【句集を読む】
のびのびと幸せな歩調
小池康生『奎星』を読む
西原天気
蠅生まるビル一面に室外機 小池康生
毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Tenki SAIBARA
【句集を読む】
のびのびと幸せな歩調
小池康生『奎星』を読む
西原天気
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【週俳600号に寄せて】
土曜日がやってくる
小池康生
『週刊俳句』関係者の皆さん、600号発刊誠におめでとうございます。600号は大変な数字です。月刊誌なら50年かかります。週刊では11年ほどの歴史。創刊号は2007年4月29日でした。あの時代、週刊というのは衝撃的でした。いや、いまでも衝撃です。
俳句の商業誌は通常月刊、しかも紙媒体で有料。『週刊俳句』は、ウェブマガジンで、週刊で、フリー。結社誌でもなく、同人誌でもなく、総合誌でもなく、ただ俳句好きが集まったような雑誌が週刊でだされるのは相当なインパクトがありました。
それが淡々と600号も続くのは大変なことです。力が入り過ぎても続かないでしょうし、しかし、ある種の情熱がない限り毎週の編集は続かないでしょう。力加減を知る編集スタッフに心から拍手を送ります。これからも呆れるほど『週刊俳句』を続けてください。
わたしは今、時折読者で、時折執筆者です。でも毎週Twitterなどで週刊俳句の目次を確認し、いま、どんな人が作品を発表しているか、評論を書いているかを必ず確認しながら土曜日(日曜がやってくるのを知ります。11年間、土曜日(日曜)は毎週やってきているようです。
インターネットが普及し、『週刊俳句』がスタートした頃、若手中堅、さらには年配の俳人が結社の外に出始めた気がします。『豈』のウェブマガジンが出たことも影響しているように思います。それまで結社に閉じ籠っていた人たちが表に顔を出し交流をはじめたのです。
俳人の中には、昔から俳句世界を自由に行き来し幅広い交流を持つ人たちがいますが、それは俳壇でも活躍するような一部の人達で、一般の俳人は結社内の交流が中心のような気がしていました、それがインターネットの普及とともに関係を広げ、お互いの存在を知りえるようになったと思います。
そんな時代に俳人が外に出るきっかけに『週刊俳句』があったような気がします。
無色透明に近い存在だからこそ、そういう役割を無意識に果たしたのだと思います。
とはいえ、最初から『週刊俳句』を見ているわたしと、途中から『週刊俳句』を見ている人は、『週刊俳句』の眺めは違うかもしれません。それがどんな眺めかわたしには知りようもありませんが。
元い。600号です。
いま、599号を眺め、なんの感慨もありません。
素晴らしいことです。
これからも変わりなく、のれんに腕押しのスタッフで淡々とよろしくお願いします。
いま、わたしは季刊で『奎』をだし、作業にはくたくたですが、編集案はいくらでも出てきて楽しい毎日です。もう少し若ければとないものねだりをしますが、その内、『週刊俳句』にも老いがやってくるでしょう。わたしはそれを見るのも少し楽しみです。600号はかなりの年季です。これからも近く遠く、『週刊俳句』を眺めています。たまには声をかけてください。でも、あまり声をかけないでください。おめでとうございます。
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Labels: 600号記念号, 週俳600号に寄せて, 小池康生
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〔今週号の表紙〕
第513号 二月の花火
小池康生
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【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで
仲寒蟬 × 上田信治
畦塗の準備のままの猫車などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
遊船や屋根を開きて橋潜るあたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
冬銀河子が減り子守唄が減りどこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
冬銀河子が減り子守唄が減りなどが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
理科室の棚に鍵あり梅の花あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
空き箱をかかへて春の微熱かな俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
白梅のかたき莟の香なりけり平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
池に雨松の手入も済みたるよ 2014と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。
運動会その翌日が土砂降りで 2013
新聞も三月三日ひなまつりあるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。
また中へ戻るはちすのうへの蠅好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
東京に人影は秋来てゐたりこの助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になるあたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの
鯛焼きを分け合い星に歴史かなあたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
卒業や写真にうつる大きな木みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。
親戚や同じかたちの雑煮餅
転校は履歴書に無し蓼の花はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬはいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。
鳰鳴くや鎌田實をポケットにというのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリングの「ホバリング」
一行の編集後記夏来る季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
手袋もをのこも行方不明なり安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔
降り残す雨を今ごろ椎若葉
【週俳2月の俳句・川柳を読む】
「叫び」よりも「声」は怖い
小池康生
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28. 小池康生 「一睡」
閉館のキネマの隣布団干す
手袋もをのこも行方不明なり
近づけば点る仕掛けや年暮るる
海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
男湯と女湯代はる去年今年
外出はせぬがよそゆき大旦
残り福むかし不良で貧相で
嗄れ声冬菜いよいよ旨さうに
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
地の雪と五重塔に載る雪と
マフラーに普段着のありそればかり
日向ぼこばかりしてゐること苦手
描きかけの消防車なり出動す
立春のトールサイズといふカップ
新暦の方の二月を愛しをり
逆光の一山は紺春の雲
お水取り巨きな夜を燃やしけり
一本も観ずに延滞春の雨
春炬燵下位の力士にいや詳し
年寄りに年寄りの役百千鳥
啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
早喰ひがもつとも旨し春の昼
青空を眺めに出掛け落第す
石鹸玉すべて己が壊すなり
鳥交る片方だけが無表情
苗札のなきものばかり咲きにけり
あかときはけふもあたらし蜆舟
けもの道記せる地図の朧かな
谷底に墓と笑ひや朝桜
一睡につづく一睡ちるさくら
春寒し伊勢はいづくも神の傍
花水木住めば覚える人の顔
降り残す雨を今ごろ椎若葉
溢るるは漲るに似て菖蒲風呂
たけのこの白きところに値の書かれ
台詞なき場面のつづく涼しさよ
眼帯と香水まとふ少女かな
噴水のわづかに顔にかかる距離
現れて消えてあらはれ死にゆく蚊
我ながら大きな文字や夏見舞
とめどなく水織り込んでゆく瀑布
黒南風や五人で守る草野球
バナナ剥く北に東に南西に
生身魂あの世の下見済んだらし
二百十日木偶全身を震はせて
釣り人を離れぬ鷺や秋の昼
松茸を買つて洋服あきらめる
澄みてなほ水は面をうしなはず
唐辛子売るや辛さを詫びながら
行く秋に会釈御手洗に柄杓
●
■小池康生 こいけ・やすお
銀化同人。句集『旧の渚』。
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Labels: 2015角川俳句賞落選展, 小池康生, 落選展
【週俳6月の俳句を読む】
この人の句をもっと
小池康生
『末期』 利普苑るな
週刊俳句の『6月の俳句を読む』への執筆依頼が来たのは、編集部がこの『末期』十句をわたしに読ませたかったのではないかと推察している。昨年わたしは、角川俳句賞に『最初の雨』という五十句を応募した。これは、わたし自身が宣告を受けてからの治療、手術、術後の日々を描いたものだった。末期はのぞいていないが、末期かもしれぬという気持ちは味わった。
『末期』……あまりにも重い表題である。末期とは、死の寸前の限られた時間なのだから。作者に対し「死」という言葉を使うことさえ憚られるが、フィクションではない(と思える)作品に向かいあうためにあえて使わせていただく。
『最初の雨』を書き、相当な時間を経ての反省は、病床での俳句は、辛い悲しいのは当然のこと、本人にとって切実なことを書いても、赤の他人には、想像の範囲のことであり、悲しみや辛さはすべて「病床」という言葉の中にあると考えなければいけないこと。それは重々承知して創作にあたったつもりだったが、まだまだそれが足りず、病床の中にいる人間の幅広い感情や、意外な気持ち、意外な行動を詠いあげることができていなかった。
病の中になりながら病だけで生きていない自分や家族を、誤解を恐れずに書くことが必要だったということ。病床の中にある単調に見えつつ高低差の激しい感情。驚くほどのユーモアや、残酷さや、至ってニュートラルな感情……そういうバラエティさが欲しかった。それは書きながら意識してきたつもりだが、書き終え時間が経つとまだまだ物足りなく、反省多きデキだった。
この十句を読むということは、わたしの中のそんな背景を無視できない。
一句二句引くような読み方は難しいので、全部鑑賞してみる。
末期長くあれかし新茶啜りをり 利普苑るな
末期とは、ご病気の本人の一番つらい時期。看病する人も辛く、それでも長く生きて欲しいと願う。ここで、「八十八」というめでたい数字の隠された季語をぶつけてきた。
末期の状況に遠くにある「実り」を持ってきた。
香り高く、緑茶の新鮮な茶葉の色彩を17音に登場させた。
面白い取合せだが、作者自身が病を抱え、新茶を啜りながら、末期を長くあれかしと祈っているのだろうか。
それとも、作者は病人の看病しながら、その人の末期を「長くあれかし」と祈っているのだろうか?
