2019-10-06

再録 〝古池や―〟型発句の完成 ―芭蕉の切字用法の一として― 田中道雄


再録
〝古池や―〟型発句の完成
―芭蕉の切字用法の一として―

田中道雄


一 はじめに

人口にもっとも膾炙した俳諧の発句は、おそらくは芭蕉の

古池や蛙飛こむ水の音

であろうが【註一】、このことは、かように上五を体言と切字「や」で仕立て、句末を体言で止める形が、俳諧の発句の典型的な構成様式として人々に理解されている事実を背後に持つ。長屋の御隠居が一句ひねる情景では、季語に「や」を付けた上五を二三度口号むのが常套だし、現代の俳人は、それだけにことさらこの形を嫌うようである。

ところでこの形式(今仮に、「古池や―」型、また略してF形式と名づけておこう)も、これが文学的事象である限り、その成立に至る歴史的過程を辿ることができる。結論を先に言えば、それは連歌以来の伝統を経て俳諧に持ち込まれ、芭蕉によって質的に完成されたものであった。芭蕉のすぐれた句にはこの形式が多く、しかも後年ほどこれを重視し、発句の約半数は切字に「や」を、さらにその半数以上がF形式を用いている。芭蕉におけるこの「上五や」用法の発見を鋭く指摘されたのは山本健吉氏であったが、氏は次のように述べられた。
「や」といふ感嘆詞(乃至助詞)の持つ深い含蓄を発見したのが俳諧、ことに正風の発句であったと思はれるのである。(中略)「や」と置いて、作者によって切取られた客観世界の実在感を、はっきりと指し示す、詩人的認識の在り場所を冒頭確かに教へるのだ。だから、これに続く七五は、そのやうな認識、そのやうな実在感の具象化であり、言はばリフレーンであり、「もどき」に過ぎないのだ。初五によって示された力強い、大胆な、即時的・断定的・直覚的把握が、七五によって示された具象的・細叙的な反省された把握によって上塗りされ、この二重映しの上に微妙なハーモニーを醸し出すのだ。
だから「古池」の句は、厳密に言へば二つのものの取合せではなく、一つの主題の反復であり、積重ねであると言ふべきである。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」「夏草や兵どもが夢の跡」「明ぼのや白魚白きこと一寸」「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」「荒海や佐渡に横たふ天の川」「秋風や藪も畑も不破の関」「淋しさや華のあたりのあすならふ」など皆さうである。
(「俳諧についての十八章」六、「や」についての考察)
上五の体言で提示された主題は、中七・座五の叙述によって具象化される。ただし、上五末の「や」が作る断切は、論理性を一旦棄却して表現に空白を与え、これが座五の体言による断切と照応する時、再び深層に意味結合を復活し、同時に余情を生むのである。二句一章の屈折的表現を俳諧発句の特質と見、その解明の一法としてF形式に焦点をあて、芭蕉の完成に至るまでの小史を素描してみよう。


二 連歌から俳諧へ

外形だけから言えば、F形式は既に連歌も宗祇以前の時代において成立していた【註三】。その技法上の可能性が充分に開発された芭蕉の時点までおよそ二百年間、この形式は量的に増大し、質的に変転する。勿論それは、発句構成様式の時代的変化に基くが、その大勢の把握は、一句の眼目である切字用法の変遷につくのが捷径であろう。それにはまた、きめあらい観察ながら、まず統計によるのが便利と思い、以下は切字用法の計数的調査を軸として論を進める【註四】

Ⅰ表およびⅠ図は、連歌から俳諧に至る数点の句集【註五】について調査した、「切字の種類別に見た使用頻度の変化」【註六】を示すが、一見して大凡次の傾向を見取ることができる。

    連歌から俳諧へと移るにつれて、それまで最も多用された「かな」は著しく減少し、これに反比例して漸増した「や」が、かつて「かな」が占めた地位を奪う。

この現象を理解するには、引き続いて「切字の一句中における位置の変化」【註七】を示したⅡ表およびⅡ図を見ておかねばならない。ここでは次のように言える。(「上五切れ」とは、切字が上五の句末または内部にあることを示す。他も同様。)

    連歌から俳諧へと移るにつれて、それまで最も多用された「座五切れ」は著しく減少し、これに反比例して「中七切れ」と「上五切れ」との和が漸増する。

Ⅰ表Ⅱ表

およびⅠ図Ⅱ図

    によって、「や」の増加が、切字位置の上五また中七への移動に伴う種類の変化に由来
することが明らかとなった。逆に、「や」の増加が切字位置の変化をもたらしたとも考え得るが、むしろこの二現象は、相関し合って成ったと見做すのが正しいであろう。俳諧時代へと移るにつれ、独立したジャンルとして単独の発句制作が次第に重視されて行くのを思うと、脇句との断絶を明示する「座五切れ」より、一句の姿に変化あらしめる「上五切れ」「中七切れ」が増加するのは自然の成り行きであったろう。また同じ理由から、自由に位置を選べる「や」が好まれもしたろう。

