【特集・俳句甲子園】
若さ・未熟さを以てしてでないと
村越 敦
今年の俳句甲子園に出された句から、じぇじぇ、と思った句を抜いた。
夕焼や地下道に日の匂ひして 岡村優子(宇和島東)
ともすれば取り立てて言うほどの句ではないということで読み飛ばしてしまいそうになるが、描かれている景を丁寧に再現してみるとちょっとした驚きがある。
たとえば夏の平日の夕方、新宿、山手線の大ガード。地下道の入り口付近を淡く照らす夕焼けを視覚的に捉え、続いてそれを匂いとして追認している。匂ってきたのはもしかしたら夕焼そのものではなく、昼間の強い陽射しの熱をじゅうぶんに溜め込んだアスファルトかもしれない。雑踏から立ち込めてくる匂い、と広く捉えてもよいだろう。
いずれにせよ、地下道に差し込む夕日という素材を発見したことに満足せず、先行者が少ないその発見をどのように描いたら良さが伝わるかという気遣いが構造的な側面にまで行き届いており、完成度が高い。
郷愁はきゃりーぱみゅぱみゅの団栗 藤江優(金沢泉丘)
きゃりーぱみゅぱみゅ(きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ、本名竹村桐子)は1993年生まれ、独特の色彩的な世界観は勿論、「赤巻紙青巻紙黄巻紙」「生麦生米生卵」と並ぶ早口言葉御三家の一翼を担う存在として日本のみならず世界中にその名を轟かせている。
(という明らかに不要な前置きはさておき)この句を鑑賞するためには作者が我々に提示する謎を読み解かなくてはならない。まず郷愁は、ときているのできゃりーはもしかするととんでもなく田舎の出身なのかもしれないぞという推論が立つ。なるほどそれならば苦労して地方から出てきていまや世界的なアーティストとなったきゃりーの内に秘めたるふるさとへの思いを読み込んだ句として解釈できるかもしれない…と思ったが、調べてみると彼女の出身地は、「東京都」。あえなく撃沈。
そもそもこの句は形がヘンだ。郷愁=きゃりーぱみゅぱみゅの団栗という構図なわけだが、郷愁ってだれの郷愁だ。作者か。きゃりーか。きゃりーがGMT(地元)へ思いを馳せているという読みが否定された今(奥多摩出身の可能性はあるにせよ)、郷愁を覚えている主体は作者、もしくは総称人称としての「誰か」ということになろう。としても今度は「きゃりーの団栗」とはなにか、という疑問が首をもたげる。きゃりーにそんな曲あったかなぁ。ひょっとすると何かのメタファーかもしれない。云々。
…と、謎を追いかけるのはこのくらいにするとして、いずれにせよ"郷愁"(概念を表す名詞)-"きゃりー"(固有名詞)-"団栗"(季語)という言葉の繋がりは、既存の"取り合わせ"の枠を超えた何かを提示しうるのではないか、という予感がしている。
親指を血はよく流れ天の川 吉井一希(灘)
この句の手柄は他ならぬ、「よく」にある。さりげないながらしかし絶妙に配された「よく」。この「よく」をよくぞ、引っ張ってきたものだと思う。親指の内を血液が滔々と流れるという身体的な事象に天の川というスケールの大きい天文の季語をつけるのはやや常套ではあるが、「よく」の力によって手練さを感じさせない青春性へと昇華されている。
夏雲の数をかぞえて指をおる 金城涼太(浦添)
忘れもしない、この句は準決勝(洛南Bvs浦添)の5句目、この1句の勝敗で両校の運命が決するというタイミングで登場した。会場は特にどよめかなかったが、私は一人勝手に興奮していた。
なぜなら、普通勝敗の鍵となる大将戦には大味な、厚みのある句を持ってくることが俳句甲子園的にはセオリーとされているからである。この句は率直に言って、只事俳句もいいところである。事実、13名の俳人審査員のうち中原道夫・仁平勝は準決勝戦という大舞台にも拘らず5点という実質的な最低評価をこの作品に下している。
他方で審査員の中には9点(岸本尚毅)、8点(高柳克弘)という高得点をつけた人たちもいた。そして私はこの句に関してはこの岸本・高柳ラインに加担したい。というのも、おそらく、この句には屈折した何かがある。まず根底に横たわるのは夏雲の数を数えることに意味はあるかという問題だ。さらに「かぞえて」という表現から実質的に「指をおる」行為は自然と想起されうるのにも拘らず、敢えて「指をおる」という無意味とも思える表現を重ねている。(意図したものかどうかは定かではないが。)
祈りか、孤独か、この句で描かれている意味を断定することはできないが、むしろその屈折を楽しむ余裕を作者は読者と共有しようとしているようにすら読める。
結局この句は敗れ、浦添高校は準決勝で涙を吞むことになったわけだが、俳人が何を是とするかということを奇しくも明らかにしてしまったこの俳句は、俳句の出来自身は勿論、それとはまた別の俳句甲子園史的な文脈からも評価されねばなるまい。
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かつて自分も俳句甲子園に出場していたことがあった。
当時何を考え、何を目指して俳句を書いていたかということは率直なところあまり覚えていないのだが、審査員の俳人先生達からの「高校生らしさ」を書きなさい、というアドバイス(今大会も勿論この種の発言は見受けられた)に少なからず辟易していたのは確かだ。
なぜなら、まずもって「高校生らしさ」とひとくくりにするのは「老人らしさ」とか「東京らしさ」とかと同じようにあまりにも多くの意味を含んでしまう。さらにはそもそも高校生の時分から多かれ少なかれ夏休みを犠牲にしてわざわざ俳句を嗜むような俺らは「一般的な高校生像」がもしあるとするならば既にその範疇から外れているわけで、だから「高校生らしさ」を俳句甲子園に出場する高校生に見出すというのは既に矛盾を孕んでるじゃないか。当時はこう考えたのである。
しかしそれから数年が経ち、きわめて個人的に、俳句と現実世界のリンケージに大きな意味を見出す立場に与するようになった今日この頃、この大会に対しては数年前の自分と違う感慨を抱いている。
あまり長くなるとあれなので別の機会に譲るが(飲みながら話しましょう)、高校生の両眼というフィルターを通してでないと投影されない時代精神ってたぶんあるのだろうと思う。
素材が新しいとかそういう話とはまた別に、似たような事象を似たような技法・文脈・ツール(季語?)の中で描くにしても、それでも高校生の若さ・未熟さを以てしてでないと表出できない部分がきっとあるのだと思う。
このことを、今回取り上げた俳句群を通してあらためて強く感じた。
≫ 第16回俳句甲子園結果
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2013-09-08
【特集・俳句甲子園】 若さ・未熟さを以てしてでないと 村越 敦
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