品なのだろう。
「ゆめみる湖」という俗っぽい表現は、「ゆ」という音の痙攣から導かれたものであると同時に、(ひょっとしたら遊泳禁止の湖で起きた事故などを逆説的に表現したものなのかしらなどという)意味の深みへの道筋を封印する効果も発揮しているようである。
空き地でかたるねねどこ再び翅まみれ
空き地でかたるね/ねどこ再び翅まみれ と文節することができるのだろう。ともあれ、ここでは「ね」という音のの痙攣が主眼なのだろうし、「ねどこ」という言葉を中心としての想像を、痙攣を濁らせないように(つまり、意味内容の方が音遊びの趣を調節してしまわないように)、ほどほどに提示しようとしているようだ。「空き地」の虚しさは、そうした「ほどほど」の手の打ち方のひとつなのだろう。
しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵
抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ
俳句を詠む。その行為そのものを対象として、そして、多くの場合において信じられている俳句という存在を揺らすことを目的として、作品を書く。
それは、俳句へのメタ的な接近方法でもある。メタ的な方法には、行為者のボヤキが滲み出ることが少なくない。
上記の句などを、その手のボヤキとして受け取ってみようか。作者の、誠実さや内省の深さのようなものを汲み取りながら。
あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない
書く。それは、言葉として何らかを指し示すこと。これ、ドーナッツ。ドーナッツの形や味を求めるのが、意味を書くということ。
書く。それは、言葉では言い尽くせない何かをイメージしながら、あるいは、イメージを結ばないように配慮しながら、あえて言葉でそれを作ってみることでもある。それって、穴を作るためにドーナッツを利用しているということができるかもしれない。
この世界には、意味でドーナッツをこしらえることにこだわりを持つ人もいれば、ドーナッツそのものよりも穴の存在に惹かれていく人もいる。
どちらが良いのかを判定しても面白くない。
ともあれ、言葉を書き連ねることへの傾きは人によって違うよね、という表現行為への柔らかさは持っていたいものだなぁと思うところ。
「はつゆき」を音として解き放ち、「初雪」という意味の世界へと踏み込んでみたものの、どのようにグレて見せようとも(グレるというのはあくまでも喩としての表現。作者の誠実さを茶化したりするものではない)、何やらそれなりの文学的な意味の重たさを引き受けてしまいそうになる。ドーナッツを作りたいのならば、その文学性に身を委ねてゆけば良い。しかし、穴に関心がある者は、立ち止まってしまう。「なんでもない」。このフレーズは、そうした立ち止まりをメタ的なニュアンスも込めて書き留めたものかもしれない。穴を作ろうとしているのかもしれない。
込められた意味をちゃんと解釈する。そんな読み方がある一方で、ドーナッツになりたくないという志向を受け取りつつ、意味に着地しないように配慮する読み方もある。
ナンセンスな行為が何の役に立つんだろうと思う人もいるかもしれないけれど、役に立たない行為が、この世界ってこんなもんだよねとわかりきってしまったような考えを揺さぶって目覚めさせてきたことは忘れてはいけないと思う。
ドーナッツになりたくない作品として、おおにしなおの取り組みを読ませていただいた次第。
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