2010-08-22

『別冊俳句 俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園』 「卒業生新作8句競詠」を読む(上) 生駒大祐・藤田哲史

『別冊俳句 俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園』
「卒業生新作8句競詠」を読む
(上)

生駒大祐藤田哲史



生駒大祐(以下): こんにちは。

藤田哲史(以下): ども、こんにちは。

I: 今回は『別冊俳句 俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園』の中から「卒業生新作8句競詠」を読んでいきたいと思います。

F: はい。

I: これはその名の通り俳句甲子園に出場経験のあるOBOGの新作俳句が8句ずつ掲載されているというもので人数は21人です。今回はわれわれを除いた19人の作品について議論していきたいと思います。

F: あの、本誌に掲載された順番でなくて、見通しが良いように年齢順に読んでいきたいんですけど、いいですか。

I: はい。ほぼ句歴の長さ順となるでしょうから。では、ひとまず作者を年齢順に並べてみましょう。

・森川大和(82年生)
・山澤香奈(83)
・神野紗希(83)
・谷 雄介(85)
・佐藤文香(85)
・山口優夢(85)
・酒井俊祐(86)
・宮嶋梓帆(86)
・熊倉仔房(86)
・生駒大祐(87)
・佐々木歩(87)
・高島春佳(87)
・藤田哲史(87)
・川又 夕(87)
・宇都宮渉(89)
・本多秀光(89)
・村越 敦(90)
・中島 強(90)
・中川優香(91)
・島袋 愛(91)
・越智友亮(91)

F: 最優秀賞を受賞した方が中心になってますね。あとは、各大会をディベートで賑わせたような方とか?

I:
年齢的にもあまり偏らずに選ばれているということになるようです。第7回大会(2010年は第13回)に出場した僕たちはほぼ中間にいることになります。では、始めて行きましょう。



「面談記録」   森川大和

F: 教師生活から取材した作品が多いかもしれない。

I: そうですね。しかし教師と言っても青春性を強くまとった句が多いように見えます。

F: つまり、生徒たちを愛している感じ。

I: 『ヤマト19』の頃からの、身辺から取材しつつも主観の良く出た句が多い印象です。

F: 言葉に憧れているというか、「ウィットを効かせよう」という姿勢が感じられます。

I: 比喩的な表現が多いのもそのせいでしょうか?

F: だと思っています。一句選ぶとすると、

 卯月浪黒板を打つように書く

I: その句の浪と黒板はどのくらいの距離感なのでしょうね。海沿いの学校なのでしょうか。

F: そうですね。窓開け放しの感じじゃないですか、たぶん。

I: なるほど。それなら景が見えてきます。

F: チョークの筆圧が強い、はつらつとした感じ。題材を主体が取り込んでしまっている。森川さんはその主体が強みですから。

I: そうですね。主体がよい方にでた句です。僕は

 累々と陀羅尼のなかを飛ぶ燕

をいただきました。おそらく本領とは違うところにあるのでしょうが。フジタとは違い実と虚の中間の風景をいただきました。これが心象風景に一番近いのではないかと。

F: 「陀羅尼」の句は「累々と」がどこに掛かっているのか曖昧だったかな。

I: 僕は燕に掛かると取って、「累々と陀羅尼の中を」までのどろどろした感じから「燕」の軽やかさに転換させて落とし込んで行くところが好きでした。



「春満月の歌」   山澤香奈

I: これも身辺から、というより本人の出産と育児そのものを題材にした連作ですね。この21人の中で吾子俳句はこの方のみなので新鮮ですね。

F: 山澤さんは口語に拘っているのかな。

I: そうですね。口語が無理なく韻文に収まっている。

F: 一句挙げるなら

 ちゃんちゃんこ着せて日本の子であった

I: 僕はその句はすっと入ってきませんでした。「て」の作用で、着せる前は日本の子かどうか分からなかった様に思えてしまう。ちゃんと読めば分かるのですが。どういう点が良かったですか?

