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2026-07-19

もっと時間のかかる俳句 井口可奈 工藤吹  大塚凱 生駒大祐

もっと時間のかかる俳句


井口可奈
工藤 吹
大塚 凱
生駒大祐

(『ねじまわし』第10号より転載)

時間のかかる俳句≫読む 

 

 一

前号に続いてですが、変わって今回の出題者は大塚です。よろしくお願いします。

 あとに「一枝」とか、「一匹」とか名詞がつく形もあるし、「一二片」とか「一二倍」みたいに続くこともあり得るから、まだわかんないですね。あと「一緒」とか熟語的につく場合もあるから難しいな。そういう計算をしてもたぶん当たらないけど。

 じゃあ次行きますか。

 一瞬

井口可奈(以下、可) 一瞬か。

 次、助詞が来ると思うんですよね。「一瞬間」とかにはならないから、一瞬に、〈一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子〉とかもありますけど。「一瞬に」なのか「一瞬の」とか「一瞬で」とか。

工藤吹(以下、吹) うん。上がしっかり五音だなって感じ。

 うん。そうですね、たしかに。あんまり、字余りしてなさそう。

 一瞬よ

 おー、「よ」か。切れがきたね。

 「一瞬よ」って入りとして壮大な気がします。

 あ、でも、「一瞬より」とかって可能性もあります?

 ありますけど、ちょっとオッズは高めかな?

 「一瞬より」、万馬券になるぐらいの感じがする。

 最後は、倒置で来ると思うんで。最後の文字は「〜は」とか「〜も」とか。でも、「一瞬より」もなくはないな。

 今の段階だとありえる。

 あります。ありえる。生駒さんの言ったことが「一瞬よ」だったら下五の最終音が「〜も」とか「〜は」かっていうのは、すごく良いフォーメーションの買い目だなと。

 ここで切れてるとしたら、「一瞬」をちゃんと「一瞬」として楽しもうっていう気概を感じられるので、意外と手堅いやり方の人なのかなって感じがします。

 そうですね。あんまり、なんだろう、本当に印象だけですけど、前衛の人はあんまりこういうやり方をしない気がする。伝統系の結社の書き手の可能性も全然ある。次に「り」が来るか、別の全然わからん名詞とか語頭とかが来るかによって、結構句の雰囲気変わるな、これが。

 一瞬よ紀

 あはは。

 「一瞬よ」が上五というのが確定でいいでしょう。

 うん、いいと思う。紀元前の紀ですね。

 そうですね。でも紀元前の紀とかだと、上五で時間感覚の話をしてるんで、自然とつながりができるのでけっこう確率高いんじゃないですかね。

 時空の話ですもんね。

 壮大になっていきそうな。

 遥かなるものも一瞬に過ぎないみたいな方向に行き得ますよね。

 「紀」の一字だけで遥かなる感じはします。

 うん、もう遥かなる感じする。

 俳句でよくあるのがなんか、明確な言葉は浮かばないですけど、「一瞬よ紀◯◯も◯◯も」って言って、で下の「◯◯も」に「初秋も」とかって季語を持ってくる、あるいは本当に瞬間を感じさせるような季語を持ってきておいて、上の方は壮大なことを言って、それはどっちも一瞬だよって、僕だったらそういう作り方しちゃいそうな気がしちゃいますね。でも違うかな、なんか「一瞬よ」って一言だけで、あんまり想像つかない。

 一瞬よ紀貫

 あー! 「紀貫之」か。

 人名だとしたらやっぱりすごく長い時間の話になりそうな気がする。

 そうっすね。そうなると話変わってくるな、ちょっと(笑)

 えー、まってー。 ちょっと。 難しい……(笑)

 いま、「紀貫之」だと長くなるって言ってたところの意図を、もうちょっと教えてもらってもいいですか。

 あ、えっと、昔の人だから「紀元」みたいな語があることとあんまり効果が変わんないんじゃない?と。この時間の長さを想起させる方向に行くのかなと思いました。

 まあ、古人ですもんね。

 うーん。ここに、例えば、「紀貫之」が入ってきたとして、割と文字数、「紀貫之」に持っていかれません?

 確かに6文字あれば、とはいえ助詞でなんとか。

 助詞しかないですよ、絶対ね。その場合、なんかこの雰囲気的に、無季ってことはなさそうな気がするから、その場合「紀貫之の◯◯は」とか「◯◯も」かな。ちょっとこれ、次が「之」だった時点で、季語を当てに行きたいな。

 一瞬よ紀貫之

 確定演出だ。

 まあ、「の」だろうな。

 そう、私も思ったもん。

 皆さんどうですか? 「の」の単勝買いって感じですか?

 「の」の単勝。応援馬券でもう千円くらい。いや、でもここで季語を予想して、馬単を狙いたい。

 ここで考えたい、僕は。結構考えてる。紀貫之……「も」はないよ。「紀貫之」が「一瞬」って言わないから、「の」なんだよ。紀貫之の、なんちゃらは、とか、なんちゃらも、なんだよな。

 たぶん、「土佐日記」の人だから、なんか、季語はモノじゃなくて季節に重心が寄りそう……。

 そう……ですね。

 季語で終わるパターンなんですかね。紀貫之の、なんとかの夏みたいな。わかんないけど、それもありそう。

 あー、ありそう。

 季節って予想できます?

 合っていそうかは別にして、予想はご自由に(笑)

 予想はできるか。絞れなくていいなら。

 ……「梅」じゃないですか?(笑)

 あーでも、「梅」って言われたらなんかそれ……。

 花の和歌が有名だからスタンダードに行くのかなという、そういう予想です。

 一瞬よ紀貫之も

 あー、そう。え、生駒さんの読み、いいのかもしれない、構造的に。「◯◯も」?

 「◯◯も◯◯も」。でも「紀貫之」が「一瞬」ってわかんないな。なんだろう、あー、でも、季語の付け方次第でわかるのかもしれない。

 「の」じゃない。ハズレ馬券だ(笑)……思った方向性じゃなさそうですね。

 すごい、俳句的に言えば多分「紀貫之も◯◯も」なんですけど、なんだろう、別にそれ以外も当然あり得る、全然あり得るから……「一瞬よ紀貫之も言っている」とかそういう、わけわからんことも。

 わかんないけど、わかんないけどそういう……ね(笑)

 「も」を並列の「も」じゃなく、「紀貫之も見た梅の」とかなんか、そういう系もあり得るかな。いやむしろ、なんかそっちに行くのかな。「紀貫之も◯◯も」とかしちゃうと、「紀貫之」が「一瞬」って、ちょっとよくわかんないから。時間を意味する季語を持ってきつつ……。

 逆に「風」とか? 「一瞬よ」は機能する気がする。

 大きなものというか、実体があるというよりは、存在はするけど具体物ではないようなものが来るようなイメージでいます?

 今はそんな感じもあるなと思いつつ、「紀貫之も」だと、「紀貫之」が時間の長さ的な部分を担保するんじゃないかと思って。風とか物とか、「はっきりとした一日」みたいな尺で、もうちょっと短めの何かが来そうだと。

 「紀貫之」でバキッと固有名詞が来てるから、もう一個名詞みたいなのが来るなら、ちょっと広いところの方が私も面白いかなと思いますけど。

 井口さん的には仲良くできそうですか? 今のところ、どうですか。(注:前号p40参照)

 いや、「紀貫之」とか言う人はダメかな(笑)

 マウントを取られる感じですか?(笑)

 はいはい、ってなっちゃうかもな。

 一瞬よ紀貫之もら

一同 ら!?

 でも紀貫之は紀貫之だから、「ら」で始まる……なんだろうな。要は、「も」で切れて五七が切れてるのは前提だと思うんで。にしても、「ら」? めっちゃおもろいじゃん、これ。

 ひらがなの「ら」ですか?

 ひらがなの「ら」です。

 ひらがなの「ら」なんだ。 「落雷」とかならわかるけど、ひらがななんだよなと思うと……。

 そうそうそう。そうなんだよね。

 なんだろう、これはさすがにここまで来たらちょっと、探りたいな。…………ひらがな? 本当?

 そこ一回疑いません? え、ひらがな?(笑)ってなる。

 むずい。

 だんだん、ゲシュタルト崩壊してくるね。

 あ、分かる、めっちゃ分かります。

 ラ、ライオン……は季語じゃなかった。なんだ、難しい。

 あー、季語が入ってくるとしたら……「ら」?

 らっきょう?

 まあ、らっきょうは、ギリ、季語。

 らっきょうって季語なんですか?

 紀貫之とらっきょうを並立するのめっちゃ面白くないですか(笑)

 ある意味いいかもしれないけど(笑)

 なんかもう、ひらがなの「ら」っていうのが念頭に、あると……。

 平仮名はそうですよね。花が落ちる「落花」は季語だけど、ひらがなによって書かれるのはほぼないから、たぶん違うし。むずいな、ひらがなは意外だな。……え、むずい。急にわかんない。

 めっちゃむずい。

 一瞬よ紀貫之もらつ

 あ、「らつきよう」ありうるな。

 「もらつた」とか? 紀貫之をもらうの?

 (笑)

 どうしよう。

 貫之をもらうってどうするんだ……。もらえたら嬉しい気がしてきた。

 でも「一瞬よ」で絶対下五に落ちる句になるはずだから、仮に「らつきよう」だとしてもわけわからんから、なんか。

 わかんないな。本当に難しい。

 え、マジわからん。

 「一瞬」がちょっと跳ねてる音だから、「つ」もちっちゃい「っ」だと思うんですけどね。

 なるほど。

 そもそも「らつ」で始まる言葉って季語とか抜いておいても、あんまないですよ。「辣腕を振う」の辣腕くらい。

 確かに。

 助詞の省略? 「も」の前に、「紀貫之から」の「から」が省略で、「からもらった」みたいな意味? もうわかんない!

 「ら」で急にわからなくなったな。なんかでも、紀貫之自身の生涯が「一瞬」っていう可能性もあるし、紀貫之の歌なり日記文学なりを一瞬で読んだよっていうことの可能性もあるから、なんかそういう「らつ」の次第で、どういう読みもあるようなって感じですかね。「らつ」はマジでわかんない。

 そう、面白い読みがやっぱり収束しないですね、まだまだ全然。

 一瞬よ紀貫之もらつき

 来た! よしよしよし!

 完全に最後の直線に入ったときの声出てましたね(笑)

 来ましたね。

 「らつきよう」の可能性がかなり出てきているぞ。

 いや、でもここから「ラッキー」とか言われてすべてが終わってしまう可能性もある。絶対仲良くなりたくない。

 マジ「ラッキー」やだな。「ラッキー」は割と嫌だな。

 一瞬よ紀貫之もらつきよ

一同 あー。

 本当そうじゃん。

 すごいな。

 意味がまだ全然わからない……。

 え、めっちゃ面白いけど、意味がわからない(笑)

 旬とか時期の話なんですかね。

 そうなんですかね。そういうことなんでしょうね。あとはなんか、美味しいらっきょうすぎて、一瞬で食べたよ、みたいな。

 酢漬けにするから、持つ気がするけどな。

 持つとは思うんですけどね。あんなに作ったのに、食べるのは一瞬で……という、らっきょう自体はそういうものではあるなとは思う。そこから紀貫之に最後、逆にかかっていく感じなのかなと思って読んでましたけど。

 誰なんだ、これは。

 確かに誰だろうね。これ作者名も一文字ずつ開く感じですか。

 ですね。では、一気に最後まで開けましょう。

 一瞬よ紀貫之もらつきようも

 生駒さんはどこらへんの書き手だと思いますか?

 えー……あ、でもね、意味は捉えにくいが、なんだろう、結構伝統寄りというか、俳人協会系の結社の人だと思っていて、その根拠は、結局……さっき凱くんが言ってくれた読みだと、らっきょうを寿いでいるというのかな、すぐ無くなるぐらい良かったよっていうのを言ってるので、そういうふうな、なんか、季語を大切にするやり方は俳人協会系だから……で、かつ、あんま「澤」っぽくないんだよな。「澤」っぽくないし、いろいろ無理矢理さはあるんだけど、なんか。鷹っぽい。と思ってます。小川軽舟さん。鷹っぽい。と僕は読んでます。でも、人まではまだ分かんないです。

 じゃあ一文字目開けます。

 一瞬よ紀貫之もらつきようも 永

 「永」って誰だっけ。

 「鷹」で「永」って言ったらもう、永島靖子さんですけど(笑)

 あ、そっか。じゃ、合ってんじゃん。

 いや、永島さんではないです(笑)言っちゃいますけど、永島さんじゃないです。

 じゃないんだ(笑)

 あ、永末恵子さん?

