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2019-10-06

【長大な座談会】「切字・切れ」をめぐる諸々 ……筑紫磐井/高山れおな/青木亮人/上田信治

【長大な座談会】
「切字・切れ」をめぐる諸々

……筑紫磐井/高山れおな/青木亮人/上田信治(司会)

●ご挨拶

上田信治:この秋は、元号の切替りだったからというわけでもないでしょうが、俳句の世界では「切字/切れ」論が、にわかに盛り上がりました。

高山れおなさん『切字と切れ』、「新切字論」を含む川本皓嗣さんの『俳諧の詩学』の刊行があり、それらを受けて「豈」62号で特集「現代俳句の古い問題『切字と切れは大問題か』」。

またそれらとは別に角川「俳句」では恒例の(?)切れ特集を、「大特集 名句の『切れ』に学ぶ作句法」と題して、組んでいます。

いい機会なので、さまざまな立場から「切字/切れ」論の、論点の洗い出しと交通整理をお願いし、俳句界の「切字/切れ」論の水準を、一気に引き上げよう、なんなら、最終解決を提示しよう、と。合わせて、上掲の文献、それぞれのプロモーションにも努めましょう、と。そういう主旨で、座談会が企画されました。

まずは、ご参加のみなさん、自己紹介が必要という面子でもないんですが、挨拶がわりに、それぞれの「切字/切れ」観、「切字/切れ」と日頃、どういうスタンスで、お付き合いされているかを、お教えいただけますでしょうか。


1.それぞれの「切字/切れ」観


●「切字だって日本語なのですから」(高山)

高山れおな:私は作品に切字を使うこと自体は、最初からわりと抵抗がなかったですね。理由は簡単で、芭蕉や蕪村が好きだったから、彼らの俳句のいちばん特徴的で、いちばん真似しやすい部分を真似したのだろうと思います。

本にも書きましたが、「俳句空間」で最初に活字になった10句からして十八切字を7句まで使っています。そのうち「や」を使ったのが、

花散るや阿鼻叫喚の箸あまた
惑星や椿の家に笑ひ満ち
麦秋や江戸へ江戸へと象を曳き


の3句。23歳の若書きで、句の出来はさておき、切字の使い方には特に問題はないでしょう。

当たり前ですが、ちょっと擬古的な性格があるといっても、切字だって日本語なのですから初心者だって使うこと自体は難しくない。

虚子の最初の単著である『俳句入門』(1897年)に、〈「けり」にすべきか「かな」にすべきかは、其の時の語呂、調子の暗梅にて定まることにして、こは初学のものといへども大体に於て誤まることなし〉という例によって身も蓋もない記述がありますが、全くその通りだと思います。

上田:実作する分には、感覚で書いて、不自由を感じないものだ、と。

高山:ただ、この3句、見ての通り、句末が体言止めではなく、副詞と動詞の連用止めになっています。頑張って上五末の「や」は使ったものの、句末を体言止めにする古典形式は自分には硬すぎると当時感じていたことを、おぼろげに覚えています。


●「あ、切れの問題、解決してる」(上田)

上田:私は、俳句を書き始めてすぐの時期に『芭蕉解体新書』(1997)に載っていた川本皓嗣さんの「切字論」を、たまたま読んで、「あ、切れの問題、解決してる」と。

それ以来、特に、何も考える必要を感じてきませんでした。

川本先生の「切字論」詳しくは、高山さんの『俳諧の詩学』書評に譲りますが、句の途中にある切字も(「係り結び」的にはたらいて)一句を句末で切るのだ、というのがポイントです。

これは画期的なアイディアで、先生の代表作でもある前著『日本詩歌の伝統』では、まだ提出されていなかった。

これと、大野晋の「係り結び」は倒置法なんだという論と、山田(孝雄)文法の喚体句という論を「混ぜ」ますと、〈蛸壺やはかなき夢を夏の月〉が、途中の「や」をもって句末で切れるということが、感覚として納得できます。

※参考:カレル・フィアラ「古典の係り結びと現代語の文型」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/kls/discuss_fiala2.pdf


●「あと100年後ぐらいには注目される」(筑紫)

筑紫磐井:私の場合、時々切字について書いていますが、変な視点で書いています。

連歌は原始1行書きであった、だから原始の連歌については切字も切れもなかった、連歌が生まれたから切字が要請されるようになったのではない、2行書き表記が発見されてから、切字が生まれた、とか、連歌は575/77以外に57/577の切れ方もあるとか。

当面の皆さんの切字論の役に一向立たないことばかりです。ただ、今は役に立たないでも根本的な問いかけですので、あと100年後ぐらいには注目されるのではないかと思います。

こんな斜視的見方をしているので、高山さんや仁平(勝)さんのような体系化はしていません。その代わり変な話や落とし穴は山ほど用意しました。

今回お話する内容は、頁の都合で「豈」の特集で書き漏らした話をそのまま載せていますので、特集の記事と併せて読んで頂けるとありがたいです。


●「俳諧を主張するものがない時代の現象」(青木)

青木亮人:私は実作の問題というより古典俳諧研究として「切字・切れ」論と出会ったのが最初でした。

大学院の頃は古典俳諧研究の集いに顔を出すことが多く、自然と俳諧や連歌の論文を読んでいたのですが、特に上野洋三先生という方が凄いと思いました。

その上野先生の論を読んでいると、ある時、切字や切れを作品解釈から独立して論じていないことに気付きました。作品解釈の中でしか「切れ」云々と述べておらず、しかも「切れ続き」等の変わった表現で論じている。

上野先生は、浅野信氏の『切字の研究』の発想自体が誤謬として、浅野氏の「文が切れる、ということをも少し正確にいうならば、あらゆる語・句・文がそこで切れて独立した文になる」(『切字の研究』)に対し、次のように述べたことがあります。

切字が、そこで「独立した文」をつくり「叙述の完結」をなしとげるものならば、一章の末尾以外に置かれた切字は、それ以前の部分(甲)を完結したとして、とり残されるそれ以後の部分(乙)は、一章において何なのか。だれでも気付くことだが、乙は「切れ」を介して直ちに甲との或る関係に入るのであり、「切れ」の果たす役割は、甲を完結するのではなく、甲乙両項の関係をつくる、むしろ連続するところに見出されるのである。

したがって問題は、むしろ連続の側にある。といっていいすぎであるならば、裁断と同様の重みをもって連続にある。連続する両項の関係づけにこそ、切字ならぬ切れの役割はあるというべきである。陳述は、その関係においてあらわれるというべきである。(上野洋三「切字断章」、『鑑賞日本古典文学33巻 俳句・俳諧』角川書店、昭和52)
切字や切れ云々は、個々の一句の中で「裁断=連続」がいかになされるかを見届けるのが問題というわけです。

上野先生は、例えば貞門や談林の後に現われた芭蕉の「切れ」の本質を、和歌・漢詩の雅語や本情に対する俳諧性のありようを示す一端と論を進め、そこに芭蕉の「行きて帰る心」をつなげて論じているのですが、そのあたりは割愛するとして、少なくとも芭蕉等の「切字・切れ」云々は「裁断=連続」としての雅語・本情と俳言・俳諧性のせめぎあいの問題として論じられていました。

その後、これは凄いと感じた他の研究者の論文を読むと、俳諧の本質を明らかにしようと作品解釈から独立させて「切れ」のみを論じたり、和歌や漢詩の規範を捨象した俳諧の「切れ」を論じることがほぼなかったので、私自身、「切れ」の理論的な論をあまり熱心に追わなかったのが正直なところです。

例えば、

むら雲やさながら月の笠袋 (『犬子集』、貞門最初の選集)
荒海や佐渡に横たふ天の河 芭蕉

こういった二句を形式的に同一に近い「や」として分類して論じるタイプにあまり関心がなくなってしまった、という感じでしょうか(それがいいことかどうかは分かりませんが……)。

ただ、それとハウツー的に切字の重要性を語る入門書の存在に対する興味は別問題で、例えば私は長い間明治の俳諧宗匠の資料群を読みこんだ時期があったのですが、高山さんが著書で「中世の闇」と仰ったような支離滅裂な入門書は明治期にもかなり出板されていて、その現象自体は研究的にとても面白いと感じ、「凄いことになっているな」と目が輝いたものです(笑)。

そういう入門書は文法についても一通りの説明があったりするわけで、つまり切字を使うかどうか、文法的に正しいかどうかといった以外に俳諧を主張するものがない時代の現象なのかもしれない、と感じたものです。

その点、平成の「切字・切れ」特集は近代俳句の遺産(高山さんの『切字と切れ』最終章、325pあたり)の延命装置として総合誌の誌面を飾っているのだろうと感じていました。

後述しますが、『切字と切れ』がとても面白かったのは、「切字・切れ」が俳句の特徴として要請されること自体の意味や理由、その発生や発展、歴史性そのものを実証的に問い直そうとした点です。

高山:上野先生の「切字断章」は私も読みまして、すごいと思う部分もいろいろありました。1977年のものですから、やはり「切れ」という用語が1960年代の浅野信を先蹤として70年代に一部で広まって行った事例の一つという意味では拙論にとって好都合な面もあったのですが、どうもさばききれないところがあって、本では触れませんでした。

じつは上野先生は、「や」の位置と「切れ」の位置がずれるケースを指摘しているんですね。ところが、それらの「や」が〈一章における切れの位置にもないものとして、切字であることすらおぼつかない〉というふうにまとめてしまっていて、これはやはり川本切字論以前の切字理解ということになります。

あと、根本的な問題としては、「裁断=連続」というのは真理でしょうけど、しかし、それは言語一般の性質とも言えそうです。口頭語であろうと書記言語であろうと、「文」は無数の「裁断=連続」を含んでいます。流れてゆく言葉を裁断し、かつ連続させなければ言語行為自体がなりたたない。上野先生の論じ方は過度の一般化を含んでおり、ゆえに芭蕉の俳句という具体的な作品の読解を離れて「切字/切れ」を対象化できなかったように思えます。

もうひとつ、上野先生は本質的に芭蕉の発句の話しかしていないではないかというのがありました。それ以前の貞門・談林についての記述も、乱暴に要約すれば芭蕉のレトリックはすごいというお話に収斂してしまう。上野先生に限らず、形式の話をする時に、芭蕉句のみを事例にして俳句とはこういうものだとあれこれ言うのは危険です。芭蕉は古典であり規範である一方で、表現史上の特異点ではないかと思うからです。

青木:それはあると思います。芭蕉、蕪村あたりはかなり例外的で、一般的には今や埋もれてしまった宗匠や俳人たちの句に時代の本質といいますか、当時のごく一般的な俳句観があったと思います。その点、私は芭蕉句を謳い上げる上野先生の筆致にやられてしまって(笑)、目が眩んでしまったのかもしれません。

高山:さて、自分と「切字/切れ」との付き合いというところに戻ると、最初にそれらしい発言をしたのは、やはり本に書いたように、復本一郎氏の『俳句と川柳』が出た直後に、「図書新聞」の俳句時評で取り上げた時ですね。

それは2000年の1月29日号でしたが、じつは同年の10月21日号でまたしても書いてる。こんどは「俳句研究」に載った「切字の復権」という鼎談(大石悦子×今井聖×小川軽舟)が対象で、うーん、今読むと何言ってるのかよくわかりません(笑)。

復本本についてはストレートに論理の無理を指摘しただけですが、「切字の復権」評の方は、3人の発言の紹介・批判と自分の制作の方向性の表明が入り混じっておりまして、

最も正統的でありながら、近現代の俳句において忌避されてきた強い〝や〟。この古めかしい切字に象徴されるナニモノカをして、この反動の形式が、現在という《新しい中世》にふさわしく振る舞うための発条とすること。

とか書いてます。おまえ何言ってんだって感じでもあるし、青春だなとも思います。いちおう補っておくと、「新しい中世」という言葉は冷戦後の世界政治の、一強プラス多極化状況をさす用語として1990年代に使われていたと記憶していますが。

その後、「豈weekly」2008年9月6日号で「俳誌雑読 其の一 『切れ』の大問題とは復本・長谷川問題ならずや」という時評を書いてまして、この時、今回の本で言ったようなことを、単なる思いつきとして述べています。この時は思いつきだったものを、改めて調べなおして本にしたとも言えば言える。10年越しの宿題を、いちおう片付けたことになるでしょうか。


2.高山れおな『切字と切れ』について


上田:まずは、高山れおな『切字と切れ』から、いきましょう。それぞれ、ご感想などを、お願いできますでしょうか。


●「平成期のキレキレ論やハウツー的な世界」(青木) 

青木:帯文にもあるように、「平成とは人びとがなぜか「切れ」に過大な夢を見た時代であった」(「はじめに」)という認識に則って論じた点がとにかく面白かったです。

冷静に「切字・切れ」(以下、青木発言では「キレキレ」と略)論自体を評する過程そのものが、各時代のキレキレ論が色々と偏っていたり、破綻していたことの証左になっているという手続きがスリリングでした。

平成俳句の特徴をきちんと論じている点も興味深かったです。

平成俳句が当然と信じている価値観や発想がある時期に発生した流行や感覚だったり、また自然かつ公平と信じている判断が実は時代や環境等に強く影響された偏りのあるジャッジだったりするかもしれない。そういう風に平成期のキレキレ論や他のハウツー的な世界を捉える論点自体が面白かった。特に最終章の「平成の終わりと俳句の夢」の325-326pで語られた指摘は至言に感じられます。

高山:ありがとうございます。俳句に限らず、ある時代の価値観が、過去にさかのぼって普遍的な真理のように錯覚されることはよくあるわけで、切れにも同様のことが言えるのではないかなと思います。

正岡子規が「俳句」という言葉を発明したわけでも普及させたわけでもないことは、秋尾敏氏の論考などによって現在ではさすがに常識になっているのかなと思いますが、以前、驚いたのは、飯田蛇笏が昭和初期の文章で、「俳句」という言葉は子規が発明したとさらっと書いていたことです。蛇笏は、子規の晩年にあたる明治30年代の前半には旧制中学で俳句に関心を持ち始めていたということですから、俳句という言葉の一般化の進行をリアルタイムでは知らないまでも、それが生じた時期からのタイムラグはごくわずかなはずですよね。旧派の俳人がたくさんいる状況も肌で知っていたわけです。それでいてそんなことを述べてしまう。記憶=歴史って簡単に捏造されてしまうんだなと思いました。

青木:平成期のキレキレ論の脚光の浴び方を追っていく際、総合誌の特集が「切字」から「切れ」に論点が移っているという指摘も示唆的でした。特集が年々重なるにつれて変化を付けるためなのか、精神論になっているのか、両方かもしれませんが、平成期らしいなと感じました。

論の内容ではなく、論じ方についてですが、研究論文的な手続きでありながら、さっぱりした江戸っ子的ツッコミや啖呵が随所に織りこまれて、そのバランスが読み物として面白かったです。文体の運動神経がいい、というか。テキパキした躍動感があるんですよね。

上田:先行研究について書かれていても、むやみと面白い。文体の問題でもありますし、内容が先へ先へと停滞しないで進むから、ということでもありますよね。

青木:はい。先ほどの研究論文的な「手続き」というのは、筆者自身と他者の論や意見を峻別して論じている点で、引用元や出典の明記、つまり先行研究の積み重ねをそれなりに追いつつ、自分の新しい知見をプラスして論じようとしている点が俳句評論としては珍しいと感じました。

学術論文では当然で、というよりそれをスキップした学術論文は論文と見なされないことが多いのですが、俳句界では評者がいいと思った先行研究や元ネタ、アイディア等をいずれも自分の意見としてまとめる場合が割合多く、それを知らない読者が読むと内容がいずれも論者の創意に見えてしまうため、研究や論点の蓄積が難しい。その点、本書は珍しいと感じましたし、誠実な本とも感じました。

そのような手続きが自然に身についている筆者ゆえに、キレキレ論の歴史的経緯を追いつつ、その時代ごとの論自体がそれぞれ何らかの偏りや価値観を抱えていたことを論じられたと思いますし、そうでなければ「各時代の論を論じる」発想は出にくいと思うので、当然といえば当然なのですが。

いずれにせよ、学術論文の感覚が身についてしまっている私としては手続きや内容ともに興味深い一書でした。


●「いや蛙は音をたてますよと言われてしまった」(高山)

高山:私は研究者ではないですし、文法に強いわけでもなく、ある意味では手にあまることをあえてやっているという自覚がありました。

最も恐怖だったのが、著者本人と担当編集者(つまり島田牙城さんですが)の2人だけで校閲しなくてはならないこと。勤めの関係で、本格的な校閲がどういうものか、よく知っていますのでなおさらです。今のところパッと見てわかる誤植は2か所しか見つけてないので、他にも誤植やら文法記述の誤りやら、あったとしてもまだましな方かとは思いますが。

しかし、がっくしきたこともあります。〈古池や蛙飛び込む水の音〉を読解した章で、蛙は水に飛び込むとき音をたてないという、尾形仂・嵐山光三郎両氏の説に依拠して論を進めたのですが、蜜柑山のため池のほとりで育った橋本直さんと、この頃、上田さんの句会でご一緒しているクズウジュンイチさんに、いや蛙は音をたてますよと言われてしまった。

クズウさんはナチュラリストですから、蛙の種類と状況別のいろいろなケースについて説明してくださいましたね。いや、私も文献だけに頼らず、蛙の観察に出かけねばとは思いはしたのですが、果さぬままにしてしまってこのていたらく。もちろん、キレキレの本筋とは異なる小トピックスではあるのですが、自分でおもしろがって書いたところなのでちと無念でございます。

上田:とはいえ第四章の「古池句精読」は、この本の白眉の一つでしょう。晩春ではなく、啓蟄の候の作句ともとれる、ということ。「古池」という、この句以外に見当たらない言葉についての考察比較。「飛ぶ蛙」という発想は談林そのものという論の紹介。

そして、なにより、その蛙を追い回して、水に飛び込ませていたある風流人が、滑稽として書き込まれていたのだという意外と説得力のある説……ま、その説得力の一部に「水の音」が関わってくるのですが、ともかく面白いので、ぜひ、本書に当たってください。青木さん、すいません、お続け下さい。


●「ステキな劇薬だな、と思いました」(青木)

青木:いえいえ、ありがとうございます。そういえば、総合誌の特集などを見ていつも不思議だったのが、個々の句の解釈と切り離したところで「切れ」が一種の概念や思想のように語られることがあった点でした。

実作者の信念の吐露としてはいいかもしれませんが、それがハウツー的な特集で見受けられたりするので、読者側はどのように受け止めているのだろう、とも思いましたし、お互いに自身がかかわる俳句ジャンルには他ジャンルにはない「切れ」という固有の特徴があると信じたい時期なのかも、とも感じることもありました。

文法や切字、季語といったもの以外に「俳句」と信じられるものが減ってきた時代の裏返しともいえるわけで、そのあたりを高山さんは鮮やかに指摘されていて、その意味でも『切字と切れ』はなかなかステキな劇薬だな、と思いました。

上田:「俳句」と信じられるものが減ってきた時代、という見方、面白いです。その裏返しとして「切れ」が概念化して、なにか思想の源泉のように扱われる。

高山:上の語が下の語に掛かるか掛からないかを識別するのに切れるとか切れないとか動詞でいうのは結構だと思いますし必要なことです。が、名詞で「切れ」の語を持ち出すととたんに、おっしゃるような不必要な概念化が生じてしまいます。

じつは「切れ」が意味するところについて充分なコンセンサスが形成されているわけでもないのに、一見、便利で何かわかったような気がするものだから、合切袋のようにいろんな要素が投げこまれて、果ては「実存」とか「宇宙開」とか口走る人まで出てきてしまう。

そこまで病膏肓に入るケースは少ないにせよ、一句鑑賞のような場面でも、「切れ」という言葉が不用意に出てくるものは総じてレベルが低い印象は受けますね。それは、対象となっている句から遊離した思念を走らせている兆候ですから、偏見ではないと思います。


●「中立では全くありません」(高山)

