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2026-05-31

季語の強制力 非文学的な意味の、春愁を知らない私による 西原天気

季語の強制力
非文学的な意味の、春愁を知らない私による

西原天気


「春愁」という季語を、私、あるときは俳句の作り手たる私は、ほとんど使わない。

(こう書いて気づいたが、季語を「使う」という言い方がそもそもなんだかで、誹り・非難を受けそうです。季語って、そんなものじゃないかもしれない。のだけれど、それはまあ置くとして、春愁の話です)

なぜ使わないかというと、これはもうシンプルでいくぶん浅薄な技法のたぐいの話になるのであって、つまり、その句の意図や方向性のようなものをあまりに強力に規定してしまうから、です。言い方を換えれば、「こう読んでください」とはっきりとアピールしてくる。ナニがナニした、ナニをこうした、その事象は、愁いというものと深く関係を結ぶ、あるいは包まれる。例えば「四月馬鹿」なども、それに近い。

ここで、「季語のことは歳時記に聞け」とばかりに(これ、安易な態度でもありますよ)、講談社『日本大歳時記』のページを開く。「春愁」の例句の最初にあるのは、

春愁や冷えたる足を打ち重ね 高浜虚子

この句を(やっちゃいけないことだけれど)、

四月馬鹿冷えたる足を打ち重ね

と、季語を替えてみると、これはこれでりっぱに一句として成立すると、私などは強く思ってしまう(四方八方に、ごめんなさい)。

ところが、この二句(ホンモノの虚子の句と季語置換の仮の句)、句が読者に向かって狙うところは、ずいぶんと違う。読者の読み味(造語です)もずいぶんと違う。

で、ここに来て、「春愁」って、いったいなんだろう? とふと思う。

私だって、愁いの気持ちは、いちおう知っている。気がする。けれども、それは季節に結びついたものではないような気がする。

ここで、さきほどの歳時記に戻ると、山本健吉はこの季語の解説を、「春の物思いであり、憂(うれ)えであり、哀愁である」と書き始め(ここまではほとんど何も言っていない。漢字二文字を説明するのみ)、「歓楽きわまって哀情が深いといった感じにも言う」と書き継ぐ。遊び疲れたあとの憂愁は、歌謡曲的な世界にもよく出てくる。なじみのある出来事です。春=歓楽、というのもわからなくもない。

春愁というものは、たしかにあるのだろう。

けれども、自分に引き寄せると、ぴんと来ない。

こんなことを思ったのは、そして、この雑文のきっかけになったのは、次の句を読んだからです。

春愁はきつと退屈タオル干す  浅川芳直〔*〕

《きっと》というのだから、この人はまだ春愁を知らない、経験していない。これは私の実感に近い。

味わったことがないけれど、もしそうなったら、きっと退屈なんだろう、と。

おそらく、「春愁」という語は、しばしば、多くの人に、この種の鑑賞・この手の叙情を強制してくる。カジュアルに言えば、「こういうことがあるんだから、そう感じなさい」。

私は、春愁という語を、俳句で知った(のだと思う。思い出せないけれど)。そんな人は少ないないと思う。そのうちの何割かは、春愁のなんたるかを知らず、春愁という季語に出会った。

そのとき「ああ、これが春愁というものか」と合点がいった人にとっては、幸せな出会いなのだろう。けれども、そうでない人もいる。出会ってからさきも、春愁のなんたるかを依然として知らず、春愁という観念と親しくなることもなく、暮らす。しかしながら、俳句という分野のそこかしこに「春愁」と語と観念が散在する。

私はここにおいて批判的でありたいわけではないし、いま言っている景色や事象が悲劇というわけでもない。ある「語」と、その使用・分布に触れることで、それを理解したかのような気になるのって、わりあいよく起こることだよなあ、というに過ぎない。

あ、そうそう。さっきの句。《春愁はきつと退屈タオル干す》なんだけれど、「春愁」をわかっている人が、「その退屈こそが春愁なんだよ」と諭してくるかもしれないですね。

一方、このぐだぐたとした一文は、おもしろい句を読んだ、という話として受け取ってもらって、いっこうにかまいません。

あすの朝、タオルを洗濯して、干そうと思います。これが、私自身にとって最大の結論。


〔*〕浅川芳直句集『夜景の奥』2023年12月2日・東京四季出版

2026-05-10

浅川芳直 季語はどんな意味でルールか、またルールでないか

季語はどんな意味でルールか、またルールでないか

浅川芳直

『むじな 2019』通巻第3号(2019年11月24日)より転載
 
◆「季語はルールである」ということの難しさ

だれも、スタンダードな俳句が有季定型であることは疑わない。しかし、いったん「季語はルールだ」と言えば、たちまち議論の余地が生じてくる。たとえば神野(2018)は、俳句の目標は自分の信じるところの美や思想や感情を表現することだと考え、季語に「ルールという概念を持ちこむと、しばしばその目的が見失われてしまう。ルールを守ること自体がゲームとして目的化してしまい、なぜ私たちは俳句を詠むのかという、より包括的な、そして純粋な目的が置き去りにされてしまう」と異議を申し立てている。神野は無季俳句を擁護する立場であるが、無季を容認しない人であっても、この一節にうなずく人は多いだろう。

季語ないし季題について円滑な議論を妨げる要因は、どのような意味で「季語はルールである」と言っているのか、論者によってまちまちなことである。そこで本稿は、「俳句にとって、季語ないし季題はいかなる意味でルールであるか/ないか」ということに論点をしぼって考えたい。

「季語はルールである」といわれるとき、その言説はしばしば次の異なる三つの主張を含意し、ときに混同している。

(1)季の景物の詠み込みは俳句の形式的約束である。

(2)季題の本意にしたがうことは俳句のルールである。

(3)歳時記は俳句のルールブックである。

以下の論述は、(1)(2)(3)を順次検討するものである。

本稿の用語法を説明しておこう。あとで論じるように「季語」には本来、特定の俳句観とセットの特殊な意味がある。そこで本稿は、歳時記にリスト化された季節の詞を示すのに、「季題」の語を用いる〔註1〕。ただし「季語はルールである」という言説へ言及する際には、「季語」の語を用いる。

(1)季の景物の詠み込みは俳句の形式的約束である。

(1)はおそらく、「季語はルールである」という言説のもっともおおらかな形の主張である。この主張を受け入れるのに、「そもそも有季の俳句とは何か」という問いに踏み込む必要はない。つまり、さまざまな境界事例とは独立な主張である。たとえば歳時記に掲載されていない語を季語として用いた句は有季か。あるいは、季題はあっても季感の薄い〈映画出て火事のポスター見て立てり 虚子〉のような句は有季か。「何でもいいから季の景物が入っているのが俳句の形式だ」という主張は、こうした事例から中立的である。
(1)の根拠は、発句の歴史である。つまり、季は形式的な約束で、発句の慣習に由来する、というわけである。角度を変えて「季題」という言葉を見ても、出された「題」を詠み込む、というのは少なくとも「句座のルール」として説得力があろう。題の出ない雑詠は「季節の景物が入れば何でもよい」という題詠句会の変形である。慣習に由来する形式的約束、というかぎりにおいて(1)は正当化されるだろう。

このしなやかなレベルでの「季語はルールである」という考えも批判は受けうる。たとえば、無季・自由律からの批判には答える必要があるだろう。

無季・自由律を唱導した荻原井泉水の主張は、有季・定型であろうと俳句と呼ぶべきでないものがある、というものであった。つまり、形だけ整った十七音でも、身近なものに対する「詩ごころ」がなくては俳句とは呼べないのである。井泉水によると「詩ごころ」の概念は、芭蕉の風雅と言い換えてもよい。無季・自由律とは、俳句の形式に頼って「詩ごころ」を忘れてしまうのを避ける手法なのである(荻原, 1973)。

しかし、井泉水の主張は「任意の表現が有季・定型の形式を備えていることは、その表現が俳句であるための十分条件ではない」ということである。それゆえ再反論は一言で済む。井泉水は、有季という形式上の制約が俳句の必要条件として受容されてきたことを、実証的に否定したわけではない、と。

ほかにありうる批判は、季の約束は慣習法なのだから、これを俳句界の制定法として扱うべきではない、というものであろう。ただしこれは(1)そのものへの批判ではなく、(1)を制定法として受容することへの批判である。本稿冒頭に引用した神野(2018)にもそのような意図があるかもしれない。

筆者自身は、(1)を受け入れる。ただし季の景物の詠み込みはあくまで慣習であり、無季についてはそれほどムキにならずともよいのではないか、と考えている。

(2)季題の本意にしたがうことは俳句のルールである。

ここでは、「季語」の概念を提唱した大須賀乙字の論を手掛かりに、季の景物の詠み込み/季題の本意(「らしさ」)にしたがうこと、の違いを考えてみよう。

乙字が「季題」に代えて「季語」の概念を提唱した動機は彼の俳句観にあった。乙字の考えでは、俳句は自然観照を通してその人の境涯性や感情を象徴する日本独自の詩形である。季を詠み込む短詩という俳句の形式上、作者の境涯性を象徴する機能は、季の景物天象等に対して喚起される感情 = 季感に求められる。そして、一句のなかの季感を統一している語、という意味で提唱されたのが「季語」の概念である。季感および季語は「自然観照により境涯を詠む詩」という俳句観から要請されるのであり、たんなる形式上のルールではない。

注意しておきたいのは、乙字は「季の景物の詠み込み」は発句の慣習的なルールと考えていたことである。つまり乙字の俳句観は、「季の詠み込み」という慣習をその効用の点から後付けで正当化したものと言ってもよい。たしかに、一句に季の景物を入れるのは俳句の約束である。しかし、季の景物の感じ方まで形式によって約束させられているわけではない。自然を詠むことで作者の感情を詠むなら、実際の自然を正直に詠むべきである。季題分類の意義はそもそも、句集を編む際の春夏秋冬の部分けにしかなかったのであって、現在なおもその分類をひきずる必要はない。たとえば現代、牡丹を春に詠もうが夏に詠もうが、どちらでもよい、と(「季題の意義を論ず」in, 大須賀, 1921)。

要するに、乙字が「季題」に替えて「季語」「季感」という用語を用いたポイントは、一句の内容から切り離され、意味を決め打ちされた季題の概念ではなく、実際の自然に対して抱く感情(季感)を重視しようということにあった。季感とはあくまでその一句のなかに成立するものであり、したがって、一句一句の内容から独立に、ある語が季語であるかを云々することは無意味なのである(「季感象徴論」in, 大須賀, 1921)。

つまり、「季語」本来の概念規定では、「季語の本意にしたがうことは俳句のルールである」という主張はそもそもずれている。季語や季感は「自然観照により境涯の感情を詠む」という俳句観から一句の中に要請されるものであって、慣習にもとづいて決まっている季題とは性格が異なるからである。

とはいえ論をここで止めては、ちゃぶ台返しの誹りも免れない。以下の論述では、乙字の「季語」ではなく「季題」についてのみ考えることにしよう。とにかく、「季の景物の詠み込みは俳句のルールである」ということと、「季題の本意を踏まえるのはルールである」ということとは区別すべき事柄だ、というのが、乙字の議論の眼目であったわけである。

では、それがルールかどうかはさておき、季題の本意にしたがうことは、どのような理由から正当化されうるだろうか。

「本意を踏まえるかどうか」問題は「季題趣味とは何か」という問題についての、「空想趣味」の立場から考えなくてはならないだろう。「空想趣味」は高濱虚子の初期の立場であり、正岡子規や河東碧梧桐らの「写生趣味」と対になる。つまり、実際の季題の写生を重視し、その歴史的情緒を軽んじる写生趣味に対し、写生をするにしても文学史的に構成されてきた季題の連想、言い換えればお約束を踏まえ、その力を借りるのを重視するのが、「空想趣味」である(高濱, 1974)。季題は「フィクションの世界、秩序の世界」で成り立っており、そのイメージを通すことによって現実を詩的に認識する(山本, 1977)、という山本健吉の考えもこれと近いだろう。

しかし、虚子と子規・碧梧桐の対立は「どのような趣味の選択が文学としてより豊かであるか」という美的態度の問題にすぎない。じじつ、虚子は自由律や無季の句は俳句でないと主張したが、自由律以前の碧梧桐の句がルール破りだとは言っていない。「歴史的に構成されてきた季題のお約束を引き受ける」ということは創作態度の問題であって、そこから直ちに「そのようなお約束を引き受けることが俳句のルールだ」という規範に到達できるわけではない。