 あ、正解です。そう。

 一瞬よ紀貫之もらつきようも 永末恵子

 じゃあ僕の読みは結構外れてて、そういう系か。ちょっと、なんだろう、詩的飛躍みたいな切り口が多分、本筋の意味なんだろう。

 「らつきよう」当てたのすごくないですか?

 いや、すごい。

 最近はじめた競馬が役に立っている。

 工藤さんの推理は終始、鋭いなと思いました。

 めっちゃ鋭いっすよね。

 俳句の知識が、初めて読んだ歳時記とかに依存している感じがします。かもしれないで適当なことが言えてしまう。

 まあ、歳時記って狭いですからね(笑)

 うんうんうん。

 「◯◯も◯◯も」の構造を当てたことは想像の範囲だったんだけど、その時のモードがなんか、もうちょっと理がつく感じの句を想像してたから、作者名出て初めてちょっと「紀貫之」のニュアンスがわかったというか。必ずしもめちゃくちゃ真面目に「人生が」とか言わなくて、とらえなくていいんだっていうのがやっぱり作者の名前つくとちょっとわかるな。「紀貫之」の想起させる、象徴する何かが一瞬で、「らつきよう」の想起させる何かが一瞬で、それぐらいの理解でいいんだっていうのは、なんか名前ついてわかったという感じがしてます。

 生駒さんのは、展開予想は合ってたけど、買う馬間違えたみたいな感じでしたね(笑)

 そうです、そうです。

 全部読んでもまだそこまで飛躍か分からないのが個人的にはあって、とはいえやっぱり俳句って四季を書き出す詩型だから、そこの制限の影響が一番ある気がします。「旬よ」って言われたら「何着てもおかしくないぜ」みたいな気持ちに、全部納得できちゃいそうな気が。その人のやってる連想ゲームが分かる気がする。

 納得します。井口さん的にはどうですか。

 句の全体の意味じゃなくて恐縮なんですけど、「一瞬よ」の「よ」って詠嘆じゃないですか。で、女性の喋る時の口調みたいな「よ」ってあるじゃないですか。あれと詠嘆の「よ」が似てるっていうか、同じような使われ方をするっていうのが最近ちょっと面白いなと思ってて。この「一瞬よ」は多分詠嘆だけど、これも難しい話をしてしまうと、話し言葉の「よ」にもとれなくはないっていうか、その感じってすごい、なんでしょう、面白いと同時に……ちょっと思ってます、最近。

 この句の場合には、詠嘆としての「よ」よりも、話し言葉的なモダリティ、ちょっと女性的なモダリティの「よ」で読んだ方が面白いのではないかと思っているんですよね。それは、「土佐日記」が女性の仮託で書かれたという事実が響いてくる読みとしても。

 なんか、最初は絶対詠嘆だろうって思ったんですけど、開いていく前は。全部開いていくと、なんかどっちかっていうと、喋り言葉っぽいなと思ったんですよ。で、あんまりジェンダーの話したくない、作者も女性の方なんで、そういう語尾の「よ」みたいな感じなのかなって思って、ふんふんと思ってたんですけど、なんで詠嘆の言葉と一緒なんだって思って、急に。……面白いけど、言われたらなんで納得してるんだろう、私。なんとなく納得させられるのはなんでなんだろう。なんかその並列、ちょっと面長な感じ? わかんない(笑)すごい適当なこと言ってる気がします、今。でもちょっとやっぱり面白い。あんまり「紀貫之」と「らつきよう」のつながりを考えていくと、だんだん難しいところに行くのかもしれないけど、なんとなく遠くないような気がするのが面白いかもしれないです。全く近くはない、すごい近いわけじゃないけど、なんか微妙に、ある。そのくらいの即き方はいいなと。なんとなく白いから?

 わかる。

 でもなんかそういうのもある気がするんですよね。

 なんとなくそういう微妙な即き方にちょうどいいかもしれない。意外と嫌じゃないかも。

 最初「紀貫之」でちょっと嫌がってましたもんね(笑)

 あの時は「マジか」と思ったけど、「らつきよう」をここに持ってくる人はそんなに嫌いじゃないですね。だから一句読み解く中で好きになったり嫌いになったりする。面白いですね。

 それで言うと、栗木京子の〈観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生〉という短歌も割と「一瞬よ」に近い気がするんですけど、あっちはかなり嫌なんですよ、個人的に……。

 そうなんだ!

 重くされたな、という気持ちになる感じで。ちょっと似てるなって思うけど「紀貫之」と「らつきよう」の距離感が個人的には好きかもしれない。こっちのほうがやっぱりなんていうか軽いというか。切実な問題とせずとも読める。

 「らつきよう」の歯応えなのかな、最後に立ってくるのは。

 なんかあと音の感じも影響あると思うんですよね。キノツラユキだから、キで挟まれていて、キって結構音として短めというかカラッとしてる。音から「一瞬」っていうのはちょっと説得力があるし。

 あんまりア段の音ないですよね。

 そうですね。そうですね。ラぐらい。

 ツラユキのラとラッキョウのラぐらいですね。

 うん。でも音がちょっと近いですよね。ラッキョウにもキが入ってるし。

 あ、ラとキが入ってる。

 さらに「一瞬よ」でイ音がめちゃくちゃ下支えしてる感じですかね。

 うん、そうですね。

 確かに、使ってる母音と子音はほとんど一緒なんですね、ラッキョウとキノツラユキ。全然気づかなかったけど(笑)

 そうね、そういうことか。

 これ、パスというか繋がってて。あとなんかちょっと思ったな、その「一瞬よ」の「一瞬性みたいなものが、逆に梅とか近しいものだったら、切り替えがなく「紀貫之」を読んでる感じなんですけど、「らつきよう」って、たぶん紀貫之あんま関係ないと思うんで、「紀貫之もらつきようも」っていう、違うものを取り合わせる感じの、取り合わせの速度みたいなもの自体が「一瞬よ」と、すぐに切り替わるよみたいな、そういうふうな読みもできて、そう読むとなんか、単純に語の斡旋としての「紀貫之」と「らつきよう」の取り合わせで読めるので、そう読むと結構、句が深いというか、おもろいなあって思います。

 これは、二物衝撃ってやつなんですか?

 うん、そう言っていいんじゃないですかね。

 そうですね、モチーフとしてはそう言っていいんじゃないかなと思いますけど、いわゆる、俳句の二物衝撃って言うと、大きめの季語にもうちょっと具象性のあるもの、具体物をぶつけるっていうのが割とスタンダードではあるから、「紀貫之」と「らつきよう」っていうのは、いわゆる普通のパターンではないっていう感じ。もちろん同じような詩的な力学は働いてるんですけど、まあ、裏拳みたいな感じ?(笑)(了)

二〇二四年十月二十日ZOOMにて収録

ねじまわし第10号
2025年5月11日発行
『ねじまわし』誌・問い合わせ先 819neji@gmail.com
オンライン購入先 https://819neji.booth.pm


2026-07-12

季語とは何か 岡田一実×吉川千早 〔後篇〕「俳句は祭りである」

季語とは何か

岡田一実×吉川千早


〔後篇〕「俳句は祭りである」


◆季語的な働き

吉川千早●言葉じゃない部分に含まれてる伝統ってあるじゃないですか。季語じゃない伝統のところに、その新しい言葉を乗せて運用してみて、いい感じだったら、じゃあこの先も壊さず使っていくか、みたいになるんじゃないかなと思って。だから無季から季語ができる可能性もありますよね。無季の中で使われてたこの言葉、ハイパーかっこいいみたいな。

無季ですって、その人が使っちゃえばダメですよ。でも無季ですとも何とも言わなくて、出されて、それに、なんか季節感を勝手に感じれば「じゃあ、これ俺たちの新しいお神輿にしちゃるで」みたいになるかもしれない。

岡田一実●西東三鬼の「広島や」っていう句があるでしょ。

吉川●広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼〉

岡田●でも、あれは「広島」っていうのが言うなれば、お神輿の役割を持っていて。じゃあこの、広島じゃなくて、土地だったらお神輿になり得るのではないかっていう発想もあり得るんじゃないかな。

吉川●広島だと原爆忌になっちゃうから、そこの兼ね合い、ややこしくないですか?ちょっと。

岡田●えっと。筑紫磐井の句にね、〈来たことも見たこともなき宇都宮〉って。

吉川●笑。ウケちゃった。

岡田●それは「宇都宮」が、季語的な働きをしている。

吉川●地名が季語的な動きをするなら、この話で言うなら、その地名をお神輿として採用しないのはなぜだろうってところですよね。

岡田●そう、そう、それも、ありえるよねって話。だから、あの最初にジェンガみたいなという「家族類似性」について話しましたが、季語をお神輿としない、他のお神輿を担いでいる人たちも、やはり俳句っていうものに足をかけながら、作っているのではないかな、と。

吉川●私、J-POP聴くの趣味なんですけど。その中で、その曲を作ってる人の必殺技みたいなのが三つあって。まず「東京」。次が自分の生まれ年。あと一個忘れちゃった。とにかく東京と自分の生まれ年っていうのは二大強いカードなんだっていう話をしてた時に、すごい季語っぽいって思いました。

岡田●ああ。本当だね。

吉川●上京してきた人も、上京してないJ-POPの人も「東京」って歌作りがちですよ。そうそう、あのKing Gnuのデビュー曲は「東京」の歌でした。

岡田●なるほど。

吉川●それが季語っぽいって思った。多分、東京っていう地名自体の、その歌枕的な力。

岡田●歌枕じゃん、東京。

吉川●そう。歌枕なんですよね。そう。まさに歌の枕。

岡田●下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆〉という句があって、これはまあ「雪」の句ではあるんだけども。でも、あの本歌取りする時は「下京」を採るんじゃないかね。ということはお神輿としての可能性は「雪つむ」よりは上五の方にお神輿性があると思う。

吉川●これは、お神輿は二つありますね。どう見ても。「雪」と「下京」っていうお神輿が二つが向かい合ってるっていうか、こうぶつかろうとしていて、そこに素敵が発生してますね。

岡田●お神輿二つありますね、あとね、〈柿くへば鐘がなるなり法隆寺 正岡子規〉っていうのもお神輿が二つ。

吉川●お神輿二つありますね。

岡田●うん。「取り合わせ」も、「神輿とお神輿」のやつと、「お神輿と写生」とかバリエーションがあるってことですよね。

「柿神輿」と「法隆寺神輿」

岡田●そうそう。あの、「柿くへば」の句は、「柿」っていう季語性があって、そこにまずお神輿が発生するでしょ。で、こう艶やかな、あの赤身を帯びた黄色の果物があって、食えば、っていうのは今度味が出てくる。食感が出てきて。で、順接の確定条件の「ば」。文法的に言えば、そのあと本当は「美味しい」とか「まずい」とか「甘い」とかに流れなければならないのに、なぜか鐘の音が聞こえてくるんですね。で、断定の助動詞「なり」の終止形でいったん文が切れて、法隆寺っていうものが最後に出てくることによって、でっかい歴史性と地理性が全部を包んで、柿も、鐘も、納得感を構成されるっ、ていう句だと思ってて。

吉川●これあれですね。つまんない脚本は突然忍者をだせばいい理論って知ってます?

岡田●え、なんですかそれ。

吉川●なんか映画の脚本とか書いてて、もう煮詰まったらもう忍者が乱入してきて大暴れしたで終わらせればいいっていうジョークがあるんですよ。もうそれで絶対面白くなくなるからって。その忍者ですね。「法隆寺」。

岡田●法隆寺が?笑

吉川●法隆寺が。もう最後バーンって出てきたらバーンって。で、全部を納得させてしまうっていう句だと思っていて。もっとかっこよく言えばギリシャ演劇の、あの最後に神でたらおしまいみたいな。

岡田●この句、ネットとかで見てても、本当に良さをみんなわかっているのだろうかっていう疑問が生じて。

吉川●有名すぎちゃいますからね。この句ね。

岡田●有名すぎ。だから本当はこの句の肝は順接の確定条件の「ば」なんだよね。

吉川●おお、確かに!

岡田●「くへば」ということによって構造化されて、「法隆寺」でさらに二つ目の構造化がなされている句だって。だからそれがつまり、吉川さんのいうところの、お神輿が二つ。吉川さんの論では「柿」と「法隆寺」とお神輿が二つあるんだけど、私の構造化論では「くへば」にある。

吉川●「柿神輿」と「法隆寺神輿」の間にある「ば」がこの場合すごい大事なんです。

岡田●「関節」がある、そこに。

吉川●ぶつかる瞬間がある。「だんじり」じゃん!