青木:今回の本では主に一句独立の発句がメインでしたけど、歌仙や五十韻、百韻での発句の切れ云々について、今回お調べになった研究等で興味深いものなどありましたでしょうか。

あと、大雑把な括りですが、連歌と俳諧における「切れ」の要素の大きな違いといったものを論じた先行研究などありましたでしょうか。

高山:それに近いのは、田中道雄氏、藤原マリ子氏の論文でしょうか。こんどの川本先生の「新切字論」もそのあたりを重点的に調べなおされています。田中先生の論文は、「週刊俳句」の同じ号で再録しましたのでぜひお読みください。おもしろいと思いますよ。

しかし、それにしても痛感したのは、自分は連歌についてなんも知らないなということです。今回、付け焼刃で百韻連歌なども少々読んだわけですけど、これは猛烈に難しいものですね。近世俳諧のことだってたいして知りやしませんが、連歌は段違いに難しいと思いました。

近世俳諧の難しさは事項というか、単語を知ってるとか知らないとかが主だと思いますけど、連歌は用語はむしろ雅語に限定されていますから、知っている言葉がほとんどです。

難しいのは言い回し、発想のあや。ほとんど全ての句(発句と平句とを問わず)に本歌があり、本意・本情が張り付いている。なるほどこれに比べれば俳諧連歌は簡単で、だからこそ初期俳諧の時代、俳諧は連歌への一階梯という扱いだったのだということが少しは実感できました。

上田:どれだけ高度な遊びが、私たちの知る俳諧の前史としてあって、それが消失したか、ということですね。なるほど。

高山:『切字と切れ』は、自分としては切字と切れをめぐる歴史読み物の体裁で書こうとしたので、ハウツー本的といいますか、こうしましょう、ああしましょう式の物言いは極力しないように心がけました。

とはいえ中立では全くありません。帯にある〈平成俳壇を覆った強迫観念を打破する〉という惹句はシャレでもなんでもなく、一貫してそれが目標でした。

一方で、客観性は担保する必要がある。しかし、こちらも、特に中近世の切字説の読解など、十全の自信があるわけではありません。天保時代の北元という人の切字説など、翻刻こそあっても、内容に踏み込んだのはあるいは私が初めてかも知れない。それなりにやれてるとは思うものの、不審があったら、あるいは興味があったら、みなさんそれぞれすぐ確認できるようにという意味でも出典註はうるさいほど付けました。

上田:「切字」というトピックをめぐって俳諧史のおさらいができる。勉強になるし、読み物としての魅力は十分です。

しかし、本書の同時代的あるいは歴史的意義は、青木さんも言われたように、最終ページ近く「切れ」神話の解体終了宣言のような部分「多くの俳人が、切れをめぐるさまざまな、文字通りの『夢』を語りはじめる」にはじまる「平成の終わりと俳句の夢」という一節にある。

ある若い書き手と話していて『切字と切れ』は、「『角川俳句』的なものにメスを入れた歴史的著作なんではないか」ということを言っていて、彼もそういうことを感じたんじゃないかと思いました。

高山:「『角川俳句』的なものにメスを入れた」というのはよくわかりませんが、筑紫さんの「俳句上達」主義批判を参照している部分があるのは確かで、上田さんの今のおまとめは著者としてはうれしいです。

しかし、俳句界全体の平均的なリテラシーは、お三方よりはだいぶ低いわけで、読者の半分くらいは誤読するんじゃないかと私は疑っていますが。

つまり、高山は切字とか切れというのは大切なものだと言っていると受け取られるのではないかということです。実際、献本に対する礼状の中には、強い誤読の気配を感じさせるものもありまして。

上田:タイトルだけで、味方だと思われるということは、ありそうですね。

筑紫:『切字と切れ』は力作ですが、高山さんが書けば書くほど「切れ」の言説が増えて、逆に「切れ」が一種の権威化しないか心配です。

早い話、『切字と切れ』は余りにも長いので読みきれず中途半端に消化するために、この本は「切れ」の実用的入門書だと誤解している人がかなりいるようですね。むかし『資本論』を資本家が労働者を収奪して金儲けするためのHow to本だと理解している人がいました。まあ、それも案外正しかったのですが。

高山:『定型詩学の原理』の著者に、余りにも長いなどと言われるのは心外ですが、書物の運命としてはありそうなことですね。


●「秋山って男は知っていますか?」(筑紫)

筑紫:非常に末梢的なようにみえますが、現俳壇の全貌がよく分かる記述があります。

『切字と切れ』198頁の注5に、「1990年代前半の『俳句』誌における各種入門特集において切字の項目にあてられた頁数を挙げる」とあります。力作のデータですが、なぜ1990年2月~1996年4月なのかが問題です。数字としてのきりはいいですが問題はもう少し深いところにあるようです。

高山:ええと、いちおう申しておきますと、今回、そうした記事調査は、基本的には総合誌に限定し、結社誌には手を出してません。そして、「俳句」や「俳句研究」の目次は全部チェックしています。

筑紫さんが言った註の記事列挙が1990年2月~1996年4月の範囲になっているのは、まさに秋山流の入門特集で切字の記事があったのがこの範囲だったからです。最初に年ありきで、きりが良い1990年からのデータを載せたわけではありません。そして1997年以降の大規模化したキレキレ記事は註ではなく、193~195ページの本文に列挙しました。

上田:1999年の復本一郎『俳句と川柳』以後、「切れ」という鍵用語が一気にトレンドになり、総合誌は「切れ」をタイトルにした入門特集を、連発しはじめる、というご指摘ですね。

筑紫:秋山の特集の総目次を作ってみると面白いですよ。秋山みのるは角川書店の「俳句」の編集にあたり1987年2月から1994年8月まで独自の俳句上達法特集を毎号飽きることなく続けました(途中から「結社の時代」とネーミングしていますが)。角川書店の「俳句」のドル箱となった特集企画でした。実はそれが高山さんが挙げた切字特集の時代と重なるのです。1990年以前のデータも入れるとぴったり合います。

秋山の俳句上達法特集の最初は、季語や旅吟の上達法でしたが、2年目辺りから数個のテーマで順次廻し、その重要な一つが「切字」であったのです。その後の数年間は「切字の時代」といってよかったし、それによって俳壇の大家・中堅・若手の洗脳が進んだようです。

その証拠に、秋山が編集長になる前は「俳句」で「切字」の記事はほとんど無く、編集長を退任したあとは多少の余韻はありましたがどんどん減少しました。また「俳句」以外の総合誌はほとんど「切字」特集はやっていなかったように思います(少なくともこれほど沢山は)。

秋山は雑誌編集の天才であるとともに、俳壇を堕落させた張本人です。賞賛を籠めて「悪魔」と言ってもいいです。

例えばその入門特集では、錚々たる大家一人一人に僅か1/2頁で切字を論じさせたりしています。今回の「俳句」の大特集(一人当り4~6頁)と比較してみて下さい。全く馬鹿にしていますよね。

私が一番情けなく思ったのは、俳句入門の極意を阿波野青畝・加藤楸邨・飯田龍太に1頁で書く特集を依頼しているのを見た時です。多分、飯田龍太が俳壇に絶望し、「雲母」を廃刊し、俳壇から引退した理由は秋山にあると思います。その意味で俳壇史に残る人でした。

ただ、同時代人として付き合ったので非常になつかしい人ではあります。敵ではあっても私のことは好きだったようです。ここまで言って何ですが、皆さんは、秋山って男は知っていますか?

上田:磐井さんが書かなかったら、忘れられてしまった方かも知れない。俳号の秋山巳之流で検索すると、角川春樹との交流とか、いろいろ出てきますね。

高山:いちどだけ秋山氏を目撃したことがあります。角川春樹が山本健吉賞を受賞した際の贈賞式で、場所は山の上ホテルじゃなかったかな。天才かどうかは存じませんが、キャラが濃くてあの春樹氏に全くひけをとらないのには驚きました。辺見じゅん氏もいましたけどこれも濃かった。車椅子の森澄雄が賞を与えるんですが、ちょっとしたヴァルプルギスの夜でした。

青木:関西にいた頃、実作者の方とお話していると、いわゆる秋山時代を語る方は多かったですね。バーで俳句の話をするうちに喧嘩になりかけたとか(笑)、当時の誌面がかなり変わったのがはっきり分かった、とか。

今、仰った「切字特集時代=秋山編集時代」というご指摘は、高山さんが引いたアウトラインにいわば肉付けしていくような感じで、とても重要に感じます。

筑紫:「切れ」が広く普及したのが1999年の復本さんの『俳句と川柳』が原因だとすると、「切字ブーム」と「切れブーム」は、仕掛け人から見てもはっきり分けて考えた方がいいと思います。

高山:仕掛け人が違うから「切字ブーム」と「切れブーム」を分けよというのは首肯しかねます。復本さんの本の影響力は大きかったとはいえ、その影響力自体、それ以前からの流れに乗ったからこそのものです。

秋山氏の路線が一定程度の成功を収めたのは、大衆の側に需要があったからです。仕掛け人が全ての流れをコントロールできるなら、秋山氏は死ぬまで編集長をやっていたはずでしょう。

筑紫:大衆の声があったから「切字ブーム」になったわけではないように思います。

たしかに俳句上達法そのものは大衆の声があったかも知れませんが、俳句上達法の中で季語や吟行、添削などを挙げてゆくのは至極常識的でしょうが、切字を入れたのは秋山の独創だと思います。なぜなら明治以降、秋山まで切字ブームは存在しなかったからです。切字を(あってもなくてもいい)盲腸から致命的内臓系に変えたのは秋山です、秋山をあなどってはいけないですね。矢張り悪魔のような存在です。

秋山時代を以て「文学としての俳句」は滅んだと思っています。1994年8月に「俳句」の編集長は退任しましたが(これは前年8月の角川春樹氏のコカイン逮捕事件をめぐる角川書店内の暗闘でしょう、俳句史・俳壇史的には関係ないと思います)、逆にいえば、『俳句』の編集長はクビになっても、彼の作りだした切字ブーム、その派生の切れブームは連綿と続き、平成が終わった令和にまで引きずって、我々をこんなに騒ぎ廻らせているわけです、みんな秋山の天才のせいでしょう。

秋山は言います「雑誌編集者の勝負の分かれ道は、「新しいキャッチフレーズ」を発見できるかどうかにかかっている」「わたくしの場合は、自らのたてたフレーズをすぐに打ち壊していくのが、商業雑誌の仕事であった」。

〈俳句上達法〉の名称より〈結社の時代〉の名称の方が一世を風靡しましたが、晩年には「もはや『結社の時代』は終った」といいます。こうした機敏さが、切字ブームにも影響しているのではないかと思います。

「切字ブーム」と「切れブーム」を分けるのはおかしいといわれますが、上に述べたように「切字ブーム」は秋山という独創的個性が単独で作りだした幻想であると考えます。俳句一般大衆や、俳壇ジャーナリズムは余り関与していないと思います。一方「切れブーム」は、秋山の「切字ブーム」が作りだした派生ブームですが、ただ、今回の「俳句」特集で見て分かるように、初心者向けには、いったん「切字」に落とさないと「切れ」は論じにくいことから分かるように、秋山なくしては「切れブーム」が生まれなかったことは確かでしょう。


●「現在書きたいテーマは3つあります」(高山)

上田:すでに、だいぶ長大になりつつありますが、もう一言ずつお願いします。

筑紫:高山さんが評論集を出すと決めたときに呼び出されて相談を受けました。すでに豈Weekly等であちこちに喧嘩を売り、論客として名を馳せていたから申し分ないと思ったのですが、『切字と切れ』と聞いて「?」と思いました。

確かに当世風論争で結構ですが、この本で高山さんが密かに企図しているように俳壇から「切れ」が殲滅された場合、この本の価値は後世どこにあると考えればいいのかな、と考えたのです。巨人軍がいなくなったあとのアンチ巨人軍はどこに行くのかな、という感想でもあります。

もちろんこれは第2部についての感想で、第1部は堂々とした切字論だから、川本、仁平と堂々とやり合えばいいし、勉強になることが多かったです。

青木:最終章末尾の一文に「今や、平成の三十年間がほったらかしにしてきた主題や主体の問題こそが、あらためて議題にあがらなくてはなるまい」と記されていました。平成期が等閑視した「主題」「主体の問題」とはどのようなものなのでしょう。

高山:あそこは勢いでああいう書き方になっていますが、まずは自分自身の問題だと思っています。特に「主題」の方で、これから自分は何を書くのかという素朴かつ切実な問題があります。

そこから翻って俳句界全体を見回しても、平成の30年間はどちらかといえば「どう書くか」の追求に血道を挙げた時代で、「何を書くか」は等閑に付されたというか、要するに主題=季題で済ませようとした時代だったのではないかと思います。

逆に主題=季題で済ませている人たちが「どう書くか」を追求したところで、「俳句上達」以外の指針が出てくるはずはなく、その流れで切字とか切れといったつまらないテーマが妙に前景にせり上がってきたのではないかというのが私の見立てです。

「何を書くか」と「どう書くか」がリンクして展開していた昭和の特に前中期と、平成で大きく異なる点ではないでしょうか。

そしてその結果、平成の最後に何が起こったかというと、金子兜太の勝利です。「何を書くか」と「どう書くか」をリンクさせていた時代の中核選手の最後の生き残りによって、「俳句上達」の選手たちが、のきなみ足払いをかけられてひっくり返ってしまったというか……。

断っておきますと、私は金子兜太は好きですよ。しかし、だからと言って平成が金子兜太の時代だったはずがない。兜太で平成を代表させてしまうような袋小路へ陥ってしまった、我々がみんなで形作っている、批評的あるいは社会的な枠組は常識的におかしいと思う。……という直観が拙著の末尾の記述の背景にあります。

で、自分としてどうするかですが、文章の方で現在書きたいテーマは3つあります。

1  連作論
2  攝津幸彦と仁平勝と筑紫磐井 団子三兄弟序説
3  過去50年間の俳句史

1の連作は、現在ではそもそも存在しないものとされているのですが、実際は隠れキリシタンのように伏在しています。必然的に新興俳句時代の議論や実作を振り返ることになりますし、短歌への目配りも必要になります。また、主題無しの連作はあり得ず、五七五で一句作るのとは違う次元で制作主体が自己と向き合うこともおのずから要請されます。

2の3人組は、もちろん私自身の個人的な関係性によって選ばれているわけですが、昭和末年を代表する新進にして前衛残党だった人と、なんだかんだ平成の俳句批評を牽引してきた2人という顔ぶれですから、思いのほか多彩な問題系を引き出せるのではないかと。まあ、勘でございます。

で、1、2を踏まえて最終的に3になだれこんで、ここ50年間の俳句の表現、俳句の社会に何が起こったのかということを書きたいと思うわけです。

本の方では「平成無風」というフレーズを話の流れを作る道具として使いましたが、本当になにも起こらなかったと思っているわけではもちろんない。ただ、まだそこで起こったことを歴史化する作業がなされていない。なのでやろうと。

が、私も忙しうございまして、果たしていつ書けるやらというか、それ以前にいつ勉強できるやらと茫然としている次第です。

今は青木さんがいろいろなところで近過去の歴史、たとえば辻桃子の『俳句って、たのしい』の意味などお書きになっているのを拝見して感嘆しながら、自分もいつか書きたいなと思っている段階です。

青木:「だからと言って平成が金子兜太の時代だったはずがない。兜太で平成を代表させてしまうような袋小路へ陥ってしまった」という指摘は興味深いです。「平成無風」の裏返しともいえるわけですし。私の見立てでは、平成期は昭和期俳句の財産を時代へ継承していく時期で、いわば初代・二代目の蓄積を次へつなげる三代目・四代目的な立場かな、と。令和期も引き続きそうなのかどうかは分かりませんが、その象徴の一つとして平成期の金子兜太ブームを捉えるととても興味深いです。

私が以前から書かせてもらっている「円座」での辻桃子論や1970~90年代の俳句論ですが、内容以外の俗世的な諸々の事情で現在ストップ状態になっていまして、ぜひ高山さんの戦後俳句史、拝見したいです。


3.「豈62号」特集『切字と切れは大問題か』について

●「みなさん「飛ばして」ますよね」(上田)

上田:つづいて「豈」誌の特集に移ります。高山さんは、本一冊書かれたあとですから、楽しく自句自解をされている(「自句自解切字之弁」)わけですが、川本さん、筑紫さん、仁平さんは、みなさん「飛ばして」らっしゃいますよね。

筑紫:「飛ばす」ってなんですか?

上田:川本さんの「切字とは何か、何だったのか」では、連歌・俳諧の作法書における「切字」の特別視や目録化が「幅広い愛好家への普及をめざしたものだったのではないか」と、書かれていて。これ、要するにみんな、秋山編集長だったんだ、ってことですよね? 

他にも「句中のどこにでも切字一つありさえすれば」発句ということになっていたのは、身分の高い人も多かったであろう初心者や中級者のためとか。「けり」が「や・かな」と同列視されるのは、古典由来ではない、石田波郷はなんでそれを言ったのだろう、という疑問とか。

短い文章で、どんどんアイディアが提示されることにも驚きますし、識見があるというのは、なんと過激で遠慮のないものなのか、と。

高山:しかし、川本先生の文章の末尾の方にある、「続々と新しい季語が開発されているように、他にもっと現代的な響きをもつ切字を案出することもできよう」という意見はいかがかと思いますけどね。

切字が真に切字である時代は連歌とともに終わったのであって、俳諧時代の切字は実体としては要するに修辞のうちのテニハ的な部分にすぎない。それを明らかにしたのがまさに川本先生のお仕事だったのに……。現代的なレトリックを続々と開発せよというのならもっともですが、現代的な切字の案出というのは意味がないでしょう。

上田:なるほど。川本さんの言われているのは、筑紫さんがここで言われている「文体」の話ではありますね。

高山:近現代の「や」とか「かな」というのは、さしずめフランスの旧貴族のようなものですよ。貴族制度はなくなっても、オルレアン公爵とかパリ伯爵とか、社会的慣習として称号は生きていて、血統に対する敬意やスノビズムも残っている。

旧切字貴族の公爵が「や」「かな」で、「けり」は成り上がりの子爵くらいなものでしょうか。「もなし」「もがな」は昔はたいへんな権門だった侯爵なんだけど、すっかり落ちぶれて庶民並みの貧乏になってるんですな。「ぞ」「か」「し」は伯爵で、今や「けり」の後塵を拝しつつもまずまず体面は守っている。で、旧切字貴族も旧フランス貴族と同様に領地も特権も持たず、法律上の位置付けもない。切字と言ったってそれはあくまで称号の話でしかないわけです。

上田:戻りますと、筑紫さんが同文中で書かれている「私はレンキストではなく俳人」なので、後句とか、それとの切断とか、どうでもいい、とか。

つづけて筑紫さんが、さりげなく「例えば『や』が、前句(五七五)が俳句らしさを持つための言葉だというなら、はっきりそういえばいいのだ」と書かれていて、それも、重要な論点だと思います。 

波郷の切字論などは、そういう「らしさ」のレベルの問題ではないかと。

さらに、仁平さんの「『切れ』よ、さらば」に、自分は、吉本隆明の「文学について理論めいたことを語るとすれば巨匠のように語るか、あるいは普遍的に語る以外にはない」を原点とするものであるから、れおなが何を言おうが、五七五定型の「本質論」にしか興味がないのだ、とか。

青木:その点、論者の信念がストレートに出ていて、書きたいことを書いた感じがあって、読んでいて面白かったです。信念というのは、「書きたいこと」と「書くべきこと」が混じり合っている、というか。

個人的に印象深かったのは、仁平さんの最後の一節、「そろそろ別れどきかな。」で終わるところ。色々あってもつれたりしながらも細々と長く続いた男女が互いの関係に疲れてしまい、そろそろ別れを想うみたいな感じで(笑)、逆にそういう風に「切れ」との関係を感じる実作者の方もいるのだな、というのが興味深かった。

上田:はい。以上、これらの書きっぷりを、感想として「飛ばして」いるなあw、と。


●「『平句』というのは差別用語ですよね」(筑紫)

筑紫:なるほど、では飛ばさないで言いましょうか(笑)、「豈」の特集は高邁な理想がありそうにみせつつ、実は『切字と切れ』の販売促進キャンペーンなんです(笑)。

人選は高山れおな。誰が引き受けてくれるか、どんな内容になるかは全く分かりませんでした。皆さん真面目に論じていただけたのは感動しました。

上田:けっきょく皆さん、平成の俳句論壇でいう「切れ」論を無効化するベクトルで、一致している。

筑紫:一つだけ不満が。仁平勝が平句説を取り上げ、虚子は平句だ、自分は今後平句を目ざしているというのは勝手ですが、他人(特に私)を決めつけるのは止めてほしいですね(笑)。

確かに私の先生の能村登四郎は切字も余り使わず、切れのない句も多いですが、これは能村登四郎だけの特色ではなく、昭和22年~24年の馬酔木の新人群の特色で、当時一世を風靡したのは、切字、切れのない句の

見えねども片蔭をゆくわれの翳 秋野弘
春愁のむしろちまたの人群に  岡野由次

等の句でした。ここに挙げた句は、当時の登四郎や湘子などの句よりはすぐれていると思います。こういう作風がすでに確立していたので、いくら切字派の波郷が馬酔木に復帰しても(23年)、切字は誰も使わなかったようです。

連句がなくなったので余り差別していう必要もありませんが(と言いつつ矢張り「平句」というのは差別用語ですよね。使う側でなく使われる側からすると)、強いていえば、「平句」などではなく、「切字・切れのない立句」を目ざしていると言って下さい、仁平さん!

