2026-05-31
季語の強制力 非文学的な意味の、春愁を知らない私による 西原天気
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2026-05-10
浅川芳直 季語はどんな意味でルールか、またルールでないか
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2025-02-02
浅川芳直【週俳10月11月の俳句を読む】Difficult
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2024-03-03
2022-11-27
柳俳合同誌上句会2022 選句結果
1週間延ばしましたが、結局、お一人様から選句が届きませんでした(音信不通)。届いたぶんで結果とさせていただきます。
2022-02-13
【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】手を止めて 浅川芳直
【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
手を止めて
浅川芳直
第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む
第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む
第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む
第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む
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2021-06-13
【週俳4月の俳句を読む】まんぢゆう 浅川芳直
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2020-12-20
【週俳11月の俳句を読む】冬のあかるさ 浅川芳直
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2020-03-15
【週俳1月2月の俳句を読む】 作者の息遣い 付「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」? 浅川芳直
【週俳1月2月の俳句を読む】
作者の息遣い
付「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」?
浅川芳直
0.作者の息遣いを感じる句
筆者は、作者が詠みたい何かが伝わってくる作品が読んでいて楽しい。10句に連作的なテーマ性がほしいというのではない。作者の息遣いが感じられる作品に惹かれる。
もっとも「息遣い」という用語はあいまいである。志向性と言ってもいいのかもしれないが、「息遣い」には、自然や生活に対する直感、ことばや俳句という詩形そのものに対する態度、それどころか作者の思想性といったものまで包含する鷹揚さがある。いわゆる「作中主体」の機能に解消されない、作品制作の権能に付随する何か、と言いたい。
1.「マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー」山本真也
くまあなにこもるP.S.アイ・ラヴ・ユー 山本真也
正直に言えば、私はビートルズの「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲を知らなかった。10句通して、ビートルズにまつわる素材がちりばめられている。洋楽を(邦楽もだが)あまり聞かない筆者には、季題の鑑賞が難しいところもある。ただ、ことばとことばのバランスが印象深いこの句に、くぎ付けになった。
