2023-08-27
岩田奎 俳句甲子園で(再現性をもって)勝つ方法
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2017-02-19
名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (28) 今井聖
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (28)
FXポンド林檎が刺さりそう
金谷佑策(2016年・第19回俳句甲子園)
なんだこりゃ。
エフエックスポンドリンゴガササリソウ
去年の俳句甲子園で僕が優秀賞(個人賞)として選んだ一句である。(林檎)という兼題が出ていた。
いやあ、この句を見たときはびっくりしたなあ。
審査員が十三名居たのだが個人賞はダブルことなく皆別の句を挙げた。僕は一読してこの一句に驚いて立ち止まり、そのまま迷うことなくこの句に決めた。
FXポンドとは外国為替証拠金取引こと。英国通貨ポンドを円で安く買い、ポンドが高くなったところで円に両替すれば為替差益が出る。その取引のことを言う。
数千円からこの取引は可能なので、作者はおそらく実践しているのだと思う。
「林檎がささりそう」は英国がEU離脱のときにポンドは大きく揺れ動いた。そのグラフの形が鋭く尖っていることを指している。
審査員が高校生の俳句に求めるものは何だろう。
他の十二名が個人賞に挙げた句を列記してみる。それぞれの句は兼題が出ているのでそれを付記した。
短夜や大陸少しずつ動く (短夜)
町たのし浴衣の子らに道問へば (浴衣)
サーカスの獣はしづか天の川 (天の川)
銀河噴くために蛇口は上を向く (天の川)
一切は足音と風天の川 (天の川)
先生も浴衣になってゐる夜だ (浴衣)
難民のキャンプに轍天の川 (天の川)
カーラジオ消す天の川流れ出す (天の川)
海あたらし勝利のやうにヨットの帆 (利)
藍浴衣ことばは人間を使ふ (浴衣)
天の川現人神の頭蓋骨 (天の川)
鉄棒に腹くいこませ銀河見る (天の川)
そして、最優秀賞は論議の上、
豚が泣く卒業の日の砂利踏めば (利)
に決まった。みな自分の推した句にこだわるといつまでも最優秀作がきまらないので、僕も最終的にはこの句で佳しとしたのである。
これらから高校生の傾向ひいては指導者の指導の傾向がうかがえる。傾向はすなわち大人の選者に向けての「傾向と対策」でもあるから、露呈しているのは選んだ側の内実でもある。
「短夜や」は科学的知識、「藍浴衣」は社会科学と言おうか、それぞれ知識が生かされているが類型無しとしない。
「町たのし」、「豚が鳴く」は、ともに末尾が「ば」の設定で終わる。伝統的叙法がしっかりと生かされているが、内容は守旧的と言おうか。まあ、堅実とも言える。
「サーカス」、「一切は」、はロマン。厳しく言えば近代自由詩的ロマンで決して新しくはない。中原中也的とでも言おうか。新興俳句のモダニズムはずっとこれでやってきた。
「銀河噴く」、「海あたらし」は、青年らしいエネルギー。余りにも「らしい」ので僕は賛成しない。もっと屈折してほしい。
「先生も」、「鉄棒に」、は学園もの。舟木一夫や森田健作の世界とそれほど変化ない。
「難民の」は、難民を出現させている側に対する?が無いのでは。現象だけを追っているというより誰がどう悪いのかの判断をほのめかすことをさける処世があるのではないか。
「現人神の頭蓋骨」は戦後すぐの天皇の「人間宣言」を言っているようで今更の感がある。
悪口ばかり言っているようだが、どの句も「大人の句」の水準をはるかに超えている。仮にこれらの句が「街」の句会に出たらすべて予選には取ります。
FXポンドの句の魅力は、「高校生のあるべき姿」の通念を破っていて、しかも、その破り方が新鮮。
寺山修司の時代では、煙草、情事、競馬、競輪、オート、競艇なんかが、やさぐれでデカダンだった。「砂山の砂を指で掘ってたらジャックナイフが出て来たよ」が「不良の日常」だった。こんなこと今は田舎の不良でも言わない。
今の高校生にFXポンドやってるよと言われて驚かない「大人」が居ようか。
「大人」が考え得る反通念をはるかに超える本物の反通念だ。しかも、この林檎、比喩だから季語じゃないなんてうるさい大人は言いそうで、その分、季語をコケにしてるとも言える。そこも実にいい。
高校俳句部の指導者がこんな俳句を作るように指導しているとしたら、その指導者こそ天才だ。
俳句甲子園の会場を出るとき、僕に駆け寄った佑策さんと固く握手を交わした。佑策さん、どうぞ、このまま、このまま。でも「このまま」は難しいよ。
なんだ、こりゃこそ学びの宝庫。
2016-08-28
利口であること、およびその哀愁についての試論 第19回松山俳句甲子園全国大会の一句
第19回松山俳句甲子園全国大会の一句
利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌 古田聡子
句の作者名や表記等については、大会の公式サイトに掲載されている試合の得点表にもとづく。なお、この句については高校生によるディベートと審査員による選評も生中継されていたはずだが、聴きそびれた。だから、まずは、これからここに展開するのは僕の勝手な読みでしかないということを、はっきりと断っておくことにする(まあ、いつもそうには違いないのだが)。
さて、この一句においては、なによりもまず「桜桃忌」という一語が、太宰治という人間にかかわる全痕跡へと差し向けられた、おそらくは句の書き手自身によっても完全には制御できない無限の参照の光源として書き込まれていることは明らかであり、曲がりなりにもこの句を読むというのであれば、そのことだけは決して見過ごされてはなるまい。だが、それにしても、単に「太宰忌」ないしは「太宰の忌」と書いた場合とはいささか意味合いの異なるこの一語は、太宰にかかわる痕跡のなかでも、まずもって、「桜桃」と題された、その本文に曰く「夫婦喧嘩の小説」に、もっとも強い光を差し向けるものでなければ、いったい何であろうか。
[……]私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善い事であろうか。
つまり、私は、糞真面目で興覚めな、気まずい事に堪え切れないのだ。[……]
(強調は原文では傍点。ルビは省略した。以下同様)
夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混乱の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、
「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留にあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品なお父さんといえども、汗が流れる」
と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。
母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂のすさまじい働きをして、
「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるようね。いつも、せわしくお鼻を拭いていらっしゃる」
父は苦笑して、
「それじゃ、お前はどこだ。内股かね?」
「お上品なお父さんですこと」
「いや、何もお前、医学的な話じゃないか。上品も下品も無い」
「私はね」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」
涙の谷。
父は黙して、食事をつづけた。
私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、またしつこく戦闘開始するのも陰惨だし、それに私には言い争いは殴り合いと同じくらいにいつまでも不快な憎しみとして残るので、怒りにふるえながらも笑い、沈黙し、それから、いろいろさまざま考え、ついヤケ酒という事になるのである。
もちろん、この句を読むうえで、議論なり言い争いなりということが問題になるのは、俳句甲子園という発表の場がもつ文脈によるものではない。言ってみれば、それは補助線にすぎない。句をかたちづくる言葉のうちにも、それははっきりと読み取りうるのである。そもそも、「利口」とは、語源的には、口が利くこと、すなわち、弁舌が巧みであることを意味していた。それは、まさしく弁論にかかわる語であったのだ。また、文脈によっては軽口を叩くことや冗談などを意味する場合もある「利口」は、まさしく太宰的な言葉のありようの一面を指し示してもいる。そうした意味での「利口」が「睾丸」にどう接続するのか理解できないという向きもあるかもしれないが、この「睾丸」を換喩として読めば、奇妙なところはまったくないはずだ。
弁舌が巧みであっても、軽口を言って笑わせてみても、言い争いには勝てなかった太宰。だから、この句にみられる哀愁は、ひとがそう言いたがるような性別の問題じゃないんだよ。言葉がないと生きていけないのに、言葉のせいで生きるのがつらい人間の、あの根底的な哀愁なんだよ。
とはいえ、あえてひとつだけ付け加えておくなら、言葉とともに生きることをめぐるジレンマがもたらすこうした哀愁について書くには、実のところ、「桜桃忌」では収まりがよすぎるくらいであって、僕なんかからすれば、もっと深く深く言い澱んでしまってもよかったのにと思うくらいではある。この一句は、「桜桃忌」という季語によって、鴇田智哉の言葉でいうところの「もの足りる体」のものになってしまっているように思う。おそらく、俳句において、「もの足りる」ことがつねに悪いわけではないだろう。けれど、この句が太宰的な利口さからくるもどかしさや哀愁をより深く抱え込むためには、「もの足りる体」で満たされてはいけなかったのではないか。この句は、本来言いおおせないはずのものについて、どこか言いおおせた風になってしまってはいないか。もっとも、これは好みの問題にすぎないのかもしれないけれども。
ふはは。さあさあ、僕はいつもどおりのヤケ酒といこうじゃないか――
書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。
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2014-09-07
俳句甲子園に期待しない 久留島元
俳句甲子園に期待しない
久留島元
第17回俳句甲子園が無事終了した。
優勝は開成高校(2連覇、8回目の優勝)、準優勝は洛南B。
動画などを確認していないのでわからないけれども、かなりの熱戦であったらしい。
初優勝を目指し修練してきた洛南にとっては悔しい結果になったが、勝負と銘打っている以上勝ち負けがあるわけなので、負けたほうは大いに悔しがればいいと思う。
むろん負けた悔しさは参加校のほとんどが経験することだから悔しがっても無意味だが、考えてみれば、私が俳句を続けることになった動機の半分くらいは「もっと俳句甲子園で活躍したかった」からだった(第4回大会に二年生で出場、翌年は受験のため欠場)。
私の場合は悔しさがそのまま俳句継続につながったが、悔しさのあまり俳句が嫌いになる高校生がいても(残念ながら)仕方ない。勝負に真剣であることは美しいことだと思うし、それだけ打ち込めるのが「青春」なのだろう。
私自身も卒業生として、あるいは若手の俳句関係者として、俳句甲子園を目指す高校生や、それを支え、運営を助ける卒業生や大人たちに接する機会は多い。
実際に高校生たちを見ていると、「俳句甲子園へかける真剣さ」「情熱」は疑うべくべくもなく、キラキラと輝いてまぶしい。
ただ、現実の「俳句甲子園」と「大人の期待」、加えて「俳句界の期待」は、重なりつつも微妙に、しかし決定的にねじれているように見える。
いまさら言うのも恥ずかしいが、俳句甲子園は俳句を使ったゲーム形式のイベントである。ゲーム要素は俳句がもつ重要な性格だが、俳句の全てではない。
従って、これは至極当たり前の話だが、俳句甲子園を通じて俳句甲子園(のゲーム形式)を好きになった人が、すべて「俳句」を好きになるわけではない。
むしろ「俳句甲子園」は好きでも「俳句」は嫌い、嫌いと言わぬまでも卒業して続けるほど好きではない、という高校生の方が、圧倒的に多いはずである。
ゲーム形式の勝ち負けにこだわる参加者に俳句の勉強や作法を強要してもすれ違うばかりだろうし、また逆に、「ゲーム形式」の勝利を教え込んで「俳句」を指導したように誤解する指導者の存在も滑稽である。
重要なのは、俳句甲子園は俳人を生み出すためにあるのではないということ。
折に触れて私は強調してきたのだが、俳句甲子園は別に、「ゼロ年代俳人を生み出す場」であったり「俳句界に若者を供給する場」であったり、するわけではない。
しかし、残念ながらこの誤解はいまだ根強いものがあるらしい。第17回大会で審査員委員長を務めたマブソン青眼氏は、次のように述べている。
俊才が集まる俳句甲子園は、まさにダイヤモンド原石の山のようだ。大会後も、彼らをもっと大事にすべきだ。たとえば、優勝者には総合誌の連載執筆のチャンスを与えたり、NHK全国俳句大会に出演させたり、結社の入会費を無料にしたり。彼らは、日本の俳壇を救ってくれる新鮮な血液のような賜り物だ。
(「朝日俳壇 うたをよむ」『朝日新聞』2014年9月1日)
ここには決定的な誤解がある。
つまり俳句甲子園の優勝者が、その後も俳句を続ける、俳句を好きになってくれる、という楽観的な誤解である。
くり返し言えば、俳句甲子園を好きな高校生の多くは、仲間と一緒に戦うゲーム形式が好きなのであり、そのツールとして俳句に親しんでいるのである。
季語の愛着や先行俳人へのリスペクトから俳句に親しんでいるのではないから、甲子園が終わったあと、ひとりで「俳句」を続けるほどの情熱は持てない。