上田:筑紫さんの文章のタイトル「「文体」よ、こんにちは」の「文体」について、お話いただけますか?

筑紫:訳のわからない「切れ」ではない、適切な用語を提案した方がいいと思い、それで「文体」と言ってみたものです。

川本さんの本でもその表現はあるようですし、「文体論協会」の機関誌に「切字」を論じた立派な論文が載っているくらいですから、余り問題はないでしょう。

文体の中に、切字もあれば、切れもあり、F形式もあれば、「田楽」構造(後述)もある、多行があれば、分かち書きもある、2句1章も、1句1章、冠句付け(冒頭5文字で必ず切る)もある。それらを相対的に見た方が理解が深まるし、実作にも役立つでしょう。

麿、変? 高山れおな
吾と無  筑紫磐井

などは、切れ論で批評するのは無理(そもそもそんなことをする意味がありませんから)で、むしろ強いて言えば文体論的に解釈するのでしょうね。

上田:文体と切字の関係は、どう位置づけられますか?

筑紫:「切字」「切れ」は一見「時代の文体」のようにも思えますが、個人の文体に落としてみるともっと面白いです。近代俳句において最も挑戦的な表現者であった作者は河東碧梧桐でした。ただ、『春夏秋冬』『続春夏秋冬』『新傾向句集』時代ですら碧梧桐は虚子と大して変わらない「かな」の愛用者です。

ところが、『八年間』と言う句集(大正4年~13年の作品)1冊で驚くべき変貌を遂げます。この句集を年代順に見ると、当初虚子以上に「かな」を頻繁に使用していましたが、急速に「かな」が減少し「けり」「り」が増加し、やがて切字は一切用いず、最後は口語表現に変わっていきます。詠む内容に応じて文体変化が連動したのです。

その節目を見ると、大正4年に長谷川如是閑と多くの部隊を編成して北アルプス踏破の冒険に出て、自然の見方ががらりと変わったのです。第2の節目は大正7年の支那旅行です。作家は文体を選択できると思いこんでいますが、むしろ俳句の内容、作者の関心・視点によって使われる文体が異なってしまうと見た方がいいかも知れません。これはもう切字・切れを超越した問題です。

かな時代:布団二つ敷けば大佐渡小佐渡かな
けり時代:雪田をすべり来る全き旭となれり
無切字時代:客間のうたた寝のよれよれの白服
口語時代:麦秋の馬に乗る皆が長い足を垂れた


●「仁平切れ論は、ここにきて破綻したのでは」(高山)

高山:またしても訂正からはじめますと、「豈」特集の筆者の人選は確かに私がしましたが、特集してくれとは頼んでません。「週刊俳句」にはこちらから持ち掛けましたけど、「豈」の特集は筑紫さんから出た話です。動機は販促ではなく、筑紫さんが炎上好きだからでしょう。

「俳句新空間」の特集告知に対して、田島健一氏が「煽りすぎ」とツイートしてましたが、私もひそかに胸を痛めておりました。「豈weekly」も十年一昔で、今は人に喧嘩を売ったりする元気はないです。

と言った舌の根も乾かぬうちになんですけど、仁平さんの「『切れ』よ、さらば」は、私も突っ込みどころの多い文章だと思いました。要するに仁平切れ論は、ここへ来てはっきりと論理的に破綻してしまったのではないかということですが。

私の理解では仁平さんの切れは、直接には句末での脇からの切断のことであり、発句が連句から独立して俳句となって以降もその意味での切れの性質が形式のうちに保存されているということでした。〈俳句が「切れ」を必要とするのは、「五・七・五という音数律そのものの不安定さ」によるもの〉であり、〈そうした定型の本質を「俳句は短歌にくらべて相対的にみじかいのではなく、絶対的に不安定なのだ」〉というわけです。

つまり、仁平的な切れというのは、そもそも切字や句切れの有無とはかかわりのない概念だったはずです。実際、仁平さんは『詩的ナショナリズム』の中で、

手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬
繃帯を巻かれ巨大な兵となる 渡辺白泉

の両句を比較して、前者は川柳であって切れがなく、後者は俳句で切れがある、その結果としての表現の違いは……というふうに論じていたわけです。

ところが今や仁平さんは、虚子の〈梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け〉とか〈婦長來て瓶の櫻をなほし行き〉を〈「切れ」のない句〉であるとして、〈「平句体」と名づけた〉なんて言うわけです。

しかし、そもそも論として仁平さんの切れは、先ほどの鶴彬・渡辺白泉の比較を見ればわかる通り、切字・句切れの有る無しとは関係がない概念なのだから、虚子のこれらの句に切れが無いとする筋合いはないはずです。これらの句もまた、〈五・七・五という音数律そのものの不安定さ〉を帯びた〈絶対的に不安定〉な形式として俳句なのであり、切れがあるということでなければおかしい。まさか、白泉の句は句末が終止形だから切れがあり、虚子の句は連用止めだから切れが無いのだとでも言うつもりですかね。

結局、仁平さんは自分の切れ概念を、切字や句切れの有無というところに退行させてしまったわけです。

「平句体」という呼称もよくないですね。『虚子の近代』で使っていた「〈句日記〉体」の方がいいと思います。

平句には短句もあるし、切字が入ることもざらにある一方で季語は必須の要件ではない。何より前句を受けるのが平句の本質ですが、挙がっている虚子の句も、ハマって作っているという仁平さん自身の句も当然ながら前句とは何の関係もないはず。

仁平さんが言うところの「平句体」の本質は、要するに日常とベタに地続きの意識のうちに、言葉を定型律に流し込むことで微かに発動する詩的なおもしろみ、みたいなことでしょう。だとすればまさに句による日記であり、「〈句日記〉体」でいいじゃないですか。

というような発言を読んで、おまえ(たち)の注文に応えて力稿を寄せてくれたのに、あれこれ言うとは失礼じゃないかと感じられる向きがあるかも知れません。しかし、それは違います。占星術師が川本先生、仁平さんという星の動きを観察して記述しているのです。いわば2019年秋の「星界からの報告」です。ちなみに筑紫星は、煙幕による遮蔽がほどこされており、観察できませんでした。悪魔の力が働いていると思われます。。

青木: 「平句体」か「句日記体」かはものすごく重要な指摘で、「平句体」とすると、江戸俳諧の歌仙の世界から近代俳句が(論上は)つながっているという認識の上での判断となるでしょうし、「句日記体」と見なすと、俳句界では、主宰虚子の個人雑誌という位置付けの「ホトトギス」で連載された主宰動向の報告も兼ねた日記のスタイル、という認識になる。どちらが正しいかというのではなく、「切れ」の有無の歴史性を踏まえる論としてどちらの語を使用して論じるかは、「切れ」や虚子を捉える上で大きな違いになる気がしました。


4.「俳句」2019年10月号「特集 名句の『切れ』に学ぶ作句法」について


●「まあ、注文が入ったらああいう書き方になる」(筑紫)

高山:今回の「俳句」の「名句の『切れ』に学ぶ作句法」では、山西雅子さんが、「総論『切れ』とは何か? 一句を成就させるもの」を担当しています。

さすがに山西さんだけあって特に変なことは書いてないですけど、しかしこの文章、実際は切れの話ではなくて切字の話ですよね。

筑紫:「切れ」特集と言うより「切字」特集でしたね。まあ、注文が入ったらああいう書き方になるのは当然で、山西さんも頑張っているのがよく分かりました。「豈」の特集のような注文がいったら同じ人でも全然別なことを書いたでしょうね。

高山:切れ特集の総論を注文されたわけだから切れという語を使わざるを得ないんだけど、切れという言葉を使わなくても成立しそうだし、実際そうした方が論旨もすっきりしたのではないでしょうか。切れという言葉を使わずに、主要な切字使用のパターンついて、その機能を説明すれば用は足りる内容のように思います。

筑紫:その意味では秋山の30年前の編集が今もって続いているような気がしました。考えてみると「切字」特集の編集モデルは秋山が作りましたが、「切れ」特集の編集モデルなど、抽象的な切れについては、座談会で参加者が放談する以外にやりようがないように思います。

確かに1999年以降「俳句」からは「切字」特集は絶滅しましたが、実は「切れ」特集は切字を踏まえて特集を組み立てている(先ず何種類かの切字に分割して、それごとに切れを論じさせる)に過ぎない気がします。

特に今回の「俳句」10月号の特集ではそう言えます。我々は既に亡くなった秋山の怨霊の下で、今なお生きている感じがしました。その意味でも、矢張り偉い男だったと思います。

「俳句」編集長の立木さんが、5月号の編集後記で、入社したばかりの立木さんが見ていると、秋山が女性スタッフ二人を連れて蕎麦屋に行くために往来の途絶えるのを待っていた、「どこか不良中年達みたいでカッコよかった」と書いていますが、俳壇を「俳句」が牛耳れる古きよき時代だったのでしょうね。これは雑談。

高山:2000年以降、「俳句」や「俳壇」が盛んに切れ特集を組んできたことは拙著でふれましたが、それらの特集に登場する筆者の態度も一様ではありません。復本一郎、長谷川櫂、恩田侑布子といった方々はもちろん勇躍して書いてますけど、迷惑気というか、かなり困惑気味に書いている人もいます。

最も冷静端的なのが片山由美子氏(「俳句」2004年3月号 「切字と切れ」特集で総論「現代俳句における切れの認識」を執筆)で、これはやはり切字に冷淡な山口誓子~鷹羽狩行という系譜につらなる人なればこそでしょう。

山西さんは困惑はしてないまでも、ノリノリで書いているわけではないのは確かですよね。


●「機械的な読み/詠みが軋みをたてる」(青木)

高山:切れという語の問題を離れて単純にいかがかと思える点を、まあ、あんまり意味はないですけど、少しだけ指摘しておきます。

いちばん驚いたのは、柏原眠雨さんの「『や』の効果 詠嘆と配合」でしょうか。〈もともと切字が考案されたのは、連歌において第一句(発句)のみに求められる完結性(独立性)を担保するための句末の切れの語としてであったから、「けり」や「かな」の切字と同じように句末を「や」で切る形はごく自然であった。……「や」が句末に来ても、不自然であるどころか実は本来の用法だったことになる〉とありますが、前半の切字の発生史の理解はいいとして、後半の「や」が句末に来るのが「本来の用法だった」というのはすごい。とにかくすごい。

鶴岡加苗「『けり』の効果 『気づき』から『詠嘆』まで」では、〈硯洗ふ墨あをあをと流れけり 橋本多佳子〉〈かたつむり肉(しし)を余さず仕舞ひけり 小原啄葉〉といった句を、二句一章・一物仕立てで〈上五のあとにも軽い切れが入ってい〉る句としてカテゴライズしています。

しかし、これは韻律上の休止の話としては適合的ですが、「硯洗ふ」が終止形で独立句になっているのに対して、「かたつむり」は「仕舞ひけり」の主語なのですから、意味上、構文上の働きは異なります。

鶴岡さんに続いて登場する伊藤伊那男さんは、〈私は間も切れの一つであると思っている〉と述べていて、鶴岡さんも同じ立場ということになるのでしょうが、韻律上の間=休止と意味・構文の切断を切れの語でまとめてしまうのは、典型的な合切袋の例で、私ははなはだ疑問です。

筑紫:むかし、山本健吉が波郷の

雁の束の間に蕎麦かられけり

の最初の「の」に切字と同じ効果を見ていると先輩から聞きました。

当代で言うとここに「切れ」があると言うことなのでしょうか。若干頭に引っかかっていたので『現代俳句』で確認するとそんなことは一言も言っていませんでした。

「意味の上ではもちろん修飾ではないとしても、リズムの上では修飾に近く、むしろそれは枕詞や序詞のような軽快な効果を感じさせるのです。「雁の」は半ば虚辞であり、半ば実辞であるという感じであります。・・・このような微妙なテニヲハの用い方を素人は決してするものではありません。」が正確な言い方でした。

分かりにくくはありますが、流石に健吉らしい着眼です。当代で言えば粗雑に「切れ」と言ってしまうところを、文体論で解釈すればもう少し奥深いものになります。と言うより、一句一句で文体論は異なる意味と機能を与えてゆくことになるのです。

高山:いや、まったく。「俳句」の特集に戻りますと、伊藤伊那男さんの「『や・かな・けり』以外の切れ 芭蕉の『切れ』」は、いきなり〈宗祇が……十八の切字を整えた〉とかましておいて、「ぞ」によって生じる切れの例として、〈寒けれど二人寐る夜ぞ/頼もしき〉〈夢よりも現の鷹ぞ/頼母しき〉というふうにスラッシュを入れて芭蕉の句を引いています。川本皓嗣先生の「切字論」さえ読んでいないことがわかります。

また、「よ」の用例として四句を挙げ、〈相手に念を押して確かめたり、命令する「よ」である〉と説明しています。でも挙がっている句の「よ」は全て、下二段活用・上二段活用の動詞の命令形の語尾です。〈命令する〉という働きの説明は間違ってないとしてもそれは動詞の命令形なんだから当然です。提示の仕方からすると間投助詞のつもりで「よ」を立項しているように見えるんですが、そのあたりの識別に注意しておかなくていいのか。

青木:個人的には、鴇田(智哉)さんの論が興味深かった。実作の現場でいかに使うか、読むかというハウツーものの括りの中で、鴇田さんが読解を粘り強く例示しながら「こうかもしれない、ああかもしれない、しかしこうだろう」といった論を進めつつ、その論タイトルが「機械ではなく」というのが印象的でした。語るにつれて、また「切れ」の読みの可能性にこだわるにつれて、「俳句」特集テーマが前提としている「機械」的な読み方・詠み方が軋みを立てる、というか。

高山:そうですね。柏原さん、鶴岡さん、伊藤さんの文章に不充分なところがあっても、それは要するに相対的な知識の多寡によるもので、特に奥行きのある論点にはなりません。鴇田さんの文章がはらむ問題はそれらとは異なるものだと思いますが、しかし、これについて述べると長くなりそうなので、川本先生の『俳諧の詩学』を書評する後ろに続けて書くことにします。


5.いっこうにまとまらないまとめ(仮)

上田:まったく、まとまる気配がないわけですが(笑)、まだ読んで下さっている読者もいると思いますので、言い残したと思われることを、お願いします。


●「これを「田楽構造」と名づけましょう」(筑紫)

筑紫:「かな」「けり」などの切字論は余り皆さん異議はないと思いますが、切れがさまざまに考え方が分かれるのはもっぱら「や」という切字のせい(「切れ」でもあると思います)だと思います。「豈」の特集では、二条良基『連理秘抄』と宗砌『密伝抄』の提示している切字一覧の過不足を確認し、この2つの書物(つまり時代)の間で切字「や」が生まれたと言いました。

「や」の切字を使う発句は、結びが名詞止めとなっていますから、本来名詞止めで充分下句の切断の効果があるわけです。「や」はそれを補強しているだけだと思います。つまり「や」が切字でもあり、かつ「切字」ではない時代が過渡的にあったと思っています。

色々文法機能が論じられていますが、当時の歌人は文法など知らなかったと思います。その点では現代の俳人でも同様です。それでも短歌俳句は作れます。というか今もって究極の文法など存在していないかも知れません。これから文法にアインシュタインが出てきてニュートン文法を転覆する可能性もないわけではありません。

しかし「構造」だけは見てすぐ判るので、ある程度「や」の構造は知っておくべきでしょう。

古池や蛙飛び込む水の音

これを「F形式(構造)」[Fは「古池や」です]と呼んで、俳句の切字の展開を論じられているのが田中道雄氏ですが、しかし上に述べた、切字「や」の誕生の時は別の構造が主流だったようです。

○『九州問答』(二条良基)
花や雪嵐の上の朝ぐもり 
波や散る潮の満ち干の玉あられ

○『初心求詠集』(宗砌)
月や舟けふとる梶の初瀨川
月や峰かけ谷々の夕涼み
花や雲見し面影の龍田山
月や海名もひとしほの水の秋

これを、名詞3つ(たとえば第1句は、花、雪、朝ぐもり)が串に刺さっている形に似ているので、「田楽構造」と名づけましょう。

当時F構造はまだ切字と認められなかった、これだけは確かで、田楽構造であることが大事であったのでしょう。この構造を見ると歌人は安心するわけです。それでも、良基一派はこれを切字と認めず、宗砌一派は切字と認めたという東大派対京大派のような学派の争いがあったと思います。

高山さんのように詳細な資料に当たっているわけではないのでいい加減なところも混じりますが、これが私の直感です。

高山:不毛の切字・切れ説とは思いつつ、わいわいやっているといろいろアイディアが出てきますね。「や」(「ぞ」もかも知れません)の切字化が田楽構造に発しているというのは、もしかすると切字説の谷山・志村予想かも知れない。


●川本「基底部・干渉部」説、復本「首部と飛躍切部」説について  

筑紫:川本評論集をおくればせながら読ませて頂きました。私への謝辞が書いてあったので、今回の「豈」の特集の事かと思っていたら、昔「俳句教養講座」で切字論を書くようお願いしたことのお礼のようです。ただまだこのときは、新切字論は完成していなかったようです。

私も近いうちに『俳諧の詩学』と高山さんのと併せて紹介させてもらおうと思っていますが、書評としては高山さんに紹介をお願いすることとしましょう。

それでちょっとわかっていたら教えてほしいのですが、川本先生の「基底部と干渉部」は、復本さんの「首部と飛躍切部」と合致するのですか、異なるのですか。川本先生、引き続きこの本でも「基底部と干渉部」は使っていますが、前の本ほど力説していない感じです。恐らくここを詰めると川本説からも「切れ」の必要性が出そうな感じがするのですが。

高山:復本先生の首部・飛躍切部説と川本先生の基底部・干渉部説はよく似てますよね。しかし、『俳句と川柳』ではその辺の断りはなく、前々から不審でした。

もちろん両者は厳密には違っていて、川本さんの方は誇張や矛盾で和歌的な美学を異化するのが基底部、それに読み取りの方向を与えるのが干渉部ということ。しかし、ほんとのところ、この考え方は芭蕉には相当程度に適合的かも知れませんが、誓子や素十の句をこれで読めるのでしょうか。

復本さんの方は最初から切れありきで、ぶっちゃけて言うと切れの上が首部で、切れの下が飛躍切部ということですよね。切れを客観化すると言い条、一種のトートロジーじゃないかと拙著では書きました。

私は別に切れが「無い」と言っているわけではなく、みなさん言ってることがばらばらじゃないの、そんな言葉は使わない方がいいんじゃないですかと申しております。屏風から虎を追い出して下さったら捕まえるのにやぶさかではございません。

