【週俳3月4月5月の俳句を読む】
あなたのうしろから風を感じる
土井探花
◆松田晴貴 巣箱
甘海老を殻より抜きて春の山 松田晴貴
いわゆる「飯テロ」とはこのような作品をいうのだろうか。「食べ物は美味しそうに詠む」という俳句の常道にとても忠実である。もちろん誉めている。特に、「殻より抜きて」が良い。剥くんじゃなくて抜く。甘海老マスターの称号すら与えたい。次々と堪能する甘海老。目の前には半透明の赤い殻の山。そしてさらにその先には春の山。美食に舌鼓を打つ作者の食欲の旺盛さを寿ぎ見守っているかのようである。
鞦韆をかけて昔の木となりぬ 同
公園にある鉄骨と鎖の「ブランコ」ではなく、丈夫な木におそらくはロープでかけられた鞦韆。これが本来の姿に近いのだろう。「昔の木となりぬ」が秀逸で、明治や大正の時代の木を想起しても良いし、さらにさかのぼり、国境を越え、李商隠や蘇軾の漢詩にあった鞦韆がかけられた木に思いを馳せてもよいだろう。そんな読者の貪欲な妄想力に耐えうる、素朴ながらもロマンティックな措辞であるのだから。
雪の下午前いつぱい手紙書き 同
わたしは俳人失格の夜型人間で、句も手紙ももっぱら夜に書いている。「夜に手紙は書くな」と昔から言われているから、さらにいろいろ失格である。さて掲句、「いつぱい」は「午前中ずっと」という意味か、「たくさん」の意味か、おそらくは両方だろう。送りたい手紙、返事を書かなくてはいけない手紙、ちょっとため込んでしまったのかもしれないが、「書き」の連用形から終わってはいないもののだいぶ片付いたようだ。「雪の下」という控えめで可憐な花から作者の真摯な姿勢が伝わってくる。
◆おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ
ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖 おおにしなお
「ゆめみる湖」は「ゆーえい禁止」であるという。そんな素敵な湖があったら、私もこっそり足ぐらい入れたいものだが、平仮名表記の中で「湖」「禁止」だけが漢字であることは意味深だ。言葉遊びのようにも感じる前半から一転、「禁止」が呪縛のように君臨する。わたしたちはこの湖で遊泳するばかりか、「ゆめみる」ことさえ「禁止」されているのか。ディストピア的現代世界を示唆するような作品である。
しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵 同
これも示唆的な句。「言葉の塵」は詩でもなく言葉ですらないゴミであるのだろう。梅雨にあって黴のようにはびこるこの「言葉の塵」。しかも「ぼろい」ときているから辛辣だ。このような新しく魅力的な詩を書く作者にとってぼろくて言葉のゴミとは何かと考えると、自分の俳句の陳腐さを言われているようでドキッとする。というより、この作品を読んでドキッとしない表現者は少々鈍感である、とわたしは思うのだが。
抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ 同
「抉れて」いるのは「円柱」か「炎昼」か。どちらの読みも可能だがわたしは「円柱」で読んだ。遺跡などで壊れたり欠けたりしつつも千年単位で立ち尽くしている円柱のイメージが喚起された。「いつかこころになれるかなあ」にはそんな「えんちゅう」への優しさなのだろうか。アニミズム的に物が魂を持つこととも似ているが、「なれるかなあ」と「なれるかな」には大きな違いがありそうだ。凡百の詩人が無条件に信頼するアニミズムへの懐疑さえ感じる。
◆超文学宣言 ハプスブルク家の春
ふるえるか。書けば春夜の水面あり 超文学宣言
わたしは倒置気味の句として読んだ。ただ「春夜の水面」と書く。それは日本語かもしれないしドイツ語かもしれない。書いた途端に、それは単なる言葉ではなく形を持った水面となって、ときにゆらめき、ときにふるえる。「ふるえるか。」の句点さえ、単なる区切りではなくふるえる世界の一部なのだろうか。
ステンドグラスを割りうみを漏らすな 同
うみを漏らさぬようにステンドグラスを割るのか、それとも割ってうみを漏らすようなことはするな、なのか。読みが正反対に割れるのは作者の意図だと思い、わたしはとりあえず後者で読むことにした。そもそも「うみ」とはなにか、「海」か「湖」か、あるいは「膿」か。これも勝手に自由に読んでくれというメッセージだと判断したが、どうもステンドグラスというと『薔薇の名前』のような醜悪な修道士が出てきそうだ。とすると「海」「湖」を「漏らすな」というファンタジーの読み方も、「膿」を隠し通せというグロテスクな読解も許容されている。懐の深い、多義的、多面的な作品で脱帽するしかない。
エジプトがくらがりを来てさえずっている 同