「俳句」そのものを好きでない高校生に対して過剰な期待をすることは、おそらく俳句界にとっても高校生にとっても後味の悪い結果しか残らないであろう。
(もちろん参加する高校生のなかには俳句そのものが好きでたまらない、という者もいる。それは歓迎すべきことであり、俳句界は俳句を好きな高校生を見いだす努力をこそすべきなのだが、俳句を好きだから試合で勝てるわけではないのが事実である)
俳句甲子園を卒業したあとで、参加者が「俳句」を好きになってくれるかどうか。
それは高校生たちの問題ではなく、より魅力的な作品を見せつけることができるか、より魅力的な俳句の場を提供できるどうかという、俳句界側の問題である、といえる。
それでは「俳句甲子園とは何のためにあるのか」と見当外れの疑問を抱く「俳人」の方がいらっしゃるかも知れない。
お答えしよう。俳句甲子園とは教育制度の一つである。
そのことは「第17回大会開催要綱 開催趣旨」において、次のように明記されている。
各地から俳句に親しむ高校生が一堂に参集し、俳句を楽しみ、交流することは、本来「座」に集う人々の共同の文芸であった俳句に相応しく、そこから生まれる人間的な交流は、高校生にとって国語教育の一環としてのみならず、新鮮で貴重な社会的経験となり、豊かな人間性を育むであろうと考えます。…(中略)…以上のように<俳句甲子園>は俳句を通じ地域間・世代間の交流と若者の文化活動の活性化に必ず寄与するものと考えます。 (1997 年当時作成)
http://www.haikukoushien.com/list/wp-content/uploads/2014/07/2014kaisai_ver5.pdf
俳句甲子園という場は「国語教育の一環」としての意義を持ち、文部科学省を筆頭として愛媛県、松山市などの行政団体から後援されているイベントである。
つまり俳句甲子園において教育的な言説が聞かれるのは当然なのだが、そのことが参加者を縛り、優等生的な、まとまった「俳句」しか評価されないのだとすれば残念だ。
俳句甲子園は高校生のためにある大会であり、俳句エリート養成道場ではなく、また結社の青田刈り場でもない。関係各位はそのことを常に留意すべきである。
ところで、しばしば言われる言説だが、俳句甲子園で評価される句が、俳句界として評価される句とは限らない。
しかしゲームである以上、審査員の評価は絶対である。その評価基準の是非をただすならば、そもそも俳句甲子園というゲーム自体が成り立たなくなってしまう。
たとえば第15回大会の最優秀句「未来もう来ているのかも蝸牛 菅千華子」について「今が約束された輝かしい未来であるという実感を持てないでいる高校生の、切実なつぶやき」(高柳克弘氏)と評するか、「若いくせに、嘆かわしい!」(八木忠栄氏)と評するか。
結局のところ一句の審査においては、「教育的」であるかどうかよりも審査員それぞれの見識、選句眼が問われている。
従って勝負の審査については甘んじて受け、個々の「高校生らしさ」が云々、「定型」が云々、といったたぐいの評価については、個別の鑑賞と割り切って聞くのがベターである。作品は読者のものであるが、同時に、評価は決して絶対ではないのだから。
では、高校生たちは俳句甲子園の場で何を学ぶのか。
歴代審査委員長の顔ぶれを見れば、それが画一的な俳句観の押しつけや、季語や雅語を通じた美しい伝統文化の継承・・・・・・などを志向するものでないことは察せられる。
むしろそれは、俳句というジャンルも超え、詩歌文芸に通底する「ことば」への関心を高めることであり、学校教育における国語力に資する能力、と把握される。
私を含めた多くの卒業生たちが指摘しつづけていることだが、俳句甲子園が生み出したものは、神野紗希や佐藤文香、山口優夢のような少数の俳句作家ではない。
ボランティアスタッフとして運営を助ける卒業生たち、地方大会や松山大街道や自宅のテレビ前で試合を応援してくれる友人知人、保護者、地元の人たち。
結社に入っているわけでもなく、作家として活動するわけでもない人たちが、俳句甲子園を通じて「俳句」に関心を持ち、応援してくれる。そうした土壌を作ったことこそが、俳句甲子園の手柄なのであり、その土壌は必ず将来、俳句界によい影響を及ぼすだろう。
ところが、今の俳句界はストイックに「作家」だけを求めすぎている。作家として上達を目指すことだけが「俳句」との関わりではないはずだ。
今の俳句界における理想的な「若手」像、たとえば結社に入り、句会で研鑽し、俳句史を学び、酒席で俳句論を戦わせ、賞を狙って吟行に励む。そんな若者は、いつの時代だってごく少数である(俳句界は、優勝者ではなく本気の若者をこそ大事にしてほしい)。
「俳句」に関わって、しかし「俳句」から離れていく若者たちは、むしろこれから自分たち自身の新しいスタイルを確立していく必要がある。
ひとつのモデルたりうるのは、かつての新聞の詩歌文芸投稿欄である。
詩人、歌人、俳人として活躍する高橋睦郎氏は、自身の原点を「投稿少年」時代に求め、俳句短歌作文漫画、あらゆるジャンルに投稿した経験を語っている。
かつての「投稿少年」の多くは、詩歌を生業とすることなく、しかし現在でもジャンルを超えて活躍し、交流しあう人たちもいるようだ。
参考エッセイ「植田実のエッセイ本との関係3 高橋睦郎の「友達」」(http://www.tokinowasuremono.com/nv05-essay/essay_ueda/ueda007.html)
そろそろこの駄文をまとめよう。
俳句甲子園は17年というキャリアを積み重ねてきた。愛媛県内の大会に始まり、現在まで地道な活動を継続されてきた、夏井いつき氏や松山青年会議所、実行委員会諸氏の努力に心より敬意を表する。
俳句甲子園というイベントを入り口に入ってきた若者たちを、異分子として排除するのではなく、スターのように熱狂するのでもなく。ただ「俳句」という広い沃野へ足を踏み入れた仲間として扱うこと。
そして、「作家」としてだけでなく、多種多様な俳句との関わり方を模索し、それを認めていくこと。(ありのままに・・・・・・?/失礼)
俳句甲子園に過剰な期待をしない。
俳句甲子園の現在を受け止めて、正当に評価する。
俳句甲子園は、すでにそれだけの安定感を備えた大会となりつつあると思う。
【参考】
「主体は変容するのか 橋本直」
http://hw02.blogspot.jp/2010/08/12.html
http://hw02.blogspot.jp/2010/08/22.html
「俳句甲子園を安全に語る方法 西原天気」
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html
「【対談】堀下×池原「最優秀句を読む」」
http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/489272
「第16回俳句甲子園公式作品集 小池正博」
http://daenizumi.blogspot.jp/2013/11/16.html
「【俳句時評】たまたま俳句を与えられた 堀下翔」
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/jijyo1.html
「「いい俳句」という言葉の個人的な用途と、それとは別に、「いい句」について 福田若之」
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/ku1.html
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2013-11-10
第16回俳句甲子園公式作品集 発売のお知らせ
NPO俳句甲子園実行委員会より
第16回俳句甲子園公式作品集 発売のお知らせ

第16回俳句甲子園公式作品集が、11/6(金)に発売されました!
大会に提出された全作品はもちろん、OBOGによる全試合の観戦記も掲載されています。
高校生も大会の感想を書いてくれたり、OBOG主催の句会が紹介されていたりと豊富な内容です!
定価840円
俳句甲子園を知っている人はもちろん、知らない人も俳句を楽しむ1つの手段としてぜひご購入くださいませ。
購入ご希望の方は、俳句甲子園実行委員会事務局あてに、郵送またはFAXでお申し込み下さい(下記リンク先pdfにくわしく記載されています)
http://www.haikukoushien.com/16th/pdf/16thsakuhinshu.pdf
書肆アルスのオンラインショップからもご購入いただけます!
http://shoshi-ars.shop-pro.jp/?pid=65818851
(書店販売はありません)
皆さま、ぜひよろしくお願いいたします!!
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2013-09-15
愛と幻の俳句甲子園(2) その他のインタビューから 青木亮人
愛と幻の俳句甲子園(2)
その他のインタビューから
青木亮人
■今回は、第一回目「俳句と青春」(「愛媛新聞」9/3掲載記事に加筆・修正したもの→http://bit.ly/15IiUBG)で言及しえなかった出場者へのインタビューから、2チーム分をまとめたものである。
1 情感豊かに
■ある高校のチームがまず手に取るのは電子辞書と歳時記である。季語を知るため、そして例句を通じて季語の傾向を学ぶためだ。
例句等はネットで検索することもあり、顧問の先生が教えてくれることも多い。彼らはそのようにして「季語の基本」をチェックし、また句をどの方向に練り上げるかを思案する際に再び歳時記等を確認する。主に歳時記を土台にしつつ「傾向と対策」を練るのが句作の第一歩、という感じだろうか。
その上で彼らが目指したのは、「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」という句作だった。大会での作品を見てみよう。
夏 の 海 泣 け ば 蒸 発 で き る の に
憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し
一 斉 に 蓮 闇 を 吐 く 真 昼 中
確かにこれらは「情感」を軸とした作品といえるかもしれない。
ところで、上記作品を読んだ時に興味深く感じたのは、彼らの中で「歳時記を基本とする季語の世界観」と「情感を豊かに押しだす句作のあり方」は矛盾しないらしい、ということだった。
彼らが親しんだ歳時記の中身も気になるが、むしろ個人的に興味を感じるのは、上記作品は結果として季語以上に「情感=私」が強く押し出されており、トーナメント上位まで勝ち進むチームの句作傾向と異なる作品に仕上がっている、という点である。
一般的に、常勝チームは題として出された季語を作品のクライマックスに据えるとともに、「季語の世界観」を乱さないように一幅の情景を描く、つまり「作者・読者がともに瞬時に共有できる安定した季語観」を増幅させる「風景」を造ることで、「題として出された季語をいかにうまく消化したか」という技術の冴えを前面に押し出す傾向があるのに対し、先ほどの句群は結果的に題として出された季語よりも「情感」が強調されている。
ここで言いたいのは作品としての価値云々でなく、句を練り上げる方向性の軸が常勝チーム系と異なるということ、その違いに関心があるのだ。
よりいえば、上記句のチームはなぜこれらの句を「俳句甲子園としての作品」と見なしたのか、そもそもなぜ「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」ことを句作の中心としたのか、来年以降もその方向性で俳句甲子園出場を目指すのだろうか? それらの点を興味深く感じたのだ。
インタビューの際、「好きな俳人は?」と聞くと困惑の表情を浮かべたが、「好きな俳句は?」と質問を変えてみると、次の句を挙げてくれた。
カ ン バ ス の 余 白 八 月 十 五 日 神野紗希
を り と り て は ら り と お も き す す き かな 飯田蛇笏
メンバーの一人は、過去の最優秀句の中でも特に好きな作品として「カンバス」句を挙げた。「をりとりて」句を挙げたメンバーは、授業で習った際に強い印象を受けたという。
ただ、俳句関連よりも彼らが目を輝かせたのは、「好きな小説家や音楽は?」という質問だった。有川浩や三浦しをん、K-POP、東方神起……時間が許せば、彼らは多くの小説家やミュージシャンを挙げただろう。
彼らは勝ち進むことはできなかったが、「俳句甲子園は楽しかったし、勉強にもなった」という。俳句という「文学」を点数でジャッジすることや、勝敗の結果に疑問を感じることもあったが、試合中のディベートや審査員の講評を通じて気付かされることも多く、何より松山に先生や仲間たちとともに訪れ、俳句甲子園に参加したのが楽しかったという。
インタビューに応じる彼らの表情には、負けたことの悔しさよりも参加できた楽しさが感じられた。勝敗は勝敗、それと楽しむことは別、というサバサバしたチームの雰囲気もあり、むしろそれゆえに彼らが明るく感じられたのかもしれない。
2 景をはっきりと
■ある高校のチームは「文芸道場」なる大会に出場した経験がある。県下の高校で文芸全般に関心を抱く生徒が集い、競い合うとともに交流しあう大会だ。もちろん俳句部門もある。彼らはそこで「文学」や「俳句」を学び、その上で俳句甲子園に臨んだという経緯を持つ。
文芸道場出場の他に、彼らは俳句甲子園の過去優秀作や先輩たちの句群、また『17音の青春』(神奈川大学)等を通じて「俳句」らしさを学んだという。インターネットや俳句史における著名句等は特に気にかけなかった。
ただ、彼らはもともと俳句が好きというわけでなく、むしろ他ジャンルの文学に惹かれる方だ。たとえば歌人の俵万智や加藤千恵、小説家の桜庭一樹。『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』(桜庭一樹)を読んだ時にはあまりの凄さにため息が出たものだ。