「座五切れ」の減少は「かな」の忌避にも基く。「かな」は、簡便に句の下限を示す符号として短連歌時代から多用され【註八】、和歌以来の主情的詠嘆性を濃く残した二音の重い切字であった。位置も固定された「かな」にくらべ、「や」はいかにも俳諧にふさわしい軽快さを特質として増えたのである。右の統計によれば、「や」増加の端緒は宗祇の時代にあった。〝切字〟なる用語ができ【註九】、〝十八の切字〟や季語が整備された連歌文芸の確立期だったことは注意されてよい。この時代に切字は、発句完結の要件としてのみでなく、発句表現に及ぼすその修辞的効果も意識され始めたと想像できるからである。ただしそれも、心敬(?)が『馬上集』で「大方切れると云て。十八の切字侍るとなん。しかあれとも愚老は大略かなと留り侍り」と述べるのを見ると、充分に一般化されたとは言い難い。

したがって、①②の傾向も決して一般に意識されるはずはなく、近世を待たねばならぬのである。『天水抄』(貞徳)に掲げられた「まつハきれたり先ハきれたり/習あれや哉とハとめぬ発句して」なる前句付は、まさにその意識化を示すものであった。指導者のかかる認識あって、傾向は一層促進されたであろう。よってここで大まかに集約するなら、連歌は「かな」による「座五切れ」を、俳諧は「や」による「上五切れ」「中七切れ」を重視したと言える。「上五切れ」「中七切れ」は一句の内側に断切を作るから、発句の歴史は、連歌の一句一章から俳諧の二句一章の時代へ移ったとも説明できよう。


三 座五へ係る「や」

前章で見たように、連歌時代においてF形式は決して多くはなかった。しかし、完成へ向かってここで用意された幾何かの達成を見逃すわけにはいかない。連歌における「や」の用法などを、今少し見て置こう。

『白髪集』では、俳諧にも踏襲された次のような「や」の分類がなされている。

連歌やに七の次第
きるや  散花や嵐につれて迷ふらん
中のや  鳥帰る雲や霞に日の入て
すてや  かくしても身のあるへきと思ひきや
疑のや  思へはや鴉鳴まてとまるらん
はのや  今はゝやとはしと月に鳥鳴て
すみのや 思ふやと逢夜も人を疑ひて
口合のや 月や花より見る色のふかみ草

例句を見ても、その断切は決して深くなく、「中のや」「口合のや」など、むしろ句に抑揚やアクセントを置くもののごとく思われる。このうち、F形式に使われるのは、勿論「きるや」であり【註一〇】、また「疑のや」がこれに準ずることも、後続の解説「切や うたかひものにもかよふへし。又知ぬにも似たり。……疑のや うたかひなからとかめて。底に悦たる詞也。」から明らかである。この二つは確かに他と比べて断切が深い。しかし俳諧のそれには決して及ばない。その理由を、右記事の最後に求めることができる。

此内のやにて。にてと留る分。中のや。はのや。すみのや。
らんと とまる分。切や。疑のや。

係助詞「や」は、未だ充分その係り機能を残しているのである。「や」はいわゆる〝押へ字〟であり、座五の特定語に係って始めて効果を発揮する。従って「や」に至った読者の心には、常に句末への連続が予想されるわけであり、断切は真の断切とはなり得ない。むしろ前もって座五の断切を予告して、その断切をより強化する点にこそ本質は存するのであろう。『宗砌返札』に「山さびし日影はよ所にうつるらん……只何ともしてやの字を入候はでは、覧とはね候ばやと存候歟。山寒し日影やよ所にうつるらん、と候はんずるこそ道理も風躰も可然候へ。」と述べるのは、その一証と思われる。

ここでしばらく問題を他に転じよう。同じ『宗砌田舎状』には「五月雨は峰の松風谷の水」「あなたうと春の日みがく玉津嶋」の例句をあげ、「五もじ(註、ここでは座五のこと)にて切候。」と記す箇所があるが、この二句は後に「大まはし」と称する技法の証句としてしばしば引き合いに出されるものである。後者について同書は、「あなと申詞にて」切れるとするが、『一紙品定之灌頂』では、ただ「物の名は二三あれば、発句はきるゝ事也」としか述べていない。言切られた体言が持つ断切性への理解が、作者達に次第に深まっていることをここで指摘したいのである。しかも、単に切字なくして切れるという句意の完結に関してだけでなく、その余情効果を意識するに至つた点を注目して置きたいのである。『宗祇発句判詞』は、「松かぜもほに出る秋を荻の声/此荻の声、切れざるよし申人侍りき、……詞をいひのこしたる所に切るゝ心侍るものをと、愚意に(はふかく)おぼゆ」と記すが、これは「多くの心を含ておさへけることはなれは、切字をかゝへけるにや」(春夢草)ということになるのであろう。(太字は黒丸傍点)

