季語の強制力
非文学的な意味の、春愁を知らない私による
西原天気
「春愁」という季語を、私、あるときは俳句の作り手たる私は、ほとんど使わない。
(こう書いて気づいたが、季語を「使う」という言い方がそもそもなんだかで、誹り・非難を受けそうです。季語って、そんなものじゃないかもしれない。のだけれど、それはまあ置くとして、春愁の話です)
なぜ使わないかというと、これはもうシンプルでいくぶん浅薄な技法のたぐいの話になるのであって、つまり、その句の意図や方向性のようなものをあまりに強力に規定してしまうから、です。言い方を換えれば、「こう読んでください」とはっきりとアピールしてくる。ナニがナニした、ナニをこうした、その事象は、愁いというものと深く関係を結ぶ、あるいは包まれる。例えば「四月馬鹿」なども、それに近い。
ここで、「季語のことは歳時記に聞け」とばかりに(これ、安易な態度でもありますよ)、講談社『日本大歳時記』のページを開く。「春愁」の例句の最初にあるのは、
春愁や冷えたる足を打ち重ね 高浜虚子
この句を(やっちゃいけないことだけれど)、
四月馬鹿冷えたる足を打ち重ね
と、季語を替えてみると、これはこれでりっぱに一句として成立すると、私などは強く思ってしまう(四方八方に、ごめんなさい)。
ところが、この二句(ホンモノの虚子の句と季語置換の仮の句)、句が読者に向かって狙うところは、ずいぶんと違う。読者の読み味(造語です)もずいぶんと違う。
で、ここに来て、「春愁」って、いったいなんだろう? とふと思う。
私だって、愁いの気持ちは、いちおう知っている。気がする。けれども、それは季節に結びついたものではないような気がする。
ここで、さきほどの歳時記に戻ると、山本健吉はこの季語の解説を、「春の物思いであり、憂(うれ)えであり、哀愁である」と書き始め(ここまではほとんど何も言っていない。漢字二文字を説明するのみ)、「歓楽きわまって哀情が深いといった感じにも言う」と書き継ぐ。遊び疲れたあとの憂愁は、歌謡曲的な世界にもよく出てくる。なじみのある出来事です。春=歓楽、というのもわからなくもない。
春愁というものは、たしかにあるのだろう。
けれども、自分に引き寄せると、ぴんと来ない。
こんなことを思ったのは、そして、この雑文のきっかけになったのは、次の句を読んだからです。
春愁はきつと退屈タオル干す 浅川芳直〔*〕
《きっと》というのだから、この人はまだ春愁を知らない、経験していない。これは私の実感に近い。
味わったことがないけれど、もしそうなったら、きっと退屈なんだろう、と。
おそらく、「春愁」という語は、しばしば、多くの人に、この種の鑑賞・この手の叙情を強制してくる。カジュアルに言えば、「こういうことがあるんだから、そう感じなさい」。
私は、春愁という語を、俳句で知った(のだと思う。思い出せないけれど)。そんな人は少ないないと思う。そのうちの何割かは、春愁のなんたるかを知らず、春愁という季語に出会った。
そのとき「ああ、これが春愁というものか」と合点がいった人にとっては、幸せな出会いなのだろう。けれども、そうでな人もいる。出会ってからさきも、春愁のなんたるかを依然として知らず、春愁という観念と親しくなることもなく、暮らす。しかしながら、俳句という分野のそこかしこに「春愁」と語と観念が散在する。
私はここにおいて批判的でありたいわけではないし、いま言っている景色や事象が悲劇というわけでもない。ある「語」と、その使用・分布に触れることで、それを理解したかのような気になるのって、わりあいよく起こることだよなあ、というに過ぎない。
あ、そうそう。さっきの句。《春愁はきつと退屈タオル干す》なんだけれど、「春愁」をわかっている人が、「その退屈こそが春愁なんだよ」と諭してくるかもしれないですね。
一方、このぐだぐたとした一文は、おもしろい句を読んだ、という話として受け取ってもらって、いっこうにかまいません。
あすの朝、タオルを洗濯して、干そうと思います。これが、私自身にとって最大の結論。
〔*〕浅川芳直句集『夜景の奥』2023年12月2日・東京四季出版
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