「末期長く」というフレーズの中には「末長く」という言葉も織り込まれているのかもしれない。末期という重い言葉を使いながら、なかなかのユーモアである。縁起のいい新茶を飲みながら、末期の闘いに挑む。魅力的な劈頭である。
麦秋や病院よりも白き墓
麦の秋の黄金色。病院の白。それよりも白い墓。三つの色彩がわたしのなかではうまくまとまらなかった。
猫の待つわが家遠しや薔薇香る
帰る、帰られないと思い。やはり入院しているのは作者なのだろうか。
「遠し」が物理的な距離だけを指していないのは誰にも明白なのだが、薔薇はどう読めばいいのだろう。見舞いにもらった高価な薔薇。しかし作者には猫の香りが恋しいということだろうか。
病床の夏暁パッヘルベルのカノン
ドイツの、ヨハン・パッヘルベル作曲のカノン。卒業式や入学式に使われることの多い曲らしい。そうくると、病床の方はご本人ではなく若い方という想像も膨らむ。数句あとの「逆縁」という言葉も引っかかってくる。
あるいは、作者本人の卒業や入学を思い出しているのか。
それとも卒業や入学に関係なく、この曲の持つ旋律が作者の好みなのか。
全体の調べから、あまり悲しい感じはしない。好きな曲を、暁という最高の時間に聴いている場面が想像される。
入学や卒業も人生の大きな区切り。末期も大きな区切り、そういうものを引っ掛けながら、美しい明けの空をベッドから眺めているのかだろう。
聖五月額に楔打ち込まれ
強烈な句。数句あとの<夏蝶や水玉柄の脳画像>と合わせて読むとかなり苛酷である。わたしも内視鏡を体内に通しながら、モニターに映る自分の腫瘍を眺めたが、それは絶望しかない画面で、そこから検体の結果を待つ時間は、いくら楽天的な性格でも希望など持ちようがない。<額に楔を打ち込まれる>は、決して大げさではない。聖五月。クリスチャンだとしたら、この状況の意味を神に問いかけたくもなるだろう。この季語に磔刑の自分のイメージを合わせ、しかも楔は額に打ち込まれるのだから、どれほどの境涯を迎えているのか。あまりに切実である。額、そこに腫瘍があるとも読めてしまうが……。
逆縁の不孝よ父よ初蛍
「逆縁」が、作者と親御さんの関係なのか。作者と作者の子供さんとの関係かがまだ分からずにいるが、本人と親御さんとの関係と判断してみる。逆縁は幾つになろうが逆縁。この「初蛍」は、一句の中でどんな摩擦を起こしているのだろう。今年の初蛍は見ることができたのだろうか。まさか、思い出の初蛍ではあるまい。俳句のルールブックを気にしているわけではないが、思い出の蛍はいいとしても、思い出の初蛍なんて機能しないだろうなぁ。一連の句が病院内と思われるので、この初蛍の場所を想像しがたい。
かはほりや隣のベッドより寝息
この句が、十句のなかで最も印象に残った。自分が重篤であるだけでなく、同じ病室の人たちも皆それなりに重い病を抱えているのだろう。そして、病人の睡眠時間はまちまちである。蝙蝠がうごきだす時間、病院は慌ただしい。見舞い客の訪問。夕食を始める人、寝息を立てている人。病室でも、ロビーでも動きがある。窓からは、蝙蝠の乱舞が見える。不吉でもあり、その動きは慌ただしさや、錯乱などのイメージのつながりを生み出す。入院病棟ならではの生き生きした時間でもある。夕暮れに動き出す「かはほり」と「隣のベッドより寝息」の対比が際立つ。
病室より線路と航路朝ぐもり
病室より両方が見えるのだろう。それは末期の先の道の暗示と見るのが当然で、そうなると線路と航路が現実のものだとしても、このふたつを並列に記す必要があるのだろうかと疑問が沸く。もし並列に意味があるなら、それが読者に伝わるような描き方が必要だろうし、暗示として割愛できるなら、そのどちらかの路をもう少し書き込んで欲しいと思うのだが。
夏蝶や水玉柄の脳画像
