【週俳6月7月8月の俳句を読む】
写実と虚構の間
青木ともじ
うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア ミテイナリコ
意味としては上五中七で切れがあるのですが、韻律としては「うるせえなババア!」と「殺すぞ!シラネリア」という対句のように聞こえます。全体的に理不尽ですが、殺すぞ!が後ろにかかるようにも見えるため、シラネリアが一番可哀想かもしれません。そういう可笑しみがあります。
最後まで読めばSF梅雨茸 彌榮浩樹
高原英理さんの『日々のきのこ』(河出書房新社)という本を不意に思い出しました。SFを含めファンタジーというのは不思議なもので、世界観が現実からかけ離れているほど、その世界の人物(人じゃないかもしれませんが)にとって、その世界が日常的であるように描く必要があると思っています。この句においても、小説の中ではあまりに日常的に世界が描かれているからこそ、読了したときに改めてSF世界だったことを思い出す、という気づきにつながるのだと解しました。そのまま視線を外へ向けたときにそこにあるきのこ。普段は単なるきのこだなと思うだけなのに、その時にはファンタジーの世界と現実世界が地続きの日常のように感じられ、異様な存在に思えたのかもしれません。たしかに、巨大きのこが惑星を覆い尽くすSFはありそうですよね。
鉛筆で描いて青唐辛子の絵 彌榮浩樹
デッサンということでしょうか、おそらくこの絵は白黒で描かれているのでしょうが、たしかに色がなくても色まで見えてくるような絵はあります。例えば赤唐辛子やししとうとも形は似ていますが、質感や形のニュアンスはたしかに違う、という気付きの句だと思いました。これを直接的な気付きとして述べるのではなく、一旦デッサンするという過程を経由して見せるというのは回り道のようであって、文字通りの「写生」のプロセスと意義を再確認させる写生句になっています。すべての情報を述べずに一部の情報のみを切り取って見せることでモノの深いところを描くという点で、デッサンと俳句には似通った部分があると再認識するメタ的な句でもありました。
愛国心みづやうかんの匙に棘 押見げばげば
昨年末の臨時国会のなかで、ある議員が「愛国心とは何か」を防衛大臣、外務大臣に問う場面がありました。愛国心という言葉は安易に使おうと思えば簡単な言葉ですが、その実を問われれば明確な答えがないものです。水羊羹は舌触りも喉ごしも良いもの。その匙、おそらく木製なのでしょうが、それにささくれがあるとは想像せずにこの人は使ってしまう。この人は怪我をしたかもしれませんが、水羊羹のほうには傷はつかないでしょう。こうした素材の組み合わせは愛国心という概念を考えながら見ると象徴的です。まもなく選挙ですね。有権者の皆さんはきちんと投票に行きましょうね。
枝切りの音の木霊や聖五月 細川洋子
木霊というと、人の声の印象が強いですが、当然他の音でも木霊は起こります。枝を打つ音の乾いたパチンという音の反響は想像しただけで気持ちよいですが、木から生まれた音が、山々、すなわち再び木々からはねかえってくる構成になっているのがこの句の素材のよろしさと思います。また、谺ではなく木霊のほうの文字を使ったことも、霊という字と聖五月の神聖さがうまく合っており、句材は即物的でありながら木から木へ、聖なるものから聖なるものへ緩やかに反響してゆく、まさに木霊のような句です。
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