基底部・干渉部説から切れが出てくるのではないかというのは、定義の問題ではないでしょうか。両部の接点を切れと定義すればそれは切れでしょう。

しかし、「揚羽蝶花魁草にぶら下がる」や「蟋蟀が深き地中をのぞき込む」を基底部・干渉部に分けられるのかどうか。こんどの「俳句」の特集で鴇田さんは「水枕ガバリと寒い海がある」に切れがあるとしてますが、そしてそれは無理だろうと私は思いますが、基底部・干渉部に分けることは可能なのかどうか。

ご質問のポイントは結局、基底部・干渉部説の勢力範囲はどこまで及ぶのか、「吾と無」のような極端なケースは除外するとして、通常の定型発句・俳句の全体を覆うものなのかどうかに帰結するような気がいたしますが。

私にはそうは思えませんけど、仮に全体を覆っていた場合でも、過半とは申しませんが決して少なくない句について基底部・干渉部の見分けは非常に難しいものになると予想します。よって、復本さんが『名歌名句辞典』を作る際に俳人たちに例句の切れを示させようとしてうまくゆかなかったようなことになるのでは。

それと、今、時実新子のアンソロジーが枕元にありますが、ざっと四分の一くらいの句は二句一章的な構成に見えますから、復本理論(「切れ」の有無で俳句と川柳が峻別できるとする)はやっぱりダメなんじゃないですかね。

筑紫:ありがとうございます。似たような感想を持たれているので、座談会を進めるにあたって安心しました。

ただ川本先生は、謝辞で「俳句の文体論的・構造主義的考察の可能性に目を開かれたのは、復本一郎『笑いと謎』」と言っていますので、復本さんに敬意を表されてはいるようです、その著作権的な先後関係は当事者しかわからないでしょう(「歯切れのいい俳句論」と言っているようにやや舌足らずと見られているかもしれませんが)。

実は川本説では「切れ」をどのように考えているのか分からなかったので、切れは「副次的」に説かれているのかと思いました。そのポイントが「提示部+干渉部」にあるように思ったものです。つまり、川本説は、復本説と違い、あらかじめ切れがあると言う前提ではなく(結果は似ていますが)、
名句の解釈→機能の発見=大半の句に「提示部+干渉部」がある→自ずと切れが存在する
という道筋で切れ説につながるように思いました。

ただ川本説には大前提があるわけで、〈大半の句に「提示部+干渉部」がある〉ということは、〈一部の句に「提示部+干渉部」がない――提示部が無い句はないでしょうから、干渉部が無い句がある〉ということを許容していると思います(干渉部がないことが名句でないと言うことになりません)。たとえば、誰が見てもわかるのが、

鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 迷堂

等がその典型です。すると、およそ俳句には

①「干渉部」を要請する名句
②「干渉部」を要請しない名句

の二種類があることになるわけです。「切れ」のあるなしよりこの方が実用的な気がします。

そして実は、――ここが最も大事なことですが――(ここ10年ほどの)現代俳句は、①と②の中間とでもいうべき、

③「干渉部」を内面化し、「干渉部」を見せない詠法

が増加しているのではないかと思います。私の場合もそうであるし、高山さんの句にもそんな感じをうけます。仁平さんが「平句」で言いたいことは同じようなところにある気がします。

我々の句では手前味噌であるなら、

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之

等はどうでしょうかね(もともと彼の句集『自生地』全体が干渉部が内部化しているようです)。若い作家は変な切れ論に毒されない方がいいかと思います。

川本論の面白いところは大半が芭蕉を論じているのですが、実はこれは全部私(自分)の句の評価ではないかと考えてみた方がよほど面白くなることです。川本さんには(芭蕉と筑紫を同一視するなどとはと)心外かもしれませんが、その方が詩学の普遍性が出るような気がします。

まあご異論もあると思いますが、川本説の「提示部+干渉部」をもって切れ説に変えると言うのも十分生産的であると思います。

高山:干渉部の内面化というのはおもしろい視点ですが、しかし、福田さんのヒヤシンスの句自体はさしあたり、「しあわせがどうしても要る」が基底部で、「ヒヤシンス」が干渉部なんではないですか。

この句の発表直後に私が「詩客」のブログに書いた鑑賞をご参照いただきたいですが、この中七下五は日本語として変にねじれた強迫的な表現であり、川本先生が言う誇張法の一種として基底部の資格ありです。ヒヤシンスは種類については季節柄から選ばれてますが、本質的に重要なのは草の花であることで、手向けの花として読みの方向付けをしています(直接には震災の死者を悼んでいる)。つまり干渉部の資格ありです。

問題は、この読解は川本先生の試験には合格するでしょうけど、悪い冗談のようにしか感じられないことです。

ここに、比較文学者と実作者のスタンスの違いがあろうかと思います。川本先生が芭蕉の句を分析している限り違和感はあまりないですが、近現代の句に基底部・干渉部説を当てはめると、それが成立する場合でもなんだかバカバカしい気がするのです。

それは近代まして現代の句は、作るにせよ読むにせよ、良いのか悪いのか、良いならどこが、悪いならどこがという価値判断を待っているのであって、基底部だ干渉部だという分析を待ってるわけではないからでしょう。

近世の句が価値判断の対象にならないわけではないけど、とはいえやはりそれは歴史資料です。暗中模索している当事者としては、基底部・干渉部? 存じませんっ、て感じは否めないですね。逆に言えば、誓子や素十は(子規や虚碧も)、まだ我われの中で充分歴史資料にはなってないということかも知れません。


●昭和二十年代の「天狼」

青木:先ほどの「平句」問題で筑紫さんがチラッと仰った昭和20年代の「馬酔木」の話や、また今高山さんが仰った誓子や素十等の近代俳句云々でいえば、例えば誓子らの新興俳句は、「切字」と「切れ」を分離させて認識しようとする傾向があるかに感じます。

そういえば、今回の座談会にあたって、どんな風にやりとりしようと皆さんで話していたところ、ふと筑紫さんが「馬酔木」云々の流れで「そういえば「天狼」の雑詠欄はどんな感じだったのでしょう、何かご存じですか」と仰って、私もどうなのだろうと昭和20年代あたりの「天狼」をパラパラめくったのですが、やはり雑詠欄に切字は相当少なく、それも下五の「かな」「けり」はほぼ見ない。同人欄も同じです。

他にも、上五に「や」が使えそうなところでもあえて用いず、「の・に」等で逃げ切っている感じがある。「天狼」系の表現法でよくあげられるのが、上五の「~の」が曖昧、というのがあって、実際に「天狼」を知る同時代の方(「天狼」内外)からもよくうかがった話ですが、おそらく「~や」を避けようとした結果なのでしょう。

しかし、「切れ」は取り合せや二物衝撃というニュアンスで重視している感じもあって、これは大雑把な括りですが、新興俳句系は、「切字」と「切れ」を分離させて把握したがる傾向があるかもしれません。波郷の「鶴」系の韻文精神な雰囲気はその反転の結果で、根は同じようなものの気がします。ちなみに、「ホトトギス」は一致してもよし、せずともよしと融通無碍な感じがあります。

「天狼」的な「切字」と「切れ」の分離は、平成期の俳誌特集の「切字」から「切れ」へという流れとやや異なっていて、どちらかといえば一周回った「鶴」的な韻文精神の強調、という感じもします。

ただ、これは俳句史的な話なので、川本先生が展開されている概念的な話とは異なりますが、皆さんの話をうかがって思いついた、という感じです。

筑紫:私の思い付きに付き合って、わざわざお調べ頂きありがとうございます。やっぱり「天狼」も切字(当然「や」も)は少ないと言うのは予想通りでした。

反ホトトギスの、東西の雄――「馬酔木」と「天狼」がそうであれば、戦後の俳壇の風潮も何となく伺えます。

青木さんの「新興俳句系は「切字」と「切れ」を分離させて把握したがる傾向がある」は非常に興味深いご指摘です。「馬酔木」はご指摘の点でどうなっているか確認していませんが、副詞・形容詞・助詞で修辞してゆく馬酔木は、少し違うかもしれません(「天狼」は動詞、名詞で詠みあげてゆくような気もします)。「馬酔木:は、切字を使わず、切れも余り示さないという特徴があるかもしれません。

もしそうだとすると、新興俳句の文体、「天狼」の文体、「馬酔木」の文体と見てゆく方が、少なくとも切れを探すよりは生産的かもしれません。

非常に無責任な言い方ですが、それぞれの文体の違う中で相互批評はどう成り立っていくのかというのも、実作者として興味深いです。

高山:「新興俳句系は、「切字」と「切れ」を分離させて把握したがる傾向がある」という捉え方はどうなんでしょうね。実作者たちは要するに切字を使わずに表現しようとした、文体という用語を借りるなら、切字を使わない文体を創出しようとしたのではないでしょうか。もちろんその際は、リズムやら句切れやら取り合わせやら、いろいろな要素を意識したことと思いますが、それを「「切字」と「切れ」の分離」と言う場合、彼らは「切れ」を明確に概念化していたのでしょうか。

そうではなくて、彼らの試行錯誤がもたらした作品の状況に対して、「切字精神」という絶望(?)の言葉で応じたのが切字の使徒・浅野信であり、70年代以降、「切れ」という言葉で事態を捕まえようとした人たちが続いて現われたというふうに拙著では論じました。しかしそのことは、昭和20年代の作者たちが「「切字」と「切れ」を分離させて把握」していたことを意味するのでしょうか。彼らは明確には認識していなかっただろうが、現在からはそう見えるということなら、その現在における「切れ」の定義が問題になります。どうも筑紫さんが話を広げすぎたせいで、将棋で言うところの千日手に陥りかけているように思えますが。

上田:えーーーーーーーー。

一同:(笑)

上田:かれこれ一週間にわたる座談会、たいへんありがとうございました。

そろそろ、ご家族が捜索願を出されていることと思いますので、解散いたしましょう。みなさま、どうもありがとうございました。

(座談会はメールで、おこなわれました)


2016-08-21

歴史と熱気 青木亮人

歴史と熱気

青木亮人

 

「オルガン」を読むと、思い出す逸話がある。『平畑静塔対談俳句史』(1990)の一節で、平畑は山口誓子の第一句集『凍港』(1932)の印象を聞かれた際、次のように答えた。

楠本 「凍港」が出たとき、どうでしたか。あれを受けとられた反響というものは。
平畑 いまの時代と違いますね。誓子の当時の俳句は全部、頭に入っているわけですよ、当時の連中には。だから句集が出てもピンとこないんですよ。誓子の俳句というものは全部「ホトトギス」へ出たもので、頭の中に入っているんですよ。(略)ほとんどみな、そらんじている句ばッかりですワ。
(「誓子と新興俳句」章。聞き手は楠本健吉)
「京大俳句」編集を一手に引き受けた平畑静塔によると、「当時の連中」――「京大俳句」等に集った新興俳句の面々――は「ホトトギス」雑詠欄に発表された誓子句をほぼ暗誦していたという。彼らは「ホトトギス」を毎号手に取り、雑詠欄入選の誓子句を熱心に読んでいたのであり、誓子句はもとより他に関心ある作品も毎月チェックしただろうことがうかがえる。

「誓子、今回はこう来たか…」「うん、これはいつもの誓子調だ」「これを投句するとは、虚子先生を試すようだな…」等々、「当時の連中」(平畑)は山口誓子の作品を一句読むたびに感想を抱き、口ずさみつつ、後に友人達と語り合い、議論する中でいつしか句を暗誦してしまったのだろう。

個人的には、これと「オルガン」を読む時の高揚は似たものがある。

郵送で送られた白封筒を鋏で開け、「オルガン」最新号を取り出して頁を繰る時の感情の波は、昭和初期に平畑静塔たちが「ホトトギス」新刊で誓子句を目にした時の昂ぶりと通うものがあるかもしれない…「オルガン」が届くたび、いつしかそう感じはじめた。

なぜそのように感じるかはいささか話が逸れるが、仕事柄、私は学術研究の形で近現代俳句を調べようと明治期から昭和期に至る資料を読むことが多いが、うまく実感しえないことがいくつもあった。

明治期、正岡子規の周りに集った人々がなぜあれほど熱気に満ちた革新の気風を抱きえたのか。あるいは大正期の、「層雲」等を中心とした自由律の高揚。そして昭和戦前期の新興俳句の情熱、中でも山口誓子に対する強い畏敬の念や戦火想望俳句への傾倒ぶりは、資料のみではなかなか実感しにくい。そこには、当時その場に居合わせないと分からない同時代的な共感や憧れ、期待や幻滅等があるかに思われた。

しかし、2015年に「オルガン」が届けられるようになってから、「同時代」の感覚を少し実感できるようになったのだ。

同じ時代に生き、信頼すべき俳人が日々句を詠みつつあり、驚くような句や息を呑む作品を時に発表するということ。「オルガン」の中で互いに意識しあい、影響を受けつつ、ある俳人は仲間からの刺激を顕著に示し、ある俳人はその影響から脱しようと自分らしさを模索し始め、またある俳人は自身の理念に向かって句を磨き続ける。その身ぶりや息吹を最新号のたびに実感できるということ、それらを一句ごとに感じ、また私自身も感慨を抱き、彼らと出会った来し方を想いつつ次号への期待を抱くということ。

同時代俳人の句にこのような感情を抱くのが特別に感じられるのは、個人的な時代認識があるためかもしれない。「現代詩手帖」2015年12月号に総括「俳句年鑑」をまとめた際、「オルガン」を紹介しつつ次のようにまとめたことがあった。

本年初頭に同人誌「オルガン」が創刊された。鴇田智哉の他に生駒大祐、田島健一、宮本佳世乃――最新の秋号から福田若之も参加――が集い、各自の作品とともに同時代の注目すべき句集を座談形式で論じている。第二号に当たる夏号では村上鞆彦『遅日の岸』(ふらんす堂、二〇一五)を取り上げており、次のくだりを見てみよう。
田島 初期の句は割とオーソドックスで、事象と季語とを結びつけた、現象的な句が多い。「青林檎山越えの荷に加へたる」「花一樹ある校庭の日曜日」。こういう句は常套だと思う。(略)でも平成二十三年から変わっていく。「風邪に寝て真昼を人のこゑ通る」、これは目に見えない声だけが動いている。(略)
生駒 抑制の利いた作り方ですよね。(略)光、水、空の表現が多いと思いました。七割くらい。だけど、技術があるから同じにはならない。モチーフ的には冒険するタイプではないのかな。
宮本 全体的には大人しい感じがするし、オーソドックスな俳句なのかな。
鴇田 みていくところはその先だよ。村上君の句はよく透明感があるって言われるけれど、それは何なのか。

自身の好悪や傑作か否かといった価値判断を性急に下さず、無条件に称賛や批判をするのでもなく、それらの手前に留まりつつ村上鞆彦という作者の特質を探り、句が出来上がる過程やその結果を、また句が何を目指し、何を目指そうとしなかったかを話し合う中で、「俳句」とは何かという問いが浮き彫りになる。「みていくところはその先だよ」(鴇田)という認識とともに作家や作品の考察を進め、それが何をもって「俳句」と見なすかという問いに連結する記事は多くはない。他には「翔臨」(竹中宏主宰)連載中の竹中「且翔且臨」あたりが思い浮かぶが、いずれにせよ寥々たるものだ。(中略)

ところで、丸山真男によると人類最高峰の音楽はナチス・ドイツ政権下にフルトヴェングラーがタクトを振ったヴァーグナーだったという(中野雄『丸山真男 音楽の対話』)。押し潰されるような厳粛さに裏打ちされた怒濤の音の波と、奈落を予感させる重々しい歓喜の歌は一九三〇年代には鳴り響いたかもしれないが、もはや二〇一五年の私たちが聞き届けることはできまい。

間延びした平和が身を柔らかく包みこみ、軽快な癒やしのひとときを求めディスプレイ上を漂流する私たちにふさわしいのはアイドルの嵐が出演するテレビ番組であり、AKBのポップ・ソングなのだろうから……ただ、それらテレビやネットを彩る旋律の中で、時に異色の楽曲が流れることもある。

仮にRadioheadの「Backdrifts(Honeymoon is Over)」のようなメロディーを今年の俳句界に求めるならば、次の一句が相当するだろうか。私たちの未来は明るく、不穏である。

秋草や死して階段昇り降り  生駒 大祐 (「オルガン」三号)
(以上、青木亮人「趣味や、死後の階段 2015年俳句年鑑」、「現代詩手帖」)
ナチス・ドイツ政権下のフルトヴェングラーなどと大仰な例を引き合いに出しているが、かほどに重々しい時代と比較せずとも、平成時代のあまりの洗練ぶりと軽やかさ、また衰退とも充溢ともいえない奇妙な真空状態に驚くことは少なくない(もちろん、私も平成人の一人なのだが)。

その中でも、「オルガン」は最新号のたび感情が波立つ数少ない俳誌だ。新しい号が届き、張りの利いた頁をめくりながら印字された句群や座談会を読むと、かつての歴史が甦る瞬間があるかに感じられる。

例えば、「ホトトギス」大正4年5月号を繰った時に「死病得て爪美しき火桶かな 蛇笏」を目の当たりにした時の驚きや、「京大俳句」昭和11年8月号に「緑陰に三人の老婆笑へりき」「算術の少年しのび泣けり夏」(ともに西東三鬼)が同頁に並んでいるのを見た瞬間の、鳥肌が立つような感覚。

戦後でいえば、富澤赤黄男や桂信子、高柳重信らが句や評論を発表した「火山系」、あるいは阿部完市や金子兜太、島津亮、林田紀音夫等が陸続と句を発表した初期「海程」。昭和後期の「俳句空間」――これは同人誌というより総合誌に近い規模だったが、角川の「俳句」等とは一線を画す編集だった――目次を見た時、あまりの豪華メンバーぶりに嘆息にも似た感慨を抱いたのも忘れがたい。

平成時代の俳誌「オルガン」を手に取り、頁を繰る時、私はこれら俳句史の息吹が甦る一瞬があるかに感じられた。それも同世代に近い俳人達が、商業的云々とは無関係に「良い俳句」を作ろうと模索し、確認しあいつつも変容や安定を求め、あがき、生き永らえようとしている。その純度の高さは、なかなか得難いものに感じられる。

「オルガン」の純度を俳句研究という立場で受け止めるとすれば、それは小林秀雄の次の一節に近いものかもしれない。

歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。

死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。
(小林秀雄「歴史と文学」、1941)
…小林秀雄風に言いかえるならば、先人達が「俳句」に賭けた情熱や歴史の果てに平成時代があり、「オルガン」があるのでなく、「オルガン」が俳句史の伝説的な一場面や句群を今に想起させ、強い臨場感を伴って回帰させるのであり、しかも「オルガン」とかつての「俳句」のありようは異なりつつ、彼らの作品の中に共存している。そのように思わせる力が「オルガン」にはあり、最新号を手に取り、頁を繰る時の高揚もそこにあるのだ、と。

●


最後になったが、かつて「俳句」月評欄を半年間担当した際、「オルガン」を紹介した拙論を引用しつつ本論の筆を置くことを寛恕願いたい。

ただ、長い伝統を誇る結社や俳誌も発足時はとにかく前に進もうと徒手空拳に近かったはずで、逆にいえば、希望と不安がないまぜになった勢いが初期の魅力といえます。例えば、昨年創刊の季刊同人誌「オルガン」――生駒大祐、田島健一、鴇田智哉、宮本佳世乃の四氏で、後に福田若之氏が参加――は現在三号(二〇一五年十一月)を数え、客気に満ちた読み応えある記事が多い。同人は二十~四十代で、自らの頭と手で「制約的詩」(先述の赤尾兜子)と格闘しうる見識の俳人たちであり、次のような句群を発表し続けています(最新の三号より)。

 目の玉を押すと蚊帳吊草が立つ   鴇田 智哉
 灰もなく秋の蛍は消えて以後    福田 若之
 右の手でみづうみ秋が細長く    宮本佳世乃
 歯車がまはり鶏頭並び立つ     生駒 大祐
 絵の奥の菊を見つめて未成年    田島 健一