熊の入ったあとに地表に開いている穴はやっと呼吸ができる程度の小さなものだという。「熊穴に入る」は、山暮らしの人でなければなかなか身近ではない季題である。あまり身近でない季題、おそらくは身辺にないものを詠んでいる俳句に出会ったとき、作者は何にその季題を感じているのか読んでいくのも、鑑賞の一つの楽しみだと思う。この句は「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲、あるいはフレーズから熊の冬眠に思いを寄せるところが面白い。熊も昨今は食糧不足、下手に人里へ降りて、命を落とす個体も多い。手元の歳時記には、母熊はこの時期に子育てをするともある。「P.S.アイ・ラヴ・ユー」を実際に聞いてみると、牧歌的な歌詞、ほのぼのとしており、そのことが、また悲しい。
2.「もしかして」細村星一郎
笑つても笑つても冬プラタナス 細村星一郎
ロケットの落ちてきさうな冬野かな 細村星一郎
一句目は、この10句の冒頭に置かれた句。〈笑つても笑つても冬プラタナス〉の「プラタナス」の感じに惹かれた。楽しく笑っているにもかかわらず、ごく静かな心の影をとらえている。寒々としたプラタナスの並木、冬日の影、そういったものが混然となった「笑つても笑つても冬」だろうか。作者にとっての「冬」の質感はこのようなものかと納得させられる。こういった句を見せられると、同時詠の〈水仙や線路を切り替へるレバー〉の路線は、この作者としては事柄の表面をなぞってしまって物足りなく思わないでもない。
二句目、「冬野」の表情の発見。子どものようなまなざしが楽しい。天然なもの言いに見せているが、10句を通して見ると、計算されたことばの斡旋だと思う。ロケットの一語が、きらきらとした日差しを感じさせる。いい意味での巧みさがあると思う。先日第16回鬼貫青春俳句大賞を受賞した「触れられて」30句の評には「若々しくユニーク」「感覚が良く、発想が豊か」といったことばが並んでいる。それらの評言はもっともだと思うが、今回の「もしかして」10句からは、ときに未熟なイメージと背中合わせにされがちな「若さ」の観念にあてはまらない作品をめざしておられる印象を受けた。
3.「横顔の耳」田口茉於
こちら向く横顔の耳冴返る 田口茉於
一瞬、読みに迷う。横顔の人がこちらを振り向いたのかと思ったが、よく読むとこちらを向いているのは耳であり、この人がこちらを向いたわけではない。したがって「こちら向く」が不要だという見方もあると思う。しかし、振り向くようで振り向かない横の人、ただ耳だけがこちらを向いている、その煮え切らなさがこの一語にはある気もする。その煮え切らない空間を「冴返る」と断定した下五が、上五中七をきっぱりと清算している。「冴返る」という締め方に、作者の俳句に対する呼吸を感じる。
同時詠の〈鷹鳩と化して南を向いてゐる〉、厳しい冬を乗り越えた鷹が鳩になってやっとのんびりしている、という句。それだけでは季題の説明だが、「南を向いてゐる」でとぼけた味が出て面白い。何とも言えないぎりぎりの線まで押して単純化する手法があざやか。
4.「新都心」前田凪子
雲に入るホワイトボードたち鳥たち 前田凪子
1月、2月の10句を通して読み返してみて、何と言ってもこの一句が抜群に面白く感じた。季題を分解して表記することには賛否があるが、この句のこの語順は動かないと思う。意味の上から言えば、「鳥雲に入る」と「ホワイトボードたち」の取り合わせだが、この句ではホワイトボートたちも雲の中に入ってしまった。そう、ホワイトボードたちである。会議室から、オフィスから、ホワイトボードたちが群れとなって北方へ帰ってゆく。そんな不思議な作品世界の表出を通して、春のけだるげな感じ、会議中の眠さ、そういった空気感がたった十七音に余蘊なく表現されている。下手な鑑賞を許さない一句だと思う。
5.通俗性の問題
ここから先は、おまけである。本稿冒頭で「作者の息遣いを感じる句」と述べた。
俳句文芸のことばは、通常の発話のように特定の誰かに向けて、言いたいことを十全に伝えるために発せられるわけではない。想定可能なすべての読者へ向けて自分の感性を問うオープンさを持ちつつ、しかし、わからない人にはわかってもらわなくても結構だ、という強気の性格もある。冒頭で述べた「作者の息遣い」が立ち上がるのも、強気の創作態度からだと思う。
強気の創作態度と述べたが、このことは昨年(2019年)6月の「週刊俳句」第632号の上田信治氏の時評(http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/blog-post_2.html)で氏が問題提起された「通俗性」の話題に通じるものだと思う。遅ればせながら上田さんに簡単な応答をしておきたい。
6.上田時評の内容とその吟味
