【句集を読む】
まるで映画のように
今井聖『九月の明るい坂』を読む
西原天気
直喩で繋がった二物には互換性がある。論理ではなく、俳句読者の内部に起こる作用として。
予告編のやうに川面を春の雲 今井聖
だから、作者が見ているものがあくまで川面に映った春の雲であるにせよ、私は、いつか映画館で予告編を眺めるとき、そこに春の雲を見るかもしれない。
と、喩の話から始めたが、本題は違う。このあとに何が始まるかについてのとりとめのない随想だ。
ロードムービー始まる鷹の目玉より 同
俳句にドラマ/物語を(過度に)読み取ることの是非はともかく、句集『九月の明るい坂』にはドラマチックな句が少なくない。だいたいにして、句集名がとられた《永遠に下る九月の明るい坂》からして、虚構的時間(永遠)、光量=露出をイメージさせる「明るい」との把握、そして下6音の醸す覚悟のような意思。どれをとってもドラマチックであり、映像的には映画のワンシーンにふさわしい。
話を掲句に戻す。鷹の視座から旅の行程が俯瞰される。しごくまっとうな映画の始まりだ。
ロードムービー的な句は、集中に見つかるか。読者によって、どの句をあげるか異なるだろうが、私は、これ。
冬帽を脱げば南に癖毛立つ 同
《南》に必然性はなく、そのぶんおおらかな景が広がる。これは旅の始まりよりも終わりにふさわしいシーンだと思う。《南》への着目は、日常からの離脱の作用もあるだろう。買い物に出かけてふと帽子をとったとき、人は《南》なんて意識しない。
別のドラマも見出した。
紙幣(さつ)数へをり滝見茶屋の席 同
かなかなの止む頃に来る不思議な客 同
この2句は同じページに並んでいる。とはいえ、通常の読みではセットでもひとつながりでもない。けれども、後者の《客》が前者の《滝見茶屋》に訪れた客に思えてしまう。修辞的な設えがあるわけではないから、これは私(読者)が勝手につなげて読んでしまうに過ぎない。その読みが正しいか間違っているかを問題にする前に、私の中に起こってしまう読みなのだからしかたがない。ミステリー成分が強く、土俗のモチーフを盛り込み、絵的には鮮烈で勁いタッチの映画。このシークエンスは、そんな映画の冒頭にふさわしい。まず謎をふりまくのだ。
なお、句集『九月の明るい坂』には《捕虫網》と《父》は印象的に(多数)登場する。
稲の中栞のやうに父立ちぬ 同
捕虫網旗日の旗の前通る 同
追憶やら来し方やら、作者はみずからの(生きた)時間と(生きた)空間を、ドラマチックにとらえ、そのセンチメントが句をドラマチックにしている。俳句と〔私〕のあいだの距離を臆することなくつめる。そうした態度やスタンスがしっかりと染み込んでいる。『九月の明るい坂』はそんな句集。
今井聖『九月の明るい坂』2020年9月/朔出版
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