2010-08-22

高校生たちの俳句甲子園 山口萌人

【高校生たちの俳句甲子園】
選手が見た、俳句甲子園

山口萌人



俳句甲子園から帰宅して三日と経たないうちに、「今大会で出会った素敵な俳句あるいは素晴らしい人物」について書かないか、というお話を頂いた。

記憶が新しいうちに書き残そうと写真などを整理したが、「素晴らしい人物」はあまりにも多く、若輩の自分には到底書くだけの力も見識も器もない。そこで、取りあえず「素敵な俳句」の講評だけやらせて頂こうと決めた。これから、若輩なりに印象に残った句の感想と、その句を見たときに思ったことを、少しずつ書こうと思う。

マツヤマ。俳句を始めるまでは、決して意識することのなかった町。東京よりもひっきりなしに蝉が鳴いていて、空はとっても広くって、雲がたっぷりと峰の形に育つ町。その町で出会った素晴らしい俳句と、素晴らしい人たちのことを少しでも伝えられたなら、書いた意味があるというものだ。


遠雷や角張ってゐる保健室

うん、これは保健室だよなあ、と思わず膝を打った。小学生の頃などは、あの白い棚に仕舞われている器具の一つ一つの鈍光が、どうしようもなく恐ろしく感じたものだ。そして、この句ではそれを直接言わずに、部屋全体が「角張って」いるという。その発想こそが、この句の眼目であろう。

壁の白さも、そのせいで黒々と際立って見える壁と天井を隔てる一筋の線も、みな恐ろしい。雷が近づいて来るときの、気温の何となく入れ替わったような感じも、この不穏さを支援している。
――作者は、山内佳織さん(下館第一高校)。

遠雷や扉冷えたる礼拝堂

学校や病院に敷設された、チャペルのようなものであろうか。正面にどっしりと構えた扉は、高さも幅もあってにわかには開け難い。大きなところだと、横にある通用門を使って入ったりする。その凛とした佇まいは、遠雷の聞こえてくるような空模様の中で、一層際立って見えるだろう。

〈祇王寺の留守の扉や押せば開く 虚子〉などという雰囲気とは全く違った様子が、この句からは直感的に伝わってくる。この人物は何をしに来たのか。懺悔か、弔問か。いずれにせよ、心中穏やかではないと思われる。その感情の乱れや雷のときの空気感、そういったものがこの「冷え」という皮膚感覚に集約されているのだろう。
――作者は、島田瞳さん(下館第一)。

たそがれや想い隠せる夏帽子

俳句を始めて一ヶ月くらい経った頃、ある方に「時間設定の言葉は、句を甘くする」と言われたことがある。しかし、この句ではどうだろう。あたりが暗くなって、食卓にはさっき帰ってきたばかりの人の夏帽子が放っておかれている。夏帽子のあの簡単には潰れない大きさ・かさが、そして帽子の中の闇が、作者が誰かに抱えている恋慕の情の大きさをどこかで示唆しているようにも読むことができる。

どことなく悲恋めいたものを感じるのは、「たそがれ」のお陰ではないだろうか。
――作者は、野瀬瑞季さん(旭川東)。

夏帽子宙返りして空の青

爽快な句である。風に飛ばされていく夏帽子が、青空まで届き、同時に帽子がくるっと一回転したのだろうか。それとも鉄棒の逆上がりの景であろうか。何にせよ、空を最初に見たときに感じるのは、「深い」でも「今にも自分が落ちてゆきそう」でも「今日の昼飯は天麩羅うどんにしよう」でもなく、ただただ「青い」ことである。その嘘のない読みぶりは、夏帽子という季語と相まって、この非常に気分の良い、動的な一句を形成している。
――作者は、三島枝里子さん(旭川東)。

朝顔の咲きて地球の自転せり

一瞬、ただの大袈裟なドグマのように聞こえるこの一節。しかしそれだけであろうか。少し考えると、朝顔の花のまるさ、蔓の巻き方、そういったものが、どこか地球の自転を思わせてくれる。

そしてこの句ではどこにでもある市井の花・朝顔からそれを感じたところに、不思議な魅力があると言っていい。朝顔が咲いたという何気ない日常から、一日のサイクル、そして宇宙のサイクルまで読みを広げる力は、朝顔が上に上にと伸びようとするその勢いと、どことなく通ずるものがある。
――作者は、宮下樹さん(宇和島東)。
 
朝顔の種や考古学者の指

コウコガクシャ。どんな人を思うだろう、どんな手を思うだろう。

その指については何一つ描写されていないのだけれど、言葉の響き、ぶつかり合いからどことなく見えてきそうだ。がっしりとした手、膨れた指の関節。その上に朝顔の種が、一つ。

何だかその朝顔の種までもが、高尚な、すごくありがたみのあるもののような気がしてくるのだ。
――作者は、岡村瞳さん(宇和島東)。

晩夏なり空中ブランコの無人

最後にサーカスを見に行ったのは何年前だろう。その時に見た空中ブランコは、踊り子の重みで何度も運動し、そこに人が飛び移る度に、不安定に揺れた。あれが失敗したらどうなるんだろう、と不安半分、怖いもの見たさ半分で目を凝らしていた自分を思い出した。

ここで詠まれている空中ブランコは、そういった熱気と歓声に包まれたものではない。興行が終わった後の、静まりかえったテントの中には、だらりとくたびれた空中ブランコが吊るされている。熱気の裏にある静けさ、華の裏にある影のようなもの、であろうか。それが「終わり」というものを強く意識させる。

句形を崩してでも晩夏を上五に置いた効果。それは「サーカスが夏に来て、じきに去って行ったから」というだけのことではなく、この哀れな空中ブランコを、汗をかき終わった後のようなどこか明るいイメージで救ってやることにある。
――作者は、田中志保里さん(松山西)。
   
油絵の星カンバスを出る晩夏

絵を見るのが好きだ。しかし描く方はサッパリである。真白のままのカンバス、というものを見たことすらない。だから、この句に出てくる油絵が、どのくらい描き上がったものかは分からない。乾かしているのだろうか、それとも完成したものが飾られているのだろうか。

今にも沸き立ちそうな星のイメージ。僕は、いつか見た一枚の絵を思い出した。美術展で見た、ゴッホの『星月夜』である。初めてあの絵を見たとき、糸杉のある風景に散りばめられた山吹色が、今にも絵からはみ出しそうだと思ったのを覚えている。

この句で絵描きはどんな星を、どんな景色の中に描いたのだろう。それはどんな景色の中であったとしても、夏を引きとめておきたい、形としてとどめておきたい、という作者の「夏惜しむ」心の表れに他ならない。
――作者は、植松彩佳さん(松山西)。


もっとたくさんの句の鑑賞を書きたかったのだが、生憎自分の対戦してきた学校の句しか覚えていない。そのため、この企画では自分の所属した開成Bチームと対戦し、縁のあった方(準決勝の対戦相手・開成Aは、部活の練習の時点で対戦句を知っていたので割愛)を中心に書かせていただいた。こういった機会に恵まれたことに、感謝の念が絶えない。

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