上田時評の論点(の一部)は次のように再構成できる。
[1]「通俗性」は「表現物の価値(よさ)が、水準を低めに見積もった読者(=大衆)の、了解の範囲内にあること」で、作品の価値を損なう要素である。(想定)
[2]『俳句』68-6号の特集「U39作家競詠 推薦!令和の新鋭」に登場する結社推薦の若手の作品は通俗的で低調だった。(想定)
[3]結社の若手の多くは、結社内でウケにいく作句をしている。(隠れた想定)
[4]通俗性の問題は「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」という問題だ。(帰結。[1]より)
[5]多くの結社は読者の水準が低い。(隠れた帰結。[1][2][3]より)
[6]「結社で書いている新しい人に言いたいのだけれど、そのコミュニティの多数派がよろこぶものを書くことからすこし離れて、あなたと同じように新しい人たちを宛先として、考えてもいいんじゃないだろうか」(提案。[3][4][5]より)
筆者も上田さんが通俗的な創作態度へ冷淡であることに共感する。しかし、低調な創作を回避するために、結社の若い人たちは作品の宛先を変えてみよう、という上田さんの提案には、その根本のところで疑問がある。
注意を向けたいことがある。
第一に、上田さんは「通俗性」の問題を「コミュニティの多数派がよろこぶものを書くこと」、あるいは別の記事で「ウケにいってしまうことの問題」(*1)と分析していることである。この分析からすると「水準の高い読者」のコミュニティにウケにいけば作品の低調さを招かないのかを論じないと、[6]の説得力に関わる。流行最先端に沿うように、題材、表記、調べを、作句信条をチューニングする振る舞いは、作品にうわべだけの軽薄さをもたらさないのだろうか。
第二に、「水準の低い読者」「水準の高い読者」とは一体誰なのか、ということである。
たとえば、伝統系の結社では、わかりやすい措辞によって季題の本情を踏まえて詠む態度が「平明な良さと平凡なつまらなさとの違いを考慮しない人がいても仕方がない」「この良さを理解しない人は水準が低い」といったアンチ・通俗的信念に支えられている場合もあろう。つまり「誰にでも評価しやすい作品ではあるが、誰にでもわかるわけではない価値も併せ持つ作品」、逆に「ある思想をもつ人からは高い評価をうけるが、別の思想を持つ人は評価できない作品」という可能性をもっとシリアスに考えたほうがよい。作品が表面上わかりやすいからといって、上田さんの定義する意味での「通俗」さには当てはまらない場合がある。水準の高い読者といっても、「現代思想好き」「古俳諧好き」とか、いろいろある。そのことを閑却しては、不当な仕方で読者を「水準が低い」とみなす人があらわれかねない。
第一の点は、その人が水準が高いと思うコミュニティであろうがなかろうが、ウケにいくこと自体が、作品の価値を損なうリスクを負った選択だという問題提起である。そして、上田さんの「あなたと同じように新しい人たちを宛先として」という提案は、特定の「新しい人」に「ウケにいく」ことを称揚していると受け取られかねないように思う(なお。当該記事の続編には、「結社推薦によって45句を発表していた若手が(全員ではないが)ずいぶん通俗的で、自分が知る、ここに推薦されていない20代30代の作家にはそういう印象を持つことがなかった……」という記述がある(*2)。こういった記述は「私が認める人たちにウケにいけば作品の低調さを改善できる」という受け取り方をされかねず、危険である)。
第二の点は、読者にチャリティーを期待しすぎることはフェアなのだろうか、という問いを提起する。たとえば、アンチ・通俗的に作句するAさん、Bさんがいるとしよう。しかし、BさんはAさんとは異なる俳句観をもっている。Aさんの俳句はかなり強気に表現しているが、Bさんの作句信条に照らしたとき、Aさんの句は蛸壺的で軽薄に見える。このとき、Aさんが期待するチャリティーをBさんが発揮してくれないからといって、「水準の低い」読者と居直ることはフェアだろうか。
