【週俳4月の俳句を読む】
その月の感想4
瀬戸正洋
卒業や粉いつぱいのチョーク受け 姫子松一樹
粉いっぱいのチョークとは、思い出のことなのだと思います。寄せ書きでいっぱいの教室の黒板をイメージしました。ともだちへの思い。教師への思い。よい思い出しか浮かんでこないことが不思議なことです。粉いつぱいのチョークの仕業なのかも知れません。
伊賀焼のみどりひとすぢ春の雨 姫子松一樹
伊賀焼でもありません。春の雨でもありません。みどりひとすぢとは、にんげんのことなのです。みどりひとすじであるとは、どう生きていくべきかを考えることなのだと思います。
身の内に海光満ちて若布干す 姫子松一樹
若布を干しているうちに力がみなぎってきました。「海光満ちて」という、大きくてつかみどころのないものには、不思議な作用をする力があるものだと思いました。
上顎にまんぢゆうの皮朧月 姫子松一樹
上顎に何かが付くと息ができなくなるような錯覚に陥ります。薄いまんぢゆうの皮ぐらいなら何とかなるような気もしました。上顎というと何か余計なもののような気もします。まんぢゆうの皮とぼんやりとかすんでいる朧月とは、似通っているような気もしました。
諸子釣る婚姻色のひかりかな 姫子松一樹
繁殖期にだけ出現するからだの色のことを婚姻色と言います。子孫繁栄のためには必要なことかも知れません。これは、理性を失う危険な色です。これは、あらゆる生物に訪れます。諸子とは、川や湖に棲む小魚で、もともとは琵琶湖の固有種なのだそうです。
田の水の泡の纏はる春の鮒 姫子松一樹
春は鮒も諸子も繁殖期です。乗込鮒ともいうように繁殖期とは危険な季節なのです。生物にとっては大事な季節ですので、危険と隣り合わせであることは当然のことなのかも知れません。田の水が纏わることなど、たいしたことないのかも知れません。
蟻穴を出づれば荷物届きけり 姫子松一樹
目的が異なっていても、何らかのアクションを起こすと、思いがけず、全く偶然であるにもかかわらず、求めていた結果を得ることがあります。不思議なことかも知れませんが、誰もが経験していることだと思います。とにかく、蟻のように動き回ることも必要なことなのかも知れません。
しばらくを地にくつついて石鹸玉 姫子松一樹
そのように見えたということなのだと思います。石鹸玉は、何かに触れれば消えてしまいます。数多くの石鹸玉が風といっしょに地表を流れていきます。そのように見えた石鹸玉がひとつぐらいあったとしてもいいのかも知れません。
義士祭帰りに友の家に寄る 姫子松一樹
節義の厚い者のことを義士と言います。節義とは、志を変えず、人としての正しい道をかたく守ることです。人としてあたりまえの事をすればいいのです。コロナ禍の世の中を眺めていると感じることがあります。急に、虚しさに襲われたのかも知れません。
春ショール鉄棒に掛け逆上がり 姫子松一樹
春ショールをどうすればいいのかということなのだと思います。逆上がりをしようとすれば、春ショールは、確かに、じゃまなものです。そのじゃまなものを、鉄棒に掛けました。非常に、合理的な処理であったと思います。
母校燃やす煙よ凧と軋みつつ 横井来季
固いもの同士が強くこすれあって音を出すことを軋むといいます。大切な思い出があるから燃やすのでしょうか。不快な思い出があるから抹殺したいのでしょうか。ただ、煙も凧も軋みながら流れていくだけのことなのだと思います。
眠りかたを毎夜忘れてしまふよ菫 横井来季
誰も眠り方など自覚していません。眠りとは、自然に就くもので、その方法など覚えておく必要などないのです。精神的にも肉体的にも健康は大切なものです。菫は眠りかたを教えてくれるものなのかも知れません。菫は安眠を象徴しているものなのかも知れません。
火酒叩くなづきの部屋を一つづつ 横井来季
火酒と炭酸を半々にショツトグラスに入れて、そのグラスを叩きます。それをショツトガンと言うのだそうです。叩くと、それだけで、泡が出て火酒と炭酸とが混ざり合います。なづきとは、脳髄のことです。火酒が五臓六腑に沁みわたっていくように、脳髄のすみずみにまでも沁みわたっていきます。
ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり 横井来季
ボートレースを観ていたら、THE BEATLESの「LET IT BE」 のメロディーが、ラジオから流れてきました。まんぢゆうが、濡れようが、朽ちようが、もうどうでもよくなりました。
付箋剥がれかけゐる陽炎の出口 横井来季
付箋とは、メモ書きを一時的に、書籍などに貼り付ける紙です。もしかしたら、「紙」ではなく「神」であるのかも知れません。そうであるなら、剝がれかけていることは、もっての外です。陽炎の出口ですので、付箋をしっかりと貼り直すべきであると思います。
夕焼の模様に渇く春田かな 横井来季
夕焼けの射しているところの春田が乾いているということなのだと思いましたが、「渇く」とありましたので違うのかも知れません。「渇く」とは、のどが渇く愛情が渇くといった意味に使われます。春田とは、畦づくりの済んでいる田、田起しまで終っている田、等々いろいろありますが、これからの田のことです。春田とは、作者自身のことなのかも知れません。
小銭入れて自販機光る春の泥 横井来季
視線は下を向いています。小銭の投下口から、取り出し口、足元と。春のぬかるみの中を歩いて来たのです。小銭を入れた瞬間、自販機は全力全霊で感謝の意を表します。にんげんは商品をつかむと胸を張って自販機を後にします。
ハンドルに脚かけて寝る花見かな 横井来季
花見とは身構えてするものではなく、慌ただしい暮らしの合間に、ふと訪れるようなもの。そんな気がしてきました。
アイマスク超しに障子の蝶がうごく 横井来季
アイマスクにしてもマスクにしても、正しく使用することは至難の業なのかも知れません。障子の蝶がうごいていることが見えてしまってはいけないのです。もしかしたら、正しく使用することへの批判なのかも知れないと思ったりもしました。
春暑し吐き気は眼窩へと集ふ 横井来季
吐き気を催すのは胃であると相場は決まっています。もしかしたら、視力に障害がきたすほどの激しい吐き気なのかも知れません。あるいは、吐き気の原因が視覚から来ているものなのかも知れません。春も終わりの好天にめぐまれて気温が上がってしまった。そのことが原因だったのかも知れません。
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