【週俳6月7月8月の俳句を読む】
僕の……自由さっ!
田中目八
本文を書き終わって書く前書
アニメ『おでんくん』(原作はリリー・フランキーの絵本)にニセおでんくんというキャラクターが出てくる。
彼の口癖に「僕の……自由さっ!」というものがある。
ちなみに私はガングロたまごちゃんがファン。
そのガングロたまごちゃんが釣りをしているニセおでんくんにそんなの楽しいのかと問うと「何を楽しもうと…」と言ったあと上記の台詞でキメるのである。
ニセおでんくんはこのあと、魚が自由に生きているつもりでも川の流れから外には出られない、ちょっと飛び跳ねてみせるだけだというようなことを言うのだが、ここで突然前書は終わる。
◆ミスター諦念退職andミセス胃癌退色 ミテイナリコ
うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア
初めに作者のミテイナリコ氏に謝っておきたい。
私にはこの句の面白さがわからなかった。
更に言えば、今この句を冷静に客観的に、また肯定的に捉えることができない。
それは私の個人的事情、状況によるものであることは断っておく。
以上のことからこの句及びこの句を含むことで連作全句の鑑賞を辞退させてもらうことにした。
重ね重ねお詫び申し上げる。
以下、未整理のままながら、句会における、いわゆる取らざるの弁を若干述べて鑑賞の代わりとさせてもらいたい。
まず、この句は実質、内容としては
うるせえなババア!殺すぞ!死ね(ラリア)
であろう。
『日本では「死ね」に通じるのでサイネリアと呼ばれることの多い』シネラリアがまさに「死ね」の文脈で使われていることの安易さ。
この句だけ言葉の変換が行われていないのは「死ね」を「シネラリア」に変換したということなのかもしれないが、安易なことに変わりない。
そもそも「うるせえなババア!殺すぞ!」からして慣用句的な罵詈の類だ。
「ババア」「殺すぞ!」などという強い言葉は、どういう文脈で使われるかが重要だと私は考えるが、同時にそれに耐えうるだけの内容と構造が必要だとも思う。
特に「殺すぞ!」という、この恐ろしい不穏な言葉が、ただ言葉通りのそれらしか持ち得ておらず、それはやはり「シネラリア」が「死ね」と言ってしまっているからだと思われる。
故に全体として日常から切離されず、異化されず終わってしまっているように私には感じられる。
つまり現実の罵詈、恫喝と変わらないと言ってしまってもよいだろうか。
そうであるならば、この句が俳句か川柳か一行詩かに関わらず、果たして詩足り得ているだろうか。
と言ったら言い過ぎだろうか。言い過ぎかもしれない。
だが、臆病な私は実際に怒鳴られたかのように硬直してしまい、ここから飛躍して読むこと、偉大な誤読へと踏み出すことができなかったのである。
更に突き詰めれば、何故殺してしまわなかったのかということ。
徹底して非情になれなかった中途半端さこそがこの句から詩を奪った一番の要因ではないか。
単に私が今、不寛容に陥っているだけかもしれない。
また、私のこの振る舞いはこの場を得ることができたものの特権の行使でもあり、俳句の内側に、俳句らしさに慣れてしまった者の物言いであるかもしれない。
ここまで勝手を書いてきたが、作者には考えがあり、むしろ私のような反応は想定内、それこそを期待してのことで、私はまんまと罠にかかったのかもしれない。
そうであればとも思う。
恐らくちぐはぐで十全な文章になっていないだろうことは承知している。
作者を非難するものではないが、気分のよいものでもないだろう。
もちろんここに書いたことなどスルーして当然構わない。
そもそも私にしてもスルーして書かないほうが楽だし批判を怖れる必要もないわけだが、結局書くことを選んだのは、黙ることから抜け出そうというごく個人的な事情に過ぎない。