そんな彼らが句作の際に心がけたのは「はっきりと分かりやすく、景が一瞬で思い浮かぶような作品」。誰もが理解し、共感できるもの、それが「俳句」であり、俳句甲子園での作品というわけだ。
顧問の先生は俳句指導等を細かくすることはせず、メンバーそれぞれの個性を尊重してくれる。だからチームメンバーはのびのびと俳句を作り、景がぱっと思い浮かぶ作品を詠もうとした。そして全国大会への切符を手に入れ、八月の松山へ旅立ったのだ。
大会当日、彼らが出したのは次のような句だった。
嘘 を つ く 透 き 通 っ た ま ま の ゼリ ー
嘘を付いたことのやましさが、心にかげりを帯びて引っかかっている。その「私」の屈託を見透かすようにゼリーは一点の曇りもなく、ただ「透き通ったまま」眼前にたたずむ。
無論、ゼリーは「私」の心の翳を知るよしもない。しかし、それゆえに「私」はゼリーがいつもより「透き通ったまま」に感じられるのだ。
または、「透き通ったまま」のゼリーは、嘘をついた「私」を突き放すことで許しを与え、慰める存在として目の前にたたずんでいるのかもしれない。
あるいは、ゼリーは「嘘を付いたとか、そんなことはどうでもいいよ」というように「私」の前で「透き通ったまま」現出している、そういう存在なのだろうか。
上記句について「透き通ったままのゼリー」のありようをあれこれ想像したのは、次の歌が思い出されたためである。
今 日 ま で に 私 が つ い た 嘘 な ん て
ど う で も い い よ と い う よ う な 海 俵万智
(『サラダ記念日』)
先ほどの「ゼリー」句からこの短歌を想起したのは、彼らに好きな文学者を聞いた際に「俵万智」という返答があったためだが、同時に次の句と比較した時、「短歌的なもの」を感じた点も大きい。
憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し
本記事で最初に紹介した高校の句だが、句の内容や「ゼリー」の把握は「嘘をつく」句と近似しつつも、「憤る」句には短歌の雰囲気が感じられず、かたや「嘘をつく」句の表現には「短歌的なもの」が感じられたためだ。
「嘘をつく」句が大会で勝利を収めたかどうかは知らないが(試合を観ていないため)、個人的には「嘘をつく」句の作者がこれまでどのような作品に触れ、どの作品に感動し、何をもって「文学」と感じてきたのか、その点をより知りたいと感じた。
「嘘をつく」句は、今回の大会でさして問題にならなかった作品だ。優秀句や入選句に選ばれたわけでなく、準決勝以上の試合で出された句でもない。予選リーグのある会場で出された後はひっそりと忘却の闇の中へ滑り落ちた一句であり、今後思い出す人は少ないだろう。
しかし、「嘘をつく」句は、大会での勝敗よりも「なぜその句が「俳句」として詠まれたのか」と思いを馳せたくなる作品だ。この作者は他句が優秀句に選ばれたが、それよりも「嘘をつく」句の方に魅力的な謎が感じられる。少なくとも研究者の私にはそう感じられた作品だった。
彼らにインタビューを申し込んだ時、試合直後だったのか、やや上気した面持ちで応じてくれた。試合後の冷めやらぬ熱気と八月の暑さで額に汗がにじみ出ているにも関わらず、「好きな文学者は?」と聞くと「加藤千恵!」「桜庭一樹!」と答える表情が明るく、快活で、その姿がとても印象的だった。
(第2回・終)
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2013-09-08
10句作品 内田遼乃 前髪ぱっつん症候群(シンドローム)
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10句作品テキスト 前髪ぱっつん症候群(シンドローム) 内田遼乃
前髪ぱっつん症候群(シンドローム) 内田遼乃
きみのわんこちゃんになりたいよわんわんとめだかがいったの
めだかああママなんて言う人はきらいです
ピーチ姫を助けに行くわたしは実はあみどだった
めだか私の愛は電話帳より重たいの
洗眼薬の海におぼれ視界ぴんくなめだかさん
はつなつの夜ケチャップに染まった君が美しくて僕はもどしてしまったの
ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう
陸でしか生きられない人間って悲しいってめだかが言ったの
世の中の関節外れてしまったというか折れたんでしょめだかさん
私を月につれてってなんてはつなつのぬるい海で我慢してね
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【特集・俳句甲子園】 よくやりますよ、ほんと。 阪西敦子
【特集・俳句甲子園】
よくやりますよ、ほんと。
阪西敦子
松山から戻って間もなく二週間。まだ、何かがもとに戻っていない。
オール漕ぐ風の湿りや大夕焼 新谷里菜(金沢泉丘高校)
最初から好きで、やっぱり好きだった句。オールで自ら漕いで進むときに受ける風にある湿り。そこに大夕焼。繊細に拾われ、丁寧に描かれた一瞬が、暗さとも明るさともつかない光や、暑さとも涼しさともつかない空気や、風とも自分ともつかない湿りや、夕焼のあれこれを描きだす。読む人それぞれでありながら、それぞれには曖昧にならない大夕焼。
郷愁はきゃりーぱみゅぱみゅの団栗 藤江優(金沢泉丘高校)
印象に残った句と言われれば、すごく印象に残った句。実際に句に含まれる言葉よりも、作者の伝えたい情緒において饒舌な作り句の方が多い中で、これだけ情緒のつかみにくい句も珍しい。きゃりーぱみゅぱみゅの団栗。句の迫力とその発音のややこしさで、ディベートの場を掻き回した。そこが魅力であるのだけれど、最後のところで伝わるか不安になってしまったのだろうか、「郷愁は」と言って、急に方向を定めようとしてしまったところが、もったいない。次はどんな句が彼女に見えるのだろうか。
夕凪や手紙を丘に破きたり 山谷奈未(立能代高校)
手紙を屋外に破るというのは、なかなか相当な出来事であって、それが丘で、夕凪であった場合、それはどういう感慨を伝えるのか。破く前は捨て鉢でもあり、破いた後ではわりと心地よいのか、夕凪か。これといって確たる感慨もなくて、ただただ、読む人の経験と知覚へ訴えるところが楽しい。
鍵盤に指触れファソラ秋深し 榎園聡美(厚木東高校)
ファソラはどんな音だったけなと考える。そうだ、あの音。これがほかの音であれば、例えばドレミであればどうにも安易で、ミファソであればどうにも嘘くさい。ファソラだ。ソラが入っているなんて言ってはいけない。そうか、ファソラは秋深むなんだ。すっごいな、それが聴こえるんだな。
大きさの合わぬ指切り春の暮 浜崎伶奈(浦添高校)
原稿が白紙でみんみんが近い 河田将英(開成高校)
そもそも印象が強かった句、決勝の句となった。
日数の定めのある原稿かもしれないし、時間に定めのあるものかもしれない。全く進んでいない原稿の前にいながら、みんみん蟬の声を耳にしている。「で」としながら関わり薄い二つを、一挙にとらえるアンテナの強さが魅力。強いアンテナは原稿が「進まない」ことや、みんみんの「声」ではなく、「白紙」で「近い」ことを拾う。同作者の〈ポケットのどんぐり傷をつけ合へり〉も印象深い。気に入ってふと拾い集めた団栗を取り出すと、互いにぶつかり合って傷がついている。それだけを知らせる句であるけれど、読むこちらもその傷が気になってくる。「つけ合へり」が擬人として甘いとする意見もあるかもしれないが、能動的にではないにせよ、実際に傷をつけ合っているわけであって、たとえば団栗が黙っている、風を聴いている、団栗に見つめられるなどのこととは度合いが違って、たとえば自分で転がっているわけではないけれど「転がり出す」程度のこと。作者が捉えたままの魅力ある把握と思う。
よくやりますよ、ほんと。なかなかちゃんとなんて言えない。高校生じゃああるまいし。
≫ 第16回俳句甲子園結果
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【特集・俳句甲子園】 若さ・未熟さを以てしてでないと 村越 敦
【特集・俳句甲子園】
若さ・未熟さを以てしてでないと
村越 敦
今年の俳句甲子園に出された句から、じぇじぇ、と思った句を抜いた。
夕焼や地下道に日の匂ひして 岡村優子(宇和島東)
ともすれば取り立てて言うほどの句ではないということで読み飛ばしてしまいそうになるが、描かれている景を丁寧に再現してみるとちょっとした驚きがある。
たとえば夏の平日の夕方、新宿、山手線の大ガード。地下道の入り口付近を淡く照らす夕焼けを視覚的に捉え、続いてそれを匂いとして追認している。匂ってきたのはもしかしたら夕焼そのものではなく、昼間の強い陽射しの熱をじゅうぶんに溜め込んだアスファルトかもしれない。雑踏から立ち込めてくる匂い、と広く捉えてもよいだろう。
いずれにせよ、地下道に差し込む夕日という素材を発見したことに満足せず、先行者が少ないその発見をどのように描いたら良さが伝わるかという気遣いが構造的な側面にまで行き届いており、完成度が高い。
郷愁はきゃりーぱみゅぱみゅの団栗 藤江優(金沢泉丘)
きゃりーぱみゅぱみゅ(きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ、本名竹村桐子)は1993年生まれ、独特の色彩的な世界観は勿論、「赤巻紙青巻紙黄巻紙」「生麦生米生卵」と並ぶ早口言葉御三家の一翼を担う存在として日本のみならず世界中にその名を轟かせている。
(という明らかに不要な前置きはさておき)この句を鑑賞するためには作者が我々に提示する謎を読み解かなくてはならない。まず郷愁は、ときているのできゃりーはもしかするととんでもなく田舎の出身なのかもしれないぞという推論が立つ。なるほどそれならば苦労して地方から出てきていまや世界的なアーティストとなったきゃりーの内に秘めたるふるさとへの思いを読み込んだ句として解釈できるかもしれない…と思ったが、調べてみると彼女の出身地は、「東京都」。あえなく撃沈。
そもそもこの句は形がヘンだ。郷愁=きゃりーぱみゅぱみゅの団栗という構図なわけだが、郷愁ってだれの郷愁だ。作者か。きゃりーか。きゃりーがGMT(地元)へ思いを馳せているという読みが否定された今(奥多摩出身の可能性はあるにせよ)、郷愁を覚えている主体は作者、もしくは総称人称としての「誰か」ということになろう。としても今度は「きゃりーの団栗」とはなにか、という疑問が首をもたげる。きゃりーにそんな曲あったかなぁ。ひょっとすると何かのメタファーかもしれない。云々。
…と、謎を追いかけるのはこのくらいにするとして、いずれにせよ"郷愁"(概念を表す名詞)-"きゃりー"(固有名詞)-"団栗"(季語)という言葉の繋がりは、既存の"取り合わせ"の枠を超えた何かを提示しうるのではないか、という予感がしている。
親指を血はよく流れ天の川 吉井一希(灘)
この句の手柄は他ならぬ、「よく」にある。さりげないながらしかし絶妙に配された「よく」。この「よく」をよくぞ、引っ張ってきたものだと思う。親指の内を血液が滔々と流れるという身体的な事象に天の川というスケールの大きい天文の季語をつけるのはやや常套ではあるが、「よく」の力によって手練さを感じさせない青春性へと昇華されている。
夏雲の数をかぞえて指をおる 金城涼太(浦添)
忘れもしない、この句は準決勝(洛南Bvs浦添)の5句目、この1句の勝敗で両校の運命が決するというタイミングで登場した。会場は特にどよめかなかったが、私は一人勝手に興奮していた。
なぜなら、普通勝敗の鍵となる大将戦には大味な、厚みのある句を持ってくることが俳句甲子園的にはセオリーとされているからである。この句は率直に言って、只事俳句もいいところである。事実、13名の俳人審査員のうち中原道夫・仁平勝は準決勝戦という大舞台にも拘らず5点という実質的な最低評価をこの作品に下している。
他方で審査員の中には9点(岸本尚毅)、8点(高柳克弘)という高得点をつけた人たちもいた。そして私はこの句に関してはこの岸本・高柳ラインに加担したい。というのも、おそらく、この句には屈折した何かがある。まず根底に横たわるのは夏雲の数を数えることに意味はあるかという問題だ。さらに「かぞえて」という表現から実質的に「指をおる」行為は自然と想起されうるのにも拘らず、敢えて「指をおる」という無意味とも思える表現を重ねている。(意図したものかどうかは定かではないが。)
祈りか、孤独か、この句で描かれている意味を断定することはできないが、むしろその屈折を楽しむ余裕を作者は読者と共有しようとしているようにすら読める。
結局この句は敗れ、浦添高校は準決勝で涙を吞むことになったわけだが、俳人が何を是とするかということを奇しくも明らかにしてしまったこの俳句は、俳句の出来自身は勿論、それとはまた別の俳句甲子園史的な文脈からも評価されねばなるまい。
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かつて自分も俳句甲子園に出場していたことがあった。
当時何を考え、何を目指して俳句を書いていたかということは率直なところあまり覚えていないのだが、審査員の俳人先生達からの「高校生らしさ」を書きなさい、というアドバイス(今大会も勿論この種の発言は見受けられた)に少なからず辟易していたのは確かだ。
なぜなら、まずもって「高校生らしさ」とひとくくりにするのは「老人らしさ」とか「東京らしさ」とかと同じようにあまりにも多くの意味を含んでしまう。さらにはそもそも高校生の時分から多かれ少なかれ夏休みを犠牲にしてわざわざ俳句を嗜むような俺らは「一般的な高校生像」がもしあるとするならば既にその範疇から外れているわけで、だから「高校生らしさ」を俳句甲子園に出場する高校生に見出すというのは既に矛盾を孕んでるじゃないか。当時はこう考えたのである。
しかしそれから数年が経ち、きわめて個人的に、俳句と現実世界のリンケージに大きな意味を見出す立場に与するようになった今日この頃、この大会に対しては数年前の自分と違う感慨を抱いている。
