2026-05-10

浅川芳直 季語はどんな意味でルールか、またルールでないか

季語はどんな意味でルールか、またルールでないか

浅川芳直

『むじな 2019』通巻第3号(2019年11月24日)より転載
 
「季語はルールである」ということの難しさ

だれも、スタンダードな俳句が有季定型であることは疑わない。しかし、いったん「季語はルールだ」と言えば、たちまち議論の余地が生じてくる。たとえば神野(2018)は、俳句の目標は自分の信じるところの美や思想や感情を表現することだと考え、季語に「ルールという概念を持ちこむと、しばしばその目的が見失われてしまう。ルールを守ること自体がゲームとして目的化してしまい、なぜ私たちは俳句を詠むのかという、より包括的な、そして純粋な目的が置き去りにされてしまう」と異議を申し立てている。神野は無季俳句を擁護する立場であるが、無季を容認しない人であっても、この一節にうなずく人は多いだろう。

季語ないし季題について円滑な議論を妨げる要因は、どのような意味で「季語はルールである」と言っているのか、論者によってまちまちなことである。そこで本稿は、「俳句にとって、季語ないし季題はいかなる意味でルールであるか/ないか」ということに論点をしぼって考えたい。

「季語はルールである」といわれるとき、その言説はしばしば次の異なる三つの主張を含意し、ときに混同している。

(1)季の景物の詠み込みは俳句の形式的約束である。

(2)季題の本意にしたがうことは俳句のルールである。

(3)歳時記は俳句のルールブックである。

以下の論述は、(1)(2)(3)を順次検討するものである。

本稿の用語法を説明しておこう。あとで論じるように「季語」には本来、特定の俳句観とセットの特殊な意味がある。そこで本稿は、歳時記にリスト化された季節の詞を示すのに、「季題」の語を用いる〔註1〕。ただし「季語はルールである」という言説へ言及する際には、「季語」の語を用いる。

(1)季の景物の詠み込みは俳句の形式的約束である。

(1)はおそらく、「季語はルールである」という言説のもっともおおらかな形の主張である。この主張を受け入れるのに、「そもそも有季の俳句とは何か」という問いに踏み込む必要はない。つまり、さまざまな境界事例とは独立な主張である。たとえば歳時記に掲載されていない語を季語として用いた句は有季か。あるいは、季題はあっても季感の薄い〈映画出て火事のポスター見て立てり 虚子〉のような句は有季か。「何でもいいから季の景物が入っているのが俳句の形式だ」という主張は、こうした事例から中立的である。
(1)の根拠は、発句の歴史である。つまり、季は形式的な約束で、発句の慣習に由来する、というわけである。角度を変えて「季題」という言葉を見ても、出された「題」を詠み込む、というのは少なくとも「句座のルール」として説得力があろう。題の出ない雑詠は「季節の景物が入れば何でもよい」という題詠句会の変形である。慣習に由来する形式的約束、というかぎりにおいて(1)は正当化されるだろう。

このしなやかなレベルでの「季語はルールである」という考えも批判は受けうる。たとえば、無季・自由律からの批判には答える必要があるだろう。

無季・自由律を唱導した荻原井泉水の主張は、有季・定型であろうと俳句と呼ぶべきでないものがある、というものであった。つまり、形だけ整った十七音でも、身近なものに対する「詩ごころ」がなくては俳句とは呼べないのである。井泉水によると「詩ごころ」の概念は、芭蕉の風雅と言い換えてもよい。無季・自由律とは、俳句の形式に頼って「詩ごころ」を忘れてしまうのを避ける手法なのである(荻原, 1973)。

しかし、井泉水の主張は「任意の表現が有季・定型の形式を備えていることは、その表現が俳句であるための十分条件ではない」ということである。それゆえ再反論は一言で済む。井泉水は、有季という形式上の制約が俳句の必要条件として受容されてきたことを、実証的に否定したわけではない、と。

ほかにありうる批判は、季の約束は慣習法なのだから、これを俳句界の制定法として扱うべきではない、というものであろう。ただしこれは(1)そのものへの批判ではなく、(1)を制定法として受容することへの批判である。本稿冒頭に引用した神野(2018)にもそのような意図があるかもしれない。

筆者自身は、(1)を受け入れる。ただし季の景物の詠み込みはあくまで慣習であり、無季についてはそれほどムキにならずともよいのではないか、と考えている。

(2)季題の本意にしたがうことは俳句のルールである。

ここでは、「季語」の概念を提唱した大須賀乙字の論を手掛かりに、季の景物の詠み込み/季題の本意(「らしさ」)にしたがうこと、の違いを考えてみよう。

乙字が「季題」に代えて「季語」の概念を提唱した動機は彼の俳句観にあった。乙字の考えでは、俳句は自然観照を通してその人の境涯性や感情を象徴する日本独自の詩形である。季を詠み込む短詩という俳句の形式上、作者の境涯性を象徴する機能は、季の景物天象等に対して喚起される感情 = 季感に求められる。そして、一句のなかの季感を統一している語、という意味で提唱されたのが「季語」の概念である。季感および季語は「自然観照により境涯を詠む詩」という俳句観から要請されるのであり、たんなる形式上のルールではない。

