ラベル 湊圭伍 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 湊圭伍 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026-06-28

柳俳合同誌上句会2026 外野席から選句する 湊圭伍×山田耕司

柳俳合同誌上句会2026
外野席から選句する

湊圭伍×山田耕司  進行:西原天気



--こんにちは。週刊俳句100号を記念して開催された「柳俳合同誌上句会2026」。そこに、投句していないおふたりが選と選評で参加するという企画です。来ていただいたのは、川柳から湊圭伍さん、俳句から山田耕司さんです。

湊圭伍さんは句集『そら耳のつづきを』(2021年/書肆侃侃房)のほか、管見の範囲でもいくつかの川柳雑誌で作品を拝見していいます。また、私にとっては、『新撰21』(2010年1月/邑書林)掲載の関悦史小論「《現実界(レエル)》のほかに俳句なし」(湊圭史名義)という出色の作家論が長く強く印象に残っています。

山田耕司さんには、2冊の句集、『大風呂敷』(2010年/大風呂敷出版局)、『不純』(2018年/左右社)があります。また俳誌『円錐』で定期的に句を発表されています。個人的に、山田耕司句のファンです。無季の句も少なくなく、ときおり「川柳寄り」と、浅薄な私見ですが思うことがあります。

こんなおふたりです。私の理解では、ジャンル横断的な思考やセンスを持ち合わせた方にお越しいただけたと思います。

外野席からの選句には、もっと違う人選もあったでしょう。例えば、有季定型しか作らない結社出自の俳人。川柳プロパーについて、私には理解がないのですが、もっと川柳川柳した句を作る方。それも、おもしろかったかもしれませんが、今回の投句一覧だと、大いに困惑させてしまうかもしれません。それはやめておいたほうがいい。

なお、外野席から誰かが選句するこの企画は、句会の参加者10名にはお知らせしていません。

前口上が長くなってしまいました。それでは始めます。それぞれ、特選1句・並選4句を教えてください。

湊圭伍〔以下湊〕●
確認ですが、3題合わせた全体から、特選1句、並選4句でOKでしょうか。

--はい、30句全体からです。川柳の方は、たくさんの選に慣れているせいでしょうか、毎回、1題につき5句選で送ってくる方がいらっしゃいます。今回の30句から5句選は、俳句だと若干多めでしょうか。少なめよりも多めのほうが盛り上がると踏んで、こうしました。

湊●
了解です。山田さん、よろしくお願いいたします! 違った選になったらおもしろそう、と思いつつ。

特選は
友引が千日続く青山椒

並選が
金魚草群れ咲くころは千葉の旬
はよ食べなさい空気が抜けてしまう
暗に麩は往復はがきねばならない
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

山田耕司〔以下山田〕●
わあ。湊さん。ご一緒できてうれしいです! 川柳の選をするの、実は初めてなんです。よろしくお願いします。

特選
どうしても千枚通しだとしても

並選
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ
千代田区の電柱にある夏日かな
白桃をてこてこ運び来て小声
青梅雨や和菓子を買うて橋の上

--ありがとうございます。1句、選が重なりました。《アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ》。ともに並選です。選評をお願いします。

湊●
街のなかの建物の一室でコーラスが歌われており、ただ開け放った窓の網戸を通して、外の人声や騒音も入っている、という景を思い浮かべました。「アヴェ」は「こんにちは」や「おめでとう」の意味があるらしい(「こんにちは」と「おめでとう」だと全然意味が違うだろ!)。「アヴェ・マリアの祈り」はイエスを身籠って目出度いとマリアを褒めたたえる歌ということで「おめでとう」が八割程度か。

一方、「網戸」の外の「おしゃべり」は 同じ事態をまったく別の解釈で話しているのでは? 頼りない境界である「網戸」の内と外に別の語り・別の時間が流れていて、しかも、この句がどちらにも与してなさそうなのがよいと思いました。

山田●
なるほど。そうですよね。この網戸は、ひとつの結界のようです。アヴェ・マリアの聖とおしゃべりの俗。聖と俗との対比という視点は、俳句っぽいものかもしれませんけれど。それを隔てる結界。

音と音。その間にある網戸。音が簡単に通過できる透過性の高いものとして、この網戸を捉えることもできるとは思うんですけれど、私は、視覚を鈍らせるフィルターのようなものとしてこれを受け止めてみました。

聴覚で受け取れる素材の間に、対象を視覚的に鈍らせたり濁したりするフィルターがある。これって、クールでメタリックな絵を見た時の受け止め方の描写なのではないかしら、とも思いました。世界を鈍らせたり濁したりして、俗の手触りに拉致するのが、句を作る際の自己の手応えになっているんじゃないか、そんな読みです。聴覚と視覚の混線、そのひねり具合も手ごたえの一部として。

「アヴェ・マリアにも」の「も」の向こう側に、作者自身のうちなるあやうげな浄らかさが漂っているようにも思いました。

--ちなみに「網戸」は夏の季語ですが、おふたりとも、そこにはこだわらなかった。《網戸》を境界・結界という語で表現されました。聖/俗がそれをはさんで共存しているイメージは、この写真にもよく合いますね。難しい題だと思っていたのですが、この句は、写真の説明からも逃れていて、いい感じです。おふたりの選評を聞いているうち、どんどんおもしろさが増していきました。

湊●
おふたりの読み・ご説明で、俳人は視覚を意識しているというか自然にその観点が入ってくるのだなと思いました。「網戸」が季語というのも、機能性よりは目にも入るモノ性を読みとらせるように効いてくるのではないか。

--ああ、なるほど。俳句の場合、機能はすでに季語の「意味するところ」に含まれているので(防暑)、そこをすっ飛ばして視覚に行きがちなのかもしれません。

山田●
たしかに、視覚的な要素を勘案するところが俳句にはあるかもしれませんね。共有情報である季語を取り込むに際して、いかにその句の一回性という肉を与えられるか、という視点が反映されているのかもしれません。これって、写生という方法意識ではなくて、概念を形而下にひきずりおろして可視化するプロセスとして捉えることもできるのではないかとも思っています。

--ちがうフィールドからお越しいただいたおふたりの話、とてもおもしろくて、「網戸」だけで記事がひとつ成り立ちますね。それでは次に、それぞれ、特選の句について、コメントをいただけますか?

湊●
私の特選句は、

友引が千日続く青山椒

です。

「友引」には幸せを引く吉、不幸や死を引く凶どちらの面もあるとして、ただ、それがずっと続くのだとしたらまことに不穏で、凶の側が色濃くなっていくように感じます。しかも、「千日」! 一方、「青山椒」はよい保存方法があるとしても、その香りはさすがに「千日」は持たず、見た目の鮮やかな緑もくすんでいってしまう。

この句、一度や二度読む限りでは、上五・中七の不吉さを、「青山椒」のピリッとした刺激が抑え込んでいる。だが、さらに眺めつづけて、「友引」の語をくりかえし唱えていると、山椒のもつ一種の魔除けの作用はすり減って、引かれた「友」たちの集合体ののっぺりとした薄気味悪さが印象づけられてきます。

『千夜一夜物語』よろしく、「千」につづく「一」に何かが隠されているのかもしれないけれども。

山田●
私の特選は、

どうしても千枚通しだとしても

手にしている道具があります。それが千枚通しであるとして、その道具の視覚的な要素を描写するという方向に進みがちなのが、俳句なのかもしれません。

時に、この句は、そうした道をすべて捨て去っています。これが千枚通しであるかどうかも、怪しい。人を殺傷することができるような凶器を手にしながら、それを日常の連続に属する千枚通しだと言い張る人がいる。血だらけだったりするかもしれません。どう見ても千枚通しではなさそうなのに。仮にこれが千枚通しだとしても、どうして血まみれなのか、どうしても千枚通しだと言い張る根拠はどこにあるのか、そのようなドラマを内包しうる作品なのだと思います。

--ありがとうございます。それぞれの選評を腑分けするようにお互いに語っていただくこともできるでしょうし、聞いてみたい気持ちはあるのですが、それをやっていたら、夜が明けてしまいそうです。簡単に。「採らざる」の弁をお訊きします。山田さんは《友引が千日続く青山椒》を、湊さんは《どうしても千枚通しだとしても》を、選外にされた理由を。ほんと、簡単でいいです。

山田●
友引ばかりが続くのは、大安や仏滅が来ないということでもあります。他者との相互作用のみに浸る日常を想像しました。その想像に、青山椒のピリリをうまく絡み合わせることができませんでした。