ヨハン=シュトラウス2世の「エジプト行進曲」がまず脳内を流れてきた。ハプスブルグ家のフランツ=ヨーゼフ1世もエジプトのスエズ運河開通に関わっており、また同家には独自の古代エジプトコレクションがあるようで、この連作の中での「エジプト」の出現はあながち唐突ではない。だが当時の世界のパワーバランスを考えれば決してポジティブな登場ではないだろう。不本意に持ち込まれたファラオの装飾品や、人為的に運河で結ばれた水がまさに「くらがり」を来て自己主張のごとく「さえずっている」のだ。
造形を馬二匹駆け微風あり 同
「造形」がなんとも挑戦的である。作者が冒頭で触れた「シェーンブルン宮殿」をはじめとして、たくさんの精緻な造形のあとが見いだせるウィーンにあって、現在進行形の「造形」が形として、あるいは想像の産物としてあり、そこを馬二匹が駆けた。微風ではあるが、確かに風を感じた。どこかには自分達の文学が無風であることを嘆いている方がおられるというが、その方々はこの微風を感じ取れることは果たしてできただろうか。あるいは突風になるかもしれないこの風に気づかないのだろうか。
◆竹岡佐緒理 夏の詰合せ
カルピスの薄めの実家青田波 竹岡佐緒理
夏というと麦茶やカルピス、アイスティーなどの薄さを指摘しがちだが、麦茶の薄さに比べ、カルピスの薄さには人為的、作為的な要素が多い気がする。要するにカルピスの支配者(?)の裁量でだいたいの濃淡が決まってしまうのだ。子が帰ってきて家族が多くなるならなおさら原液の量は減らされそうだ。そんな実家でも、やっぱり居心地は良い。特に青田波の美しくすがすがしいこと。座布団を枕にして、多少行儀の悪い格好で都会にはないこの感覚をしばし満喫しようではないか。
月涼し言葉を文字にして記す 同
言葉≒文字であるとつい私たちは思ってしまいそれを他者に押し付けようとする。でも世界には口承文化の国がたくさんあり、あった。身近ではアイヌ文化が現存している。あるいはインカやアステカ帝国をイメージしても良いだろう。だから「言葉を文字にして記す」という措辞は普通の行動というよりは、一長一短があるものの貴重な行為だ。「月涼し」の夜にあって、当たり前を当たり前でなく尊ぶのもまた一興だろう。
夏の詰合せ余つたのを貰ふ 同
そろそろお中元の季節。このような「夏の詰合せ」を贈ったり頂いたりする方もいるだろう。お菓子にしろ、調味料にしろ、なぜあの詰合せには当たりはずれがあるのか。ちょっと使わないもの、口に合わないものも残念ながら入っていることがままある。だが作者は「余つたの」を貰う。確かに当たりではないかもしれないが、思わぬ福も紛れているかもしれない。「のを貰ふ」という口語的な表現が気軽で束縛がなくて、幸せそうである。
◆上田信治 とは
散る花のパジャマの下が干してある 上田信治
いわゆる日本的な「散る花」の風情、例えば紀友則の「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」とはかけ離れた「パジャマの下」のインパクト。(誉めています)下というとパジャマの下着なのか、ズボンのことなのか、まあそれは良いだろう。この連作では掲句の前後と合わせ三句いずれも「~の」の上五の形をとっているが、この「の」だけは異質で、「や」より弱い切れの要素があると思われる。現代的な、かっこいい切れである。
花かつお人生は春ひらひらと 同
「人生」というパワーワードの登場に思わず身構える。春ならば明るく輝く人生なのかなと読み進めると「ひらひらと」が来る。それは落花のようでもあり、蝶の頼りない飛翔のようでもあり、さらに冒頭の「花かつお」とも連携しているようだ。花かつおの庶民性と、花や蝶のはかなさには前句と同じく大きなギャップがありながらも、「ひらひらと」の共通性を見出す作者の慧眼を感じずにはいられない。
日永とは鯉一つゐる町の川 同
表題句でもあり、かなり立ち止まってしまった作品でもある。魚の鯉の数詞は本来「一尾」「一匹」などであろうが、ここでは「一つ」。最近句会でも本来の数詞ではないものを敢えて用いて数える方法を見かけることがあるが、かなり異質な鯉をイメージした。あるいは掲句の鯉は生物ではないのかもしれない。いずれにせよこの町の川には「一つ」しか鯉がおらず、それが「日永」であるという。そして「とは」。単なる連語「とは」ではなく「永遠」の要素も感じるのは深読みしすぎだろうか。皆さんもこのなにか矛盾した日永にどっぷりと浸かってほしい。
■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日
■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日
■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日
■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日
■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日
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