もしかすると、「俳句は、歴史的に構成されてきた日本文学の世界観のなかで遊ぶ、言葉の遊戯だ」という俳句観を説得的に打ち出せば、「季題の本意に従うのは俳句のルールだ」という主張を直接正当化することもできよう。ただ、そのような俳句観を正当化する議論を組み立て、検討するのは、本稿の目的を大きく超える。ここでは、伝統俳句の総領たる虚子はそこまで言っていないこと、山本健吉は季感不要論を述べるにまで至ったことを指摘しておきたい〔註2〕。 

筆者自身は、季題の本意は意識しつつもルールとは見ず、自分の季感を第一にと心掛けている。本意に従うのをルールと見ることで、季に対する感受性の鈍りを恐れる。他者の句の季題の扱いは、季感でも本意でもそれ以外によるのでも、結局は詩語として機能していればよいのでは、と考えている。

(3)歳時記は俳句のルールブックである。

(1)(2)両方の意味で「季語はルールである」と認めたとしても、「歳時記は俳句のルールブックである」とは言えない。たとえば「歳時記が季題の本意を踏まえない句を載せていいかどうか」は、季の詞に関する見解の相違ではなく、あるべき歳時記の姿についての見解の相違であろう。

(3)を主張するには、ある歳時記を正当なルールブックとみなす基準は何か、という問いに説得的に答える必要がある。そのような基準を考えなければ、たちまち「主義主張の異なる人は異なる歳時記を使えばよい」といったセクト主義に陥るだろう。かりに、現代俳句協会の人は『現代俳句歳時記』を、伝統俳句協会の人は虚子編『新歳時記』を、俳人協会の人は角川文庫の『俳句歳時記』を使えばよい、というのでは、ルールブックとしては権威がなさすぎる。

しかし、「どのような歳時記がルールブックとして正当か」という基準を出そうとすると、特定の思想の歳時記の帝国主義に陥る可能性も生じるだろう。というのは、歳時記の正当性・正統性が編者の権威の問題にすりかわり、そのために不当な仕方で排除される歳時記が生じる恐れもあるからだ。かりに、虚子編『新歳時記』を絶対視すれば、角川文庫『俳句歳時記 第5版』はルールブックとしての正統から排除されてしまうだろう。『俳句歳時記 第5版』は、季語の分類や本意を重視するというひとつの見識を示した良書である。たとえば人事の「息白し」を引けば、「季語としては人間の息についてのみいい、馬や犬など動物については使わない」と注記してある。しかし、虚子編『新歳時記』は「季題を時候・天文・ 地理・人事・動物・植物等に分類することは……子規をはじめとするもので、爾来この季題排列法は殆ど慣例のやうに歳時記に踏襲され来つたのであるが、之は畢竟索引上の便宜が主となるもので作句上には何の必要もなく寧ろ甚不便なものである」(同書「序」)と季題の分類を批判し、月別の編集を採用している。「息白し」の項には「大氣の塞冷に逢つて、殊に朝夕なと人畜の呼氣が白く見えるのをいふ」とある。ほかの歳時記も虚子の解説の影響か、平凡社『俳句歳時記』も「動物がほうほうとそれぞれの口で白い息を吐いているのは、生きているさまが原始的に出ていて面白い」(山口青邨)。『カラー図説日本大歳時記』では、「豊かな大きい白息の馬、ほのかな白息の女性などそれぞれに生きている相である」(山田みづえ)。はっきり人間以外の息についても認め、また、動物の白息の例句も少ないながら掲載されている。しかし「季題分類は便宜上のもの」という虚子の思想に反しているという理由で『俳句歳時記 第5版』を排除するのは、不当であろう。

筆者は、ルールブックの正当性をチェックする基準は「それが公正性と透明性が確保された手続きで制定されたかどうか」だと考える。つまりルールブックは成文法であるから、慣習としての約束よりも重い。それゆえ、全俳人に強制力をもつルールブックとしての歳時記を真面目に作るなら、公開草案、パブリックコメント、公聴会、資料開示など、策定の公正性と透明性が確保された手続きが要る、ということだ。

しかし、このようなルール制定手続きを歳時記に要求する人など誰もいない。それはつまり、「歳時記はルールブックである」という言説は実際のところ比喩以上のものではない、ということだろう。たとえば最近の歳時記の「(一般的に用いられない言葉遣いである)『夏痩せて』『夏負けて』は使わない」という記述がほんとうに強制力のあるルールだとすれば、それは俳人共同体のなかで討議のうえ、決め直すべき事柄である。だが、俳人協会や現代俳句協会の総会でそのような議題が諮られたという話は聞かないし、そのような手続きがないことを問題視する必要もない。「歳時記はルールブック」とほんとうに大真面目に考えている人は、多分いないのである。

もうひとつアイデアを出したい。どうしても季題の運用について何か基準を定めるなら、強制力のないガイドラインを制定するのはどうだろうか。たとえば「常用漢字表」「表外漢字表」にならった「常用季題表」「表外季題表」を俳壇で討議のうえ制定するわけである。こうすれば、「秋深む」「夕焼けて」「夏痩せて」のような言葉は普通の日本語から乖離しているからルールブックに載せるべきではない/載せてもよい、という議論も収束するだろう。(日常の言葉として死語に近い季題は少なくないが)日常語で使われないとか文法上一考を要する言葉は基本的にすべて「表外季題表」に入れ、〝「常用季題表」を基準とするが、それは表現上の自由を束縛するものではない〟と但し書きしておけばよいのである。ただし、このようなガイドラインがほんとうに必要なものかは、筆者自身わからないのが本音である。

◆結語

以上、「季語はルールである」と言われるときの、しばしば混乱しがちな三つの点について考察を試み、筆者自身の見解を付した。筆者自身の作句は有季・定型大原則であるが、(1)以外の意味で「季語はルールである」という主張を行うことは留保した。読者諸氏からのお教え、ご見解も伺いたい。拙文が議論の端緒となれば幸いである。


〔註1〕「季題」の用語は「季の題を主題として詠み込む」という作句スタイルを含意すると見る人もいるが、「季題」の語にこだわった虚子は、季題は一句の主題でなくて良いとしている(高浜, 2009, p. 64)。
〔註2〕たとえば(「純粋俳句」山本, 2005)を見よ。

【参照文献】
大須賀(1921)大須賀續『乙字俳論集』, 乙字遺稿刊行会.
荻原(1973)荻原井泉水『自然・自己・自由』, 勁草書房.
神野(2018)神野紗希「季語はルールじゃない」『俳句あるふぁ』2019冬.
高濱(1974)高濱虚子「俳話(二)」『定本高濱虚子全集第十巻』.
高浜(2009)高浜虚子『俳句とはどんなものか』, 角川ソフィア文庫.
山本(1977)山本健吉『最新俳句歳時記』, 文春文庫.
山本(2005)山本健吉『俳句の世界』, 講談社文芸文庫.

2025-02-02

浅川芳直【週俳10月11月の俳句を読む】Difficult

【週俳10月11月の俳句を読む】
Difficult

浅川芳直


difficult な句群に畏怖しつつ読んだ。むろん”difficult”は「手ごわい」の意。本当に良い句はどこか分からなさを含むように思う。以下に引いたのは、構成のあとが見えるというより、どこかシンとしたものを感じる作品。

春も人参ホラー映画で盛り上がる  垂水文弥

人参は冬の季題ということになっている。それで「春も人参」なのだと思うが、実際には通年栽培されていて、正直なところ季節感は薄い。歳時記への違和感を逆手に取った上五の打ち出しの勢いもさることながら、中七以後への展開に引き込まれる。ホラー映画も多くの理不尽に塗れたジャンルだ。ゾンビが暴れる町で、軽装の女性がなぜか最後まで生き残るのはお約束。「盛り上がる」ということは、本来制作側が意図したはずの「恐怖の演出」を「期待感」に読み替える、いわば作品を遊びものにする態度。今は配給側ですらこのような鑑賞を推奨しつつあるが、なんとも不思議な現象である。理不尽と理不尽、奇妙と奇妙が結びつき、一種異様な言葉の高揚感を生んだ。

木仏の手粗々と夜を束ねたる  関灯之介

迷わずこの句を抜いて、鑑賞しようという段になって季題がないことに気づいた。まず「粗々と夜を束ねたる」に目が止まり、続いて「木仏の手」に目が止まった。やわらかなプロポーションの仏像の手でありながら、その像を彫った節くれだった人の手も連想させる荒々しい彫跡も刻まれているのではないか。厳しさとやさしさとを同時に含む仏像の指先が、闇の中に浮かぶ。春の句の中に紛れているだけの春の季感を覚えつつ読んだが、たまたま春の句であったとしても季題がないことによって四季にわたって通ずる句となっていると思った。

どんぐりの小さくなって石の墓  三宅桃子

石でできた墓というのなら当たり前なので、石を祀った場所をこう言っているのかもしれない。いずれにせよ立派な墓石か、巨石の前で、どんぐりが縮こまっているように見えるという見方が面白いと思った。ほのぼのとした味わいがあるのは、どんぐりという素材の良さが要因として大きいかもしれない。小さくなっているどんぐりの前で、無防備な人間は墓に吸い込まれそうな感じさえしてくる。不思議な読後感を覚えた。


■垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち 52句 ≫読む 第912号

■関灯之介 橋 30句 ≫読む 第914号

■三宅桃子 溶けたあと 10句 ≫読む 第915号

2024-03-03

浅川芳直 寝返り 10句



 


 
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浅川芳直 寝返り
春や春ひと日の窓を開け放し
猫柳弾けば大き雨雫
大空や犬繋がるる梅三分
てふてふの小石に翅を余したり
針葉樹被りて飛ばす斑雪かな
薄氷の浮沈の崩れバケツの黄
服薬は菓子食ふやうに春の風邪
閏日を寝返り夢のなき朝寝
福耳のやをら田螺へ串を刺す
宅上灯ほのぬくくあり卒業期


2022-11-27

柳俳合同誌上句会2022 選句結果

週刊俳句
柳俳合同誌上句会2022 選句結果
1週間延ばしましたが、結局、お一人様から選句が届きませんでした(音信不通)。届いたぶんで結果とさせていただきます。

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧

※選外の句へもコメントをいただいています。

〔柳人〕
嘔吐彗星
城崎ララ
真島久美子
翠川蚊
湊圭伍
〔俳人〕
青本柚紀
浅川芳直
小川楓子
津川絵理子
山田耕司

※参加者プロフィールは、このページの末尾に。

【草】

偶会の波引く草の枯を踏む  浅川芳直

思ひきり脚掻いて草の実だらけ  小川楓子
■えのこずちでしょうか。小さなお子さんのはしゃぐ姿が想像されて楽しいです。「思ひきり」がもっと見えてきてほしい気もします。(浅川芳直)

星を喰ふひと今の草は揺れてゆれて  湊圭伍

草食の月に寄るべを求めるな  城崎ララ
◯嘔吐彗星
■食性のカテゴリを与えられたことで、肉食や雑食などその他複数の月の存在が暗示されて面白いです。伝承のようでもあり、個人的な経験に基づく忠告とも読めそう。なぜ?と先を想像させる魅力があります。なんとなく、静かに誰にも気付かれずに自滅してしまうのでは、という予感がしました。(嘔吐彗星)
■「草食の月」がいいと思った。「寄るべ」があいまいに感じたので、そのあいまいさと「求めるな」の命令がちょっと座りが悪いかも。(湊圭伍)
■「あなたの発想はどこから?」と聞きたくなるような、「なんだそれ?!」感があって好きです。草食の月ってすごいなあ。月がもの食うのは前提で、そのうえで草食とそれ以外に分けている。と思ったけど、この草食は「草食系男子」の草食かも。「草食のオトコに寄るべを求めるな」なら、なんかそういうしょうもない警句っぽくなるし。まあいずれにせよ、月が草食なのは「変良い」ですね。(翠川蚊)

草笛の苦手分野を吹き渡る  嘔吐彗星
◯真島久美子◯城崎ララ◯山田耕司
■どんなところであれ、草笛を吹きながらあるきつづけられる人は、それなりに無敵。(山田耕司)
■苦手分野を吹き渡る、がいいなと思いました。草笛、中々思うように吹けないと思うのですが、吹き渡ることで堂々と挑んでいくような……潔さ、晴れやかさを感じます。(城崎ララ)
■子供の頃、父が吹いてくれた草笛。何度教えてもらっても吹けないまま、父の口元を黙って見ていた。苦手分野という領域を染めながら、どこまで広がってゆく音。それはまるで自分は自分のままでいいのだと教えてくれているようだ。(真島久美子)
■「草笛の苦手分野」!!(翠川蚊)