筆者は、ウケにいってしまうことはコミュニティの問題というより、どんな信条で俳句に向き合うか、という作者の態度の問題だと思う。どんなコミュニティで俳句を詠むにせよ、読者との対決のなかで自分の表現を反省し、個性を見つめる契機があるはずだ。そして、俳句を作る人間は生きている以上、どのように俳句と関わるかという態度をもつだろう。たとえば、生活の一部を記録する、承認欲求を満たす、十七音で作品世界を構築する、自然に対する自分の直感を表現する、等々いろいろあると思う。それらは作品の完成度への評価には直接関係しないが、その作者にとっての理想の俳句像や、個性を形成する。
「ウケにいく」という態度は、本稿冒頭で述べた「作者の息遣い」が現れる句を少なくする選択肢ではないか、と思う。もちろん「ウケにいく」ということ自体は、どのように俳句と関わるかという信条・生き方の一つであり、作品の評価に直接関係あるわけではない。しかし、「ウケにいく」選択は、自分の理想を物差しにして自作を振り返るのではなく、「どうしたらウケるか」を物差しにするために、作者の個性を犠牲にするリスクを負っている。
「俳句の骨法だけで成り立っている句をめざす」でも「平明にして余韻ある句を目指す」でも、その理念にコミットする理由が「特定のコミュニティに向けて書く」ということだとしたら、それは形だけツボをおさえたような句、言ってみれば死語に等しいものを生み出すことと背中合わせである。繰り返せば、ウケにいってしまうことの問題は、作品の宛先を変えても解決しないと思う。
【註】
[1]https://togetter.com/li/1371242?page=2
[2]http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/6.html
第665号 2019年1月19日
■山本真也
マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー 10句 ≫読む
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2018-10-21
【週俳600号に寄せて】地方の俳句愛好者として望むこと 浅川芳直
【週俳600号に寄せて】
地方の俳句愛好者として望むこと
浅川芳直
創刊600号、おめでとうございます。私の高齢の知人にも「週刊俳句」を読んでいるという方がいらっしゃいます。世代を問わず読まれつつ、600号まで発行を続けてこられた積み重ねに、頭が下がる思いです。いろいろな人を積極的に紹介するスタイルを貫いてこられた「週刊俳句」の風通しのよさが、大きな魅力なのかなと思っております。
さて、500号以降の「週刊俳句」で一番盛り上がったのは何と言っても、高田獄舎氏の俳壇批判と、それを受けて高田さんと久留島元氏の対談が掲載された586号ではなかったかと思います。「週刊俳句」のコメント欄のほか、Twitterやnoteでも一連の話題がメンションされていた印象がありました。
ただ一読者としての私自身は、中央の若手の党派性とか、人脈がどうこうといった話題にさして興味が持てませんでした。地方にいて知りたいのは、中央の人たちがどんなことを議論し、どんなことに関心をもって実作をしているのか、ということ。地方にいると、流行にひきずられることなく、ぶれない態度で自然と向き合える半面、自分の行き方を客観視しにくいところもあるので、若手の人たちがどんなことを考えているのかを知りたいわけです。人間関係とか権力とはどうでもいいですから、地方にいる人間としては中央にいる若手がどんなことを考えているか、議論しているか紹介してくれるような特集号をちょっとだけ期待します。
最後にもう一つ希望です。昨年の「俳苑叢刊を読む」の企画は多士済済の執筆陣で、しかもやりたいことがはっきり見える骨太の企画、一読者として毎週楽しみに拝見していました。ぜひまた、このようなリレー式の連載企画を読みたいです。
まとまりなく書き連ねました。600号からの新たなスタート、楽しみにしております。
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Labels: 600号記念号, 週俳600号に寄せて, 浅川芳直
2018-08-19
【週俳7月の俳句を読む】作者は死なず 浅川芳直
【週俳7月の俳句を読む】
作者は死なず
浅川芳直
マンモスの肋くぐりて涼しさよ 金山桜子
