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2020-10-11

【句集を読む】まるで映画のように 今井聖『九月の明るい坂』を読む 西原天気

【句集を読む】
まるで映画のように
今井聖『九月の明るい坂』を読む

西原天気


直喩で繋がった二物には互換性がある。論理ではなく、俳句読者の内部に起こる作用として。

予告編のやうに川面を春の雲  今井聖

だから、作者が見ているものがあくまで川面に映った春の雲であるにせよ、私は、いつか映画館で予告編を眺めるとき、そこに春の雲を見るかもしれない。

と、喩の話から始めたが、本題は違う。このあとに何が始まるかについてのとりとめのない随想だ。

ロードムービー始まる鷹の目玉より  同

俳句にドラマ/物語を(過度に)読み取ることの是非はともかく、句集『九月の明るい坂』にはドラマチックな句が少なくない。だいたいにして、句集名がとられた《永遠に下る九月の明るい坂》からして、虚構的時間(永遠)、光量=露出をイメージさせる「明るい」との把握、そして下6音の醸す覚悟のような意思。どれをとってもドラマチックであり、映像的には映画のワンシーンにふさわしい。

話を掲句に戻す。鷹の視座から旅の行程が俯瞰される。しごくまっとうな映画の始まりだ。

ロードムービー的な句は、集中に見つかるか。読者によって、どの句をあげるか異なるだろうが、私は、これ。

冬帽を脱げば南に癖毛立つ  同

《南》に必然性はなく、そのぶんおおらかな景が広がる。これは旅の始まりよりも終わりにふさわしいシーンだと思う。《南》への着目は、日常からの離脱の作用もあるだろう。買い物に出かけてふと帽子をとったとき、人は《南》なんて意識しない。

別のドラマも見出した。

紙幣(さつ)数へをり滝見茶屋の席  同

かなかなの止む頃に来る不思議な客  同

この2句は同じページに並んでいる。とはいえ、通常の読みではセットでもひとつながりでもない。けれども、後者の《客》が前者の《滝見茶屋》に訪れた客に思えてしまう。修辞的な設えがあるわけではないから、これは私(読者)が勝手につなげて読んでしまうに過ぎない。その読みが正しいか間違っているかを問題にする前に、私の中に起こってしまう読みなのだからしかたがない。ミステリー成分が強く、土俗のモチーフを盛り込み、絵的には鮮烈で勁いタッチの映画。このシークエンスは、そんな映画の冒頭にふさわしい。まず謎をふりまくのだ。

なお、句集『九月の明るい坂』には《捕虫網》と《父》は印象的に(多数)登場する。

稲の中栞のやうに父立ちぬ  同

捕虫網旗日の旗の前通る  同

追憶やら来し方やら、作者はみずからの(生きた)時間と(生きた)空間を、ドラマチックにとらえ、そのセンチメントが句をドラマチックにしている。俳句と〔私〕のあいだの距離を臆することなくつめる。そうした態度やスタンスがしっかりと染み込んでいる。『九月の明るい坂』はそんな句集。


今井聖『九月の明るい坂』2020年9月/朔出版



2018-10-21

【週俳600号に寄せて】攻めに転じよ  今井聖

【週俳600号に寄せて】
攻めに転じよ

今井聖


2018-05-27

【俳人インタビュー】今井聖さんへの10の質問

【俳人インタビュー】
今井聖さんへの10の質問


質問:西原天気
Q1 今週、何句作りましたか?

句会が三度ありましたので下書きを含めて15句くらいかなあ。

Q2 俳句に似ているものといえば?

う~ん。こういうご質問でユーモアを入れて気の利いたことを言おうとするとロック歌手のインタビューみたいになるし、箴言めいたことを言うとただの硬直化した爺婆になる。
お洒落なインテリジェンスを出そうとするとみっともないし、第一、そんなインテリジェンスもない。俳句は俳句ですとか、似てるものはないなんて自然体を気取るのも嫌だなあ。得体の知れないものなんてのも阿呆だしなあ。 まあ、それだけナーバスにならざるを得ない、そんな感じでしょうか。

Q3 今朝、起きてから2~3時間の行動をできるだけ詳しく(公表できる範囲で)教えてください。

6時に起きて新聞を求人欄まで読破し、近所の公園で散歩または低速ジョギング40分。馴染みの犬と鴉に会ってプレーンビスケットをやって歓心を繋ぎ、駅に出て通勤の人々の真顔を眺めてザマーミロと呟きながら坂を登り、別の公園に入ってまた馴染みの犬と鴉に会い帰って珈琲を飲みました。

Q4 現在お住まいの町は、どんなところですか?

う~ん。殺伐とした街ですね。山をつぶしてつくった計画都市。駅前の分譲地は公平な抽選のはずだったのに蓋を開けたら政府と関係の深い大企業の関係者がかなりの数を占めたと聞きました。まあ、そんな街かなあ。

Q5 どういうわけか、ミドリガメを一匹飼うことになりました。名前を付けてください。

梅吉かなあ。二年前に死んだ愛犬の名前。ミドリガメも飼えば愛してしまうでしょうし。

Q6 主宰をされている「街」の良いところを教えてください。

良いところはいまのところありませんね。僕を含めて目の醒めるような句ができない。句をつくるための集団だからこれからに賭けるしかないですね。

Q7 では、悪いところ(ダメなところ)は?

Q6をそのまま。

Q8 目が覚めました。何十時間も眠ってしまったらしく、おなかがぺこぺこです。何を食べますか。部屋でも外食でもかまいません。できるだけ具体的に詳しく教えてください。

うどんがいいなあ。消化によさそうだから。きつねうどんがいいです。音をさせずに食べます。七味は入れません。
 
Q9 好きな自然現象について、教えてください。

う~ん。考えたこともなかったですね。少し違うかもしれませんが、人間が餌をやらないのに生きている動物や虫や魚は偉いですね。人間は餌をやらないどころか殺してるのに。

Q10 ここ最近でいちばん笑ったことを教えてください。

先日行った秋田のタクシーの運転手さん。65歳くらい。
「〇〇までお願いします」
「…もう今日は帰ろうと思ってた」
「客がこない?」
「来ないなんてももんじゃないよ。ひどいね」
「でも秋田は新幹線も通ったし、これからいいんじゃないですか」
「あのね、新幹線て言えるのは盛岡までで、そこからはローカル線と同じ。新幹線なんて名前だけ。時間ばっかかかって」
「観光もいいんじゃないですか。はたはた、比内地鶏、きりたんぽ、なまはげ」
「あんたね、秋田は年に一万五千人も人口減ってるんだ。そのうち誰も住まなくなるよ、こんなとこ。今に秋田は鳥取みたいになるよ」
「あのう、僕、鳥取出身なんですけど」

