2016-08-07

名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (26) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (26)

今井 聖
 「街」120号より転載

起立礼着席青葉風過ぎた 
神野紗希 『光まみれの蜂』(2012年)

なんだこりゃ。

キリツレイチャクセキアオバカゼスギタ

この欄はこれまでは歴史的評価の定まったいわゆる名人・大家のなんだこりゃ句を俎上に挙げて、そこから何かを学んでいくという趣旨でやってきた。

ここに登場する俳人は僕からみて尊敬すべき先人であることが第一条件で、その名人にしてこんなヘンな句をつくる、そしてその失敗が如何なる試行の結果であるのかを探っていく意図を持っていた。

名手のエラーこそが後進に何かを与えてくれる。天才のファインプレーなんてただ口を開けて見るしかない。凡愚に学べるものは何もない。

二十五回を終えたところで、もう僕にとっての「名人」が尽きた気がする。

あとは、俳誌経営達者の凡庸な「大家」や田舎の金持のプレスリー、もしくは尖鋭気取りのモダン爺婆しかいない。彼らの句はどれも整った複製ばかりで、なんだこりゃ句なんて一句もない。

だいたい試行なんて文字は彼らの辞書にないのだ。

そこでしばらくは若い世代に目を向けていきたいと思った。若い世代、これをどう見るかは難しい。若くないこちら側の態度をまず定めなければならない。

草田男は戦後、楸邨の戦争責任を問う公開書簡の中で、併せて、後進への哺育の責任を貴君は果たしているのかと問うた。

草田男は哺育ということを先人としての自分の義務と考えていたのだった。前回のなんだこりゃで書いた「長子」としての義務である。

楸邨は、僕は手を差し伸べて教えることはできないが、俳句をつくる後ろ姿をみてもらってもし得るところがあればどうぞという気持であると応える。

この応酬を見て、金子兜太は楸邨に師事することを決める。哺育されるなんてとんでもねえと彼は思ったのだ。

俳壇的には五十歳未満がおよそ若者と呼ばれる。

そもそも、体力、生殖能力は十代から二十代がピークだ。知力も同様だ。科学者のピークを考えればわかる。

高齢者が若い人より勝っていることはあるのか。

「経験」だと思っている老人のあなた、それは違う。

俳人の「経験」とは、使いまわしのパターンの手持が増えることを意味する。

こういうときはこの季語を使えばいい。季語の本意を外さぬ範囲でこの角度を用いれば新鮮に見える。

そんなしょうもないワザに長けてくるだけだ。

それが証拠に「大家」の作品で評価されるのは、ほとんどは若書きばかり。第一句集がもっとも評価される場合が多い。

そのあとは自己模倣か、大方は風流、諷詠に駆け込む。いわゆる枯淡、透徹という「境地」だ。季語についてのうんちくを述べ、修辞にうるさく、「知識」で売る。これが永く指導的立場を維持する道だ。

今回の俳人協会の機関誌「俳句文学館」の「的」というエッセイの欄に「若い」中山奈々さんが、「若手俳人の提言」と題して書いている。

今は俳壇のどこでも「若手なら誰でも良いから欲しい」かのように若手を求めている。若手のエキスを吸いたいなら、自分のエキスを吸われる覚悟をお持ちか。

そういう問いかけである。大いに納得。

ま、しかし、これは老人イジメにも見えなくはない。

そもそも老人の枯れ切った心身に、吸われるエキスなんぞ残っているのか。

問題は、小説などのジャンルと違って、俳壇ヒエラルキーの上部に老人が居座って、当代の俳句の価値を決めてしまうことだ。

駄馬が自己の「経験」に基づいて若き駿馬の価値を決める。駿馬は駄馬の価値観に沿うような作品を発表すること意識したとたんに駄馬に変貌する。

駄馬が駄馬を作るのである。

僕のみっともない画策を話そう。

僕は中学二年、十四歳で俳句に出会い、鳥取県米子市のさらに田舎の公民館の句会に通い始めた。

「ホトトギス」「馬醉木」「雪解」など伝統俳句系を集めた合同句会。それでも十人くらい。平均年齢六十代後半といったところ。俳人どころかそもそも人がいないのだからしょうがない。