あまり長くなるとあれなので別の機会に譲るが(飲みながら話しましょう)、高校生の両眼というフィルターを通してでないと投影されない時代精神ってたぶんあるのだろうと思う。
素材が新しいとかそういう話とはまた別に、似たような事象を似たような技法・文脈・ツール(季語?)の中で描くにしても、それでも高校生の若さ・未熟さを以てしてでないと表出できない部分がきっとあるのだと思う。
このことを、今回取り上げた俳句群を通してあらためて強く感じた。
≫ 第16回俳句甲子園結果
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【特集・俳句甲子園】 愛と幻の俳句甲子園(1) 青木亮人
【特集・俳句甲子園】
愛と幻の俳句甲子園(1)
青木亮人
下記拙文は、「愛媛新聞」9月3日文化欄の掲載記事に加筆・修正を加え、転載したものである(原文は「愛媛新聞ONLINE」で公開→http://bit.ly/1a56lyD)。
大会当日は数多くの出場者にインタビューを行い、またOB・OGや関係者からも話を聞かせてもらう機会を得た結果、記事としてまとめることができた。しかし、紙幅の都合もあり、全てに言及できなかったのは心残りである。
そのため、今後も出場者へのインタビュー内容等を「週刊俳句」で断章風に報告予定であり、今回はいわば第1回目に当たるものとして拙文をお読みいただければ嬉しい。
なお、俳句甲子園に関する拙文やツイッターでの呟き等に目を留めて下さり、声をかけて下さった「週刊俳句」編集者に感謝申し上げます。
1 俳句と青春
■これから記すことは今年の俳句甲子園に審査員として参加し、また多くの出場チームや関係者にインタビューした内容の一部とその感想である。
かつて建築家ミース・ファン・デル・ローエが述べた言葉、「神は細部に宿る」を信じつつ、いくつかの断片を紹介することで俳句甲子園の「何か」を感じてもらえればと願う。
ある高校の図書館には句集その他の蔵書がほとんどない。出場チームは文芸部メンバー(好きな小説家は有川浩や西尾維新、神永学など)で組み、
等の句で勝負したが、惜しくも敗退した。選句の際にどの句で勝負するか話しあい、俳句甲子園としての作品を選んだが、勝利に結びつかなかったのだ。
一方、ある学校の図書館には個人作家の全句集やアンソロジーがあり、文芸部俳句部門の生徒たちは自由に手に取ることができる。歳時記は先生がプレゼントしてくれた。
部員は何より歳時記を読みこみ、季語の特徴や例句等を学びながら句作に励むことが多い。顧問の先生も熱心に応援してくれる。
大会前は週に2、3回の句会をこなし、吟行にも出かける。ただ、部員が多くないためディベート練習は不足がちだ。多ければ2チームに分かれ、ディベートの訓練もできるのだが、そこまでには至らない。
同じように、あるチームも俳句甲子園に勝つため日々句作とディベートの練習を重ね、顧問の先生も熱心で指導に余念がない。
部員と顧問の問題意識は一致している。「俳句甲子園で優勝するには何をすればよいか?」。それが全てであり、この目標以外はさしあたり「俳句」ではない。だからこそ少々厳しい練習にも耐えることができる。彼らは「優勝したい」と真剣に願っているのだ。
かたやある学校は、勝敗もさることながら「面白いかどうか」で選句を決めることが多く、他校と感覚の違う作品で勝負に出ることもある。
これは他チームならまず出さない句だ。「私たちは運動部と違う、面白いかどうかを優先したいし、その方が楽しい」「先輩たちには『句が面白ければ勝てる』という雰囲気があった。だから私たちもそう感じるようになった」。そう言って屈託なく笑う姿が印象的だった。
出場者の多くは過去の先輩の句や大会の最優秀作などを読み、また歳時記を参考に「俳句らしさ」を学んでいく。その中でディベートしやすい作品を詠むように心がける生徒もいれば、自分なりにベストを尽くした句で勝負することに意義を感じる出場者もいる。
今回、その彼らと話して興味深かったのは、「好きな俳人は?」と聞かれて即答した人がほぼいなかったのに対し、「好きな小説や漫画家、ミュージシャンは?」という質問には目を輝かせて答える出場者が多かったことだ。
彼らは桜庭一樹や小川洋子、伊坂幸太郎などを愛読し、マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』を読みふけったりする。俵万智が好きという生徒、また佐野元春のファンもいれば、K―POPに夢中の生徒もいた。
出場者の大部分は高浜虚子や中村草田男、高柳重信や阿部完市などの近現代俳句史をほぼ知らない。句会以外に勉強会を設け、昔の俳人を研究するチームもまれにあるが、歳時記の例句を難しいと感じる出場者もいる。
彼らの多くが感動するのは〈夕立の一粒源氏物語〉〈小鳥来る三億年の地層かな〉など過去大会の最優秀作であり、〈つまみたる夏蝶トランプの厚さ〉などの審査員の句である。それで十分なのだ。
これらに対し、「俳句甲子園は狭い世界に過ぎず、それ以外の俳句観もあることを知らない」「勝敗を決めることに問題がある」「作品のレベルが低い」等の批判もある。
しかし、考えてみてほしい。彼らは「普通」の高校生であり、俳句に人生を賭けた俳人ではない。
たまたま学校が俳句甲子園に縁があったため参加したとか、人数が足りないので友人に誘われた出場者もいる。いつもは運動部に所属し、ライトノベルを読んだりJ―POPを聴くような普通の高校生が、出場すると決まったために自分なりに良い句を詠もうと一生懸命になった結果が多くの作品なのだ。
その彼らが大会に出場し、勝利するとガッツポーズを決め、敗北すれば泣き崩れる。当たり前の話だ。出場する以上は大会ルールが何であれ、「勝ちたい」と願うのは出場者として自然の心情であろう。
その彼らに対し、批判する論者は何を求めているのだろうか。
トーナメントがいけないというのであれば、140試合のリーグ制(できれば2リーグ)で優勝校を決めるべきというのだろうか。
作品のレベルが低いのであれば、「廃工場のギリシャ風柱頭まひるの藤 竹中宏」といったアートな俳句を求めているのであろうか?
そもそも勝敗で分けることがいけないという場合、たとえば松山の大街道商店街に出場者一同が集い、全員が俳句を披露しあった後に肩を組んで「みんな違つて、みんないい」と朗読するような「癒し系俳句大会」が良い、となるのだろうか。
繰り返すと出場者の多くは「普通」の高校生なのだ。スポーツならまだしも、平成期の日本で俳句にこれだけ一喜一憂する高校生の大会があることがどれほど凄いことか、簡単に批判する論者はその意義を実感できないのではないか。
加えて、「勝敗を決めるのはよくない」というのであれば、新聞俳句欄や結社主宰の選に一喜一憂することもダメなのだろうか。各出版社や地域が定めた賞はどうなるのだろう? といったことも関係してくるだろう(※)。
※俳句甲子園での「勝敗」の是非と、俳句(と短歌)特有の「自選ではなく、主宰等の『他選』が重んじられる」世界観は重なる点もあり、これについて個人的に感じることはあるが、今回は省略する。
ところで、これは(たぶん)誰も指摘していないが、大会出場者は多様な感性を秘めており、たまたま勝利に結びつかないか、本人が気付いていないだけで、実は豊かな可能性を秘めた場合が多い。
それは決勝まで進む学校の句や優秀句等のみ眺めるのでなく、負けた句や大会で披露しなかった作品(全チームは勝ち進む場合を想定し、決勝までの句を用意している)も併せて鑑賞すると、さまざまな感性が渦巻いていることに気付かされる。
ある初戦敗退チームが出した句を見てみよう。
この句はかの高浜虚子率いる昭和期「ホトトギス」を彷彿とさせる作風で、具体的には藤後左右(とうごさゆう)の「写生」句に近い。たとえば、「ホトトギス」昭和5年11月号雑詠欄に入選した左右の作品を見てみよう(この号で、彼は最大の栄誉とされる巻頭の次に相当する第二席に入選した)。
噴 火 口 近 く て 霧 が 霧 雨 が
う た ひ ゐ る 声 の 二 重 や あ ぶ ら 蝉
曼 珠 沙 華 ど こ そ こ に 咲 き 畦 に 咲 き
先の「蓮の花」句の「写生」とユーモアは、高浜虚子が高く評価した上記作品に通じるセンスが感じられる。
惜しくも勝利には結びつかなかったが、「蓮の花」句と「夕焼や千年後には鳥の国」(今年の最優秀句)とをフラットに並べて鑑賞する時、俳句甲子園の今一つの可能性が見えてこないだろうか。
ただ、これは研究者の視点なのかもしれない。一般的に「蓮の花」句は佳作と見なされないだろう。
そもそも、出場者に大切なのは俳句甲子園という「場」であり、そこで勝負し、多くの人と語りあったという記憶である。
彼らの中には高校卒業後も俳句に打ちこみ、俳人を目指す人がいるかもしれないが、多くは俳句甲子園が懐かしい思い出となり、平凡な日常を暮らす社会人になるはずだ。
ある出場者(3年生)は大会後にツイッターでこう呟いた。
「私がこれから俳句に触れるのは俳句甲子園のOB・OG会くらいしかないと思うの。俳句が好きというより俳句甲子園が好きなんだと思う」。
高校生のある時期にさまざまなきっかけで句作に熱中し、四国の松山で笑い、泣き、喜びと悔しさとともに仲間と出会い、俳句について語り明かしたということ。
大会が終われば俳句とともに過ごした日々はほぼ戻ることなく、それゆえ大切な思い出となる。俳句甲子園はその意味でまさに「青春」なのだ。これ以上、何を望むことがあろう。
決勝戦で開成高校が7度目の優勝を果たした翌日の夕方、高柳克弘氏(審査員)と神野紗希氏(松山東OG)、また甲子園OB・OGの皆さんと句会を行った。いずれも2日間に渡る俳句甲子園に関わったメンバーで、大会の余韻を漂わせての集いである。
道後温泉駅近くのカフェで各自3句提出し、全員の句から5句選ぶ。一人ずつ自己紹介しながら選句を読み上げる際、沖縄の高校OBの一人が「憧れの俳人は高柳・神野両氏です」と言った。
正面からの告白に高柳氏は微妙な表情を浮かべ、神野氏は照れている。私が「どう好きなんですか」とツッコミを入れると、OBは「それは言えません」と赤面した。一同、笑いに包まれた。
今年の大会出場者もそうだったが、彼らの中で神野氏は憧れの存在であり、特に「カンバスの余白八月十五日」(2001年の最優秀作)は大会史上の傑作として今も多くの関係者が諳んじている。沖縄のOBの方もその句のファンということだった。
大きな窓から夕日がさしこむ部屋で、元出場者たちは高柳・神野両氏と句会をする幸せとともに、それぞれの俳句甲子園の名残を慈しみ、悼みつつ懐かしんでいるようだった。
(第1回・終)
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【特集・俳句甲子園】 俳句甲子園観戦記、ではなく参戦記 小池康生
【特集・俳句甲子園】
俳句甲子園観戦記、ではなく参戦記
小池康生
2013年俳句甲子園が終わった。私がコーチを務める洛南高校のBチームは、準優勝という結果だった。
本大会の直前、わたしは、Aチーム、Bチームの皆に、
「どちらも準決勝の舞台に上がる力をつけた。両方、そこまで行こう」
と正直な展望を語った。
その先の予想は控えたが、『Aは決勝でも充分戦える。Bは、準決勝で木っ端微塵にされるかもしれない』と考えていた。
Bチームが準決勝の進出を決めた時、その本音をぶつけ、Bチームの5人を鼓舞した。果たして彼らは、すんなり決勝進出を決め、決勝でも開成を追い詰めることができた。3年生ひとり、2年生ひとり、1年生3人のチームが上出来である。
予選大会から松山に行く直前まで彼らは急成長を続け、松山に行ってからも成長を続けた。
Bチーム3年生の橋本将愛のリーダーシップに感心するし、橋本ひとりの戦いにせず、5人の戦いにしようと必死にしがみついた一年生たちもたいしたものだと感動した。
決勝直前、1年生たちは、口々に、
「逆流性胃炎です。戦いの途中に粗相をしそうです。カメラで映せないことがおこりそうです」
とギャグを連発。
本当に体調がおかしくなっていたのだろうが、わたしは、ここでこんなことをいう1年生たちを頼もしく見ていた。
Bチームは上出来。それがわたしの感想。来年に向けて苦しみながら成長して欲しい。
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引っかかっているのは、Aチームが予選グループで敗退したこと。
洛南Aチームが、水沢高校に敗れた一句目、
蓮咲きて前歯のほろと抜け落ちぬ 水谷衛(洛南)
洛南高校全体が感動し選んだ作品である。対する水沢高校の作品は、
蓮の花少し背伸びをしてをりぬ 細野望(水沢)
2対3で負けた。あと二本、ここで、いやな予感がした。
初めての紅母に借り蓮の花 下楠絵里(洛南)
胎盤を捨てた呼吸や蓮の花 佐藤和香(水沢)
これまた2対3で負け、Aチームが終わった。ちなみに3句目は、
蓮咲いて影は獣のやうであり 辻本敬之(洛南)
蓮閉ぢる遠き兄への秘密ごと 佐々木槙子(水沢)
これが3対2で一矢を報いたが、Aチームはここで終わった。
一句目<蓮の花前歯がほろと抜け落ちぬ>が、肝だった。
「蓮」の兼題で、たいていの人間が、蓮の旧知の情報、旧知のイメージをうろうろする中、水谷は大きく飛躍し、それでいて、蓮の花でなければいけない世界を築いた。
洛南俳句部全体が、この句をリスペクトした。
水谷は去年、「裸」の兼題で、
素っ裸箒があればなおよろし 水谷衛
を作り話題となっている。
今年の京都予選では、「目高」の兼題で、
一滴の水に乱るる目高かな 水谷衛
で最優秀賞を得ている。ところが、<前歯のほろと抜け落ちぬ>は、通用しなかった。
岸本尚毅さんの、閉会の挨拶「説明できない俳句の良さ」を聞いた時、水谷の句が頭をよぎった。
Aチームがここで負けたのは残念だが、この句をだしたことに洛南サイドは誰も後悔していない。俳句甲子園用の句があるかのかもしれない。一方で、高校生が自分の才能をのびのびと発揮して作る句がある。その狭間に戦略的葛藤があるのかもしれないが、水谷は水谷の輝きを見せ、洛南全体が感動した。それでいいと思う。