●

今井聖 近作十句

夫はと問はれて春の尾根を指す

合宿用蜆一貫届きたる

枕から眼鏡へ春の指の旅

弟の教室に姉花曇

蒸しタオルの顔春昼のどの椅子も

事務方と呼ばれてクロッカス抱いて

夢の父夏野駈け来て我を過ぐ

歌ふ口して出目金の病んでをり

紫陽花や団地一棟もぬけのから

ジルバの手くぐつて流れ星に乗る

2018-02-11

俳句の要件 金子兜太の場合 今井聖

俳句の要件 金子兜太の場合

今井 聖

『街』2017年10月号より転載

俳句が俳句であるための要件とは何でしょうか。

定型は絶対でしょうか。字余りも含めた十七音定型は俳句の絶対条件とする俳人は多いのですが、それすら要件としない自由律俳句のような主張もあります。一般的に考えられる次の重大要件としては、季語(虚子は「季題」と言いましたがここでは同義と考えて「季語」に統一します)でしょうか。あとは付随するものとして文語使用、切字などが考えられます。俳句で表現すべき「詩」つまり「情趣」についてはどうでしょうか。「情趣」に要件があるの?と思われる方がいるかもしれません。俳句の情趣は芭蕉が「わび、さび」を提起して以来、その情趣に基づいた「詩」が俳句固有のものとなりました。季語もその情趣と密接に結びついています。

俳句の要件とその「情趣」について高濱虚子と金子兜太を比べてみたいと思います。

大寺を包みてわめく木の芽かな  高濱虚子〔*1〕

遠山に日の当りたる枯野かな  同

此村を出でばやと思ふ畦を焼く  同

これらの句はいわゆる「伝統俳句」、

きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中  金子兜太〔*2〕

屋上に洗濯の妻空母海に  同

石炭を口開け見惚れ旅すすむ  同

これらはいわゆる「前衛俳句」と呼ばれてきました。

伝統と前衛を区分するものは何でしょう。

「わかりやすさ」と「難解さ」でしょうか。

僕はそうは思いません。

それぞれ一句ずつを比較してみましょう。

まずは両者の冒頭の二句。

虚子の句は大きな寺を包んでいる木々の芽吹きがまるでわめいているかのように一斉に噴き出していると表現しています。喚(ルビ・わめ)くという比喩を通して春の芽吹きのエネルギーが伝わってきます。

兜太の句は、汽車の汽笛が「きょお!」と音を高らかに発して、噎せ返るような新緑の闇の中を進んで行きます。

汽笛の音にポーとかボーとか擬音を配するのは陳腐。詩人の為せる表現ではありません。汽笛が「きょお」と喚くのと芽吹きが「わめく」のは同じ。両者とも詩人の独自の把握が生かされていると言えましょう。

次に両者の二句目。

虚子の句は遠近法。遠景に山を配し、作者の眼の位置である手前の方まで枯野が続いています。遠近法の構成。

兜太の句は遠近法の中に動的なカメラワークが加わります。屋上に洗濯物を干している妻をまずは近景から映し、そこから俯瞰する位置にまでカメラを引いてくると沖合にある空母が視野に入る。遠近法の構成の中に突如介入してくる現代の危険な異物。無季の作品です。

最後に両者の三句目。

虚子の句は農村の苦しい生活の中で、都市部での就職やら出稼ぎやらを望みながら畦を焼いている現実を描いています。農村の現実は社会状況。虚子の眼は、因習や貧しさの中で喘ぐ「個人」の在り方に向いています。

兜太の句は、経済の高度成長政策に伴って大量の石炭が採掘されているさまを描いています。また、ここにはその情景を口を開けて見るしかない「個人」が描かれています。
虚子も兜太も現実を起点として、その中に呑み込まれていく「個人」の存在へと思いを向けています。

こういうふうに見て行くと虚子も兜太も少しも難解ではなく共通する点も多い。実にわかりやすい内容です。

しかし内容的に理解は「簡単」なのに、虚子と兜太を「伝統」と「前衛」に分ける理由は何でしょうか。

それは一つには俳句を俳句たらしめている要件に対する考え方の違いと、その要件を用いて俳句が表現すべき情趣つまり「詩」というものの目標設定の違いにあります。

きょお!と喚いてこの汽車は行く新緑の夜中

には、これまでの俳句の概念では禁忌とされた要素が細かく言えば三つあります。一つは俳句の中にイクスクラメーションマーク(!)を用いたこと。二つ目は大幅な字余り。三つ目は季語の用法で、季語「新緑」は、昼間の可視の範囲で緑が横溢している初夏の景に限定されるという「本意」を無視したこと。「伝統俳句」は「夜の新緑」を認めません。
兜太はもちろんこれらの禁忌を百も承知で用いています。

その理由も明解です。俳句を俳句たらしめている特徴を「俳句性」と呼ぶとすると、俳句性は「定型」以外には無いというのです。表記も季語の有無も自由。季語の「本意」を尊重するかどうかももちろん自由。表現というのはそもそも自由なものだという考え方で、俳句性の唯一の縛りは「定型」であると日頃から述べています。

それにしてはこの句、大幅な字余りじゃないかと思うのは考え方の違い。兜太は十七音定型という基本の縛りがあるからこそ字余りも存在価値が出てくる。定型を意識するからこその破調なのだという考え方です。

虚子にとっての要件はまず季語。「花鳥諷詠」の最大の要件は「四季」を詠むこと。連歌以来の約束事として季語を尊重することという考え方は理解できますが、「俳句性」にとって季語は絶対不可欠という「規定」は偏狭に過ぎるような気もします。

兜太の二句目のように「写す」という俳句の手法を生かしながら、風景の中で空母と遭遇するという命に響くような「驚き」も俳句で表現し得る「詩」の範囲と考えます。

もう一つ、季語を使う場合は、歳時記に記された「本意」を詠むことに心を砕くのではなくて、「自分」に引き付けて詠むこと。「新緑は木々の緑。蘇つたやうな木々の葉の艶やかな色栄え。」(虚子編新歳時記)という「初夏の明るい昼間の緑」という本意に対して兜太は敢えて「新緑の夜中」と詠みます。兜太が意図したのは、木々の息吹が噴き出す夜中の雰囲気を五感で捉えてその中を突き進む「この汽車」を設定する。「この汽車」がその時「自分」になります。季節によって、自然によって生かされている受け身の自分ではなくて、季節を含む現実の空気を呼吸しながら驀進する主体としての自分が見えてくるのです。


〔*1〕高濱虚子『五百句』1937年
〔*2〕金子兜太『少年』1955年

2017-02-19

名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (28) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (28)

今井 聖
 「街」123号より転載

FXポンド林檎が刺さりそう 
金谷佑策(2016年・第19回俳句甲子園)