草彅の彅ほぐしつつむかいかぜ  翠川蚊
◯津川絵理子
■彅をほぐしているのは「むかいかぜ」なのか、頭の中で作者自身がほぐしているのか。もしかすると両方かもしれない。そう考えると、作者の受けるむかいかぜが頭の中をそのまま通って行くようなイメージが広がって面白い。「彅」という字は「弓」「前」「刀」にほぐれるし、これらもさらにほぐせるから、最終的にそれぞれが一本の線になって、まるで草みたいだ。そうか「草」と「彅」ってお互いに繋がっているんだな、と思ったりして、この句の世界に遊ばせてもらった。(津川絵理子)
■初読からしばらくの間「草粥の粥」と空目して俳句だと思い込んでいて、草粥の湯気が向かい風とまざりあうところまで味わってしまいました。読み直すと川柳なのですが、俳句の風情も感じられます。彅は「弓で強く剪る」の会意とのことで、これをほぐす作業からあふれてくる抜け感がいいです。はじめは一方向だった向かい風も、全体の3分の2以上のひらがなによってほぐされてあやふやになっていそうです。(嘔吐彗星)

冬青草包みごと割るチョコレート  津川絵理子
◎城崎ララ◎山田耕司◯真島久美子◯湊圭伍○浅川芳直
■割る。その時の手から伝わる感覚。「冬青草」とのリンクは万人が受け入れるものではなく。であるからこその潔さのようなものが感じられました。(山田耕司)
■チョコレートを割る句はあるのかなと思いつつ、清冽な冬青草の感じが好きでした。(浅川芳直)
■ふゆあおくさとそのまま読むのですね。季語は景色の見える美しい言葉だなと思いました。包みごと割るなら外で友達と分けたのか、それともこれは明日の分、と自分と分けることにしたのか。その情景の美しさで、割るという動作にマイナスでなく、喜びや期待など、ポジティブな感情を分け与える印象を受けました。あの銀色の包みまできらきらと見えるような、すてきな句です。(城崎ララ)
■「冬青草」を用いた句のストックが脳内にないので季語として効いているのかは分からずながら、中七下五のまっすぐな印象が思い切りがいい主体を伝えていてよいと思った。(湊圭伍)
■恋の真ん中でする儀式に「手作り」というものがある。誰かを想いながら大きなチョコレートを迷いなく割る気持ちよさ。冬青草が一生青春だと叫んでいるようだ。(真島久美子)

猫よ草吐け俺よ有季定型句を吐け  山田耕司
◯真島久美子◯津川絵理子
■有季定型句を吐けと自分に命令しながら、そうなっていないところに「俺」の葛藤が伝わる。猫が草を吐くのは辛そうだから、「俺」もそんな風に苦しいのだろう。(津川絵理子)
■生理現象としての有季定型句だなんて驚いた。そこからの定型無視に、自然と口角が上がる。句の勢いに一気に飲み込まれてしまった。(真島久美子)
■メタに実感を込めるのってむずかしいと思うんです。メタは上位者の視線を導入することだから、どうしても冷笑っぽくなる。それはつめたいメタ。でもこの句はなんというか、生々しい体温とか実感があって、熱いメタ。熱いメタ、好きなんですよ。(翠川蚊)

文脈は草茫々という手紙  真島久美子
◯翠川蚊◯嘔吐彗星
■互いの近況や打ち明け話でしょうか、文脈が知らないうちに伸び放題になる草に擬えられています。書ききれなかったことも余白に生い茂っているんでしょう。有機物である草の生長スピードがちょうどよく喩として機能していて、代替が思い付きません。題の特質が十全に生かされた句だと思いました。また「茫々」と表記されることで雑草の煩わしさが一転して、この事態を価値判断以前の認識へと解放してくれるようでもあり、万物斉同にも通ずる境地が垣間見えました。(嘔吐彗星)
■「文意」とかではなく「文脈」。だから手紙の本題が「草茫々」なのではなくて、あくまで意味上の連関とか脈絡のうえでのみ「草茫々」がある。「草茫々」がテクストの織り目の合間にそっと身を引くような、そんな美しさがあります。(翠川蚊)
■「文脈は草茫々」に引っかかって何度か読み返した句。文ではなく、文脈。支離滅裂なのか、脱線しているのか、四方山話が尽きないのか……なんにせよ思いのこもった手紙なのだろうと思います。(城崎ララ)

眩む手を草のあなたがおほふ傷  青本柚紀
◯翠川蚊
■読めば読むほどグラグラします。どこで切断するかによって、いろんな読みが浮かび上がってくるんですね。でもそのどの読みにも、読み切れるような読み切れないようなもどかしさがずっと付きまとって、痒いところに手が届かない。ウザい多面体(すっごい褒めてます)みたいな句だと思いました。(翠川蚊)
■かなりアクロバティックな句。「眩む」のは目だろうし、「手」が傷を覆うべきなのだが、そうした自然な措辞を外した裂け目を「あなた」への呼びかけが埋めている。「草のあなた」が謎めていて、同時に読者が句を読む行為と重なり合っている。(湊圭伍)

【書】

ぬるい霜月書けば日照雨に木が痩せて  青本柚紀

ひとりずつひとりとなって書をひらき  湊圭伍
○浅川芳直
■下五のものほしげな言いさしが、「ひとりずつひとりとなって」というちょっと鬱然たる気分に説得力を与えていると思いました。(浅川芳直)
■「ひ」の畳みかけがおしゃれです。「ひとりずつひとりとなって」、良いですね。音読したくなりますね。【書】という題に対していちばん正面から向き合ってる句だという気がします。「書」ってたしかにそういうもんだよね、っていう納得感がある。選からは漏れてしまったけど、とても心に残った句です。(翠川蚊)
■はじめの「ひとり」はカウントされる人数としての「一人」、続く「ひとり」は孤独の「独り」と読みました。自ら選べる孤独があるのは豊かなことだと、この句が言っているわけではないのですが、ひらがなで並列されたひとりひとりに書がひらかれている光景はどうしてもうつくしく、肯定を免れません。たまたま今年観た、レイ・ブラッドベリ原作でトリュフォーが映画化した『華氏451』のラストを彷彿とさせる句でもありました。(嘔吐彗星)

もろともに晴れ間から下書きのぞく  嘔吐彗星

玉砕もおりこみずみのお品書き  翠川蚊
◯城崎ララ◯山田耕司◯嘔吐彗星
■見開きタイプのお品書きを想定しました。雑俳の折込みに掛けているのだとすると、品目の中に「玉砕」の二字が詠み込まれているのかもしれません。内容が気になるところですが、最後の晩餐まで取って置いて、裏切り者に開けさせたいですね。(嘔吐彗星)
■いい度胸だな。(山田耕司)
■ひらがなの部分から「こおり」を空目してしまい、一気に玉砕のイメージが補完された句。「みず」もありますね……玉砕といいながら実力を試したいような、果敢な印象も受けます。(城崎ララ)
■「玉砕」とは穏やかではない。ただし、それは「おりこみずみ」であるし「お品書き」にていねいに記されているらしい。中七・下五の頭の「お」が落ちつき払っているものの、やはり「玉砕」である。ひどい目に会う人らも居るんだろう。 (湊圭伍)

山霧や駅に学童書道展  浅川芳直
◯真島久美子◯翠川蚊◯小川楓子
■子供たちの作品が並ぶのは、山深い駅だろうか。霞む山に対して伸び伸びとした筆で表される墨色がみずみずしい。(小川楓子)
■いわゆる「お習字」の句というと、「雪の教室壁一面に習字の雪/榮猿丸」を思い出します。習字が壁一面貼られてる光景ってちょっと怖いんですよね。この句は山だし霧も出てるし、余計ゾッとする感じがある。「liminal space」っぽいからかもしれない。いや、別にそんなこと書いてないんですけど。でもどうしてかこれは無人駅だという気がする。そこにひとり取り残されて、山の駅だから次の電車も全然来なくって、すごく静かで、そんななか学童書道展がひっそり開催されていて、明らかに子供たち自身のものではない言葉が飾られている。こわいなあ、という妄想。(翠川蚊)
■なんと静かで澄んだ句だろうか。子ども達が懸命に書いた作品を、微笑ましい気持ちで眺める小さな駅。心の余裕とは、たわいもない場所に存在している。(真島久美子)

書き足せばBマイナーになる眠る  真島久美子
◯山田耕司
■スイッチを切るためのスイッチ。(山田耕司)
■「とても眠くて楽譜一枚書き漏らす/海地大破」の変奏かなあ。眠くて書き漏らした人と、書き足してBマイナーにしてから眠った人。「Bマイナー」、調べたらバッハの「ミサ曲ロ短調」というのが出てきて、聴いてみるとすっごい荘厳。でも眠る前に書き足したのだとしたら、ちょっとかわいい。あ、でもBマイナーに「なる」なのか。おのずと?(翠川蚊)

折れ折れて書架のわが影冬に入る  津川絵理子
◎浅川芳直◯小川楓子◯嘔吐彗星
■夕陽の射す開架よりは深閑とした閉架書庫、その冷気に導かれる影でしょうか。
折れ折れていく影が幾何学模様をなすかと思えば、冬に至るまでの、書架を巡った時間が長時間露光されるようにも見えます。「わが影」を第三者視点で捉えているところもソリッドで格好いい句です。(嘔吐彗星)
■書架に私が入ったときの私の影の折れ方に冬の到来を感じた、と理解しました。折りたたまれた言葉が開かれるような展開の仕方が良いと思いました。(浅川芳直)
■自分の影を折るには、身体を曲げるのが一番簡単かもしれない。くねくねとした人なのだろうか。それとも、、、。冬の始まりの空気のなかで何か不思議なことが起きる気配がする。(小川楓子)

舌で書くバカの二文字よしょっぱいぜ  山田耕司
◯真島久美子
■バカは甘いものだと思っていたが、その矢印が自分へ向いた途端にしょっぱくなってしまうものだと気付かされる。舌先が感じるのは小さな後悔なのだろう。(真島久美子)
■尻文字はありますけど、「舌文字」とは。身体の中でもかなりよく動く器官なんで、書こうと思えば書けそうですね。「しょっぱいぜ」。そうですか……と思いながら笑っちゃいました。(翠川蚊)
■ヌーベルヴァーグに出てきそうな、愛嬌のある自棄ですね。「ぜ」はまだしも、この「よ」は気恥ずかしくてなかなかできない気がします。ポーズを全うしているところに好感を持ちました。(嘔吐彗星)

昼の書き順をなぞる爪のひかり  城崎ララ
■「書き順」は「昼」という文字のものか、それとも昼という時間に書き順があるということか。前者が実景だが、後者の感覚も重ねてある、と読みたい。(湊圭伍)
■「書き順」私もいろいろ考えたんです。でも、これより良い句はできなかったな。句意も明瞭で、誰が読んでも良い句なんじゃないかなあ、と。採るか最後の最後まで迷いました。(翠川蚊)

冬がはじまる友だちの白い書架  小川楓子
◯津川絵理子◯城崎ララ
■書架って冷たいんですよね……学校の地下書架を思い出しました。冬の書架は白くて、寒くて冷たい。なんとなくこの友だちはひとではなく、建物や場所であるように感じます。(城崎ララ)
■どんな友だちなんだろう、と想像する。親友というのでもなく、どことなく掴みどころのない人のような。「冬がはじまる」と「白い書架」の取り合わせと、全体的にふんわりした雰囲気に惹かれた。(津川絵理子)

【乗り物】

サーカストラック雨の向こうへ行ったきり  真島久美子
◯小川楓子
■サーカスというと大型テントに大型トラック、いずれも懐かしいアメリカ映画に出て来そうな色合いの印象がある。祝祭のあとの寂しさが「行ったきり」とさりげなく表されている。(小川楓子)
■何かが向こうの世界へ行ってしまって、帰ってこないという句、川柳には多い気がします(勝手に川柳と決めつけていますが…)。「弁当を砂漠へ取りに行ったまま/筒井祥文」とかね。で、これはたぶん子供の視点という気がする。子供からしたらサーカスはひとつの小宇宙ですから、それがもう行ってしまったって、たぶんすごい喪失感。非日常が日常に戻るときの、そのなんとも言えぬ悲しさですね。(翠川蚊)