Aチーム5人の作品と、彼らのディベート力をもっと見せられなかったのは、歯ぎしりするほど悔しいが、わたしたちの中では、今も水谷の句は輝いている。
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全体の作品集がでていない今、わたしは、自分が立ち合った戦いと、俳句甲子園ホームページに掲載される句でしか作品を知りようがない。
誰もがそうなのだ。すべての作品を知る人はギャラリーにも参加高校関係者にもいない。
今年の評価をどうするか、作品集がでるまでとらえようがない。
だいたいわたし自身、今年が2度目の俳句甲子園、全容の評価などできる人間ではないのだ。
対戦相手の作品で感心したのは、
獣道抜けて広がる夏の海 前田竜一(八重山商工)
誰もがすぐに思い出せる景。沖縄の高校となれば、その洞穴のような獣道から青い海が見えてくる。
今年の最優秀賞作品は、
夕焼や千年後には鳥の国 青木柚紀(広島)
この句を最優秀作にする選者に拍手。
ポジティブな作品だけが、高校生の作品ではない。
今を生きる高校生のイメージの世界。この作者は、本当に面白い。よほど俳句にのめりこんでいるのだろう。高校生という範疇を超え、注目作家になるのではないだろうか。いや、もう、なっているのだろう。
優秀賞作品から
夕焼やいつか母校となる校舎 大池莉奈(吹田東)
現役高校生が、<母校>を斡旋したポエジー。
太陽に指先触るるバタフライ 下楠絵里(洛南A)
平泳ぎでもなくクロールでもなく、バタフライの野性味が効いている。
2年生でAチームの主力選手。今後、彼女がどう伸びるのか、洛南の誰もが楽しみにしている。学内でAチームとBチームがディベート練習を終えると、Bチームのキャプテン橋本が呟いたものだ。「下楠が手を上げると怖い」。下級生の一撃のような質問に本気で恐れていた。
その下楠が尊敬する先輩に、辻本敬之がいる。彼がAチームの中心選手。洛南の今のディベートのベースを築いた男だが、彼の作品は賞を獲らず、彼のディベートも晴れ舞台では披露できなかった。予選グループ敗退に一番ショックを受けたのは彼だろう。俳句に対するひたむきさ。落ち着き、優しさ、知性、彼はみんなの憧れだ。
稲畑汀子さんの〆のスピーチにあった敗者への言葉、「どってことないのよ」の凄さも大人には響いても大会を終えたばかりの高校生には、すぐさま届かないだろう。
帰り道、辻本がわたしの横を歩き、新しいペンネームをつけて欲しいと言ってきた。
喜んで引き受け、数日後、「辻本敬之」は「辻本鷹之」になった。
いつか、彼には彼のタイミングでスポットが当たると思う。どってことないのだ。
夕焼や補欠の声は遠くまで 橋本将愛(洛南B)
橋本親方は、グランドの補欠を見ていたのだろうが、洛南俳句部の補欠のことも視野にいれていたのかもしれない。我田引水で申し訳ないが、さらに入選作から、
夕焼や耳の奥より熱き水 米林修平(洛南B)
昨年は、<二百十日ステーキの血を味わって>で入選している。彼の存在は、わたしの中で特別なものだ。5人の戦いのなかで、実に地味な存在なのだが、彼は渋く活躍する。
ディベートも作句も器用な男ではではなく、黙々と作り続け、『大丈夫かな、わたしの想定するハードルを超えてきてくれるかな』と心配になるのだが、とんでもなく低い打率のなかから、渋い作品を作ってくる。そんな彼を信頼する橋本キャプテンもたいしたものなのだ。ほんと、我田引水でごめんなさい。
<蓮の花雨の始めの音を聴き 大瀬良陽生(洛南A)><大木の抜かれし跡や大夕焼 水谷衛(洛南A)>の二作は、入選。Aチームは優秀賞1。入選2。
部長、川崎裕亮の<着ぐるみのままにゼリーを戴きぬ>は、若手俳人谷雄介が、「裏最優秀作」と褒めてくれた。ほんと、ごめんさない。我が田にばかり水を引いて。
原稿は白紙でみんみんが近い 河田将英(開成A)
これが決勝5句目の作品。5句目にディナーが用意されている。それが慣わしとなれば5句目を待ちたくなる。学習させていただいた。俳句で「原稿」などという言葉がでてくると鼻白むのだが、この作品には、臭みがなく、湿り気もなく、原稿が書けていなくせに力強い。他の作品も読みたくさせる力量を感じさせる。
乱暴な私ゼリーのような君 尾上緋奈子(飛騨神岡)
洛南にも真ん中に切れを持ってくる人がいて、このタイプの句は見慣れているのだが。
乱暴な切れが作品世界にぴったり。
白蓮や水張りつめてゐる夜明け 杉山葵(能代)
大人のような句とかいう言い方は嫌いである。いい句は、いい句。
こういう句があると、チームとして作品の並びが楽しくなりそう。
手を繋いだっていいくらい夕焼けだ 伊村史帆(厚木東高校)
まだ手を繋いでいない二人。「繋げよ」と女性が心の中で力強く叫んでいるかのような
面白さ。誤読だろうか。
作品集ができれば、まだまだ面白い句と出合えるのだろう。現時点でも多くの名作を見逃しているのだろう。わたしには、余裕がないのだ。10人の生徒の戦いとその後を見ることで精一杯なのだ。もう少し時間が経てば、他校の名作を味わえる余裕がでてくるかもしれない。
≫ 第16回俳句甲子園結果
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高校生を見ていると、一年という時間、一ヶ月という時間が、大人とは別の尺度に思えてならない。それほどに彼らの成長は早い。
人間それぞれの持つ時間は同じではない。しかし、それは大人の持つ時間の否定ではなく、あくまで、違い。若者の時間と大人の時間のコラボは、面白い。
高校生と句会をする時、自分の選や評をみせてやろうと本気になる。
それだけではなく、袋回しなどをすると、わたしはいつも最高点を狙い、躍起になっている。大人気ない?それがわたしの大人の時間なのだ。
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小池康生&洛南Aチーム出演 京都FM番組 「俳句セブンティーンズ」
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2013-09-01
京都FM 俳句セブンティーンズ 小池康生
京都FM
俳句セブンティーンズ
構成&パーソナリティ 小池康生
本誌「商店街放浪記」などでおなじみの、小池康生さんが、京都FMで「俳句セブンティーンズ」という、俳句とクラシックの番組をもたれることになりました。(小池さん、本職は放送作家なのです)
一回目、8月4日の放送は、宣伝のために貼っていい、ということなので、こちらにぺたりと。
俳句をめぐるヨモヤマばなしと、すてきな音楽。
終わったばかりの、俳句甲子園出場の「洛南高校・Aチーム」男女2名がゲスト出演して、京都予選をふりかえっています(26:00すぎ)。
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2010-08-29
『別冊俳句 俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園』 「卒業生新作8句競詠」を読む(下) 生駒大祐・藤田哲史
『別冊俳句 俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園』
「卒業生新作8句競詠」を読む(下)
生駒大祐・藤田哲史
『肋骨』 佐々木歩
I: 21人の中では熊倉さんと並んで地に足が着いている感じではないですか?伝統的な季語などを踏まえながらも自己の内面を象徴的に主題としている句風に好感が持てました。
F: 自分が俳句をつくる理由には、第六回に同じ高校から出場した10人の存在は大きくて、しかも佐々木さんは最後まで一緒に俳句甲子園で闘った人なので、久々に俳句を見れて、それだけで結構嬉しかったです。
I: 僕も同じ感慨がありました。※(生駒大祐は第6回と第7回出場)
F: 彼女にはあらかじめ自分の中に、ある美学、美意識があって、それに沿うように言葉をならべているところが高校時代からあったんですが、そういうところは、全然モチベーションとして変わっていない感じがしました。
I: その辺の美学はどうでしょう。例えば〈炎天や肋骨は身の内の牢〉や〈海水着脱げども赤児にはなれず〉などの句に顕著なものでしょうか。
F: そうですね。「少年性」が作品にある。そこに古典的な文学性を感じてしまうと、ちょっと損なんですけど。
I: なるほど。「肋骨」のような屈折や〈親指は飾り気がなし夕涼し〉の風通しのよさは少年性と表現してよいものかもしれません。反面〈夕焼ける風の吐息の染まるまで〉のような感傷が強く出すぎたような句はちょっと成功していないように思いました。
F: 言葉以前の本当に切実なところで作れているのかな、って疑問が湧いてしまう。古典的情趣をたっぷり纏う愉しさは、じゅうじゅう承知の上ですけど。
I: しかし、いわゆる「俳句想望俳句」のような、「俳句形式であること」自体に重心の置かれた句を作る若手が多い中、佐々木さんの場合は言葉を通して自己を語ろうとする熱意が伝わるように思います。
F: いや、その熱意が「古典的」に見えてしまうんです。結構佐々木さんの作品は暗喩が重厚なんですけど、それをどれだけ突き詰めても現代性が出ないかなって気がします。現代性が出ないというか、どれだけその方向で頑張ってもある時代の暗喩の重厚さには勝てないというか。〈片影に入りて失ふ己が影〉とかでも、主体の曖昧さを詠んでるのに、そういうテーマは今っぽいんだけど、ある俳句らしい言葉遣いでいなしてしまっているというか。〈炎天や肋骨は身の内の牢〉でも同じです。主題と言葉がずれてる感じがする。
I: 「肋骨」の句はある程度成功しているように思いますが。俳句は季語に主題性が強いので、自己を主題として読み込むのはもともと難しい。炎天はその中では良い斡旋だと思います。ストレートですが。
F: うーん、動くかな。
I: 炎天の激しさと、牢という言葉の静けさが対比として面白い。
F: じぶんは
鵜篝の中に闇入る余地のなし
などの一物のほうが好きでした。
I: それこそ古典的では?
F: うん、とっぷりと浸かっていて。そっちのほうが気持ちいい。
I: 僕は
親指は飾り気がなし夕涼し
のすがすがしさをいただきます。
F: 「飾り気がなし」が飾っている感じですよ。
I: いや、「飾り気がなし」できっぱり言い切れているので飾っているとは思いませんでしたね。身の内から出ている言葉です。
◆
『晴海通』 高島春佳
F: 〈かなかなや平安京が足の下〉でしたよね。最優秀賞になったのは。最優秀賞取った方は、その作品と比べられるのが辛いだろうな。
I: それは当然あるでしょうね。特に高島さんは非常に景の大きな立句で賞を取っているので。上手いところを言おうとしているのですが、一歩言葉の洗練度が及んでいないように思いました。
F: 洗練度はともかく、切れの運び方は一番オーソドックスな感じがします。無理に取り合わせていかない感じ。これは紫野高校の強みだった。
I: そうですね。言葉の意味の繋げ方が自然です。
F: だから言葉の洗練度に目が行くんですよ。
I: なるほど。一句選ぶならどの句ですか。
F: うーん、
巨大蜘蛛足長ければ空の色
の句かな。この仮定形の因果律のずらし方は、ちょっと他の人になかった。
I: 僕はそれ、非常に良いところを行っていると思うのだけれど、「巨大」の措辞が少し疑問です。
F: うん。そうね。
I: そこさえなければ21人の中でも相当良かった。僕は
草餅がひとつ透けたる主婦の午後
が変な句で好きでした。
F: 「ひとつ」って必要ですか?
I: いや、草餅が透けているだけでも普通に良いんですが、いっぱい草餅があって、ひとつが透けていると取りました。なんでひとつだけなんだろうと。不思議です。
F: それだけでも面白いじゃないですか。「主婦の午後」まで情報をつける必要があるのか。
I: 「主婦の午後」と「草餅」に因果を思わず探してしまう。その働きが面白い。
F: あと、「透けたる」は、「草餅」でも「主婦」でも「午後」でもいけますよね。切れが明確でないから。意味のとりずらさがある。
I: いや、「が」なので草餅でしょう、透けているのは。
F: 「草餅がひとつ」までで切れているとも、読めないことはない。「透ける」という発想がひじょうに飛躍しているから。「透けたり」で切ることも十分可能なわけで。
I: うーん、僕はそれは読めなかったな。普通は無理に中七の途中で切らないと思ったので。
F: なんだか、熱く語ってしまいました。
I: まあそれはそれで面白いんでは?当時を思い出しつつ。
◆
『ディベートクイーン~セーラー服とディベート機関銃~』 川又夕
F: 何よりもタイトルがよかった。タイトル勝負で言えば「ベストヒットウツノミヤ2010」とツートップでしょう。
作品に関して言うと、タメってのもありますけど「椎名林檎」世代なんだなって思う(笑)。
I: 椎名林檎感はあった。しかも初期の。これは新しいのかどうなのか。
F: 〈薄ら氷貴方の体温が識りたい〉の「識りたい」とか〈空高く想いは死んで仕舞えば善い〉の「死んで仕舞えば善い」とか。いわゆる「なんちゃって文語」ですよね。作品も歴史的仮名遣いと現代仮名遣いがちゃんぽんになってるでしょう。
I: そうですね。文語フェチ。御中虫さんもそうだし、トレンドなのかな。
F: どうでしょう。
I: 文体だけでなく内容も林檎調ですね。
一句選ぶなら僕は
マニキュアの剥がれるやうに花散れる
ですかね。全体の中ではちょっと浮いた、普通ともとれる句ですが。マニキュアが剥がれるという身体感覚と花が散るという外界の現象が結びついている。
F: この下五の「花散れる」の「る」のノリは、すごくよくわかる。終止形にするなら「散れり」か「散りたり」(かな?)なんだけど、それだとノリが合わないですよね、きっと。
I: そうですね。ここは「る」でいいと思います。藤田は?