なんだこりゃ。

 エフエックスポンドリンゴガササリソウ

去年の俳句甲子園で僕が優秀賞(個人賞)として選んだ一句である。(林檎)という兼題が出ていた。

いやあ、この句を見たときはびっくりしたなあ。

審査員が十三名居たのだが個人賞はダブルことなく皆別の句を挙げた。僕は一読してこの一句に驚いて立ち止まり、そのまま迷うことなくこの句に決めた。

FXポンドとは外国為替証拠金取引こと。英国通貨ポンドを円で安く買い、ポンドが高くなったところで円に両替すれば為替差益が出る。その取引のことを言う。

数千円からこの取引は可能なので、作者はおそらく実践しているのだと思う。

「林檎がささりそう」は英国がEU離脱のときにポンドは大きく揺れ動いた。そのグラフの形が鋭く尖っていることを指している。

審査員が高校生の俳句に求めるものは何だろう。

他の十二名が個人賞に挙げた句を列記してみる。それぞれの句は兼題が出ているのでそれを付記した。

短夜や大陸少しずつ動く (短夜)
町たのし浴衣の子らに道問へば (浴衣)
サーカスの獣はしづか天の川 (天の川)
銀河噴くために蛇口は上を向く (天の川)
一切は足音と風天の川 (天の川)
先生も浴衣になってゐる夜だ (浴衣)
難民のキャンプに轍天の川 (天の川)
カーラジオ消す天の川流れ出す (天の川)
海あたらし勝利のやうにヨットの帆 (利)
藍浴衣ことばは人間を使ふ (浴衣)
天の川現人神の頭蓋骨 (天の川)
鉄棒に腹くいこませ銀河見る (天の川)

そして、最優秀賞は論議の上、

豚が泣く卒業の日の砂利踏めば (利)

に決まった。みな自分の推した句にこだわるといつまでも最優秀作がきまらないので、僕も最終的にはこの句で佳しとしたのである。

これらから高校生の傾向ひいては指導者の指導の傾向がうかがえる。傾向はすなわち大人の選者に向けての「傾向と対策」でもあるから、露呈しているのは選んだ側の内実でもある。

「短夜や」は科学的知識、「藍浴衣」は社会科学と言おうか、それぞれ知識が生かされているが類型無しとしない。

「町たのし」、「豚が鳴く」は、ともに末尾が「ば」の設定で終わる。伝統的叙法がしっかりと生かされているが、内容は守旧的と言おうか。まあ、堅実とも言える。

「サーカス」、「一切は」、はロマン。厳しく言えば近代自由詩的ロマンで決して新しくはない。中原中也的とでも言おうか。新興俳句のモダニズムはずっとこれでやってきた。

「銀河噴く」、「海あたらし」は、青年らしいエネルギー。余りにも「らしい」ので僕は賛成しない。もっと屈折してほしい。

「先生も」、「鉄棒に」、は学園もの。舟木一夫や森田健作の世界とそれほど変化ない。

「難民の」は、難民を出現させている側に対する?が無いのでは。現象だけを追っているというより誰がどう悪いのかの判断をほのめかすことをさける処世があるのではないか。

「現人神の頭蓋骨」は戦後すぐの天皇の「人間宣言」を言っているようで今更の感がある。

悪口ばかり言っているようだが、どの句も「大人の句」の水準をはるかに超えている。仮にこれらの句が「街」の句会に出たらすべて予選には取ります。

FXポンドの句の魅力は、「高校生のあるべき姿」の通念を破っていて、しかも、その破り方が新鮮。

寺山修司の時代では、煙草、情事、競馬、競輪、オート、競艇なんかが、やさぐれでデカダンだった。「砂山の砂を指で掘ってたらジャックナイフが出て来たよ」が「不良の日常」だった。こんなこと今は田舎の不良でも言わない。

今の高校生にFXポンドやってるよと言われて驚かない「大人」が居ようか。

「大人」が考え得る反通念をはるかに超える本物の反通念だ。しかも、この林檎、比喩だから季語じゃないなんてうるさい大人は言いそうで、その分、季語をコケにしてるとも言える。そこも実にいい。

高校俳句部の指導者がこんな俳句を作るように指導しているとしたら、その指導者こそ天才だ。

俳句甲子園の会場を出るとき、僕に駆け寄った佑策さんと固く握手を交わした。佑策さん、どうぞ、このまま、このまま。でも「このまま」は難しいよ。

なんだ、こりゃこそ学びの宝庫。

2016-12-11

奇人怪人俳人(14) 詩人俳人・平井照敏  今井 聖

奇人怪人俳人(14)
詩人俳人・平井照敏
(ひらい・しょうびん)


今井 聖
『街』第122号より転載

「僕の家で句会をやってるんですが、来てみませんか」

一九七一年一二月、初めて行った「寒雷」の句会で平井照敏さんが声を掛けてくれなかったら僕はどんな雑誌に所属しどんな俳句を作っていただろうか。想像もつかない。ただ、どこに行こうと俳句を作っていたことは確かだ。なぜならその時点で、それしか自分にはすることは何もなかったのだから。

その年三月僕は明治学院に入学して上京して来たのだった。

その前年には、二浪目に住んでいた京都から、大阪の天狼の句会に山口誓子を(見に)行き、その目的は果たした。

上京したのだから、次には、まず念願の加藤楸邨を見て、次に中村草田男を見に行くつもりだった。

僕が高校時代に憧れた俳人。まずもってこの三人の句会には出てみたかった。もう一人居た憧れの人、石田波郷は二年前に亡くなっていた。

照敏さんの自宅は蒲田にあった。

青山女子短大での教職で加藤楸邨と同僚になった照敏さんは、当時、既に『エヴァの家族』という詩集を出していた学者詩人。学者詩人という言い方はおかしいけれど現実。詩人革命家と自称したのは確か啄木だったか。

学者にあらずんば詩人にあらずという状況がこの当時からずっと続いている。もちろん例外はあって、その例外の方こそ本物だと門外漢は思うのだけれど。

東大仏文科出でパリへの留学も了えたこの典型的な学者詩人は、職場で楸邨に惹かれ俳句に魅力を見出し、寒雷に投句し、この年に森澄雄さんのあとを受けて編集長となっていた。

彼は、フランスの詩人「イブ・ボンヌホア」の訳者であり、日本への紹介者としても知られる。自分の研究対象、ボンヌホアの作品と俳句に共通点を見出したのも俳句を書き出した大きな動機だったらしい。

照敏さんは僕を可愛がってくれた。月に何度か句会があり、寒雷のメンバーの何人かが出席していた。句会の日以外の日でも僕は 彼の家を訪れて、奥さんの手料理をごちそうになった。ソフトな語り口で、優しい印象だったが、強烈な自負心も隠さなかった。自宅句会の席で、