注意しておきたいのは、乙字は「季の景物の詠み込み」は発句の慣習的なルールと考えていたことである。つまり乙字の俳句観は、「季の詠み込み」という慣習をその効用の点から後付けで正当化したものと言ってもよい。たしかに、一句に季の景物を入れるのは俳句の約束である。しかし、季の景物の感じ方まで形式によって約束させられているわけではない。自然を詠むことで作者の感情を詠むなら、実際の自然を正直に詠むべきである。季題分類の意義はそもそも、句集を編む際の春夏秋冬の部分けにしかなかったのであって、現在なおもその分類をひきずる必要はない。たとえば現代、牡丹を春に詠もうが夏に詠もうが、どちらでもよい、と(「季題の意義を論ず」in, 大須賀, 1921)。

要するに、乙字が「季題」に替えて「季語」「季感」という用語を用いたポイントは、一句の内容から切り離され、意味を決め打ちされた季題の概念ではなく、実際の自然に対して抱く感情(季感)を重視しようということにあった。季感とはあくまでその一句のなかに成立するものであり、したがって、一句一句の内容から独立に、ある語が季語であるかを云々することは無意味なのである(「季感象徴論」in, 大須賀, 1921)。

つまり、「季語」本来の概念規定では、「季語の本意にしたがうことは俳句のルールである」という主張はそもそもずれている。季語や季感は「自然観照により境涯の感情を詠む」という俳句観から一句の中に要請されるものであって、慣習にもとづいて決まっている季題とは性格が異なるからである。

とはいえ論をここで止めては、ちゃぶ台返しの誹りも免れない。以下の論述では、乙字の「季語」ではなく「季題」についてのみ考えることにしよう。とにかく、「季の景物の詠み込みは俳句のルールである」ということと、「季題の本意を踏まえるのはルールである」ということとは区別すべき事柄だ、というのが、乙字の議論の眼目であったわけである。

では、それがルールかどうかはさておき、季題の本意にしたがうことは、どのような理由から正当化されうるだろうか。

「本意を踏まえるかどうか」問題は「季題趣味とは何か」という問題についての、「空想趣味」の立場から考えなくてはならないだろう。「空想趣味」は高濱虚子の初期の立場であり、正岡子規や河東碧梧桐らの「写生趣味」と対になる。つまり、実際の季題の写生を重視し、その歴史的情緒を軽んじる写生趣味に対し、写生をするにしても文学史的に構成されてきた季題の連想、言い換えればお約束を踏まえ、その力を借りるのを重視するのが、「空想趣味」である(高濱, 1974)。季題は「フィクションの世界、秩序の世界」で成り立っており、そのイメージを通すことによって現実を詩的に認識する(山本, 1977)、という山本健吉の考えもこれと近いだろう。

しかし、虚子と子規・碧梧桐の対立は「どのような趣味の選択が文学としてより豊かであるか」という美的態度の問題にすぎない。じじつ、虚子は自由律や無季の句は俳句でないと主張したが、自由律以前の碧梧桐の句がルール破りだとは言っていない。「歴史的に構成されてきた季題のお約束を引き受ける」ということは創作態度の問題であって、そこから直ちに「そのようなお約束を引き受けることが俳句のルールだ」という規範に到達できるわけではない。

もしかすると、「俳句は、歴史的に構成されてきた日本文学の世界観のなかで遊ぶ、言葉の遊戯だ」という俳句観を説得的に打ち出せば、「季題の本意に従うのは俳句のルールだ」という主張を直接正当化することもできよう。ただ、そのような俳句観を正当化する議論を組み立て、検討するのは、本稿の目的を大きく超える。ここでは、伝統俳句の総領たる虚子はそこまで言っていないこと、山本健吉は季感不要論を述べるにまで至ったことを指摘しておきたい〔註2〕。 

筆者自身は、季題の本意は意識しつつもルールとは見ず、自分の季感を第一にと心掛けている。本意に従うのをルールと見ることで、季に対する感受性の鈍りを恐れる。他者の句の季題の扱いは、季感でも本意でもそれ以外によるのでも、結局は詩語として機能していればよいのでは、と考えている。

(3)歳時記は俳句のルールブックである。

(1)(2)両方の意味で「季語はルールである」と認めたとしても、「歳時記は俳句のルールブックである」とは言えない。たとえば「歳時記が季題の本意を踏まえない句を載せていいかどうか」は、季の詞に関する見解の相違ではなく、あるべき歳時記の姿についての見解の相違であろう。

(3)を主張するには、ある歳時記を正当なルールブックとみなす基準は何か、という問いに説得的に答える必要がある。そのような基準を考えなければ、たちまち「主義主張の異なる人は異なる歳時記を使えばよい」といったセクト主義に陥るだろう。かりに、現代俳句協会の人は『現代俳句歳時記』を、伝統俳句協会の人は虚子編『新歳時記』を、俳人協会の人は角川文庫の『俳句歳時記』を使えばよい、というのでは、ルールブックとしては権威がなさすぎる。