ところでF形式とは、体言におけるこのような断切および余情醸成の効果が認識されて行くにつれ、体言が次第に〝留め字〟の「らん」に置換されて行って成立したものと思われる。そうなればまた、そこには様々な語彙選択の余地も生じるからである。ところで、係り行くべき留め字を失った「や」は、そこでしばらく躊躇らわねばならぬことになる。そこに生じた瞬時の空隙は、はからずも句末の断切に出会ってさらに深まる。『雨夜記』が「余情の句」として、「あなたうと」の句に続いて「さす花や瓶の上なる山桜」を挙げるのは、このF形式の可能性を充分に暗示するかのようである。ただし当初においては、『梅薫抄』で「霰路やあやおり乱る冬の雲(空)」が、「あなとふと」と並んで「是等の発句、……初心のときなどいだすべからず」とされるように、未だ上手の作者に限られることが多かったらしい。


四 貞門から談林へ

俳諧史の展開にそってF形式の成長を見るには、やはり「や」を中心として、その増加を位置の変化に関連づけながら観察するのが有効な方法と思われる。

そこで、諸句集【註一一】について「「や」の使用頻度と位置の変化」【註一二】を調査したⅢ表およびⅢ図AA’ラインを御覧いただきたい。ここではまず、次の三点が指摘できるであろう。

    貞門から談林へと移るにつれて、「や」はさらに漸増し、『玉海集』から延宝期末まではほぼ等しい五〇%内外となる。

    そして、「や」は天和期以後激減する。

    談林時代に入ると、「や」の内でも「上五末や」が急速に増え、その漸増傾向は元禄期まで続く。

Ⅲ表
Ⅲ図


    は①の現象の継続発展と解されるが、④⑤をどう説明すべきであろうか。これらの考察
に先立ち、いま一度、貞門の「や」を検討しておこう。

貞門で増加傾向を一層高めた「や」は、その大部分が中七に置かれていた。従って⑤は、貞門から談林への過程を、「中七や」から「上五や」への変化として捉えるのを許すかに見える。しかしここで、貞門を「中七や」の時代と規定するのはいささか軽率に過ぎるようだ。連歌時代もまた「中七や」が多かったからである。ここで、貞門における「や」の内訳を調べてみよう。確かにⅣ表を見ると「中七や」は多い。しかも「中七末や」が大幅に増えたことは明らかである。しかし「上五や」の欄を見ると、「上五末や」もほぼ同じ増加率で増えており、わずかに「中七末や」の増え方が多いとはいえ、それをもって顕著な傾向とは決して見做せないのである(=現象())。ではなぜ「中七や」が多いのか、その理由は一に「中七内のや」(『白髪集』でいう「中のや」など、中七内部に位置する「や」)の存続に帰せれる。その使用率は連歌のそれとほぼ等しく、

    談林時代にはいって「中七内のや」は激減する【註一三】

のと、まさに対照的である(=現象())。

Ⅳ表
統計から見た右の二現象は、貞門独自の「や」の用法の不在を想像させはしまいか。作法書が「発句の切字……以上連歌のごとく成べき歟」(増補はなひ草)というのも、これを証するかのようである。例えば現象(二)であるが、この「や」は連歌における「や」の代表的用法として、使用率は全句の五〇%にも及んでいた。俳諧がより俳諧らしくなるにつれ、忌避され消滅の方向へ歩む(決して消滅はしないが)のは自然の趨勢だったと察せられ、それだけにまた、貞門の発句は連歌らしさを残していたと言えよう。思えば貞門時代は、未だすべてについて連歌の影響色濃く、連歌壇俳壇の一致も近年指摘されているが、新様式に慣れぬ作者達は、連歌との区別に意識的に「や」を多用したとはいうものの、用法の実態はまだ連歌に近かったのではあるまいか。『毛吹草』に「てにをは計をはいかいめかして心はみな連歌にひとし」とする批評は、この間の事情をも物語るであろう。

ここで貞門についてもう一つ加えるなら、「や」を含めたすべての切字につき「中七切れ」が多かったことが言える。座五に体言を据える傾向は「かな」の減少に反比例して進行していたから、急増した季語の処理に慣れぬ作者達が、これを座五に置いた結果、おのずと中七末に切字が来ることが殖えたためと思われる。

ここで漸く⑤の解釈に戻ろう。談林時代にはいって、「や」の用法には明らかに実質的な変化が現れた。「中七や」は句内句末ともに減少し、「や」はひとえに上五末へと集中する。ここに始めて、俳諧独自の「や」の用法が出現したが、その際座五はほとんど体言で終ったから、統計的にはF形式はここで成立したと言える。すなわち、俳諧独自のパターンとしてのF形式の成立は、切字「や」が俳諧独自の用法を獲得するのと相俟って実現したのであった。こう見れば、F形式が俳諧史において以後長く使用されるのも頷けよう。ここで⑤の現象が成った要因を考えてみる。