「来月は、ここに石原吉郎さんを呼びましょう」とことも無げに言う。

その話こそ実現しなかったが、親しかったさまざまな高名な詩人の話をしてくれた。木原孝一さんや清岡卓行さんのこと。

入れ代り立ち代り俳人が訪れた。当時、寒雷の編集部にいた、石寒太さん、小檜山繁子さん。関西から訪れた岡井省二さんともここで初めて出会った。

「寒雷にルネッサンスを」が照敏さん発案の当時のスローガンだった。

七二年九月号は「寒雷」三五〇号記念号、そこに昂揚した照敏さんの後記がある。
「寒雷」三五〇号を記念する北海道の全国大会は大成功だった。(中略)「寒雷」の新しい渦が大きくめぐりはじめたと感じたのはぼくだけではなかったろう。ぼくは毎晩二時、三時までおしかける若手に句会攻めにされ、ふらふらになりながらこの寒雷再生の渦をさらに激しく、さらに力強いものに育てていかなくてはならぬと思った。が渦はすでにまきはじめていた。ぼくはその渦にのみこまれてゆくを自分を嬉しいと思った。
当時の「寒雷」の東京句会の主要メンバーは、楸邨夫妻、編集部を始め、秋山牧車、佐久間東城、牧ひでを、並木鏡太郎(嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」の映画監督)、久保田月鈴子、川崎展宏、猪俣千代子さんらが常連。田川飛旅子さんや、桜井博道さんらが準常連といったところ。和知喜八さんや相葉有流さん、まだ同人ではなかった長野の矢島渚男さんや博多の姜基東(カンキドン)さん(今の「俳句界」社長)も遠くから時折顔を見せた。異色のメンバーとしては、河童の漫画家清水昆さん(俳号孤音)、小林多喜二夫人の森熊ふじ子さんら。

とにかく、男臭い句会だった。句会のあとは必ず居酒屋に立ち寄る。楸邨選に入った人をお祝いするという名目で、その実、選に入らなかった大多数の愚痴のオン・パレード。

議論が白熱し、ときには掴み合い寸前までいく。口角泡を飛ばして議論をすることが、座を交えた人への誠実な挨拶というふうな当時の社会通念があったような気がする。

議論の中で、皆、師を「楸邨、楸邨」と呼び捨てにした。誰かが「楸邨先生は」というと、「楸邨を先生などと呼ぶのは寒雷ではモグリだ」などと怒鳴られる始末。

こういう雰囲気は、それまでの僕の句会遍歴の中には無かった。

その理由を今になってつくづく意義深く考えている。

「寒雷」には、現場の労働に携わっている人が多かった。

楸邨の周辺には、照敏さんもそうだが、金子兜太、久保田月鈴子、田川飛旅子(初期には澤木欣一、原子公平)など東大卒の各界のエリートがいた。楸邨の出身校東京文理大(現筑波大)卒の教職者も多かったけれど、それらにも増して、現場の労働に携わるいわゆるブルーカラーの人たちが多くいた。

農業、漁業、養蜂業、板前、美容師、国鉄の運転士、炭鉱での採掘業務、鉄の精錬、トラックの運転手等々。

また視覚や肢体に障害のある人や桜井博道、小檜山繁子、平沢美佐子、野口大輔さんなど、長く結核療養所で過ごした人たちも多かった。

このことの意味は当然楸邨の俳句についての考え方とつながっている。

楸邨が「馬酔木」から離れたのは、美しい色調を取り入れた印象画ふうの外景描写に飽き足らず、「人間」を描きたかったためと言われる。

「俳句の中に人間が生きるように」。

楸邨自身が言ったことばであることは間違いない。しかし、その意味するところは、かなり誤解をされているように思う。

山本健吉が名づけた「人間探求派」という呼称にあまりにも強烈なインパクトがあったため、このコピー自体がひとり歩きしてしまい、楸邨や「寒雷」にはいつも「人間」という言葉がつきまとう。

「人間探求派」、観念派楸邨。人間、つまりヒューマン、そしてヒューマニズム。
これらの連想や印象がもたらしたものは楸邨俳句の本質や「寒雷」登場の意義とずれていたのだと最近になって特に感じている。

楸邨が希求したのは、人間が生きている現実の中で、直接、人や事物や事柄から五感で受け取る「気息」や「息吹」や「体感」。

蓄積された情趣や先入観や既存のロマンを抜けたところにある、その時その刹那の「リアル」そのもの。

人間の生きる意義とか、人間かく在るべしという「教訓」を俳句で述べることなどではない。むしろ、そういう観念とは対極にある一回性の対象との出会い。つまり新しい自分との邂逅。

花鳥諷詠は、固定的な俳句的情緒を季語の本意という名目にすりかえ、一方で「新興俳句」は「言葉」の本質に触れねばと声高に啓蒙しながらシュールレアリスムやオートマティスムなど近代自由詩の従来的手法を俳句形式に縮刷することに躍起となった。

花鳥諷詠にとって、「秋の蝶」は「いわゆる」弱々しい蝶であらねばならず、新興俳句の中の「兵」や「戦争」も「概念」としての埒を出ない。西東三鬼や三橋敏雄が空想で書いた「戦火想望俳句」というのがいい例である。聞いてもいない機関銃の音を詠い、見てもいない最前線の戦闘をアタマの中で活写する。そこにあるのは「いわゆる」戦争。

つまり、両者とも「いわゆる」付きの定番概念。

楸邨が、現場の労働者の労働実感や療養者の切実さから受け取ろうとしたのは、概念ではない「リアル」。

昭和三十年代から四十年代にかけての加藤楸邨選の一般投句欄、「寒雷集」の巻頭作品の中から具体的に見てみよう。

起てぬ身に金魚の尾鰭絶えず動く  岸川和子

青桃や今欲しきもの今告げたし  矢部栄子

岸川さん、矢部さんは療養者。これらの作のあと、まもなく夭逝。

雪の坑車へ大き鑿岩機抱き運ぶ  福島昌美

蛙けろけろほら吹き坑夫三太の忌  野宮猛夫

福島さん、野宮さんは炭鉱坑内作業に従事。

露の熊笹北斗より風湧きおこる  伊藤霜楓

伊藤さんは富士山山頂の測候所職員。

鰯雲頭に機関士の来し方満つ  田角瑞芳

泉飲んで機缶(かま)蒸れの臍息づけり  鈴木正治

田角さん、鈴木さんは国鉄機関士。

髪も紅も突つ込む蕎麦の湯気の中  秦鈴絵

秦さんは美容師。

太刀魚の立ち泳ぐさま傘で言ふ  加藤精一

加藤さんは板前。

これらの句の切実感を見てほしい。

現場の人たちの実感がこころを打つのは、作者が「現場の人」だからではない。傍観者的態度では把握できないリアルさに満ちているからだ。

これらの俳句がともすれば、「職場俳句」とか、敷衍して「社会性俳句」の名を冠せられるのは、正しい理解とは言えない。楸邨登場の意義ともずれて来ている。

現場のナマの実感つまりリアリズムが、しだいに、「社会性」という名の政治性(党派性)やべたべたのヒューマニズムに転化して受け止められていく。それは党派性へと導く意図のあった俳人古澤太穂さんなどのマルキストや多くの自称リベラリスト、そして、その違いをはっきりさせらなかった楸邨自身にも原因がある。