この句にほとほと感じ入った。といっても、その巧さではなく「涼しさ」に独特のものを感じたからである。俳人はさまざまなものにこの「涼し」という感覚を見つけてゆくが、マンモスの骨とはなんという自由さだろうか。博物館に大がかりな特別展がやってくるのは、およそ夏休み企画である。外の炎天下とは落差のあるひんやりした空気が、展示場はいわば死骸を飾る死の世界だということを否が応にも訴えてくる。おそらく目玉展示のひときわ大きな骨をくぐったとき、その空間のなかで抱く感覚は容易には表現できぬ不思議なものだろう。その万感を一切抹消しての「涼しさよ」である。大真面目でありながら肩の力の抜けた感覚が、いかにも等身大の人間を見るようで面白い。掲句には、生と死についての物思いも博物館で得た知識も、すべて飛ばしてしまうような作者の実感だけがある。しかしさらりとした表現の奥にはやはり、展示を見終えた万感が沈殿しているようだ。この巧まざる二面性はまさに自然体の句の面白さ、良さだと思う。作者の感じ方・物の見方に、黙って通じてゆきたい一句である。
●
ところで今回「週刊俳句」の七月分の作品を読みながら、作句への姿勢・信条について少し考えてみた。というのもそこに無自覚だと、往々にしてつい自分好みの造りの句だけを不当に高く評価してしまう、逆に取り上げるべき句を見落としてしまう、といった弊に陥るからである。「俳壇は内輪褒め体質だ」といった論が最近生じているが、何のことはない、誰でも好みは偏ってしまうと思う。もちろん佳い句は、どんなに表現が奇妙でも、内容が特殊でも、その人の芯がありさえすれば伝わる。しかし良い句を見逃さないようにするには、自分の俳句理念は括弧に入れ、頭ではなく胸で作品にぶつかる作業が必要だと思ったのである。
たとえば俳句を「書く」という行為を自覚的に引き受けているか、そうでないか、という態度の違いは意識したいと思っている。山本健吉が指摘しているように、「書く」という行為によってなまの発話の場面から切り離された言葉は理念性・抽象性を帯び、それゆえに読者が「現実の池や蛙ではない、もっと真実な何ものかをそこに見る」(山本健吉『俳句の世界』、講談社文芸文庫版、p.116)ことを可能にする。こうした書き言葉の特性に強くコミットメントしようとする作者が内容よりもフォルムの点で新しさを追求すると、ときに難解という評価が加えられることもある。しかし内容以上に一句の雰囲気や表記そのものの面白さが、そうした作品の魅力ともなる。他方「書く」という行為の抽象化・理念化の働きに積極的になれない人(ないしそういった議論に無関心な人)は、感受性と直感をたのみに自分にとっての現実を作品化しようとする傾向をもつ。私などは「書く」ではなく「詠む」と言いたい派だが、表記の効果というよりも内容と音とのひびき合いを重視するようである。ときに古ぶるしい作品となる場合もあるかもしれないが、現場性を大事にすると言ってもいい。こうした創作の上での態度の違いが、ときに不毛な対立を生むようだ。「意味がわからない句はダメなのか問題」「ウソを詠んではダメなのか問題」などは、多分にこうした俳句観の違いが問題の背景にあるかもしれない。
●
そうした意味で要注意の作品なのは、紆夜曲雪さんの「Snail's House」である。と言うのも人によって「わからない」と一蹴するか「素晴らしい」と絶賛するかが分かれる作品だと思うからである。この作者は今年まで筆者とはずんだ句会で遊んだ仲で「むじな」のメンバーでもある。だから筆者としては身内のつもり、手放しに褒めるのではなく、句会で批評し合うようなつもりで、一句友として短評を述べたい。
涼しさの火籠りの眸のふたつづつ 紆夜曲雪
優曇華や空き家よりこゑある日々の 同
睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ 同
蟬茸の記憶の紐やかよひあふ 同
作者はかなり自覚的に、「書く」という行為にコミットしていると思う。筆者は氏が過去の俳人の文体をよく研究していたのを知っているし、今回の作品も直観に頼るというよりは、Snail's House(ミュージシャン)のミュージック・ビデオのまったりとした雰囲気にマッチするよう巧みに書き上げられた意欲作だと拝察する(勘違いだったら許されよ)。加えて表記にもの言わせるスタイルは紆夜曲雪さんの得意とするところであるが、句の内容について開き直った態度を取っているために、言葉を強くしようとしてギクシャクすることがない。