F: 円満な感じ。五体満足に生まれてきた子供です。出産の喜び。

I: 確かに、高らかに明るい感じが出ていますね。

F: 深読みせずに「日の本」の字面の印象で読ませるのかな、と。

I: なるほど。しかしそれなら僕はニホンよりもニッポンと読みたいので、「ちゃんちゃんこ着せ日本の子であった」の方が気持ちがいいです。

F: 同意。

I: 僕が一句とるなら

 立秋や乳房は重し子も重し

でした。吾子俳句は苦手なので、子供を他者として扱っている。しかし想いは感じ取れる。その二点を両立させている句を取りました。

F: 形容詞の終止形を二度使うなら、「立秋の」くらいにとどめたいな、という感じ。文法的に切れすぎの印象ではない?

I: 「乳房は重し子も重し」が口で呟いているような詠みぶりなので、「立秋や『乳房は重し子も重し』」という感じで、切れは弱く感じられるのではないかと思います。



「プールサイド」   神野紗希

F: 作品を多方面で見ているので、それらしい感じはするんだけど・・・。

I: はい。素直に上手いと思える句が並んでいます。しかし、上手い句ばかりが並ぶと往々にして全体の印象が薄くなってしまうのですが・・・。

F: 本くらくノートあかるく夏の暮〉の形容詞の使い方は、紗希さんらしい。あえて形容詞で「ぼかす」ことで、やわらかい感じ、モチーフの雰囲気だけを取り出してくる技を使っている。反面、焦点を結びにくいけれども。

I: 僕は若手の句として〈少女寝て人形起きている朧(高柳克弘)〉と〈材木は木よりあかるし春の風(山口優夢)〉をちょっと連想しました。

F: けど、一句選ぶなら

 夏雲やエスカレーターの仕組み謎

ですね。

I: うーん、実はそれ、あまりいただけなかった。

F: エスカレーターの仕組みを疑問にしながら、それ以上は考えない思考回路。それって誰にでもあることなのだけれど。ペーソスが効いてます。夏雲の白さが、逆に邪気を孕んでいる。

I: 僕は「エスカレーターの仕組み謎」が放り投げすぎていると思いました。「謎」まで言う必要があるのか。「エスカレーターの仕組みや夏の雲」ぐらいでいいのでは。

F: この助詞の省き方と、リズムのつんのめり、テキトー感は、成功していると思うけどな。

I: じゃあ「の」がいらないかな。「夏雲やエスカレーター仕組み謎」

F:それだと、ポキポキ。

I: そうですか。うーん。僕は

 水しぶきプールサイドの新聞に

を取りました。 新聞の安っぽい紙質がよいです。

F: 「新聞へ」だと動きがあるけど、「に」だと跳ねたのか、付着しているのか、曖昧だな。

I: 僕は、「水しぶき」でいったん水しぶきの形を見せておいて、間があって新聞に染みが広がって行く。その感じだと思いました。

F: 瞬間性に乏しくて、空間把握にあっちこっち視線がうごかされて。ちょっと疲れる。

I: たぶん「水しぶき」が限りなく動詞に近いんだと思います。「水しぶく」の活用形のぐらいの。

F: 「水跳ねて」じゃダメなのか、ってことになりますよ。

I: それは駄目ですね。好みの問題かもしれませんが。〈夏の朝記憶喪失の隕石〉なんかどうですか。紗希さんの狙っているところに近いと思いますが。

F: 隕石は記憶をたくさん持ってますからね。科学的情報を。

I: いや、記憶喪失ってのは、記憶を脳に蓄えているんだけどそれが自分では分かってない状態ですので。隕石がただの石に見えて、しかしメモリーを持っているというのはまさに記憶喪失ですよ。

F: 漫画家の和月伸宏に「メテオストライク」って作品があって、隕石が登校途中の主人公の頭に突き刺さっちゃう設定で。

I: はい?

F: ま、ともかく。憧れ要素で完結しちゃってて。自信をもって推せる句ではなかったです。

I: 擬人法の甘さを「夏の朝」が上手く消せていると思いました。



「猿について」   谷雄介

F: 難解でした。

I: 僕はかなりツボでした。

F: 特にどのあたりが?