それには二つの方向があったと思われる。本来相互に作用し合って一現象を成したものであるが、強いて区別すれば、第一は意識的にその表現効果を狙った積極的要因であり、第二は流行の新句風がもたらした消極的要因である。前者については、一にまず音勢上よりした口拍子のよさ、軽快さが挙げられる。冒頭五音で句切って下に続く時、そこには快いリズムが生じる。このことは、寛文期の『佐夜中山集』『時勢粧』において、「諷取り」の部の「上五末や」が他の部のそれより遥かに多い事実(Ⅴ表参照)が暗示的である。談林俳諧の音律上の軽快性については既に指摘されているが、これは「上五末や」の増加とも無関係ではない。ではなぜ、上五末で切ると快いリズムが生じるのであろうか。それは『撃蒙抄』にも「自余は五七の間にて切べし」と記すように、和歌の七五調に慣れたリズム感が、連歌を通して俳諧にも流れ込んでいるためと思われる。試みに、連歌俳諧を問わず「中七切れ」また「座五切れ」の句を見るがよい。ほとんど例外なく、上五末に浅い休止があるのを認め得るであろう【註一四】。逆に「上五切れ」の場合は、中七末に小休止を置くことを必ずしも要しないのである。かように、十七音においては五・七五と切るのが最も自然な音律をなすのであるが、これは談林俳諧までは強く意識されなかった。それまでの「や」が作る浅い断切では、「中七切れ」の場合にできる二ヶ所の断切は句を三分せず、さほど目や耳に障りはしなかった。しかし後述する如く、談林において「や」の断切は深くなる。その深い「や」は、発見された最もふさわしい一ヶ所を求めて上五へ集中したのであろう。二は、第二の消極的要因と一層有機的に絡み合って表裏をなすものであるが、冒頭に短かく鋭く提示することによって生じる、鮮明なイメージ効果である。「正月や先ヅきよき物あら筵」の句を評して、「正月の五文字に力あるべし」(宇陀法師)と言った「力」とは、音の響きのほかにこのような効果もさしてのことであろう。発想の契機となる季題を冒頭におけば、鑑賞の際の導入は容易になるであろうし、奇抜な語であれば注意も引きやすいであろう。貞門から談林へと移るにつれ、キャッチ・ワードともいうべき印象鮮明な語を上五に置く傾向は、次第に進行するようで、「上五末や」の増加もこれと軌を一にする。また、その「や」の上に置かれる語として単一の名詞が多く選ばれるに至るのも、これを裏付けるであろう。「呼び出すや(=名所のや)」なる用語の発生も、以上のことをよく説明している。第二の要因については次章で論ずることにしよう。

Ⅴ表

五 雅俗イメージの対照


談林発句の作風のうち、当面の論述のため重視すべきは、俗語の増加がもたらした俳諧性の変質にあると思われる。貞門から談林へと移るにつれ、一七音中に占める俗語素材の比率は急速に増大するが、これは貞門の、縁語や掛詞また雅文中に配された俗語の違和感といった用語中心の面白さを、談林の雅俗のイメージの違和感が生み出す面白さへと転化して行った。これを実例で示すため、ここで遡って連歌以来のF形式の句を見てみることとしよう。F形式を選ぶのは、同じ形式であるほど変容が理解しやすいと思うからである。句の選択は恣意によった。(太字は黒丸傍点)

青柳や春の宮井の手向草 (宗祇発句集)

連歌であるから勿論すべて雅語で仕立てられ、和歌的美意識でもって〝集合された全体のイメージ〟(以下イメジャリーと呼ぶ)が統一されている。また「や」の断切が深くないのは、その前後の論理が一貫し、「や」を「は」に換えさえすれば、語法的な連続が可能となり一文章化され得るからである。またこの句の場合、「や」はコピュラ(繫辞)の機能さえ果しており、連歌発句のすべてが同様というわけではないが、〝同一主題の反復〟である芭蕉のF形式の原型をなすものとして注意される。F型式→F形式と正した、以下同)

撫子や夏野の原の落し種  守武

俗語「落し種」が撫子の縁語となって俳諧化される。しかし、イメジャリーは優しい雅の世界を失っていない。

春雨やかすむ木のめのかけ薬(犬子集)

俗語「かけ薬」と掛詞「め(芽と目)」で俳諧化。やはり、自然諷詠のイメジャリーを基調として俳諧があり、しかもその俳諧性は「めのかけ薬」の修辞にあるのであって、そのイメージにあるのではない。「や」の用法も連歌に近いが、不調和な俗語が露頭してイメジャリーの統一を破りつつある点に貞門らしさが認められる。

薬子やなめて味はふあめか舌(佐夜中山集)
書そめやこゝろいそいそ筆の海(同)

寛文期にはいるとイメジャリーは次第に連歌的な世界から遠ざかる。それはおそらく、一句中に俗語が増えたためと思われ、「や」も心なしか断切を深める。しかし、俳諧化したかに見えるイメジャリーは充分には明確でない。まだ掛詞「あめか舌(天か下)」縁語「いそ―海」のごとき貞門の修辞技法を残すゆえであろう。それにしても、かような俳風の兆候は興味ぶかい。重頼自身は「何やかや道具多きは馬のせに台所荷か付も見苦し」(佐夜中山集、俳学之大概)と諭したが、大勢は無自覚的ながら新しきへと向いつつあったのである。後に荷兮が「さよの中山集より発句の風躰はなばなしくせられたり」(橋守)と記すのが想起されよう。