F:
空高く想いは死んで仕舞えば善い
の句。この路線でつっぱしっていって欲しい。
たぶん、「ディベートクイーン」というのは、「クイーン」に比重がかかっているんじゃないかな。だから、やっぱりそれこそ「椎名林檎」路線ですね。
I: なるほど。川又夕さんの句だと〈戯れに鶏頭折れば曲がりけり〉が印象的でしたが、印象が少々変わりました。でも、推し進めた感じなのかな。
F: その句も、結構エロティシズムはいってますよ。
I: そうですね。今回の句を読んでそう思いました。
◆
『ベストヒットウツノミヤ2010』 宇都宮渉
I: 把握の曖昧さが良いほうに働いていると思いました。
F: 宇和島東のこの輩出するレートは、ナチュラルボーンなのか、先生がいいのか。(谷雄介・宮島・宇都宮・本多)。開成と同じだけの人数がピックアップされている。(山口・酒井・熊倉・村越)
一句選ぶとすると、どれですか。
I:
大海の虹を失うとき静か
ですね。大きい景が端正に詠まれている。
F: 申し分ない一句です。おおらか、おおらか。
I: 「虹を失う」の措辞なんか素直に上手いですね。しかも失う主体が空ではなく大海。虹は景が大きいですが海を入れたことで景はさらに大きくなる。「静か」というまとめかたも過不足ない。
F: 〈一月の夜をつくろふ薪かな〉もそうだけど動詞が上手い。面白い題材を持ってくるのは秀才でもできると思うけど、うまい動詞をもってくるのには才能が必要だと思う。〈黄金虫擲つ闇の深さかな(虚子)〉の「擲つ」とかさ。〈鎌倉を驚かしたる余寒あり(虚子)〉の「驚く」とか。
I: 〈ゆれ合へる甘茶の杓をとりにけり(素十)〉の「ゆれ合へる」とかね。
F: 自分が選ぶなら
新涼や吹き溜まりに蜻蛉の羽
おそらく「フキダマリニセイレイノハネ」と読みますね。それで音読のリズムは通るでしょ。このリズムの取り方にもなんとなく天才を感じる。蜻蛉の羽の透けている感じが「澄む」感じにつながっていくし。「シンリョウ」と「セイレイ」の音の類似感とかさ、上手くない?
I: 破調が気になっていましたが、「新涼」「蜻蛉の羽」という爽やかな言葉に吹き溜まりという負の意味のある言葉を斡旋するセンスは面白いと思います。
◆
『Campus』 本多秀光
F: 自己紹介のところの、「大学でクラウンをして笑顔を届けている。」のクラウンって何ですか。
I: クラウンというのは、例えばホスピタルクラウンとか言って、ピエロの格好をして病院をまわり、入院している子供たちに風船を配ったりするアレだと思います。
F: へー。いいね。いいよ。
〈れんぎょうを胸いっぱいにくぐる門〉って「もん」がのび太君ぽい「もん」だったら面白い。そういうの、狙ってるのかな。
I: いや、さすがに狙ってないでしょうが(笑)。
F: んとね、この人は意図的に切れ字つかっていない感じがするな。
I: 切れ自体はありますけどね。
F: そうね。動詞+「て」で軽い切れを入れたり。連用形だったり。 あとは、名詞で切れを呼び込むとか。なんとなく読んじゃうと見過ごすところね。それがトータルとして軽やかさを演出できてる。
I: なるほどね。「て」が多いなとは思ったけれど。
F: 「見えない優しさ」だね。
I: 一句とるなら
れんぎょうを胸いっぱいにくぐる門
F: それは・・・やっぱりのび太くん的なあれで?
I: いや、普通に良い句だと思いますよ。〈見てをれば鶏頭の門に入りにけり 川口重美〉をなぜか連想しました。その連想を分析すると、まず本多さんは名詞で終わる句が多い。それがまたリズムのよさを生んで、きっぱりと句が終わる。この句も「門くぐる」だと駄目なんですね。「くぐる門」とすることで、川口茂美の句と同じで門が脳の中に残る。
F: 「胸いっぱいに」は?
I: 甘いといえば甘いですが、「れんぎょう」「くぐる」などひらがなを多くしたことであえて幼さというか、童話的風景を出してきている。その点で「胸いっぱいに」も雰囲気を出しているんではないですか。
藤田は?
F: 自分が推すのは
新月を斬りて芒の誇らしさ
の句。謎句ですね。「新月」って、要は闇夜なんで。不思議でしょ、パッと読むと月が現われてるのね。
I: 朝の新月とか。駄目?新月の出ている高さが低くて月を芒が横切りやすいよ。それを斬ると表現したとか。
F: ああ。けれどもまぁ、穏当な読みは夜ですし。
I: まあ歳時記的には夜だわな。その謎が良いと?
F: あと、「芒の誇らしさ」って、芒はそんな「誇らし」いのかね。本意として。たぶん芒のしたたかな感じがテーマなんだよね。それは、本意の情緒とはちょっと違う。言葉は一見観念的に見えるけれど、結構芒をスケッチしている感じがして。「誇らしさ」の名詞形どめもさっき言ったようなことで、軽やかさなんですけど。文体も攻めてる感じがするし。気になる度では168句で一番でした。
◆
『雨か雪か』 村越敦
F: 東大俳句会の現幹事長で、すごく身近な人です。というか、本郷句会に出た句が出てる(笑)
I: 好きな句が多かったですね。上手さもあるし主観も結構出してきている。
F: うーん、それは村越的なのだろうか。
I: 上手いのはあくまで開成的であって本意ではないかもしれない。〈秋麗ワルツのやうに悪友来る〉なんかのワルツの比喩とか〈島影を街とも思ふ春の雨〉の「街とも思ふ」の主観などを、共感されないかもしれないと分かっていてあえて出すところなんかが彼にとっての「押し」なのかもしれない。
F: 自分は、イコマの意見とは異なって、統一感のなさを感じました。〈触れたれば若葉つめたしちぎり取る〉は「澤調」だという評が句会で出ていて・・・。
I: そうですね。岸本尚毅さんもちょっと騙されていた(笑)。
F: 村越君はもともと上手い人です。じぶんや生駒なんかよりずーっと。
I: そうでしょうね。今回の句で再認識しました。本郷句会でもよく点を集めています。
F: けれども自分が選ぶと
紅葉且つ散る石膏像に腕が無い
になる。
I: この放り出した感は面白いですね。
F: 越智友亮っぽいと言う人はいるかもしれない。
I: 越智くんぽいように見えるのは口語だからではないですか?
F: そーう?「腕が無い」のは、トルソならよくあるから、特殊な発見でもないわけで。そういうところは。
I: 他は〈山茶花に熱持たぬ紅ありにけり〉などのように基本的に落ち着いた文体なんですが。
F: 表題句の「濡れてゐる」も発想は口語なわけで。文体以前の、彼の脳はすごく口語っぽい、生なところを捉えている。そういう句がもっと読みたい、という、一読者としてのわがまま。わがままが言える人です。
I: 僕は
胃の中にうどんの残る枯野かな
ですね。この諧謔は良い。
F: なんとなく既視感がないですか?〈胃の中の白玉あかり根津谷中(中原道夫)〉などなど。
I: その句に関して言えばちょっと面白さの中心は違いますね。「胃の中にうどんの残る」までは完全に日常性なんですが、枯野で一気に古典的な情緒に飛ぶ。その飛躍の面白さです。
F: 五臓六腑系は俳人好みな感じがしたから。
I: うーん、そう言われると弱いですが。
F: 「枯野かな」の飛躍はおもしろい。
◆
『冬の灯』 中島強
I: 比喩的表現を多用することで新しさを出そうとしているのかな。ちょっと親近感がありました。いろいろと。〈絵葉書の一葉冬となりにけり〉の句のぬけぬけとした感じとか、〈枯芝に全てを投げ出せば、空だ〉の挑戦とか、好きですね。成功しているのは
溶接工火花に青く冬を接ぐ
や
臥すままに歌詠む冬の澱となり
かと。枯芝以外は全て「冬」という単語が入ってるんですよね。あえてでしょうが。季語ではなく季節自体を把握しようという意思を感じました。
F: 比喩は多いけど、飛躍は少ないから読みやすいかも。
I: 詠みやすいね。すっと入ってくる。ちゃんとディテールが書けているからもあるかも。「硝子の『温度』」「火花に『青く』」「臥すままに『歌詠む』」(〈冬草の硝子の温度なるを摘む〉)
F:
冬の夜の北極点を望む窓
は、どうですか。「北極星」でないのは?「天の北極」とかは聞くけど。地球の北極を意識しているのかな。そうしたら、幻想の句になるかな。
I: いやあ、これは北極星のことだと思う。「夜の北極点」で北極星のことを言っているのでは。
F: イメージの連鎖を呼ぶような微妙な操作があるよね。そういうの、個人的には好きかな。すごくメタ的な「北極点」である可能性もある。同様に「火花に青く」とかもそうでさ。ほんとうは火花では接がないわけでさ。火で接いで、火花はオプション。
I: でも意味としてはすっと頭に入りますよね。火花(の出る溶接)に青く。
F: そういうふうに読み手は理解する。勝手に色を混じらせるような操作ね。テレビ画面みたくね。
◆
『ひらがなノスタルジック』 中川優香
I: こっちは一読不思議な句がならんでいる。でも、よくよく読むと意外とベタなんだ。〈心中の手段教える桜かな〉の「心中」と「桜」とか、〈愛される不自由さ知れねこの恋〉の「ねこの恋」とか。〈グラウンドシューズ竜巻連れてくる〉は漫画っぽい世界を背景にしているのかな。
F: タイトルの意味は何なのか?作者に聞いてみたい。
I: 別にひらがなばかりではないしね
F: なんとなく藤田亜未さんの世界に近い感じがします。季語の選択のしかたも含めて。〈青林檎助手席に君乗せていく〉の「青林檎」など。
I: 全体に漂うロマンティシズムがそう思わせるのでしょうか。
一句取るなら
歪みゆく地球を歩く蝸牛
が不思議があらわで好きだった。「歩く」って。
君はどの句を取るの?
F:
心中の手段教える桜かな
I: これは桜が教えると取りますか?幻想の句になりますが。
F: もはや「桜」がキャラクター名に見えてきた。イコマのせいで。「漫画っぽい」なんて言うからさ。ああ、そうかって。
そしてそういう漫画らしさって、ある程度本質を突いているんじゃないかな。すごく季語がのっぺりしたメタ的な存在として扱われている。花に顔が描いてあるような思考回路があってさ。「紫陽花」の句にしても。言葉の全てに実体が出てこないのね。
I: 季語の歴史を背負った重層性と、漫画のような二次元の世界の薄っぺらさにギャップが生まれている。景をはっきりと結ばないよね。
F: 全ての言葉が、メタレベルで消化されててさ。それで、主題は、愛だったりして。アニメソングの言葉の使い方に似ている。
◆
『若夏』 島袋愛
I: 日常の中の言葉と季語を自然に結び付けていて、景がはっきりと結ばれますね。 一番俳句甲子園らしい8句かもしれない。
F: コンパスとか、定規とか、高校生らしい、といえば、その通りです。
I: コンパスは出てこないです。
F: 一句選ぶならば
若夏や髪かきあげて一結び
かな。さりげないけどね。内容とよく合ってる。その人が女の子ってのもわかるし、涼感がある。
I: 僕も同じ句を選びます。形がすっきりとしていて気持ちが良い。「若夏」とは琉球語で新暦5,6月にあたるらしいです。季語いいな。よく合っている。
F: うん。定型が生きている。
◆
『だいじょうぶ』 越智友亮
F: どうでした?越智友亮も身近にいる人ですが。
I: そうね。〈人には愛を水中花には水をやる〉の句などに見られるある種の傲慢さは越智君の特長かと思う。こういうところを言っちゃえるのは、自分の表現に自信があるから。〈砂の城崩れて砂や夏の暮〉なんかはちょっと既視感があって越智君がわざわざ詠む必要があるかなと思った。
F: 上田信治さんがね「普通だと、最初バランスが崩れててバランスを探していくものなんだけど、はじめに絶妙なバランスができちゃってて、そこからどこにも動けない人がいる。そこからバランスを崩すと苦労する人がいる」って言ってて。それにあてはまるかどうかはともかく、村越・越智の二人は自分の文体を模索中な感じがした。
I: 良い言い方をすればバリエーションが豊か、悪く言えば統一感のなさはあったね。「恋(愛)」という全体を貫くテーマは勿論あるけれど、文体として。
F: 彼に文語は似合わない。〈潮風にロープは強し夏つばめ〉で「強し」とか言っちゃったりして。
I: だから模索中なんでしょう。「や」もそういう意味ではあまり良くないね。「かな」「けり」に比べればいいけど。
F: 「砂の城」の路線で行くなら、さっさと第一句集を作らねばいけない。これまでの俳句は、すごいよかったのに。言葉は仮に若書きの「花」であっても永久保存されるので、もう少しそっちを掘り下げてからでもいい気はするけどな。
I: 一句取るならどの句を?
F:
砂の城崩れて砂や夏の暮
を取る。これが、現在の越智である。それが取る理由。
I: 僕は
コーラの氷を最後には噛む大丈夫
すごい飛躍があるんだけど、全体のテーマを「恋」としてみると共感する余地がある。僕は「コーラ」も現在の越智だと思う。まだ揺れがある。
F: そーう?越智の本質は「詰め込み型」でなく「勢い型」であって、それならば定型にはまっている「砂の城」が越智らしいと思った。
I: この夏の暮の収め方は旧来の俳句の収め方だと思うけれど。上中には勢いがあるけれど最後失速しているんでは?
F: うーん、季語の収め方はベーシックでいいんです。それは本意から離れすぎないことであるから。本意の勢いから、どこまで滑空するか、に賭けたいかな。
I: 勢いという点なら〈桜蘂降るよ傲慢なる恋よ〉〈ほたるほたる電話になると声大きく〉「人には愛を」なども勢いというか調べの滑らかさがあると思うけど。
F: それは破調を勢いに感じているだけです。
I: 勢いという述語の定義が・・・もっと議論を深めたいところですね。まあそれは別の機会に。
◆
F: まぁ、そんな感じです。
I: はい。お疲れ様でした。
F: おつかれさま。全体読んでどうでした?