しかし身内の心配性だろうか、ときに雰囲気だけで押し切る一面が気にかかるのである。おそらく紆夜曲雪さんは、内容・素材の力に頼らず、言葉だけでどれだけ一句に雰囲気を作れるかを工夫されているのだと思う。そういった理論的な面を勘案すればこれらの句は確かに成功しているだろう。ただし、本当の佳句とは主義主張や文学理論に関係がなく、一句読み下したときに胸にひびく句のはずである。作者の狙いは一度括弧に入れ、頭ではなく胸で作品を受け止めるべきではないか。かくしてここは私の感じるまま、私の鑑賞で突き進みたい。繰り返すけれども、本当に良い句は作句上の立場、文学理論上の面白さに関係なく、読者に訴える何かがあると思うからだ。
涼しさの火籠りの眸のふたつづつ 同
目が二つずつというのはわかりやすいくらいわかりやすいが、「火籠りの眸」という措辞は、果たして一句のなかで効いているのだろうか。火祭りか何かだと取ると、わかる・わからないという意味の問題以前に「涼し」の感覚に共鳴することが難しくなる。あるいはその不整合を諒とするかどうかに、作句姿勢の違いが現れるのかもしれない。しかしそれにしてもパッと読み下したときに全体が曖昧だと筆者は思うのだが、これは筆者の鑑賞眼の問題だろうか。
優曇華や空き家よりこゑある日々の 同
取り合わせの妙は相変わらず、さすがだと思う。内容の不思議さに面白さがないわけではない。しかしまあそれだけ、内容の突飛さのために作者の顔が見えてこず、訴える力に欠ける憾みがあると思うのだがどうだろう。
睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ 同
読む側としてもまず頭で受け止めてしまうようなところがある。「にやんにやんとみづ湧くこゝろ」。好みを言えばだらだらと水の描写を伸ばさないで湧水をきちっと言い切ってほしい。もちろんそこを評価する向きもあろう。しかし季語に旧かなで「みづ」の字面を取り合わせて情感を作るのはもはや手垢の付いた常套手段となりつつあるし、水に心では言葉先行、擬態語のポップさも流行を取り入れた感があって、損をしているのではあるまいか。借り物の感覚という印象が生じて、素直な鑑賞を邪魔してしまうようでもある。そうそう、「むじな 2018」ではこんな句があったね。
木蓮にほほゑみはこゑ在らぬとき 同
古りし字ゆこゑこぼれ来し竹の秋 同
花林檎みづかがみへと日の手触る 同
筆者はこれらの句への賛辞を惜しまないが、今回の十句を見ると、「こゑ」「みづ」という表記から入っていく手法が、個性というより癖になっているのではないかとも思う。どうかこの点を考えてみてほしい。
少し手厳しく書きすぎたかもしれない。しかし筆者は、進歩し続ける君の意欲作を前にして「よかったね、いい句だね」とだけ言って終わらす気にはなれないのだ。紆夜曲雪作品の場合、「雰囲気しかない」ということはまさに作者の狙っていることであろうし、筆者の繰り言などつまらぬ難癖かもしれない。あるいは、筆者はうっかり「作者が見えてこない」と述べてしまったが、「これはもう俳句観の違いに訴えた難癖である。言語で何かを表現するということは、現実をコピーすることではない。〈ほんとうらしさ〉など作品にとってどうでもいいのだ。浅川は俳句観の違いから紆夜曲雪作品を不当に低く見積もっている」、と反批判を受けるかもしれない。
しかしここで本格的に文学論へ首を突っ込むことはしない。というのも筆者は、何も議論をして相互理解を深めることなしにでも、紆夜曲雪の作品の魅力をたとえば次のような句によって存分に感じ取ることができるからだ。
生きて会ふその風の世の籐椅子よ 同
すれちがふたびにほたるとなりにける 同
この二句はたとえフィクションであろうと、筆者の胸に訴えてくるものがある。その理由を考えてみると、やはり借り物ではない本物の紆夜曲雪さんの感性がしみじみと行き渡っているからではないかと思う。句を鑑賞するうえで、「実際の作者からして……」と言うのは禁じ手かもしれない。紆夜曲雪という号もなるべく生身の人間らしくない名前にしたいということで名乗っているそうだから、作者らしさ云々を持ち出すことは本人としても不本意だろう。しかしこの二句には、作句上の立場を超えた強い力があり、しかもそれは紆夜曲雪の心からの表現となっているかどうかの違いではないかと思うのだ。