若水や腰たはむまで荷棒(江戸蛇之鮓)
蓬莱や米高うして武家の春(俳諧雑巾)

談林に至ると貞門的修辞法は払拭され、明らかに俗的イメージ乃至イメジャリーの横溢が感じられる。ここではもう、俗語は単に用語としての面白みを訴えるに止まらず、俗的イメージ乃至イメジャリー形象の素材として機能している。しかも雅俗のイメージは「や」を隔てて対置され、両者の齟齬懸隔甚しい対応、すなわち荘子流の寓言に新たな俳諧性が見出される。その結果、「や」の断切は深まり質的に機能を変化せざるを得ない。「や」は、対比される雅俗イメージのパラドックス【註一五】斬新さを際立てる魔術師であり、二重力の支点となるのである。(漸新→斬新と正した)

ここで問題をもとに戻すと、かかるイメージの対比的構成において、最も効果的であったのがF形式であったと思われる。既に見たように、「や」は本来の係り機能をもって座五と呼応しようとするが、語法的連続性を失ったここに至り、イメージにおいてのみよく照応の効果を発揮するのである。そしてその際の「や」の位置としては、中七末に置かれるより、座五から適当に離れた上五末の方が好ましいであろう。F形式はかかる理由を背景に、簡易な技法として談林において急速に増加して行った【註一六】。そして様々なヴァラエティーを生んで表現手法を豊富にしたのである。中でも、上五に意表をついた俗語を置く次の形式など顕著に現れ、談林的特色を形成して行く。

質札や何どの月切ころもがへ(誹諧当世男)
白味噌や雪につゝめる鴬菜(俳諧三部抄)

「や」は、七五へあたかも謎解きの如き期待を抱かせ、読者の興をそそるのである。ここに生ずるわずかな間隙こそ、パラドキシカルな対比をいやが上にも引き立てる秘密なのである。

以上見てきたように、⑤の現象の主たる要因は、談林俳諧が俗的イメジャリーの形象に努力したことにある。この事実は、俳諧が近世の純粋詩へ昇華する不可欠の前提を解決したものとして評価すべきであろう。彼等は、今言うイメージやイメジャリーにそのまま相当する用語を持たなかったが、その事実は充分自覚していたものと思われる。「俳諧といふ事、世間にはあれたる様の詞をいふとおもへり。さらにしからず。只おもひよらぬ風情をよめるを、俳諧といふ也。」(近来俳諧風躰抄)と彼等が言う時、「詞」に対立する「風情」は、詩的感興の素因としてのイメージやイメジャリーを当然予想し、これを含むこともあり得たのではあるまいか。とすれば彼等は、「風情を詞にあらハし一句をかざり一句の本心に大きなる俳言の道具をてつしりと入たきものなり 風情計にてハ句よハくなる事有 しかあれ共詞にて俳言をもたす事一句にてもあらは物わらひなるへし 古風のやまひ是ならん」(詠句大概)とも述べていた。単に俳言を用いたというだけでは古風であり、その俳言が全体の句趣形成に参与してこそ、新俳諧の一句は仕立てられるというのであろう。そのためには、「大きなる俳言の道具をてつしりと」また数多く投入することが要請されるようになる。延宝末年から生じた字余りや漢詩文調の流行が、かかる傾向の延長上に位することは言うまでもない。単純な思考をもってすれば、豊富にイメージ内容を詰め込まれた一句の句姿の安定をはかるため、切字はおのずとその位置を句の上方に求めたようにも思われる。

六 芭蕉の場合

ようやく最初に掲げた芭蕉に帰ることにしよう。芭蕉もまた時代の人である限りにおいて時の俳風の内に育ち、極端にそれからはずれるものではなかった。しかしなお、次の如き独自な傾向を示すのを看過するわけにはいかない。以下は、「芭蕉の「や」使用の年次的変化」【註一七】を示すため、Ⅵ表によってⅢ図にBB’ラインを書き加え、これをAA’ラインと比較して得た観察結果である。

Ⅵ表

    延宝三~五年までの「や」の頻度は、同時代の一般傾向にほぼ等しい。

    延宝六~八年において「や」の使用は突如激減し、この傾向は貞享元年まで続く。この現象は一般傾向より徹底し、時間的にも先行したかに見える。

    貞享二~三年以後、再びゆるやかな「や」の増加が見られ、晩年まで続く。これに反し、一般傾向にはこの回復現象が見られない。

また、特に「上五末や」の使用については次の事実が見取れる。

    延宝三~五年において、芭蕉も同時代人と同様に「上五末や」に強い関心を示した。

    延宝六~八年には「上五末や」使用を急に減少させる。

    天和元~三年に再び「上五末や」使用は50%台に回復し、以後晩年までほぼこの使用率が維持されて安定する。これに反し一般傾向は、「や」の使用率が低下するにもかかわらず貞享以後も「上五末や」使用率の漸増を続かせる。

詳述するまでもなく、⑧は⑪に起因するものであった。芭蕉における切字「や」の使用は、転換期である延宝末年から貞享初年に至る期間を中にはさんで、初期・中期・晩期に分ち得るであろう。