そもそも論理的であり、情の深い体質をもつ楸邨は、ナマの実感を詠んでも、それがヒューマニズムや隠喩に転化してゆくのを抑えられない。

読者が、楸邨のリアル志向を「教訓」や「箴言」にしてしまうのは楸邨自身の体質のせいもあるのだ。しかし、楸邨が志したのは、そういう転化してゆくリアリズムではなく、この人たちが、身体を通して「感じた」即時的なポエジーだった。

東京句会に出席して何度目かに、同人会長の秋山牧車さんが、「寒雷」の戦前の号を何冊か僕にくれた。勉強しろという意味だったのだろう。

牧車さんは、戦前に「寒雷」に入会した当時は大本営の陸軍情報参謀。もともと「馬醉木」に居たが十五年の「寒雷」創刊に馳せ参じたのだった。

戦後、楸邨が草田男から戦争責任の問題について公開の質問を受けたとき、その質問項目のいくつかは、軍人高官を結社内に置いて、雑誌存続等の便宜を図ったのではないかということに関する内容。つまり牧車さんのことを言っていたのだ(戦前、「寒雷」には他にも清水清山中将や本田功中佐らの軍人高官もいたが、情報参謀として文化的に影響力のあったのは牧車さんだったため)。

楸邨は草田男の問いにやはり公開できちんと応えているが、牧車さんはこのことで楸邨や「寒雷」に多大な責任を感じ、戦後の一時期には私財を投じて「寒雷」の維持に奔走した。

牧車さんの呉れた「寒雷」旧号には、「寒雷」とは無縁と思われた有名俳人が多く登場していた。

十六年十月号創刊号の一般選寒雷集次巻頭は永田耕衣。(当時は軍二)

少年工玉葱は地に一つ一つ  永田耕衣

十七年三月号二句欄に能村登四郎。

寒すずめ瓦斯の火ひとつひとつ点きぬ  能村登四郎

十七年九月号一句欄に八木林之助。

胡桃茂り徴兵検査身にせまる  八木林之助

十八年十月、十一号各一句欄に藤田湘子。

吊革の細き電車に歸省かな  藤田湘子

寝返へれば庭にもうとき残暑かな

十八年十月号に中島斌雄(当時中島健雄)。

紅芙蓉ゆれゐてしろき蚊帳に覚む  中島斌雄

他にも外山滋比古という名前も見える。

戦前のごく一時期の「寒雷」を開いただけで、これである。戦後からの長い時期を見れば、どれほど多くの俳人が「寒雷」を通り抜けたことだろう。

戦前の国策による俳誌統合を、牧車さんらの肝煎りで狡猾にもまぬがれた「寒雷」が、統合された新興俳句系の雑誌に拠るべきであった多くの有為の俳人を吸収した、というのが高柳重信さんの固執していた見解で、昭和四十年代から、この見解による「寒雷」攻撃を、自分が編集する雑誌「俳句研究」で繰り広げていたのを思い出す。

「寒雷」が俳誌統合をまぬがれたのは事実だし、新興俳句系の俳誌が廃刊に追い込まれたのも事実だが、その事実の推移に、「寒雷」の側のなんらかの政治力が働いていたという事実はない。

それよりも、新興俳句運動が先細りになったのは、その運動の内実自体に原因があったと重信さんは考えなかったのか。

照敏さんの句会では、早稲田の学生の豊田秀明さん、国学院の大塚青爾さんと句座を交えた。

このメンバーに石川桂郎に師事していたやはり国学院の島谷征良さんを加え、関東学生俳句連盟が作られた記憶がある。この集会に一度出たがそれっきりになってしまった。当時の学生運動の熾烈さがあり、そこへの共感から、「学生」と名前のついた組織が、どういう形であれ運動に関わらないことのうしろめたさがあったからだ。

日大闘争では、日大の「釣り同好会」が勇名を馳せた。

釣り同好会の幟が機動隊とのゲバルトの最前線に張りついていたのだ。「関東学生俳句連盟」とて、何か有効なことをやるべきだというジレンマが僕の中にあった。

現在、島谷さんは「一葦」を主宰し、この年に寒雷巻頭を獲った大塚さんはその後消息不明、豊田さんは大橋巨泉さんの娘さんと結婚され、去年他界された。

照敏さんは、自宅句会のメンバーで「山繭」という同人誌を作っていた。小檜山さんや寒太さんも入っていて、豊田さんや大塚さんや僕もそれに加わった。

しかし、照敏さんの流麗、明快な論旨に比して、彼の作品ははっきり言って僕は好きになれなかった。

初期の句で自選にも入れておられる、

万緑や鴉の目玉もりあがる

雲雀落ち天に金粉残りけり

紅椿おくれて芽ぐむ木を信ず

生き作り鯉の目にらむまだにらむ

機智はある。それもあまり新鮮ではない機智が。

それより、何よりも現実から受けとる切実な実感がない。言葉の緊張感が感じられないのだ。俳句はこうあらねばという意識が即時的で素朴な実感をひん曲げている。

要するに言葉に対する運動神経のごときが不足。

寒雷会員は加藤楸邨というひとりの指導者に師事しているのであって、そういう意味では僕も照敏さんも同等の仲間であり、作風がお互いに違うのは当然のことと考えてよい。
ただ、なかなかそう建前どおりにはいかない。

照敏さんには、同人誌「山繭」を拡大発展させて主宰誌にしようとする意図があった。

それは近くにいる誰の目にも明白だった。

そしてその意図が見えること自体は決して不自然なことではなかった。

金子兜太、澤木欣一、森澄雄、和知喜八、古澤太穂、原子公平、久保田月鈴子、斎藤美規、熊谷愛子、小野蒙古風、原田喬等の俳誌主宰者は寒雷出身である。「寒雷」に投句経験があるというだけの自称弟子まで入れると正確な数がつかめないほどの主宰誌が「寒雷」から独立している。

力のある俳人が多かったことがその理由なのだろうが、同人や会員の集合離散にまったく楸邨が無関心だったせいでもある。寒雷では、何もかも、楸邨批判でさえ自由だった。だから破門などということも一件もなかった。