湊●
「友引」と「青山椒」については、確かに絡み合わないですね。その点、言葉の読み取り自体は山田さんと私で変わらないような気がします。そのうえで、私はそれぞれの言葉がワガママに動いて、ある意味裏切り合っているのを楽しんでいます。俳句っぽい姿の句ですが、川柳的に読んでおもしろがっているのだと思います。

山田さんの評にある「千枚通しだと言い張る」の「言い張る」は川柳のけっこう大きい部分だと思います。ふつうに考えたら無根拠なことを言い切ることで、そうでしかないと読者を引きずり込んでしまう。

「どうしても千枚通しだとしても」の句については、川柳のそんな力技が効きそうな感じはあったのですが、「どうしても」と「だとしても」の音の重なりが気持ちよくないなというのがあり、それがしばらく読んでも解消されなかったので外しました。音のくりかえしが悪いというのではないですが、この句の場合、音の重なりがダマになって気持ちよく通り抜けさせてくれないような。

言い切りに引き込む仕掛けとしては、「だとしても」の締めが思わせぶり過ぎるかな、と思ってしまったのも選ばなかった理由ですね。

--ありがとうございます。今日はこのへんしておきましょうか。

湊●
昨日、俳句甲子園の松山大会で初めて審査員をしまして、そのあと夜中まで飲んで今日は二日酔い気味で、そろそろ瞼が重くなってきました……。

山田●
湊さん、私も土曜日に高崎会場にて審査員をさせていただきました。ご一緒でしたら、盃を重ねていたことと思います。今日はありがとうございました!

interlude

--それでは再開です。それぞれ残りの並選について。まず、湊さんがお採りの《金魚草群れ咲くころは千葉の旬》。

湊●
「金魚草」はよくある園芸品種で何度も見たことはあるんですが、好きでも嫌いでもなく、どこで見たか記憶にもあいまいです。たぶん名前に入っている「金魚」のせいで、言葉の強さよりも現実の印象が薄いせいでしょう。

千葉在住・出身の方には悪いが、「千葉」もまた印象が薄い。この句のポイントはこの二つの印象の薄い存在をやや言い過ぎの「群れ咲く」で彩ることで掛け合わせ、名前がもつ言葉のポテンシャルを発揮させている点にあると考えています。

現実には地名である「千葉」に「旬」などはないでしょうが、無数の花、千の葉が群れて重なり合うことによって、この句の中で作られた言葉の交錯でのみ感じられる「旬」の感覚が伝えられます。

--金魚草を調べると仲夏の季語なんですね。2月に南房総の花卉農家でよく見る花なので、春の季語かと思っていました。

湊●
そう聞くと、実景から書かれた、土地の「旬」についての素直な句なのかな。「金魚草」が仲夏の季語というのも、「金魚」に引っ張られたのかなあというところでおもしろいですね。

--次は山田さん並選の《千代田区の電柱にある夏日かな》。いかにも俳句的な体裁です。

山田●
千葉から、千代田区へ。連想させる物語の数が多すぎて、千代田区についてはイメージが絞り込めないところがありますね。一方で、電柱の方は無名性の表象のようでもあります。多くの情報文脈を退けて、無名なる存在に心寄せをしているのが、この句の眼目なのだと思います。

存在を示す動詞としての「ある」だと凡庸ですが、連体詞「ある」(ある日森の中クマさんに…という「ある」。某という意味)として、この「夏日」が無名な誰かの個人的な物語に属していることを暗示しているのかもしれません。「かな」という強調が、そのような読みを促しています。

--湊さんの並選、《はよ食べなさい空気が抜けてしまう》。これは俳句からは出てこない。川柳らしいと言っていいんでしょうか。

湊●
さすがにこれが俳句ならのけぞるかも(笑)。

まず、前半の会話体「はよ食べなさい」には、関西ふうのせっかちさがありますね。それだけではなく、五七五定型を諦めて会話体を採用することで生まれたリズム(あるいはその欠如)のせいで、後半の「空気が抜けてしまう」にもどこか音が足りないような、間の抜けた感が漂っています。

この句を読む体験そのものが、この「空気が抜けてしまう」感覚を味わわされることでもあります。言われるままに「はよ食べた」とて「空気」を食んでいるに過ぎず、とはいえ、空気が抜けきった皮のようなものが残るのだって気持ちいいとは思えない、というようなことを考えているうちに、この句の発話者はもう別のほうを向いている。

結局、「だから何(So What)?」なんですが、こうして「だから何?」まで 句を通過していく過程が川柳的体験だと思います。純粋川柳ですね(笑)。

--次は山田さん並選の《白桃をてこてこ運び来て小声》。

山田●
「てこてこ」をどう受け取るかですが、私は、幼い子供が大きめの白桃を抱えるようにこちらへ運んでくるさまを示す措辞として味わってみました。そのさまはかわいいものなのですが、それを消費することは、この句のポイントではないでしょう。

大切なものを一生懸命運んできました。ここにたどり着き、それを見せつつ、ひょっとしたら手渡してくれているのかもしれません。渡す相手だけに伝わる小声。そこに示されているのは、人と人との間に漂う親密さ。それこそがこの句の要と言えるでしょう。

「てこてこ」という表現で幼児のかわいらしさを引き出そうとしているのかもしれませんが、この言葉遣いにより、運ぶ主体としての幼児の姿を消すことにも成功しました。人の姿が書き表されていないことで、かえって「小声」の存在が際立っているようにも思います。

--最後ですね。湊さんの並選、《暗に麩は往復はがきねばならない》。

湊●
最初の「暗に麩」からよく分からないので、Google検索してみると、AI Overviewが〈「暗に麩」というフレーズは、おそらく松山市周辺のスーパー等で買える美味しい「お麩」についての話題か、もしくは打ち間違いのどちらかだと思われます。〉と教えてくれました。私の住んでいる場所が割れているのが気持ち悪いですね。

(松山はとくに麩の名産地やないやんけ、とつっこんでみたら、〈松山地域の伝統的な名産品として知られるのは「麩」ではなく、フワフワとした食感で知られる薄揚げの「松山あげ(程(ほど)の伊予名産 松山揚げ)」です。〉と出ました。程野商店の「松山あげ」は基本、刻みで売られていて、美味しくて使いやすく、軽いので、松山みやげにおススメです。閑話休題、)

「往復はがきねばならない」も相当ムリな言い回しです。「往復はがき(を送ら)ねばならない」と補ってやる義理は、読者には毛頭ない。句を真面目に読もうとすると、足場になるのは「麩」ぐらいしかないわけですが、足場としてはスカスカでいかにも頼りなく、読みの途中で裏切られる気しかしない。

これは、作者に直接「往復はがきねばならない」のでは。

--山田さんは、《青梅雨や和菓子を買うて橋の上》。お願いします。

山田●
絵の世界を叙景として捉えているとしたならば、その風景を説明するのではなく、気配を人のふるまいとして表現したところにこの句の良さがあります。「青」が効いています。絵との繋がりを示しているだけではなく、行為の清々しさを支えている世界観の基本色となっています。

ですが、私は、叙景の作品としてこの句を選んだのではありません。課題の絵には、道がありません。水路が見えていますが、そこからどこかへいける気配がありません。明るく美しい閉塞感。そんな印象を持ちました。

私がこの作品において着目したのは「や」です。俳句の切字「や」はテーマを提示します。そして、下へ読み進めたのちに、冒頭へ読者の視線を回帰させる働きを内蔵します。このような俳句ならではの修辞を用いることで、この明るく美しい閉塞感を示そうとしたのではないか、というのが私の視点です。一句の中で言葉が循環しつつどこにも行かない。それは、この絵の印象に限ることではなく、俳句作品がそれとなく目指す境地なのかもしれないと思うところがあります。

--ありがとうございます。選外で気になった句があれば、どうぞ。

湊●
最初、各題2句で選んでいて、【3 写真で一句】では次の句が並選でした。

夏川とさて明日はなき摩天楼

句の3分の2は題の絵を説明しただけで、雑と言えば雑な作りなんですが、「さて明日はなき」と大げさで無責任な見えを切ったところでその雑さが逆に活きていると判定します。

「摩天楼」は“Skyscraper”の訳で、この語は19世紀後半までは、背の高い人や馬、船のマストの天辺の三角の帆などを指していたらしい。1880年代後半にアメリカの大都市で高速建築が次々と建てられるようになってようやく現在の意味が定着して、それからまだ一世紀半しか経っていない。