作者がこの句を作り発表したように、私もこの文章を書き発表するということだ。
最後にこの句を世に問うたミテイナリコ氏の勇気、気概を称えたい。
◆彌榮浩樹 小屋へ
姿見に映らぬ武闘水馬(あめんぼう)
燃えよドラゴン……失礼しました。
垂直に立つ姿見が映すのは水平世界である。
水馬の立つ水鏡が映すのは垂直世界である。
そこに映るのは神々と阿修羅か。
駒鳥や麺麭(パン)を数ふるだけの唄
鳥に唄はいわゆる付き過ぎ、何だったらパンも近いと言えるわけだが。
そして何故駒鳥なのかと考えると、恐らくマザー・グース。
つまりこの唄は英語であろう。
英語でパン(ブレッド)は不可算名詞と言って、日本語のように簡単に一つ二つ、一個二個とは数えられないのである。
故に「数ふるだけの唄」が面白くなるわけだ。
駒鳥が美しい声で鳴くことで一層可笑しみが増すように感じる。
セロニアス・モンクの螢袋かな
モンクと言えば帽子。
螢袋を被ったモンクを想像するだけで笑ってしまうが、韻律だけでも不思議と納得させられてしまうところがある。
蜜豆を混ぜて鳥葬日和とも
缶詰の、シラップ漬けのそれではなく、おそらく甘味処の、あとから黒蜜などを掛けて食する類と思われる。
この人は味が均一であることを好むのだろう。
肉体が啄まられて空へと還元されてゆくイメージと蜜豆を混ぜる行為とが不思議に違和感なく重なる心地よさがある。
風通しのよささえ感じるのは寒天の半透明が空、或いは魂を思わせるからか。
黒鯛の下くちびるは小屋へ届くか
下唇の長さを問うているのか、小屋まで運ぶことが出来るかを問うているのか。
下七にその隔たりや困難さを感じもする。
しかし、現実は距離を消滅することはできないが、詩にはそれが可能である。
小屋が動いたって構わない。
詩人(俳人でも構わない)なら答えは「届く」だろう。
不思議なもので、私には黒鯛と小屋の大きさが同じのように見える。
最後まで読めばSF梅雨茸
SFの度量は広い(「朝は早い」ふうに)
これもSFなのかと思うことはよくあるが、このSFは最後にSFだと納得させられる要素があるのだろう。
最後まで読まれるとは限らないが、読めば茸というSF(少しふしぎ)は待っている。
サルマタケかしら。
鉛筆で描いて青唐辛子の絵
熟した唐辛子と青いものとでは質感なども異なるだろうが、それが伝わるには描き手の技量と観る者の唐辛子への観察眼などが必要になる。
一般的に言わなければ先入観もあって赤い唐辛子だと思うだろう。
わからないからこそ青唐辛子の絵だと言っているのではないか。
それは「鉛筆で描いて」という説明的な描写が文字通り説明しているのだと思われるからだ。
しかし実際に赤か青か、決めるのは誰か。
作者か鑑賞者か。
印度式計算術を瓜の花
印度式計算術はインドの学校教育で教えているメソッド。
瓜の花は本来は甜瓜の花だが、胡瓜だとしてもインド原産に違いないようだ。
通常の計算術では時間がかかって花が咲いてしまうが、印度式計算術なら一瞬で胡瓜のスープになる。
さざなみの昼の胡瓜のスープかな
夏の昼の静かさは不思議なもので、それをさざなみと言うのかもしれない。
「さざなみ」が胡瓜のスープにも掛かっていると読めば湯気の立たない冷製が相応しく思える。
胡瓜の効果で火照った身体もさざなみへ。
禿頭(とくとう)と禿(かむろ)の間(はざま)蟻地獄
禿頭は髪の抜け落ちた頭、またはその人。
禿は髪がないの意で、童子の肩まで切り揃えた髪型及びその童子。
ここでは遊郭云々は置いておく。
つまり本来はどちらも髪がないことを言うのだが、実際は大違いであり、その違いの間に、或いはそうなるまでの時間に蟻地獄があるのだろうか。
頭に蟻地獄があり、髪(蟻)が落ちてゆくほうが落語のようで面白いか。
◆押見げばげば 眩暈
唐黍の花かきわけて水平線
ぐんと天へ垂直に伸びた唐黍の海から一点、水平線、夏の海が広がる。
