2020-03-15

【週俳1月2月の俳句を読む】 作者の息遣い 付「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」? 浅川芳直

【週俳1月2月の俳句を読む】
作者の息遣い
付「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」?

浅川芳直


0作者の息遣いを感じる句

筆者は、作者が詠みたい何かが伝わってくる作品が読んでいて楽しい。10句に連作的なテーマ性がほしいというのではない。作者の息遣いが感じられる作品に惹かれる。

もっとも「息遣い」という用語はあいまいである。志向性と言ってもいいのかもしれないが、「息遣い」には、自然や生活に対する直感、ことばや俳句という詩形そのものに対する態度、それどころか作者の思想性といったものまで包含する鷹揚さがある。いわゆる「作中主体」の機能に解消されない、作品制作の権能に付随する何か、と言いたい。

1「マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー」山本真也

くまあなにこもるP.S.アイ・ラヴ・ユー  山本真也

正直に言えば、私はビートルズの「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲を知らなかった。10句通して、ビートルズにまつわる素材がちりばめられている。洋楽を(邦楽もだが)あまり聞かない筆者には、季題の鑑賞が難しいところもある。ただ、ことばとことばのバランスが印象深いこの句に、くぎ付けになった。

熊の入ったあとに地表に開いている穴はやっと呼吸ができる程度の小さなものだという。「熊穴に入る」は、山暮らしの人でなければなかなか身近ではない季題である。あまり身近でない季題、おそらくは身辺にないものを詠んでいる俳句に出会ったとき、作者は何にその季題を感じているのか読んでいくのも、鑑賞の一つの楽しみだと思う。この句は「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲、あるいはフレーズから熊の冬眠に思いを寄せるところが面白い。熊も昨今は食糧不足、下手に人里へ降りて、命を落とす個体も多い。手元の歳時記には、母熊はこの時期に子育てをするともある。「P.S.アイ・ラヴ・ユー」を実際に聞いてみると、牧歌的な歌詞、ほのぼのとしており、そのことが、また悲しい。

2「もしかして」細村星一郎

笑つても笑つても冬プラタナス  細村星一郎

ロケットの落ちてきさうな冬野かな  細村星一郎

一句目は、この10句の冒頭に置かれた句。〈笑つても笑つても冬プラタナス〉の「プラタナス」の感じに惹かれた。楽しく笑っているにもかかわらず、ごく静かな心の影をとらえている。寒々としたプラタナスの並木、冬日の影、そういったものが混然となった「笑つても笑つても冬」だろうか。作者にとっての「冬」の質感はこのようなものかと納得させられる。こういった句を見せられると、同時詠の〈水仙や線路を切り替へるレバー〉の路線は、この作者としては事柄の表面をなぞってしまって物足りなく思わないでもない。
二句目、「冬野」の表情の発見。子どものようなまなざしが楽しい。天然なもの言いに見せているが、10句を通して見ると、計算されたことばの斡旋だと思う。ロケットの一語が、きらきらとした日差しを感じさせる。いい意味での巧みさがあると思う。先日第16回鬼貫青春俳句大賞を受賞した「触れられて」30句の評には「若々しくユニーク」「感覚が良く、発想が豊か」といったことばが並んでいる。それらの評言はもっともだと思うが、今回の「もしかして」10句からは、ときに未熟なイメージと背中合わせにされがちな「若さ」の観念にあてはまらない作品をめざしておられる印象を受けた。

3「横顔の耳」田口茉於

こちら向く横顔の耳冴返る  田口茉於

一瞬、読みに迷う。横顔の人がこちらを振り向いたのかと思ったが、よく読むとこちらを向いているのは耳であり、この人がこちらを向いたわけではない。したがって「こちら向く」が不要だという見方もあると思う。しかし、振り向くようで振り向かない横の人、ただ耳だけがこちらを向いている、その煮え切らなさがこの一語にはある気もする。その煮え切らない空間を「冴返る」と断定した下五が、上五中七をきっぱりと清算している。「冴返る」という締め方に、作者の俳句に対する呼吸を感じる。

同時詠の〈鷹鳩と化して南を向いてゐる〉、厳しい冬を乗り越えた鷹が鳩になってやっとのんびりしている、という句。それだけでは季題の説明だが、「南を向いてゐる」でとぼけた味が出て面白い。何とも言えないぎりぎりの線まで押して単純化する手法があざやか。

4「新都心」前田凪子

雲に入るホワイトボードたち鳥たち  前田凪子

1月、2月の10句を通して読み返してみて、何と言ってもこの一句が抜群に面白く感じた。季題を分解して表記することには賛否があるが、この句のこの語順は動かないと思う。意味の上から言えば、「鳥雲に入る」と「ホワイトボードたち」の取り合わせだが、この句ではホワイトボートたちも雲の中に入ってしまった。そう、ホワイトボードたちである。会議室から、オフィスから、ホワイトボードたちが群れとなって北方へ帰ってゆく。そんな不思議な作品世界の表出を通して、春のけだるげな感じ、会議中の眠さ、そういった空気感がたった十七音に余蘊なく表現されている。下手な鑑賞を許さない一句だと思う。

5通俗性の問題

ここから先は、おまけである。本稿冒頭で「作者の息遣いを感じる句」と述べた。

俳句文芸のことばは、通常の発話のように特定の誰かに向けて、言いたいことを十全に伝えるために発せられるわけではない。想定可能なすべての読者へ向けて自分の感性を問うオープンさを持ちつつ、しかし、わからない人にはわかってもらわなくても結構だ、という強気の性格もある。冒頭で述べた「作者の息遣い」が立ち上がるのも、強気の創作態度からだと思う。

強気の創作態度と述べたが、このことは昨年(2019年)6月の「週刊俳句」第632号の上田信治氏の時評(http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/blog-post_2.html)で氏が問題提起された「通俗性」の話題に通じるものだと思う。遅ればせながら上田さんに簡単な応答をしておきたい。

6上田時評の内容とその吟味

上田時評の論点(の一部)は次のように再構成できる。

[1]「通俗性」は「表現物の価値(よさ)が、水準を低めに見積もった読者(=大衆)の、了解の範囲内にあること」で、作品の価値を損なう要素である。(想定)

[2]『俳句』68-6号の特集「U39作家競詠 推薦!令和の新鋭」に登場する結社推薦の若手の作品は通俗的で低調だった。(想定)

[3]結社の若手の多くは、結社内でウケにいく作句をしている。(隠れた想定)

[4]通俗性の問題は「いかなるコミュニティを宛先に俳句を書くか」という問題だ。(帰結。[1]より)

[5]多くの結社は読者の水準が低い。(隠れた帰結。[1][2][3]より)

[6]「結社で書いている新しい人に言いたいのだけれど、そのコミュニティの多数派がよろこぶものを書くことからすこし離れて、あなたと同じように新しい人たちを宛先として、考えてもいいんじゃないだろうか」(提案。[3][4][5]より)

筆者も上田さんが通俗的な創作態度へ冷淡であることに共感する。しかし、低調な創作を回避するために、結社の若い人たちは作品の宛先を変えてみよう、という上田さんの提案には、その根本のところで疑問がある。

注意を向けたいことがある。

第一に、上田さんは「通俗性」の問題を「コミュニティの多数派がよろこぶものを書くこと」、あるいは別の記事で「ウケにいってしまうことの問題」(*1)と分析していることである。この分析からすると「水準の高い読者」のコミュニティにウケにいけば作品の低調さを招かないのかを論じないと、[6]の説得力に関わる。流行最先端に沿うように、題材、表記、調べを、作句信条をチューニングする振る舞いは、作品にうわべだけの軽薄さをもたらさないのだろうか。

第二に、「水準の低い読者」「水準の高い読者」とは一体誰なのか、ということである。

たとえば、伝統系の結社では、わかりやすい措辞によって季題の本情を踏まえて詠む態度が「平明な良さと平凡なつまらなさとの違いを考慮しない人がいても仕方がない」「この良さを理解しない人は水準が低い」といったアンチ・通俗的信念に支えられている場合もあろう。つまり「誰にでも評価しやすい作品ではあるが、誰にでもわかるわけではない価値も併せ持つ作品」、逆に「ある思想をもつ人からは高い評価をうけるが、別の思想を持つ人は評価できない作品」という可能性をもっとシリアスに考えたほうがよい。作品が表面上わかりやすいからといって、上田さんの定義する意味での「通俗」さには当てはまらない場合がある。水準の高い読者といっても、「現代思想好き」「古俳諧好き」とか、いろいろある。そのことを閑却しては、不当な仕方で読者を「水準が低い」とみなす人があらわれかねない。

第一の点は、その人が水準が高いと思うコミュニティであろうがなかろうが、ウケにいくこと自体が、作品の価値を損なうリスクを負った選択だという問題提起である。そして、上田さんの「あなたと同じように新しい人たちを宛先として」という提案は、特定の「新しい人」に「ウケにいく」ことを称揚していると受け取られかねないように思う(なお。当該記事の続編には、「結社推薦によって45句を発表していた若手が(全員ではないが)ずいぶん通俗的で、自分が知る、ここに推薦されていない20代30代の作家にはそういう印象を持つことがなかった……」という記述がある(*2)。こういった記述は「私が認める人たちにウケにいけば作品の低調さを改善できる」という受け取り方をされかねず、危険である)。

第二の点は、読者にチャリティーを期待しすぎることはフェアなのだろうか、という問いを提起する。たとえば、アンチ・通俗的に作句するAさん、Bさんがいるとしよう。しかし、BさんはAさんとは異なる俳句観をもっている。Aさんの俳句はかなり強気に表現しているが、Bさんの作句信条に照らしたとき、Aさんの句は蛸壺的で軽薄に見える。このとき、Aさんが期待するチャリティーをBさんが発揮してくれないからといって、「水準の低い」読者と居直ることはフェアだろうか。

筆者は、ウケにいってしまうことはコミュニティの問題というより、どんな信条で俳句に向き合うか、という作者の態度の問題だと思う。どんなコミュニティで俳句を詠むにせよ、読者との対決のなかで自分の表現を反省し、個性を見つめる契機があるはずだ。そして、俳句を作る人間は生きている以上、どのように俳句と関わるかという態度をもつだろう。たとえば、生活の一部を記録する、承認欲求を満たす、十七音で作品世界を構築する、自然に対する自分の直感を表現する、等々いろいろあると思う。それらは作品の完成度への評価には直接関係しないが、その作者にとっての理想の俳句像や、個性を形成する。

「ウケにいく」という態度は、本稿冒頭で述べた「作者の息遣い」が現れる句を少なくする選択肢ではないか、と思う。もちろん「ウケにいく」ということ自体は、どのように俳句と関わるかという信条・生き方の一つであり、作品の評価に直接関係あるわけではない。しかし、「ウケにいく」選択は、自分の理想を物差しにして自作を振り返るのではなく、「どうしたらウケるか」を物差しにするために、作者の個性を犠牲にするリスクを負っている。

「俳句の骨法だけで成り立っている句をめざす」でも「平明にして余韻ある句を目指す」でも、その理念にコミットする理由が「特定のコミュニティに向けて書く」ということだとしたら、それは形だけツボをおさえたような句、言ってみれば死語に等しいものを生み出すことと背中合わせである。繰り返せば、ウケにいってしまうことの問題は、作品の宛先を変えても解決しないと思う。

【註】
[1]https://togetter.com/li/1371242?page=2
[2]http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/6.html




第665号 2019年1月19日
山本真也
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第669号 2019年2月16日
田口茉於 横顔の耳 10句 ≫読む
第670号 2019年2月23日
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