暗渠から這い出てくる川、デジタル感のある絵に描かれた街にさえ「夏」を感じる感性からすれば、明日「摩天楼」が消えてしまってもどうでもよいではないか。瓦礫をどうするかについては考える必要がありますが。

結構暗渠好きなのでちょっとリサーチしましたが、この絵は渋谷川、八幡橋? 関東の人にはよく知られた場所なんですね、ネットに写真がいっぱいある。

--渋谷川です。「よく知られた」というほどでもないのですが。

湊●
山田さん並選の「千代田区の電柱にある夏日かな」「白桃をてこてこ運び来て小声」「青梅雨や和菓子を買うて橋の上」、それから「てのひらの蚊を捧げたり雨あがり」「ひるがほの花へ煙や鳥を焼く」、これらの句も、俳句としてまとまっていて世界の手ざわりがあり、 ぞれぞれに佳句だと思います。選んだ句と分かれたのはふり返ってみると、直感的に「読みで遊ばせてくれるかどうか」と感じたかどうかかな(評者のワガママですが、川柳の選や読みではこのワガママはけっこう大事だと思っています)。

とは言え、山田さん評を読んだ後だと、自分の俳句の読みの甘さを感じますね。「千代田区の電柱に・ある夏日かな」は思いつきませんでした。改めて考えると、俳句だと存在の「ある」は余分なので、という読みの展開は十分あり、というところなんですが。

「白桃をてこてこ運び来て小声」の関係性まで踏み込んだ読みもなるほどです。私はからくりの茶運び人形を思い浮かべて、ちょっと気持ち悪い感じ、と読んでいました。子供のもつ異界性というようなテーマで。まあ、読み過ぎですね(笑)。

「青梅雨や和菓子を買うて橋の上」は擬古典調?という辺りで私の読みは止まってしまいました。俳句のフォームにこだわることで読みを進められるのですね。

川柳らしい句では、山田さん特選の「どうしても千枚通しだとしても」、それから「さかなのうわさにふさわしかった」も気になっていました。「さかなのうわさ」の句は広がりがあってよいですが、ちょっとぼんやりしているとも言えて、周りに別の句を置く(連作?)ほうがおもしろくなりそう。実を言うと、投句一覧では、

さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

と並んでいて、キリスト教的な背景(イエス・キリストの象徴が魚[Ichthys イクトゥス])、「うわさ-おしゃべり」のつながりが(偶然?)生まれています。川柳の選者選の句会であれば、各題10句から5~6句ほど選ぶことになりそうですが、この2句はぜひ最後に並べたいところです。川柳・選者選ふうの選です(勝手に川柳句会、ですみません)。

【3 写真で一句】
タピオカ吸ふ暗渠の果てのあをぞらに
てのひらの蚊を捧げたり雨あがり
まやかしがまやかしを呼び照り返す
夏川とさて明日はなき摩天楼
さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

--なるほど。こう並べると、短句のない長句ばかりの連句のようです。《タピオカ》から《おしゃべり》まで、流れを感じます。句会もまた共同作業だったとは! 山田さんは、なにかありますか?

山田●
俳句と川柳が混在する中から選句をするのは、初めての体験でした。俳句らしさとか川柳らしさとか、それはよくわかりません。

そもそも俳諧は、〈和歌ではない〉ものとして育ってきたわけですし、近代俳句は、〈江戸俳諧ではない〉ことを足がかりに膨らんできたわけです。現代川柳も、幾層もの〈……ではない〉を潜り抜けてきたのではないでしょうか。

〈……ではない〉ものを選んでいる。その覚悟で、作品に向かい合いました。

すると、その結果、なぜこんなことを書くのだろうか、という作家の動機のようなものへの想像が鑑賞の中心軸となりました。選び終わっても、作家の動機などがわかったわけでもありません。しかし、〈らしさ〉によりかからずに鑑賞できた快感が、事後に残りました。皆さんの作品と湊さんの鑑賞文のおかげだと思っております。ありがとうございます。

--それでは最後に、余興として、どの5句が柳人作かを推理していただけませんか? ぜんぶは大変なので、【千】の10句で。もちろん、作者が柳人か俳人かなんて、あまり意味はないとは思うのですが。それに、俳句と川柳どちらもつくるという人も混じっていますから。あくまで余興で。

1 金魚草群れ咲くころは千葉の旬
2 友引が千日続く青山椒
3 千鳥格子の隙間に生まれ
4 一千年後のあたらしい息を吐く
5 千里眼で地球一周した風景
6 千代田区の電柱にある夏日かな
7 たのしい王手の千年でした
8 鳥除けの針千本と蜘蛛の子と
9 くしゃくしゃの千円札のアレやって
10 どうしても千枚通しだとしても

(番号で柳人作と思う句をお答えください)

山田●
3、5、7、9、10。

湊●
とりあえず、川柳っぽい句と俳句っぽい句に分けると、 川柳っぽい句が6句になってしまいました。うーむ、俳人が川柳っぽい句を出していたり、また逆もあるのか。そうなると相当難しいですね。

柳人が書いた川柳かな、と若干自信があるのが、5、7、9ですね。あと、3、4、10 が川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いもします。逆に、柳人が書いた俳句っぽいのは、1、2でしょうか。柳人がまず書きそうにないのは、6、8。

1、4、5、7、9で行きます。

ちなみに、かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10です。

--では、答え合わせ、行きますね。山田さんは4つ正解。10番は俳人作、それも山田さんがよくご存じの俳人です。

湊さんも4つ正解。1番は俳人作です。「川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いも」とおっしゃった3、4、10。10は鋭どかったですね。あと、「かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10」というところ、鋭いです。10を除けば、全正解。つまり、柳人作は、3、4、5、7、9です。

おふたりとも正答率80パーセント。クイズ的には充分に優秀ではないでしょうか。

あ、そうそう、おふたりの選句5句の内訳をお伝えしておきます。湊さんは柳人作を2句、俳人作を3句、山田さんは柳人作を1句、俳人作を4句、お採りです。どなたの作かは第1001号のリリースをおたのしみに。

今回はほんとうにありがとうございました。おふたりのおかげで、予想した以上におもしろいセッションになりました。

湊●
何だかテンションが高くて(俳句甲子園の影響?)、急ピッチで話してしまいましたが、楽しかったです。別の読みが出る緊張感と、山田さんならという安心感がありました。

山田●
ありがとうございました! 何かの機会に川柳の会に参加させてください。

(了)

2026-04-05

川柳って何?(それって美味しいの?) 湊圭伍

川柳って何?(それって美味しいの?)

湊圭伍


「川柳って何?」という問いに、とりあえず、私の作句および読みの際の意識という視点から答えてみる。あくまで無責任な流れで、途中まで音楽のジャズとのアナロジーで話は進むが、途中であっさりそれを諦める。川柳の前史にも片足をつけるが、それはあくまで跳び箱のロイター板としてである。オチは 「川柳って何?(それって美味しいの?)」の「それって美味しいの?」に答えるところだが、回答は作句や受容における「私」やジャンルの構造に関わるものになるだろう。

川柳は音楽、特に即興が入ったジャズのような意識で作っている。ただし、言葉にはそれ自体に意味、文脈、感情、判断などが入っているから、それらの重みや軽み、粘りや速さも音色のように感覚して、一句や連作としての流れを作っている。音韻やリズムは当然考慮に入るが、それだけを句の音楽性として見るとつまらない。社会批評性が句に表れる場合もあるが、それも以上のような流れの中の一つの要素に過ぎない。音楽でもメロディやリズム以外に、音色や和声とその進行、形式、強弱、テンポ等があり、様々な破調や、体験の場のもつ諸々の条件の効果がある。それと基本は変わらない。

ジャズのように、というのは、「前句」の感覚にも通ずる。ジャズではテーマ(基本、スタンダードのメロディ)の提示があり、それに各楽器のソロが続き、テーマに回帰する。川柳は前句附の前句をとって、一句独立でも読めるものにしたことが起源だが、幻の「前句」、何かが前にあってそのリアクションという意識は(題詠はもちろんだが雑詠でも)強いと思う。ただし、そのテーマは題詠を除きあからさまには共有されないし、題詠であってもテーマに縛られているものは評価が低い。つまり(と飛躍)、テーマの提示なしに、いきなりソロから始まるのが川柳だ。