「心からの表現」ということで、筆者は何も「事実通りの事柄」といったものを意図しているわけではない。たとえばタイトルになったミュージシャンの音楽世界の借り物ではない、紆夜曲雪自身の詩性、といったことを意図しているのだ。〈生きて会ふその風の世の籐椅子よ〉〈すれちがふたびにほたるとなりにける〉。この二句は、たとえ本人が生身の人間らしさを離れた句を志向しているとしても、消しきれなかった「いかにもこの作者」という感覚が魅力の源泉であると思うのである。
生きて会ふその風の世の籐椅子よ 同
見方によっては、「生きて会ふ」はもってまわった言い方で嘘っぽいし、「その風の世」も曖昧である。一句として景を結ぶのは籐椅子だけだ。しかし世界に対する、あるいは風に対する紆夜曲雪のリアルな態度が、この観念的な表現を見事に基礎づけているように感じられる。ここまで吹っ切れてこそ句を「書く」人の句として一級の作だと思って瞠目した。
すれちがふたびにほたるとなりにける 同
すべて平仮名という特殊さがあるが、けっして不自然さを感じさせない。ずんだ句会のみんなで蛍狩りに行ったことを思い出すと、作者の歩み、蛍を待つ姿勢が、この一句のなかに結実しているようにも思える。作者は観念的・抽象的な句のつもりだろうが、それだけでなく事実の強みをも感じさせる。仁平勝は「日常ごく普通に使われている言葉が、俳句という定型に収められると、ある比喩的な効果が生まれる」(『シリーズ自句自解Ⅱ ベスト100 仁平勝』, ふらんす堂, 2018, p.113)と指摘し、これを「俳句的喩」と呼んでいる。掲句の「ほたるとなりにける」はおそらくはこれとは逆で、作者が蛍に変身しているという何かの比喩が俳句の形式に収まることによって、蛍が光ったという実景を喚起させるようにも機能していると言うべきだろう。これも句の背後に紆夜曲雪という人間の感覚がいきいきと働いていることの効果ではないか。多くの読者はたとえ作者を知らずとも、なるべく作者に寄り添って鑑賞しようとするものだ。そのときに強いのは、作者の芯から出て来た発想・表現だと筆者は思う。
以上、紆夜曲雪さんには、だいぶ失礼な言葉を吐いた。しかしこれは先ほど述べたように一句友の歯に衣着せない感想であり、誤解があればお教えいただきたいし、また反論も承りたい。切り捨て御免は筆者のもっとも嫌う批評態度だからである。今は仙台と東京で遠く離れてしまっているけれど、いよいよのご健吟を祈っている。
●
この時点でだいぶ字数を食ってしまっている。このままでは「身びいき」の誹りを免れないので、七月の作品から私の琴線に触れた句を掲げ、その責めをわずかでも塞ぐこととしたい。
脳の襞さわぐ万緑かがみの間 加藤知子
湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間 同
〈脳の襞〉の観念。万緑の映る鏡のかがやき。コントラストの印象鮮烈である。〈湯浴みの時間〉とは、昼の風呂か。「時間」のリフレインが印象深い。ケの日常の中のハレを切り取る視線である。
コイントスの表裏炎天漂へり 吉田竜宇
コイントスをスローモーションで捉えるおもしろさ。「漂へり」の思い切った主観が、炎天の空気を表現して余すところがない。
馬群れてゐる幻や麦の秋 西村麒麟
「幻」。甘く浮きがちな言葉だが、その甘さを抑えた何気ない詠み方は尋常でない。幻の馬、なんと素敵な、ゆったりとしたひびきだろうか。黄金色に輝く風まで感じられるようだ。キルギス映画に出て来るような、颯爽と駆ける馬ではない。田舎の駄馬だ。道端で馬がのんびりと馬ングソこいていたような時代が目に浮かぶ、ノスタルジックな一句である。
ねばりとかがんばりとかと夏を病む 紀本直美
草いきれふつうに家族いる暮らし 同
平常心ということを強く感じた一連。本当はもっと多くの字数を当てて触れたかった。生活に密着して素朴に詠出された作品群。「夏を病む」という小さなひとひねりが新鮮である。「ふつうに家族いる暮らし」というつぶやきにも共感した。
汗の子のかうべ重たく梳る 金山桜子
前掲の〈マンモスの肋〉同様飾らぬ実感。軽いと思った赤ん坊の体感を言い留めて巧みである。この作者、風景よりも人間の生活が大きい。いや人間よりも「私の感覚」が大きく出ている。
職やめる決意ぐらりと夜の蟻 秋月祐一
「ぐらりと」は夜の蟻の動作ではなく、職をやめる決意であろう。茶化すような言い差しが、かえって離職の決意の強さを印象づけている。ユーモラスな味わいの中に、骨組のしっかりした、まじめな句である。