その前年、昭和四五年に森澄雄さんが創刊した「杉」もご他聞にもれず、十数年間も寒雷の編集長をやってきた森さんの人望もあり、むしろ楸邨の祝福を受けるかたちで出発したのだが、寒雷の主要同人や有力会員が根こそぎと言っていいほど数多く参加したため、同人の一部から反発があった。

寒雷誌上に古参の久保田月鈴子さん(現代俳句協会幹事長でもあった)が、「松だか杉だか知らないが」という「杉」の人集めに対する皮肉を書いて物議を醸したことがある。
楸邨もこれには困ったのだろう。句会で「森くんを応援してあげて欲しい。そして寒雷一本で頑張るという人も大いに頑張って欲しい」という異例の発言があったのを覚えている。

そんな中での現役編集長照敏さんの「山繭」だった。

照敏さんは、僕や早稲田俳句会の豊田秀明さんを可愛がってくれていた。

僕らを子飼いとして、来たるべき自分の主宰誌の中核に据えるつもりでいたに違いない。

そのことを僕らは感じ取っていた。しかし、それは、僕にとっては、むしろ迷惑な思惑だった。

同人誌「山繭」が照敏さん主宰誌に変わる前に自分の意志をはっきり告げなければならない。

そこで僕は照敏さんに手紙を書いた。

僕は山口誓子を最大に評価していて、その呪縛からの脱出口を探るために「寒雷」に来た。俳句性の核心は、イメージが鋭く断絶しところに散る火花にある。僕はそういう前提を置いて楸邨を学んでいるので、あなたの句柄の流麗な文体と機智は僕の志向するところではない。

そんな文面だった。もっと失礼なことも書いた気がする。

あなたには才能を感じないとも。

僕の方があるとまでは書いたかどうか。

怖いものは何もなかった。受験をはじめあらゆることがうまくいかなかった劣等感や焦燥感の裏返しが、俳句という一点に向ってのプライドを滑稽なまでに肥大化させていた。

文体の好みが違っても、一緒にやることはできます。

照敏さんから優しく論理的な返事がきたが、彼とはそれきりになった。

彼はその後一年で、公務多忙を理由に編集長を辞める。

「寒雷」の古参の人たちと相容れなかったという噂もあった。結局、彼は編集長ばかりか、寒雷同人も辞し、逃れるように退会して、「山繭」を改め「槙」を創刊することになる。編集長在任は三年であった。

そのこと以降二〇〇三年に照敏さんが亡くなられるまで、一切の交信はなかった。
照敏さんの、あの自信に満ちた、それでいて、純粋な子供のような笑顔を思い出すと、何か、ほろ苦い、申し訳ないような複雑な気持ちが湧いてくる。

(了)


平井照敏作品抄

金木犀の香の中の一昇天者

雲雀落ち天に金粉残りけり

万緑や鴉の目玉もりあがる

雲雀落ち天に金粉残りけり

紅椿おくれて芽ぐむ木を信ず

生き作り鯉の目にらむまだにらむ

ふと咲けば山茶花の散りはじめかな

死顔が満月になるまで歩く

いつの日も冬野の真中帰りくる

雪解けといふ愉しさを来りけり

秋風やきのふはしろきさるすべり

みな去れば冬大空のごときかな

木下闇抜け人間の闇の中

河鹿とはまろべる珠のごときもの

フリードリヒ・ニーチェのごとき雷雨かな

うりなすびきびとうがんと病みにけり

旅人に終の旅あり夏暁

「はる」といふことばの春がきてをりぬ

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2016-10-23

名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (27) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (27)

今井 聖
 「街」121号より転載

人参を並べておけば分かるなり 
鴇田智哉 『凧と円柱』(2014)

なんだこりゃ。

ニンジンヲナラベテオケバワカルナリ

この句は鴇田さんの第二句集『凧と円柱』の帯に記されている八句から採った。

八句の前に「自選句」などと銘打っては無いが、本人抽出の意図を背負った作品であることは確かである。

僕はカルチャースクールでの授業の二時間の半分を過去の実力俳人についての解説に当てている。

虚子やら波郷やら草田男やら楸邨やらを読んでいたら、あるとき若い俳人もやってくださいという数人の要望があった。その人たちの挙げた「候補」の中に共通して鴇田智哉の名前があった。
鴇田さんは人気作家なのだ。

鴇田智哉さんの句はこれまでの誰にも似ていない。

そして彼オリジナルの書き方が確立されているようにも見える。

また、それを中原道夫さんの言った「石田郷子ライン」に倣って言えば鴇田ふう書き方を憧憬する人たちによってその「ライン」が出来上がりつつあるようにも見える。

少なくとも僕の目にはそう映る。

僕は鴇田作品を不思議な感じで見ている。

おそらくこういう感覚というのは誓子や楸邨や兜太が登場したときと似通った印象ではないかと思う。

そう思うと言うことは僕は鴇田さんを評価しているのだなと自覚する。

句の構造を分析する前口上として、僕は鴇田さんの句は諷詠だということを感じる。

見えたもの聞こえた音等、人間の五感から直接受け取る印象を表現している。

鴇田さんは「書く」人ではなく「詠む」人である。

これはまずもっての僕の印象。彼の師が今井杏太郎だという先入観が僕の中にあるせいだろうか、呟きとか平明とか、言葉が次の言葉を呼ぶ滑らかさを「意味」に優先して感じるのだ。師を自分の骨にしてそこにオリジナルな肉付けをしてゆく。

師系とはそういうものだ。

具体例を示しながら鴇田さんの句の構造を僕なりに考えてみる。

一、主語の省略、目的語の省略。

通常これまでの俳句は主語が省略されるときは「私」または「私たち」がそこに隠れている場合に限るとされてきた。

例外はある。述語部分から明らかに主語を類推し得る場合は主語を省けるだろう。

目的語の省略はまずないと言っていい。

こちらも例外はあるだろう。海中で矢を放つと言えば間接目的語は「魚」に決まっているというような。

鴇田さんはこれらの通念に踏み込む。

冒頭の句。

人参を並べておけば何が分かるのかが書かれていない。

「何が」は「何を」。つまり目的語。

書かれていないとどうなるか、読者はハナッからなんのこっちゃ、わかりまへんで放り投げるか、

「忍耐強い読み手」なら目的語を自分なりに補って鑑賞する。

人参を並べておけば、私がここに置いたことが分かる。

人参を並べることで私が意味しようとしたことが分かる。

謎かけのようだと思ったとたんに作者の作戦にはまる。

謎かけ自体が意味を持つからだ。

僕はこの方法は金子兜太さんの「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」と似ていると思う。

「湾曲し」と「火傷し」の主語はそれぞれ異なるはずなのに両者とも示されない。示されなくても読者は異なる二つを補って鑑賞する。過去の二者を想起させることで、現在の「爆心地のマラソン」が起点となっていることに気づかせる。