初期はF形式体得の時期であった。芭蕉も同時代人同様これを駆使し、「や」の前後に分極化された雅俗両イメージのパラドックスを楽しんだ。しかも

天秤や京江戸かけて千代の春(誹諧当世男)
武蔵野や一寸ほどな鹿の声(同)

の如く、この形式の効果を充分に発揮した佳句が多い。ことに、広と小、視覚と聴覚を対比させた後者など、「古池や」の句の原型とさえ言える。

中期は、反省と模索とそしてF形式再生の時期であった。この形式が持つ技法上の可能性が十全に開花した時期であるから、これをもって長いF形式の歴史における完成期とも呼べるであろう。

談林俳諧における安易なF形式の乱用は、たちまちその類型化を来し、やがて陳腐なものとなる。逸早く芭蕉はこれに気付き、F形式の多用を控え、切字「や」の句は減った。これが⑪⑧の現象である。やがて一般もこれに追随する(④の現象)が、芭蕉その人に限っても、文芸上の深刻な反省模索期に入る前、既に技法において談林風に反省を加える事実は注意されてよい。ともかくこの時期の当初、「や」はすこぶる激減した。あたかもこの時流行した字余りや漢詩文調の異体が、F形式を含めた過去の類型を破壊し、その忌避の傾向を押し進めたのは勿論である。この空白期を体験して始めてF形式は再生した。新たなF形式は、談林のそれといかに異なったのであろうか。

その準備はすでに延宝末年から始まっていた。『ほのぼの立』で順也は、芭蕉の

枯枝に烏とまりたるや秋の暮

を掲げて「当風」と賞し、従来の「中にぶらりの句」とは異なると評した。この句の特色は、季語「秋の暮」が他の部分と極めてよく調和し、全体として俗的世界にイメジャリーが統一された点に見出される。貞門から談林にかけて、俳諧性は専ら素材相互の違和感に求められた。詞からイメージに移っても、その本質は変っていない。しかし俳諧が滑稽ではあっても詩である限り、素材相互のあまりな不調和は、詩としての全一な凝集を妨るものでしかない。すなわち、蕉風の樹立もまたF形式の再生も、かかる反省の上に実現したのであった。

⑨の現象の開始は、この認識に立った詩法の確立を示すものである。山本氏が挙げられた数句のうち、「秋風や」と「明ぼのや」の二句は貞享元年の作であるが、この〝野ざらしの旅〟の前後、芭蕉の手によってF形式は文芸的完成を見たのであった。その特質は、談林の不調和性を脱してイメジャリーを統一し、破綻なき詩を形象した点に認められるが、なおかつ重要なことは、同時に談林が達成したパラドキシカルなイメージ対応の技法を継承し、これを発展せしめたこと、すなわち断絶的統一を実現したことであった。すなわち、「や」の両側に配置されたイメージは、異質ではあるが談林の如く殊更対立を好むのではなく、そこに内的な親和関係を有することが求められるのである。「や」が作る断切は、談林ではイメージの不調和がそれを深めたが、芭蕉ではイメージの質と次元の差違がそれを深めることになる。従って深い断切を残しつつも、かえってそこにイメージ相互の微妙な内的感応(照応)を生むことになるのである。これはまさに、新たな詩性の誕生であった。この高度な詩法が、漢詩文調の体験を経て獲得されたものであること【註一八】は言うまでもないが、芭蕉に談林の経験なく、また連歌以来の伝統なくして果してこれを樹立し得たかは疑わしい。やはり、芭蕉は談林に学び伝統を継いで、これを超克したのであった。談林が努めたイメージ乃至素材の量的凝縮を芭蕉は質的凝縮へと転じたのであり、連歌の雅的同質イメジャリーの統一性に学んで、芭蕉は俗的異質異次元イメジャリーの統一性の実現に成功したのであった。「や」の機能についても同じ様に言えるであろう。談林で論理の飛躍をもたらした切れの深い「や」に、芭蕉は余情の深みを見出したのである。またその「や」を利用して、連歌の単層的イメジャリーに匹敵する屈折的重層的イメジャリーの発句文芸を成立させたのであった。

さて、芭蕉の「や」使用の晩期は、その展開と応用の時期であった。一般傾向がすっかりF形式と「や」を敬遠する頃、⑫に見るごとく芭蕉は自信をもってその使用を増やして行った。F形式の量的盛況を談林とするなら、今やF形式は質的全盛を迎えることとなる。山本氏が挙げられた数句が、すべて元禄初年までの作であることは意味深い。芭蕉は自らが発見したこの手法を、この時期縦横に駆使するかのようである。しかし、一旦完成を見た形式を安穏に墨守するには、芭蕉の探求心はあまりにも激しかった。新しみを華とし、発句上手と称される芭蕉は、F形式で体験した手法を多様に応用し、新たなスタイルを分化して行ったようである。今その過程の詳細を明らめ得ぬが、大まかに言えば次のように言えるであろう。