 分かりやすい内容や意味を伝えるというより、有季定型でしか表現しえない世界観や表現そのものを作品に昇華した句群といえるでしょう。鴇田句は「~押すと」「~が立つ」の動詞に意味深な実感がこもり、福田句は「も・は」が一句に屈折をもたらし、宮本句は「右の手でみづうみ」における省略と切れが詩情を漂わせている。「歯車/鶏頭」の取り合わせを狙ったというより、作者には確かにそう見えたと感じさせる生駒句、また平易な表現で読ませつつ突如「未成年」で句を閉じてしまう田島句。万人受けする共感や安易な「内容」を優先せず、一筋縄でいかない世界像を読者に問いかける句群であり、このような作品を詠む俳人が集い、熱気とともに同人誌を刊行したことにある感慨を覚えます。

(以上、青木亮人「俳誌の継承と熱気」、「俳句」2016年3月号月評)


2013-09-15

愛と幻の俳句甲子園(2) その他のインタビューから 青木亮人

愛と幻の俳句甲子園(2)
その他のインタビューから

青木亮人


■今回は、第一回目「俳句と青春」(「愛媛新聞」9/3掲載記事に加筆・修正したもの→http://bit.ly/15IiUBG)で言及しえなかった出場者へのインタビューから、2チーム分をまとめたものである。


1 情感豊かに

■ある高校のチームがまず手に取るのは電子辞書と歳時記である。季語を知るため、そして例句を通じて季語の傾向を学ぶためだ。

例句等はネットで検索することもあり、顧問の先生が教えてくれることも多い。彼らはそのようにして「季語の基本」をチェックし、また句をどの方向に練り上げるかを思案する際に再び歳時記等を確認する。主に歳時記を土台にしつつ「傾向と対策」を練るのが句作の第一歩、という感じだろうか。

その上で彼らが目指したのは、「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」という句作だった。大会での作品を見てみよう。

夏 の 海 泣 け ば 蒸 発 で き る の に
憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し
一 斉 に 蓮 闇 を 吐 く 真 昼 中

確かにこれらは「情感」を軸とした作品といえるかもしれない。

ところで、上記作品を読んだ時に興味深く感じたのは、彼らの中で「歳時記を基本とする季語の世界観」と「情感を豊かに押しだす句作のあり方」は矛盾しないらしい、ということだった。

彼らが親しんだ歳時記の中身も気になるが、むしろ個人的に興味を感じるのは、上記作品は結果として季語以上に「情感=私」が強く押し出されており、トーナメント上位まで勝ち進むチームの句作傾向と異なる作品に仕上がっている、という点である。

一般的に、常勝チームは題として出された季語を作品のクライマックスに据えるとともに、「季語の世界観」を乱さないように一幅の情景を描く、つまり「作者・読者がともに瞬時に共有できる安定した季語観」を増幅させる「風景」を造ることで、「題として出された季語をいかにうまく消化したか」という技術の冴えを前面に押し出す傾向があるのに対し、先ほどの句群は結果的に題として出された季語よりも「情感」が強調されている。

ここで言いたいのは作品としての価値云々でなく、句を練り上げる方向性の軸が常勝チーム系と異なるということ、その違いに関心があるのだ。

よりいえば、上記句のチームはなぜこれらの句を「俳句甲子園としての作品」と見なしたのか、そもそもなぜ「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」ことを句作の中心としたのか、来年以降もその方向性で俳句甲子園出場を目指すのだろうか? それらの点を興味深く感じたのだ。

★

インタビューの際、「好きな俳人は?」と聞くと困惑の表情を浮かべたが、「好きな俳句は?」と質問を変えてみると、次の句を挙げてくれた。

カ ン バ ス の 余 白 八 月 十 五 日  神野紗希
を り と り て は ら り と お も き す す き かな  飯田蛇笏

メンバーの一人は、過去の最優秀句の中でも特に好きな作品として「カンバス」句を挙げた。「をりとりて」句を挙げたメンバーは、授業で習った際に強い印象を受けたという。

ただ、俳句関連よりも彼らが目を輝かせたのは、「好きな小説家や音楽は?」という質問だった。有川浩や三浦しをん、K-POP、東方神起……時間が許せば、彼らは多くの小説家やミュージシャンを挙げただろう。

彼らは勝ち進むことはできなかったが、「俳句甲子園は楽しかったし、勉強にもなった」という。俳句という「文学」を点数でジャッジすることや、勝敗の結果に疑問を感じることもあったが、試合中のディベートや審査員の講評を通じて気付かされることも多く、何より松山に先生や仲間たちとともに訪れ、俳句甲子園に参加したのが楽しかったという。

インタビューに応じる彼らの表情には、負けたことの悔しさよりも参加できた楽しさが感じられた。勝敗は勝敗、それと楽しむことは別、というサバサバしたチームの雰囲気もあり、むしろそれゆえに彼らが明るく感じられたのかもしれない。


2 景をはっきりと

■ある高校のチームは「文芸道場」なる大会に出場した経験がある。県下の高校で文芸全般に関心を抱く生徒が集い、競い合うとともに交流しあう大会だ。もちろん俳句部門もある。彼らはそこで「文学」や「俳句」を学び、その上で俳句甲子園に臨んだという経緯を持つ。

文芸道場出場の他に、彼らは俳句甲子園の過去優秀作や先輩たちの句群、また『17音の青春』(神奈川大学)等を通じて「俳句」らしさを学んだという。インターネットや俳句史における著名句等は特に気にかけなかった。

ただ、彼らはもともと俳句が好きというわけでなく、むしろ他ジャンルの文学に惹かれる方だ。たとえば歌人の俵万智や加藤千恵、小説家の桜庭一樹。『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』(桜庭一樹)を読んだ時にはあまりの凄さにため息が出たものだ。

そんな彼らが句作の際に心がけたのは「はっきりと分かりやすく、景が一瞬で思い浮かぶような作品」。誰もが理解し、共感できるもの、それが「俳句」であり、俳句甲子園での作品というわけだ。

顧問の先生は俳句指導等を細かくすることはせず、メンバーそれぞれの個性を尊重してくれる。だからチームメンバーはのびのびと俳句を作り、景がぱっと思い浮かぶ作品を詠もうとした。そして全国大会への切符を手に入れ、八月の松山へ旅立ったのだ。

大会当日、彼らが出したのは次のような句だった。

嘘 を つ く 透 き 通 っ た ま ま の ゼリ ー

嘘を付いたことのやましさが、心にかげりを帯びて引っかかっている。その「私」の屈託を見透かすようにゼリーは一点の曇りもなく、ただ「透き通ったまま」眼前にたたずむ。

無論、ゼリーは「私」の心の翳を知るよしもない。しかし、それゆえに「私」はゼリーがいつもより「透き通ったまま」に感じられるのだ。

または、「透き通ったまま」のゼリーは、嘘をついた「私」を突き放すことで許しを与え、慰める存在として目の前にたたずんでいるのかもしれない。

あるいは、ゼリーは「嘘を付いたとか、そんなことはどうでもいいよ」というように「私」の前で「透き通ったまま」現出している、そういう存在なのだろうか。

上記句について「透き通ったままのゼリー」のありようをあれこれ想像したのは、次の歌が思い出されたためである。

今 日 ま で に 私 が つ い た 嘘 な ん て
ど う で も い い よ と い う よ う な 海  俵万智
(『サラダ記念日』)


先ほどの「ゼリー」句からこの短歌を想起したのは、彼らに好きな文学者を聞いた際に「俵万智」という返答があったためだが、同時に次の句と比較した時、「短歌的なもの」を感じた点も大きい。

憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し

本記事で最初に紹介した高校の句だが、句の内容や「ゼリー」の把握は「嘘をつく」句と近似しつつも、「憤る」句には短歌の雰囲気が感じられず、かたや「嘘をつく」句の表現には「短歌的なもの」が感じられたためだ。

「嘘をつく」句が大会で勝利を収めたかどうかは知らないが(試合を観ていないため)、個人的には「嘘をつく」句の作者がこれまでどのような作品に触れ、どの作品に感動し、何をもって「文学」と感じてきたのか、その点をより知りたいと感じた。

「嘘をつく」句は、今回の大会でさして問題にならなかった作品だ。優秀句や入選句に選ばれたわけでなく、準決勝以上の試合で出された句でもない。予選リーグのある会場で出された後はひっそりと忘却の闇の中へ滑り落ちた一句であり、今後思い出す人は少ないだろう。

しかし、「嘘をつく」句は、大会での勝敗よりも「なぜその句が「俳句」として詠まれたのか」と思いを馳せたくなる作品だ。この作者は他句が優秀句に選ばれたが、それよりも「嘘をつく」句の方に魅力的な謎が感じられる。少なくとも研究者の私にはそう感じられた作品だった。


★

彼らにインタビューを申し込んだ時、試合直後だったのか、やや上気した面持ちで応じてくれた。試合後の冷めやらぬ熱気と八月の暑さで額に汗がにじみ出ているにも関わらず、「好きな文学者は?」と聞くと「加藤千恵!」「桜庭一樹!」と答える表情が明るく、快活で、その姿がとても印象的だった。

(第2回・終)

2013-09-08

【特集・俳句甲子園】 愛と幻の俳句甲子園(1) 青木亮人

【特集・俳句甲子園】
愛と幻の俳句甲子園(1)

青木亮人



下記拙文は、「愛媛新聞」9月3日文化欄の掲載記事に加筆・修正を加え、転載したものである(原文は「愛媛新聞ONLINE」で公開→http://bit.ly/1a56lyD)。

大会当日は数多くの出場者にインタビューを行い、またOB・OGや関係者からも話を聞かせてもらう機会を得た結果、記事としてまとめることができた。しかし、紙幅の都合もあり、全てに言及できなかったのは心残りである。

そのため、今後も出場者へのインタビュー内容等を「週刊俳句」で断章風に報告予定であり、今回はいわば第1回目に当たるものとして拙文をお読みいただければ嬉しい。

なお、俳句甲子園に関する拙文やツイッターでの呟き等に目を留めて下さり、声をかけて下さった「週刊俳句」編集者に感謝申し上げます。


1 俳句と青春

■これから記すことは今年の俳句甲子園に審査員として参加し、また多くの出場チームや関係者にインタビューした内容の一部とその感想である。

かつて建築家ミース・ファン・デル・ローエが述べた言葉、「神は細部に宿る」を信じつつ、いくつかの断片を紹介することで俳句甲子園の「何か」を感じてもらえればと願う。

●

ある高校の図書館には句集その他の蔵書がほとんどない。出場チームは文芸部メンバー(好きな小説家は有川浩や西尾維新、神永学など)で組み、

白 蓮 や 水 は り つ め て ゐ る 夜 明 け

等の句で勝負したが、惜しくも敗退した。選句の際にどの句で勝負するか話しあい、俳句甲子園としての作品を選んだが、勝利に結びつかなかったのだ。

一方、ある学校の図書館には個人作家の全句集やアンソロジーがあり、文芸部俳句部門の生徒たちは自由に手に取ることができる。歳時記は先生がプレゼントしてくれた。

部員は何より歳時記を読みこみ、季語の特徴や例句等を学びながら句作に励むことが多い。顧問の先生も熱心に応援してくれる。

大会前は週に2、3回の句会をこなし、吟行にも出かける。ただ、部員が多くないためディベート練習は不足がちだ。多ければ2チームに分かれ、ディベートの訓練もできるのだが、そこまでには至らない。

同じように、あるチームも俳句甲子園に勝つため日々句作とディベートの練習を重ね、顧問の先生も熱心で指導に余念がない。

部員と顧問の問題意識は一致している。「俳句甲子園で優勝するには何をすればよいか?」。それが全てであり、この目標以外はさしあたり「俳句」ではない。だからこそ少々厳しい練習にも耐えることができる。彼らは「優勝したい」と真剣に願っているのだ。

かたやある学校は、勝敗もさることながら「面白いかどうか」で選句を決めることが多く、他校と感覚の違う作品で勝負に出ることもある。

人 類 は 雑 音 ま み れ で す 目 高

これは他チームならまず出さない句だ。「私たちは運動部と違う、面白いかどうかを優先したいし、その方が楽しい」「先輩たちには『句が面白ければ勝てる』という雰囲気があった。だから私たちもそう感じるようになった」。そう言って屈託なく笑う姿が印象的だった。

出場者の多くは過去の先輩の句や大会の最優秀作などを読み、また歳時記を参考に「俳句らしさ」を学んでいく。その中でディベートしやすい作品を詠むように心がける生徒もいれば、自分なりにベストを尽くした句で勝負することに意義を感じる出場者もいる。

今回、その彼らと話して興味深かったのは、「好きな俳人は?」と聞かれて即答した人がほぼいなかったのに対し、「好きな小説や漫画家、ミュージシャンは?」という質問には目を輝かせて答える出場者が多かったことだ。

彼らは桜庭一樹や小川洋子、伊坂幸太郎などを愛読し、マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』を読みふけったりする。俵万智が好きという生徒、また佐野元春のファンもいれば、K―POPに夢中の生徒もいた。

出場者の大部分は高浜虚子や中村草田男、高柳重信や阿部完市などの近現代俳句史をほぼ知らない。句会以外に勉強会を設け、昔の俳人を研究するチームもまれにあるが、歳時記の例句を難しいと感じる出場者もいる。

彼らの多くが感動するのは〈夕立の一粒源氏物語〉〈小鳥来る三億年の地層かな〉など過去大会の最優秀作であり、〈つまみたる夏蝶トランプの厚さ〉などの審査員の句である。それで十分なのだ。

これらに対し、「俳句甲子園は狭い世界に過ぎず、それ以外の俳句観もあることを知らない」「勝敗を決めることに問題がある」「作品のレベルが低い」等の批判もある。

しかし、考えてみてほしい。彼らは「普通」の高校生であり、俳句に人生を賭けた俳人ではない。

たまたま学校が俳句甲子園に縁があったため参加したとか、人数が足りないので友人に誘われた出場者もいる。いつもは運動部に所属し、ライトノベルを読んだりJ―POPを聴くような普通の高校生が、出場すると決まったために自分なりに良い句を詠もうと一生懸命になった結果が多くの作品なのだ。

その彼らが大会に出場し、勝利するとガッツポーズを決め、敗北すれば泣き崩れる。当たり前の話だ。出場する以上は大会ルールが何であれ、「勝ちたい」と願うのは出場者として自然の心情であろう。

その彼らに対し、批判する論者は何を求めているのだろうか。

トーナメントがいけないというのであれば、140試合のリーグ制(できれば2リーグ)で優勝校を決めるべきというのだろうか。

作品のレベルが低いのであれば、「廃工場のギリシャ風柱頭まひるの藤 竹中宏」といったアートな俳句を求めているのであろうか?

そもそも勝敗で分けることがいけないという場合、たとえば松山の大街道商店街に出場者一同が集い、全員が俳句を披露しあった後に肩を組んで「みんな違つて、みんないい」と朗読するような「癒し系俳句大会」が良い、となるのだろうか。

繰り返すと出場者の多くは「普通」の高校生なのだ。スポーツならまだしも、平成期の日本で俳句にこれだけ一喜一憂する高校生の大会があることがどれほど凄いことか、簡単に批判する論者はその意義を実感できないのではないか。

加えて、「勝敗を決めるのはよくない」というのであれば、新聞俳句欄や結社主宰の選に一喜一憂することもダメなのだろうか。各出版社や地域が定めた賞はどうなるのだろう? といったことも関係してくるだろう(※)。

※俳句甲子園での「勝敗」の是非と、俳句(と短歌)特有の「自選ではなく、主宰等の『他選』が重んじられる」世界観は重なる点もあり、これについて個人的に感じることはあるが、今回は省略する。

ところで、これは(たぶん)誰も指摘していないが、大会出場者は多様な感性を秘めており、たまたま勝利に結びつかないか、本人が気付いていないだけで、実は豊かな可能性を秘めた場合が多い。

それは決勝まで進む学校の句や優秀句等のみ眺めるのでなく、負けた句や大会で披露しなかった作品(全チームは勝ち進む場合を想定し、決勝までの句を用意している)も併せて鑑賞すると、さまざまな感性が渦巻いていることに気付かされる。

ある初戦敗退チームが出した句を見てみよう。

蓮 の 花 み ど り の 池 に 浮 い て ゐ る

この句はかの高浜虚子率いる昭和期「ホトトギス」を彷彿とさせる作風で、具体的には藤後左右(とうごさゆう)の「写生」句に近い。たとえば、「ホトトギス」昭和5年11月号雑詠欄に入選した左右の作品を見てみよう(この号で、彼は最大の栄誉とされる巻頭の次に相当する第二席に入選した)。

萩 の 野 は 集 つ て ゆ き 山 と な る
噴 火 口 近 く て 霧 が 霧 雨 が
う た ひ ゐ る 声 の 二 重 や あ ぶ ら 蝉
曼 珠 沙 華 ど こ そ こ に 咲 き 畦 に 咲 き

先の「蓮の花」句の「写生」とユーモアは、高浜虚子が高く評価した上記作品に通じるセンスが感じられる。

惜しくも勝利には結びつかなかったが、「蓮の花」句と「夕焼や千年後には鳥の国」(今年の最優秀句)とをフラットに並べて鑑賞する時、俳句甲子園の今一つの可能性が見えてこないだろうか。

ただ、これは研究者の視点なのかもしれない。一般的に「蓮の花」句は佳作と見なされないだろう。

そもそも、出場者に大切なのは俳句甲子園という「場」であり、そこで勝負し、多くの人と語りあったという記憶である。

彼らの中には高校卒業後も俳句に打ちこみ、俳人を目指す人がいるかもしれないが、多くは俳句甲子園が懐かしい思い出となり、平凡な日常を暮らす社会人になるはずだ。

ある出場者(3年生)は大会後にツイッターでこう呟いた。

「私がこれから俳句に触れるのは俳句甲子園のOB・OG会くらいしかないと思うの。俳句が好きというより俳句甲子園が好きなんだと思う」。

高校生のある時期にさまざまなきっかけで句作に熱中し、四国の松山で笑い、泣き、喜びと悔しさとともに仲間と出会い、俳句について語り明かしたということ。

大会が終われば俳句とともに過ごした日々はほぼ戻ることなく、それゆえ大切な思い出となる。俳句甲子園はその意味でまさに「青春」なのだ。これ以上、何を望むことがあろう。

●

決勝戦で開成高校が7度目の優勝を果たした翌日の夕方、高柳克弘氏(審査員)と神野紗希氏(松山東OG)、また甲子園OB・OGの皆さんと句会を行った。いずれも2日間に渡る俳句甲子園に関わったメンバーで、大会の余韻を漂わせての集いである。

道後温泉駅近くのカフェで各自3句提出し、全員の句から5句選ぶ。一人ずつ自己紹介しながら選句を読み上げる際、沖縄の高校OBの一人が「憧れの俳人は高柳・神野両氏です」と言った。

正面からの告白に高柳氏は微妙な表情を浮かべ、神野氏は照れている。私が「どう好きなんですか」とツッコミを入れると、OBは「それは言えません」と赤面した。一同、笑いに包まれた。

今年の大会出場者もそうだったが、彼らの中で神野氏は憧れの存在であり、特に「カンバスの余白八月十五日」(2001年の最優秀作)は大会史上の傑作として今も多くの関係者が諳んじている。沖縄のOBの方もその句のファンということだった。

大きな窓から夕日がさしこむ部屋で、元出場者たちは高柳・神野両氏と句会をする幸せとともに、それぞれの俳句甲子園の名残を慈しみ、悼みつつ懐かしんでいるようだった。

(第1回・終)


2011-07-24

彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読 有季定型と「写生」は結婚しうるか(3) 青木亮人

彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読
有季定型と「写生」は結婚しうるか(3)

青木亮人


前回まで


前回は、俳句の「一挙性」についてまとめた。

私たちは、僅か十七字にも関わらず小説等と同様に「意味=内容」の完結を求め、そこに一貫した主体のありかを求めてしまう。

その結果、一句における無意味・恣意的な事物の提示がかえって読者に「意味」をうながすことになる。

彌榮氏はこれを俳句の「一挙性」と名付けたのであり、それを実際に「階段が無くて海鼠の日暮かな」で検討したのが前回だった。

その際、「一挙性」の「歪み」について触れることができなかった。そのため、今回は「歪み」を整理した後、氏が信奉する「写生」をまとめることにしよう。


6.俳句における「歪み」 

「1%の俳句」における「歪み」は複数の位相で示されており、全てを詳述するのは難しい。ここでは、俳句形式の「一挙性」がもたらす「歪み」のみ紹介しよう。

階段が無くて海鼠の日暮かな  橋 閒石

「階段が無い/海鼠/日暮」は日常で体験しうる事物や時間であり、また無関係に近い。しかし、これらが一句内に押しこまれて一挙に提示されると、「“無関係”が“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立する」(彌榮浩樹「1%の俳句」)。

この「一挙性」を、角度を変えて検討してみよう。

一見無関係に感じられる「階段が無い/海鼠/日暮」は、なぜ一句内に収まりえたのか?