トーストのうえをトロリーバスが行く  翠川蚊
◎真島久美子◎湊圭伍◯小川楓子
■「トロリー」ならぬ「トローリ」の「チーズ」が隠されているというまことにベタなお遊びながら、というかそのベタさゆえに軽やかな明るい朝の風景(とちょっとの眠気)が起ちあがっている。「~が行く」も句の外へうまく抜けていて心地いい。(湊圭伍)
■トーストの上で溶けてゆくバターのような、優雅な時間を感じる。実際に見たことも乗ったこともないのだが、耳の奥を静かにトロリーバスが過ぎていった。(真島久美子)
■日本では、トロリーバスを見かけることは少なくなったが、ドイツなどでは、今でも交通機関として活躍しているらしい。トロリーバスの「トロリー」という音がトーストの上で溶けるバターを彷彿とさせられ美味しそう。トースト一枚で小旅行の気分。(小川楓子)

ほどよい誤訳ね。ギアが滑るときの  湊圭伍
○翠川蚊
■ギアが滑るという感覚、ペーパードライバーの私にはよく分からないんですが(調べてもピンとこなかった)、ギアが滑るたびにこの世に「誤訳」が紛れ込むという「感じ」は不思議とわかる気がします。この句のなかに「誤訳」を探したくもなりますね。「ね」のあとの句点が重要なのかも。これによって「ほどよい誤訳ね」がテクスト上の発話だということが強調されている。話者はもしかしたら、自分がテクスト内存在だと気づいていて、誤訳されているのは話者自身なんじゃないか。「ほどよい誤訳ね。」が誤訳なら、なんかもうそういうパラドックスみたいになりますが。(翠川蚊)
■誤訳にも程度があること、その楽しみ方まで心得ている手練れの翻訳者が想像されます。句点の手前から、向こう側を傍観する……微笑を浮かべたまなざしと、事故の予感とを交錯させる倒置が効いています。「ほどよい」や「ね」の選択によって表面上マイルドに仕上げているところに、作者のねじれたセンスのよさがうかがえる句です。(嘔吐彗星)

機内誌のヨレも乗りこなすサーファー  嘔吐彗星
◯湊圭伍
■乗客が何人も乱暴に読んだ機内誌のページの折り目を越えてゆくかに見える写真の中のサーファー。飛行機旅の微妙な疲れで気怠くなった目線がとらえたディテール。チープで意味が無いのがよい。(湊圭伍)
■良い波なのだろうなと嬉しくなります。きっとたくさんの人が手に取った、ベテランの機内誌。(城崎ララ)

枯れ山を股に挟めば馬の声  山田耕司
◎津川絵理子○浅川芳直
■上五中七はどういう状態?と一瞬考えた。でも下五の「馬の声」で、馬に乗っているのかも、と。馬の背を枯れ山に喩えたことで、なんだかおとぎ話に出て来そうな大きな馬を思った。馬の声が前方遥か彼方から聞こえてくるのだ。自分が今股に挟んでいるのは、馬であり枯れ山なのだと感じると、世界は果てしなく広がり、自分もまた果てしなく広がっていく。(津川絵理子)
■解釈が必要な一句。股覗きのような仕方で枯山を見ていると取りました。鄙の雰囲気に惹かれて。(浅川芳直)

自転車に馬のぬくもり帰り花  津川絵理子

冬凪にアクセルふんはりと踏まれ  小川楓子
◎翠川蚊◯山田耕司
■「ふんはり」に心打たれたので特選。「ふんはり」の旧仮名の手触りがたまらない。「は」がポカンと空気みたいなんですね。「ふ」のたたみかけも気体っぽい。「冬凪」だから静かな大気が、足もとで「ふんはり」と少しだけ動く。その風の動きが、その感触が、そのさびしさが、そのかわいさが、そのかすかな温度が見える。アクセルが主語なのも良いですね。アクセルを踏むのではなくて、アクセルが踏まれるという、そういう世界への眼差し。私は運転教習所がこの世でいちばん嫌いですが、この句を見ると、クルマ、運転、なんか良いなってなります。もう超絶好きな句です。(翠川蚊)
■冬凪に対して、ではなく、冬凪を原因として、という意味で、この「に」という助詞を受け取りました。(山田耕司)
■言われてみれば、アクセルを急に踏むのは危ない。「ふんはりと」ですね。(浅川芳直)

冬麗の汽笛ほど汽車遠からぬ  浅川芳直
◎小川楓子◯津川絵理子◯湊圭伍◯城崎ララ
■電気機関車の甲高い汽笛ではなく、蒸気機関車の圧倒的な音量と複雑な音質の汽笛が、ふさわしく感じる。「汽車遠からぬ」という措辞には、そんな汽車への愛情がにじむ。澄んだ日のどこまでも響く汽笛が醸し出す奥行きにしばし佇んでいたい。(小川楓子)
■ふゆうらら。これも調べたのですが、季語って本当に美しい。冬の空は高く、汽笛が響き渡る晴天が見えるようです。どんなに遠くからだろうと振り向いたらそこの線路だった、なんて思わずはにかんでしまいそう。汽車の向こうまで見えそうな句です。(城崎ララ)
■通常「遠からず」とするのかと考えたが、「遠からぬ」と形容詞的に後ろに何かがあることを示唆しているところに味がある気がしてきた。頭の「冬麗」へと戻ってゆくような。(湊圭伍)
■汽笛は遥かから聞こえてくるのに、汽車はそれほど遠くないところに見えている。そんな風景をどこかで見たことがあるような気がする。なるほど確かにそうだと思う。冬麗の不思議な光景。(津川絵理子)

透けてゆく舟は階下へ実を運び  青本柚紀
◎嘔吐彗星◯湊圭伍
■舟を透過して階段に揺れる光の網。超自然的な美しさのあるシーンです。下へ動くのであればこの舟は沈んでいることになると思うのですが、「実」を運ぶ役目を果たしているらしい。むしろ「実」の重みによって沈んでいるのでは……という実際的な読みは差し置かれます。それよりもなんの「実」なのかが気になるからです。なんらかの実が階上から階下へ降りることは、種子への回帰を思わせもします。舟が透けてゆくのは消失を意味するのか、その引き換えとしての実なのか……意味深で、複数の読みを誘う句です。けれどどの問いも抽象的なまま麻痺させられるので、分析をやめて句のイメージに没入、陶酔しました。(嘔吐彗星)
■「透けてゆく」で切れるかどうか。とりあえず切って読んだ。そうすると要素が多くて複雑な句になるのだが、すべてが透けてゆき上下の区別も不分明となった世界を移動する「舟」の像が浮かんで解放感があった。(湊圭伍)

流星を手本にTime Machine【🔛】  城崎ララ
○浅川芳直
■初めて見た絵文字で面くらいました。「手本に」、よくわからないようで、われわれが見ている星の光は約0.003秒前の光。そんなところの繫がりがあるのかなと思いました。(浅川芳直)
■パッと見ていちばん気になる句ですよね。「流星を手本にTime Machine」は素直に読めますが、なんだ【🔛】って。Time Machineの起動って、こんな感じなんだろうか…と妄想できてたのしい。(翠川蚊)
■乗り物というテーマにたいしてTime Machineを持ってこれた時点でリーチですね。Time Machineがつよすぎて、たいする「流星」の斡旋がややおぼろげな気もしますが。??の左右両矢印で句の前後の時間に飛んでいけそうな感じが面白いです。Emojiの導入に挑みながら、「りゅうせいを/てほんにタイム/マシン・オン」とスムーズに17音で読ませる保障も忘れてはいません。(嘔吐彗星)


【参加者プロフィール】

■嘔吐彗星 おうと・すいせい
無所属フリー。句集未刊。note https://note.com/vomitcomet09

■城崎ララ きのさき・らら
西脇祥貴との川柳ユニット「川柳諸島がらぱごす」で季刊ネプリを発行。オンライン句会「海馬川柳句会」「川柳句会ビー面」に参加中。

■真島久美子 ましま・くみこ
1973年生まれ。卑弥呼の里川柳会代表。番傘川柳本社同人。川柳葦群同人。全日本川柳協会常任幹事。

■翠川蚊 みどりかわ・か
2000年生まれ。未所属。プロフィールに書くことなくて悲しいです。誰か一緒に川柳やりましょう。好きな映画は『ダンボ』と『ラルジャン』です。noteのリンク(連作等あり)https://note.com/midorikawa_ka

■湊圭伍 みなと・けいご
「川柳スパイラル」、「せんりゅうぐるーぷGOKEN」同人。昭和48年、大阪府生まれ。愛媛県松山市在住。句集に『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房、2021年)。海馬川柳句会運営。

■青本柚紀 あおもと・ゆずき

■浅川芳直 あさかわ・よしなお
1992年生まれ。「駒草」「むじな」。第8回俳句四季新人賞、令和3年度宮城県芸術選奨新人賞、第6回芝不器男俳句新人賞対馬康子奨励賞。「河北新報」秀句の泉 水曜、土曜担当。

■小川楓子 おがわ・ふうこ
1983年生まれ。「舞」会員。今年5月に第一句集『ことり』を上梓。共著に『超新撰21』『天の川銀河発電所』ほか。

■津川絵理子 つがわ・えりこ
1968年兵庫県生まれ。1991年南風入会。鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事。句集『和音』『はじまりの樹』『夜の水平線』など。第61回俳人協会賞。

■山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生まれ。俳句同人誌「円錐」編集人。句集『不純』ほか。

2022-02-13

【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】手を止めて 浅川芳直

【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
手を止めて

浅川芳直



少女来て少年の去る龍の玉  田邉大学

龍の玉のころころと弾む様子が際立って想像される。少年の気恥ずかしさによってその場に残された龍の玉。そして、去ってゆく少年の背中を楽しんでいるかのような動きで転がってゆく。

少女は龍の玉を拾うだろうか。想像の奥行を楽しませていただいた。


冬の日を集め眉間を燃え立たす  大室ゆらぎ

十句まとめて読むといろいろ鑑賞も可能だが、筆者は身体感覚の一句と読む。青筋を立てた眉間に、太陽の熱さか、血潮の熱さか、混然となってどくどくという流れが体を巡ってゆく。冬日の観念の塗り絵ではない赫々たる冬日を新しく思った。


極月の鳶のことさらきれいな輪  岡田由季

「極月」に対して「ことさら」と言うと賛否があるかもしれないが、筆者はこの直截な言い回しが好ましく思う。空気も澄み切っているのであろう。師走の多忙の中にあって心を晴らしてくれる鳶の輪だと思う。デスクワークの手を止めて空を見上げたくなる一句であった。


第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む

第764号 2021年12月12日 ■田邉大学 優しい人 10句  ≫読む 

第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む

第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む 

第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む 

第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む 



2021-06-13

【週俳4月の俳句を読む】まんぢゆう 浅川芳直

【週俳4月の俳句を読む】
まんぢゆう

浅川芳直


新旧のふらここ代表の競詠、楽しく読ませていただいた。

二人とも、奇しくもまんじゅうを素材に作句しているので比べてみよう。

ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり    横井来季

上顎にまんぢゆうの皮朧月    姫子松一樹

二句の違いは、二人のアプローチの違いをよく表しているようだ。横井の作品は、対象のネガティブな変化に目を向けそれを強調している。一方の姫子松は、ネガティブなものにもプラスサイドから光を当てている。しかもまんじゅうに対しているような方向性は、二人ともそれぞれ一貫しているのだ。

まず横井作品から。

母校燃やす煙よ凧と軋みつつ    横井来季

眠りかたを毎夜忘れてしまふよ菫     同

春暑し吐き気は眼窩へと集ふ    同

「母校燃やす」の句など、普通なら感傷的に詠みたくなってしまうところ。学校行事の焚火などではあるまいが、どこからか流れてくる煙を比喩的に言っているにせよ、想像上の景色にせよ、「凧と軋みつつ」と思いきり突き放している。無造作に置かれた季語が何とも言えない虚無感を出している。「眠りかた」の句、菫はどこか儚さを感じさせる花であるが、中七までの不安定な感覚をさらに強調するような配し方である。極めつけは表題句の「春暑し」の句。中七以降の強烈な感覚をいっそう苦しくするような季語の配置と言えよう。まとめてしまえば「重くれ」志向と言えるだろうか。生の身体感覚というよりは、むしろ「眠りかた」「吐き気」などの「感覚の名前」を「忘れてしまふ」「へと集ふ」などの景の定まりにくい語彙に載せて効果を挙げているのを面白く読んだ。

ところでタイトル「吐き気」にも触れておきたい。筆者の感じた面白さの裏返しではあるが、強烈な身体感覚としての「吐き気」そのものを浮き上がらせる句群という印象は持たなかったからである。横井は「奎」17号(2021年3月)のリレー連載「高校生・大学生が読む俳句入門書」で秋元不死男の『俳句入門』に触れ、「読者が読んだ際に、読者の中で句に表れた感覚が湧き出すような」写生に俳句が目指す写生の方向を見ている。その意味で、今回の「吐き気」というタイトルは作者の志向を直截的に表現したものだが、キモの部分をタイトルで明かしてしまっていると言えなくもない。古畑任三郎や刑事コロンボ流の倒叙式のタイトル付けということだろうか。