ただ、主語が無くても湾曲するのは鉄のように曲がる物質であるし、火傷するのは生き物であると類推できる。

鴇田さんのはもっと類推から遠い省略である。

二、接続の言葉の「はずし」方。

ひあたりの枯れて車をあやつる手

これなど、まず、車は手であやつるものだから「車をあやつる手」は実に普通。

問題は「ひあたりの枯れて」。

枯れたところに日が当たっているなら凡庸な伝統句になる。「枯葉のひあたり」でも普通だし、枯れ色のひあたりでも普通。枯れたひあたりで、少し変になるが、それをひっくり返して「の」と「て」で結んだ。

こほろぎの声と写真にをさまりぬ

上着着てゐても木の葉のあふれ出す

も同様。前者は「こほろぎや」とおけば既にこほろぎは鳴いているので、

  こほろぎや皆で写真にをさまりぬ

とでもすれば実につまらない凡句になる。

「木の葉のあふれ出す」は動的でこの部分だけでもまずまず面白いが、上着はすでに季節感があるので木の葉と重複感が否めない。その「凡庸」を「と」と「ゐても」でひっくり返し敢えて違和感をぶつける。

杏太郎師直伝の和食に多国籍スパイスをえいやっと振りかける。

下地にきちんと「師」が生きているのだ。

三、形容詞と名詞の関係。

名詞と動詞の関係で成立する構造の句が多いがその関係のそれぞれを互い違いに交換する方法。次の作品は帯の句ではなく「凧と円柱」の中。

あいてゐる花のとびらは息をする

「あいてゐるとびら」と「花は息をする」ならば普通の関係。植物は呼吸するからね。

その二種類をそれぞれ交換する。あいてゐるを花にかけ、とびらに息をさせる。

帯の、

うすぐらいバスは鯨を食べにゆく

もそんな感じ。

うすぐらい鯨ならちょっとした機知の範囲。この程度なら従来の俳句でもやる。ピノキオが入った鯨の腹の中の感じ。「うすぐらい」。バスで食べにゆくはむしろ日常性だ。

うすぐらいをバスにくっつけ、「バスで」を「バスは」として助詞をいじることでヘンテコな世界が現出する。

相互交換手法。

四、反通念、常識を裏返す。

これはまあいろんな俳人がやっている。

便所より青空見えて啄木忌 寺山修司

莨火を樹で消し母校よりはなる 同

啄木の美化、無頼を通念として嫌い、便所をぶつける。

母校愛や郷愁の概念を裏切って莨を樹に押し付ける。

そもそも、

頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋

がそうだな。

「写生」「写生」って、見えるものばかりが「詩」じゃない。そもそも文字で写すなんて道理に合わない。

ほら、新興俳句系が大好きな「啓蒙」だ。

鴇田作品で言えば

尾の抜けてしまへば雪に眠るのみ

水にゐるごとくに風邪を保ちゐる

こんなのかな。

冬眠のためには毛を厚く被る必要があるから冬に動物の毛は伸びる。冬眠しない犬も猫も。

天の川犬後脚を抱き眠る 楸邨

かじかみて脚抱き寝るか毛もの等も 多佳子

こんな動物たちの毛は長い。

鴇田さんの獣は冬眠の前に尾が抜けてしまう。通念を逆転させる。

もっとも主語が無いし冬眠とも言っていないのだからそこに僕の読みの限界を言われれば肯うしかない。

「水にゐるごとくに風邪」はまあ、気の利いた伝統俳人なら常套。感覚的ですねなんて褒められたりして。通常風邪の句はその「状態」を言うのだ。

鴇田さんは「保ちゐる」。

保つは他動詞だから主語の意志を述べる。風邪を保ちたい奴などいるか。そこが通念の破壊。

以上四点あげてみたが、鴇田さんはこれらの要素のあれこれをいろいろな組み合わせで出しているように思える。

そして、これらの四点のうちの、特に最初の三点はまさに鴇田オリジナル。四点目はこれまで誰彼がやってきたことだ。

主語がないとき「私」や「私たち」で無くても鴇田智哉は読ませる。修飾語と被修飾語が「はす向かい」でも読ませる。それは作者の力であって「諷詠」の恩寵だ。

この三点の技法に於いて誰かの句に鴇田ふうを感じたら、それはただの亜流だ。

つまらない。


なんだこりゃこそ学びの宝庫。

2016-09-25

10句作品 住宅地 今井聖


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住宅地   今井 聖

流星二つ竈神厠神
甚平の隣に犬の合羽干す
秋日さす犬の歯型のある椅子に
芙蓉もう一輪本の帯取れば
かなかなや銃身冷ましゐる時間
かなかなを詰めてオレンジ色の雲
すいつちよと坊主頭の写真家と
露草の一つ仮説のやうに我
笑はない家族九月の砂の上
永遠に下る九月の明るい坂

2016-08-07

名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (26) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (26)

今井 聖
 「街」120号より転載

起立礼着席青葉風過ぎた 
神野紗希 『光まみれの蜂』(2012年)

なんだこりゃ。

キリツレイチャクセキアオバカゼスギタ

この欄はこれまでは歴史的評価の定まったいわゆる名人・大家のなんだこりゃ句を俎上に挙げて、そこから何かを学んでいくという趣旨でやってきた。

ここに登場する俳人は僕からみて尊敬すべき先人であることが第一条件で、その名人にしてこんなヘンな句をつくる、そしてその失敗が如何なる試行の結果であるのかを探っていく意図を持っていた。

名手のエラーこそが後進に何かを与えてくれる。天才のファインプレーなんてただ口を開けて見るしかない。凡愚に学べるものは何もない。

二十五回を終えたところで、もう僕にとっての「名人」が尽きた気がする。

あとは、俳誌経営達者の凡庸な「大家」や田舎の金持のプレスリー、もしくは尖鋭気取りのモダン爺婆しかいない。彼らの句はどれも整った複製ばかりで、なんだこりゃ句なんて一句もない。