それは、「て・の・かな」の助詞の働きによる。これら助詞が(それ自体)無関係な三者を縫いつけた結果、「階段が無くて海鼠の日暮かな」と有季定型に収まりえたのである。

この助詞について、彌榮氏は次のように述べていた。

日本語では、実体語である「名詞」「動詞」「形容詞」という「詞」以上に、「助動詞」「助詞」と分類される「辞」がより重要だが、そうした「辞」の重みが極端に表現されたものが「切れ字」なのだ。(「1%の俳句」、「群像」2011.6)

「切れ字」について、今回は触れない。注目したいのは、「「詞」以上に、「助動詞」「助詞」と分類される「辞」がより重要」という一節である。

なぜなら、俳句の「歪み」が発生する“場所”は、「詞」以上に「辞」であることが多いためである。

では、なぜ「辞」は「詞」以上に「歪み」を現出させるのか? 

これを検討するために彌榮氏の論から一度離れ、正岡子規の「写生」を参照してみよう。子規が理想とした「写生」は、次のような句である。

赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐

「赤い椿、そして白い椿という風に――椿が落ちた」というこの句に対し、当時の俳諧宗匠は「ただごと」(素人でも詠める凡句)と批判したが、子規はこの句こそ「写生」の秀句と礼讃した。

子規が賞賛した理由は複数あるが、一点のみ挙げよう。それは、作品を読む速度(=物語言説)と内容を理解する速度(=物語内容)が合致する(と錯覚しうる)作品だったために他ならない(このあたりは絓秀実氏『日本近代文学の誕生』〔太田書店、1995〕等に詳しい)。

分かりやすく述べると、私たちは「赤い椿白い椿と落ちにけり」を読む数秒間に、句の「意味=内容」を一瞬で“風景”に還元しうるはずだ。

なぜなら、内容がごく単純である上、「椿が落ちる」という現実かつ瞬時に体験しうる出来事のため、読者は句を読み進めながら「眼前に実物実景を観る」(子規「明治二十九年の俳諧」、明治30)ように「意味=内容」を還元しうるためである。

ところで、碧梧桐句がかくも円滑に“風景”を喚起しえたのは、助詞と助動詞の使用法にあるといえよう。

赤い椿白い椿「と」落ち「にけり」

この句における「と」「けり」は、実際は話者=主体の判断が込められた「辞」であり、特に「と」には強い判断がある。しかし、私たちが「赤い椿」句を読む際、「と」をさして意識しないのではないか。

通常、作者=主体の判断が提示されると、読者が「意味=内容」を風景に還元する速度は遅くなる(または乱される)ものである。次の句を例に考えてみよう。

鶏頭の十四五本もありぬべし  子規
 
この句の内容は極めて単純である。そのため、読者は「意味=内容」を一幅の情景に容易に置きかえられる……はずが、「ありぬべし=辞」の扱いにとまどうのではないか。

「これほど単純な内容なのに、作者=主体はなぜ「ありぬべし」と強調しなければならないのか?」という風に(作者の子規には理由があったが、作品からは判断しえない)。

このように感じる読者は、「ありぬべし」に見合う「意味=内容」を補完しようと模索する。しかし、句は十七字で完結しているため、読者はそれ以上進むことができない。

◆表現(物語言説)―「ありぬべし」という主体=話者の強い判断
◆内容(物語内容)― ?(作品に、「ありぬべし」の強さに見合う内容が見当たらない)


このギャップが解消できない時、読者は「意味=内容」を瞬時に風景に還元できず、句を理解する速度にブレーキがかかってしまう。

その瞬間、句を読み下す速度と内容把握の速度が乱れてしまい、「眼前に実物実景を観る」(子規)ようには「意味=内容」を処理しえなくなるのである(余談だが、斎藤茂吉が「鶏頭」句を絶賛したのはこのためである)。

追記(7/25 22:39)

斎藤茂吉が「
鶏頭の十四五本もありぬべし」を絶賛したのは、「ありぬべし」という強調が純粋な主体の意思表示=主観の現れと感じたためと推定される。


・物語言説→「あり“ぬべし”」という強調
・物語内容→ほぼゼロ

このように、物語内容がゼロに等しいため、物語言説の強調が突出してしまう。その結果、茂吉には「ありぬべし」が「指示対象が何もない強調→言葉の強調のみが純粋に詠まれた」と感じられたのではないか。

そして、茂吉はこの点に“近代=純粋主観”を見出したと推定される。

ただ、茂吉の“近代”には多様な要素が含まれているため、後日に改めて論じたい。
(追記終)

つまり、子規の「鶏頭」句がこのような事態をもたらすのは、内容の単純さと「ありぬべし=辞」の強調が見合わないため、といえよう。

この点、彌榮氏が指摘する「「ありぬべし」という表現の複雑さ、認識の濁り、速度の遅さ、摩擦感」(「1%の俳句」)という一節は、「ありぬべし=辞」がもたらす物語言説/内容の速度の不一致を指すものと推定される。

では、碧梧桐句にこのような事態が生じないのはなぜか?

詳細は省くが、「赤い椿白い椿と」は、「赤い椿白い椿」の「意味=内容」を「落ちにけり」という現実かつ瞬時に体験可能な出来事にのみ収斂するよう働いているために他ならない。

その結果、読者は「意味=内容」を一瞬で把握しうるフレームに収めうるのであり、この点、碧梧桐句の「と=辞」は物語言説/内容の速度を一致させる働きがあるといえよう。

ところが、これと真反対に「辞」を用いたのが橋閒石だった。
 
階段が無く「て」海鼠「の」日暮「かな」

この句において、読む速度と内容理解の速度はまるで一致しない。

私たちは作品を数秒で読みうるが、「階段が無くて海鼠の日暮」の「意味=内容」を理解するには――今=ここで一望しうる情景に還元するには、という意味――、読み下す速度以上に時間がかかるはずだ。

この齟齬、つまり読む速度(物語言説)と内容把握(物語内容)を乖離させる犯人(?)こそ、「て・の・かな」の「辞」である。

これらの「辞」は、「階段が無い/海鼠/日暮」という三者をあたかも関係あるように縫合することで、数秒で読み下しうる完成品として読者に提示する。

読者は完結した(と信じる)閒石句を受け取り、「意味=内容」を充填しようとするが、熟慮してもそれは揺れ続け、定まることはない。

物語言説は数秒程度、しかし物語内容の理解には膨大な時間がかかる……碧梧桐句と異なり、閒石句の「辞」はなぜこのように乖離をもたらすのだろう。

「て・の・かな=辞」は、「階段が無くて海鼠の日暮かな」と一挙に作品を完結させたが、それにも関わらず、「階段が無い/海鼠/日暮」は無関係な事物同士であることを保ったままである。

その結果、「“無関係”が“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立」(「1%の俳句」)せざるをえない。

この瞬間、物語言説/内容の速度が乖離してしまい、「歪み」が生じるのである。

閒石句に魅力があるとすれば――「内容が分からない」と魅力を感じない俳人も多いだろう――、さしあたってはこの「歪み」に存在するといえよう。  

他ジャンルと比較すると、このような乖離=「歪み」は小説等より強く発生する可能性が高い。なぜなら、僅か十七字の俳句は物語言説が極度に短縮されてしまい、物語内容との乖離が顕著になりやすいためだ。

そして、この乖離=「歪み」を強く助長するのが(閒石句においては)「辞」である、とひとまずはいえよう。

ところで、「歪み」は橋閒石の作品に限らない。およそ優れた句は「歪み」を現出させるものであり、それは次の句も同様である。

人参を並べておけば分かるなり 鴇田智哉

句意は述べるまでもなく、読んで字の通り……と言いたいが、一つ問題がある。

人参を並べておけば何が分かるのか、まるで分からない点である。

作品をいくら読んでも、この答えは得られない。
答えを示す代わりに、句は黙って「分かるなり」の「意味=内容」を探るよう読者に強要し、後は口をつぐむのだった(この「強要」については、前回レビュー(http://bit.ly/m3u4BK)5を参照)。

しかも、「人参を並べ「ておけば」分かる「なり」」の「辞」は、「意味=内容」の補完を読者に強く求めるよう働くのである。

これを詳しく見てみよう。

「人参を並べ「ておけば」」は、「人参を並べれば」「人参が並んでいれば」以上に作者=主体の意図を感じさせる「辞」である。しかも、作品は「分かる「なり」」という力強い断定(!)で終わっている。

これを受けとる読者は、「そこに作者=主体の何らかの意図や理由があるはずだ」と感じるのが普通だろう。

しかし、句は「意味=内容」について何も語らない。作品は黙って読者の手を取り、何もない余白――ハイデガーの「空け開け(Lichtung)」に近いだろうか――へ、いざなうのみである。
 
人参を並べておけば □ 分かるなり

読者は広々と空け開かれた“□”に招きいれられ、そこにたたずみつつ、何が「分かる」のか……と思案するだろう(これと同様のことを、田島健一氏〔俳句実作者、「炎環」所属〕が「俳壇」2011 .7で指摘している)。

そもそも、「分かる」は「□が(は)分かる」という意味であり、□とともに把握する動詞といえる。つまり、何らかの主体=主語を必要とする動詞なのだ。

ところが、「人参」句は「分かるなり」と動詞ぶり(?)が強調されながら、□は余白のまま空け開かれている。

その一方、作品内では「人参を並べておけば…」と細かいディティールが示されているのである。

これを受け取る読者は、いやが上でも作者=主体の意図を考えざるをえない。「□が“分かる”のだろうか。または□は“分かる”のかもしれない。あるいは……」

――しかし、“□”は何も応答しないのである。

「応答しない」というより、次のように述べた方がいいかもしれない。「人参」句における“□”は、読者をどこにも存在しない「意味=内容」の彼方へ歩き出すよう、ただ無言で指し示すのである(ちなみに、鴇田氏の句にはこのような構造が多い)。

この点、「人参」句の完全な「意味=内容」は読者の前についに到来しない。

より正確にいえば、鴇田氏の句において、「意味=内容」は、ついに現れないという状態で、常に到来するのである。

このように読者をいざなう“□”は、前回のレビューで指摘したように、「偶然を装った、恣意的かつ無意味に見える事物の提示こそ、読者を「意味」へと誘惑し、かつ今=ここに一望しうる風景の復元に走らせ、そして作者=主体のまなざしを強烈に感じさせる」(「有季定型と写生は結婚しうるか2」)働きをすることは、言うまでもない。

表現上は作者=主体の判断が記され、具体的なディティールも書きこまれながら、肝心の「意味=内容」が空白のまま一挙に作品として完結してしまうということ。

この不均衡=「歪み」の発生を可能とするのが、僅か十七字で完結する(と信じられる)俳句形式であり、また「歪み」を助長するのが「人参を並べ「ておけば」分かる「なり」」の「辞」だった、といえよう。

彌榮氏の論に戻ると、「1%の俳句」はこの「辞」のありようを「露呈性」という特徴も含めつつ、示唆的に述べるに留まっているが、この「辞」に対する感覚は広範な射程を秘めたものといえよう。

私見では、本居宣長が明確に主張し、折口信夫が直観的に指摘するとともに時枝誠記が整理した、かの「日本語=辞」に宿る主体の影――生霊や「まれびと」のように――につながる認識になりうる、と推定される。

無論、宣長や折口の「辞」は和歌/短歌に関してであり、俳句に関してではない。

ただ、短詩形の短歌及び俳句は、日本語の「辞=主体」のありようを急激に露呈する――それは時に「人参」句の“□”に近いものとして現れるだろう――可能性が高いといえよう。

しかし、これを論じるのは「1%の俳句」レビューの役目ではない。「辞」による「歪み」の整理は以上とし、次に彌榮氏の「写生」観を紹介しよう。


7.なぜ「写生」という言葉を?

彌榮氏が俳句の本質に「写生」を挙げたことは、「1%の俳句」を読めば明瞭である。

では、氏はなぜ「写生」を本質と見なしたのか? これを充分に解きほぐすには「写生」に関する問題を多々検討する必要が生じるが、今回は詳細に立ち入らない。ここでは、氏の「写生」観の要点を整理するに留める。

まず、「1%の俳句」における氏は「写生」をほぼ俳句の絶対条件と信じ、それ以外を認めない姿勢を貫いた。

その理由の一つとして、氏には「写生」が単なる技法でなく、過去の膨大な作品群を丸ごと内蔵した言葉のために強く主張したのでは、と推定される

以前に述べたため詳細は省くが(「批評家たちの「写生」3」、竹中宏主宰「翔臨」70号〔2010〕等)、私たちが「写生」を具体的に想像する際、提唱者の子規句よりも高浜虚子や「ホトトギス」雑詠欄の句群を想像する場合が多い。

芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏(大3.11)
白露に阿吽の光さしにけり 川端茅舎(昭5.11)
ぬかづけばわれも善女や仏生会 杉田久女(昭8.7)
夏草に汽罐車の車輪来て止まる 山口誓子(昭8.10)
川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子(昭10.12)
白日紅葉煙草廃めたる両手垂らし 中村草田男(昭14.2)
〔虚子句は「ホトトギス」所載「句日記」、他は「ホトトギス」雑詠欄〕


詳細は省くが、実作者は右のような句群を想起した時、初めて「写生」に驚嘆するのではないか(賞賛/批判いずれにせよ)。

現代の私たちは、まず虚子率いる「ホトトギス」の句群を想定し、次にそれらを出現させた起源を探した結果、明治期の子規俳論を遡及的に発見する……という手順で「写生」観を形成する場合が多い(ただ、これは俳句実作者の傾向で、一般的には子規から入る場合も多い)。

しかし、右の引用句群をよく見ると、これらが一貫した理論や概念に貫かれているとは言いがたい。

しかし、当時の句作者や読者たちはこれらを「写生」の実践と信じ、そのように解釈しつつ、人に語り続けたのである。

「写生」という、どのようにも捉えうる魔法のささやきに胸を躍らせながら、俳人達は蛇笏や誓子達のように句を詠もうと切磋琢磨したのだった。

ここで彌榮氏の「写生」観に戻ると、氏はこれらの句群が「写生」として実践され、信じられたという近現代句の道程を信じ、引き受けようとしたために「写生」という語=歴史を重視したように感じられる。

この点、氏の「写生」は理念や理論というより、明治~昭和期の「写生」句を引きつれた具体的な作品像の総称という方が近いかもしれない。次の一節を見てみよう。

例えば、「季語」を語ろうとする。しかし、「季語」は、他の俳句の様々な特質と相互に絡みあいながら俳句作品の中で実現されるのであり、それらと切り離された語りでは、1%の俳句における「季語」の働きはほとんど見えない。(…)1%の俳句における「季」の表現とは、「秋」だから歳時記の秋の項目に載っている「季語」を入れる、といった機械的な平板なものではない。(彌榮氏「1%の俳句」)

「1%の俳句」において、「写生」「季語」等は理論的に整備された技法論や文化論等に還元されるものでなく、蛇笏や虚子、素十等の具体的な作品を引きつれた上での説明とならざるをえない。

そのため、氏の俳句論には「99% vs 1%」といった価値観及び俳句史観が付随することになるのだが、さしあたって彌榮氏は過去の作品群を携えた実践の総称として「写生」という語を重視した、という点を確認しておこう。

このようにまとめると、「では「写生」という認識自体に意義はないのか」という疑問が浮かぶかもしれない。

無論、そのようなことはない。彌榮氏にとって「写生」は看過しえない認識であり、それゆえに論の中心に据えたことも事実であろう。

では、「1%の俳句」が重視する「写生」とは一体どのような認識なのだろうか。


8.「写生」=俳諧性?

 「写生」とは何か――この巨大な問いにはいくつもの答え方が想定されるが、今回は一点のみ挙げる。

それは、近代俳句が江戸期俳諧と手を切った時に獲得しえた、ほぼ唯一の俳諧性だったと推定される。

では、“俳諧性”とは何か――これも巨大な問いかけであるが、ここでは次のように定義することにしよう。

和歌・漢詩、あるいは小説や演劇、これらが文芸としての意味をみずからに問いかけることは極めてまれだろう。

それにひきかえ俳諧は、俳諧とはなにか、という自問自答を繰り返さねばならない文芸であった。俳諧の歴史は、俳諧性や俳意というものを、自己確認しつづける宿命にあった。

(藤田真一氏「田中道雄著『蕉風復興運動と蕪村』書評」、学術誌「国語と国文学」2002.9)

江戸俳諧研究者の藤田氏は、“俳諧性”を「俳諧とはなにか、という自問自答」そのものと定義した。

詳細は省くが、“俳諧性”とはよく言われるように「滑稽味」や連衆との「座の文芸」以上に、メタレベルの認識そのものを作品として示す文芸に他ならない(ちなみに、“俳諧性”を「滑稽」「座の文芸」とするのは、多くが近代俳句以降から遡及的に発見した俳諧の姿であり、それが江戸期俳諧の全てではない)。

実際の作品で見てみよう。

鮓(すし)をおす石上(せきじょう)に詩を題すべく 蕪村

現代の私たちからすると、シュールな内容に感じるかもしれない。しかし、この句は『和漢朗詠集』の文句をずらしたところに趣向がある。

林間暖酒焼紅葉(林間に酒を暖めて紅葉を焼き)
石上題詩掃緑苔(石上に詩を題して緑苔を掃く)


白楽天の漢詩で、いかにも詩人の所作らしい内容といえよう。

蕪村は、この詩の一節を鮓を漬けこむ重しの石に見出した。

「鮓をおすこの石は、(かの白楽天のように)漢詩を書くにちょうどよい」――すなわち、『和漢朗詠集』という風雅な理念=価値規範を、鮓石という現実の俗事に見出すことで漢詩の世界観をずらす、つまり風雅な理念がずれること自体にこの句の“俳諧性”がある。

言いかえよう。白楽天というカノン(価値規範)に鮓石という現実の俗事を裁ち入れることで、「カノン」と信じられている価値観を揺るがす認識そのものに、蕪村句の“俳諧性”が存在するのである。

藤田氏が指摘するように、和歌や漢詩が自らの価値観をゆさぶる事物を率先して詠むことは稀であろう。ただ俳諧のみが和歌ではないものを、漢詩ではないものを、つまり和歌や漢詩等のカノンを受け入れつつもそこからずれるもの、はみでるものを謳い続けたのである。

分かりやすく述べると、「ある価値規範や先入観等をいったん受け入れた上で、その先入観をずらし、揺さぶりをかける、その営為自体が“俳諧性”」となろうか。

この点、俳諧は俳諧そのものとしては実在しない。和歌でありつつ和歌でないもの、漢詩でありつつ漢詩でないもの、この緊張に満ちた往還運動そのものが――藤田氏の言でいえば、「自問自答を繰り返さねばならない」――“俳諧性”なのである。