一方、姫子松の作品は、今回は「軽み」志向か。

伊賀焼のみどりひとすぢ春の雨  姫子松一樹

姫小松は、「感覚」の方に軸足を置く横井とは対照的に、「感情」を伝達するのに長けているようだ。もう一押しの強さを季題で演出する横井の作と比べるとインパクトには欠けるかもしれないが、「みどりひとすぢ」の鮮烈さがこれしかないというほどに感じられる。春の雨というととかくやわらかい語感があるが、伊賀焼を通して、雨の筋の奥に広がる別の世界へと繋がっていくような感覚すら覚える。

卒業や粉いつぱいのチョーク受け    姫子松一樹

しばらくを地にくつついて石鹸玉    同

微妙なところを捉えている。「粉いつぱいのチョーク受け」。できれば近寄りたくない。雑然とした教室のパーツである。また「しばらくを地にくつついて」というのも、低空飛行とか、土下座を連想するようでネガティブな表現と思われる。ところがどちらの句も、「卒業」「石鹸玉」という季題によって、受け手はプラスサイドからこれらの表現を受け取る驚きを手にする。何も言わないが希望を感じさせる向日性で、読んでいてこちらもうれしくなる。

さて、まんじゅうの句に戻る。

ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり    横井来季

上顎にまんぢゆうの皮朧月    姫子松一樹

こうして見ると、横井のまんじゅうの句の季語の「ボートレース」は、一見わからないけれども、「濡れ」を強調するという意味では、ごく自然な選択であったように感じられる。一方また、姫子松の句は、上顎にくっつく居心地の悪い感覚を朧月のしっとりとした質感に転換してしまう。季語によってマイナスサイドをプラスサイドに転換する特徴がよく出ている、と言えようか。

興味ある事実を俳句にするとき、私自身は、季感の浸透、主観の内燃、どちらかは欲しいとつねづね思っている。横井氏の句の内側の詩魂の燃焼に対して、「ボートレース」は春の季感というよりは、錆びついた橋の上の空気感などにも反応する作者の鋭敏な詩性を感じさせるし、姫小松氏のしっとりとした朧月と上あごの感覚の一体感は、俳句らしい捉え方ではないかと思う。冒頭「横井の作品は、対象のネガティブな変化に目を向け強調している。一方の姫子松は、ネガティブなものにもプラスサイドから光を当てている」と書いたが、ひょっとすると季題の扱いも関係しているのかもしれない。

東北の地から、お二人の活躍に注目しています。


姫子松一樹 上顎にまんぢゆう 10句 ≫読む 
横井来季 吐き気 10句 ≫読む

2020-12-20

【週俳11月の俳句を読む】冬のあかるさ 浅川芳直

【週俳11月の俳句を読む】
冬のあかるさ

浅川芳直


遠くより木の折れる音冬の山  鈴木春菜

雪山の情景、しずれる雪の音を一瞬想像したが、全体を通してみると冬日のやわらかな日差しのなかに、ふいに乾いた音が聴こえてきたものと読み直した。「遠くより木の折れる音」のこの流れは美しい。よどみのない表現である。下五が「冬の山」としっかり留めてあるので、流れがここで締まって素敵な句になっている。自然界の奥行を思わせ、読者に想起させる情報量がなかなかに多い「冬の山」の季題であるだけに、上の流れを柔らかく包んでくれているのに役立っていると思う。

短日の浮かんで消える今日のこと  鈴木春菜

この句もまた、よどみなく流れている一句である。「浮かんで消える今日のこと」という感慨は誰しも経験すること、その意味で平凡とも見える。私の師の師にあたる阿部みどり女は、「人生はなべて平凡」を折々に書いているが、平凡な暮らしでも作者の感性と技術によって非凡に表現するのが詩人の詩人たる由縁であろう。この句の決め所は「短日の」の助詞「の」ではないかと思う。型としては「や」で切ってもよいはずだが、そこをこらえて季題を中七以下に連絡させている。この叙法によって、短日という鋭さのある語のもとで、その日起こったことがぐるぐると脳裏に繰り返される時間が演出されているように思われる。

「月一度」と題する一連であったが、作者の静かな呼吸を感じる十句であった。


水を轢くまぶしい車輪だが寒い  大塚凱

雨上がりの水を車輪が轢くという措辞にまず目を奪われた。だがよく考えてみると、そのような光景というのは一年通して見られる。ただ、変化するのは気候である。これがあるために生活にうるおいがもたらされるのであって、いつも暖かであったら何も刺激がなくつまらない生活になろう。二度三度と口ずさんでみながら、この句の本当の眼目は下五にあるように感じられ、そのようなことを考えた。

「だが寒い」。新鮮なものは季節であり、それを受け止める心ではないかと思った。このように言えば、作者は一笑に付されるだろうか。

〈橋に鳩マフラー貸してそれつきり〉の句も面白いと思った。「それつきり」の間の抜けた感じが、「橋に鳩」の間の抜けた感じと呼応しているようだ。プレテキストの参照を作句の手法として言われる作者だけに、読者としては「元ネタは何かな」などと考えるのも楽しいだろう。ただ、そのような読み方をしなくても楽しめる句である。そこにこの作者の強みがあろうか。


旅夢想布団に初時雨の音に  田中目八

「旅夢想」は旅を夢想しているものと拝見した。「に」の使い方が心憎く、布団の中から広い世界を眺め、旅を夢見ている作者の、その世界観の一端を想像させてくれる。芭蕉の〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉〈旅人と我名よばれん初しぐれ〉の句を彷彿とさせる。掲句における「初時雨」の鑑賞は筆者には深読みをしないと案外に難しく、多言は控えて静かに味わいたい気持ちがする。強いて言えば、初時雨に対する喜びと、布団のなかでじっとしているギャップが心情的に対比されているようで、そこはかとない屈折が、布団がひかれた部屋の畳や、窓辺の光や、そこにほのかに舞っている塵まで浮き立たせているようにも思う。

●

ところで、今回拝見した三作品のうち、大塚凱氏、田中目八氏の作品には表題句というものがない。考えてみれば誓子の「蟲界變」にせよ、表題句がない先例はたくさんあるので、取り立てて指摘する事柄でもないかもしれない。ただ、俳句の中のフレーズからタイトルを取ることが現実として多いので、印象的であった。これからは表題句のない群作・連作もどんどん増えてゆくのだろうか。作中のフレーズからタイトルを取るより一層、作者の詩的手腕が問われる。

一句を推敲するうえでは、情報量が多くなり過ぎないようにといったハウツーがあるが、このようなタイトルの取り方のメソッドというのはまだまだ確立されていないように思われる。タイトルが強すぎて肝心の俳句の鑑賞の邪魔になっては元も子もないが、俳句の作風に応じてあっさりさせたり、押しを強くしたり、開拓の余地が大いにありそうである。


■田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
■大塚凱 或る 10句 ≫読む
■鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

2020-03-15

【週俳1月2月の俳句を読む】 作者の息遣い 付「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」? 浅川芳直

【週俳1月2月の俳句を読む】
作者の息遣い
付「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」?

浅川芳直


0.作者の息遣いを感じる句

筆者は、作者が詠みたい何かが伝わってくる作品が読んでいて楽しい。10句に連作的なテーマ性がほしいというのではない。作者の息遣いが感じられる作品に惹かれる。

もっとも「息遣い」という用語はあいまいである。志向性と言ってもいいのかもしれないが、「息遣い」には、自然や生活に対する直感、ことばや俳句という詩形そのものに対する態度、それどころか作者の思想性といったものまで包含する鷹揚さがある。いわゆる「作中主体」の機能に解消されない、作品制作の権能に付随する何か、と言いたい。

1.「マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー」山本真也

くまあなにこもるP.S.アイ・ラヴ・ユー  山本真也

正直に言えば、私はビートルズの「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲を知らなかった。10句通して、ビートルズにまつわる素材がちりばめられている。洋楽を(邦楽もだが)あまり聞かない筆者には、季題の鑑賞が難しいところもある。ただ、ことばとことばのバランスが印象深いこの句に、くぎ付けになった。

熊の入ったあとに地表に開いている穴はやっと呼吸ができる程度の小さなものだという。「熊穴に入る」は、山暮らしの人でなければなかなか身近ではない季題である。あまり身近でない季題、おそらくは身辺にないものを詠んでいる俳句に出会ったとき、作者は何にその季題を感じているのか読んでいくのも、鑑賞の一つの楽しみだと思う。この句は「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲、あるいはフレーズから熊の冬眠に思いを寄せるところが面白い。熊も昨今は食糧不足、下手に人里へ降りて、命を落とす個体も多い。手元の歳時記には、母熊はこの時期に子育てをするともある。「P.S.アイ・ラヴ・ユー」を実際に聞いてみると、牧歌的な歌詞、ほのぼのとしており、そのことが、また悲しい。

2.「もしかして」細村星一郎

笑つても笑つても冬プラタナス  細村星一郎

ロケットの落ちてきさうな冬野かな  細村星一郎

一句目は、この10句の冒頭に置かれた句。〈笑つても笑つても冬プラタナス〉の「プラタナス」の感じに惹かれた。楽しく笑っているにもかかわらず、ごく静かな心の影をとらえている。寒々としたプラタナスの並木、冬日の影、そういったものが混然となった「笑つても笑つても冬」だろうか。作者にとっての「冬」の質感はこのようなものかと納得させられる。こういった句を見せられると、同時詠の〈水仙や線路を切り替へるレバー〉の路線は、この作者としては事柄の表面をなぞってしまって物足りなく思わないでもない。
二句目、「冬野」の表情の発見。子どものようなまなざしが楽しい。天然なもの言いに見せているが、10句を通して見ると、計算されたことばの斡旋だと思う。ロケットの一語が、きらきらとした日差しを感じさせる。いい意味での巧みさがあると思う。先日第16回鬼貫青春俳句大賞を受賞した「触れられて」30句の評には「若々しくユニーク」「感覚が良く、発想が豊か」といったことばが並んでいる。それらの評言はもっともだと思うが、今回の「もしかして」10句からは、ときに未熟なイメージと背中合わせにされがちな「若さ」の観念にあてはまらない作品をめざしておられる印象を受けた。

3.「横顔の耳」田口茉於

こちら向く横顔の耳冴返る  田口茉於

一瞬、読みに迷う。横顔の人がこちらを振り向いたのかと思ったが、よく読むとこちらを向いているのは耳であり、この人がこちらを向いたわけではない。したがって「こちら向く」が不要だという見方もあると思う。しかし、振り向くようで振り向かない横の人、ただ耳だけがこちらを向いている、その煮え切らなさがこの一語にはある気もする。その煮え切らない空間を「冴返る」と断定した下五が、上五中七をきっぱりと清算している。「冴返る」という締め方に、作者の俳句に対する呼吸を感じる。

同時詠の〈鷹鳩と化して南を向いてゐる〉、厳しい冬を乗り越えた鷹が鳩になってやっとのんびりしている、という句。それだけでは季題の説明だが、「南を向いてゐる」でとぼけた味が出て面白い。何とも言えないぎりぎりの線まで押して単純化する手法があざやか。

4.「新都心」前田凪子

雲に入るホワイトボードたち鳥たち  前田凪子

1月、2月の10句を通して読み返してみて、何と言ってもこの一句が抜群に面白く感じた。季題を分解して表記することには賛否があるが、この句のこの語順は動かないと思う。意味の上から言えば、「鳥雲に入る」と「ホワイトボードたち」の取り合わせだが、この句ではホワイトボートたちも雲の中に入ってしまった。そう、ホワイトボードたちである。会議室から、オフィスから、ホワイトボードたちが群れとなって北方へ帰ってゆく。そんな不思議な作品世界の表出を通して、春のけだるげな感じ、会議中の眠さ、そういった空気感がたった十七音に余蘊なく表現されている。下手な鑑賞を許さない一句だと思う。

5.通俗性の問題

ここから先は、おまけである。本稿冒頭で「作者の息遣いを感じる句」と述べた。

俳句文芸のことばは、通常の発話のように特定の誰かに向けて、言いたいことを十全に伝えるために発せられるわけではない。想定可能なすべての読者へ向けて自分の感性を問うオープンさを持ちつつ、しかし、わからない人にはわかってもらわなくても結構だ、という強気の性格もある。冒頭で述べた「作者の息遣い」が立ち上がるのも、強気の創作態度からだと思う。