一は、晩年の軽みの俳風に近づくにつれ、F形式が作る断切の深さに警戒が払われて来たことである。例えば、没年の作、

朝露によごれて涼し瓜の泥(笈日記)
白菊の目に立てて見る塵もなし(同)

が、真蹟ではそれぞれ「朝露や」「白菊や」であったことなど、その一例ではあるまいか。とは言っても、F形式を避け始めたのでは決してない。乱用を戒め、より繊細な配慮が加えられたということなのである。その数が減ってないし、深い感動を表明する際には、「この道を」を改めて、

此道や行人なしに秋の暮(其便)

とする如き例も見られるのである。しかし、総じて断切が浅く、句作りがおとなしくなる傾向が認められる。

二は、異質または異次元イメージのパラドックスを用いず、同質イメージによるイメジャリーの統一をはかる句が見えることである。

鴬や竹の子藪に老を鳴(炭俵)

この「や」は、連歌で見たコピュラ機能を持ち、論理は素直に七五へ流れて行く。宗祇が雅語でなした同質イメジャリーの統一を、芭蕉は俗語で験してみたのである。

菊の香や奈良にハ古き仏達(追善之日記)

この句の上五は、「古池や」に代表されるF形式の典型のそれとは異なる。七五が、「蛙飛こむ水の音」が「古池」の世界の一部であったごとき、同一主題の繰り返しではないからだ。二素材の次元の差違にもかかわらず、その位相が鑑賞者の意識に稀薄なのは、両者が同時に同一視界内に把握された対象ではなく、それぞれが別箇の世界を領有しながら、素材相互の強い親和力のため、情調においてかえって新たな純一世界を形象し得たためと思われる。更に言えば、上五はしばしば発想の契機をなすものであるが、この句の七五が上五から触発されたものはイメージの同質性ということのみであって、上五に対し何らイメージの所属性乃至類縁性を有しないという点である。この場合の二つの素材は、一方が認識された時、かつて認識され、作者の詩嚢中に眠り続けていた他の一方が突如として意識表層へ躍り出で、結合を遂げるのである。(凡兆の「下京や雪つむ上のよるの雨」の上五が、七五より後に案じすえられたという『去来抄』の挿話も、かかる制作過程をいうのであろう。)ここで、同じ上五を持つ前年の作、

菊の香や庭に切たる履の底(続猿蓑)

と比較してみよう。この七五も同一主題の繰返しとは言えぬものの、七五が上五の場面に所属する点において、その発想をかなり上五に負うている。上五(題の場合が多い)から想起されて七五が出、一句が成る場合、同一世界を重層化するため、異質イメージの配置や次元の懸隔が必要となる。その背行する二要素の均衡の上、分極化される二素材の遠心性の上に見出される統一美、ここにパラドックスの詩性はあった。これに対して晩年の芭蕉は、同質イメージの重層による、求心的渾一化をも試みたと言えよう。この場合F形式は、談林の創始したパラドックスの美学から解放され、イメージの重層性屈折性のみをその本質的機能として残すこととなる。そしてむしろ、イメージより表象の重層を実現することとなるのである。連句における匂付の発句における実践と思える【註一九】が、「や」は、やはりこの場合もその秘密を生み出す折点として生き続けるのである。

「や」に関するものではないが、芭蕉が到達した発句表現について土芳は次のように記していた。
発句の事は行て帰る心の味也。たとへば、山里は萬歳おそし梅の花といふ類なり。山里は萬歳おそしといひはなして、むめは咲るといふ心のごとくに行て帰るの心発句也。山里は萬歳の遅といふ斗のひとへは平句の位なり。先師も発句は取合ものと知るべしと云侍るよし、ある俳書にも侍る也。題の中より出る事はすくなき也。もし出ても大様ふるしと也。(くろさうし)
「行て帰るの心」とはつまり屈折的、重層的表現を言うのであろう。「取合」とは素材またはイメージの配合または照応をさすが、これは異質の場合も同質の場合もあるであろう。「こがねを打のべたるやうに……よく取合する」(去来抄)とはその統一性をいうのである。最後の「題の中より云々」はいかなる事か。『宇陀法師』にも「題の中より出る事は、よき事はたまたまにて」とあるが、おそらくは発想の範囲を拡大せよとの謂であろう。F形式の到達も、かかる認識を踏まえてのことと思われる。発句技法の真髄を体得した時、芭蕉にとってすべての切字は、F形式を含めてすべて自家薬籠中のものとなっていた。「きれ字に用る時は、四十八字皆切字なり」(去来抄)とは、その深い自信を示すものであろう。一般が「や」を忌避し、わずかに用いる場合は専らF形式という固定観念を脱し得ぬ頃(⑨⑫参照)、芭蕉はすでに種々様々な「や」を用いていたのである。


七 むすび

芭蕉が達成した俳諧のすべては、その後の俳諧史に大きく影響する。切字「や」の用法も、蕉風復興を叫ぶ天明期以後の俳人達にはかなり正しく理解されたようである。例えば『俳諧天爾波抄』(富士谷御杖)は次のように記している。

