2010-06-27

テン年代の俳句はこうなる──私家版「ゼロ年代の俳句100句」解説篇 上田信治

テン年代の俳句はこうなる
私家版「ゼロ年代の俳句100句」─解説篇 

上田信治

「ゼロ年代の俳句100句」─作品篇─ ≫読む


どういうわけか、「100句選」バトンのようなものが、「現代詩手帖」2010年6月号・髙柳克弘選「ゼロ年代の100句」→「豈weekly」2010年6月6日号高山れおな選「「ゼロ年代の俳句100選」をチューンナップする」と回っていて、次は筆者(上田)が、ということになっていました。

なんとか並べ終えたので、お目にかけます。



ゼロ年代(2000~2009)の代表作品集=年代記を作ってもあまり面白くなさそうだったので、むしろ、今後10年(テン年代ともいう)の俳句の行く先を、過去10年の作品をして語らせたいと考えました。

まず思い浮かぶ作者と作品を挙げてみたところ、近しい同士で寄り集まって、いくつかの作品傾向が見えてきました。そこで、それをざっくり5つに項目立てし、さらにそれぞれの傾向を代表すると思われた作者&作品を充当していきました。

項目と作品によって、これからしばらくの俳句が向かいそうな先を、なんとなくでも示すことができれば──と、予想屋の気分で願っています。

言うまでもなく、これは恣意的人選・作品選ですが、髙柳選の作者数が66人(うち物故者9人)であるのを見ても、俳句の人手不足傾向は明らかで、結果「この一句なら」というかたちでの動員があったことも告白しておきます。

配列は、編年ではなくふんいき重視。制作年、発表年はややアバウト。資料としてより、作品と心意気を見てほしい。

さて。


◆過去志向=擬古典 ロマン主義 ノスタルジー 反時代性

1から15が第一のブロックで、「過去志向」と名付けました。

現代にはっきり背を向けて、はじめて、俳句には「偉大さ」へ通じる道が開ける──これは直感です。

大家の堂々たる書きぶりと、時代と併走「も」できる作家(5.櫂 6.小澤 7.高山)が現代性を振り捨てて向かう先は、どう見ても一つではないか、と。

1.宇多喜代子  甕底にまだ水のある夕焼かな
2.眞鍋呉夫   銀の鰭ひしめき遡る良夜かな
3.八田木枯   獅子の笛ながれてひるの刻くづれ
4.高橋睦郎   しわしわと打つ柏手や山始
5.櫂未知子   海流のぶつかる匂ひ帰り花
6.小澤實    熊が肉(しし)猿(ましら)が肉(しし)と一包み
7.高山れおな  枯ラ山のあかるき瑟(こと)は並び鼓(ひ)く

また、私見ではありますが、現代において、季語・季題を、本気で、作品を基礎づける「価値」として扱うことは、「ロマン主義」的情熱に他ならない。

──ここでいう「ロマン主義」というのは、自己流の用語で「過去に素晴らしい世界があったということを仮構して、それを想像力によって回復しようとする意志」というくらいの意味ですが(現代における花鳥諷詠?)、そういった伝統的表現は、ユートピアへ向かって夢見がちであるとき、もっとも飛距離が出るように思われます。

8.本井英  ごきぶりの世や王もなく臣もなく
9.日原傅  サーファーに今日はよき波雛祭
10.藺草慶子  枯草のつきたる象の睫毛かな
11.対中いずみ 木の橋のかわききつたる朝寝かな
12.石嶌岳  ほうほうと花の奈落をあるきけり

13.髙柳は、近代文学的「青春」を演じ、14.齋藤は、ひょうひょうと俳句の国(落語国と近似)に遊び、15.藤田が志向する「上手さ」もまた、じつに反時代的。

13.髙柳克弘  うみどりのみなましろなる帰省かな
14.齋藤朝比古 借り物のやうに線香花火持つ
15.藤田哲史  花過の海老の素揚にさつとしほ

「同時代性」「現代性」を、意識的に作品から排除することは、今後も、俳句の一方のトレンドであり続けるでしょう。


◆超越志向=強度重視 精神世界 「前衛俳句」的

第二のブロック、16~35の20句の傾向は、要するに「れおなさんぽい」。

というのは冗談ですが、この20年の俳句の支配的思潮は「虚子に還れ」だった。しかし、その思潮の初期衝動はそろそろ尽きて、不毛に陥りつつある……のかもしれない。

とすれば、今後10年20年のやるべきことは、「虚子に還れ」思潮の仮想敵でもあったろう「前衛」的表現の側にこそ残されている……のかもしれない。

16.小川双々子 蠅叩き金輪際を打ちにけり
17.安井浩司  万物は去りゆけどまた青物屋 
18.宗田安正  水なりと突然椿のつぶやけり
21.竹中宏   上下に抽斗左右に抽斗ナイアガラ
24.髙野ムツオ 洪水の光に生れぬ蠅の王 

