愛と幻の俳句甲子園(2)
その他のインタビューから
青木亮人
■今回は、第一回目「俳句と青春」(「愛媛新聞」9/3掲載記事に加筆・修正したもの→http://bit.ly/15IiUBG)で言及しえなかった出場者へのインタビューから、2チーム分をまとめたものである。
1 情感豊かに
■ある高校のチームがまず手に取るのは電子辞書と歳時記である。季語を知るため、そして例句を通じて季語の傾向を学ぶためだ。
例句等はネットで検索することもあり、顧問の先生が教えてくれることも多い。彼らはそのようにして「季語の基本」をチェックし、また句をどの方向に練り上げるかを思案する際に再び歳時記等を確認する。主に歳時記を土台にしつつ「傾向と対策」を練るのが句作の第一歩、という感じだろうか。
その上で彼らが目指したのは、「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」という句作だった。大会での作品を見てみよう。
夏 の 海 泣 け ば 蒸 発 で き る の に
憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し
一 斉 に 蓮 闇 を 吐 く 真 昼 中
確かにこれらは「情感」を軸とした作品といえるかもしれない。
ところで、上記作品を読んだ時に興味深く感じたのは、彼らの中で「歳時記を基本とする季語の世界観」と「情感を豊かに押しだす句作のあり方」は矛盾しないらしい、ということだった。
彼らが親しんだ歳時記の中身も気になるが、むしろ個人的に興味を感じるのは、上記作品は結果として季語以上に「情感=私」が強く押し出されており、トーナメント上位まで勝ち進むチームの句作傾向と異なる作品に仕上がっている、という点である。
一般的に、常勝チームは題として出された季語を作品のクライマックスに据えるとともに、「季語の世界観」を乱さないように一幅の情景を描く、つまり「作者・読者がともに瞬時に共有できる安定した季語観」を増幅させる「風景」を造ることで、「題として出された季語をいかにうまく消化したか」という技術の冴えを前面に押し出す傾向があるのに対し、先ほどの句群は結果的に題として出された季語よりも「情感」が強調されている。
ここで言いたいのは作品としての価値云々でなく、句を練り上げる方向性の軸が常勝チーム系と異なるということ、その違いに関心があるのだ。
よりいえば、上記句のチームはなぜこれらの句を「俳句甲子園としての作品」と見なしたのか、そもそもなぜ「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」ことを句作の中心としたのか、来年以降もその方向性で俳句甲子園出場を目指すのだろうか? それらの点を興味深く感じたのだ。
インタビューの際、「好きな俳人は?」と聞くと困惑の表情を浮かべたが、「好きな俳句は?」と質問を変えてみると、次の句を挙げてくれた。
カ ン バ ス の 余 白 八 月 十 五 日 神野紗希
を り と り て は ら り と お も き す す き かな 飯田蛇笏
メンバーの一人は、過去の最優秀句の中でも特に好きな作品として「カンバス」句を挙げた。「をりとりて」句を挙げたメンバーは、授業で習った際に強い印象を受けたという。
ただ、俳句関連よりも彼らが目を輝かせたのは、「好きな小説家や音楽は?」という質問だった。有川浩や三浦しをん、K-POP、東方神起……時間が許せば、彼らは多くの小説家やミュージシャンを挙げただろう。
彼らは勝ち進むことはできなかったが、「俳句甲子園は楽しかったし、勉強にもなった」という。俳句という「文学」を点数でジャッジすることや、勝敗の結果に疑問を感じることもあったが、試合中のディベートや審査員の講評を通じて気付かされることも多く、何より松山に先生や仲間たちとともに訪れ、俳句甲子園に参加したのが楽しかったという。
インタビューに応じる彼らの表情には、負けたことの悔しさよりも参加できた楽しさが感じられた。勝敗は勝敗、それと楽しむことは別、というサバサバしたチームの雰囲気もあり、むしろそれゆえに彼らが明るく感じられたのかもしれない。
2 景をはっきりと