岡田●「だんじり」。そう。そこがね、この句の肝なのではないか、と。

吉川●確かに言われてみればそうですね。面白い句だなぁ。俳句も全然知らない頃に「子供なんとかかんとか」とかで読んで知ってる句だから「ふーん」って思った感想がずっと続いちゃう。それこそ今こういう話聞くと認識が更新されますね。

岡田●嬉しい。変な句だなって最近ずっと思ってて。だから構造化っていう言葉を使えば、この句は鑑賞可能っていうふうに思ってて。

吉川●新しい鑑賞欲しいですよね。だから。そう、私もあの、今回最終的に目指してるのはそこです。
この時評。あのそろそろまた次が発売になって、なりますので、皆様ぜひお読みください。

岡田●ぜひお読みください。私も、読みましょう! では、今日はありがとうございました!

吉川●はい、ではありがとうございました! 失礼します。

(了)

2026-07-05

季語とは何か〔中篇〕「強度」と「更新」 岡田一実×吉川千早

季語とは何か

岡田一実×吉川千早



〔中篇〕「強度」と「更新」

◆子規以後の写生と季語

岡田一実●正岡子規の時代、時代っていうか、正岡子規っていう人が「写生」っていうのも持ち込んだ時に、いったん切れたんですよね。その「本意世界」っていうのは。季語はありながら、季語を「写生」するっていう今まで大事にされてなかったことを、近代的思想を取り入れてやり始めたんですよね。だから正岡子規で、いったんその本意的なものが切れたんですけど、その後に高浜虚子がもう一回持ち出したんですよね。で、「季語はなければならない」って言い始めたその歴史的な経緯があって。で、「写生」と季語みたいな関わり方が。

吉川千早●「写生」! 写生ってまず「ぬえ」じゃないですか。「ぬえ」というか「キメラ」って柳元君が評論で書いていた(柳元佑太「写生という奇怪なキメラ」『俳句界』2022年3月号)。あれについて話し出すとみんな最後わやくちゃになりますよね。

岡田●でも季語と写生の問題って結構密接に繋がっていて、河東碧梧桐とか何とかは季語から離れていって、写生のほうに進んでいくわけですよね。五七五もから自由になって「無中心写生」っていう不思議な方向に進んでいって。

吉川●碧梧桐嫌いじゃないですけどね、私。ちょっとあわれですけどね。

岡田●いや、嫌いじゃないですけど、不思議な世界だなっていつも思う。つまり、分派があったんですよね、この時期に。

吉川●なんか進化みたい。生物の進化する時って、その正しい方に進化するんじゃなくて、あらゆる方に手出してみて、残ったやつが今残ってるだけじゃないですか。だから正岡子規の後の季語も、碧梧桐が写生のほう行ったり虚子が季語のある方に行ったりして。結局季語のある方が今残ってるだけっていうところがちょっと生命の進化っぽいです。

岡田●そうですよね。

吉川●よかった。今日岡田さんに話が聞けてすごい分かりやすくなった。自分なりに季語の本いくつか読んだりしたんですけど、でもやっぱりなんだろう、きちんと時系列入ってないんですね。岡田さんの話聞くと流れが今めっちゃ分かりました。

岡田●ありがとうございます。嬉しい。『みつゆ』とか読んでても季語あるじゃないですか。若い子たち、やっぱ季語あるんだな。この世界別に季語なくても成り立ちそうな感じだけど季語あるよね、って思った。

◆人それぞれの俳句らしさ

吉川●やっぱ、俳句の仕組みっていうんですか、構造っていうのが、二つのものが向かい合ってその時に発生するものが中心となってる。その仕組みがあらゆる所にあると思ってて。その仕組みがすごい象徴的なのが季語だから、季語があるっていうことですごく「俳句」になるっていうのは大事なんじゃないかな。俳句書くんだったら。仁平さんは季語はモチーフとかって言うけど、俳句らしさというものはある程度季語に担保されてると思うんです。俳句なくてもその世界は成り立つんだけど、俳句書くんだったらやっぱ季語はあったほうが俳句だと思うから、それはやっぱ使うんじゃないかな。

岡田●歴史的にはいろいろあって、正岡子規が「俳句」って言って、まあ俳諧から切り取って俳句を始め、始めて以降、色んな歴史があって。まあ「自由律」っていうのもあったし、「無季俳句」っていう時代もあったし、「多行」っていう世界もあったし、いまね、「口語」とかも、あるいは仮名づかいも「現仮名」だったりして色んな変遷があって、で、季語があるかないかっていうのも俳句らしさの一つではあるけど、重要ポイントじゃないと考えた人たちも歴史の中にはいて。俳句らしさって人それぞれの俳句らしさの中で、こう「ジェンガ」のように積み上がってる。

吉川●ああ。

岡田●みんながバランスを崩さないように、でもそれぞれ俳句らしさみたいなものを持ち寄って、フラフラしながら「ジェンガ」みたいに。それを「家族類似性」って言うんだけども、そう、ふらふら積み上がっているんですよ。そんなふうに俳句は今も続いているのかなと思います。

吉川●すごい生命っぽいですよね。なんていうか、そのふらふらしてる感じといい、こう残ったやつが今あるやつになっていく感じといい、なんかすごい生物の進化みたいなものを調べてる感じますね。

岡田●本当ね。進化の過程みたいだよね。私もそう思います。変に進化してんなって思います。

吉川●だから、私たちは後に残るかどうかなんてわかんないんですよね。今やってるから。

岡田●そうそう、わかんない。五七五で、本意、本情に則った季語使いで、余情のある、平明で、美的で典雅な作り方をしていたとして、それが残るかどうか不明。

吉川●そう、本当不明。

◆多様性・多元性のなかの流行

岡田●むしろ、無季が残るかもしれないし不明です。流行があって、その時の流行がドドッと来てボリュームゾーンの人たちが同じような作品を作るんだけど、それはただの流行であって複線もたくさんある。細々と流行らないことをやってる人もたくさんいて。で、時期、時代が変わるとその線が変わってくる。主線と複線が交代したりするので、流行によってね。それもなんか進化っぽいですよね。

吉川●進化っぽい。つまりいろいろ試みられてるのが大切だっていうのをめっちゃ思います。

岡田●そうなんですよ。だから「何をやったらダメ」とかって取り締まって言い始めると、多様性が削られる。

吉川●ご新規に文句言い出したら終わりっていうやつですよね。

岡田●よくありますけどね。その多様性、多元性の中で、こう、多少の流行を楽しみながらやっていくのがいい。いいというか、そんなふうにしてずっと続いてきたんだよね、という感じです。

吉川●ただ、私すごい欲張りなので、メインがあって複線があってって重々わかった上で。でもこの俳句っていうものの根本の構造の最小にして最大の仕組みは何だろうってどうしても考えてて。

岡田●メモを送ってくださって。俳句の「力学」のメモ。

吉川●そうなんですよ。今回の連載用のメモっていうか、構想のより前のアイディアノートみたいなやつなんですけど。今回時評で季語の話やって、「一物仕立て」やって「取り合わせ」やって最後「俳句本質論」書こうと思ってて。写生には行かない。そこは一物仕立てという形で書きました。やっぱり写生っていうと、もうなんか大混乱だなって思って。

岡田●「一物仕立て」ね。「写生」はわりと一物仕立て多いですよね。多いですしね

吉川●写生の「取り合わせ」とか。「や」で切るけど結局一物みたいなのも出てくる。写生って言っても色んな考え方があって。季語以外のフレーズの部分が写生とか。

岡田●必ずしも全部が写生であるのが写生とは限らないかもしれませんよね。

吉川●ああ、確かに。取り合わせた部分、季語じゃない部分が自分なりのその写生だってことですよね。

岡田●私、自分の句には結構あります。「取り合わせで写生」っていうのは。

吉川●今ありますよ。手元に『光聴』と『記憶における沼とその他の在処』2冊持ってるので。

岡田●ありがとうございます。その場の景色にあるものを書きながらその場の景色にあるもの取り合わせたりするから、「写生取り合わせ」みたいの結構あるかもです。

吉川●今例句ないかな。〈越中は湾深くあり芹なずな〉これ『記憶における沼とその他の在処』の方だ。『光聴』の方がいいかな。

岡田●懐かしいですね。

吉川●ちょっと前ですね。

岡田●『醒睡』は「無季」も入ってるので。え、よかったら無季どころじゃなくて五七五じゃないやつも入っています。

◆フリーズドライのスープみたいな?

吉川●私も無季とか五七五じゃない句も基本的に好きです。自分では力が足りないから作らないんですけど。かっこいいなって句をみます。『みつゆ』でも関灯之助さん。

岡田●うんうん。

吉川●結構無季の句書くじゃないですか。「うまいな」っていつも思うんですよね。あの季語じゃないんだけど季語的な働きをするような、つまり句に重みを出す言葉がきちんと展開されてて、うまいな、かっこいいなって思いながら読んでます。

岡田●かっこいいですよね。私もそう思います。かっこいい。無季も有季もあるんだけど。読み通したときにすべての音楽的な要素がね、ピタッとくるのがね、かっこいい。

吉川●だからこそ無季が成立させられるんでしょうね。

岡田●無季でも音楽的な要素が一つの姿として立ち現れるような感じになっているんじゃないですかね。

吉川●私は俳句はどうしてもギョムギョムしちゃうので。

岡田●え、何、何て?

吉川●なんかギューってギョムギョムって。広々しないんです。ギュギュギュってしちゃう、季語の力を借りないと開かれないのかもしれない。

岡田●あ、でもねそれは私も近いところがあって。私もわりと凝縮して書く方です。複合動詞とかが好きで、詰めて書く。

吉川●「ぬめり光り」とか使われましたね。

岡田●そう、そう。で、私の場合は一回凝縮して、読み終わった後に解放されてほしいみたいな意図があって。だから、句の中で広々してる必要は特にないなっていつも思っていて。読んだ後に解き放たれてほしいな、みたいな。

吉川●一回ギュッとするから後は読者が自分で解き放つ。フリーズドライのスープみたいな感じですか。

岡田●あ、「後は自分でお湯かけてね」みたいな。そんな感じ!笑

吉川●あれですよ、話を戻すと季語もそのフリーズドライのスープの素みたいなところありますよね。

岡田●それは本当にそう思いますね。私は「季語って、『香水』みたい」と比喩にしたりすることがあって。パッとかけてあげるっていう、そうすると句全体を包んでくれる、みたいに説明する時もある。「切字」は「アトマイザー」。上五の季語の時は、首近くに香水をかけて、最初から匂い立つようにして、下五の季語の時は、下半身の方に香水をかけて、下から匂い立つようにさせる、というふうにイメージしてます。

◆未来のバナナが変わる

吉川●あ、なるほどね、その説明分かりやすいですね。季語って、今、「過去から今への話」としましたけど、すごい未来の人のこと信じてる感じしません?