「超越」性を志向するか否か、という観点から見れば、前衛ー伝統という対立軸は、意味をなさなかったりしますし。

19.田中裕明  大半の月光踏めば水でないか
20.中田剛   うづくまる兎にはとり露の中
22.相子智恵  富士壺の口寒月の照らしをり
23.山西雅子  蝌蚪口をひらく一身うちふるひ
29.男波弘志  鰺の群れ色を変へたる涅槃かな

これからは、ある種のハイブリッドと言いますか「伝統的な表現の中の超越性、精神性」。あるいはその逆に「前衛的な表現の中の共感性、笑い、青春性」といったものに、スポットが当たっていくような気がします。

28.佐山哲郎  雪しまくあの世に尻のあるごとく
30.五島高資  顔洗う手に目玉あり原爆忌
31.関悦史   独楽澄むや《現実界(レエル)》の他に俳句なし
32.冨田拓也  木の中のやはらかき虫雪降れり
33.中村安伸  銀杏の虎視眈々と落ちるなり
34.田島健一  翡翠の記録しんじつ詩の長さ
35.青山茂根  バビロンへ行かう風信子咲いたなら


◆表面性=内面・物語の拒否/崩壊 ミニマリズム 超ただごと 遊戯性

36~53の18句は、筆者(上田)にとっての俳句の本丸、居住地に当たります。前項のつづきでいえば、それは「虚子に還れ」思潮の、あまり実現されていない可能性であり「まだない」という意味で同時代的であると考えました。

俳句はその半分以上が形式なので、うまくすれば、ほとんど何も書かずにすますことができる。そして、ほとんど何も書かないという書き方で、書けるものがある。

それはたとえば、なにか美しいものであったり。

36.岸本尚毅  月光はとめどなけれど流れ星
37.髙柳克弘  あぢさゐや日はいちにちを水の上
38.奥坂まや  しやぼん玉割れて葉書を濡らしけり
39.依光陽子  風船の欠片は灼けて空しづか
40.まり    水仙や空気そもそも光るもの
43.鳥居真里子 のりしろや春は名のみの貝の舌

意味のなさ自体の手触りであったり、遊戯の楽しみであったり。

41.筑紫磐井  来たことも見たこともなき宇都宮
42.鳴戸七菜  平目より鰈が好きでよい奥さん
44.永末恵子  足音をあつめオナモミばかりなり
45.山根真矢  冬の雨鬱の字に似てマンドリル
46.山口珠央  海底は牡蠣でいつぱいダリとガラ
47.嵯峨根鈴子 にはとりに弥生の空の空いてをり

ほんとうに、あまり何もないので。
   
48.寺澤一雄  白菜がキムチになって家にあり
49.鈴木章和  梅雨の雷甘酢でしめてゐる途中
50.鴇田智哉  雉鳴くとトタンの板が出てをりぬ
51.小倉喜郎  空梅雨や向き合っているパイプ椅子
52.山口東人  加湿器を平和島まで運ぶ人
53.今井杏太郎 釣船の置かれてゐたる干潟かな

見る側の体調によっては、ほとんど宗教的といえるような感情が惹起される。つまり、場合によっては、超越性と表面性は両立するということです。

体調にもよりますが。


◆私性=ノーバディな私による「私」語り

第四の項目は32句、今回の100句のボリュームゾーンです。

選定の作業は「10年分の年鑑をざっと読む→時代性を感じる作者・作品を俳句文学館などでチェック→集めて考える→範囲を拡げてチェック」というふうに進めました。

そしてここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。

じつは俳句には、短歌よりもずっと無審査な状態で、「私」がするっと成立してしまって「お前誰や?」と言われずにすんでいるようなところがある。

俳句というものは、しばしば詠み人知らず(要らず)の、民芸のような骨董のような、受容のされ方をするようです。

55.池田の戦争についての句、59.正木の口語表現の句を、同じ「私」語りの項目に入れていることが、今回、リスト作成者としての自分が「見てここ」と言いたいところです。

55.池田澄子  泉ありピカドンを子に説明す
56.柚木紀子  石投げて貌うらがへる泉かな
57.中原幸子  ザ噴水やるときはやるときもある
58.水野真由美 八月の橋を描く子に水渡す
59.正木ゆう子 太陽のうんこのやうに春の島
60.石田郷子  掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ
65.中西夕紀  いなり寿司百個のにほふ海の家
66.杉山久子  掃除機は立たせて仕舞ふ鳥雲に