「花かきわけて」からは人物の目線の高さも伺えるだろう。
晩夏とは言え、唐黍の葉の青さから海の青さという色の移ろいは鮮烈だろうが、私には静かで淋しく感じる。
それは、海ではなく水平線という遠きを眼差しているからだろう。
連作を一巡してこの句に立ち返ると、水平線とはまさに夏の果でもあったかと。
愛国心みづやうかんの匙に棘
水羊羹を食べること、匙を口に入れること、愛国心を言葉にすること、何れも「口にする」ことである。
愛国心という言葉もそれを持つことも、何も問題ない筈だが、なかなか口に出せないのが実際ではないか。
また、話題になることもなかなかないと思われる。
匙に刺があっても水羊羹は掬えるが口に入れれば怪我をするかもしれない。
その感じと愛国心という言葉。
もちろん自ら愛国心を口にしなくても、持ち合わせているだけでもよいわけだ。
しかし匙は、お店と仮定するが、まずは交換してもらうよう声にする。
お店のためでもある。
そして存分に清らかで純粋な水羊羹を味わおう。
梯梧落ちて白き睡魔となりにけり
一度だけ見たことがあるが、梯梧の花が散っている様はなかなか凄まじい印象だった。
その燃えたつ赤い花が転じて白き睡魔とは午睡、微睡みというより眩暈、白昼夢のごとき感。
抗えない故に睡魔であろう。
草合歓の共感性に触れてより
草合歓は夕方に葉を閉じる就眠運動を行なうが、それはその共感性故なのかもしれない。
とすれば太陽に共感しているのだろうか。
そして恐らく、その共感性に触れた私もその共感性故に眠るのだろう。
前句からもそう感じる。
蝉暮れて燃えのこりなき手紙かな
すべて燃え尽くしてしまえばそれは灰であり、手紙とは言わない。
しかし手紙のあったことは、その内容とともに心のなかに残っていて、それはやはり手紙なのだ。
もっと言えば心のなかで燻り続けているのかもしれない。
燃やせばあっという間だが、燃やすまでの長い逡巡があったのであろうことが「蝉暮れて」に感じられる。
ゆふがほや睫毛濡れたる死者生者
「睫毛を濡らす」とは騙されないように注意する意だが、ここでは濡らしたのではなくあくまでも濡れたのだと読む。
死者のそれは水漬き、生者のそれは涙であろうか。
夕顔は夕暮れに咲いて翌朝萎む。
そのほの白い花は死者の顔か。
爪切ればさびし阿蘭陀獅子頭
爪を切る音は淋しい。
切られた爪も何故か淋しいものだ。
自分の爪だろうか、それとも死者のそれだろうか。
恐らく鉢に一匹の阿蘭陀獅子頭もまた淋しい。
切られた爪のシンプルさとは対極にあるような阿蘭陀獅子頭だが、何故か淋しいものだ。
優曇華の影に眩暈を得たりけり
眩暈を「得た」のは欲していたからだろう。
そもそも優曇華、草蜉蝣の卵自体が眩暈を可視化したような雰囲気があるが、しかもその影である。
その眩暈の向こうに三千年に一度と言われる本物の優曇華の花を見たのかもしれない。
にんげんの真中つめたし鰻切る
まず背骨の白さを思うだろう。
連作を通しても白のモチーフは感じられるところだ。
「割く(裂く)」ではなく「切る」のだというのが、より直接的に具体的に刃の冷たさと鰻の肉の冷たさへの実感を思わせる。
生きたまま切開かれた鰻の肉の冷たさ。
冷血動物であるから当然なのだが、あらためてその驚き。
生き物を生きたまま切り開くという行為も相まって「にんげん」もそうであろうと感じたのだろう。
もちろん触れれば肌は温かい。故に触れ得ない「真中」は冷たくあって欲しいのである。
晩夏の連作のここにこの句があることで最後の句が俄然活きてくるようになっている。
前髪を焦がして夏を惜しみけり
前句から焦がしたのは鰻を焼いたからか、などと読むのも可能だが、それは置いておく。
惜しんではいるが、それは決して後ろ髪引かれるようなものではない。
それは春や秋に対するもので夏のものではないだろう。
もちろん夏への焦がれる思いはある。