岡田●うん、それありますね、それ。吉川さんのそのランドスケープの中で、すごくすごくいい箇所だったなと思って。「未来へと、意図を繋ぐのです」ってところでしょ。ここ、すごい。

吉川●あ、嬉しい、褒められてる。

岡田●季語は常に過去、現在、未来、私たちと共に動き続けてる。ここ、すごくいいところでしたよね。

吉川●ありがとうございます。私、過去と未来を表現するのが今だっていう時間の考えでいるので。季語って常に今なんだけど、でもそれは過去のバナナだったら、その虚子とか熱帯季語とかだったっていうのを引き受けて、表現した上で、そのこれを私が今詠んだことで、未来のバナナが変わるわけじゃないですか。

岡田●うん。

吉川●足されるというか、分岐する。バナナっていう季語のこの句が詠まれた世界に分岐した先の未来のことを信じる。つまり未来ってきっとこうだよねっていうのの表現でもあると思ってるので。過去と未来両方信じてないと、「今」にならないなって思ってる。季語そうだよねなと思って書きました。

岡田●かっこいい。普通あの伝統とかっていうと過去ばっかりを参照するような感じがあるけども、これが未来への示唆まで開かれているっていう、このここが良かったね。

吉川●あ、嬉しい。褒められると本当ただただ嬉しい。お調子者なんですよ。今おでこを叩いていますよ、嬉しくて。

岡田●よかったよね、うん。

吉川●伝統って過去の伝統だけを見ることじゃなくて、未来を信じることでもあって。で、過去と未来をきちんとしたんだったら「今」を良くするしかないじゃないですか。さっきの俳句が生命の進化みたいだねっていうの。私たちが今をとにかくしっかり生きることによって、この先の分岐がどうなるかっていうのが本気でわかるじゃないですか。適当にあやふや今をやったから、分岐があやふやに消えたっていうのは、なんかこう、あんま納得できない。一生懸命やったけど無理だったっていうのは可能性を使い果たしてるじゃないですか。それだったらいいなって思ってるんですよね。

岡田●「読む」っていう行為が未来を含めている行為なので、季語にも未来があるし、俳句そのものにも未来があるなと私は思ってます。

吉川●ああ、本当にそう。

岡田●脳って予測しながら読んでるんですよね、文章というものを。その予測と自分の感覚との「差異」が起こることによって、新しいな、とか面白いな、とかって思う仕組みになっていて。それは音楽で例えるとよくわかるなと思うんだけど、メロディーが流れてくるとき、そのメロディー先取りして私たちは聴いているんだけども、その先取りしたものと違うものが提示された時に私たちは驚いて「新しい!」とか「すごいな!」って思う。これが読む行為でも全く同じ仕組みが起こっている。たとえば下五の季語とかは、読んでいて意外な季語がそこに配置されることによって脳がちょっとびっくりしちゃう。「予測と違うわ!」となるなる。そういう仕組みになっている。先取りするというのは「未来の先取り」なので。「未来を表現」するっていうところも、そこなのかも。季語が未来と共に動き続けているのと同時に、俳句を読む行為が未来と共に動き続けてるなと私は思ってます。

吉川●あ、そうですね。俳句によって未来と過去が常に、出会って、そこに新しさが生まれてるっていうイメージあります。

岡田●そうなんです。私もそう思います。

吉川●多分そこ意見一緒だろうなと思ったんです。岡田さんって「ズレ」っていうのにすごく着目されてるっていう印象があって。そのズレのできる仕組みみたいなところは私が今回考えてたお神輿と人と二つのものが、ぶつかるっていうところと一緒かなと思ってた話をしてるんです。岡田さんのその考えてるズレっていうのは、未来予測をしている、いるんだけど実際は違うっていうズレ。私なりに言うなら過去と未来の接点。接点がくっついてるんだけどズレてるっていうのが発生してるっていうところと、考え方が近いなと思って。今回話したらきっとそこはきっと同意できるぞ、二人で仲良くできるぞとは思ったんです。

岡田●そうですね。ズレの話とお神輿の話。

吉川●未来予測と実際がズレてるところに「詩」があると言ってもいいし、新しさがあると言ってもいいんですけど。

◆「強度」がないと更新は起こらない

岡田●そうですね。「認識の更新/ベイジアンサプライズ」と言ってます。「ズレ」でも構わないと思います。認識が新たになっていく。私はやっぱり「写生」のことを考えてしまうので、「写生」をしただけでは、いわゆる報告的に書いただけでは新しさは起こらないから。語順みたいなこともあるし、いかに認識を更新させるかってところに私は興味があって。だからあんまり季語派じゃないんですよ、私。認識さえ更新されていれば季語はそんなにそこまで興味がなくて。

吉川●実はですね。予告みたいになっちゃうんですけど、今回季語書いた次の「一物仕立て」に書いてるの。まさにその話を書いてるので次回もよかったらお読みください。

岡田●読みたいです! あ、でもね、私、吉川さんと読書範囲すごい近い感じがする。いつも読んでいる本が私の読んでいる本と似てるなって思って。

吉川●たぶん知りたいことが似てるんですよ。それか、世界に対して不便を感じてるところがちょっと似てるのかも。

岡田●似てる。吉川さんが読んでらっしゃる本で、「あ、それ私も読んでるわ!」とか「持ってるわ!」とか、よくあるんですよね。

吉川●そうだと思います。次の「一物仕立て」の回で、まさにその認識が更新されなければ「一物仕立てじゃない」、みたいなことを書いてるので、今話が出た時に「なんてちょうどいいんだろう」って思っちゃいました。

岡田●でもそこに行きますよね、季語の話してるとね。

吉川●行きます、行きます。

岡田●俳句って何が面白いんだろうってなった時に、認識が更新するところ、吉川さんは違うこと書いてたよね。「強度」って書いてた。そう、そう。でも私は更新派。吉川さんの「強度派」と私の「更新派」は微妙に違うのではないかとか。

吉川●「強度」が強いことによって更新されるっていう感じです。

岡田●あ、そうなんだ。

吉川●そう、だから「強度」がないと更新も起こらないから。更新これぐらいされましたねって測るのがちょっと難しいから、そのメモの「強度」だったら多少語りやすいから、そっちの「強度」で語った上で更新。「更新」というか私は「ひらかれている」っていうフレーズにしようかと思ってるところなんですけど。

岡田●うん。

吉川●その「強度」っていうのは、今説明してもちょっとややこしいんですけど。本意と本情とか取り合わせであるとか一物仕立ての、今まで読まれてきたものと今私が発見して新たに発見して更新する分。私と季語。過去詠まれてきたものと私。その向かい合いがきちんと起きていると「ひらかれ」が大きくなる、っていう形でいる。なんかこの辺ややこしいんで「連載読んでください」としか言えないんですけど。笑

そう、だから更新が大事っていうのは完全に同意です。「ひらかれ」なければ「強度」が強くても意味がない。

「ひらかれる」とは何かとなると、それは更新部分っていう話になるんじゃないですかね。ここは用語の違いでもいいんじゃないかな。

硬い言葉にすると使われづらそうっていう印象があるので、詩的な言葉にしたほうが、ちょっとかっこつけた使いやすい言葉にしたほうが、みんなに少しでも使ってもらえるんじゃないかと思って。「ひらかれ」にしました。だから更新っていう言葉のほうがみんなが使いやすいんだったら全然更新でも。ただ「ひらかれ」のほうがフワッとしてる分使いやすいんじゃないかなと思っています。

岡田●なんか少しズレてる気もするけどね。なんか、うん、「ひらかれ」と「更新」は完全には一致してない感じ。

吉川●私と岡田さんが違う人な以上、思考も違うルートをたどってるからニュアンスも違っちゃうと思う。

◆ひらかれていること

岡田●そういうことは、あるかもしれないんだけど。なんか「ひらかれ」のほうが空間的な広がりを持っている感じがして、「更新」はもうちょっと読者に閉じてる感じがする。

吉川●ああ、なるほど。確かに私すごくその物事を考える時に、アニミズムからスタートしてるからか、人間だけっていうより、読者と作者だけじゃないもっと広い空間みたいなところで考えてるかもしれません。考え事する時にいる場所がそうかも。あ、本当だ、今言われてみて気づきました。

岡田●確かに。そんな感じがするよね。

吉川●本当だ、本当だ!「更新」っていうと本当に、なんかきち、きちんとしてるっていうか読者の認識が更新されるってなります。

岡田●そうそうそう。

吉川●でも「ひらかれ」だと「この句はひらかれている」みたいな感じで主語がもっとふわふわされますね。

岡田●あ、そうだ。だから必ずしも読者を必要としてなさそうな感じもする。

吉川●本当だ。きっとこれって、その句の話だけじゃなくて、例えば師弟関係の話とかで、弟子から師の方にひらかれてるとか師から弟子にひらかれてるとか、そうやって主語を変えても使える言葉だと思いま、きっと。

岡田●空間だけじゃなくて時間的にもね、こう膨らみのある言葉な感じがします。

吉川●確かに。俳句の中で、過去から未来へもひらかれるし、今の句が過去の句を変えることもあるし。そういうのもなんかひらかれてるっていうふうに感じてるかもしれません。未来からの呼びかけもあるし。

岡田●未来からひらかれてるっていうのもありえるよね。

吉川●おー。いや、人と話すっていいですね。ほら自分だけで考えてると限界がどうしてもあるじゃないですか。

岡田●あります、あります!

吉川●本って他者だからある程度考えがひらかれるし、うちの娘とか息子にチラチラっと話してみるんですけど。やっぱりちゃんと私よりいろいろ分かってる人に話すと、いいですね。導いてもらってる感じする。

岡田●面白かったね。お神輿。お神輿っていうね、こう比喩が実に、良くて、「お祭り」なんだよね。

吉川●そうそう。だから俳句ってなんだかんだで「お祭り」なんですよね。

岡田●吉川さんの記事の比喩だとお神輿ばかりに焦点が合いそうだけど。実は「俳句そのものがお祭りである」っていう考え方が、実に面白いよね。

吉川●面白いなと思って。お祭りじゃない時に「ワッショイ」してても変ですからね。お祭りっていう場があって、お神輿っていう、伝統があって。そのお神輿の作法も含む伝統があって、そこで「いっちょやったるか!」っていう人たちが、頑張って自分ので精一杯の力で「ワッショイ」した時に、初めて成立するっていう感じ。

岡田●あと、他人にとっては、つまり、このお祭りの最中にいない人にとっては、「何やってんねん」って感じも俳句って感じがする。笑

吉川●それは、でも何でもそうですよ。生きるのに必要でないことは全部そう、多分。

岡田●そうそう。それが、俳句って感じがするよね。で、私はそういうところが好きですよ。

吉川●私もそういうとこ好き。こう、別に実用じゃないことをこうみんなで「ワッショイ」するのは楽しいし。で、それがね、いつの間にか伝統とか呼ばれるようになっちゃってね。

岡田●ずっと「ワッショイ」してきたんだよね。

吉川●そうそう。で、次の人たちも「ワッショイ」してくれるって信じて「ワッショイ」してるんですよ。

岡田●面白い。

吉川●だからきっと若い人が俳句始めましたとかっていうと、すごく嬉しくなっちゃうんでしょうね。

岡田●なるほどね。ただ、「伝統がないお神輿は、神の入れ物になりません」というのは、でも新しい季語ができた時は伝統がないお神輿かもしれないよ。

吉川●だからそのつど子供が工作で作るお神輿とかも想定してて。子供神輿ってそうじゃないですか。その都度子供がなんかダンボールで作ったりして、でもそれがお神輿になるっていうのは、お祭りっていう場と今度は反対に「ワッショイ」があるからだと思うんですよね。

岡田●うん。お祭りっていう場の中で「ワッショイ」があれば、それはお神輿だね。

(つづく)

【次回予告】
地名は季語になりうるのでしょうか。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」はなぜ名句なのでしょうか。季語・地名・取り合わせをめぐる議論を通して、二人の俳句観の違いと接点がより鮮明になっていきます。

「週刊俳句」1000号 西原天気×上田信治 対談 1000号をふりかえって〔後編〕

 週刊俳句1000号 対談

1000号をふりかえって〔後篇〕

西原天気 × 上田信治

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■ 「落選展」あれこれ

信治●「角川俳句賞落選展」も、ありました。

天気●話題になりましたね。人によって捉え方は違うだろうし、いろいろな意義も見いだせるでしょうけど、私が思ったのは、一次予選というブラックスボックスにちょっと穴をあけたという点。落選展には、一次予選を落ちた作品が多数並ぶ。『俳句』誌には通過した作品が並ぶ。比較できるわけです。

信治●たしかに。以前は、受賞作以外は掲載されなかったですからね。

天気●考えてみれば、落選作は、闇から闇へ、ですね、きほん。

信治●いまのような、候補作がいっぱい載るかたちになったのは、飯田さんの編集長の時代で「上田さんには悪いけど、今年から候補作を載せるよ」的なことを言われた記憶があります。

天気●「悪いけど」って(笑。いい人ですね。飯田さん。

信治●ただ、賞に対するアンチという意図はまったくなくて、それよりは、せっかくの50句作品なんで、人目に触れさせようよ、と。れおなさんが、『俳句』の時評的な欄で、田島風亜さんという方の50句をとりあげてくださったこととかはよかった。あと、クズウジュンイチさんがどういう書き手かとかって、落選展がなかったらみんな知らなかったと思うので、作品発表の場として、機能していたとおもいます。

天気●落選展って、たしか週刊俳句が最初ではなくて、ハイクマシーン、佐藤文香さんと谷雄介さんと信治さんの3人ユニットがまず落選展をやったんですよね?

