2016-08-07

あとがきの冒険 第3回 象・俳号・ロケット 山田露結『ホームスウィートホーム』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第3回
象・俳号・ロケット
山田露結ホームスウィートホーム』のあとがき

柳本々々


山田露結さんの句集あとがきに入る前に、アメリカの作家レイモンド・カーヴァーの〈象〉をめぐる一節を引用してみようと思う。

そんな頃、ある夜に私は夢を見た。…夢の中では父親がまだ生きていて、私を肩車してくれていた。私は五歳か六歳の子供だった。《さあ、ここに乗れよ》と父さんが言った。…我々は互いの体をしっかりとつかんでいた。…《つかまらんでもいい、ちゃんと落っこちないように持っててやるから》。…私は両手を放し、横に広げた。…私は象に乗っているつもりだった。…そこで目が覚めた。
(レイモンド・カーヴァー、村上春樹訳「象」『村上春樹翻訳ライブラリー 象』中央公論新社、2008年)

このカーヴァーの短編「象」のなかでは夢のなかの「父親」が「象」のメタファーとして語られているが、露結さんのあとがき「ある夢の話-あとがきにかえて」も夢のなかの「象」で語り始められる。

私はときどき、象にしがみついている夢を見ることがある。象と言ってもそれはもう、ほとんど山と言ってもいいくらいの巨大なもので、どうしてそんなものが夢に出てくるのか、また、どうしてそこへしがみついているのか、私自身はさっぱり訳がわからないのだが、ともかく、夢の中で私はいつもその巨大象に怯えているのである。

この「象」がなんのメタファーであるかはわからない。この「あとがき」が「さっぱり訳のわからない」感じで始まったように、それはとりあえず「さっぱり訳のわからない」ものとしてあることが大事だと思う。

しかし「訳がわからない」感じで始まった「あとがき」はその最後においてとつぜん〈わかる/わからない〉のあるドラマを見せる。語り手は「あとがき」の終わりに至り、「ああそうかと妙に納得したような気分」になるのだ。この「あとがき」には明らかに〈わからない〉から〈わかる〉へのドラマがある。では、なにがわかったのか。

私はふと、生前祖父が俳句を嗜み、俳号を「露結」と名乗っていたことを思い出した。それで私は、ああそうかと妙に納得したような気分になって、祖父からその称号をもらって俳句を作ることにしたのである。

語り手が納得したのは〈祖父〉と〈俳句〉をめぐる何かである。語り手は祖父から「露結」という俳号を受け継いだ。そのとき、「妙に納得し」「俳句を作ることにした」。そして「あとがき」は、終わる。

露結さんの「あとがき」冒頭の「象」がなにかを断定するのは野暮だとおもう。おもうけれど、それはたぶん、〈祖父的であり、俳句的であるなにか〉である。カーヴァーの「象」の語り手が「父親」を「象」と見立てたように、露結さんの「あとがき」の語り手も、「祖父」や「俳句」に〈象的〉ななにかを見出したのだ。「しがみつ」かなければならないほどの。

それはつかまなければふりおとされるような〈なにか〉だった。しかしカーヴァーの「象」に記述されていたように、「つかまらんでも…ちゃんと落っこちないように持ってて」くれる〈なにか〉でもそれはあった。それが祖父から俳号を受け継ぐということでもあるのだ。ある〈つながり〉を感じた上で、その〈つながり〉を自らの名として引き受け、俳句表現をはじめること。みずからに象のような土台があることを感じること。

その意味でこの句集は巨大なつながりにあふれている。句集タイトル『ホームスウィートホーム』の二重の「ホーム」、御中虫さんの装画に表れたおびただしいひとびとの交歓、露結さんの俳句の〈反復〉のモチーフとしての言葉と言葉の共振、そして「あとがき」において〈ROKETSU〉という俳号によってつながっていく祖父と孫=〈私〉。

カーヴァー「象」において、父親の肩車に乗ってこころから安心した〈私〉はふいに「両手を放し、横に広げた」。

「山」のように巨大な象に乗り、〈露結〉という〈ホーム〉のつながりを感じた上で、両手を放し、横に広げること。それはまるで〈ロケット〉そのものではないか。


(山田露結「ある夢の話-あとがきにかえて」『ホームスウィートホーム』邑書林、2012年 所収)


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