それと同時に、ジャズとは違って、川柳はテーマへは回帰しない。たぶんこれは、前句附より前の俳諧(連句)の特質に関わっており、また前句附から古川柳(前句から独立した読み物)へと進んだ理由になっている。「前句」への意識があっても、川柳という過程を経ることで不可避的にテーマからずれてゆき、芭蕉が「三十六歩の歩みなり、一歩もしりぞくこと無し」といったように、戻ることなく滑走してゆく。(蛇足――芭蕉の言葉の主語はもちろん「俳諧」だが、ここから強弁すると、「俳諧においては老翁が骨髄」と言った芭蕉の「骨髄」は俳句よりむしろ川柳にあるということになる。)

この幻の「前句」への意識とそこからの滑走は、川柳というジャンルが時代とどう関わりうるか、あるいは関わってしまうかともつながっている。私たちの前には多種多様な「テーマ」の群れがつぎつぎあらわれ、その変奏やリアクションとして私たちの川柳があらわれる。句は時代から何かを嗅ぎとりながら、「テーマ」には拘らない方向へ飛散してゆく。川柳を読むということは、それら飛散の様を、時代とそれからの自由の間にあって見届けることだ。ということは、読みもまた、そうした飛散を読者自身の言葉で追走してゆく試みとなる。

さて、上記のような言葉の運動が川柳だとして、それに関わることがどのように楽しいのか。よりメジャーな短歌や俳句という短詩文化がある中で、川柳がいちばん「美味い」と思うのはどのような視点であるのか。まあ、それも上記に書いた川柳のあり様にすでに説明しているといえばいえる。つまり、「私」(時代と併走するなかで個人に少しずつ溜まってゆくもの)という重力を振り切り、制度や形式の与える回帰性(句語への内向や共同的なループの構築)を裏切ってゆく動き、さらに各句が終わったあとにすべてが霧消して何も残っていないという身軽さ。

上の「私」についてのところが短歌、回帰性に関わるところが俳句と完全にイコールではないけれど大幅に関係しており、とりあえず、そうしたものに拘らず無責任に跳ねていられるのが川柳のよいところだ。反対に、そうしたものに守られず流砂の上に立っており、社会の剥き出しの言葉と直接関わってしまうことで「無責任からくる責任」が生じ、裸でほっぽり出される可能性があるのが、川柳の厄介で危なっかしいところである。川柳を書いていくということは意識的にも無意識的にも、その辺を選択してしまうことでもあろう。

実際に、じゃあ、どういう川柳を書いとんねん、お前は?というツッコミに応えるべく、川柳小連作をつけておく。ご笑覧を(笑わなくてもいいよ)。

 〆切 川柳7句

ビバップする看守の花柄のネクタイ

不幸って飛んでるように見えるっしょ

ダウンコート着たアプリにも中毒性

皿屋敷の皿は元来フリスビー

狙ってもイソギンチャクのままでいる

鶴嘴がすこし足りないシーチキン

〆切にも、猫ミーム、生やしといたよ

2025-06-08

湊圭伍【週俳3月4月5月の俳句を読む】ふつうのこと

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
ふつうのこと

湊圭伍


松田晴貴「巣箱」は、 ぼんやりとのみ人の存在が表れている句が面白いと思った。

浮くやうな凭れるやうな巣箱かな  松田晴貴

巣箱についての描写だが、巣箱を置いた人や社会について、置いた時点からの時間の経過が感じられる。

足跡とサーフィン摺つてゆく跡と  同

鳰のまたあつまつてきし浮御堂  同

これらも人の存在の痕跡をとらえている。鳰は人が来ていったんちりぢりになったのだろう。また集まってきた鳰を見る視点もまた人のものだが、その視点はすでに現実には存在していないような味わいがある。

 ●

おおにしなお「ゆらめくようにだめなとこ」はひらがな表記によって強調された句のひきのばされた姿に目がゆく。ただ自由律かというとそうではなく、すべての句が定型をどこかで感じさせる着地になっている。

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ  同

あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない  同

主観的なようでいて、どこか亡霊的なところは、最初の 松田晴貴「巣箱」とも共通している。「いつかこころになれるか」に表れているような、実感のある情感へのずれを孕んだ希求もどこかテーマ的な共通性がありそう。ただ、こちらでは痕跡が先行している。そう考えると、時間の操作に平仮名表記が相当効いているなあと思える。

 ●

超文学宣言 の「ハプスブルク家の春」は、「 (これは前書ではない)」という前書?の最初に置かれた言葉がちょっと厄介。散文として魅力的なので、読み手の一人としてはわざわざこう宣言しなくてもよい(読者にまかせればよい)と思うのだが(もやもやさせる、という効果ははっきしている?)。句は旅吟として読んだ(もしかして在住なのかも知れないが、場とのかかわりの薄さで、やっぱり旅吟かと思う)。

ゆるやかに回転しつつ庭が咲く  超文学宣言

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  同

造形を馬二匹駆け微風あり  同

動きのある風景の独特の把握が面白い。日本語に海外の事象や言葉を持ち込んでいるわけで、その時点で重くれになりそうだが、そこにつかまらない軽やかさがある。

チューリップ持ち雑踏のトラムぬけ  同

のような、ただ事に近い平句の軽さが効いている。

 ●

竹岡佐緒理「夏の詰合せ」は一転して、日本の日常にとっぷりと浸かっていて、対比として楽しく読んだ。

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

あぢさゐや子を通訳に保護者会  同

夏の詰合せ余つたのを貰ふ  同

日常のちょっとした事件や違和感を、季語を使ってまとめている。あるいは、季語のもつまとまり感を、現実的なずれを持ち込むことで生きたものにしている(まあ、俳句ではオーソドックスなので、わざわざこういうふうにいうのも面映ゆいんだが)。最後の

何者か閉ぢ込められてゐるゼリー  同

は、そういう安心からちょっとはみ出していていいなと思った。

 ●

上田信治「とは」は、イメージの重ね方が上手い(という語はここまでは避けていたけれど、上手いものはやっぱり上手いですね)。

日の色の春のふすまや目の当り  上田信治

下五、「日の当たり」と空目してしまうが、その空目から、うん、となって、「目」だと気づく。それまでの語の並びも「春の色の日の」などと別の可能性も読みながら浮かび、そして、最終的な納得に収束していく。いや、収束はしないのかな。「目の当り」は最後までいい意味でひっかかっている。

富士山もいそぎんちやくも穴開いて  同

は、平句的な軽さがある。ベタになる寸でのところ、という印象。まんが的に読んでもいいし、富士山をのぞむ海岸での実景としても、スケール感の配分が楽しい。いそぎんちゃくに指を入れてきゅっと絞められるのを富士山でもできそうな感じ。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

ふつうのことだろう、と思わないではないが、わざわざ「雨のあと」だなと気づくのは変。あるいは、「雨のあと」だからホウレンソウを食べる(食べなきゃならん)なんてことがあるのか。ふつうのことだから面白いというのに、折々気づいておくのはよいことだなと思った。


■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日

■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日

■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日

■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日

■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日

2024-01-21

湊圭伍【週俳12月の俳句を読む】プルタブ

【週俳12月の俳句を読む】
プルタブ

湊圭伍


プルタブは墓標と思ふ土に雪 川田果樹

句の作者の生まれる前のことなのでどうでもよいことなのだが、かつて、缶ジュース・缶コーヒーのプルタブは缶を開けると本体から外れるようになっていた。捨てるのに気を使うときには飲むあいだは小指にひっかけておいて、飲み終えると缶の中に入れるなどした。あるいは、プルタブをさらに指をかける部分と缶のふたの水滴型の部分を切り離して、後者を前者の出っ張りに引っかけて飛ばす遊びをしたりもした。句のプルタブはここまでで説明したものとは違って、日本では1980年代の終わりに登場したらしい本体から外れないタイプだろう。ググっと立てて缶を開け、邪魔になるのでちょっと押し戻してから飲む。ただしっかりもとに戻るわけではなく、ちょっと浮いた、斜めに立ったかたちになるので、それは仮に立てられた墓標を思わせるのかもしれない。万人が「プルタブは墓標と思ふ」わけではないあたりを巧みに選んでいるところが上手いと思った。