信治●はい。はじめは、ハイクマシーンの二人にあおられて、ハイクマ全員、「角川俳句賞」と「俳句研究賞」合わせて100句で応募しよう、というアクションでした。賞に、よってたかって応募しようぜ、という。俳壇に入れてほしくて応募するというよりは、そこに我々が参加することで、勝手に自分たちのお祭りにしてしまおうと。はい、落ちましたー、こんな作品でしたー、来年はもっとみんなで応募して「落選展」で騒ごうぜという。なんていうんだろう、バカだったのかな(笑)全体として、この試み、編集部からしたら、ご迷惑でしかない。角川はよく見逃してくれていたと思います。

天気●想像するに、あくまで想像ですが、苦々しく思ってたんじゃないですか。落選展だけが理由じゃないでしょうけど、「あの週刊俳句ってやつ。なんなんだ? あれは」みたいな感じ。と、そのほうがおもしろいんですが、実際は、それどころじゃないと思います。月刊誌の大変さは、いちおう経験して知っています。『俳句』誌にとっての「外部」は、原稿依頼する(有力)俳人諸氏までで、その外側、週刊俳句も含まれますが、「大気圏外」だと想像します。

信治●「角川俳句賞」という名称は、使ってましたし、応募要項にも、その賞の応募作を、こっちに送ってくれと書いてる。正面から「やめてくれ」と言われたら、やめざるをえない。

天気●角川の対応如何、ということですね。この場合、一般的に、本家としては鷹揚が一番。狭量という印象を避けるべきですから。その意味では正しい対応。それでも落選展主催者の信治さんとしては、不安を抱えながらだったのですね。いま知りました。

信治●や、まあ、いざとなったら「ごーめーん、あやまったら、しまいや」くらいのスタンスで。

天気●それ、だいじ。

信治●依光陽子さんや仲寒蝉さん、岡田一実さん、対中いづみさん、佐藤文香さん、藤田哲史さん、谷雄介さん、生駒大祐さん、三島ゆかりさん、堀下翔さん、山田露結さんと、そうそうたる方たちに「落選展を読む」を書いていただいた。週刊俳句は俳句を読むことを大事にしてきたという自負はあります。

天気●はい、読む運動、でした、週刊俳句のそもそもが。ただ、この「落選展を読む」というのは、ほんとうに大変な作業です。50句を10作品、20作品と読んでいくわけですから。

■ 俳句の風景/やりきったみたいな言い方

信治●でね、二つの池の水位を測るの話に戻るんですが、落選展はじめたころは、「俳句」が、風土詠にすごく力を入れていたじゃないですか。天気さんが、一回だけ応募して次点になったとき受賞した方も、そうでしたよね。

天気●ああ、そうでした。調べると2006年。バリバリの風土詠でした。漁村だったかに舞台設定したような連作。次点というのは角川賞にはないので、私のが最後まで俎上に載ったということですね。ただ、あの一連の出来事は私にとって、俗に言う黒歴史。あと、それから、あのときかぎり「1回だけ」と、私も記憶していましたが、週刊俳句に落選展を見ると、その後、2回かな、応募していますね。予選を通過しなかった。

信治●天気さんは、一回目の応募で、しかもいつもの天気さんの俳句で、最終候補に残ったんで、実力見せたなという印象でした。

天気●んんん、どうでしょうか。実力はない。信治さんたちが盛り上がっていたので、それじゃあ、ちょっと付き合うか、という感じで、覚悟もなかった。自分ではあまり気に入っていない50句でしたしね。それを言うのなら、村田篠さんは、俳句研究賞の最初の応募で、いいところまで行った。黒田杏子さんに激賞されてましたし、信治さんも、角川俳句賞の選考座談会、この流れだと信治さんの50句だろう、なんで、最終的に違う作品? という回がありました。まあ、それはともかく、風土詠の話。

信治●あのころの「風土詠」推しは、自分からするとピンと来ない。内容とか素材の、俳句かくあるべしから入る方法は、ぜったい俳句の本筋じゃないのだが、ぶつぶつ……という本音はあった。

天気●本筋がどこかにあるかはともかく、メインストリームが評価してたんですよね、風土詠的なものを。いわば民謡みたいな世界、むかしのNHK「新日本紀行」みたいな世界には、私はまったく興味はないですが、俳句の主流・俳句の主成分はそうなんだろうなといった諦めはありました。

信治●で、週刊俳句をやりつつ、自分の見てる俳句の風景はこんなかんじなんですけど、ということを、10年やってるうちにですね、角川俳句賞は、予選通過作の傾向がガラッと変わったじゃないですか。そして、受賞するのが、自分たちと俳句をやってた人ばっかりになってきた。

天気●それはまさしくそうかもしれません。2007年の津川絵理子さん、2009年の相子智恵さんと、ふだんから目にする名前が受賞、2010年にはなんと山口優夢さん(望月周と同時)。少し紹介を飛ばして、2017年は月野ぽぽなさん、2018年は鈴木牛後さん、2019年は西村麒麟さん(抜井諒一さんと同時)。週刊俳句に書いていただいていた人たちが続々入賞するようになった。そして2021年には岡田由季さん。あきらかに風景が違ってきた。

信治●賞というのは応募作から選ばれるものなんで、いま、あの賞に集まって来ている作品は、かつての落選展的な、もっといえば、すごく「豆の木」っぽいものになってきてるはず。繁華街が、だんだん西に移動するっていう話がありますが、いまね、俳句のもっとも盛(さか)ってるゾーンが、ずるずる移動して「豆の木」のところまで来てる(笑)。二つの水源がやっぱりつながってたんだあということが証明されたような気がして。

天気●「豆の木」に近づいていったという把握がどうかはさておき、豆の木の人たちは、現代俳句協会系の賞は、わんさか受賞してるんですよ、こしのゆみこさん(現代俳句新人賞、作品賞)以来。

信治●「週刊俳句」を始めたころ、自分のまわりに見えていた俳句の風景って、非マジメな、言ってしまえばサブカル的なものとして、俳句をやってみようとしている一群の人たちで。でも、ポップであることが、ハイカルチャーを志向する経由地となるような俳句の事情について、書いたか話したかした記憶もあるんですが、「週刊俳句」での見聞、知見をベースに『俳コレ』を編集したのも、それで。

自分にとって、俳句は、面白とハイカルチャーを直結して、自分のバックボーンであるサブカル的なものにけりをつけるという運動でもあった。で、ネットというか、たまたま自分のまわりにあった面白い俳句と、総合誌+結社の正統な俳句、それを一つの物として扱うことは、虚子、素十、爽波、白泉、耕衣、池田澄子をすでに知っていた自分にとっては、ごく自然なことだった。それが、あっちの俳句とこっちの俳句をぜんぶつなげて扱うというのはそういうことで、だから、池をつなげて水位を測るということはやったし、週刊俳句でできたらいいな、と思っていたことは、じゅうぶんに目的を果たしたとも言えます。

天気●あれれ? もうやりきった、終わったみたいな言い方じゃないですか。フェイズ2のほうがおもしろいかもしれませんよ。例えば、若い人のこぢんまりとした同人誌や個人誌がかつてないほどたくさん出てきているように思います。いわゆる俳句ミニコミが盛大に。

信治●それって、新しいエコールが生まれているってことでもあって。たとえば「ねじまわし」の人たちが志向するところって、自分が考えていた遊びの俳句の延長線上にはない。「群青」の若い人たち、ていうか、俳句甲子園のあの世代が、いろんな場所でやっていることも面白い。「オルガン」も面白いし、結社としては小規模の「秋草」も充実してる。寺澤一雄さんの「鏡」に、佐藤文香さんと岡田一実さんがいることも、面白い。

天気●そこで、ミディコミ(中規模のメディア)としての週刊俳句は、かつてマス(=俳壇/総合誌)に向けていた注意や関心を、ミニコミに向ける。それがフェイズ2、第1001号以降の「身のふりかた」だと考えることもできる。まあ、それこそ、いまの当番のカラダとアタマとココロがどこまでもつかという話にはなるんですが。

(次回「対談余滴」につづく)

2026-06-28

「週刊俳句」1000号 西原天気×上田信治 対談 1000号をふりかえって〔中篇〕

週刊俳句1000号 対談

1000号をふりかえって〔中篇〕

西原天気 × 上田信治

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■ 水位/俳壇/独立系の野良俳句

天気●「二つの水位を測る」という話で、前回は終わりました。結果はどうでしたか? 19年経ってみて。この質問はひどく性急で、野蛮ですが。

信治●やったか、やらないかという意味では、やりました。たとえば、10句作品。この人は、という人に、依頼状を出して俳句を書いてもらう、それは集中的にやりました。それこそ俳句史に名を残すような作家にも頼むし、逆に、自分と同様の(言葉は悪いですが、あえて誇りを持って言えば)「野良」の、俳壇的には位置づけ不可能な書き手にも頼む。

天気●「野良俳人」は、私がこのところ俳句の集まりに出たときに使っている肩書きです。所属がなくなっちゃったこともあって。

信治●「○壇」というものの本質は番付で序列なんで、という話もブログか『週刊俳句』で、したおぼえがあります。

天気●はい。たびたび話しました。「壇」という以上、高低差がある。

信治●そうそう。その序列から逆算された価値体系と、関係のない発注があっていい。発注すること自体が面白いし、俳句だって、私たちの誰かがいいなと思ってお願いしてるんで面白いわけです。

天気●アーカイブの「俳句作品一覧」を眺めると、一目瞭然。たとえば八田木枯、池田澄子、主要結社の主宰から、かまちよしろうまで並んでいる。秩序無視…というんじゃないな、秩序を横目でしか見ないというか、秩序軽視というか、このあたりは、個人的になんだか爽快感がありました。つまり、伝統ある紙媒体には「それにふさわしいピラミッド型」の人選で作品が並んでいる。一方、当時のインターネットには、いわば独立系、無名、さきほどの言い方なら「野良」の人々が蝟集しているような様相。『週刊俳句』は、そうした対照・二項対立に従わなかった。そこがやっていて気持ちよかったです。

信治●はい。それらすべてに、同等の価値があると言いたいわけではなくて。ここからここまで、同時にあるのが俳句の現在だと思いますよ、というプレゼンテーション。そして、そのどこからでも、優れた作品をとりあげ、楽しんでみせる、という実践ですね。

天気●ただね、旧来の秩序や権威に属する成分を取り込む、具体的にいえば、有力作家に参加してもらうのは、やはり難しかったわけです。そこは、信治さんもそうだと思うけど、ていねいにやった。「えい、やっ」ではなく、手順を踏んで、配慮もした……つもりです。

■ 筏の漂流/オルタナ/オンラインの内部と外部

信治●天気さんの言われる「秩序」との関係という意味では、初期の『週俳』で二人でやっていた「総合誌を読む」とか「年鑑を読む」。あれも、面白かった。

天気●はい。じつは、あの《『俳句年鑑2008年版』を読む》。

https://weekly-haiku.blogspot.com/2007/12/20081.html

あれが、エスタブリッシュメントとの関係という意味で分水嶺、というか、なにかぐっと変わるきっかけになったと思っているんです。対峙はしないけど、崇めたりもしませんよ、といった。ざっくりした言い方ですが。

信治●「年鑑を読む」の〈2〉の「年代別作品を読む」のパートに

天気●(…)「40代」が、なぜか、すごく困ったんですよ。なんなんだろう、これは。

信治●ぼくたちの俳句観が、何かから、大きくずれつつあるとか。

天気●あはは。筏で、沖に流されて、陸がどんどん遠くなっていくような?