通い初めてしばらくは、僕はまったく点が入らない状態が続いたが、たまたま、

  浴衣着て星見る母のまだ若く

という句に初めて点が入った。爺さんたちが「お母さん、いくつ?」なんてにやにやしながら採ってくれたのを覚えている。これで僕は老人をくすぐる術を体得したのだった。

しばらくして、その句会に参加してきた「青玄」の会員の計らいで、伊丹三樹彦さんが来訪されることになった。

こんな田舎に「中央」の偉い俳人が来てくださる。

みんな欣喜雀躍して三樹彦さんを迎えた。

そのとき僕が最高に気張って出した句。

  月天心またも愚念の我に籠る

蕪村句の切れ端やらをもっともらしく使ってうすっぺらな「俳諧」を演出しようとした「苦心」の痕がありありだ。

この句は無点であった。

十五やそこらで「またも愚念の我に籠る」の古色蒼然。

老人におもねることを画策するとこういうことになる。

「寒雷」に投句を始めてからも僕はずっと最年少だった。

句会の成績が少し良いとベテランのオバサンが寄ってきて、「若い人って感覚がすばらしいわね。感性がすごい」なんて褒めてくれる。これ、暗に、技術では負けないわよという皮肉なので、僕はこう応える。

「技術でも負けませんよ」

奈々さんの憤慨はよくわかる。

そして、老人になってしまった僕は、今、どうしたらいいのか。

経験や技術はもとより「感覚でも負けないよ」と言うのか。

仮に僕が昔駿馬だったとしても、老いた駿馬は若い駿馬にどうあがいてもかなわない。感覚でも技術でも。正直言って老馬は優秀な四歳馬には勝てそうもない。

しかし、若い俳人がみな駿馬だとは限らない。

若くても駄馬はゴマンといる。

こうなったら鈍った感覚と蓄え込んだ小狡いコツを携えて若武者に切られに行こう。

下手くそな若武者なら返り討ちできるかもしれない。

冒頭の句に戻ろう。

神野紗希さん。若手なんだこりゃ句の第一号にふさわしい人選であろう。

この句、青春性の典型のような世界である。

学校生活(小・中・高の範囲)の一場面。

「青葉風過ぎた」は男子の述懐としては気持悪いので、やはりここは女性性。己の現在に寄せるナルシシズム。

この世界、僕の下手な句を見て「お母さん、いくつ?」と聞いてきた爺さんの目を思いだす。セーラー服をうれしげに見つめる爺婆を意識してはいないか。

橋本多佳子だって、桂信子だって、抱かれて息の詰まりしことだの、懐に乳房ある憂さだの男の目を意識した内容を盛り込んできた。それがヒエラルキーの上部を懐柔する手段だったから。男社会の中で生き残ることの悲しさ。責任は男にある。

しかしながら、言葉を替えれば、島に赴任した女センセイの高峰秀子が多くの生徒に慕われる「二十四の瞳」や現千葉県知事が剣道着姿のまま夕日に向かって走るシーン、また、夏木陽介や中村雅俊やショーケンがラクビーボールを抱いて走るシーンとセーラー服姿で青葉風を感じる風情はどこが違うのか。ここには紗希さんの個としての内面はうかがうことができない。

この「典型」を爺さんたちは「普遍性」と評価するのか。毒も問題意識も持たない調和的青春性こそが体制従属者の在り方ではないのか。

十代の肉体と精神はほんとうにこんな内実なのか。

評価すべきはこのリズムとそれに乗せた速度感。

起立礼着席青葉風過ぎぬ

完了の「ぬ」であれば意味は「過ぎた」と同じになる。きちんと文語体伝統俳句の範疇にあるが、作者は「過ぎぬ」の野暮ったさでは青春性に乏しいと思ったか。「過ぎた」とむしろ乱暴に言い放つことで逆に「可愛い」を演出したのだろう。

この文体とリズムの演出はこの作者が思いを詩形に乗せることに融通無碍の能力を持っていることを示している。

僕はふと、『二十歳のエチュード』の原口統三を思い出す。

ニーチェを語り、ランボーを語り、多くの箴言を残して一高生統三は二十歳で入水自殺を遂げた。

二十歳をとっくに超えた紗希さんはもう決して若くはない。その三倍生きた僕はもう鬼神の域に入ったのかも知れぬ。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。

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