親指を引いて漲る冬のパー  川田果樹

先週の瀬戸正洋さんの評に、「ゴルフは知らない。冬の「パー」といわれても解らない。親指を引いたら何かが漲る。それもよく解らない。」とあって、「ん?」と思った。どうしてゴルフに限定するのかがよく解らない。「親指」とあるのだから自然に読めばこれはグーチョキパーの「パー」だろう。解らないのは「親指」をどのように引くか、だが、私が実際に自分の手でやってみたところ、右手をぐっとパーにして、左手で右手の親指をつかんでぎゅっと引っ張って、右手がそれに抵抗して小指まで緊張してさらに開く、ということではなかろうか。冬の海を前にしていると想像すると雰囲気も出る気がする。


耳塚聴けり鼻塚嗅げり餅搗を  竹岡一郎

聴いたり嗅いだりしているということは成仏していないんでしょうね。


骨の手の忽と銭置く夜鷹蕎麦  竹岡一郎

「夜そは切ふるへた声の人たかり」(『誹風柳多留』初・28)。意外と気づかれないかもしれません。
 

襟巻きをして親切な警備員  村田篠

実際に「親切な警備員」に出会った、または見かけたのだとして、それをちょっと突き放して「親切な」とわざわざ表現するのは不思議だなと思った。


この空かこの青空のふゆのそら  上田信治

これで句になっているのかどうか、よくわからない。いちばんの要因は「この空か」の「か」である。この「か」があることで語り手の視点がぎりぎり担保されているとも(感嘆、のような意味で)し、「空(そら)」を別の表記や音で重ねる言葉遊びがぼんやりとしているとも言える。前者かなと思うが、それなら「や」ではっきりするだろうとも考えるけれども、切れ字「や」を使わないでおこうという理由があるのかもしれない。後者なら「この空の」にすると明瞭だが、それはそれで句としてのしまりがないようだ。ということで、たぶん「か」が残るのだろう。


亀固く蛇やはらかに冬眠す  岡田由季

「固く」「やはらかに」の感覚的把握はじっさいに触れてのもの(とりわけ冬眠中のもの)ではない虚構だが、爬虫類を硬軟で対比する遊びによって現実的印象が生まれている。ひともこの中間あたりで冬眠できればよいのに。


生という枯れ野の空の果てとしか  福田若之

「としか」が難しい。照れくさい内容になりそうだが、これは分かりやすくシンプルにいったほうがよいのではないか。


偽の木に金の林檎を吊る冬至  福田若之

クリスマスを「冬至」にずらした句。狙いが分かりやす過ぎるか。「偽」「金」あたりの皮肉っぽさに救われている句のような、そうでもないような。


はやぶさに都市は夜が来るたび滅ぶ  福田若之

「はやぶさ」は、猛禽か、東北新幹線か、小惑星探査機か。どれでも読めそう。いずれにせよ、「都市」はそもそも「滅ぶ」を属性としてもつ気がする。


暖炉に火ビンゴ!と指を鳴らし笑む  福田若之

タノシソウダネ。


年の瀬の雪の曇りの奥の月  福田若之

季語3つかあ。五七五定型を助詞「の」の多用で活かしていてとてもよいと思いました。


■川田果樹 ペリカン 10句 ≫読む 第868号 2023年12月10日

■竹岡一郎 敬虔の乳 42句 ≫読む 第870号 2023年12月24日

■村田篠 サンタクロース 5句 ≫読む

■上田信治 この空  5句 ≫読む

■岡田由季 テノール 5句 ≫読む

■福田若之 果て 5句 ≫読む

2022-11-27

柳俳合同誌上句会2022 選句結果

週刊俳句
柳俳合同誌上句会2022 選句結果
1週間延ばしましたが、結局、お一人様から選句が届きませんでした(音信不通)。届いたぶんで結果とさせていただきます。

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧

※選外の句へもコメントをいただいています。

〔柳人〕
嘔吐彗星
城崎ララ
真島久美子
翠川蚊
湊圭伍
〔俳人〕
青本柚紀
浅川芳直
小川楓子
津川絵理子
山田耕司

※参加者プロフィールは、このページの末尾に。

【草】

偶会の波引く草の枯を踏む  浅川芳直

思ひきり脚掻いて草の実だらけ  小川楓子
■えのこずちでしょうか。小さなお子さんのはしゃぐ姿が想像されて楽しいです。「思ひきり」がもっと見えてきてほしい気もします。(浅川芳直)

星を喰ふひと今の草は揺れてゆれて  湊圭伍

草食の月に寄るべを求めるな  城崎ララ
◯嘔吐彗星
■食性のカテゴリを与えられたことで、肉食や雑食などその他複数の月の存在が暗示されて面白いです。伝承のようでもあり、個人的な経験に基づく忠告とも読めそう。なぜ?と先を想像させる魅力があります。なんとなく、静かに誰にも気付かれずに自滅してしまうのでは、という予感がしました。(嘔吐彗星)
■「草食の月」がいいと思った。「寄るべ」があいまいに感じたので、そのあいまいさと「求めるな」の命令がちょっと座りが悪いかも。(湊圭伍)
■「あなたの発想はどこから?」と聞きたくなるような、「なんだそれ?!」感があって好きです。草食の月ってすごいなあ。月がもの食うのは前提で、そのうえで草食とそれ以外に分けている。と思ったけど、この草食は「草食系男子」の草食かも。「草食のオトコに寄るべを求めるな」なら、なんかそういうしょうもない警句っぽくなるし。まあいずれにせよ、月が草食なのは「変良い」ですね。(翠川蚊)

草笛の苦手分野を吹き渡る  嘔吐彗星
◯真島久美子◯城崎ララ◯山田耕司
■どんなところであれ、草笛を吹きながらあるきつづけられる人は、それなりに無敵。(山田耕司)
■苦手分野を吹き渡る、がいいなと思いました。草笛、中々思うように吹けないと思うのですが、吹き渡ることで堂々と挑んでいくような……潔さ、晴れやかさを感じます。(城崎ララ)
■子供の頃、父が吹いてくれた草笛。何度教えてもらっても吹けないまま、父の口元を黙って見ていた。苦手分野という領域を染めながら、どこまで広がってゆく音。それはまるで自分は自分のままでいいのだと教えてくれているようだ。(真島久美子)
■「草笛の苦手分野」!!(翠川蚊)

草彅の彅ほぐしつつむかいかぜ  翠川蚊
◯津川絵理子
■彅をほぐしているのは「むかいかぜ」なのか、頭の中で作者自身がほぐしているのか。もしかすると両方かもしれない。そう考えると、作者の受けるむかいかぜが頭の中をそのまま通って行くようなイメージが広がって面白い。「彅」という字は「弓」「前」「刀」にほぐれるし、これらもさらにほぐせるから、最終的にそれぞれが一本の線になって、まるで草みたいだ。そうか「草」と「彅」ってお互いに繋がっているんだな、と思ったりして、この句の世界に遊ばせてもらった。(津川絵理子)
■初読からしばらくの間「草粥の粥」と空目して俳句だと思い込んでいて、草粥の湯気が向かい風とまざりあうところまで味わってしまいました。読み直すと川柳なのですが、俳句の風情も感じられます。彅は「弓で強く剪る」の会意とのことで、これをほぐす作業からあふれてくる抜け感がいいです。はじめは一方向だった向かい風も、全体の3分の2以上のひらがなによってほぐされてあやふやになっていそうです。(嘔吐彗星)

冬青草包みごと割るチョコレート  津川絵理子
◎城崎ララ◎山田耕司◯真島久美子◯湊圭伍○浅川芳直
■割る。その時の手から伝わる感覚。「冬青草」とのリンクは万人が受け入れるものではなく。であるからこその潔さのようなものが感じられました。(山田耕司)
■チョコレートを割る句はあるのかなと思いつつ、清冽な冬青草の感じが好きでした。(浅川芳直)
■ふゆあおくさとそのまま読むのですね。季語は景色の見える美しい言葉だなと思いました。包みごと割るなら外で友達と分けたのか、それともこれは明日の分、と自分と分けることにしたのか。その情景の美しさで、割るという動作にマイナスでなく、喜びや期待など、ポジティブな感情を分け与える印象を受けました。あの銀色の包みまできらきらと見えるような、すてきな句です。(城崎ララ)
■「冬青草」を用いた句のストックが脳内にないので季語として効いているのかは分からずながら、中七下五のまっすぐな印象が思い切りがいい主体を伝えていてよいと思った。(湊圭伍)
■恋の真ん中でする儀式に「手作り」というものがある。誰かを想いながら大きなチョコレートを迷いなく割る気持ちよさ。冬青草が一生青春だと叫んでいるようだ。(真島久美子)

猫よ草吐け俺よ有季定型句を吐け  山田耕司
◯真島久美子◯津川絵理子
■有季定型句を吐けと自分に命令しながら、そうなっていないところに「俺」の葛藤が伝わる。猫が草を吐くのは辛そうだから、「俺」もそんな風に苦しいのだろう。(津川絵理子)
■生理現象としての有季定型句だなんて驚いた。そこからの定型無視に、自然と口角が上がる。句の勢いに一気に飲み込まれてしまった。(真島久美子)
■メタに実感を込めるのってむずかしいと思うんです。メタは上位者の視線を導入することだから、どうしても冷笑っぽくなる。それはつめたいメタ。でもこの句はなんというか、生々しい体温とか実感があって、熱いメタ。熱いメタ、好きなんですよ。(翠川蚊)

文脈は草茫々という手紙  真島久美子
◯翠川蚊◯嘔吐彗星
■互いの近況や打ち明け話でしょうか、文脈が知らないうちに伸び放題になる草に擬えられています。書ききれなかったことも余白に生い茂っているんでしょう。有機物である草の生長スピードがちょうどよく喩として機能していて、代替が思い付きません。題の特質が十全に生かされた句だと思いました。また「茫々」と表記されることで雑草の煩わしさが一転して、この事態を価値判断以前の認識へと解放してくれるようでもあり、万物斉同にも通ずる境地が垣間見えました。(嘔吐彗星)
■「文意」とかではなく「文脈」。だから手紙の本題が「草茫々」なのではなくて、あくまで意味上の連関とか脈絡のうえでのみ「草茫々」がある。「草茫々」がテクストの織り目の合間にそっと身を引くような、そんな美しさがあります。(翠川蚊)
■「文脈は草茫々」に引っかかって何度か読み返した句。文ではなく、文脈。支離滅裂なのか、脱線しているのか、四方山話が尽きないのか……なんにせよ思いのこもった手紙なのだろうと思います。(城崎ララ)

眩む手を草のあなたがおほふ傷  青本柚紀
◯翠川蚊
■読めば読むほどグラグラします。どこで切断するかによって、いろんな読みが浮かび上がってくるんですね。でもそのどの読みにも、読み切れるような読み切れないようなもどかしさがずっと付きまとって、痒いところに手が届かない。ウザい多面体(すっごい褒めてます)みたいな句だと思いました。(翠川蚊)
■かなりアクロバティックな句。「眩む」のは目だろうし、「手」が傷を覆うべきなのだが、そうした自然な措辞を外した裂け目を「あなた」への呼びかけが埋めている。「草のあなた」が謎めていて、同時に読者が句を読む行為と重なり合っている。(湊圭伍)

【書】

ぬるい霜月書けば日照雨に木が痩せて  青本柚紀

ひとりずつひとりとなって書をひらき  湊圭伍
○浅川芳直
■下五のものほしげな言いさしが、「ひとりずつひとりとなって」というちょっと鬱然たる気分に説得力を与えていると思いました。(浅川芳直)
■「ひ」の畳みかけがおしゃれです。「ひとりずつひとりとなって」、良いですね。音読したくなりますね。【書】という題に対していちばん正面から向き合ってる句だという気がします。「書」ってたしかにそういうもんだよね、っていう納得感がある。選からは漏れてしまったけど、とても心に残った句です。(翠川蚊)
■はじめの「ひとり」はカウントされる人数としての「一人」、続く「ひとり」は孤独の「独り」と読みました。自ら選べる孤独があるのは豊かなことだと、この句が言っているわけではないのですが、ひらがなで並列されたひとりひとりに書がひらかれている光景はどうしてもうつくしく、肯定を免れません。たまたま今年観た、レイ・ブラッドベリ原作でトリュフォーが映画化した『華氏451』のラストを彷彿とさせる句でもありました。(嘔吐彗星)

もろともに晴れ間から下書きのぞく  嘔吐彗星

玉砕もおりこみずみのお品書き  翠川蚊
◯城崎ララ◯山田耕司◯嘔吐彗星
■見開きタイプのお品書きを想定しました。雑俳の折込みに掛けているのだとすると、品目の中に「玉砕」の二字が詠み込まれているのかもしれません。内容が気になるところですが、最後の晩餐まで取って置いて、裏切り者に開けさせたいですね。(嘔吐彗星)
■いい度胸だな。(山田耕司)
■ひらがなの部分から「こおり」を空目してしまい、一気に玉砕のイメージが補完された句。「みず」もありますね……玉砕といいながら実力を試したいような、果敢な印象も受けます。(城崎ララ)
■「玉砕」とは穏やかではない。ただし、それは「おりこみずみ」であるし「お品書き」にていねいに記されているらしい。中七・下五の頭の「お」が落ちつき払っているものの、やはり「玉砕」である。ひどい目に会う人らも居るんだろう。 (湊圭伍)

山霧や駅に学童書道展  浅川芳直
◯真島久美子◯翠川蚊◯小川楓子
■子供たちの作品が並ぶのは、山深い駅だろうか。霞む山に対して伸び伸びとした筆で表される墨色がみずみずしい。(小川楓子)
■いわゆる「お習字」の句というと、「雪の教室壁一面に習字の雪/榮猿丸」を思い出します。習字が壁一面貼られてる光景ってちょっと怖いんですよね。この句は山だし霧も出てるし、余計ゾッとする感じがある。「liminal space」っぽいからかもしれない。いや、別にそんなこと書いてないんですけど。でもどうしてかこれは無人駅だという気がする。そこにひとり取り残されて、山の駅だから次の電車も全然来なくって、すごく静かで、そんななか学童書道展がひっそり開催されていて、明らかに子供たち自身のものではない言葉が飾られている。こわいなあ、という妄想。(翠川蚊)
■なんと静かで澄んだ句だろうか。子ども達が懸命に書いた作品を、微笑ましい気持ちで眺める小さな駅。心の余裕とは、たわいもない場所に存在している。(真島久美子)

書き足せばBマイナーになる眠る  真島久美子
◯山田耕司
■スイッチを切るためのスイッチ。(山田耕司)
■「とても眠くて楽譜一枚書き漏らす/海地大破」の変奏かなあ。眠くて書き漏らした人と、書き足してBマイナーにしてから眠った人。「Bマイナー」、調べたらバッハの「ミサ曲ロ短調」というのが出てきて、聴いてみるとすっごい荘厳。でも眠る前に書き足したのだとしたら、ちょっとかわいい。あ、でもBマイナーに「なる」なのか。おのずと?(翠川蚊)

折れ折れて書架のわが影冬に入る  津川絵理子
◎浅川芳直◯小川楓子◯嘔吐彗星
■夕陽の射す開架よりは深閑とした閉架書庫、その冷気に導かれる影でしょうか。
折れ折れていく影が幾何学模様をなすかと思えば、冬に至るまでの、書架を巡った時間が長時間露光されるようにも見えます。「わが影」を第三者視点で捉えているところもソリッドで格好いい句です。(嘔吐彗星)
■書架に私が入ったときの私の影の折れ方に冬の到来を感じた、と理解しました。折りたたまれた言葉が開かれるような展開の仕方が良いと思いました。(浅川芳直)
■自分の影を折るには、身体を曲げるのが一番簡単かもしれない。くねくねとした人なのだろうか。それとも、、、。冬の始まりの空気のなかで何か不思議なことが起きる気配がする。(小川楓子)

舌で書くバカの二文字よしょっぱいぜ  山田耕司
◯真島久美子
■バカは甘いものだと思っていたが、その矢印が自分へ向いた途端にしょっぱくなってしまうものだと気付かされる。舌先が感じるのは小さな後悔なのだろう。(真島久美子)
■尻文字はありますけど、「舌文字」とは。身体の中でもかなりよく動く器官なんで、書こうと思えば書けそうですね。「しょっぱいぜ」。そうですか……と思いながら笑っちゃいました。(翠川蚊)
■ヌーベルヴァーグに出てきそうな、愛嬌のある自棄ですね。「ぜ」はまだしも、この「よ」は気恥ずかしくてなかなかできない気がします。ポーズを全うしているところに好感を持ちました。(嘔吐彗星)

昼の書き順をなぞる爪のひかり  城崎ララ
■「書き順」は「昼」という文字のものか、それとも昼という時間に書き順があるということか。前者が実景だが、後者の感覚も重ねてある、と読みたい。(湊圭伍)
■「書き順」私もいろいろ考えたんです。でも、これより良い句はできなかったな。句意も明瞭で、誰が読んでも良い句なんじゃないかなあ、と。採るか最後の最後まで迷いました。(翠川蚊)

冬がはじまる友だちの白い書架  小川楓子
◯津川絵理子◯城崎ララ
■書架って冷たいんですよね……学校の地下書架を思い出しました。冬の書架は白くて、寒くて冷たい。なんとなくこの友だちはひとではなく、建物や場所であるように感じます。(城崎ララ)
■どんな友だちなんだろう、と想像する。親友というのでもなく、どことなく掴みどころのない人のような。「冬がはじまる」と「白い書架」の取り合わせと、全体的にふんわりした雰囲気に惹かれた。(津川絵理子)

【乗り物】

サーカストラック雨の向こうへ行ったきり  真島久美子
◯小川楓子
■サーカスというと大型テントに大型トラック、いずれも懐かしいアメリカ映画に出て来そうな色合いの印象がある。祝祭のあとの寂しさが「行ったきり」とさりげなく表されている。(小川楓子)
■何かが向こうの世界へ行ってしまって、帰ってこないという句、川柳には多い気がします(勝手に川柳と決めつけていますが…)。「弁当を砂漠へ取りに行ったまま/筒井祥文」とかね。で、これはたぶん子供の視点という気がする。子供からしたらサーカスはひとつの小宇宙ですから、それがもう行ってしまったって、たぶんすごい喪失感。非日常が日常に戻るときの、そのなんとも言えぬ悲しさですね。(翠川蚊)

トーストのうえをトロリーバスが行く  翠川蚊
◎真島久美子◎湊圭伍◯小川楓子
■「トロリー」ならぬ「トローリ」の「チーズ」が隠されているというまことにベタなお遊びながら、というかそのベタさゆえに軽やかな明るい朝の風景(とちょっとの眠気)が起ちあがっている。「~が行く」も句の外へうまく抜けていて心地いい。(湊圭伍)
■トーストの上で溶けてゆくバターのような、優雅な時間を感じる。実際に見たことも乗ったこともないのだが、耳の奥を静かにトロリーバスが過ぎていった。(真島久美子)
■日本では、トロリーバスを見かけることは少なくなったが、ドイツなどでは、今でも交通機関として活躍しているらしい。トロリーバスの「トロリー」という音がトーストの上で溶けるバターを彷彿とさせられ美味しそう。トースト一枚で小旅行の気分。(小川楓子)

ほどよい誤訳ね。ギアが滑るときの  湊圭伍
○翠川蚊
■ギアが滑るという感覚、ペーパードライバーの私にはよく分からないんですが(調べてもピンとこなかった)、ギアが滑るたびにこの世に「誤訳」が紛れ込むという「感じ」は不思議とわかる気がします。この句のなかに「誤訳」を探したくもなりますね。「ね」のあとの句点が重要なのかも。これによって「ほどよい誤訳ね」がテクスト上の発話だということが強調されている。話者はもしかしたら、自分がテクスト内存在だと気づいていて、誤訳されているのは話者自身なんじゃないか。「ほどよい誤訳ね。」が誤訳なら、なんかもうそういうパラドックスみたいになりますが。(翠川蚊)
■誤訳にも程度があること、その楽しみ方まで心得ている手練れの翻訳者が想像されます。句点の手前から、向こう側を傍観する……微笑を浮かべたまなざしと、事故の予感とを交錯させる倒置が効いています。「ほどよい」や「ね」の選択によって表面上マイルドに仕上げているところに、作者のねじれたセンスのよさがうかがえる句です。(嘔吐彗星)

機内誌のヨレも乗りこなすサーファー  嘔吐彗星
◯湊圭伍
■乗客が何人も乱暴に読んだ機内誌のページの折り目を越えてゆくかに見える写真の中のサーファー。飛行機旅の微妙な疲れで気怠くなった目線がとらえたディテール。チープで意味が無いのがよい。(湊圭伍)
■良い波なのだろうなと嬉しくなります。きっとたくさんの人が手に取った、ベテランの機内誌。(城崎ララ)

枯れ山を股に挟めば馬の声  山田耕司
◎津川絵理子○浅川芳直
■上五中七はどういう状態?と一瞬考えた。でも下五の「馬の声」で、馬に乗っているのかも、と。馬の背を枯れ山に喩えたことで、なんだかおとぎ話に出て来そうな大きな馬を思った。馬の声が前方遥か彼方から聞こえてくるのだ。自分が今股に挟んでいるのは、馬であり枯れ山なのだと感じると、世界は果てしなく広がり、自分もまた果てしなく広がっていく。(津川絵理子)
■解釈が必要な一句。股覗きのような仕方で枯山を見ていると取りました。鄙の雰囲気に惹かれて。(浅川芳直)

自転車に馬のぬくもり帰り花  津川絵理子

冬凪にアクセルふんはりと踏まれ  小川楓子
◎翠川蚊◯山田耕司
■「ふんはり」に心打たれたので特選。「ふんはり」の旧仮名の手触りがたまらない。「は」がポカンと空気みたいなんですね。「ふ」のたたみかけも気体っぽい。「冬凪」だから静かな大気が、足もとで「ふんはり」と少しだけ動く。その風の動きが、その感触が、そのさびしさが、そのかわいさが、そのかすかな温度が見える。アクセルが主語なのも良いですね。アクセルを踏むのではなくて、アクセルが踏まれるという、そういう世界への眼差し。私は運転教習所がこの世でいちばん嫌いですが、この句を見ると、クルマ、運転、なんか良いなってなります。もう超絶好きな句です。(翠川蚊)
■冬凪に対して、ではなく、冬凪を原因として、という意味で、この「に」という助詞を受け取りました。(山田耕司)
■言われてみれば、アクセルを急に踏むのは危ない。「ふんはりと」ですね。(浅川芳直)

冬麗の汽笛ほど汽車遠からぬ  浅川芳直
◎小川楓子◯津川絵理子◯湊圭伍◯城崎ララ
■電気機関車の甲高い汽笛ではなく、蒸気機関車の圧倒的な音量と複雑な音質の汽笛が、ふさわしく感じる。「汽車遠からぬ」という措辞には、そんな汽車への愛情がにじむ。澄んだ日のどこまでも響く汽笛が醸し出す奥行きにしばし佇んでいたい。(小川楓子)
■ふゆうらら。これも調べたのですが、季語って本当に美しい。冬の空は高く、汽笛が響き渡る晴天が見えるようです。どんなに遠くからだろうと振り向いたらそこの線路だった、なんて思わずはにかんでしまいそう。汽車の向こうまで見えそうな句です。(城崎ララ)
■通常「遠からず」とするのかと考えたが、「遠からぬ」と形容詞的に後ろに何かがあることを示唆しているところに味がある気がしてきた。頭の「冬麗」へと戻ってゆくような。(湊圭伍)
■汽笛は遥かから聞こえてくるのに、汽車はそれほど遠くないところに見えている。そんな風景をどこかで見たことがあるような気がする。なるほど確かにそうだと思う。冬麗の不思議な光景。(津川絵理子)

透けてゆく舟は階下へ実を運び  青本柚紀
◎嘔吐彗星◯湊圭伍
■舟を透過して階段に揺れる光の網。超自然的な美しさのあるシーンです。下へ動くのであればこの舟は沈んでいることになると思うのですが、「実」を運ぶ役目を果たしているらしい。むしろ「実」の重みによって沈んでいるのでは……という実際的な読みは差し置かれます。それよりもなんの「実」なのかが気になるからです。なんらかの実が階上から階下へ降りることは、種子への回帰を思わせもします。舟が透けてゆくのは消失を意味するのか、その引き換えとしての実なのか……意味深で、複数の読みを誘う句です。けれどどの問いも抽象的なまま麻痺させられるので、分析をやめて句のイメージに没入、陶酔しました。(嘔吐彗星)
■「透けてゆく」で切れるかどうか。とりあえず切って読んだ。そうすると要素が多くて複雑な句になるのだが、すべてが透けてゆき上下の区別も不分明となった世界を移動する「舟」の像が浮かんで解放感があった。(湊圭伍)

流星を手本にTime Machine【🔛】  城崎ララ
○浅川芳直
■初めて見た絵文字で面くらいました。「手本に」、よくわからないようで、われわれが見ている星の光は約0.003秒前の光。そんなところの繫がりがあるのかなと思いました。(浅川芳直)
■パッと見ていちばん気になる句ですよね。「流星を手本にTime Machine」は素直に読めますが、なんだ【🔛】って。Time Machineの起動って、こんな感じなんだろうか…と妄想できてたのしい。(翠川蚊)
■乗り物というテーマにたいしてTime Machineを持ってこれた時点でリーチですね。Time Machineがつよすぎて、たいする「流星」の斡旋がややおぼろげな気もしますが。??の左右両矢印で句の前後の時間に飛んでいけそうな感じが面白いです。Emojiの導入に挑みながら、「りゅうせいを/てほんにタイム/マシン・オン」とスムーズに17音で読ませる保障も忘れてはいません。(嘔吐彗星)


【参加者プロフィール】

■嘔吐彗星 おうと・すいせい
無所属フリー。句集未刊。note https://note.com/vomitcomet09

■城崎ララ きのさき・らら
西脇祥貴との川柳ユニット「川柳諸島がらぱごす」で季刊ネプリを発行。オンライン句会「海馬川柳句会」「川柳句会ビー面」に参加中。

■真島久美子 ましま・くみこ
1973年生まれ。卑弥呼の里川柳会代表。番傘川柳本社同人。川柳葦群同人。全日本川柳協会常任幹事。

■翠川蚊 みどりかわ・か
2000年生まれ。未所属。プロフィールに書くことなくて悲しいです。誰か一緒に川柳やりましょう。好きな映画は『ダンボ』と『ラルジャン』です。noteのリンク(連作等あり)https://note.com/midorikawa_ka

■湊圭伍 みなと・けいご
「川柳スパイラル」、「せんりゅうぐるーぷGOKEN」同人。昭和48年、大阪府生まれ。愛媛県松山市在住。句集に『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房、2021年)。海馬川柳句会運営。

■青本柚紀 あおもと・ゆずき

■浅川芳直 あさかわ・よしなお
1992年生まれ。「駒草」「むじな」。第8回俳句四季新人賞、令和3年度宮城県芸術選奨新人賞、第6回芝不器男俳句新人賞対馬康子奨励賞。「河北新報」秀句の泉 水曜、土曜担当。

■小川楓子 おがわ・ふうこ
1983年生まれ。「舞」会員。今年5月に第一句集『ことり』を上梓。共著に『超新撰21』『天の川銀河発電所』ほか。

■津川絵理子 つがわ・えりこ
1968年兵庫県生まれ。1991年南風入会。鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事。句集『和音』『はじまりの樹』『夜の水平線』など。第61回俳人協会賞。

■山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生まれ。俳句同人誌「円錐」編集人。句集『不純』ほか。

2022-02-06

湊圭伍【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】 定着しようという意志

【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
定着しようという意志

湊圭伍


各作家、二句ずつ抜きつつ、10句全体の印象を述べます。


◆花島照子 フェルマータ 

流れ星左右の耳に音 いまも  花島照子

声冴える模型の肺を開くとき  同

感覚の冴えに特徴のある句群。最後の「いっぽんの冬木の窪のあなたかな」が芝不器男を思わせるが、夭折感(こんな言葉はないだろうけど)を漂わせている。むかしの少女漫画チック、と言えるかもしれない。抜き出した2句は、倒置が上手く働いているなと思った。一字空けを挟んだ「いまも」は前の少し説明過多に思える表現を、脳へ直接にひびく「音」として読者へと引きつけてくる。「声冴える~」も最後がくどくなりそうだが、むしろ、「~とき」で途切れることで瞬間の気づきに説得力を持たせている。


◆田邉大学 優しい人

麦の芽を何度も風のやりなほす  田邉大学

浮寝鳥ルーズリーフに穴一列  同

こちらは瞬間や感覚というより、世界のなかにある連続性を表現しようとしている。俳句としては、こちらのほうが珍しい気がする。「麦の芽を~」の句では、「風」が何を「やりなほす」のかが、省略されているのか、されていないのか。実際は、青々とした麦の芽の並びを風が何度も揺らして吹き通っていくのだろうが、そのたびに起こる少しずつの変化を「麦の芽を~やりなほす」というやや無理のある表現で受け止めることで、作者が不在でも進み続けるその場の時間が定着されている。「浮寝鳥」を一つの穴ではなく、「穴一列」と取り合わせるのも独特の感覚。
 

◆岡田由季 宴

階段の巻き付くホテル冬の虫  岡田由季

夜の端海鼠の口がすこし吸ふ  同

実景を基にしているのが伝わるが、写生といってよいのかは分からない。印象としては、各句に少しずつの気持ち悪さがある。どこか理解しきれないところが残る世界のさまを描いて、その理解できない部分が最後に読者へ手渡されている。「階段の~」の句は、ホテルと虫の取り合わせだが、「階段の巻き付く」さまと「冬」、「ホテル」と「虫」に通底するものを見せつつ、「階段の巻き付くホテル」と「冬の虫」では関係に捩じれた印象が生まれているのが不思議。「海鼠」の句は、「夜の端」という表現がよくありそうでない。「夜」のどこの部分もその端になりそうで、つかみどころのない「海鼠」がじぶんの世界のどこかに吸いついていると考えると、薄気味が悪い。
 

◆佐藤智子 背はピンク

蜜柑並ぶと寂しい姉と町に出て  佐藤智子

寒そうに漢字が並ぶ米こぼす  同

言葉のフレーズとフレーズそのままの関係として、日常起こりうる偶然の出来事の並置が示されている(もしくは、そう読者が感じられるように作られている)。「取り合わせ」という用語は、語と語を組み合わせることとして捉えられることが多いように思うが、この句群ではそれぞれがもう少し文脈をもたされた「出来事」と「出来事」の組み合わせとして表れている。「蜜柑並ぶと~」では、「蜜柑並ぶ」と「姉と街に出て」の二つの出来事があり、「寂しい」は統語的には「姉」にかかるが、印象としては前の「蜜柑並ぶと」を受けてもいて、結果として、寂しさによって二つの「出来事」を取りはやしている。「寒そうに」も、漢字の並びとこぼれる米に対して同様の働きをしている。
 

◆大室ゆらぎ 霜

寒林と溝に半身づつ置きぬ  大室ゆらぎ

雪雲の脚に吸はれて人体浮揚  同

身体の不安定さ、不確定さを拠りどころにして世界をつかもうとしている、というよりは、俳句にすることで、身体と世界の不安定さがぎりぎりのバランスを保っているという感じか。じぶんに身体があるのが不思議なのかも知れない。「寒林と溝に~」では、「半身づつ」とぼんやりと示される語り手の身体は、「寒林と溝」という風景と風景の境目を与えられることで辛うじて全体を上手く「置く」ことが出来ている。たぶん、外にあるこの境界がなければ、半身と半身はそれぞれ別の方向へ漂っていってしまうのかも。「人体浮揚」も、降り始めた雪に心弾んで、と心理的に解釈するには過剰な表現。「吸はれて」までの「私」の視点から、外から「人体」を捉えた視点へ、その急転換もどこか危うさを感じさせる。というか、俳号も「ゆらぎ」とはすごいですね。


◆野崎海芋 三連符

ファミレスに喪服一団コート脱ぐ  野崎海芋

サイドミラーに細きつららや落ちずゆく  同

行為や出来事を、不確定のばらばらのものではなく、背景にある時間の経過にしっかりと定着しようという意志、あるいはこだわりを感じる。人々が「コートを脱ぐ」という行為に、「ファミレス」という場と、「喪服」、つまり葬式帰りであるという社会的文脈が添えられる。いや、話は逆で、そうした非人称にもなりうる社会性に、具体的な行為を通して実体を与えようとしているのかも知れない。「落ちずゆく」氷柱にも、社会的に必要な、何気ない車での移動にも、危うげながら筋の通った意志を貫こうとする作り手を存在を感じる。


第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む

第764号 2021年12月12日 ■田邉大学 優しい人 10句  ≫読む 

第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む

第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む 

第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む 

第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む 

2021-07-04

あまがみ草紙 湊圭伍 10句



あまがみ草紙 湊圭伍

エプロンのポケットにあんなものこんなもの

ゆるキャラが当然もつべき悪意

生きかたが尻とりの彼氏

失敗を恐れずに甘噛みしよう

アルファベット通りもんどり打ってモンドリアン

マキャベリの桔梗はいつも炒めすぎ

ホイホイと一面に載るG7

玉音が洩れとるパッキン替えときや

刑法や腰をひねつてゐる糸瓜

はあローストビーフ来い