ところが、近代俳句はこれら文芸上のカノン=価値規範を排除してしまった。

子規以降の俳句は和歌や漢詩等のみならず、江戸期までの日本文芸の世界をほぼ焼き捨ててしまったのである。

その結果、近代俳句は蕪村句のような“俳諧性”が不可能になった。

しかし、それに近いものを醸成しうる契機が僅かに存在しており、その一つが「写生」だったと推定される(今回は触れないが、他には一部の自由律と新興/前衛俳句にも“俳諧性”が見られる)。

このように記すと、語義矛盾に感じる人が多いかもしれない。なぜなら、「写生」は “俳諧性”を滅ぼした張本人であり、その「写生」が“俳諧性”たりえるとは、一体どういうことなのか――確かに、これを示すには多くの論証を行う必要がある。

しかし、ここでは字数の都合上、「写生」が“俳諧性”を発生しうることを簡単に示すことにしよう。


9.「写生」とは

「1%の俳句」において、「写生」は次の例とともに説明されている。

α―太陽は東からのぼり西に沈む
β―太陽は西からのぼり東に沈む
γ―太陽は動かない、地球が太陽の周りをまわっているのだ


これらは、「αは僕たちの知覚世界、βは『天才バカボン』の主題歌の歌詞、γはガリレオ・ガリレイの地動説」(「1%の俳句」)であり、この中で「写生」はαに近いという。なぜなら、「写生」は現実の体験を重視する認識のためである。

しかし、「写生」は厳密にはαではない。氏は続けて次のように説く。 

これらの句(=「写生」句、引用者注)がαに近いヴァージョンであるということ、βやγと比べてみると、ほとんどαだといってもよいヴァージョンだ、ということもまた極めて重要である。「写生」という言葉の内実はそこにある。

αとは異なるヴァージョンでありながらαに酷似している、疑似α性ともいうべき性質、それが俳句の「写生」のもう一つの核心なのだ。(「1%の俳句」)
すなわち、現実でありつつ現実でないものが「写生」の核心である、というのである。

では、それはどのような姿なのか。ここで「1%の俳句」から離れ、中村草田男の句を解釈した山本健吉の文章を例に考えてみよう。

四十路さながら雲多き午後曼珠沙華 草田男

昭和二十二年作。草田男はだいたい四十代に多事な戦争前後の時代を過ごしている。(略)自分の四十路はさながら今日のこの雲の多い午後に似ていると取ることもできる。しかも雲の多い秋の郊外には、おびただしい曼珠沙華の群れである。
「曼珠沙華」はこの場合動かない。曼珠沙華は何か寓意的な花である。

(山本健吉『現代俳句』)

山本は、作者草田男の「多事な戦争前後の時代」を参照することで「「曼珠沙華」はこの場合動かない」と結論付け、作品から「寓意」を読みとろうとした。

確かに、草田男句にはこのような側面も強い。しかし、次のようにも捉えられないだろうか。

季語「曼珠沙華」が「この場合動かない」と必然性を帯びるのは、作品が十七字で一挙に完結したためであり、「曼珠沙華」自体は偶然を湛えた事物なのではないか、と。

草田男句における必然/偶然について、細かく見てみよう。この句を分解すると、次のようになる。

A―四十路さながら
B―雲多き
C―午後
D―曼珠沙華


橋閒石の句でも確認したように、A~Dの語自体に強い関連は存在しまい。ただ、現実の感覚に照らすとB・Cは一幅の情景に還元しうるため、関係があると感じうる。

同時に、「雲多き午後」という“風景”が常に「曼珠沙華」を必要とするかといえば、そうではあるまい(これに比べると、「雲多き午後」と「四十路さながら」はまだ関係性を見出しやすい)。

しかし、一句はすでに完結しているため、A~Dは「“無関係”が“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立する」(彌榮氏「1%の俳句」)。

その結果、一見恣意的な”関係”を受けとる読者は、むしろそこに作者=主体の意図を読みとり、作品の表現と「意味=内容」の間に必然性を見出そうとするだろう。

では、なぜ私たちは表現と内容の間に必然性を求めるのだろうか。

一つには現実に生きるということ、つまり自分が自分であることの価値を願い、それゆえに過去から将来に至る人生を一貫したもの、意義あるものとして私たちが生きようとするためだろう。

私たちは、自らの体験一つ一つに「意味=内容」を見出し、自らの人生における過去―現在―将来を緊密に縫いつけ、全てを必然の歩みとして理解することで、生きることに価値や意義を見出そうとする。

従って、暮らしの中で無意味かつ不可解なもの、また偶然に満ちたもの――何かの事件や突発事など――に出会った時、「意味=内容」という必然を見出すことで安心しようとするだろう。

もし、全てが偶然としたら……自分が生まれたのは偶然、また今見ている個々の事物は偶然に存在し、どれもが無関係であり、しかも昨日の自分と明日の自分は同一でなく、偶然そうだったというに過ぎない……これはもはや精神分裂に近く、通常の生活は無理だろう。

私たちの多くは、現実とはもしかすると偶然かつ無意味な事象の羅列かもしれないが、それでは生きていけないため、「意味=内容」という必然や物語でそれを覆い、安心しようとしているのである(ちなみに、こういう意識を持つこと自体が近代に顕著な感覚といえる)。

俳句の解釈も、これと同様ではないか。

表現と「意味=内容」の間に何らかの必然性を見出さないと、私たちは不安に陥るのである。

ここで、草田男句及び彌榮氏の論に戻ろう。

草田男句のA~Dはさしあたって現実の事象である。加えて、一句として完結しているため、互いの関係に必然性があるように感じうる。

この点、草田男句は「太陽は東からのぼり西に沈む」というα=現実のヴァージョン(「1%の俳句」が参照したネルソン・グッドマンの概念)をなぞった作品といえよう。つまり、私たちが日々体験する出来事を、追体験しうるものとして詠んだのが草田男作品である。

しかし、この句はそれのみだろうか。

草田男句の「四十路「さながら」雲多き午後「曼珠沙華」」という部分には、必然を揺るがす不穏な偶然が顔をのぞかせているように感じられる。

それは“三十路さながら”だったかもしれず、また“春の桜”でもありえたのに、なぜか現実は“四十路さながら”“曼珠沙華”でしかありえないということ、つまり作品内では必然に彩られながら、その裏には「○○であったかもしれず(過去)、あるいは○○のはず(将来)でもありえたにも関わらず、現実はこうでしかありえない…」という偶然性がはりついていることを、露呈してはいないか。

これを言いかえてみよう。

私たちは、 「四十路さながら雲多き午後曼珠沙華」を読み進めつつ、句の「意味=内容」に見合う現実のヴァージョンをかき集め、その合成物の中で“現実=過去”を追体験しようとする。

つまり、過去の実体験=記憶から適当なものを集め、今=ここで一望しうるフレームに収まるよう「意味=内容」の完成を目指すことで、自身にとっての現実のヴァージョンを安心して追体験するのである。

しかし、「四十路「さながら」雲多き午後「曼珠沙華」」には作者=主体の意思が――読者に恣意的に感じられる作者=他者の選択の現れとして――、「意味=内容」に還元しえない残余として漂ってしまう。

この時、読者は次のように感じるだろう。

「なぜ三十路や五十路でなく、“四十路”そのものでもなく、“四十路さながら”なのか? なぜ“”百日紅”“秋彼岸”などでなく、“曼珠沙華”でならねばならなかったのか?」と。

作品の奥底からこのように解釈の可能性が口を開け始めると、多くは“四十路さながら“や“曼珠沙華”の必然性を作家の人生や境涯に照らしつつ、「この場合動かない」と納得しようとするだろう。

先にも述べたように、私たちは「意味=内容」という必然をおおいかぶせることで現実のヴァージョンを安定したカノン=価値規範と信じ、それなりに納得しつつ日々を暮らしているためだ。

同様に、たとえば“曼珠沙華”は秋に咲くから秋の花であり、昔から彼岸を想わせる花と信じられたために“彼岸花”なのである。

このように私たちは“曼珠沙華”をカノン=価値規範として、つまり「そういうものだ」と信じることで、「そうでないかもしれない」という可能性=偶然性を遮断しつつ、“曼珠沙華”という季語を必然として使用してきたし、これからもするだろう。

ところが、草田男句は“曼珠沙華”というカノン=必然を詠みこむとともに、それを揺るがす偶然性を到来させてしまっている。

それは、「四十路さながら雲多き午後」になぜ“曼珠沙華”が詠まれるのか、作品からは判断しえないためであり、その結果、読者は「他の季語でもありえたかもしれないのに、なぜ“曼珠沙華”でなければならなかったのか?」という問いを発動させるために他ならない。

しかし、十七字の俳句作品は、読者安定した「意味=内容」を、つまり必然性を帯びた回答=カノンを最終的に与えることはないだろう。

「人参を並べておけば分かるなり」が最後まで「分からない」のと同じように、草田男句の“曼珠沙華”(と“四十路さながら”)は「そうでしかありえなかった」必然と、「他でよかったかもしれない」偶然が手を携えたまま作品内に休らっているのである。

この草田男句のありようを参考にしつつ、「写生」の“俳諧性”をまとめてみよう。

草田男の作品は、「雲多き午後」や「曼珠沙華」、あるいは「四十路さながら」という言葉を日常の現実からつかみだし、見定め、「写生」句として整えた。

彼が眼前の「曼珠沙華」等を実際に「写生」したかどうかは、さして問題ではない。

重要なのは、読者が自ら過去に体験した――もしくはこれから体験しうる――現実のヴァージョンを注入=充填しやすい言葉によって作品が成立している点である。

すなわち、「写生」は作者の実体験の有無が問題ではなく、読者が現実のヴァージョンを充填しえる言葉が選ばれているか否かが重要であり、この点、草田男句は読者が抱く現実のヴァージョンを、つまり日常生活におけるカノン=価値規範を――読者が「そういうものだ」と思いこんでいる体験や価値観などを――受け入れた「写生」句、といえよう。

しかし、読者が作品に現実のヴァージョンを注入し、句の世界を「意味=内容」で満たすことで安心しようとすると、草田男句はそれに収まらないものを開示しはじめる。

なぜ“四十路さながら”なのか、なぜ“曼珠沙華”なのか?

この時、読者は草田男の作品に不穏な影をかすかに見出すだろう。

……これまで「そういうものだ」と信じ、日常生活や句作において何気なく接してきた“曼珠沙華”という季語や、その実体。

または、雲多き“という風景や“午後”という時間帯、あるいは“四十路さながら”という措辞。

これまで――そしてこれからも――「意味=内容」を充填しつつ、安心して接してきた/接するはずのこれらの実体験や価値観、言葉は、本当に「そういうもの」だったのだろうか。

句に詠まれた言葉の群れは、読者がこれまで体験した現実のヴァージョンを次第に揺さぶり、それが読者=あなたにとって単に一つのヴァージョンでしかないことを静かに開示するだろう。

さらに、それは読者に次のように問いかける。「あなたにとって、これまで信じてきた(そしてこれからも信じるであろう)現実のヴァージョンとは、一体どのようなものか?」と。

この点、私たちは草田男句を通じて過去に体験した現実のヴァージョンを単に追体験するのでなく、慣れ親しんだ(はずの)現実=実体験のヴァージョンが、(実は)さまざまな可能性があったにもかかわらず、そうでしかありえなかった“過去=宿命”という形をとって、読者の前に初めていきいきと現前するのではないか。

いずれにせよ、草田男の「四十路」句は読者が注入する現実のヴァージョンを受け入れるとともに、それを揺さぶり、ずらしかねない契機を発生させるのである。

まとめると、和歌や漢詩等のカノンが消滅した近現代において、「写生」は現実のヴァージョンをカノン=価値規範として作品内に招待し、歓待しながらも、それをずらし、揺るがす装置として俳句形式に宿るといえよう。

それを受けとる読者は、自らの現実のヴァージョンに対して「自問自答を繰り返さねばならない」(藤田氏の一節)。この瞬間、読者に近現代の“俳諧性”が到来するのだ。

「1%の俳句」における次の一節、つまり現実という名の「αとは異なるヴァージョンでありながらαに酷似している、疑似α性ともいうべき性質、それが俳句の「写生」のもう一つの核心」とは、この“俳諧性”を指摘したくだりといえよう。

端的に言えば、彌榮氏は俳句の魅力を日常でありながら、日常からずれるものを現出させる点に見出したのである。

氏にとって、このずれをもたらすのが「写生」であり、また「写生」と括られた過去の作品群がその具体的な実践だった。

そのために氏は「1%の俳句」で「写生」を強調し、俳句の本質として掲げたのである、とはいえないだろうか。


おわりに


すでに長くなったため、最後に次の点をいくつか指摘しつつ、レビューを終えることにしよう。


◆高柳重信の捉え方

反「写生」の象徴として取りあげたのは分かるが、高柳には複数の側面がある。彼は「ホトトギス」が達成した「写生」の凄さを知悉しており、それは実作よりも「俳句研究」編集等にうかがえよう。

むしろ「ホトトギス」内部の俳人以上に「写生」の怖さを知る彼が、論として反「写生」を表明しなければならなかった意味を考えることは、そのまま近現代俳句史の捉え方につながる問題である。今後、氏が俳句実作を軸とする評論活動を展開する際、看過しえないものと推定される。


◆カッシーラー、グッドマンの参照について

カッシーラーやグッドマンの世界認識は空間把握的と推定される(特に「ヴァージョン」など)。

「写生」の捉え方によって見解がわかれるが、「写生」の機構を説明するには、私見では時間認識に関わる哲学・思想等を参照した方が有効に感じられるが、いかがだろうか。

「ヴァージョン」のように空間把握な認識の場合、「△と▼のヴァージョンが異なるといっても、結局ヴァージョンという点では同じでないのか」という風に誤解されやすいように感じられる。

なお、本レビューでは十分に展開できなかったが、鴇田氏の「人参」句についてはハイデガー(ドイツの哲学者)の「空け開け」を、また中村草田男の作品についてはジャック・デリダ(フランスの哲学者)の「差延」及び九鬼周造の偶然論といった認識から示唆を得る点が大きかった。これらは、個人的にはいずれも時間に関する概念と推定される。


◆有季定型と「写生」について

本来、「9.写生とは」に続く章として論じるべき内容だが、ネットの読み物としてこれ以上量が増えるのはためらわれるため、ここに記すことにしたい。

大まかに示すと、有季定型は内容に必然を帯びさせる装置である一方、「写生」は偶然を呼びこむ認識、といえよう。

この両者が拮抗するところに近現代俳句の醍醐味があると推定されるが、それは危うい綱渡りのようなもので、私見では有季定型と「写生」はついに同質たりえないものが潜んでいるように感じられる。

「1%の俳句」においては、有季定型がそのまま「写生」たりえる、というより有季定型だからこそ「写生」が力を発揮する、という論法だった。

今回はそれが刺激的な内容となったわけだが、たとえ有季定型と「写生」が不即不離の関係にあるとしても、両者の関係にずれを見るか否かで今後の俳句観が――または言葉というものの捉え方が――大きく変容するように感じられる。

これから評論家として立つ氏には大きな問題になりうると感じられるが、いかがだろうか。


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本レビューの一回目冒頭で、彌榮浩樹氏の「1%の俳句」は批評に近い一文である、と指摘した。

なぜなら、「1%の俳句」は「普遍=公共的な価値」を志向するには個人的な信念からしか出発しえないこと、それが多くの他者の誤解と批判にさらされることを覚悟の上で、というよりそのようにしか「文学」を実践しえないことを自覚した論だったためである。

しかし、批評は今一つの信念――むしろ実感というべきかもしれない――を必要とするように感じられる。

それは、断念である。信念を抱き続けることと、断念を抱きしめることは表裏一体であろう。

断念と信念の交錯に立ちつつ、それでも実践=アンガージュマンを試みるべく筆を進めようとする時、初めて批評というスタイルが、そして散文としての文体が切迫感とともに意識され、要請されるのではないか。

いずれにせよ、俳句に少なからず関心を抱く者として、氏の今後の活動に期待したい。

リンク

第1回 有季定型と「写生」は結婚しうるか(1)

第2回 有季定型と「写生」は結婚しうるか(2)

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2011-07-03

彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読 有季定型と「写生」は結婚しうるか(2) 青木亮人

彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読
有季定型と「写生」は結婚しうるか(2)

青木亮人




前回まで

前回はプロローグ的に、彌榮浩樹氏「1%の俳句」がいかなる位相の俳論であるかを確認した。

改めていえば、氏は「文学」側に向けて俳句の魅力を説いたのであり、俳句界に向けた論ではない(表向きは)。そのため、俳句のあり方を原理的に、また性急に語る必要があった。

俳句史や事情を知る俳人は、その彌榮氏の論を不粋に感じ、また批判を加えたくなるだろう。

なぜなら、当たり前の事柄を原理的に語ることは野暮であり、公平さを捨てて価値を決定することは非難を招きやすいためだ。

しかし、俳句評論といえば今も桑原武夫や山本健吉あたりが挙げられる「文学」に対し、他にどのような訴え方があったろう?

ただ独りで気負い、焦燥にかられながら断言を繰り返す氏の姿を笑う前に、そのように語ることを氏に強いたものが何だったのか、それを考えてもよいのではないか。
 
●
 
ところで、「1%の俳句」で挙げられた問題は多岐に渡っており、それを全て扱うのはレビューの範囲を超えることになる。従って、今回は俳句の「一挙性」に焦点を絞って紹介しよう。

なお、「文学」に向けられたこの「一挙性」は、俳句形式を原理的に捉えたもの――いわば俳句の特徴を外部から捉え直した――であり、俳句界ならば当然のことと不問に付すことを、あえて再検討した感がある。

その「一挙性」を紹介するとなれば、やはり俳句形式を一から説き起こし、通常は論の前提として飛ばすところを、丹念に検証しなければなるまい。

従って、「なぜそのようなことを延々と問題にするのか?」と感じるかもしれないが、「一挙性」を紹介するのはそれが必要であること、また「一挙性」にこだわることが近現代俳句にとって大きな意味を持つであろうことを、「一挙性」を検討した後に示したい。


3. 俳句形式に意識的であること

彌榮氏は、俳句の「醍醐味」を次のように述べている。


俳句とは、わずか十七音に課せられたすべてのルールを無理に満たすところに醍醐味が現れる、そんな文芸形式なのだ。短歌との違いも、音数の少なさという量的な違いだけではなく、数々のルールの縛りが輻輳しているための言語表現の質的歪みにある。(「1%の俳句」p.65~66)


小説や詩、短歌と比較すると「わずか十七音」の上、季語を詠みこむという「ルールを無理に満たすところに醍醐味が現れる」という。ここから、次の二点がうかがえる。

①俳句形式=有季定型を一種の“枷”ととらえ、そこに生じる「歪み」に意識的であること

②小説等と同様に「描写・語り」等を行ったとしても、有季定型の“枷”の中で行うと、他ジャンルと異なる作品に仕上がることに意識的であること

すなわち、氏は俳句の特徴を俳句形式=有季定型という「歪み」にある、と捉えたのである。

無論、俳人は多かれ少なかれ俳句形式に意識的であろう。ただ、彌榮氏が普通と異なるのは、有季定型などのルールを「無理に満たす」過程で「歪み」が生じる、と捉えた点である。

そして、この「歪み」を発生させるのが「一挙性」であり、それを可能にするのが俳句形式で、他ジャンルにないものである……というのが「1%の俳句」の主張なのだが、「一挙性=歪み」を検討する前に、そもそも氏が考える俳句形式=有季定型がどのような存在かを確認しておこう。


4.通常/彌榮氏における俳句形式

普通、多くの作者は表現したい実体験やできごと、感慨や心情が俳句以前にある、と考える(または信じる)傾向にある。

それを表現するために俳句形式や日本語を使いこなし――長い句作で得た技術を生かしつつ――、一個の作品として整えたのが俳句と考えるだろう。

その際、俳句形式や日本語は透明な媒体として捉えられる場合が多い。図式化してみよう。

◆通常の発想

①言語化以前のもの/作者自身の内面、現実の風景(すでに感慨・心情があると信じられている)
↓
②俳句形式+日本語(ここで感慨等を整える。言葉は①を形にするための手段)
  ↓
③完成した作品
 