しかし、「どのような歳時記がルールブックとして正当か」という基準を出そうとすると、特定の思想の歳時記の帝国主義に陥る可能性も生じるだろう。というのは、歳時記の正当性・正統性が編者の権威の問題にすりかわり、そのために不当な仕方で排除される歳時記が生じる恐れもあるからだ。かりに、虚子編『新歳時記』を絶対視すれば、角川文庫『俳句歳時記 第5版』はルールブックとしての正統から排除されてしまうだろう。『俳句歳時記 第5版』は、季語の分類や本意を重視するというひとつの見識を示した良書である。たとえば人事の「息白し」を引けば、「季語としては人間の息についてのみいい、馬や犬など動物については使わない」と注記してある。しかし、虚子編『新歳時記』は「季題を時候・天文・ 地理・人事・動物・植物等に分類することは……子規をはじめとするもので、爾来この季題排列法は殆ど慣例のやうに歳時記に踏襲され来つたのであるが、之は畢竟索引上の便宜が主となるもので作句上には何の必要もなく寧ろ甚不便なものである」(同書「序」)と季題の分類を批判し、月別の編集を採用している。「息白し」の項には「大氣の塞冷に逢つて、殊に朝夕なと人畜の呼氣が白く見えるのをいふ」とある。ほかの歳時記も虚子の解説の影響か、平凡社『俳句歳時記』も「動物がほうほうとそれぞれの口で白い息を吐いているのは、生きているさまが原始的に出ていて面白い」(山口青邨)。『カラー図説日本大歳時記』では、「豊かな大きい白息の馬、ほのかな白息の女性などそれぞれに生きている相である」(山田みづえ)。はっきり人間以外の息についても認め、また、動物の白息の例句も少ないながら掲載されている。しかし「季題分類は便宜上のもの」という虚子の思想に反しているという理由で『俳句歳時記 第5版』を排除するのは、不当であろう。

筆者は、ルールブックの正当性をチェックする基準は「それが公正性と透明性が確保された手続きで制定されたかどうか」だと考える。つまりルールブックは成文法であるから、慣習としての約束よりも重い。それゆえ、全俳人に強制力をもつルールブックとしての歳時記を真面目に作るなら、公開草案、パブリックコメント、公聴会、資料開示など、策定の公正性と透明性が確保された手続きが要る、ということだ。

しかし、このようなルール制定手続きを歳時記に要求する人など誰もいない。それはつまり、「歳時記はルールブックである」という言説は実際のところ比喩以上のものではない、ということだろう。たとえば最近の歳時記の「(一般的に用いられない言葉遣いである)『夏痩せて』『夏負けて』は使わない」という記述がほんとうに強制力のあるルールだとすれば、それは俳人共同体のなかで討議のうえ、決め直すべき事柄である。だが、俳人協会や現代俳句協会の総会でそのような議題が諮られたという話は聞かないし、そのような手続きがないことを問題視する必要もない。「歳時記はルールブック」とほんとうに大真面目に考えている人は、多分いないのである。

もうひとつアイデアを出したい。どうしても季題の運用について何か基準を定めるなら、強制力のないガイドラインを制定するのはどうだろうか。たとえば「常用漢字表」「表外漢字表」にならった「常用季題表」「表外季題表」を俳壇で討議のうえ制定するわけである。こうすれば、「秋深む」「夕焼けて」「夏痩せて」のような言葉は普通の日本語から乖離しているからルールブックに載せるべきではない/載せてもよい、という議論も収束するだろう。(日常の言葉として死語に近い季題は少なくないが)日常語で使われないとか文法上一考を要する言葉は基本的にすべて「表外季題表」に入れ、〝「常用季題表」を基準とするが、それは表現上の自由を束縛するものではない〟と但し書きしておけばよいのである。ただし、このようなガイドラインがほんとうに必要なものかは、筆者自身わからないのが本音である。

◆結語

以上、「季語はルールである」と言われるときの、しばしば混乱しがちな三つの点について考察を試み、筆者自身の見解を付した。筆者自身の作句は有季・定型大原則であるが、(1)以外の意味で「季語はルールである」という主張を行うことは留保した。読者諸氏からのお教え、ご見解も伺いたい。拙文が議論の端緒となれば幸いである。


〔註1〕「季題」の用語は「季の題を主題として詠み込む」という作句スタイルを含意すると見る人もいるが、「季題」の語にこだわった虚子は、季題は一句の主題でなくて良いとしている(高浜, 2009, p. 64)。
〔註2〕たとえば(「純粋俳句」山本, 2005)を見よ。

【参照文献】
大須賀(1921)大須賀續『乙字俳論集』, 乙字遺稿刊行会.
荻原(1973)荻原井泉水『自然・自己・自由』, 勁草書房.
神野(2018)神野紗希「季語はルールじゃない」『俳句あるふぁ』2019冬.
高濱(1974)高濱虚子「俳話(二)」『定本高濱虚子全集第十巻』.
高浜(2009)高浜虚子『俳句とはどんなものか』, 角川ソフィア文庫.
山本(1977)山本健吉『最新俳句歳時記』, 文春文庫.
山本(2005)山本健吉『俳句の世界』, 講談社文芸文庫.

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