I:

 猿を押し倒し西暦を教へけり
 猿同士顔は違へどこころはひとつ
 落ちていく猿を見てゐる猿のむれ

あたりですね。 文脈上は完全に猿が猿以外のものと置換可能で、しかし詩としては猿がぴったりはまっているところが面白い。しかも連作として、猿が次第に消えて行くじゃないですか。それと猿がゲシュタルト崩壊して脳からも消える。それも狙いなんじゃないかな。

F: 自分、そういうのに乗れなかったんです。具体性を剥奪された言葉が直接脳味噌に侵入してくるんですが、なかなかそれらが作品として定着しなかったですね。意味性を適度に落とした言葉のバランスって初見のインパクトはあるんだけど、第一義がどうもしっかりしていないからどうしても見かけ倒しという判断を下してしまいますね。

I: 第一義とは?

F: 「猿以外のものと文脈上は置換可能」である点。どれでもよいのですが、たとえば〈落ちていく猿を見ている猿のむれ〉の思考構造は、〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉とほとんど変わらないのではないか。重力に従って落下していくものを無感動に傍観している点、(読み手からすると残虐性という点)は変わらない。

I: それは確かに変わらないと思います。ただ、今回は完全にまさにそれの「ずらし」ですよね。

F: 更に、その「ずらし」を読み手の実体験に沿わせてくれない場所に持っていってしまう。

I: 「川を見る」場合はバナナと川の取り合わせに説得力があり、句としてまとまっている。一方で猿は同じ構造をとりながらも猿に実効力はまるでない。連作だからこそとここで猿を意識の中で排除することができて、すると構造のみがあらわになる。「落ちて行くものを見ている」系俳句には例えば、桂信子の〈蝸牛まひるの崖をころげ落つ〉などがありますが…

F: 桂信子の句を引用するにはモチーフの象徴性の度合いが全く違いますよ。

I: それらがあることを踏まえて「落ちていくものを見ている」系俳句のもっとも純粋なものを考える。この句では「落ちるもの=猿」、「見るもの=猿」で、どちらにも無名性、無意味性が付与されている。これこそが構造のみの俳句、純粋な俳句ではないかと。

F: 純粋な俳句ではないんじゃない?無意味性を強くすると、読み手は勝手に補完して詩的に感じようとする。そのトリックに騙されていやしないか、と不安になる。

I: 詩はないです。あるのは構造とパロディだけ。それが痛快だと言うのです。

F: うーん。あまり快くなかったですね。



「須磨の巻」   佐藤文香

F: 168句のうちで最も

 須磨浦へ出でよフライドポテトの香

がよかったかな。

I:
「須磨浦」は良かったですね。

F: 「源氏物語」と「マクドナルド」の邂逅が、ポスト「ポストモダン」な感じがする。あとは、

 棒が星つらぬくメリーゴーラウンド

とか。無季なんですけど。どちらも。

I: 『海藻標本』の「褐」の章では、和歌的世界の取り込みが行われていたんですけど、今回のようにポストモダンと取り合わせた句はなかった。世界は和歌と旧来の俳句とモダンによるものだったように思います。

F: 芝不器男新人賞奨励賞のときから、文学作品の名前を導入するっていう手法はあったんですよね。もう、4年前で。「源氏物語」の世界を援用しながら、大学生が車で浜辺にやってきてフライドポテトを食べるという現実と繋がっている。つまり、自在さがレベルアップしている。

I: 僕が一句とるなら「須磨浦へ」でなければ「棒が星」でしょうか。この無季は成功していると思います。もちろん虚子も連想させつつ、ここで作者はおそらくメリーゴーラウンドに新奇性も郷愁も感じていない。「単なる事実の報告」にあえて留まっている。そこがいい。



「東京タワーなんて」   山口優夢

I: 前半が良かったですね。「わたくしの中の水からくりがだるい」「ひらがなのやうにねじれて夫人の夏」「月光の中の手首を見てをりぬ」と始まっています。全体として抽象性の高い句群で、ロマンティシズムを強く感じました。一句とるなら

 ひらがなのやにねじれて夫人の夏

F: 同じくです。

I: こういう「対象をはっきり言わない」系の俳句は普通は駄目なんですが、ひらがな全体が共通して持つ「くずれ」みたいなものを「夫人」が持つというのは面白い。奔放かつ表現としては微かなエロティシズムですね。

F: 坪内稔典さんの〈N婦人ふわりと夏の脚を組む〉よりずっと抽象的。景色はほとんど同じなんだろうけど。しかも、ひらがなって別にねじれていないのね。略してはいるけど。