文月や六日もつねの夜には似ず  芭蕉
これらいづれも正例なり。この文月やの句は地名ならねど、文月の六日といふべきをといひし句なれば、同じ例なりと知るべし。これより転じて、の字の下をば上とはつゞかぬ事をもよめり。
広沢やひとりしぐるゝ沼太郎  史邦
松しまや鶴に身をかれほとゝぎす  曽良
  (中略)
古池やかはづとびこむ水の音  芭蕉
これら此例なり。……は、他のものゝつきそひがたき心をいふ也。……連俳にては、正例よりも此例なるをむねとする事、さらにこのみての事にあらず、やむことをえざる勢によれり。その故といふは、哥は、もじ数おほくして、いかなる事をも正しくいはるれども、連俳は、字数すくなければ、いかにもして、ひとつのてにはに、多くの心をこもらせ、詞をはぶかざれば、句をなしがたきが故に、此転倒を正例のごとくつかふ也。(赤字部分は傍線)

「上五末や」の本質を極めて正確に解説したものと言えよう。かかる理論的解明は、芭蕉の作品とともに近世後期俳人の実作に充分寄与したことと思われる。蕪村一人についてみても、その句集には

朝露や村千軒の市の音
虫干や甥の僧問ふ東大寺

などのF形式のほか、

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど

のごとき新たな感性を示した、柔軟で多様な「や」の用法が登場する。自己の句境に応じて自由な探究を続けた芭蕉の態度を、天明の詩人は遺産として受け継いだのであろう。そしてまた、近代へと伝えるのである。(北九州工業大学助教授)

一、 志田義秀博士「人口に膾炙してゐる俳句」(『俳文学の考察』収)三三一ページ。
二、 新潮叢書『俳句の世界』一四四ページ。
三、 『竹林抄』の「松風やしたに秋ふく荻のこゑ」など。
四、 この方法をとるものに、先に野中常雄氏「切字を中心とした俳句表現の変遷」(『連歌俳諧研究』七・八合併号)がある。
五、 各句集の使用テキストは次の通り。
菟玖波集―日本古典全書、竹林抄・園塵―続群書類従、宗祇発句集・芭蕉発句集―岩波文庫、犬子集―俳諧文庫、玉海集―日本俳書大系。
六、 切字の種類によって所収句を分類し、その実数、およびそれの調査句数に対する百分比の二つを掲げた(図は百分比のみ)。ただし「や」については、他の切字と併用される場合もすべてその実数に加えた。
七、 切字の一句中における位置によって所収句を分類し、前項同様に処理した。
八、 『俊頼髄脳』に、発句の完結性を説いて、「夏の夜をみぢかきものといひそめし」を「夏の夜をみぢかきものと思ふかな」と改めさせる記事が見える。また、後の『連歌諸体秘伝抄』にも、「かなと云候ては何なる発句にても候へ、難なく候よし先達も申されし、能々相伝すべき子細也」とある。
九、 宗砌の『密伝抄』には「切てには」の語が見えるから、〝切字〟の定着はそれ以後と思われる。
一〇、『宇陀法師』(李由・許六)に至って、ようやく、「切や」の用法にF形式の句(芭蕉の「朝顔や昼は鎖おろす門の垣」)が掲げられた。
一一、各句集の使用テキストは次の通り。
   佐夜中山集・千宜理記・坂東太郎―板本、誹諧時勢粧―尾形仂氏蔵写本、俳諧三部抄―近世文学未刊本叢書、江戸新道・江戸弁慶―俳諧文庫、その他―日本俳書大系。
一二、「や」の使用頻度の変化については、「や」を含む句の実数、およびそれの調査句数に対する百分比の二つを掲げた。「や」の位置の変化については、上五句末に「や」を含む句の実数、およびそれの「や」を含む句の実数に対する百分比の二つを掲げて示した(共に図は百分比のみ)。
一三、この傾向は、寛文期の重頼関係俳書から兆し始める。『佐夜中山集』諷取の部―「や」一三二句中二三句。『時勢粧』―一〇七句中一九句。
一四、岡崎義恵氏も「五七・五と切れる場合でも、音律的には五で先づ小休止を置いて七五とつづけるのが一般的な味ひ方のやうである。」(『芸術としての俳諧』一八ページ)と述べておられる。
一五、川崎寿彦氏『分析批評入門』の用語を借りた。
一六、既に寛文四年刊の『蠅打』では、「右五句共に、大きに初心躰也」とするうちの四句まで、F形式またはこれに類する句を挙げている。
一七、尾形氏等編『定本芭蕉大成』の本位句について、註一二のような処理を施した。
一八、小西甚一氏が、「や」を境とした実・虚また虚・実の形を漢詩表現の影響と説かれるなどその一例。(『文学』三一ノ九所収「兵どもが夢のあと」―芭蕉句分析批評の試み・2―一〇三ページ以下)
一九、横沢三郎氏も「菊の香や…古き仏達」の句を例として、「両者の象徴する情調のとり合せ」を指摘される。(創元社版『芭蕉講座』二「にほひ・うつり・ひびき」七三ページ)

0 comments: