川柳って何?(それって美味しいの?)
湊圭伍
「川柳って何?」という問いに、とりあえず、私の作句および読みの際の意識という視点から答えてみる。あくまで無責任な流れで、途中まで音楽のジャズとのアナロジーで話は進むが、途中であっさりそれを諦める。川柳の前史にも片足をつけるが、それはあくまで跳び箱のロイター板としてである。オチは 「川柳って何?(それって美味しいの?)」の「それって美味しいの?」に答えるところだが、回答は作句や受容における「私」やジャンルの構造に関わるものになるだろう。
川柳は音楽、特に即興が入ったジャズのような意識で作っている。ただし、言葉にはそれ自体に意味、文脈、感情、判断などが入っているから、それらの重みや軽み、粘りや速さも音色のように感覚して、一句や連作としての流れを作っている。音韻やリズムは当然考慮に入るが、それだけを句の音楽性として見るとつまらない。社会批評性が句に表れる場合もあるが、それも以上のような流れの中の一つの要素に過ぎない。音楽でもメロディやリズム以外に、音色や和声とその進行、形式、強弱、テンポ等があり、様々な破調や、体験の場のもつ諸々の条件の効果がある。それと基本は変わらない。
ジャズのように、というのは、「前句」の感覚にも通ずる。ジャズではテーマ(基本、スタンダードのメロディ)の提示があり、それに各楽器のソロが続き、テーマに回帰する。川柳は前句附の前句をとって、一句独立でも読めるものにしたことが起源だが、幻の「前句」、何かが前にあってそのリアクションという意識は(題詠はもちろんだが雑詠でも)強いと思う。ただし、そのテーマは題詠を除きあからさまには共有されないし、題詠であってもテーマに縛られているものは評価が低い。つまり(と飛躍)、テーマの提示なしに、いきなりソロから始まるのが川柳だ。
それと同時に、ジャズとは違って、川柳はテーマへは回帰しない。たぶんこれは、前句附より前の俳諧(連句)の特質に関わっており、また前句附から古川柳(前句から独立した読み物)へと進んだ理由になっている。「前句」への意識があっても、川柳という過程を経ることで不可避的にテーマからずれてゆき、芭蕉が「三十六歩の歩みなり、一歩もしりぞくこと無し」といったように、戻ることなく滑走してゆく。(蛇足――芭蕉の言葉の主語はもちろん「俳諧」だが、ここから強弁すると、「俳諧においては老翁が骨髄」と言った芭蕉の「骨髄」は俳句よりむしろ川柳にあるということになる。)
この幻の「前句」への意識とそこからの滑走は、川柳というジャンルが時代とどう関わりうるか、あるいは関わってしまうかともつながっている。私たちの前には多種多様な「テーマ」の群れがつぎつぎあらわれ、その変奏やリアクションとして私たちの川柳があらわれる。句は時代から何かを嗅ぎとりながら、「テーマ」には拘らない方向へ飛散してゆく。川柳を読むということは、それら飛散の様を、時代とそれからの自由の間にあって見届けることだ。ということは、読みもまた、そうした飛散を読者自身の言葉で追走してゆく試みとなる。
さて、上記のような言葉の運動が川柳だとして、それに関わることがどのように楽しいのか。よりメジャーな短歌や俳句という短詩文化がある中で、川柳がいちばん「美味い」と思うのはどのような視点であるのか。まあ、それも上記に書いた川柳のあり様にすでに説明しているといえばいえる。つまり、「私」(時代と併走するなかで個人に少しずつ溜まってゆくもの)という重力を振り切り、制度や形式の与える回帰性(句語への内向や共同的なループの構築)を裏切ってゆく動き、さらに各句が終わったあとにすべてが霧消して何も残っていないという身軽さ。
上の「私」についてのところが短歌、回帰性に関わるところが俳句と完全にイコールではないけれど大幅に関係しており、とりあえず、そうしたものに拘らず無責任に跳ねていられるのが川柳のよいところだ。反対に、そうしたものに守られず流砂の上に立っており、社会の剥き出しの言葉と直接関わってしまうことで「無責任からくる責任」が生じ、裸でほっぽり出される可能性があるのが、川柳の厄介で危なっかしいところである。川柳を書いていくということは意識的にも無意識的にも、その辺を選択してしまうことでもあろう。
実際に、じゃあ、どういう川柳を書いとんねん、お前は?というツッコミに応えるべく、川柳小連作をつけておく。ご笑覧を(笑わなくてもいいよ)。
〆切 川柳7句
ビバップする看守の花柄のネクタイ
不幸って飛んでるように見えるっしょ
ダウンコート着たアプリにも中毒性
皿屋敷の皿は元来フリスビー
狙ってもイソギンチャクのままでいる
鶴嘴がすこし足りないシーチキン
〆切にも、猫ミーム、生やしといたよ
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