I: くずし字で書くとねじれている感じが出ないかな。

F: エロティシズムは山口優夢さんの創作意欲がいちばん強いところというか、角川俳句賞の予選通過作品より、ずっとらしい感じがしました。



「前頭葉」   酒井俊祐

I: 普通な句と個性が強く出た句が混在していますね。

F: いつも迷うんですが、この「言葉が練れていない」感を是とするか、非とするかで決まってしまうと思う。

I: 僕の場合「普通」の句の場合練れていない感はマイナスです。〈初句会机の方が多き部屋〉は机が何より多いのか。

F: そう、ちょっと情報が少ない感じがする。

I: 一方で〈教室に相撲雑誌の子の記憶〉なんかは意味が一読非常に取りづらいんだけども、雰囲気が面白いのでこれは言い切ってしまうと逆に悪くなるかもしれない。

F: 花片や警笛もなく軽トラック〉とか〈なにものも触れぬ心地や冬野原〉とか、否定の意味を出して、しかも逆説的に情報を絞っているふうでもないんですよね。そこのフラット感が逆に独特さを出してもいるんですけど。

I: 従来の俳句にない面白いことをやろうとしているのはよく伝わります。今回の中では

 短き夜区画なくロックフェスティバル

が一番成功ではないですか。本意ではないかもしれませんが。

F: 僕もそれがいちばんよかった。



「描く」   宮嶋梓帆

F: 表題句がよかった。

 アイスキャンデーの棒もて描く未来都市

I: アイスキャンデーの句は良かったですけど、ちょっとイノセントすぎるかなという感じがしました。

F: 自分なら「アイスキャンデーの棒もて描く筑波研究学園都市」にします。

I: (笑)。それならたしかにイノセントではない。

F: もっとも言葉に無駄がなかった。イコマはどうですか。

I: 自分は

 囀と目覚めるまでのくらやみと

が良かったですね。

F: 「囀⇔目覚めるまでのくらやみ」という図式ですか。囀の季語らしさがなくって、ちょっともったいないかなと思ったんです。

I: 囀が外にあって、人が眠っている暗闇が内にある。その対比ですね。

F: 朝の目覚めって思えば、当たりまえすぎちゃうのかなって。

I: 「目覚めるまでのくらやみ」が、当たり前のようで不思議です。目を瞑っていることによる暗闇なのでしょうが、寝ている間はそれを知覚することはできない。つまり作者は囀りと眠っている人を俯瞰していることになる。その視点が変わっていて好きでした。結構不思議な句が多いですね。風邪引いてるのに用事無くデパートに来たり、無意識をアスパラに例えたり(〈デパートに来て用事なし春の風邪〉〈無意識がアスパラガスのようにある〉)。反面普通過ぎる句も。

F: 「アスパラガス」の句は気になります。

I: 大いに気になりますね。強く共感出来るかと言われれば難しいですが。



「春」   熊倉仔房

I: 花鳥諷詠をやられている感じがしました。

F: 言葉の運用の仕方が結構山口優夢さんぽいと思ってしまった。ずっと整っていますけど。

I: でもちょっと言いきれていない感じもあって、〈早々と友はあがりて鼓草〉〈それぞれに模様を持ちて汐干狩〉はちょっと上五中七で省略しすぎでないかと。
僕は優夢さんとはかなり遠いと思いました。お互いが一般受けする句をあえて作ったときにのみ交錯するんではないかな。本領は違うと思う。

F: たしかに熊倉さんは「雅」をきちんと描こうとしています。知性がうまくはたらいている感じがします。

I: 雁風呂やピリオド打たぬままの稿〉の「雁風呂」の斡旋なんかを見るとそう思いますね。

F: 雁風呂という季語は、自分は手が届かないです。

I: 同じく。歴史を背負った季語と日常性の邂逅という点で俳句甲子園の一側面を表している気がします。一句取るなら

 ぬかりなくふちどられたるつつじかな

「ぬかりなく」を良いと思うか臭いと思うかは分かれるでしょうが。

F: 自分ならば

 出過ぎぬやう出遅れぬやう土筆かな

慣用句を生かしている。これは、21人の中ではめずらしい。このニュアンスを持ってくるのは大人ですよ。

I: 確かに21人の中では珍しい作風だと思います。ある意味最右翼ですね。

(後編につづく)

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