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2018-06-03
10句作品 浅川芳直 捩花
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絶頂へ叫ぶボーカル夏立てり
ひと雨の予感に栃の花が降る
あめつちの爆発を見き昼寝覚
夏蝶へ潮騒とどく墓地のあと
俊敏にうねる毛虫を犬不機嫌
夕焼の高台椅子の軋む音
死の話少しだけして冷素麺
田を闇に沈め一軒灯涼し
夏暁の渇きクリーム色の壁
捩花やバスが来ぬなら歩きだす
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2017-03-12
【「俳苑叢刊」を読む】 第7回 中村汀女『春雪』 生活詠の賞味期限 実作者の立場から 浅川芳直
第7回 中村汀女『春雪』
生活詠の賞味期限
実作者の立場から
浅川芳直
ところが当然のコトワリで、時代と場所が変わりますと、ライフスタイルってのが変わっちゃう。すると、どうも疑問が湧くんですな。生活詠、ひょっとすると花鳥諷詠とか写生一般の名句も含めて、そういう俳句の中には「賞味期限」つきの奴、そのうち食えたもんじゃなくなっちまうのもあるんじゃねえか……。
(1)秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
それでさっそく『春雪』からアタクシが、時代を感じるなァという句をいくつかカテゴライズして挙げてみるんですが……、まずは衣食住のなかでも、ファッションがどうとか昔はこうだったとか言いますように、一番傷みが早そうな、「衣」の俳句から。
(2)張板抱へて廻れば眩し鵙の庭(3)くけ䑓のひき絲さげて日永かな(4)打水や抱へ出て襷しめなほし(5)新涼の手拭浮けぬ洗面器
衣食住というカテゴリ以外でも、
(6)麥の芽に汽車の煙のさはり消ゆ
(7)征く人の御父尊と東風の驛
(8)ふるさとにたよりおこたり日向ぼこ
(9)風呂沸いて夕顏の闇さだまりぬ
(10)もろこしを燒くひたすらになりてゐし
(11)丸の内三時の陰り秋の風(12)三越を歩き呆けや花氷(13)煖房に毛皮とそれのレヂスター(14)少年のかくれ莨よ春の雨
(14)ゆきついてかへす夜番の聞えつつ
(15)雪掻きし市内に來り橇難澁
(16)馬が待つ雪の積荷のまだなかば
(18)曼珠沙華抱くほどとれど母戀し
(19)靴紐をむすぶ間も來る雪つぶて
(20)咳をする母を見上げてゐる子かな
(21)さみだれや診察券を大切に
(22)あはれ子の夜寒の床の引けば寄る
(23)咳の子のなぞ〱あそびきりもなや
(24)ゆで玉子むけばかゞやく花曇
(25)書いてみす數字が下手や日向ぼこ
(26)まだ犬もつながれしまゝ夕時雨
(27)夫と子をふつつり忘れ懐手
(28)年ごろの似てかへりみて曼珠沙華
えー、グダグダしゃべってまいりましたが、そろそろお時間でございます。生活詠の可能性として、どんな句材をとれば普遍的な名句となりうるのか。本日のおしゃべりをまとめますとこんな具合になるようで。
てなことで、当初の問いに答えてみることといたしましょう。その、俳句と言うものは、十七音定型感と季語さえ入っていりゃあいいわけでして、琴線に響いてこねえ偽物もあるん。じゃあほんものを生むについちゃあどうすりゃあいいのか。こんな問いに、今日の分析を以て答えるなら、まぁ新しがりで何でも飛びつこうとするからいけねェ、生活の本当に基本的なものを詠むことだ、と言えるんじゃございませんでしょうか。それからもう一つの問題、生活詠はいずれ時代と共に古びちまう、だから、超時代的な名句を詠みたいという野心家は、植物や歴史的建造物に句材を狭めるべきなんじゃねえか。こう訊かれたら、てやんでぇ、俺っちもおめぇも食う寝るところに住むところ、それに人の愛情ってえのは絶対必要だろうってんだ、てめぇさしずめインテリだな、こう言っちゃえ。
理屈はさて置き、どしどし正直に詠むしかありません。出しましょう、生活感、醸しましょう、親近感。作りましょう、明日の暮しの満足感。生活詠の賞味期限という一席でございます。
二月吉日 小三治のCDを聴きながら。
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