このように、普通は①→③という推移で句作の流れを考えるだろう。従って、ある作品を読解する際は、

③作品
 ↓
②俳句形式=日本語(透明な媒体に近い。さほど重視されない)
↓
①作者の内面、体験その他の復元(ここが重視される)

という風に復元することが多いのは、①→③の発想が基本にあるためである。

ところで、文学理論などで一時期流行したテクスト論(①の優位を批判し、読者の多様な読みを解放したとされる理論)に沿った解釈などは、①を重視せず読者の自由な感想を論じる場合も少なくない。

しかし、それは作者重視が読者重視になっただけで、基本は変わらない(単に①を否定するテクスト論は、実際は提唱者のロラン・バルト等と異なる姿勢である)。

さて、これらが通常の句作/句解のあり方とすると、彌榮氏の認識はやや異なる。

氏にとって有季定型とは「人間」に先立ち、「人間」のさまざまな感慨や実感を方向付け、規定する枠組みであり、いわば「人間」に内在化しえないものに他ならない。

◆彌榮氏の発想

Ⅰ俳句形式+日本語(人間=作者より先立つ)
↓
 ↓←主体=作者が関わる
↓(Ⅰによって心情等を感じる/感じさせられている)
↓
Ⅱ完成した作品
↓
Ⅲ「人間」が見た風景や心情、個性などが②を通じて初めて発生

このように、通常は先に見た①を重視するところを、氏は①に重きを置かず、俳句形式+日本語(Ⅰ)そのものの姿を、そして俳句形式によって成立した作品に初めて宿る魅力(Ⅲ)を第一に考えるのである。

これは言語(芸術)至上主義とか、日本古来の伝統文芸として俳句を崇めるといった認識ではない。氏の考える俳句形式は、次の「風景」に近いといえよう。


「風景」がいったん成立すると、その起源は忘れさられる。それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物(オブジェクト)なるものは、むしろ「風景」のなかで成立したのである。

主観あるいは自己(セルフ)もまた同様である。主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、「風景」において成立したのである。つまりはじめからあるのではなく、「風景」のなかで派生してきたのだ。
(柄谷行人『日本近代文学の起源』1980)

この「風景」を「俳句形式」に置きかえてみよう。

たとえば、俳句では昔から「写生」が客観的か主観的か、という論の立て方がある。あるいは、「現実を句で切りとる」「体験を句に盛りこむ」「季節感を句に(以下略)」という発想――つまり句作に先立つ無垢な“現実”や“実体験”があるという実感――がある。

しかし、「客観/主観」や「(無垢な)現実・実体験・季節感」などの「意味」は、俳句形式に先立って存在するわけではない。

むしろ、それらは「五七五+季語」という“枷”の中で成立したのであり、一度成立するやいなや、あたかも“枷”以前に存在したように錯覚し、人々はそれらを伝える透明な記号として俳句形式を捉えるようになる。

その結果、「(無垢な)現実・季節感」などが作品以前に、つまり時間的に先立って存在すると感じるのである(柄谷氏は、これを「作者=内面の成立」と指摘した)。

これが一種の転倒であること、そして時間的に先立つのは俳句形式という特殊な“枷”であることを、彌榮氏は次のような例を挙げて説明している。


くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

この一句を語るのに、この句の季語は「秋」だ、という言い方はほとんど積極的な意味をなさない。 

“鉄錆びた、釣り忘れた風鈴の音に、深まる秋情を感じ取っている。その金属性の音に、蕭条たる秋気がこもっているのだ。(山本健吉『現代俳句』〔1951〕、飯田蛇笏項)”

と、このような鑑賞は、例えば、

くろがねの風鈴鳴りぬ秋の昼(改)

という改悪句についての語りとほとんど変わらない。両句の違いはいったいどこにあるのか? この違いに触れ得なければ、俳句の「季語」を意味あるかたちで語っていることにはならない。(「1%の俳句」p.67) 


山本健吉は「意味」を散文に置きかえたのみで、俳句形式の「表現」が「意味」を生成させたことには何ら触れなかった(だからこそ、多くの読者を獲得したわけだが)。

つまり、山本は「表現」という起源を素通りし、「意味=内容=作者の心情」を補完することが蛇笏句を語ることと同一である、と見なしたのである。

しかし、彌榮氏は「意味=内容」に先立つもの、つまり「くろがねの秋の風鈴」という「表現」の「歪み」こそ重要であり――詳細は省くが、「くろがねの(秋の)風鈴」の(秋の)が「歪み」に当たる――、そこに小説・詩・短歌と異質たりえる蛇笏句の凄みがあるのではないか、と主張した。

このように氏が「表現」にこだわるのは、山本のような解釈では他の小説や詩にも当てはまることになり、俳句の特質が見失われるという危惧があったためだろう。

すなわち、俳句形式を透明な記号と捉えて軽々と「意味=内容」に足を向ける前に、俳句形式(とそれに付随する諸ルール)が生じさせる軋みやうねり、そして「歪み」に耳をそばだてること。これが氏の基本認識といえる。

彌榮氏がかくも俳句形式=有季定型にこだわるのは、それが生成させる「歪み」こそ他ジャンルにない俳句の魅力と信じるためであり、つまり氏における俳句形式とは「歪み」を発生させる“場”に他ならない。

そして、氏はその「歪み」をより複雑にする装置として「季語」「切れ」「笑い」等を挙げるのだが、ただ、全てをここで紹介するのは困難である。

従って、今回は「切れ」等の問題は問わず、五七五の俳句形式がもたらす「一挙性=歪み」に着目し、なかでも「歪み」をもたらす基盤とされた「一挙性」を検討することにしよう。


5. 十七字という完結性

そもそも、俳句形式はなぜ「一挙性」を発生させるのだろうか。

階 段 が 無 くて 海 鼠 の 日 暮 か な

「1%の俳句」で取りあげられた橋閒石の句を参考にしつつ、考えてみよう。

たとえば、川名大氏は「容器に入れられた海鼠が、階段もないがらんとした家の中に忘れられたように置かれており、はや暮れるのが早い冬の暮色につつまれようとしている光景」(『現代俳句』〔2001〕)と解し、また正木ゆう子氏は次のように述べる。

「階段が無くて海鼠の日暮かな」はさまざまな階段への連想を誘うけれど、この句自体の造りもまるで階段の無い二階の小部屋のようである。

句そのものの無意味性といい、「階段がない」ことと「海鼠の日暮かな」の間の脈絡の無さといい、階段の無い二階家のように読み手を途方に暮れさせる。そしてまたそのせいで今日も私はこの句に飽きることがないのである。(『起きて、立って、服を着ること』〔深夜叢書社、1999〕)
正木氏はいくつかの情景を提示しつつ、そのように「さまざまな階段への連想を誘う」のは「句そのものの無意味性」にあると捉えた上で、その「無意味性」は「読み手を途方に暮れさせる」が、「この句に飽きることがない」最大の魅力とした。

無論、これ以外にも解釈は多々あろう。ただ、彌榮氏が「1%の俳句」で閒石句を扱ったのは、唯一の解釈=真理を示すことで俳句の魅力を語ることではない。

氏が提示したのは、句解が何であれ、誰もが閒石句を一つの完成品と捉え、かつ一種のまとまりある意味を見出そうと試みること、それ自体である(詳細は省くが、句の「無意味性」に魅力を見る正木氏も「通常の俳句作品には脈絡と意味がある」ことを前提にしている)。

このことを、「1%の俳句」は次のように述べている。


五・七・五が独立した作品として屹立するということは、それ自体が詩的に充実した作品になるということだ。(「1%の俳句」p.70)

当たり前のことを述べたにすぎない、と感じる人も多いだろう。しかし、これが何をもたらすかを考えたことは、意外に少ないのではないか。

たとえば、私たち読者はなぜ閒石句を一個の完成品と捉えるのだろう? そして、私たちはなぜ完結した俳句にそれなりに一貫した意味や情景を見出そうとするのか?

理由は簡単だ。

読者である私たちは、「俳句は五七五で完結する」と信じているためであり、「完成した作品には作者(という一個の首尾一貫した主体)の意図なり、意味が何かあるはずだ。意味がないはずがない」と思いこんでいるためである。

では、俳句をそのように読むことを私たちに強いるのは何か。 

それは「俳句は五七五で完結する文学である」という先入観に支えられた、俳句形式そのものに他なるまい。

このように記すと堂々めぐりに近いが、実際はこの「堂々めぐり感」が重要である。

すなわち、閒石句が一個の完結した作品であること、また「詩的に充実した作品」(1%の俳句)であることを保証するのは、「俳句は十七字で完結する」という私たちの先入観=リテラシー以外に存在しない。

いいかえると、句の内容や意味、また作家の「人間」性等と無関係の地点で、俳句形式(と俳句史)そのものが俳句の完結性を保証している、となろうか。

このことに関し、何を当然のことを……と感じる人がいるかもしれない。しかし、これが重要なのは、俳句形式が十七字にも関わらず完結してしまう、という点である。

和歌/短歌ならば、五七五の後に七七が付く……と予想しうるだろう。また、詩や小説ならば、短歌以上に前後の言葉や文脈が介入するため、五七五=十七字で完結しうる場合は想定しにくい(モダニズム詩の短詩運動などには見られるが、例外的である)。

しかし、俳句は十七字で完結してしまう(と信じられている)。これは、よく考えると異様ではないか。

俳句に慣れるほど感じなくなるが、他ジャンルと比較した際、十七字で完成する/させられてしまう俳句は、一つの世界が完結するにはあまりに短い。それは極端に短すぎる。

少なくとも小説や詩、短歌を知る私たちは、俳句を極端に短い形式と感じうるリテラシーを身につけてしまっており、「俳句は短いゆえに長所/短所がある」と発想する傾向にある(余談だが、これは近代以降に顕著になった発想である)。

同時に、私たちは字数の乏しい俳句に対し、やはり他ジャンル同様に完結した「意味=内容」を自然に求めている。これは、奇妙なことではないか。

「1%の俳句」に戻ると、彌榮氏が閒石句を通じて「それ自体が詩的に充実した作品になる」(「1%の俳句」)と述べたのは、俳句形式は他ジャンルと比較して圧倒的に短いにも関わらず、読者の私たちが「意味」の完結性を求め、しかもそれを保証した結果、奇妙な「一挙性」が発生するのであり、それが他ジャンルにない俳句の特徴を形成するためである。

ただ、これは抽象的な論旨かもしれない。そのため、再び閒石句を通じて検討してみよう。


6.形式は「主体」の「意味」を強いる

たとえば、「階段が無くて海鼠の日暮かな」を分解すると、次のようになる。

 A―階段が無い
 B―海鼠
 C―日暮

A~Cの関係はあるともいえるし、ないともいえる。それは各A~Cをいくら眺めても結論は出ない。それにも関わらず、私たちが閒石句を読む場合はA~Cを関係付けようと考える。

なぜなら、これらは一句内に詠まれた言葉だからだ。

また、私たちは俳句が「文学」であることを信じており、そこに日常の言葉と異なる何かがある、と信じたがっている。それがどれほど日常の些事であろうと、むしろ取るに足らない事柄やできごとであるほど、「意味」を求めたくなるはずだ。

このように私たちを誘うのは、作者=橋閒石の思想や心情ではなく、また「階段」や「海鼠」という単語でもない。

俳句形式そのものが、私たちに「完結した作品として一貫した意味を、また一貫した作者の存在を考えよ」と強要するのであり、しかもそれを補完するのは読者の私たちなのである。

では、私たちは閒石句をどのように理解しようとするだろう。

たとえば、川名氏のように「容器に入れられた海鼠が、階段もないがらんとした家の中に、忘れられたように置かれている」光景を想起することで、無関係に見える「階段が無くて/海鼠の/日暮かな」を、一個の主体が今=ここで一望しうるフレームに収めようとするかもしれない。

いいかえると、私たちは俳句を前にした時、一人の「人間」が今=ここの瞬間で把握しうる情景(フレーム)に翻訳しようとする傾向にある。

まるで一点透視法で描かれた絵画のように、あるいは映画のワンシーンのように(詳細は触れないが、このような読解は近代以降に特有な認識である)。

これを裏返すと、俳句作品を鑑賞する際、一人の「人間=主体」が今=ここの瞬時に見渡せる“風景”に翻訳しえない時、難解句と評される場合が少なくない(実際、「海鼠」句は難解とされることが多い)。

加えて、私たちは俳句を読む際、生活で使用される言葉や習慣、できごとなどを判断基準の一つとして解釈に生かす傾向にある(無意識にせよ、意識的にせよ)。この日常感覚からすると、「階段が無い」ことと「海鼠・日暮」は無関係に近い。

しかし、閒石句は無関係に見える事物を、「階段が無くて海鼠の日暮かな」と助詞で円滑(?)に縫合することで完結させてしまった(ここに俳句独特の「歪み」として彌榮氏が注目する「辞」のあり方が見られるが、今回は触れない)。

しかも、「~日暮かな」と、いかにも俳句らしい切字で終了している。

俳句として完結した閒石句を前に、私たちは何か意味があるはずと考えたくなるものだ。

ただ、日常の判断や通常の句解で閒石句を解するのは難しい。

なぜなら、「「階段が無くて海鼠の日暮かな」は誰もが納得しうる“風景”として、つまり今ここ=瞬時に見渡せるフレームに収まる情景として解するには、情報が足りなさすぎるのである(または余計な情報が多すぎる)。

では、なぜ情報が足りない/多すぎるのか? 

答えは簡単だ。文字数が短すぎるのである。そのため、「階段が無くて□海鼠の□日暮かな」の“□”を埋めるには圧倒的に情報量が足りなくなる(あるいは余計な情報が多い)。

これが小説や詩などであれば、“□”を補完しつつ、「意味」を整えるストーリーや前後の文脈があるかもしれない。

しかし、超短詩形の俳句では、“□”が“□”のまま読者に提示されてしまう。

すると、どのような自体が発生するのか。

事物同士の関連は無関係として、無意味のまま読者に放り投げられることとなる。受け取る読者は、作者が解釈を放棄したまま、まるで現実の事物を恣意的に示したように感じるだろう。

このような事態が生じるのは、極端に短い俳句は事物同士や事物と“□”の関係を解決しないまま、一挙に提示せざるをえない。これが俳句の「一挙性」である。

では、この「一挙性」は私たちに何をもたらすのだろうか。

引き続き、読者側から考えてみよう。

読者は閒石句を受け取った際、「なぜ作者はこのように無関係に見えるものを、無造作に詠んだのか?」と感じる。

それも、現実に存在する(日常で体験しうる)事物が詠まれたものほど、読者は無関係/無意味な事物をかき集めて現実の風景に復元させようと試み、作者の意図や心情を読みとろうとするだろう。

この時、俳句の「一挙性」が読者に最も訴えるのは、作者=主体の存在である。

なぜなら、詠まれた事物同士が無関係で、恣意的であるほど、読者はそれを選択した作者=主体の意思や視線を意識せざるをえないためだ。

閒石句は、作者の心情や状況を一言も告げないにも関わらず、というよりそのために、読者は「意味」を迫られ、作者=主体の意図を強く意識してしまう。

「階段が無いのは何かの象徴ではないか」「海鼠は人間の寓意ではないか」「いや、単なる日常の景色をアクロバットに詠んだだけではないか」……しかも、結局解答は見つからない。

答えが宙に浮いたまま、事物同士が偶然のようにたたずんでいること、しかも無意味に強調されていること(「階段が無くて」、あるいは「日暮かな」など)。

この偶然を装った、恣意的かつ無意味に見える事物の提示こそ、読者を「意味」へと誘惑し、かつ今=ここに一望しうる風景の復元に走らせ、そして作者=主体のまなざしを強烈に感じさせるのである。

そして、これを発生させる装置こそ、彌榮氏が強調する「一挙性」のあり方に他ならない。

「わずか十七音という短さであることによって、作品全体が一挙に受取られる」(「1%の俳句」p.69)という一節は、読者の解釈を「意味」へと誘導し、また立ち位置とそこから広がるパースペクティヴを規定しつつ、しかも無言のうちに作者=主体のまなざしを作品に偏在させる「一挙性」の手口(?)に対し、氏が自覚的であることを示していよう。

その氏が強調して止まないのは、私たちが日頃論じあう俳句の「意味=内容」以上に、俳句作品という“場”がいかに奇妙で、魅力を放っているかという点であり、その一例として「一挙性」を挙げた、ともいえるのではないだろうか。

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ところで、この「一挙性」は、従来の俳句史で議論が重ねられた「取り合わせ」や「二句一章」、「二物衝撃」等と重なると同時に、微妙に異なる認識である。

なぜなら、「二物衝撃」等は、それを可能とする俳句形式に対する自覚がさほど高くない。実作者にとって「俳句は短い」という事実は自明の理で、それを前提に俳論を展開する必要があったためだ。

しかし、彌榮氏は小説や詩、短歌との差異において俳句形式を改めて見直した結果、そこに他ジャンルにない「一挙性=歪み」が生成することを強調しつつ、しかも「歪み」を次のように示した点が従来の発想とやや異なるといえる。


一挙に読まれうることによって“無関係”が“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立するのだ。(「1%の俳句」p.69)

これが先に述べた閒石句の無関係/無意味のありようであることは、確認した通りだ。

その上でこの一節を参考にすると、「一挙性」が生成させる「歪み」とは、さしあたって事物やできごとなどが「“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立」してしまうことを指す、といえよう。

先にも述べたように、これは極端に短い俳句ゆえに発生する「歪み」で、小説などの他ジャンルでは困難なあり方であり、そのため彌榮氏は「一挙性=歪み」に着目したのである。

「取り合わせ」や「二物衝撃」等との比較に戻ると、これらに「“無関係”が“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立する」感覚は希薄といえる(ただ、論としては希薄だが、論者自身の俳句には多々見られる)。

ところが、彌榮氏の「一挙性」には、“無関係”が“無関係”のまま“関係”しあうことの機微が盛りこまれている。

これが重要なのは、この“無関係”の“関係”が近現代俳句の根幹をなす「写生」の本質に関わるために他ならない。

紙面の都合上、詳細には触れないが、橋閒石のような句は江戸期俳諧までにほぼ存在せず、近代以降に初めて出現したタイプの作品だった。

無意味・無関係を装いながら、一望しうるパースペクティヴや「意味」を考えさせることを読者に強いるような事物の提示は、実際は近代日本小説が獲得した「描写」のあり方と通底しており、そのような「描写」は江戸期の読本や小説、俳諧におよそ存在しなかったのである。

加えて、近代俳句における「描写=写生」は、同時代「文学」の潮流と軌を一にしつつ、その作品は似ても似つかぬ「一挙性=歪み」を生成させたものだったのではないか。

その「一挙性=歪み」が鮮烈に現れたのは、たとえば「1%の俳句」でも挙げられた飯田蛇笏や高野素十であり、あるいは中村草田男や山口誓子、また戦後の波多野爽波などが標榜した「写生」句群だったと推定される。

話を戻すと、彌榮氏の「1%の俳句」が示した「一挙性」は、「文学=小説」に決定的な影響を受けた「写生」の本質を図らずも言い当てており、この点、近現代俳句全体を貫く射程を秘めた認識といえよう。

先に、一見当然と感じられる俳句形式について検討を重ねたのは、そのためである。

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このように彌榮氏の評論を検討すると、「では「写生」とは一体何だったのか」という疑問が頭をもたげてくる。

ただ、この巨大な問いを正面から受けとめるのは「1%の俳句」レビューの任ではない。

従って、次回はその一端をまとめつつ、彌榮氏の論における「写生」観がいかなるものかを中心にまとめることにしよう。

なお、今回は主に「一挙性」に着目して紹介したが、それに付随する「歪み」に関してはさして言及しなかった。そのため、次回は彌榮氏の「歪み」がいかなるものかを簡単に整理し、その上で氏の「写生」観を紹介することにしよう。

(この項、つづく)

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