強気の創作態度と述べたが、このことは昨年(2019年)6月の「週刊俳句」第632号の上田信治氏の時評(http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/blog-post_2.html)で氏が問題提起された「通俗性」の話題に通じるものだと思う。遅ればせながら上田さんに簡単な応答をしておきたい。

6.上田時評の内容とその吟味

上田時評の論点(の一部)は次のように再構成できる。

[1]「通俗性」は「表現物の価値(よさ)が、水準を低めに見積もった読者(=大衆)の、了解の範囲内にあること」で、作品の価値を損なう要素である。(想定)

[2]『俳句』68-6号の特集「U39作家競詠 推薦!令和の新鋭」に登場する結社推薦の若手の作品は通俗的で低調だった。(想定)

[3]結社の若手の多くは、結社内でウケにいく作句をしている。(隠れた想定)

[4]通俗性の問題は「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」という問題だ。(帰結。[1]より)

[5]多くの結社は読者の水準が低い。(隠れた帰結。[1][2][3]より)

[6]「結社で書いている新しい人に言いたいのだけれど、そのコミュニティの多数派がよろこぶものを書くことからすこし離れて、あなたと同じように新しい人たちを宛先として、考えてもいいんじゃないだろうか」(提案。[3][4][5]より)

筆者も上田さんが通俗的な創作態度へ冷淡であることに共感する。しかし、低調な創作を回避するために、結社の若い人たちは作品の宛先を変えてみよう、という上田さんの提案には、その根本のところで疑問がある。

注意を向けたいことがある。

第一に、上田さんは「通俗性」の問題を「コミュニティの多数派がよろこぶものを書くこと」、あるいは別の記事で「ウケにいってしまうことの問題」(*1)と分析していることである。この分析からすると「水準の高い読者」のコミュニティにウケにいけば作品の低調さを招かないのかを論じないと、[6]の説得力に関わる。流行最先端に沿うように、題材、表記、調べを、作句信条をチューニングする振る舞いは、作品にうわべだけの軽薄さをもたらさないのだろうか。

第二に、「水準の低い読者」「水準の高い読者」とは一体誰なのか、ということである。

たとえば、伝統系の結社では、わかりやすい措辞によって季題の本情を踏まえて詠む態度が「平明な良さと平凡なつまらなさとの違いを考慮しない人がいても仕方がない」「この良さを理解しない人は水準が低い」といったアンチ・通俗的信念に支えられている場合もあろう。つまり「誰にでも評価しやすい作品ではあるが、誰にでもわかるわけではない価値も併せ持つ作品」、逆に「ある思想をもつ人からは高い評価をうけるが、別の思想を持つ人は評価できない作品」という可能性をもっとシリアスに考えたほうがよい。作品が表面上わかりやすいからといって、上田さんの定義する意味での「通俗」さには当てはまらない場合がある。水準の高い読者といっても、「現代思想好き」「古俳諧好き」とか、いろいろある。そのことを閑却しては、不当な仕方で読者を「水準が低い」とみなす人があらわれかねない。

第一の点は、その人が水準が高いと思うコミュニティであろうがなかろうが、ウケにいくこと自体が、作品の価値を損なうリスクを負った選択だという問題提起である。そして、上田さんの「あなたと同じように新しい人たちを宛先として」という提案は、特定の「新しい人」に「ウケにいく」ことを称揚していると受け取られかねないように思う(なお。当該記事の続編には、「結社推薦によって45句を発表していた若手が(全員ではないが)ずいぶん通俗的で、自分が知る、ここに推薦されていない20代30代の作家にはそういう印象を持つことがなかった……」という記述がある(*2)。こういった記述は「私が認める人たちにウケにいけば作品の低調さを改善できる」という受け取り方をされかねず、危険である)。

第二の点は、読者にチャリティーを期待しすぎることはフェアなのだろうか、という問いを提起する。たとえば、アンチ・通俗的に作句するAさん、Bさんがいるとしよう。しかし、BさんはAさんとは異なる俳句観をもっている。Aさんの俳句はかなり強気に表現しているが、Bさんの作句信条に照らしたとき、Aさんの句は蛸壺的で軽薄に見える。このとき、Aさんが期待するチャリティーをBさんが発揮してくれないからといって、「水準の低い」読者と居直ることはフェアだろうか。

筆者は、ウケにいってしまうことはコミュニティの問題というより、どんな信条で俳句に向き合うか、という作者の態度の問題だと思う。どんなコミュニティで俳句を詠むにせよ、読者との対決のなかで自分の表現を反省し、個性を見つめる契機があるはずだ。そして、俳句を作る人間は生きている以上、どのように俳句と関わるかという態度をもつだろう。たとえば、生活の一部を記録する、承認欲求を満たす、十七音で作品世界を構築する、自然に対する自分の直感を表現する、等々いろいろあると思う。それらは作品の完成度への評価には直接関係しないが、その作者にとっての理想の俳句像や、個性を形成する。

「ウケにいく」という態度は、本稿冒頭で述べた「作者の息遣い」が現れる句を少なくする選択肢ではないか、と思う。もちろん「ウケにいく」ということ自体は、どのように俳句と関わるかという信条・生き方の一つであり、作品の評価に直接関係あるわけではない。しかし、「ウケにいく」選択は、自分の理想を物差しにして自作を振り返るのではなく、「どうしたらウケるか」を物差しにするために、作者の個性を犠牲にするリスクを負っている。

「俳句の骨法だけで成り立っている句をめざす」でも「平明にして余韻ある句を目指す」でも、その理念にコミットする理由が「特定のコミュニティに向けて書く」ということだとしたら、それは形だけツボをおさえたような句、言ってみれば死語に等しいものを生み出すことと背中合わせである。繰り返せば、ウケにいってしまうことの問題は、作品の宛先を変えても解決しないと思う。

【註】
[1]https://togetter.com/li/1371242?page=2
[2]http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/6.html




第665号 2019年1月19日
■山本真也
マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー 10句 ≫読む
■細村星一郎 もしかして 10句 ≫読む
第669号 2019年2月16日
■田口茉於 横顔の耳 10句 ≫読む
第670号 2019年2月23日
■前田凪子 新都心 10句 ≫読む

2018-10-21

【週俳600号に寄せて】地方の俳句愛好者として望むこと 浅川芳直

【週俳600号に寄せて】
地方の俳句愛好者として望むこと

浅川芳直


創刊600号、おめでとうございます。私の高齢の知人にも「週刊俳句」を読んでいるという方がいらっしゃいます。世代を問わず読まれつつ、600号まで発行を続けてこられた積み重ねに、頭が下がる思いです。いろいろな人を積極的に紹介するスタイルを貫いてこられた「週刊俳句」の風通しのよさが、大きな魅力なのかなと思っております。 

さて、500号以降の「週刊俳句」で一番盛り上がったのは何と言っても、高田獄舎氏の俳壇批判と、それを受けて高田さんと久留島元氏の対談が掲載された586号ではなかったかと思います。「週刊俳句」のコメント欄のほか、Twitterやnoteでも一連の話題がメンションされていた印象がありました。

ただ一読者としての私自身は、中央の若手の党派性とか、人脈がどうこうといった話題にさして興味が持てませんでした。地方にいて知りたいのは、中央の人たちがどんなことを議論し、どんなことに関心をもって実作をしているのか、ということ。地方にいると、流行にひきずられることなく、ぶれない態度で自然と向き合える半面、自分の行き方を客観視しにくいところもあるので、若手の人たちがどんなことを考えているのかを知りたいわけです。人間関係とか権力とはどうでもいいですから、地方にいる人間としては中央にいる若手がどんなことを考えているか、議論しているか紹介してくれるような特集号をちょっとだけ期待します。

最後にもう一つ希望です。昨年の「俳苑叢刊を読む」の企画は多士済済の執筆陣で、しかもやりたいことがはっきり見える骨太の企画、一読者として毎週楽しみに拝見していました。ぜひまた、このようなリレー式の連載企画を読みたいです。

まとまりなく書き連ねました。600号からの新たなスタート、楽しみにしております。

2018-08-19

【週俳7月の俳句を読む】作者は死なず 浅川芳直

【週俳7月の俳句を読む】
作者は死なず

浅川芳直


マンモスの肋くぐりて涼しさよ  金山桜子

この句にほとほと感じ入った。といっても、その巧さではなく「涼しさ」に独特のものを感じたからである。俳人はさまざまなものにこの「涼し」という感覚を見つけてゆくが、マンモスの骨とはなんという自由さだろうか。博物館に大がかりな特別展がやってくるのは、およそ夏休み企画である。外の炎天下とは落差のあるひんやりした空気が、展示場はいわば死骸を飾る死の世界だということを否が応にも訴えてくる。おそらく目玉展示のひときわ大きな骨をくぐったとき、その空間のなかで抱く感覚は容易には表現できぬ不思議なものだろう。その万感を一切抹消しての「涼しさよ」である。大真面目でありながら肩の力の抜けた感覚が、いかにも等身大の人間を見るようで面白い。掲句には、生と死についての物思いも博物館で得た知識も、すべて飛ばしてしまうような作者の実感だけがある。しかしさらりとした表現の奥にはやはり、展示を見終えた万感が沈殿しているようだ。この巧まざる二面性はまさに自然体の句の面白さ、良さだと思う。作者の感じ方・物の見方に、黙って通じてゆきたい一句である。

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ところで今回「週刊俳句」の七月分の作品を読みながら、作句への姿勢・信条について少し考えてみた。というのもそこに無自覚だと、往々にしてつい自分好みの造りの句だけを不当に高く評価してしまう、逆に取り上げるべき句を見落としてしまう、といった弊に陥るからである。「俳壇は内輪褒め体質だ」といった論が最近生じているが、何のことはない、誰でも好みは偏ってしまうと思う。もちろん佳い句は、どんなに表現が奇妙でも、内容が特殊でも、その人の芯がありさえすれば伝わる。しかし良い句を見逃さないようにするには、自分の俳句理念は括弧に入れ、頭ではなく胸で作品にぶつかる作業が必要だと思ったのである。

たとえば俳句を「書く」という行為を自覚的に引き受けているか、そうでないか、という態度の違いは意識したいと思っている。山本健吉が指摘しているように、「書く」という行為によってなまの発話の場面から切り離された言葉は理念性・抽象性を帯び、それゆえに読者が「現実の池や蛙ではない、もっと真実な何ものかをそこに見る」(山本健吉『俳句の世界』、講談社文芸文庫版、p.116)ことを可能にする。こうした書き言葉の特性に強くコミットメントしようとする作者が内容よりもフォルムの点で新しさを追求すると、ときに難解という評価が加えられることもある。しかし内容以上に一句の雰囲気や表記そのものの面白さが、そうした作品の魅力ともなる。他方「書く」という行為の抽象化・理念化の働きに積極的になれない人(ないしそういった議論に無関心な人)は、感受性と直感をたのみに自分にとっての現実を作品化しようとする傾向をもつ。私などは「書く」ではなく「詠む」と言いたい派だが、表記の効果というよりも内容と音とのひびき合いを重視するようである。ときに古ぶるしい作品となる場合もあるかもしれないが、現場性を大事にすると言ってもいい。こうした創作の上での態度の違いが、ときに不毛な対立を生むようだ。「意味がわからない句はダメなのか問題」「ウソを詠んではダメなのか問題」などは、多分にこうした俳句観の違いが問題の背景にあるかもしれない。

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そうした意味で要注意の作品なのは、紆夜曲雪さんの「Snail's House」である。と言うのも人によって「わからない」と一蹴するか「素晴らしい」と絶賛するかが分かれる作品だと思うからである。この作者は今年まで筆者とはずんだ句会で遊んだ仲で「むじな」のメンバーでもある。だから筆者としては身内のつもり、手放しに褒めるのではなく、句会で批評し合うようなつもりで、一句友として短評を述べたい。

涼しさの火籠りの眸のふたつづつ  紆夜曲雪

優曇華や空き家よりこゑある日々の  同

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  同

蟬茸の記憶の紐やかよひあふ  同

作者はかなり自覚的に、「書く」という行為にコミットしていると思う。筆者は氏が過去の俳人の文体をよく研究していたのを知っているし、今回の作品も直観に頼るというよりは、Snail's House(ミュージシャン)のミュージック・ビデオのまったりとした雰囲気にマッチするよう巧みに書き上げられた意欲作だと拝察する(勘違いだったら許されよ)。加えて表記にもの言わせるスタイルは紆夜曲雪さんの得意とするところであるが、句の内容について開き直った態度を取っているために、言葉を強くしようとしてギクシャクすることがない。