信治●あるいは、筏はとまってるのに、陸のほうがどんどん流されていくw

とあって、笑いました。天気さんとぼくの共通点として、あの悪戯好きなところがあるでしょう? 二人して、俳壇的なありかたについて、茶々を入れる、あるいは再検討を試みるということをしていました。でも、それは、俳句に対する親切心でやってたような気がする。

天気●んんん、これ、自分では悪戯という気はなくて、自分と「俳壇」のズレは、ずっと、なんらかにあります。へえ、こんなのがいいの? ぜんぜんいいと思わないけど? といったズレ。ただ、言い方が悪戯というか皮肉っぽくなってしまうことがあって(これはよく言われる)、でも、これもサービス精神なんですよ、自分なりの。

信治●サービス、まさに。あるいは、親切。

天気●でね、ズレがあるから、自分の好きなものについて書いたり話したりするんだと、いま思いました。ズレがエネルギー源。ズレてなかったら、もっと黙ってると思う。みんなが「いい」と言ってるのに付け足すことはない。

信治●おもしろーいと思うと、言っておいたほうがいいと思ってしまう。そうか、でも、ぼくは意図はあったかもしれないです。『週刊俳句』が総合誌のパロディ、オルタナであることによって、シーン全体(とりあえず俳壇ですが)に対する批評が、可能になっていた、そのことを面白がってましたね。天気さんのいわれるズレを足掛かりに、もう一つの俳句の可能性の代弁をしていた、とも言えます。

天気●オルタナティヴではありますね。ただ、当初、「総合誌」の存在はあまりアタマになかったように思います。これはどこかでも話したと思うのですが、発想のきっかけは、何かのイベントの帰り、電車が一緒になった田島健一さんが「俳句のポータルサイト」が出来ないかな、と。軽い調子だったし、本人は忘れているだろうけど、それを聞いて、ポータルには興味がわかなかったけど、当時わりあい盛り上がっていたブログ(信治さんとも、ブログ記事のやりとりがきっかけだったと思います)を一箇所に集めてはどうだろうということで始めたのが『週刊俳句』。オンラインの内部の統合だったんです、もともとの発想は。だから、その時点では、オンラインの外部にある、リアルの句会とか人的交流、権威をもった俳句総合誌といったものは、あくまで「外部」であって、『週刊俳句』として強く意識してはいなかった。

信治●ぼくは『週刊俳句』誕生のすぐ前くらいに、俳句の世界は原稿料がほぼないのだから、ネットで総合誌が、つまり作品と評論を載せた雑誌形式のものが作れそうだなとは、思っていて。天気さんが『週刊俳句』を始めると聞いて、すぐ、あ、それができたんだと思いました。

天気●もう忘れたことも多いので、現時点で事情を捏造している危険性はありますが、俳壇のオルタナティブという要素を私が意識したのは、少なくとも数カ月続けたあとだったような。

信治●『週刊俳句』という、名付けが予言的だったんだと思います。

天気●ただ、ここが自分にとって重要なのですが、「インターネットの可能性」という文脈で捉えられたくなかった。当時は、そればかりでした(いまでもかな?)、『週刊俳句』が話題になるのは。あと、「インターネット俳句」とか。かんべんしてほしかった。『週刊俳句』がいちばん避けるべきは、リアルでかなわぬ俳壇とか結社とかをネット上で築くという印象をもたれてしまうこと。ネット上の俳壇ごっこ、結社ごっこ。それを避けるためでもあったと思います。リアル/既存の権威というとアレだけど、インターネット外部の俳句。それを『週刊俳句』という場に溶け込ませたかったというのがあります。

(つづく)

季語とは何か〔前篇〕お神輿は誰が担ぐのか 岡田一実×吉川千早

季語とは何か
岡田一実×吉川千早

吉川千早と岡田一実が「季語とは何か」をめぐって対談しました。今回の対談は、吉川千早が『俳句四季』2026年5月号で執筆した時評(全四回の一回目)を出発点としながら、対談のなかで今まさに意見が形作られていくさまを体感していただくことを目指したものです。季語という俳句の基本的な問題を考えるきっかけとなれば幸いです。


〔前篇〕お神輿は誰が担ぐのか

◆季語はルール? バナナは季語?

吉川千早●こんにちは。吉川千早です。『俳句四季』5月号からの時評を担当させていただいております。今、お読みいただいた方も、いただいてない方も、このスペースを聴いていただいてありがとうございます。

今回は、岡田一実さんをお招きしてお話しできるということで、すごい楽しみにしております。まだちょっといらっしゃらないみたいなので、話しながら待ちたいと思います。

自己紹介、私は澤俳句会所属同人です。俳人協会にも属しております。俳句を始めた時に赤ちゃんだった子が中3になってるから、俳句歴は13、14年ぐらいになると思います。あ、岡田さんいらっしゃった。

岡田一実●よろしくお願いします。

吉川●岡田さんは私がTwitterを始めてわりとすぐにフォローしたんで、もう10年ほど名前とかは知ってるんだけど、ほぼ話したことがないという感じです。すいません。軽く自己紹介していただいていいですか?

岡田●はい。岡田一実と申します。『鏡』という同人誌にいます。それぐらいですかね。俳句はどれぐらい始めて20年ぐらいですかね。で、まあ句集を出したり、評論を書いたりしています。

吉川●よろしくお願いします。

岡田●よろしくお願いします。

吉川●最近、週刊俳句に浅川さんの「季語はルールか」っていう話が出てたりして、季語のことがちょっとホットな感じなので、今日なんかすごいタイミングいいじゃんと思ってます。

岡田●そうですよね。私もそう思いました。すごいタイミングいいなと思って。

吉川●そうそう。場が温まってるみたいな感じですよね。

岡田●そうですね。いい感じです。

吉川●「季語がルールか」っていうのは私も考えていて。今回の時評で「先生、バナナは季語に入りますか」っていう切り口から入ろうと思ったのは、ルールじゃないよねっていうのの一つのキャッチーな具体例として入れたんです。

岡田●うんうん。

吉川●でもまあルールじゃないっていうところは、まあルールじゃないだけなので。今回はどっちかっていうとその季語の働き、ダイナミズムみたいなものに注目したくて。岡田さんって、俳句1句1句ごとじゃなくて「俳句」全体を見たり、具体的にその俳句の構造を操作することで俳句を新しくしていこうっていうのを試みられてるっていう印象がすごいあるんですよ。

岡田●そうですね。俳句の構造はとっても興味があるところですね。

吉川●私も構造すごい興味があるので今回時評こういう書き方してるんです。岡田さんのその視点から見て、私の今回の時評ってこういう感じだな、みたいなのありました?すごいザックリお話渡しちゃって申し訳ないんですけど。

岡田●まず、まあ歳時記に載ってるからって「季語」というわけではないよね、みたいな話からあって、その話は「バナナ」の話があって本当そうだよねって。小澤實さんとかの話、本意、本情の話が伝統的共有イメージと作者の実感が、それが本意と本情が交差する時に季語はなるっていう主張ですよね。で、御輿となって、うねって行けば季語となり、担がれなくなったら絶滅季語になっていくみたいな話ですごく興味深く読みました。
バナナの話はね、キャッチーですごく面白かったんだけど、変遷の部分もあると、季語がいかにして生成されるかっていうのに、もう一つ軸が入る感じがしました。

吉川●まあそうですよね。そこまでできたら本当はいいなと思ったんですけど、文字数が無理と。

岡田●そうね。「バナナ」って、難しい季語で、バナナって「熱帯季題」として虚子が季題にしたんですよね。で、その「熱帯季題」っていうのは帝国主義との関係があって、南方に植民地を広げていく時に、「熱帯」と「夏」の季題として扱おうって言って、戦後「ホトトギス」の歳時記からは全面削除されたんですよ。

吉川●へえ、ちょっと帝国主義入ってるから歴史の反省みたいなところも踏まえてってことですね。

岡田●そう、だから、敗戦して、南方への植民地化っていうものが消えた時点で、虚子編の新歳時記からは削除されたんですよ。バナナって。パイナップルとか、あの辺の言葉って全部削除された。だから、「誰が季語を決めているのか」みたいなのがあると、「『季語となる』とはいかなる時になるのか」みたいなのが面白くなるかな、と。

吉川●ちょっと文字数が……。

岡田●だよね。

吉川●それやっちゃうと全4回の連載がバナナ連載になっちゃうと思うので、でもそれは面白いですね、確かに。


その空気を決めるのは誰か? 

岡田●季語として担がれる瞬間っていうのは、どこで発生するか、みたいなものに興味があって。

吉川●あー、なるほど。私が担がれる瞬間みたいなのがここってあるわけじゃないと思うんですよ。なんか空気みたいなやつだと思うんですよね、やっぱり。

岡田●うん。

吉川●で、その空気を決める人はいないんだと思うんですよ。落語の逸話を昔なにかで読んだことがあって。落語家が真打になるのってどう決めるかって、お師匠さんが決めたんじゃなくって、常連さんが「そろそろあいつは真打でもいいんじゃない?」みたいな話を常連さんがし始めたら、「おお、そうか」みたいな感じで真打の検討が始まったみたいな。なんかそういう世界かなって思ってます。

岡田●たぶん両方あって、「万緑」みたいなやつは草田男がバーッと押し出して、「お、いいじゃない。みんなで『万緑』使おうぜ」みたいな雰囲気になったのが、今の真打の話に近いやつだと思う。もう一つは、虚子みたいな権力者が「これを季語として詠んでいきましょう」って上から言って決めて、題詠で募集してみたらなかなかいい季語になったので残ったというパターンがある。何パターンかある感じがするんですよね。

吉川●確かに。「いい感じだから使っていこう」っていうところが、私が今回、お神輿で例えたところです。季語使おうって言っても担ぐ季語と担ぐ人がいないお神輿はお神輿になんないっていうところです。季語を「場」として、発想したんですよ。みんなが「ワッショイ」ってする場ですよね。西田幾多郎的な。

岡田●うんうん。

吉川●季語の成り方は色々あるけど、「場」として設定した時に、じゃあどういう仕組みで駆動してるかっていうと、この季語御輿をみんなで「ワッショイ」するっていうのが成立した瞬間が季語だと思ったんですよ。で、これは今後の連載でどんどん書いてく予定なんですけど。その本意と本情が季語になるみたいな動きが、たぶん一番象徴的で、俳句のあらゆる所に全部ガシャン、ガシャン、ガシャンっていう、フラクタルっていうか入れ子構造みたいなのでいっぱいあって。その一番わかりやすい綺麗にできてるのは季語だなって思ったんですよね。

「挨拶」と「符丁性」

岡田●うん、なるほどね。お神輿はなぜ、季節の言葉じゃないといけないと思いますか。

吉川●何冊か季語についての本、参考にしたんです、筑紫磐井さんの『季語は生きている』(2017年/実業公報社)っていうのとか、あと、川本皓嗣さんの『俳諧の詩学』(2019年/岩波書店)とか。その中で述べられてる、中国の式次第みたいなやつで題詠ができて、それが和歌に入ってきて、題詠で反映されて、それがみんなすごく気に入ったっていうところ。気に入ったって言うとザックリした言い方になっちゃうんだけど、遊びっていうか、そのルールで繋がってきたところがあって。みんなでそこを「ワッショイ」しているうちに、いろんなものが混ざってオリジナルになったみたいな印象を持ってます。

岡田●日本では和歌が最初に題詠としてあったわけですよね。でも、季節もあったし、恋もあったし、挽歌もあったし、題としては色々あったはずなのに、いつの間にか季節の言葉だけが使われるようになっていったっていうのは何なんですかね。

吉川●何なんですかね。本を読んでも絶対にこれだっていうのがあるは思わなかったんです。だって歴史的な真実はあるけど、それがなぜかっていうところは推測するしかないじゃないですか。絶対これだって言えなくて、私の感じ方でしかないですけど、連句の発句だっていうところがやっぱ大きかったんだと思うんですよね。で、そこでそういうもんだっていうところがあった。あとはみんながやっぱ四季を「ワッショイ、ワッショイ」して盛り上がったから、他の言葉があんまり「ワッショイ」されなかった。なんで担がれなかったかっていうところまでは、私は正直わかんない。

岡田●連歌とか連句とか巡行したので、本州を巡行した時にね、連句なり何なりで挨拶をする時に、一番たぶんそのみんなが共有している和歌世界を引っ張ってくるのが便利だった。その場の雰囲気、その今、この秋であるとか春であるとかっていうのとリンクさせて、「今ここのは秋ですが、秋といえば和歌世界のあの秋ですよ」みたいにして引いてくるのに便利だったのかなっていうのが私の仮説なんですけどね。巡行での開催の時期、そこの場に来た時期みたいなものとリンクさせるのに都合が良かったから季節の言葉が選ばれたのかなっていうのが私の仮説です。

吉川●確かに。あなたは今恋してますか、なんて聞くわけにいかない。

岡田●でも、連句の式目の中には恋があるんですよ。

吉川●あるある。

岡田●連句、連句も連歌も恋については別に立項がある。他の部分で恋はやればよかったから、季節になったのかな、ってその部分が俳句としては正岡子規が独立させたというのが私の仮説ですね。実際、初期は無季の発句も沢山ありましたしね。

吉川●いわゆる手紙の一番初めの時候の挨拶とか、あんまりよく親しくない人と今日暑いですね、みたいな話すのとかともちょっと繋がってますよね。

岡田●近いと思いますね。同じな体感、気候感を共有し合うことによって円滑に進めていくみたいな感じなんだと思うんですよね。

吉川●挨拶っていうと、逆に深くなりすぎちゃうじゃないですか。挨拶って生きてる人同士でするだけじゃなくて、それこそご先祖様、死者に対してとか、物に対してとか、自然に対しての挨拶とかもあるので。なんかそこなんかめんどくさいから、なんか挨拶じゃなくて語れるときっともっとすっきりしますね。

岡田●「符丁性」っていうのをやっぱり考えているところがあって。「あなたも知ってますよね」っていう感じ。「皆さんご存知ですよね」っていう感じ。「挨拶」という言葉をのけたら、湧き上がってくる「符丁性」が、「本意」ってやつじゃないですかね。

吉川●いまどきのっていうか、雑な言葉で言うなら「ミーム」に近いですよね、ネットミームとか私とあなたは共有してます、ってところからスタートして、そのミームから会話が転がっていくみたいなニュアンスにも近いです。