だからこそ夏の日を目一杯、真正面から受け止めて、自らの意思で焦がしたのだ。
◆細川洋子 夜の秋
落丁に似たる病歴春の闇
落丁に似ているのは病歴そのものではなく、その間の時間のことではないか。
確かにあるのに欠落している(と思える、感じる)時間。
しかし、その人生の数頁或いは十数頁が春の闇だというのであれば。
月は出ていないが、柔らかく優しく、春の息吹を孕んだ闇である。
枝切りの音の木霊や聖五月
五月はマリアの月で聖母月とも言う。
新緑の頃でもあろう。
枝切りは木の健康のために行われる。
この木霊は単なる響きではなく、まさしく字の通り精霊だろう。
キリスト教と精霊は関係ないが、前句を踏まえれば、病後生まれ変わったように万物すべてを新鮮に感じているのかもしれない。
この木霊する空間、そして五月がまるまる聖母の身内なのだ。
そこかしこ風の衣擦れ牡丹園
木霊に続いてこの風も精霊めいてくる。
前句を踏まえれば、剪定して風通しがよくなったのであろう。
視覚的に強い花の王様、牡丹よりも、今は風や音という目に映らないものへ心惹かれるのかもしれない。
捩花の左巻きとは男前
捩花の巻く方向は左右両方あり、割合も変わらず、なかには捩れないものもあるとのこと。
では何故左巻きが男前なのか。
恐らくダーウィンの言うところの「太陽に逆らう巻き方」故だろうと思われる。
ダーウィンが出てくると、連作内で浮いて見えたこの句が馴染んでくる。
進化論とキリスト教の関係は言うまでもないだろう。
連作を踏まえれば男前は恐らく父であり、「太陽に逆らう」ことと先天色覚異常が重ねられているのではないか。
脈拍の豊かに打てり夏の星
脈拍の打つ回数のことではあるまい。
落ち着き、且つ確かに、不足なく体内を巡っている、そういう実感だろう。
脈拍の豊かさ、血の巡りは体温にも影響し、少し火照った身体は涼を求めて屋外へ。
星が涼しく瞬くリズムと脈拍のリズム。
星も豊かなるものであり、光であるだろう。
炎昼のトロンボーンの乱反射
炎昼からもメッキの反射を思わせるが、連作を踏まえればトロンボーン=神の楽器であり、かつて教会音楽の要であったことも考える必要があるだろう。
連作を踏まえても、この乱反射は光且つ音のことのように思える。
乱反射と言っても不快なわけではなく、音さえも眩い、そういう感覚なのではないか。
神の息吹を連想してもよい。
打水の水は風の穂光の穂
ここにも風と光がある。
瞬間と永遠、そして静けさ。
錬金術のようでもある。
連作の中で読めば麦の穂も幻視もしようか。
書を曝す父の色覚検査本
今までは父自身がしていたのだろう曝書を今、子がしている。
恐らく初めて知ったのではないか。
家族でも知らないままのことは多い。
いや、家族だからこそ知り難い、知り得ないことは数多ある。
先天色覚異常は遺伝し、男性の発症率が多いとのこと。
子が発症しているかはわからないが、連作内の目に映らないものや光への感心はこのことに少なからず影響しているように思えてくる。
先づ父へ捧ぐる一書夜の秋
今から書くのであろう。
曝書するほどの蔵書のある父であるから、子が書をものすることは何よりの孝行、供養になるのではないか。
肌に覚える涼しさが淋しいのは夏の終わりだからか、秋が近いからか、父がいないからか。
神域の森の洗礼夕ひぐらし
神域の多くは禁足地であろうし、それも夕方に入るとすれば尋常のことではない。
つまり、連作からも、洗礼をキリスト教のそれと読めば、罪の浄化、神の子としての再生を意味する。
つまりこの神域は現実のそれだけではなく、文字通り神の坐します森、或いは神の懐と言ってもよいだろう。
森へ入ること能わぬ、残されたものに夕ひぐらしの声が優しく降りそそぐ。
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