だいたい試行なんて文字は彼らの辞書にないのだ。

そこでしばらくは若い世代に目を向けていきたいと思った。若い世代、これをどう見るかは難しい。若くないこちら側の態度をまず定めなければならない。

草田男は戦後、楸邨の戦争責任を問う公開書簡の中で、併せて、後進への哺育の責任を貴君は果たしているのかと問うた。

草田男は哺育ということを先人としての自分の義務と考えていたのだった。前回のなんだこりゃで書いた「長子」としての義務である。

楸邨は、僕は手を差し伸べて教えることはできないが、俳句をつくる後ろ姿をみてもらってもし得るところがあればどうぞという気持であると応える。

この応酬を見て、金子兜太は楸邨に師事することを決める。哺育されるなんてとんでもねえと彼は思ったのだ。

俳壇的には五十歳未満がおよそ若者と呼ばれる。

そもそも、体力、生殖能力は十代から二十代がピークだ。知力も同様だ。科学者のピークを考えればわかる。

高齢者が若い人より勝っていることはあるのか。

「経験」だと思っている老人のあなた、それは違う。

俳人の「経験」とは、使いまわしのパターンの手持が増えることを意味する。

こういうときはこの季語を使えばいい。季語の本意を外さぬ範囲でこの角度を用いれば新鮮に見える。

そんなしょうもないワザに長けてくるだけだ。

それが証拠に「大家」の作品で評価されるのは、ほとんどは若書きばかり。第一句集がもっとも評価される場合が多い。

そのあとは自己模倣か、大方は風流、諷詠に駆け込む。いわゆる枯淡、透徹という「境地」だ。季語についてのうんちくを述べ、修辞にうるさく、「知識」で売る。これが永く指導的立場を維持する道だ。

今回の俳人協会の機関誌「俳句文学館」の「的」というエッセイの欄に「若い」中山奈々さんが、「若手俳人の提言」と題して書いている。

今は俳壇のどこでも「若手なら誰でも良いから欲しい」かのように若手を求めている。若手のエキスを吸いたいなら、自分のエキスを吸われる覚悟をお持ちか。

そういう問いかけである。大いに納得。

ま、しかし、これは老人イジメにも見えなくはない。

そもそも老人の枯れ切った心身に、吸われるエキスなんぞ残っているのか。

問題は、小説などのジャンルと違って、俳壇ヒエラルキーの上部に老人が居座って、当代の俳句の価値を決めてしまうことだ。

駄馬が自己の「経験」に基づいて若き駿馬の価値を決める。駿馬は駄馬の価値観に沿うような作品を発表すること意識したとたんに駄馬に変貌する。

駄馬が駄馬を作るのである。

僕のみっともない画策を話そう。

僕は中学二年、十四歳で俳句に出会い、鳥取県米子市のさらに田舎の公民館の句会に通い始めた。

「ホトトギス」「馬醉木」「雪解」など伝統俳句系を集めた合同句会。それでも十人くらい。平均年齢六十代後半といったところ。俳人どころかそもそも人がいないのだからしょうがない。

通い初めてしばらくは、僕はまったく点が入らない状態が続いたが、たまたま、

  浴衣着て星見る母のまだ若く

という句に初めて点が入った。爺さんたちが「お母さん、いくつ?」なんてにやにやしながら採ってくれたのを覚えている。これで僕は老人をくすぐる術を体得したのだった。

しばらくして、その句会に参加してきた「青玄」の会員の計らいで、伊丹三樹彦さんが来訪されることになった。

こんな田舎に「中央」の偉い俳人が来てくださる。

みんな欣喜雀躍して三樹彦さんを迎えた。

そのとき僕が最高に気張って出した句。

  月天心またも愚念の我に籠る

蕪村句の切れ端やらをもっともらしく使ってうすっぺらな「俳諧」を演出しようとした「苦心」の痕がありありだ。

この句は無点であった。

十五やそこらで「またも愚念の我に籠る」の古色蒼然。

老人におもねることを画策するとこういうことになる。

「寒雷」に投句を始めてからも僕はずっと最年少だった。

句会の成績が少し良いとベテランのオバサンが寄ってきて、「若い人って感覚がすばらしいわね。感性がすごい」なんて褒めてくれる。これ、暗に、技術では負けないわよという皮肉なので、僕はこう応える。

「技術でも負けませんよ」

奈々さんの憤慨はよくわかる。

そして、老人になってしまった僕は、今、どうしたらいいのか。

経験や技術はもとより「感覚でも負けないよ」と言うのか。

仮に僕が昔駿馬だったとしても、老いた駿馬は若い駿馬にどうあがいてもかなわない。感覚でも技術でも。正直言って老馬は優秀な四歳馬には勝てそうもない。

しかし、若い俳人がみな駿馬だとは限らない。

若くても駄馬はゴマンといる。

こうなったら鈍った感覚と蓄え込んだ小狡いコツを携えて若武者に切られに行こう。

下手くそな若武者なら返り討ちできるかもしれない。

冒頭の句に戻ろう。

神野紗希さん。若手なんだこりゃ句の第一号にふさわしい人選であろう。

この句、青春性の典型のような世界である。

学校生活(小・中・高の範囲)の一場面。

「青葉風過ぎた」は男子の述懐としては気持悪いので、やはりここは女性性。己の現在に寄せるナルシシズム。

この世界、僕の下手な句を見て「お母さん、いくつ?」と聞いてきた爺さんの目を思いだす。セーラー服をうれしげに見つめる爺婆を意識してはいないか。

橋本多佳子だって、桂信子だって、抱かれて息の詰まりしことだの、懐に乳房ある憂さだの男の目を意識した内容を盛り込んできた。それがヒエラルキーの上部を懐柔する手段だったから。男社会の中で生き残ることの悲しさ。責任は男にある。

しかしながら、言葉を替えれば、島に赴任した女センセイの高峰秀子が多くの生徒に慕われる「二十四の瞳」や現千葉県知事が剣道着姿のまま夕日に向かって走るシーン、また、夏木陽介や中村雅俊やショーケンがラクビーボールを抱いて走るシーンとセーラー服姿で青葉風を感じる風情はどこが違うのか。ここには紗希さんの個としての内面はうかがうことができない。

この「典型」を爺さんたちは「普遍性」と評価するのか。毒も問題意識も持たない調和的青春性こそが体制従属者の在り方ではないのか。

十代の肉体と精神はほんとうにこんな内実なのか。

評価すべきはこのリズムとそれに乗せた速度感。

起立礼着席青葉風過ぎぬ

完了の「ぬ」であれば意味は「過ぎた」と同じになる。きちんと文語体伝統俳句の範疇にあるが、作者は「過ぎぬ」の野暮ったさでは青春性に乏しいと思ったか。「過ぎた」とむしろ乱暴に言い放つことで逆に「可愛い」を演出したのだろう。

この文体とリズムの演出はこの作者が思いを詩形に乗せることに融通無碍の能力を持っていることを示している。

僕はふと、『二十歳のエチュード』の原口統三を思い出す。

ニーチェを語り、ランボーを語り、多くの箴言を残して一高生統三は二十歳で入水自殺を遂げた。

二十歳をとっくに超えた紗希さんはもう決して若くはない。その三倍生きた僕はもう鬼神の域に入ったのかも知れぬ。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。