■ある高校のチームは「文芸道場」なる大会に出場した経験がある。県下の高校で文芸全般に関心を抱く生徒が集い、競い合うとともに交流しあう大会だ。もちろん俳句部門もある。彼らはそこで「文学」や「俳句」を学び、その上で俳句甲子園に臨んだという経緯を持つ。
文芸道場出場の他に、彼らは俳句甲子園の過去優秀作や先輩たちの句群、また『17音の青春』(神奈川大学)等を通じて「俳句」らしさを学んだという。インターネットや俳句史における著名句等は特に気にかけなかった。
ただ、彼らはもともと俳句が好きというわけでなく、むしろ他ジャンルの文学に惹かれる方だ。たとえば歌人の俵万智や加藤千恵、小説家の桜庭一樹。『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』(桜庭一樹)を読んだ時にはあまりの凄さにため息が出たものだ。
そんな彼らが句作の際に心がけたのは「はっきりと分かりやすく、景が一瞬で思い浮かぶような作品」。誰もが理解し、共感できるもの、それが「俳句」であり、俳句甲子園での作品というわけだ。
顧問の先生は俳句指導等を細かくすることはせず、メンバーそれぞれの個性を尊重してくれる。だからチームメンバーはのびのびと俳句を作り、景がぱっと思い浮かぶ作品を詠もうとした。そして全国大会への切符を手に入れ、八月の松山へ旅立ったのだ。
大会当日、彼らが出したのは次のような句だった。
嘘 を つ く 透 き 通 っ た ま ま の ゼリ ー
嘘を付いたことのやましさが、心にかげりを帯びて引っかかっている。その「私」の屈託を見透かすようにゼリーは一点の曇りもなく、ただ「透き通ったまま」眼前にたたずむ。
無論、ゼリーは「私」の心の翳を知るよしもない。しかし、それゆえに「私」はゼリーがいつもより「透き通ったまま」に感じられるのだ。
または、「透き通ったまま」のゼリーは、嘘をついた「私」を突き放すことで許しを与え、慰める存在として目の前にたたずんでいるのかもしれない。
あるいは、ゼリーは「嘘を付いたとか、そんなことはどうでもいいよ」というように「私」の前で「透き通ったまま」現出している、そういう存在なのだろうか。
上記句について「透き通ったままのゼリー」のありようをあれこれ想像したのは、次の歌が思い出されたためである。
今 日 ま で に 私 が つ い た 嘘 な ん て
ど う で も い い よ と い う よ う な 海 俵万智
(『サラダ記念日』)
先ほどの「ゼリー」句からこの短歌を想起したのは、彼らに好きな文学者を聞いた際に「俵万智」という返答があったためだが、同時に次の句と比較した時、「短歌的なもの」を感じた点も大きい。
憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し
本記事で最初に紹介した高校の句だが、句の内容や「ゼリー」の把握は「嘘をつく」句と近似しつつも、「憤る」句には短歌の雰囲気が感じられず、かたや「嘘をつく」句の表現には「短歌的なもの」が感じられたためだ。
「嘘をつく」句が大会で勝利を収めたかどうかは知らないが(試合を観ていないため)、個人的には「嘘をつく」句の作者がこれまでどのような作品に触れ、どの作品に感動し、何をもって「文学」と感じてきたのか、その点をより知りたいと感じた。
「嘘をつく」句は、今回の大会でさして問題にならなかった作品だ。優秀句や入選句に選ばれたわけでなく、準決勝以上の試合で出された句でもない。予選リーグのある会場で出された後はひっそりと忘却の闇の中へ滑り落ちた一句であり、今後思い出す人は少ないだろう。
しかし、「嘘をつく」句は、大会での勝敗よりも「なぜその句が「俳句」として詠まれたのか」と思いを馳せたくなる作品だ。この作者は他句が優秀句に選ばれたが、それよりも「嘘をつく」句の方に魅力的な謎が感じられる。少なくとも研究者の私にはそう感じられた作品だった。
彼らにインタビューを申し込んだ時、試合直後だったのか、やや上気した面持ちで応じてくれた。試合後の冷めやらぬ熱気と八月の暑さで額に汗がにじみ出ているにも関わらず、「好きな文学者は?」と聞くと「加藤千恵!」「桜庭一樹!」と答える表情が明るく、快活で、その姿がとても印象的だった。
(第2回・終)
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