しかし身内の心配性だろうか、ときに雰囲気だけで押し切る一面が気にかかるのである。おそらく紆夜曲雪さんは、内容・素材の力に頼らず、言葉だけでどれだけ一句に雰囲気を作れるかを工夫されているのだと思う。そういった理論的な面を勘案すればこれらの句は確かに成功しているだろう。ただし、本当の佳句とは主義主張や文学理論に関係がなく、一句読み下したときに胸にひびく句のはずである。作者の狙いは一度括弧に入れ、頭ではなく胸で作品を受け止めるべきではないか。かくしてここは私の感じるまま、私の鑑賞で突き進みたい。繰り返すけれども、本当に良い句は作句上の立場、文学理論上の面白さに関係なく、読者に訴える何かがあると思うからだ。

涼しさの火籠りの眸のふたつづつ  同

目が二つずつというのはわかりやすいくらいわかりやすいが、「火籠りの眸」という措辞は、果たして一句のなかで効いているのだろうか。火祭りか何かだと取ると、わかる・わからないという意味の問題以前に「涼し」の感覚に共鳴することが難しくなる。あるいはその不整合を諒とするかどうかに、作句姿勢の違いが現れるのかもしれない。しかしそれにしてもパッと読み下したときに全体が曖昧だと筆者は思うのだが、これは筆者の鑑賞眼の問題だろうか。

優曇華や空き家よりこゑある日々の  同

取り合わせの妙は相変わらず、さすがだと思う。内容の不思議さに面白さがないわけではない。しかしまあそれだけ、内容の突飛さのために作者の顔が見えてこず、訴える力に欠ける憾みがあると思うのだがどうだろう。

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  同

読む側としてもまず頭で受け止めてしまうようなところがある。「にやんにやんとみづ湧くこゝろ」。好みを言えばだらだらと水の描写を伸ばさないで湧水をきちっと言い切ってほしい。もちろんそこを評価する向きもあろう。しかし季語に旧かなで「みづ」の字面を取り合わせて情感を作るのはもはや手垢の付いた常套手段となりつつあるし、水に心では言葉先行、擬態語のポップさも流行を取り入れた感があって、損をしているのではあるまいか。借り物の感覚という印象が生じて、素直な鑑賞を邪魔してしまうようでもある。そうそう、「むじな 2018」ではこんな句があったね。

 木蓮にほほゑみはこゑ在らぬとき  同

 古りし字ゆこゑこぼれ来し竹の秋  同

 花林檎みづかがみへと日の手触る  同

筆者はこれらの句への賛辞を惜しまないが、今回の十句を見ると、「こゑ」「みづ」という表記から入っていく手法が、個性というより癖になっているのではないかとも思う。どうかこの点を考えてみてほしい。

少し手厳しく書きすぎたかもしれない。しかし筆者は、進歩し続ける君の意欲作を前にして「よかったね、いい句だね」とだけ言って終わらす気にはなれないのだ。紆夜曲雪作品の場合、「雰囲気しかない」ということはまさに作者の狙っていることであろうし、筆者の繰り言などつまらぬ難癖かもしれない。あるいは、筆者はうっかり「作者が見えてこない」と述べてしまったが、「これはもう俳句観の違いに訴えた難癖である。言語で何かを表現するということは、現実をコピーすることではない。〈ほんとうらしさ〉など作品にとってどうでもいいのだ。浅川は俳句観の違いから紆夜曲雪作品を不当に低く見積もっている」、と反批判を受けるかもしれない。

しかしここで本格的に文学論へ首を突っ込むことはしない。というのも筆者は、何も議論をして相互理解を深めることなしにでも、紆夜曲雪の作品の魅力をたとえば次のような句によって存分に感じ取ることができるからだ。

生きて会ふその風の世の籐椅子よ  同

すれちがふたびにほたるとなりにける  同

この二句はたとえフィクションであろうと、筆者の胸に訴えてくるものがある。その理由を考えてみると、やはり借り物ではない本物の紆夜曲雪さんの感性がしみじみと行き渡っているからではないかと思う。句を鑑賞するうえで、「実際の作者からして……」と言うのは禁じ手かもしれない。紆夜曲雪という号もなるべく生身の人間らしくない名前にしたいということで名乗っているそうだから、作者らしさ云々を持ち出すことは本人としても不本意だろう。しかしこの二句には、作句上の立場を超えた強い力があり、しかもそれは紆夜曲雪の心からの表現となっているかどうかの違いではないかと思うのだ。

「心からの表現」ということで、筆者は何も「事実通りの事柄」といったものを意図しているわけではない。たとえばタイトルになったミュージシャンの音楽世界の借り物ではない、紆夜曲雪自身の詩性、といったことを意図しているのだ。〈生きて会ふその風の世の籐椅子よ〉〈すれちがふたびにほたるとなりにける〉。この二句は、たとえ本人が生身の人間らしさを離れた句を志向しているとしても、消しきれなかった「いかにもこの作者」という感覚が魅力の源泉であると思うのである。

生きて会ふその風の世の籐椅子よ  同

見方によっては、「生きて会ふ」はもってまわった言い方で嘘っぽいし、「その風の世」も曖昧である。一句として景を結ぶのは籐椅子だけだ。しかし世界に対する、あるいは風に対する紆夜曲雪のリアルな態度が、この観念的な表現を見事に基礎づけているように感じられる。ここまで吹っ切れてこそ句を「書く」人の句として一級の作だと思って瞠目した。

すれちがふたびにほたるとなりにける  同

すべて平仮名という特殊さがあるが、けっして不自然さを感じさせない。ずんだ句会のみんなで蛍狩りに行ったことを思い出すと、作者の歩み、蛍を待つ姿勢が、この一句のなかに結実しているようにも思える。作者は観念的・抽象的な句のつもりだろうが、それだけでなく事実の強みをも感じさせる。仁平勝は「日常ごく普通に使われている言葉が、俳句という定型に収められると、ある比喩的な効果が生まれる」(『シリーズ自句自解Ⅱ ベスト100 仁平勝』, ふらんす堂, 2018, p.113)と指摘し、これを「俳句的喩」と呼んでいる。掲句の「ほたるとなりにける」はおそらくはこれとは逆で、作者が蛍に変身しているという何かの比喩が俳句の形式に収まることによって、蛍が光ったという実景を喚起させるようにも機能していると言うべきだろう。これも句の背後に紆夜曲雪という人間の感覚がいきいきと働いていることの効果ではないか。多くの読者はたとえ作者を知らずとも、なるべく作者に寄り添って鑑賞しようとするものだ。そのときに強いのは、作者の芯から出て来た発想・表現だと筆者は思う。

以上、紆夜曲雪さんには、だいぶ失礼な言葉を吐いた。しかしこれは先ほど述べたように一句友の歯に衣着せない感想であり、誤解があればお教えいただきたいし、また反論も承りたい。切り捨て御免は筆者のもっとも嫌う批評態度だからである。今は仙台と東京で遠く離れてしまっているけれど、いよいよのご健吟を祈っている。

●

この時点でだいぶ字数を食ってしまっている。このままでは「身びいき」の誹りを免れないので、七月の作品から私の琴線に触れた句を掲げ、その責めをわずかでも塞ぐこととしたい。

脳の襞さわぐ万緑かがみの間  加藤知子

湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間  同

〈脳の襞〉の観念。万緑の映る鏡のかがやき。コントラストの印象鮮烈である。〈湯浴みの時間〉とは、昼の風呂か。「時間」のリフレインが印象深い。ケの日常の中のハレを切り取る視線である。

コイントスの表裏炎天漂へり  吉田竜宇

コイントスをスローモーションで捉えるおもしろさ。「漂へり」の思い切った主観が、炎天の空気を表現して余すところがない。

馬群れてゐる幻や麦の秋  西村麒麟

「幻」。甘く浮きがちな言葉だが、その甘さを抑えた何気ない詠み方は尋常でない。幻の馬、なんと素敵な、ゆったりとしたひびきだろうか。黄金色に輝く風まで感じられるようだ。キルギス映画に出て来るような、颯爽と駆ける馬ではない。田舎の駄馬だ。道端で馬がのんびりと馬ングソこいていたような時代が目に浮かぶ、ノスタルジックな一句である。

ねばりとかがんばりとかと夏を病む  紀本直美

草いきれふつうに家族いる暮らし  同

平常心ということを強く感じた一連。本当はもっと多くの字数を当てて触れたかった。生活に密着して素朴に詠出された作品群。「夏を病む」という小さなひとひねりが新鮮である。「ふつうに家族いる暮らし」というつぶやきにも共感した。

汗の子のかうべ重たく梳る  金山桜子

前掲の〈マンモスの肋〉同様飾らぬ実感。軽いと思った赤ん坊の体感を言い留めて巧みである。この作者、風景よりも人間の生活が大きい。いや人間よりも「私の感覚」が大きく出ている。

職やめる決意ぐらりと夜の蟻  秋月祐一

「ぐらりと」は夜の蟻の動作ではなく、職をやめる決意であろう。茶化すような言い差しが、かえって離職の決意の強さを印象づけている。ユーモラスな味わいの中に、骨組のしっかりした、まじめな句である。


■加藤知子 花はどこへ 10句 ≫読む
■紆夜曲雪 Snail's House 10句 ≫読む
■吉田竜宇 炎上譚 ≫読む
■西村麒麟 秋田 10句 ≫読む
■紀本直美 夕立が降るから 10句 ≫読む  
■金山桜子 藍を着て 10句 ≫読む
■秋月祐一 はつなつの 10句 ≫読む

2018-06-03

10句作品 浅川芳直 捩花

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捩花   浅川芳直

絶頂へ叫ぶボーカル夏立てり

ひと雨の予感に栃の花が降る

あめつちの爆発を見き昼寝覚

夏蝶へ潮騒とどく墓地のあと

俊敏にうねる毛虫を犬不機嫌

夕焼の高台椅子の軋む音

死の話少しだけして冷素麺

田を闇に沈め一軒灯涼し

夏暁の渇きクリーム色の壁

捩花やバスが来ぬなら歩きだす

2017-03-12

【「俳苑叢刊」を読む】 第7回 中村汀女『春雪』 生活詠の賞味期限 実作者の立場から 浅川芳直

【「俳苑叢刊」を読む】
第7回 中村汀女『春雪』
生活詠の賞味期限
実作者の立場から

浅川芳直


えー、どうも、ハイクというものは、どうにも不思議なとこがございますな。と言いますのは、俳句をやる人によって、ハイクっちゃ何だ、何であるべきか、花鳥諷詠だ、魂の一行詩だ、造型だ、社会性だ、アニミズムだ、形式の力だ、いやそんなもんは俳句じゃねえ…、ピイチクパアチクやってるん。結社の理念なんかを比べてましても、主客合一が、モダンが、抒情が、産土が……。ただこのぉ、十七音のリズムに何か感動を書きとどめるというのは、どんなお人でもお認めになるようでございます。

またこのぉ、ハイクの感動てえのは、作者が本当に心を動かしたことが種だ、てぇことを言いまして「そりゃおめぇ、句作の方法は写生にかぎるよ」なんて申しますな。それで、日々の暮しの出来事や嘱目を日常感覚の言葉で句にするのを特に生活詠なんて言う。言わずとしれたその名手が中村汀女さんでございます。この人ぁ、大正・昭和の女性がもっともイキイキと働く場所であった台所の、本当に平凡な主婦の暮しを詠んだん。ところが、頭の硬ぇ一部の人にゃあ「そんな狭い取材範囲の句はな、台所俳句ってんだ」なんて、ウケない。するてぇと、えらい人が「花鳥諷詠ってのは、ニッポン人の生活は背伸びなんかしなくてもだよ、四季の移ろいつまりは俳句の世界と結びついてるってことじゃねぇのかい。たとえ台所を出らんない主婦の暮しだっておんなじだってんだ」。かえって説教されちゃう。詰まるところ、家庭や家族という狭い空間のなかで派生するもろもろのこたあ、その本質的なところで社会だ、自然だ、てな問題とも繋がっているん、バカにしちゃいけないよって。