岡田●吉川さんのこの論で言ったら、堀切実さんが書いてらっしゃったあの、「先人の作品が積み重なってき伝統的に共有されてきた本意」、小澤實さんの「本来あるべきもっとも詩的な状況」ですね。ここの「本意」の部分が言うなればその「符丁性」。
 積み重ねてきただけではなくて、それをみんなが符丁として使ってる。「みんな知ってるよね、あれだよね」って言いながらやってるのがまあ季語の「本意世界」かなって。

吉川●そう、私が今回書いたとこに寄るなら、お神輿はみんなに見えるっていうところですよね。みんなに見えるし、今までどうやってその神事をやってきたかっていうのを共有してるっていうところですよね。

岡田●うん、そうですね。実にとってもいい比喩ですよね。まさに。

吉川●これね、我ながら思いついた時に「やったー」って思いました。

岡田●ご自分の比喩なんですか。

吉川●はい。

岡田●あ、吉川さんの比喩なんですか、お神輿。

吉川●はい、私のオリジナルです。オリジナル比喩です。

岡田●そう、でもいい比喩ですよね。

吉川●我ながら、使いやすいと思って。今回は季語だけど、私、思想のバックボーンがわりとアニミズムで。文化人類学の最近のアニミズムとか。西田幾多郎のすごいめんどくさい、なんか絶対矛盾的自己同一性とかも、このお神輿の比喩で行けるんですよ。

岡田●わからないよ、わからない。

吉川●「世界」があって、その中で自分が頑張って「ワッショイ」することで、時間が生まれる、自分が限定されることによって今があるんだみたいな。わりとそうすると西田幾多郎の話が説明しやすくて。俳句もそっちと繋げちゃえるだろうなって。でも私にはまだその力はない、とか思ってます。

(つづく)


〔次回予告〕

季語はなぜ残り、なぜ変化し続けるのでしょうか。子規・虚子・碧梧桐をめぐる議論から、話題はやがて俳句そのものの構造へと及びます。俳句はなぜ俳句として認識されるのか。「強度」と「更新」というキーワードを手がかりに、二人はその根本的な仕組みを探っていきます。

柳俳合同誌上句会2026 外野席から選句する 湊圭伍×山田耕司

柳俳合同誌上句会2026
外野席から選句する

湊圭伍×山田耕司  進行:西原天気



--こんにちは。週刊俳句100号を記念して開催された「柳俳合同誌上句会2026」。そこに、投句していないおふたりが選と選評で参加するという企画です。来ていただいたのは、川柳から湊圭伍さん、俳句から山田耕司さんです。

湊圭伍さんは句集『そら耳のつづきを』(2021年/書肆侃侃房)のほか、管見の範囲でもいくつかの川柳雑誌で作品を拝見していいます。また、私にとっては、『新撰21』(2010年1月/邑書林)掲載の関悦史小論「《現実界(レエル)》のほかに俳句なし」(湊圭史名義)という出色の作家論が長く強く印象に残っています。

山田耕司さんには、2冊の句集、『大風呂敷』(2010年/大風呂敷出版局)、『不純』(2018年/左右社)があります。また俳誌『円錐』で定期的に句を発表されています。個人的に、山田耕司句のファンです。無季の句も少なくなく、ときおり「川柳寄り」と、浅薄な私見ですが思うことがあります。

こんなおふたりです。私の理解では、ジャンル横断的な思考やセンスを持ち合わせた方にお越しいただけたと思います。

外野席からの選句には、もっと違う人選もあったでしょう。例えば、有季定型しか作らない結社出自の俳人。川柳プロパーについて、私には理解がないのですが、もっと川柳川柳した句を作る方。それも、おもしろかったかもしれませんが、今回の投句一覧だと、大いに困惑させてしまうかもしれません。それはやめておいたほうがいい。

なお、外野席から誰かが選句するこの企画は、句会の参加者10名にはお知らせしていません。

前口上が長くなってしまいました。それでは始めます。それぞれ、特選1句・並選4句を教えてください。

湊圭伍〔以下湊〕●
確認ですが、3題合わせた全体から、特選1句、並選4句でOKでしょうか。

--はい、30句全体からです。川柳の方は、たくさんの選に慣れているせいでしょうか、毎回、1題につき5句選で送ってくる方がいらっしゃいます。今回の30句から5句選は、俳句だと若干多めでしょうか。少なめよりも多めのほうが盛り上がると踏んで、こうしました。

湊●
了解です。山田さん、よろしくお願いいたします! 違った選になったらおもしろそう、と思いつつ。

特選は
友引が千日続く青山椒

並選が
金魚草群れ咲くころは千葉の旬
はよ食べなさい空気が抜けてしまう
暗に麩は往復はがきねばならない
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

山田耕司〔以下山田〕●
わあ。湊さん。ご一緒できてうれしいです! 川柳の選をするの、実は初めてなんです。よろしくお願いします。

特選
どうしても千枚通しだとしても

並選
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ
千代田区の電柱にある夏日かな
白桃をてこてこ運び来て小声
青梅雨や和菓子を買うて橋の上

--ありがとうございます。1句、選が重なりました。《アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ》。ともに並選です。選評をお願いします。

湊●
街のなかの建物の一室でコーラスが歌われており、ただ開け放った窓の網戸を通して、外の人声や騒音も入っている、という景を思い浮かべました。「アヴェ」は「こんにちは」や「おめでとう」の意味があるらしい(「こんにちは」と「おめでとう」だと全然意味が違うだろ!)。「アヴェ・マリアの祈り」はイエスを身籠って目出度いとマリアを褒めたたえる歌ということで「おめでとう」が八割程度か。

一方、「網戸」の外の「おしゃべり」は 同じ事態をまったく別の解釈で話しているのでは? 頼りない境界である「網戸」の内と外に別の語り・別の時間が流れていて、しかも、この句がどちらにも与してなさそうなのがよいと思いました。

山田●
なるほど。そうですよね。この網戸は、ひとつの結界のようです。アヴェ・マリアの聖とおしゃべりの俗。聖と俗との対比という視点は、俳句っぽいものかもしれませんけれど。それを隔てる結界。

音と音。その間にある網戸。音が簡単に通過できる透過性の高いものとして、この網戸を捉えることもできるとは思うんですけれど、私は、視覚を鈍らせるフィルターのようなものとしてこれを受け止めてみました。

聴覚で受け取れる素材の間に、対象を視覚的に鈍らせたり濁したりするフィルターがある。これって、クールでメタリックな絵を見た時の受け止め方の描写なのではないかしら、とも思いました。世界を鈍らせたり濁したりして、俗の手触りに拉致するのが、句を作る際の自己の手応えになっているんじゃないか、そんな読みです。聴覚と視覚の混線、そのひねり具合も手ごたえの一部として。

「アヴェ・マリアにも」の「も」の向こう側に、作者自身のうちなるあやうげな浄らかさが漂っているようにも思いました。

--ちなみに「網戸」は夏の季語ですが、おふたりとも、そこにはこだわらなかった。《網戸》を境界・結界という語で表現されました。聖/俗がそれをはさんで共存しているイメージは、この写真にもよく合いますね。難しい題だと思っていたのですが、この句は、写真の説明からも逃れていて、いい感じです。おふたりの選評を聞いているうち、どんどんおもしろさが増していきました。

湊●
おふたりの読み・ご説明で、俳人は視覚を意識しているというか自然にその観点が入ってくるのだなと思いました。「網戸」が季語というのも、機能性よりは目にも入るモノ性を読みとらせるように効いてくるのではないか。

--ああ、なるほど。俳句の場合、機能はすでに季語の「意味するところ」に含まれているので(防暑)、そこをすっ飛ばして視覚に行きがちなのかもしれません。

山田●
たしかに、視覚的な要素を勘案するところが俳句にはあるかもしれませんね。共有情報である季語を取り込むに際して、いかにその句の一回性という肉を与えられるか、という視点が反映されているのかもしれません。これって、写生という方法意識ではなくて、概念を形而下にひきずりおろして可視化するプロセスとして捉えることもできるのではないかとも思っています。

--ちがうフィールドからお越しいただいたおふたりの話、とてもおもしろくて、「網戸」だけで記事がひとつ成り立ちますね。それでは次に、それぞれ、特選の句について、コメントをいただけますか?

湊●
私の特選句は、

友引が千日続く青山椒

です。

「友引」には幸せを引く吉、不幸や死を引く凶どちらの面もあるとして、ただ、それがずっと続くのだとしたらまことに不穏で、凶の側が色濃くなっていくように感じます。しかも、「千日」! 一方、「青山椒」はよい保存方法があるとしても、その香りはさすがに「千日」は持たず、見た目の鮮やかな緑もくすんでいってしまう。

この句、一度や二度読む限りでは、上五・中七の不吉さを、「青山椒」のピリッとした刺激が抑え込んでいる。だが、さらに眺めつづけて、「友引」の語をくりかえし唱えていると、山椒のもつ一種の魔除けの作用はすり減って、引かれた「友」たちの集合体ののっぺりとした薄気味悪さが印象づけられてきます。

『千夜一夜物語』よろしく、「千」につづく「一」に何かが隠されているのかもしれないけれども。

山田●
私の特選は、

どうしても千枚通しだとしても

手にしている道具があります。それが千枚通しであるとして、その道具の視覚的な要素を描写するという方向に進みがちなのが、俳句なのかもしれません。

時に、この句は、そうした道をすべて捨て去っています。これが千枚通しであるかどうかも、怪しい。人を殺傷することができるような凶器を手にしながら、それを日常の連続に属する千枚通しだと言い張る人がいる。血だらけだったりするかもしれません。どう見ても千枚通しではなさそうなのに。仮にこれが千枚通しだとしても、どうして血まみれなのか、どうしても千枚通しだと言い張る根拠はどこにあるのか、そのようなドラマを内包しうる作品なのだと思います。

--ありがとうございます。それぞれの選評を腑分けするようにお互いに語っていただくこともできるでしょうし、聞いてみたい気持ちはあるのですが、それをやっていたら、夜が明けてしまいそうです。簡単に。「採らざる」の弁をお訊きします。山田さんは《友引が千日続く青山椒》を、湊さんは《どうしても千枚通しだとしても》を、選外にされた理由を。ほんと、簡単でいいです。

山田●
友引ばかりが続くのは、大安や仏滅が来ないということでもあります。他者との相互作用のみに浸る日常を想像しました。その想像に、青山椒のピリリをうまく絡み合わせることができませんでした。

湊●
「友引」と「青山椒」については、確かに絡み合わないですね。その点、言葉の読み取り自体は山田さんと私で変わらないような気がします。そのうえで、私はそれぞれの言葉がワガママに動いて、ある意味裏切り合っているのを楽しんでいます。俳句っぽい姿の句ですが、川柳的に読んでおもしろがっているのだと思います。

山田さんの評にある「千枚通しだと言い張る」の「言い張る」は川柳のけっこう大きい部分だと思います。ふつうに考えたら無根拠なことを言い切ることで、そうでしかないと読者を引きずり込んでしまう。

「どうしても千枚通しだとしても」の句については、川柳のそんな力技が効きそうな感じはあったのですが、「どうしても」と「だとしても」の音の重なりが気持ちよくないなというのがあり、それがしばらく読んでも解消されなかったので外しました。音のくりかえしが悪いというのではないですが、この句の場合、音の重なりがダマになって気持ちよく通り抜けさせてくれないような。

言い切りに引き込む仕掛けとしては、「だとしても」の締めが思わせぶり過ぎるかな、と思ってしまったのも選ばなかった理由ですね。

--ありがとうございます。今日はこのへんしておきましょうか。

湊●
昨日、俳句甲子園の松山大会で初めて審査員をしまして、そのあと夜中まで飲んで今日は二日酔い気味で、そろそろ瞼が重くなってきました……。

山田●
湊さん、私も土曜日に高崎会場にて審査員をさせていただきました。ご一緒でしたら、盃を重ねていたことと思います。今日はありがとうございました!

interlude

--それでは再開です。それぞれ残りの並選について。まず、湊さんがお採りの《金魚草群れ咲くころは千葉の旬》。

湊●
「金魚草」はよくある園芸品種で何度も見たことはあるんですが、好きでも嫌いでもなく、どこで見たか記憶にもあいまいです。たぶん名前に入っている「金魚」のせいで、言葉の強さよりも現実の印象が薄いせいでしょう。

千葉在住・出身の方には悪いが、「千葉」もまた印象が薄い。この句のポイントはこの二つの印象の薄い存在をやや言い過ぎの「群れ咲く」で彩ることで掛け合わせ、名前がもつ言葉のポテンシャルを発揮させている点にあると考えています。

