名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (27)
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (27)
今井 聖
「街」121号より転載
人参を並べておけば分かるなり
鴇田智哉 『凧と円柱』(2014)
なんだこりゃ。
ニンジンヲナラベテオケバワカルナリ
この句は鴇田さんの第二句集『凧と円柱』の帯に記されている八句から採った。
八句の前に「自選句」などと銘打っては無いが、本人抽出の意図を背負った作品であることは確かである。
僕はカルチャースクールでの授業の二時間の半分を過去の実力俳人についての解説に当てている。
虚子やら波郷やら草田男やら楸邨やらを読んでいたら、あるとき若い俳人もやってくださいという数人の要望があった。その人たちの挙げた「候補」の中に共通して鴇田智哉の名前があった。
鴇田さんは人気作家なのだ。
鴇田智哉さんの句はこれまでの誰にも似ていない。
そして彼オリジナルの書き方が確立されているようにも見える。
また、それを中原道夫さんの言った「石田郷子ライン」に倣って言えば鴇田ふう書き方を憧憬する人たちによってその「ライン」が出来上がりつつあるようにも見える。
少なくとも僕の目にはそう映る。
僕は鴇田作品を不思議な感じで見ている。
おそらくこういう感覚というのは誓子や楸邨や兜太が登場したときと似通った印象ではないかと思う。
そう思うと言うことは僕は鴇田さんを評価しているのだなと自覚する。
句の構造を分析する前口上として、僕は鴇田さんの句は諷詠だということを感じる。
見えたもの聞こえた音等、人間の五感から直接受け取る印象を表現している。
鴇田さんは「書く」人ではなく「詠む」人である。
これはまずもっての僕の印象。彼の師が今井杏太郎だという先入観が僕の中にあるせいだろうか、呟きとか平明とか、言葉が次の言葉を呼ぶ滑らかさを「意味」に優先して感じるのだ。師を自分の骨にしてそこにオリジナルな肉付けをしてゆく。
師系とはそういうものだ。
具体例を示しながら鴇田さんの句の構造を僕なりに考えてみる。
一、主語の省略、目的語の省略。
通常これまでの俳句は主語が省略されるときは「私」または「私たち」がそこに隠れている場合に限るとされてきた。
例外はある。述語部分から明らかに主語を類推し得る場合は主語を省けるだろう。
目的語の省略はまずないと言っていい。
こちらも例外はあるだろう。海中で矢を放つと言えば間接目的語は「魚」に決まっているというような。
鴇田さんはこれらの通念に踏み込む。
冒頭の句。
人参を並べておけば何が分かるのかが書かれていない。
「何が」は「何を」。つまり目的語。
書かれていないとどうなるか、読者はハナッからなんのこっちゃ、わかりまへんで放り投げるか、
「忍耐強い読み手」なら目的語を自分なりに補って鑑賞する。
人参を並べておけば、私がここに置いたことが分かる。
人参を並べることで私が意味しようとしたことが分かる。
謎かけのようだと思ったとたんに作者の作戦にはまる。
謎かけ自体が意味を持つからだ。
僕はこの方法は金子兜太さんの「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」と似ていると思う。
「湾曲し」と「火傷し」の主語はそれぞれ異なるはずなのに両者とも示されない。示されなくても読者は異なる二つを補って鑑賞する。過去の二者を想起させることで、現在の「爆心地のマラソン」が起点となっていることに気づかせる。
ただ、主語が無くても湾曲するのは鉄のように曲がる物質であるし、火傷するのは生き物であると類推できる。
鴇田さんのはもっと類推から遠い省略である。
二、接続の言葉の「はずし」方。
ひあたりの枯れて車をあやつる手
これなど、まず、車は手であやつるものだから「車をあやつる手」は実に普通。
問題は「ひあたりの枯れて」。
枯れたところに日が当たっているなら凡庸な伝統句になる。「枯葉のひあたり」でも普通だし、枯れ色のひあたりでも普通。枯れたひあたりで、少し変になるが、それをひっくり返して「の」と「て」で結んだ。
こほろぎの声と写真にをさまりぬ
上着着てゐても木の葉のあふれ出す
も同様。前者は「こほろぎや」とおけば既にこほろぎは鳴いているので、
こほろぎや皆で写真にをさまりぬ
とでもすれば実につまらない凡句になる。
「木の葉のあふれ出す」は動的でこの部分だけでもまずまず面白いが、上着はすでに季節感があるので木の葉と重複感が否めない。その「凡庸」を「と」と「ゐても」でひっくり返し敢えて違和感をぶつける。
杏太郎師直伝の和食に多国籍スパイスをえいやっと振りかける。
下地にきちんと「師」が生きているのだ。
三、形容詞と名詞の関係。
名詞と動詞の関係で成立する構造の句が多いがその関係のそれぞれを互い違いに交換する方法。次の作品は帯の句ではなく「凧と円柱」の中。
あいてゐる花のとびらは息をする
「あいてゐるとびら」と「花は息をする」ならば普通の関係。植物は呼吸するからね。
その二種類をそれぞれ交換する。あいてゐるを花にかけ、とびらに息をさせる。
帯の、
うすぐらいバスは鯨を食べにゆく
もそんな感じ。
うすぐらい鯨ならちょっとした機知の範囲。この程度なら従来の俳句でもやる。ピノキオが入った鯨の腹の中の感じ。「うすぐらい」。バスで食べにゆくはむしろ日常性だ。
うすぐらいをバスにくっつけ、「バスで」を「バスは」として助詞をいじることでヘンテコな世界が現出する。
相互交換手法。
四、反通念、常識を裏返す。
これはまあいろんな俳人がやっている。
便所より青空見えて啄木忌 寺山修司
莨火を樹で消し母校よりはなる 同
啄木の美化、無頼を通念として嫌い、便所をぶつける。
母校愛や郷愁の概念を裏切って莨を樹に押し付ける。
そもそも、
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
がそうだな。
「写生」「写生」って、見えるものばかりが「詩」じゃない。そもそも文字で写すなんて道理に合わない。
ほら、新興俳句系が大好きな「啓蒙」だ。
鴇田作品で言えば
尾の抜けてしまへば雪に眠るのみ
水にゐるごとくに風邪を保ちゐる
こんなのかな。
冬眠のためには毛を厚く被る必要があるから冬に動物の毛は伸びる。冬眠しない犬も猫も。
天の川犬後脚を抱き眠る 楸邨
かじかみて脚抱き寝るか毛もの等も 多佳子
こんな動物たちの毛は長い。
鴇田さんの獣は冬眠の前に尾が抜けてしまう。通念を逆転させる。
もっとも主語が無いし冬眠とも言っていないのだからそこに僕の読みの限界を言われれば肯うしかない。
「水にゐるごとくに風邪」はまあ、気の利いた伝統俳人なら常套。感覚的ですねなんて褒められたりして。通常風邪の句はその「状態」を言うのだ。
鴇田さんは「保ちゐる」。
保つは他動詞だから主語の意志を述べる。風邪を保ちたい奴などいるか。そこが通念の破壊。
以上四点あげてみたが、鴇田さんはこれらの要素のあれこれをいろいろな組み合わせで出しているように思える。
そして、これらの四点のうちの、特に最初の三点はまさに鴇田オリジナル。四点目はこれまで誰彼がやってきたことだ。
主語がないとき「私」や「私たち」で無くても鴇田智哉は読ませる。修飾語と被修飾語が「はす向かい」でも読ませる。それは作者の力であって「諷詠」の恩寵だ。
この三点の技法に於いて誰かの句に鴇田ふうを感じたら、それはただの亜流だ。
つまらない。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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