I: 俳句にはいくつかの段階があって、その階段をみんな歩んでいて、それぞれ立っている段の色が違うなと。狙いが定まっているように見える人もそれが終着点ではなく次の段ではまた揺らぐ可能性もある。その上っている段数は年齢に比例せず。当たり前の話ですが。村越・越智が模索中と書いてたけど、年長組の紗希さんとかも結構模索している感じがして。
F: うーん。なんだかんだで「試してみた」感じの作品、多かったですね。いわゆるホームだからなのかな。俳句甲子園は。特に東京にいる人たちは。
I: 総合誌よりは幅の広い句が見られて良かったです。 単発の雑誌なのでいわゆる「空気を読む」ことができないから。
それではこの辺で。対談、お疲れ様でした。
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2010-08-22
俳句甲子園レポート2010 決勝編 江渡華子
俳句甲子園レポート2010
決勝編
江渡華子
敗者復活戦から決勝戦にあがる確率はどの程度なのだろうか。
首里高校は前日にも増して、より勢いを身に着けていた。
そして、涼しい屋内で熱い戦いが始まった。
決勝戦
【先鋒戦】
開成A 白亜紀の骨吊られをり夜の秋
首里 灼け砂を鳴かせて白き全反射
結果は開成Aチームの勝利。
首里高校からしてみれば、自分のチームの句に対して開成Aチームから出た「鳴き砂の説明でしかない」という指摘にうまく対応できなかったのが、敗因であろう。ただし、開成Aチームも首里高校から「博物館が夜開いているのか」と質問が出たのに対し、誰の目線から詠まれた句なのか、回答できていなかったことが気になった。
【次鋒戦】
開成A 面白き形ただよふ海月かな
首里 空白を埋めに埋めたる夏休み
結果は首里高校の勝利。
「空白が何を指しているか」という開成Aからの問いに首里から「宿題やスケジュール、進路など」と複数の回答があったことに対し、再び開成Aから「焦点がぶれているのではないか」と指摘があったが、「すべてを含んで夏休みなんです」という首里の赤嶺さんの回答は、夏休みの必然性や空白の広がりを見せており、今大会のディベートの中で一番印象的な発言だった。質問に対し、的確且つ面白い回答をすることが、一番のアピールになる。開成Aチームが、一瞬沈黙したことがその発言の威力を物語っていた。
【中堅戦】
開成A 西日中白の連なる団地かな
首里 白昼の西瓜の紋の波を打つ
結果は開成Aチームの勝利。
小澤實審査員が、「一物仕立ての俳句を詠むときは、季語にどれほどの情報が含まれているか事前に確認する必要がある。西瓜の模様が波をうっているようなものであることは、西瓜という季語に含まれている」とおっしゃっていた。17音という短さの中で、言葉を重複させてしまうのはもったいない。
【副将戦】
開成A 陶枕の全き白に小さき罅
首里 白熱のロックのギターの弦灼くる
結果は開成Aチームの勝利。ここで、開成Aチームの優勝が確定した。
陶枕を見たことないので鑑賞しかねると言う首里高校に対し、開成Aチームの三村君が「そうおっしゃるなら見せましょう」と白い陶枕を取り出し、会場を沸かせた。しかし、「この会場に陶枕を使用したことのある高校生がいるでしょうか」との首里高校の問いに、会場に拍手がおこった。きっと、会場にいるほとんどの人が、陶枕を見たことがなかったのではないだろうか。それに対し、「けれどこうして実際大事に使用しているものを詠んだのだから、それを言われるとどうしようもない」と三村君が答え、さらに会場から拍手が起こった。
黒田杏子審査員長が開成Aチームの句に創作点満点である10点をいれ、絶賛された。それに対し、高柳克弘審査員が創作点を5点にしていた。「開成高校がこのような題材を選ぶことは、決して悪いことではない。むしろ個性として評価される部分であるが、きちんと詠みこむことができていないため、5点という辛めの点数をつけた」とのことだった。
開成高校はよく、「高校生らしくない」「若者らしくない」という評価を受けやすい。それは選ぶ題材やどのように詠むかという方法に対する評価だろう。しかし、そこを否定をすることはないのだ。それはひいては人間性を否定することにもなるのだから。選んだ題材をきちんと詠めることが大切なのである。高柳審査員の発言は、少なくとも公的な場では、開成が今までに受けたことのないものだったのではないだろうか。私は、新鮮かつ的確だと感じた。若手の先頭を走っている高柳審査員がおっしゃったというところも嬉しく感じた。
開成Aチームの小野君が、試合後にコメントを求められ、昨年度の審査委員長である金子兜太氏に言われた「表現欲求について、松山中央高校と開成高校は月とすっぽんだ」という言葉に、大変衝撃を受け、一年間必死に練習をしてきたと言っていた。
高校生はとても素直だ。言われたことに落ち込み、喜び、考える。時には反発するだろう。
山西雅子審査員が、「人に何と言われようと自分の言葉を大切にする気持ちと、人に言われたことを大切にする気持ちを、両方とも持っていてほしい」とおっしゃっていた。それは、どの分野でも人が伸びる最善の方法なのではないだろうか。高校時代にその重大さに気付くことはあまりないかもしれないが、その大切さを知ることで、より成長できる。
山西審査員の言葉こそ、大切にしてほしい言葉だ。
去年金子兜太氏が審査員長として参加されたことが、大会に与えた影響は大きかったように感じる。上手い俳句ではなく、魂の叫びを俳句にするのだという金子兜太氏の考えと松山中央高校の句が合った大会だった。
しかしながら、今年は技術の高い句が評価されていたように感じる。高校生は素直だ。言われたことに素直に影響される。去年の金子兜太氏の主張が今年はあまり会場内で感じられなかったことは、去年今年と参加している高校生にちょっとした混乱を与えるのではないだろうか。結社の主宰は、選句で主張をする。それは俳句甲子園の審査員も同じで、それぞれが持っている評価軸を選句によって表現している。それが年によって前年と大幅にずれると、俳句甲子園としての方向性が少々見えづらくなるのではないだろうか。
昨年度松山中央が行っていた「この鑑賞でよろしいでしょうか」というディベート方法が今年はあまり目につかなかった。俳句甲子園の新たな可能性を見出すかもしれなかっただけに、少々残念ではあるが、どのような方法をとるかは高校生の自由なので、そこは俳句甲子園運営側が手を出せない部分だろう。しかし、審査員を選ぶことは俳句甲子園運営側が行うことなので、どういう意図で行っているのか、今後もう少し見えてくれば嬉しい。誰を審査員にするかは、主宰が選句をした際の主張と同様に、俳句甲子園運営側が俳句甲子園からどんな俳句を生み出したいと思っているか、という主張だと思っている。
正木ゆう子審査員が、最後に「俳句甲子園は、ここに俳句の魅力の全てがありそうな濃厚さがあったが、俳句にはそれを上回る器がある」とおっしゃっていた。
現在の若手には、俳句甲子園経験者が本当に多い。楽しかった俳句甲子園を上回る俳句自身の魅力に取りつかれている部分もあるのだろう。
物事が終わった後で、冷静に見えてくることはよくある。俳句甲子園も終わってから、あそこであれをこうすればよかった等と思うことがたくさんあるだろう。そんな中で、人に何を言われても大切にしたい何かを持つことと、人に言われたことを大切にする気持ちをもつことができれば、その見えたことを未来に活用することができる。
今年の俳句甲子園も、たくさんの言葉のお土産ができたこと、大変ありがたく思う。
参照→第13回俳句甲子園決勝詳細
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Labels: 俳句甲子園
高校生たちの俳句甲子園 上原花
【高校生たちの俳句甲子園】
俳句甲子園を振り返って
上原花
第13回俳句甲子園において、私は2度目の参加となる。毎年面白い人材や俳句が生まれるこの大会だが、前回大会の影響もあり、私は石川県立金沢泉丘高校に注目していた。昨年は決勝トーナメント1回戦での敗退であったが、準優勝の洛南高校を相手に健闘した学校である。その中でも私が特に期待していたのが、今年3年の山口敦己君だ。去年の彼は周囲の先輩達にも引けを取らないディベートを繰り広げており、今年は更に勢いと正確さを増して帰ってくるだろうと楽しみであった。今回は時間の都合上、私は彼の試合をほとんど観戦することが出来ず、準決勝で対戦することとなった。
初めの一言から、彼のディベートには熱が込もっていた。真剣な眼差しで句を見つめ、すぐに批評を始める。その勢いは、まさに青嵐といったところであろう。去年よりも鑑賞力を増した彼は、チームで圧倒的なイニシアチブを取っていた。だがそれが一つの欠点だったのではないかと思う。ほとんどのディベートは彼が行っており、チームを背負いすぎていた気がした。熱が入りすぎて喋りが段々もどかしくなっていったのも、私は対戦しながら犇々と感じていた。このように表現すると、彼に対して否定的な意見を書いているように思われるかもしれないが、決してそうではない。精一杯チームを引っ張ってきて、最後に僅差で負け、悔し涙を堪えながら必死にインタビューに応える姿には、ただならぬ感動を憶えた。これぞまさに青春と言っても過言ではないと思う。他校の試合をあまり見ていない私が言うのも何ではあるが、もどかしさがありつつも本質を捉える熱い語りで会場を盛り上げ、しっかりとチームを引っ張っていた彼は、高校生として一番相応しいディベートを展開したと考えている。
また、私は熊本信愛女学院高校に目を付けた。彼女達のディベートは全学校の中で一番楽しさに溢れている気がした。相手から批評されたときも自分が批評するときも決して表情を歪めず、にこにこと微笑んでいるのだ。それは決して嫌らしいものではなく、俳句甲子園そのものを心から楽しみ、まるで互いの句に出会えたことを感謝するかのようであった。私は今回初めて彼女達と試合をしたが、俳句に対する姿勢など多くのことを学び、非常に充実した時間を過ごせたと思う。
熊本信愛の生徒が詠んだ句に以下のようなものがあった。
臍の緒のねじれて朝顔は青い
句を見るだけでも清涼感というか爽やかさであったり、生命力を感じさせられる。人間が産まれてくるにあたって基盤となるような臍の緒と、どこまでも上に伸び続け儚くも力強く咲く朝顔の取り合わせが非常に興味深い。「ねじれて」と臍の緒の様子を鮮やかに詠んだのが、この句に興趣を添えているのではないかと思う。また、作者の宮川夏実さんがとても清々しくこの句を披講していたのが印象的であった。
他に興味を持ったのが、就実高校 原田莉沙子さんが詠んだ句である。
とらつぐみからかもしれず黒電話
夜間や薄暗い日に寂しげに鳴くとらつぐみは暗い森に生息するため、その姿はなかなか見つけることができない。その季語を生かしているのが黒電話の存在だろう。携帯電話などが普及した今の時代、黒電話を見かけることも少なくなった。だがこの句はそんな物悲しさだけではないと思う。「からかもしれず」に込められた思いは、何か深いものを感じる。
入賞句ではなかったが、私の好きな句を1つ。
伊予弁の耳に明るき晩夏かな
金沢泉丘高校、大野莉佳さんの句だ。
私は、伊予弁を聞くとどこか優しい気持ちになれる。柔らかく感じられるあの口調を聞くと、まさに「耳に明るき」だと思う。私は伊予弁というものを、俳句甲子園で愛媛に来るまで聞いたことがなかった。作者も石川県の人なので、きっとそうだと思う。大会で伊予弁を聞いたときの作者がすっと浮かぶ。そこに晩夏を取り合わせたのが面白い。俳句甲子園参加者ならではの句になったと思う。
今回この記事を書くにあたって、「今大会で出会った素晴らしい俳句、素敵な人材」というテーマを与えられたが、私には非常に難しいテーマであった。俳句甲子園で出会う人、句はどれも素敵であって甲乙つけがたい。今後も俳句甲子園の成長を願ってこの文章を締めたいと思う。不慣れなために全体的に散漫な文章になってしまったことを御海恕下されたい。
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高校生たちの俳句甲子園 田中志保里
【高校生たちの俳句甲子園】
俳句甲子園2010レポート~俳句が好きだという気持ちは誰にも負けません
田中志保里
わたし達松山西中等教育学校は、今年で二回目の全国大会出場を果たしました。
また、わたし自身は高校三年生であり、今年が最後のチャンスだったので、「俳句を目一杯楽しもう」という気持ちで臨みました。そんな第十三回松山俳句甲子園全国大会で出会った人物や句について、レポートしたいと思います。
まず、わたし自身が対戦した中で印象的だった人物は開成高等学校Bチームの五人でした。
大会前日に行われたウェルカムパーティでステージに上がった彼らの溌剌とした、従来の開成らしくない様子を見て、年齢的には二つしか違わないことも忘れ「ああ、若いなあ。」とぼんやり思いました。もちろんその時には決勝リーグで開成Bチームと対戦することになるなど夢にも思っていませんでした。
そして大会一日目、予選リーグを突破し、去年の地方予選の決勝で惜しくも敗れた伯方高等学校にリベンジを果たしたわたし達は、決勝リーグ二回戦で開成Bチームと対戦することになりました。
確かに、まだ伝統の無いわたし達松山西にとって、強豪校である『開成』という名前は重く響きます。でも、開成チームだってわたし達と同じ人間です。高校生です。更に言えば、使っている言語も同じです。緊張している後輩たちにわたしはそう言い聞かせました。(結果その言葉がどれほどの効果があったのかは分かりませんが)