現実には地名である「千葉」に「旬」などはないでしょうが、無数の花、千の葉が群れて重なり合うことによって、この句の中で作られた言葉の交錯でのみ感じられる「旬」の感覚が伝えられます。

--金魚草を調べると仲夏の季語なんですね。2月に南房総の花卉農家でよく見る花なので、春の季語かと思っていました。

湊●
そう聞くと、実景から書かれた、土地の「旬」についての素直な句なのかな。「金魚草」が仲夏の季語というのも、「金魚」に引っ張られたのかなあというところでおもしろいですね。

--次は山田さん並選の《千代田区の電柱にある夏日かな》。いかにも俳句的な体裁です。

山田●
千葉から、千代田区へ。連想させる物語の数が多すぎて、千代田区についてはイメージが絞り込めないところがありますね。一方で、電柱の方は無名性の表象のようでもあります。多くの情報文脈を退けて、無名なる存在に心寄せをしているのが、この句の眼目なのだと思います。

存在を示す動詞としての「ある」だと凡庸ですが、連体詞「ある」(ある日森の中クマさんに…という「ある」。某という意味)として、この「夏日」が無名な誰かの個人的な物語に属していることを暗示しているのかもしれません。「かな」という強調が、そのような読みを促しています。

--湊さんの並選、《はよ食べなさい空気が抜けてしまう》。これは俳句からは出てこない。川柳らしいと言っていいんでしょうか。

湊●
さすがにこれが俳句ならのけぞるかも(笑)。

まず、前半の会話体「はよ食べなさい」には、関西ふうのせっかちさがありますね。それだけではなく、五七五定型を諦めて会話体を採用することで生まれたリズム(あるいはその欠如)のせいで、後半の「空気が抜けてしまう」にもどこか音が足りないような、間の抜けた感が漂っています。

この句を読む体験そのものが、この「空気が抜けてしまう」感覚を味わわされることでもあります。言われるままに「はよ食べた」とて「空気」を食んでいるに過ぎず、とはいえ、空気が抜けきった皮のようなものが残るのだって気持ちいいとは思えない、というようなことを考えているうちに、この句の発話者はもう別のほうを向いている。

結局、「だから何(So What)?」なんですが、こうして「だから何?」まで 句を通過していく過程が川柳的体験だと思います。純粋川柳ですね(笑)。

--次は山田さん並選の《白桃をてこてこ運び来て小声》。

山田●
「てこてこ」をどう受け取るかですが、私は、幼い子供が大きめの白桃を抱えるようにこちらへ運んでくるさまを示す措辞として味わってみました。そのさまはかわいいものなのですが、それを消費することは、この句のポイントではないでしょう。

大切なものを一生懸命運んできました。ここにたどり着き、それを見せつつ、ひょっとしたら手渡してくれているのかもしれません。渡す相手だけに伝わる小声。そこに示されているのは、人と人との間に漂う親密さ。それこそがこの句の要と言えるでしょう。

「てこてこ」という表現で幼児のかわいらしさを引き出そうとしているのかもしれませんが、この言葉遣いにより、運ぶ主体としての幼児の姿を消すことにも成功しました。人の姿が書き表されていないことで、かえって「小声」の存在が際立っているようにも思います。

--最後ですね。湊さんの並選、《暗に麩は往復はがきねばならない》。

湊●
最初の「暗に麩」からよく分からないので、Google検索してみると、AI Overviewが〈「暗に麩」というフレーズは、おそらく松山市周辺のスーパー等で買える美味しい「お麩」についての話題か、もしくは打ち間違いのどちらかだと思われます。〉と教えてくれました。私の住んでいる場所が割れているのが気持ち悪いですね。

(松山はとくに麩の名産地やないやんけ、とつっこんでみたら、〈松山地域の伝統的な名産品として知られるのは「麩」ではなく、フワフワとした食感で知られる薄揚げの「松山あげ(程(ほど)の伊予名産 松山揚げ)」です。〉と出ました。程野商店の「松山あげ」は基本、刻みで売られていて、美味しくて使いやすく、軽いので、松山みやげにおススメです。閑話休題、)

「往復はがきねばならない」も相当ムリな言い回しです。「往復はがき(を送ら)ねばならない」と補ってやる義理は、読者には毛頭ない。句を真面目に読もうとすると、足場になるのは「麩」ぐらいしかないわけですが、足場としてはスカスカでいかにも頼りなく、読みの途中で裏切られる気しかしない。

これは、作者に直接「往復はがきねばならない」のでは。

--山田さんは、《青梅雨や和菓子を買うて橋の上》。お願いします。

山田●
絵の世界を叙景として捉えているとしたならば、その風景を説明するのではなく、気配を人のふるまいとして表現したところにこの句の良さがあります。「青」が効いています。絵との繋がりを示しているだけではなく、行為の清々しさを支えている世界観の基本色となっています。

ですが、私は、叙景の作品としてこの句を選んだのではありません。課題の絵には、道がありません。水路が見えていますが、そこからどこかへいける気配がありません。明るく美しい閉塞感。そんな印象を持ちました。

私がこの作品において着目したのは「や」です。俳句の切字「や」はテーマを提示します。そして、下へ読み進めたのちに、冒頭へ読者の視線を回帰させる働きを内蔵します。このような俳句ならではの修辞を用いることで、この明るく美しい閉塞感を示そうとしたのではないか、というのが私の視点です。一句の中で言葉が循環しつつどこにも行かない。それは、この絵の印象に限ることではなく、俳句作品がそれとなく目指す境地なのかもしれないと思うところがあります。

--ありがとうございます。選外で気になった句があれば、どうぞ。

湊●
最初、各題2句で選んでいて、【3 写真で一句】では次の句が並選でした。

夏川とさて明日はなき摩天楼

句の3分の2は題の絵を説明しただけで、雑と言えば雑な作りなんですが、「さて明日はなき」と大げさで無責任な見えを切ったところでその雑さが逆に活きていると判定します。

「摩天楼」は“Skyscraper”の訳で、この語は19世紀後半までは、背の高い人や馬、船のマストの天辺の三角の帆などを指していたらしい。1880年代後半にアメリカの大都市で高速建築が次々と建てられるようになってようやく現在の意味が定着して、それからまだ一世紀半しか経っていない。

暗渠から這い出てくる川、デジタル感のある絵に描かれた街にさえ「夏」を感じる感性からすれば、明日「摩天楼」が消えてしまってもどうでもよいではないか。瓦礫をどうするかについては考える必要がありますが。

結構暗渠好きなのでちょっとリサーチしましたが、この絵は渋谷川、八幡橋? 関東の人にはよく知られた場所なんですね、ネットに写真がいっぱいある。

--渋谷川です。「よく知られた」というほどでもないのですが。

湊●
山田さん並選の「千代田区の電柱にある夏日かな」「白桃をてこてこ運び来て小声」「青梅雨や和菓子を買うて橋の上」、それから「てのひらの蚊を捧げたり雨あがり」「ひるがほの花へ煙や鳥を焼く」、これらの句も、俳句としてまとまっていて世界の手ざわりがあり、 ぞれぞれに佳句だと思います。選んだ句と分かれたのはふり返ってみると、直感的に「読みで遊ばせてくれるかどうか」と感じたかどうかかな(評者のワガママですが、川柳の選や読みではこのワガママはけっこう大事だと思っています)。

とは言え、山田さん評を読んだ後だと、自分の俳句の読みの甘さを感じますね。「千代田区の電柱に・ある夏日かな」は思いつきませんでした。改めて考えると、俳句だと存在の「ある」は余分なので、という読みの展開は十分あり、というところなんですが。

白桃をてこてこ運び来て小声」の関係性まで踏み込んだ読みもなるほどです。私はからくりの茶運び人形を思い浮かべて、ちょっと気持ち悪い感じ、と読んでいました。子供のもつ異界性というようなテーマで。まあ、読み過ぎですね(笑)。

青梅雨や和菓子を買うて橋の上」は擬古典調?という辺りで私の読みは止まってしまいました。俳句のフォームにこだわることで読みを進められるのですね。

川柳らしい句では、山田さん特選の「どうしても千枚通しだとしても」、それから「さかなのうわさにふさわしかった」も気になっていました。「さかなのうわさ」の句は広がりがあってよいですが、ちょっとぼんやりしているとも言えて、周りに別の句を置く(連作?)ほうがおもしろくなりそう。実を言うと、投句一覧では、

さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

と並んでいて、キリスト教的な背景(イエス・キリストの象徴が魚[Ichthys イクトゥス])、「うわさ-おしゃべり」のつながりが(偶然?)生まれています。川柳の選者選の句会であれば、各題10句から5~6句ほど選ぶことになりそうですが、この2句はぜひ最後に並べたいところです。川柳・選者選ふうの選です(勝手に川柳句会、ですみません)。

【3 写真で一句】
タピオカ吸ふ暗渠の果てのあをぞらに
てのひらの蚊を捧げたり雨あがり
まやかしがまやかしを呼び照り返す
夏川とさて明日はなき摩天楼
さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

--なるほど。こう並べると、短句のない長句ばかりの連句のようです。《タピオカからおしゃべりまで、流れを感じます。句会もまた共同作業だったとは! 山田さんは、なにかありますか?

山田●
俳句と川柳が混在する中から選句をするのは、初めての体験でした。俳句らしさとか川柳らしさとか、それはよくわかりません。

そもそも俳諧は、〈和歌ではない〉ものとして育ってきたわけですし、近代俳句は、〈江戸俳諧ではない〉ことを足がかりに膨らんできたわけです。現代川柳も、幾層もの〈……ではない〉を潜り抜けてきたのではないでしょうか。

〈……ではない〉ものを選んでいる。その覚悟で、作品に向かい合いました。

すると、その結果、なぜこんなことを書くのだろうか、という作家の動機のようなものへの想像が鑑賞の中心軸となりました。選び終わっても、作家の動機などがわかったわけでもありません。しかし、〈らしさ〉によりかからずに鑑賞できた快感が、事後に残りました。皆さんの作品と湊さんの鑑賞文のおかげだと思っております。ありがとうございます。

--それでは最後に、余興として、どの5句が柳人作かを推理していただけませんか? ぜんぶは大変なので、【千】の10句で。もちろん、作者が柳人か俳人かなんて、あまり意味はないとは思うのですが。それに、俳句と川柳どちらもつくるという人も混じっていますから。あくまで余興で。

1 金魚草群れ咲くころは千葉の旬
2 友引が千日続く青山椒
3 千鳥格子の隙間に生まれ
4 一千年後のあたらしい息を吐く
5 千里眼で地球一周した風景
6 千代田区の電柱にある夏日かな
7 たのしい王手の千年でした
8 鳥除けの針千本と蜘蛛の子と
9 くしゃくしゃの千円札のアレやって
10 どうしても千枚通しだとしても

(番号で柳人作と思う句をお答えください)

山田●
3、5、7、9、10。

湊●
とりあえず、川柳っぽい句と俳句っぽい句に分けると、 川柳っぽい句が6句になってしまいました。うーむ、俳人が川柳っぽい句を出していたり、また逆もあるのか。そうなると相当難しいですね。

柳人が書いた川柳かな、と若干自信があるのが、5、7、9ですね。あと、3、4、10 が川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いもします。逆に、柳人が書いた俳句っぽいのは、1、2でしょうか。柳人がまず書きそうにないのは、6、8。

1、4、5、7、9で行きます。

ちなみに、かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10です。

--では、答え合わせ、行きますね。山田さんは4つ正解。10番は俳人作、それも山田さんがよくご存じの俳人です。

湊さんも4つ正解。1番は俳人作です。「川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いも」とおっしゃった3、4、10。10は鋭どかったですね。あと、「かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10」というところ、鋭いです。10を除けば、全正解。つまり、柳人作は、3、4、5、7、9です。

おふたりとも正答率80パーセント。クイズ的には充分に優秀ではないでしょうか。

あ、そうそう、おふたりの選句5句の内訳をお伝えしておきます。湊さんは柳人作を2句、俳人作を3句、山田さんは柳人作を1句、俳人作を4句、お採りです。どなたの作かは第1001号のリリースをおたのしみに。

今回はほんとうにありがとうございました。おふたりのおかげで、予想した以上におもしろいセッションになりました。

湊●
何だかテンションが高くて(俳句甲子園の影響?)、急ピッチで話してしまいましたが、楽しかったです。別の読みが出る緊張感と、山田さんならという安心感がありました。

山田●
ありがとうございました! 何かの機会に川柳の会に参加させてください。

(了)