【週俳4月の俳句を読む】
まんぢゆう
浅川芳直
新旧のふらここ代表の競詠、楽しく読ませていただいた。
二人とも、奇しくもまんじゅうを素材に作句しているので比べてみよう。
ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり 横井来季
上顎にまんぢゆうの皮朧月 姫子松一樹
二句の違いは、二人のアプローチの違いをよく表しているようだ。横井の作品は、対象のネガティブな変化に目を向けそれを強調している。一方の姫子松は、ネガティブなものにもプラスサイドから光を当てている。しかもまんじゅうに対しているような方向性は、二人ともそれぞれ一貫しているのだ。
まず横井作品から。
母校燃やす煙よ凧と軋みつつ 横井来季
眠りかたを毎夜忘れてしまふよ菫 同
春暑し吐き気は眼窩へと集ふ 同
「母校燃やす」の句など、普通なら感傷的に詠みたくなってしまうところ。学校行事の焚火などではあるまいが、どこからか流れてくる煙を比喩的に言っているにせよ、想像上の景色にせよ、「凧と軋みつつ」と思いきり突き放している。無造作に置かれた季語が何とも言えない虚無感を出している。「眠りかた」の句、菫はどこか儚さを感じさせる花であるが、中七までの不安定な感覚をさらに強調するような配し方である。極めつけは表題句の「春暑し」の句。中七以降の強烈な感覚をいっそう苦しくするような季語の配置と言えよう。まとめてしまえば「重くれ」志向と言えるだろうか。生の身体感覚というよりは、むしろ「眠りかた」「吐き気」などの「感覚の名前」を「忘れてしまふ」「へと集ふ」などの景の定まりにくい語彙に載せて効果を挙げているのを面白く読んだ。
ところでタイトル「吐き気」にも触れておきたい。筆者の感じた面白さの裏返しではあるが、強烈な身体感覚としての「吐き気」そのものを浮き上がらせる句群という印象は持たなかったからである。横井は「奎」17号(2021年3月)のリレー連載「高校生・大学生が読む俳句入門書」で秋元不死男の『俳句入門』に触れ、「読者が読んだ際に、読者の中で句に表れた感覚が湧き出すような」写生に俳句が目指す写生の方向を見ている。その意味で、今回の「吐き気」というタイトルは作者の志向を直截的に表現したものだが、キモの部分をタイトルで明かしてしまっていると言えなくもない。古畑任三郎や刑事コロンボ流の倒叙式のタイトル付けということだろうか。
一方、姫子松の作品は、今回は「軽み」志向か。
伊賀焼のみどりひとすぢ春の雨 姫子松一樹
姫小松は、「感覚」の方に軸足を置く横井とは対照的に、「感情」を伝達するのに長けているようだ。もう一押しの強さを季題で演出する横井の作と比べるとインパクトには欠けるかもしれないが、「みどりひとすぢ」の鮮烈さがこれしかないというほどに感じられる。春の雨というととかくやわらかい語感があるが、伊賀焼を通して、雨の筋の奥に広がる別の世界へと繋がっていくような感覚すら覚える。
卒業や粉いつぱいのチョーク受け 姫子松一樹
しばらくを地にくつついて石鹸玉 同
微妙なところを捉えている。「粉いつぱいのチョーク受け」。できれば近寄りたくない。雑然とした教室のパーツである。また「しばらくを地にくつついて」というのも、低空飛行とか、土下座を連想するようでネガティブな表現と思われる。ところがどちらの句も、「卒業」「石鹸玉」という季題によって、受け手はプラスサイドからこれらの表現を受け取る驚きを手にする。何も言わないが希望を感じさせる向日性で、読んでいてこちらもうれしくなる。
さて、まんじゅうの句に戻る。
ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり 横井来季
上顎にまんぢゆうの皮朧月 姫子松一樹
こうして見ると、横井のまんじゅうの句の季語の「ボートレース」は、一見わからないけれども、「濡れ」を強調するという意味では、ごく自然な選択であったように感じられる。一方また、姫子松の句は、上顎にくっつく居心地の悪い感覚を朧月のしっとりとした質感に転換してしまう。季語によってマイナスサイドをプラスサイドに転換する特徴がよく出ている、と言えようか。
興味ある事実を俳句にするとき、私自身は、季感の浸透、主観の内燃、どちらかは欲しいとつねづね思っている。横井氏の句の内側の詩魂の燃焼に対して、「ボートレース」は春の季感というよりは、錆びついた橋の上の空気感などにも反応する作者の鋭敏な詩性を感じさせるし、姫小松氏のしっとりとした朧月と上あごの感覚の一体感は、俳句らしい捉え方ではないかと思う。冒頭「横井の作品は、対象のネガティブな変化に目を向け強調している。一方の姫子松は、ネガティブなものにもプラスサイドから光を当てている」と書いたが、ひょっとすると季題の扱いも関係しているのかもしれない。
東北の地から、お二人の活躍に注目しています。
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