正直に言うと、そのときのわたしは試合に私情を挟みまくっていて「あんなチャラチャラした男子に負けたくない」と思っていました。ちなみにチャラチャラした、というのはあくまでもそれまでの時点でわたしが彼らの言動や見た目から感じたことであり、実際に本人たちがほんとうにチャラチャラしているかどうかとは関係ありません。
松山西チームの「俳句を好きな気持ちは誰にも負けません!」というコメントに、開成Bチームが「いやぁ、でも僕たちだって俳句が好きだからここまで来れたんだと思いますし!」と返し、いよいよ決勝トーナメント第二回戦が始まりました。兼題は「晩夏」。
先鋒戦は、3-2で松山西の負け。しかし3-2ということは、まだまだ望みがあります。むしろ、先鋒戦から5-0で負ける、という最悪なパターンも想定していたわたしはほっとしたくらいでした。試合中、すでに雰囲気で押し負けている後輩たちを見て、初っ端から5-0で負けてしまうのだけは避けたいと思っていたからです。
次鋒戦は、5-0で松山西の勝ち。五本きれいに揃った赤色の旗を見て、チームの雰囲気もなんとなく持ち直します。
ここまでの開成Bとの試合で感じたことは、ディベートのやり方についてのことでした。去年までの開成チームの印象とは違い、マイクをしっかりと握りしめ、大きな声で喋る喋る。俳句甲子園に出場している学校それぞれに、ディベートの特色というものは少なからずあります。例えば、去年の松山中央高校のディベート。昨年の決勝トーナメント一回戦で彼らと試合をしたとき、わたしたちのチームは「褒め殺し」のような中央の独特のディベートに戸惑い、結局成す術も無く負けてしまいました。
今回の開成Bとのディベートで印象的だったところは、こちらが質問をしたとき、「いやー、そういうのは俳句によくあることですし、そんなに問題ではないと思うんですよねぇ。それよりもこの句では、ここを見てほしいんです!」というような感じで、自分たちのペースにもっていくところでした。こちらとしては「違うし!そこについて聞いたんやないわ!こっちは問題やと思ったけん聞いたんやけど!」と噛み付きたいところですが、如何せんそのときのわたしは考えがそこに辿り着けるほど落ち着いてはいませんでした。(なんだか、変なアドレナリンのようなものが大量に分泌されていたように思います。)
そして結局巧みな弁舌に乗せられて、相手が述べた点で議論してしまう。そうなったら、そりゃあ相手のほうが有利です。わたしたちは試合時間中に、そこに気付けませんでした。やはり俳句甲子園のディベートにおいて、「喋りの上手さ」というのは大事な要因になってくるのだと思いました。
次の中堅戦、5-0で負け。ディベートや審査員の先生方からのコメントを通して、「晩夏」という季語の難しさを改めて感じます。
後の無い副将戦でなんとか勝ちをもぎ取り、大将戦。相手の句はなんと今年の最優秀句になった「カルデラに湖残されし晩夏かな」。結果は3-2で、わたしたちの負けでした。試合結果、3-2で開成Bチームの勝利です。
開成Bチームの五人はまだ高校一年生だということで、今年よりも来年、来年よりも再来年とどんどん成長していくことと思います。(試合に負けたわたしが言うのもナンですが。)もしかすると、これからの俳句甲子園の目玉的存在になるかもしれません。来年、再来年の俳句甲子園へのわたしの楽しみがひとつ増えました。
また、勝っても泣いて、負けても泣いていた姿が印象的だった開成Bチームの皆さんは、それだけ試合に情熱を傾けていたのだろうなと感じました。ただ、ひとつだけ、ここで感じたことがあります。感極まる気持ちも分かりますが、審査してくださった先生方が話されている間は、ちゃんとその人のほうを向いて話を聞くべきだと思います。
偉そうなことを書いてしまいましたが、これからの開成Bチームの活躍を楽しみにしている者として、僭越ながら意見させていただきました。ご了承ください。
また、今大会で最も印象に残った句は金沢泉丘高等学校 冨田真由さんの、「いかづちやおびただしき手のデッサン」でした。
表彰式で初めて耳にしたときに、まず「おお!」という衝撃。まさに、わたしの上に雷が落ちた感じでした。素敵な句に出会ったときの、びりびりする感覚。「おびただしい」という言葉の使い方が句の雰囲気や「いかづち」という季語にぴったりとはまっていて、気持ちいいくらいです。一度聞いて、一度目にしたら、もう忘れることは出来なくなりました。
いい句に出会えて、ほんとうに幸せです。こういう出会いもあるから、俳句はやめられません。
わたしは今年で卒業ですが、来年からはOG、スタッフとして俳句甲子園に関わりたいと思っています。
来年の開成Bチームや後輩たちの活躍も楽しみですが、試合の勝敗との直接的な関係がなくなった来年は、もっともっと素直に各学校の俳句を楽しめそうで今からわくわくしています。
俳句、ラブ!そして、俳句をもっと好きになるきっかけを与えてくれた俳句甲子園、ラブ!
白亜紀の尾びれを揺らす熱帯魚 田中志保里
転んだあとの膝は白くて花蜜柑 今泉礼奈
独白や簾越しなる川明かり 上田悠里衣
黒服の遠き連なり毛虫焼く 植松彩佳
白衣着崩す夏痩せの男かな 山内優奈
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高校生たちの俳句甲子園 福井蒼平
【高校生たちの俳句甲子園】
俳句の魅力の旅~二日間、愛媛にて
福井蒼平
『朝顔やそうだ家出をしてみよう』
この句は、私達水沢高校が決勝リーグで対戦させていただいた愛媛県立今治西高校の方の句で、私が二日間の俳句甲子園で、最も印象に残った句である。
この句の景は、家庭内で喧嘩をし、一晩たった次の日の朝、一番に咲く朝顔をみて、『そうだ、家出を』と思いたつ事なのだと思う。
家出、という重いイメージに朝顔、という爽やかなイメージは一見そぐわない感じだが、この句では逆にすっきりまとまっており、又似つかわしい。
なんとなく夏の冒険を想起させ、家出から帰ってくるころには、作者は何かを得て帰ってくるのだろう。
一目見て凄い、と感じた句であった。
今回の大会で、改めて俳句は素晴らしいなぁと感じたが、その背景にはやはり、多種多様な人間の性格、物事の捉え方があるからなのだと思う。
そして、他の誰かがいるから俳句は楽しいものなのであり、好きになっていくのだと私は感じた。
多くの事を学ぶことができた大会であった。
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高校生たちの俳句甲子園 山口萌人
【高校生たちの俳句甲子園】
選手が見た、俳句甲子園
山口萌人
俳句甲子園から帰宅して三日と経たないうちに、「今大会で出会った素敵な俳句あるいは素晴らしい人物」について書かないか、というお話を頂いた。
記憶が新しいうちに書き残そうと写真などを整理したが、「素晴らしい人物」はあまりにも多く、若輩の自分には到底書くだけの力も見識も器もない。そこで、取りあえず「素敵な俳句」の講評だけやらせて頂こうと決めた。これから、若輩なりに印象に残った句の感想と、その句を見たときに思ったことを、少しずつ書こうと思う。
マツヤマ。俳句を始めるまでは、決して意識することのなかった町。東京よりもひっきりなしに蝉が鳴いていて、空はとっても広くって、雲がたっぷりと峰の形に育つ町。その町で出会った素晴らしい俳句と、素晴らしい人たちのことを少しでも伝えられたなら、書いた意味があるというものだ。
遠雷や角張ってゐる保健室
うん、これは保健室だよなあ、と思わず膝を打った。小学生の頃などは、あの白い棚に仕舞われている器具の一つ一つの鈍光が、どうしようもなく恐ろしく感じたものだ。そして、この句ではそれを直接言わずに、部屋全体が「角張って」いるという。その発想こそが、この句の眼目であろう。
壁の白さも、そのせいで黒々と際立って見える壁と天井を隔てる一筋の線も、みな恐ろしい。雷が近づいて来るときの、気温の何となく入れ替わったような感じも、この不穏さを支援している。
――作者は、山内佳織さん(下館第一高校)。
遠雷や扉冷えたる礼拝堂
学校や病院に敷設された、チャペルのようなものであろうか。正面にどっしりと構えた扉は、高さも幅もあってにわかには開け難い。大きなところだと、横にある通用門を使って入ったりする。その凛とした佇まいは、遠雷の聞こえてくるような空模様の中で、一層際立って見えるだろう。
〈祇王寺の留守の扉や押せば開く 虚子〉などという雰囲気とは全く違った様子が、この句からは直感的に伝わってくる。この人物は何をしに来たのか。懺悔か、弔問か。いずれにせよ、心中穏やかではないと思われる。その感情の乱れや雷のときの空気感、そういったものがこの「冷え」という皮膚感覚に集約されているのだろう。
――作者は、島田瞳さん(下館第一)。
たそがれや想い隠せる夏帽子
俳句を始めて一ヶ月くらい経った頃、ある方に「時間設定の言葉は、句を甘くする」と言われたことがある。しかし、この句ではどうだろう。あたりが暗くなって、食卓にはさっき帰ってきたばかりの人の夏帽子が放っておかれている。夏帽子のあの簡単には潰れない大きさ・かさが、そして帽子の中の闇が、作者が誰かに抱えている恋慕の情の大きさをどこかで示唆しているようにも読むことができる。
どことなく悲恋めいたものを感じるのは、「たそがれ」のお陰ではないだろうか。
――作者は、野瀬瑞季さん(旭川東)。
夏帽子宙返りして空の青
爽快な句である。風に飛ばされていく夏帽子が、青空まで届き、同時に帽子がくるっと一回転したのだろうか。それとも鉄棒の逆上がりの景であろうか。何にせよ、空を最初に見たときに感じるのは、「深い」でも「今にも自分が落ちてゆきそう」でも「今日の昼飯は天麩羅うどんにしよう」でもなく、ただただ「青い」ことである。その嘘のない読みぶりは、夏帽子という季語と相まって、この非常に気分の良い、動的な一句を形成している。
――作者は、三島枝里子さん(旭川東)。
朝顔の咲きて地球の自転せり
一瞬、ただの大袈裟なドグマのように聞こえるこの一節。しかしそれだけであろうか。少し考えると、朝顔の花のまるさ、蔓の巻き方、そういったものが、どこか地球の自転を思わせてくれる。
そしてこの句ではどこにでもある市井の花・朝顔からそれを感じたところに、不思議な魅力があると言っていい。朝顔が咲いたという何気ない日常から、一日のサイクル、そして宇宙のサイクルまで読みを広げる力は、朝顔が上に上にと伸びようとするその勢いと、どことなく通ずるものがある。
――作者は、宮下樹さん(宇和島東)。
朝顔の種や考古学者の指
コウコガクシャ。どんな人を思うだろう、どんな手を思うだろう。
その指については何一つ描写されていないのだけれど、言葉の響き、ぶつかり合いからどことなく見えてきそうだ。がっしりとした手、膨れた指の関節。その上に朝顔の種が、一つ。
何だかその朝顔の種までもが、高尚な、すごくありがたみのあるもののような気がしてくるのだ。
――作者は、岡村瞳さん(宇和島東)。
晩夏なり空中ブランコの無人
最後にサーカスを見に行ったのは何年前だろう。その時に見た空中ブランコは、踊り子の重みで何度も運動し、そこに人が飛び移る度に、不安定に揺れた。あれが失敗したらどうなるんだろう、と不安半分、怖いもの見たさ半分で目を凝らしていた自分を思い出した。
ここで詠まれている空中ブランコは、そういった熱気と歓声に包まれたものではない。興行が終わった後の、静まりかえったテントの中には、だらりとくたびれた空中ブランコが吊るされている。熱気の裏にある静けさ、華の裏にある影のようなもの、であろうか。それが「終わり」というものを強く意識させる。
句形を崩してでも晩夏を上五に置いた効果。それは「サーカスが夏に来て、じきに去って行ったから」というだけのことではなく、この哀れな空中ブランコを、汗をかき終わった後のようなどこか明るいイメージで救ってやることにある。
――作者は、田中志保里さん(松山西)。
油絵の星カンバスを出る晩夏
絵を見るのが好きだ。しかし描く方はサッパリである。真白のままのカンバス、というものを見たことすらない。だから、この句に出てくる油絵が、どのくらい描き上がったものかは分からない。乾かしているのだろうか、それとも完成したものが飾られているのだろうか。
今にも沸き立ちそうな星のイメージ。僕は、いつか見た一枚の絵を思い出した。美術展で見た、ゴッホの『星月夜』である。初めてあの絵を見たとき、糸杉のある風景に散りばめられた山吹色が、今にも絵からはみ出しそうだと思ったのを覚えている。
この句で絵描きはどんな星を、どんな景色の中に描いたのだろう。それはどんな景色の中であったとしても、夏を引きとめておきたい、形としてとどめておきたい、という作者の「夏惜しむ」心の表れに他ならない。
――作者は、植松彩佳さん(松山西)。
もっとたくさんの句の鑑賞を書きたかったのだが、生憎自分の対戦してきた学校の句しか覚えていない。そのため、この企画では自分の所属した開成Bチームと対戦し、縁のあった方(準決勝の対戦相手・開成Aは、部活の練習の時点で対戦句を知っていたので割愛)を中心に書かせていただいた。こういった機会に恵まれたことに、感謝の念が絶えない。
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