ところが当然のコトワリで、時代と場所が変わりますと、ライフスタイルってのが変わっちゃう。すると、どうも疑問が湧くんですな。生活詠、ひょっとすると花鳥諷詠とか写生一般の名句も含めて、そういう俳句の中には「賞味期限」つきの奴、そのうち食えたもんじゃなくなっちまうのもあるんじゃねえか……。
たとえば、今回取り上げる『春雪』。これは昭和十五年の発行ですから、もう七十五、六年昔……。戦前でございますが、
(1)秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな   
「りんすん?シャンプーでもするのかい」。当字が難しいですな。それから最近の生活はオール電化だァ、IHだ。ガスなんか使ってない。使っている家は家で「マッチ?なぜチャッカマンじゃないの」「瓦斯なんて漢字で書いちゃってまた、オシャレな街灯と思ったよぅ」。
この句は瓦斯が何で燐寸が何でということがわかりゃあ、そしてそういう生活をしてりゃ云うことはないん。でも昔と今では表記の習慣が違っちゃってイメージがぼやけちゃう。それからライフスタイルが変わっちゃって、ポンと投げられてもピンと来ねぇ。
はぇー話が、問題はこうなんですな。生活詠で「ああ、わからねえなぁ」と辞書を引かなくちゃならないことがある。それから、「辞書は引いたけど、やっぱ共感できねえなぁ」という句もありそうだ。ひょっとすると、生活詠ってのは、程度の違いはあるが、やがては古くなっていつか共感されなくなる宿命にあるんじゃねえか。もしそうだとすると、時代を超えた名句を詠もうと思ったら、取材範囲はどっしりとした歴史的建築物や、山川草木その他生き物にかぎる、なんてことになりかねません。「生活?うっちゃっちまえ!」こいつぁどうにも具合が悪い。
えー。それからどうも、身辺生活から詠うハイクと申しますものは、天翔けるフィクションと違いまして、日記の切れっ端、詩としちゃにせものであることと紙一重でして。やっぱりほんものの感動てぇのは時代によってコロコロ変わっちゃ困るだろうから、ほんものの感動と生活詠の賞味期限問題、どっか関係ありそうでひょ。じゃあほんものと呼べる句、呼ばれてる句はどんなものを詠んでいるのか。ってんで、句材という観点から生活詠の賞味期限問題へアプローチしてみましょと、今日はそんなお話でございます。
とこういうこってすから、折角なので生活詠の名手汀女さんの句を重要証拠として考えたいん。「古典を現代の感覚で読む」ということがありますが、その伝で汀女を読んじゃう。気取った言い方をすりゃあ、汀女を通して生活詠の可能性を考える試み。

それでさっそく『春雪』からアタクシが、時代を感じるなァという句をいくつかカテゴライズして挙げてみるんですが……、まずは衣食住のなかでも、ファッションがどうとか昔はこうだったとか言いますように、一番傷みが早そうな、「衣」の俳句から。
(2)張板抱へて廻れば眩し鵙の庭
(3)くけ䑓のひき絲さげて日永かな
(4)打水や抱へ出て襷しめなほし
(5)新涼の手拭浮けぬ洗面器
(2)(3)の「張板」「くけ台」。わからない方多そうですな。それぞれ昔の洗濯道具と裁縫道具でございます。(4)(5)は二十一世紀の現在、襷や手拭を日常的にお使いになる御宅は少なくなっていると思うんですが、しかし、今あげました句の空気感、サザエさんの世界と言いますか、よぅくわかるような気がいたします。
ここで詠まれておるような暮らしは、「戦前の生活」と申しまして、アタクシ共も小学校の「生活科」の知識として仕入れていて、それでわかっちゃう。

衣食住というカテゴリ以外でも、
(6)麥の芽に汽車の煙のさはり消ゆ
(7)征く人の御父尊と東風の驛
こういう「今は昔」の情景は、昭和の知識があればちゃあんとその手触りがわかるってえ寸法。歴史的な背景と切り離せねえ句は、「鑑賞に困っちゃうねえ!」となりがちでございますが、やっぱりいい句であれば、ちっと勉強すれば誰でもおいしく味わえるんで。このちょっとした手間を惜しんで作者に寄り添おうとしねえ奴ァ、燐寸と聞きゃあ、なぜチャッカマンじゃないの?なんて言っちゃう。そんな野郎は味噌汁で顔洗って出直してきな、とこうなりますな。
どうもこの調子ですと、時代の趨勢で使わなくなっちまったものが登場する句についちゃあ、知識さえありゃあ昔と変わらぬ美味しさでいただけると、こういうことのような気がしてまいります。

ところが中には、今でも共感できるには違ぇねぇンだが、時代背景が違うんで、どうも鑑賞が作者の腹づもりとズレる、てなことがございます。要は、美味しく味わえるんだが変質しちまう句で……。
(8)ふるさとにたよりおこたり日向ぼこ
(9)風呂沸いて夕顏の闇さだまりぬ
(10)もろこしを燒くひたすらになりてゐし
この三句は「食」と「住」の句ですな。(8)今どきケータイ、メール、「すかいぷ」「らいん」なんてのもあるらしい。現代人と昔の人では、故郷恋しの思いはなかなか同じ尺度じゃ比べらんない。もちろんちょっとアンニュイな気分は変わらないとは言え、日当たりのいい縁側がある家なんて都会にゃなかなかございやせんし、昭和初期、70年代、ゼロ年代、設定を変えれば映像もぶれてくるようでございます。(9)は風呂を沸かすと夜のとばりが。しかし現代の句として読むと、お風呂が沸いてるのを確認したとき、どうして庭の夕顔の様子がわかんのかがわからねえ。薪でふうふう風呂を立てない現代人にゃあ、この句は写生というより心象風景と映る可能性が高いってもんでひょ。平成生まれのアタシの感覚だと、(10)のとうもろこしを焼く「ひたすら」な表情からは生活の必死さなんか消えちまって、キャンプか何か、慣れねぇバーベキューでコーンを焼いてる仲間の顔を茶化した、ユーモアの句になっちゃう。

その点、景がぶれないのはこんな句で。
(11)丸の内三時の陰り秋の風
(12)三越を歩き呆けや花氷
(13)煖房に毛皮とそれのレヂスター
(14)少年のかくれ莨よ春の雨
(11)現代と昔じゃあ丸の内の様子、建物も違ってましょうが、そこの居眠りしてるお客さんが平成の俳句だと思って鑑賞しても、汀女の時代とあまり変わらない鑑賞になりそうでひょ。(12)は三越デパートある限り永久に不滅です、(13)は「レヂスター」なんて今は使わねえ言葉がかえって毛皮のコートっぽいん。(14)今も昔も少年のタバコは公然の秘密。トイレで隠れて吸ったりするもんで、これまた大いに共感ですな。以上四句、今も雰囲気や価値があまり変わっていないもの、こういったものが主題になってますと、現代人も昔とおんなじ感動を共有できるようでございます。逆に基本的な衣食住にまつわる題材を詠んだ句は、なんというか時代と共に醸成されちまって味わいが変わっちまう場合がある。きっと基本的な生活に関するがゆえに、そこに登場する道具や習慣も変わりやすいというわけなんでしょうな。しかしそうなんだけれども、まあ別の美味しさが出て来るてぇ、これが面白い。
今まで取り上げたような句を見ておりますと、生活詠に賞味期限なんてケチ臭ぇものはないんだという気もするんでございますが、ところがどっこい、こいつぁ共感できん、頭でいくらわかっても今一つビビビッと来ないってのもあるんで。
(14)ゆきついてかへす夜番の聞えつつ
(15)雪掻きし市内に來り橇難澁
(16)馬が待つ雪の積荷のまだなかば
いや、もちろんアタクシの性格、育った環境、性別やなんかのせいかもしれませんが。(14)夜番、歳時記には載っている。夜、黄色いジャケットを着ておじいちゃんたちが何か歩いてるときはある。でも、「火のォ用心!パチ・パチ」とはやってないし、「張板」や「くけ䑓」と違って当時の生活必携風物というようなものでもないから、そこまで句の世界に入り込んでいけない。(15)(16)、これまた知識があって情感が浮かんでも、今一つ現代の感覚にリンクしねぇ。ソリやお馬さんでは、どうしても軽トラのイメージと重ならない。あくまでアタクシの独断・偏見なんですが、現代への繋がり方が微妙な感じの風物はツラいものがあるようです。

じゃ、佳句としてよく鑑賞されてる句はどうなのかと言いますと、やっぱりいいと思うでしょ。それがね……それが、いいんですなぁ。
(18)曼珠沙華抱くほどとれど母戀し
(19)靴紐をむすぶ間も來る雪つぶて
(20)咳をする母を見上げてゐる子かな
(21)さみだれや診察券を大切に
(22)あはれ子の夜寒の床の引けば寄る
(23)咳の子のなぞ〱あそびきりもなや
(24)ゆで玉子むけばかゞやく花曇
(25)書いてみす數字が下手や日向ぼこ
(26)まだ犬もつながれしまゝ夕時雨
(27)夫と子をふつつり忘れ懐手
(28)年ごろの似てかへりみて曼珠沙華
いずれの句も、家族への愛情がしみじみと句の背後にあるんで。(19)(20)(22)(23)(25)の、母としての愛情。(26)の犬は、家族というものをいつも大切にしているから気付けるってもんで。(21)もそう。(24)は家族で出かけたお花見だからこそのゆで卵の輝きでございます。(27)の「懐手」は死語に近いが、自己言及的に示される家族へ思いで、現代人にも響いて来るものがあるん。そして(28)、アタクシは『春雪』就中絶唱と見ますナ。年頃の似た人を思わず振り返って二度見した。お嫁さんに来て、いろんなことがあった、夫の転勤、子育ての苦労エトセトラ。胸に去来する複雑な感情をすっと包み込んで次の一歩を踏ませてくれるのは他ならぬ家族の存在。足許の曼珠沙華がなんと儚く美しいことよ。

えー、グダグダしゃべってまいりましたが、そろそろお時間でございます。生活詠の可能性として、どんな句材をとれば普遍的な名句となりうるのか。本日のおしゃべりをまとめますとこんな具合になるようで。

【生活詠の句材の賞味期限表】

1  現代では廃れたり、変化している風物。

1・1 衣食住に関わる風物

読者が知識を補完すれば変わらぬ感動あり。賞味期限なし。

1・2 衣食住の基本に直接的には関係しない風物。

鑑賞可能だが、強い共感はされぬ場合あり。賞味期限あり。

2  現代においても、様態や価値が変わらない風物。

今も昔も変わらぬ感動あり。現在はまだ賞味可能。

3  衣食住の根本に関わる風物。

作者本来の意図と、読者が読み込む感動がずれる場合あり。賞味期限ありの場合、期限が切れても独特の美味しさ。

4  人への愛情。

今も昔も変わらぬ感動あり。賞味期限なし。

てなことで、当初の問いに答えてみることといたしましょう。その、俳句と言うものは、十七音定型感と季語さえ入っていりゃあいいわけでして、琴線に響いてこねえ偽物もあるん。じゃあほんものを生むについちゃあどうすりゃあいいのか。こんな問いに、今日の分析を以て答えるなら、まぁ新しがりで何でも飛びつこうとするからいけねェ、生活の本当に基本的なものを詠むことだ、と言えるんじゃございませんでしょうか。それからもう一つの問題、生活詠はいずれ時代と共に古びちまう、だから、超時代的な名句を詠みたいという野心家は、植物や歴史的建造物に句材を狭めるべきなんじゃねえか。こう訊かれたら、てやんでぇ、俺っちもおめぇも食う寝るところに住むところ、それに人の愛情ってえのは絶対必要だろうってんだ、てめぇさしずめインテリだな、こう言っちゃえ。

アタクシも俳句作者のハシクレでございますから、生涯に一句くらいは歴史に残るような、そんでもって普遍性のある句が詠みてえと思っちゃあいるんでございますが、言わせてもらえば「普遍性」を狙うてぇのは、むつかしいん。大人が高校生の俳句を見て「ちょいと、あんたの句にゃ高校生らしさがないよォ。ウソツキ!」。でもバンカラの男子校だと、「午後はサボってパチンコ屋、放課後は部室で麻雀」なんてぇのがホントだったりするんで。普遍的な高校生らしさなんておつけの実にして食べちゃう。まったく飛んだハナシ。
まァですから、鑑賞する側は作者に寄り添う努力、特に教養の涵養も必要で、わからなかったら辞書を引く、「絶滅寸前季語」みたいなやつへの目配りも大事でございます。するとどうしたって感性だけで楽しむというわけにはいきませんで。純粋芸術的な理想とはちょいと違う俳句の奥深さと言うべきかは知りやせんが、桑原さんちの武夫ちゃんを久々に読み直してぇと思ったり。

理屈はさて置き、どしどし正直に詠むしかありません。出しましょう、生活感、醸しましょう、親近感。作りましょう、明日の暮しの満足感。生活詠の賞味期限という一席でございます。

二月吉日         小三治のCDを聴きながら。