伝統的に女性の実力作者の作品には、強い「私」性があるように思われ。
   
61.今井杏太郎 東京をあるいてメリークリスマス
62.坪内稔典  友情はメロンパンだよ嵐山
63.行方克己  皿ふたつそらまめとそらまめの皮
64.今井聖   夏逝くや勝利のごとくブラ干され

しかし男性作者の「私」の脳天気さにも、味わいがある。
     
67.柴田千晶  全人類を罵倒し赤き毛皮行く
68.北大路翼  告白は嘔吐のごとし雪解川
69.榮猿丸   受話器冷たしピザの生地うすくせよ
70.神野紗希  ヒーターの中にくるしい水の音
71.谷雄介   人身事故あり荻窪は雪降りをり
72.矢口晃   目高飼ふ妻の時給の上がりけり

この一連の切迫感(71.谷と72.矢口は、どこまで本気か分からないのが持ち味ですが)。

54.森賀まり  ぽつとある注射の跡や秋の暮
73.小川軽舟  蝸牛やごはん残さず人殺めず
74.中岡毅雄  雪の日のそれはちひさなラシャ鋏
75.加藤かな文 雀来る小さな日向はうれん草
76.後閑達雄  冷蔵庫まづは卵を並べけり
77.金原知典  昼過ぎの明るさかなし冬に入る
78.村上鞆彦  枯蟷螂人間をなつかしく見る

この一連の、消え入りそうであることで、逆にぎりぎりの個の存在を主張するような「私」は、やはり平成の俳句の成果であろうと思われます。
   
79.南十二国  十年後町はなに色チューリップ
80.越智友亮  今日は晴れトマトおいしいとか言って
81.小林貴子  扇風機好き好き好きと押し倒し

この明るさは「天然」なのだろうか。いや、作者が作中で「天然」を演じることに、作品的手応えを得て、これらの句は成立しているはず。

82.大本義幸  海をてらす雷よくるしめ少年はいつもそう
83.小澤實   涙目の鹿の角切るずいずい切る
84.ことり   律儀な窓だよ触れれば冷たくて
85.佐藤文香  風はもう冷たくない乾いてもいない

そして、短歌における私がおそらくそうであるように、修辞に刻印された個有性によって「他の誰でもない私」を現出してしまう作家もいる。

向こう10年、俳句における「私」は、たまたま私たちが得た作者次第で、さらに多様な現れかたをするでしょう、と、これは、間違いようがない言い方に過ぎませんが。


◆説話・寓話性=一回転した内面 一回転した物語性 

最後の15句。

そこに書かれていることではなく、それを書いたことによって、なにか新しい、未知の文脈が発生していると感じられるような。

なにか大切な「知らせ」が、こちらに伝わる前に、それについての「うわさ」や「たとえ話」が先に到着してしまうような、そのような作品の状態を、仮に「説話・寓話性」と呼びました。

私たちの時代の俳句は、やはりじゅうぶんに深く高くあってほしいと思う。

深いもの高いものを書くために、直接それを書いても、なかなかうまくいかないので、それぞれあさっての方向に走り出し、(一回転した上で)思わぬかたちで再会を果たすというのが、理想的展開なのではないか、と。

自分にとって「名句」感のある句ばかり。

86.金子兜太  おおかみに蛍がひとつ付いていた
87.阿部完市  空豆空色負けるということ
88.大牧広   夏の少女が生態系を乱すなり
89.田中裕明  空へゆく階段のなし稲の花
90.小原啄葉  海鼠切り元のかたちに寄せてある
91.池田澄子   枯園でなくした鈴よ永久に鈴
92.柿本多映  花影や石工は石を横にする
93.山本紫黄  水無月や地球に生まれ傘をさす
94.大木あまり 野遊びのやうにみんなで空を見て
95.岩淵喜代子 盆踊り人に生まれて手をたたく
96.桑原三郎  秋風や並んで足のない写真
97.あざ蓉子  鶏の手のないことも晩夏かな
98.山尾玉藻  六月の暦の裏のつめたかり
99.満田春日  ひとつづつ玩具の減りぬ鰯雲
100.岸本尚毅  深淵に浮いて平たき蛙かな


以上、94人の作家の100句を挙げさせてもらいました。

そして、ここから10年、もっと? お楽しみはこれからです。

今回の機会を(結果的に)与えてくれた、髙柳さんと高山さんに、あらため敬意を示すと共に、御礼を申し上げたい。

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