末期の画像は怖いものだが、作者の事情は知る由もないので、作品は作品として読ませていただけば、この「水玉柄の脳画像」は悲しくはない。明るく弾んでさえ見える。入院中の画像はすべからく怖いものだが……。それとも疑いのあった画像を恐る恐る見ていたが医師の説明で明るい気分になったのだろうか。入院中の患者が、怯え、緊張したあとの開放感は相当なものだからなぁ。とんちんかんな読み方をしているのだろうか。病床の俳句として相当ユニークだ。
目鼻消し泣きたき日あり雲の峰に
人間そう簡単には泣かないものである。しかし、長い闘病生活のなかには、「泣きたき」日もあるのだろう。<目鼻消し泣きたき>が切ない。ひとりシーツに隠れてではなく、「雲の峰に」がいい。泣いてはいない心の叫び。夕刻の蝙蝠ではなく、真昼の雲の峰と向かいあっている。それは雲の峰でありながら、自分の中に屹立する自分を指しているのかもしれない。
闘病十句、説明をせずに思いの丈を詠いあげないことには面白くない。
しかし、それはなかなかすべてを理解できるわけではなく、作者とおなじ立場には立てない。ただ、垣間見る。歌の断片を聴くのみ。この人の句をもっと読みたくなる十句だった。
『秘密兵器』 喪字男
花合歓やピアスあふるるピルケース 喪字男
この句が特に印象に残った。
ピルケースにピアスが入っているのだ。ピアスを付けるときを身近に目撃する関係なのだろう。花合歓のほわーとした雰囲気に合う。花合歓の木陰でのシーンでも気持ちいい。〈あふるる〉ほどなのだ。さぞや趣味のあう品々が溢れているのだろう。女性の備品にはあまり深入りしてはイケナイ気もするが、それを垣間見る時間を得ると、親しみが増すことがある。
『何か書かれて』 福田若之
一句たりとも読み流せない手強い句が並ぶ。でも力を入れずに読んでみる。
ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう 福田若之
そう呼ぶから、そう認識され、そういう風に存在する。
広い田に引用されてゆく早苗
〈引用〉とう言葉に別のチカラを与え、それが嫌味でないことが不思議。
箱庭の作者が映り込む水面
カメラマンや監督を刺激するような句。箱庭の映像。そこにある水面。水面を強調したアングルではないのだけれど、すぐさまそこに箱庭の作者が映り込み、観客が「あっ!」と思うなり、その顔のサイズから水面のサイズ、箱庭のサイズが認識され、小さな驚きが錯綜感に変わってゆく。
夕立の幹にべたつく手が触れる
書かれていないことは、大きな木の幹で、暑い日にも関わらず木肌は乾いているということ。その気持ち良さを〈夕立〉と〈べたつく手〉で描いているのだろう。
何も書かなければここに蚊もいない
ハンカチの句と響き合い、この句でさらに飛翔させてゆく。
この十句を読んでの感想は、インテリ臭い句は嫌いなのだが、どうしてか、嫌悪感が沸かないということ。それぞれどこかに純化という仕事がなされているのだろう。
第424号 2015年6月7日
■利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
■喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
■福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む
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〔今週号の表紙〕
第420号 京都の、なーんにもないところ
小池康生
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第6回石田波郷新人賞受賞作を読む
賞の輪郭(後編)
小池康生
≫前編
前回にも断りを入れたが、わたしは『石田波郷新人賞受賞作』を読むというよりは、『石田波郷俳句大会第6回作品賞』の全体を読んで楽しみ、その感想を書いている。
波郷新人賞を狙う人は、この小冊子を手に入れて読むといい。
各審査員から仮名遣いの安易な間違いに気を付けるようにとか、二十句のなかに直喩の句をいくつも入れないようにとか、その他具体的なアドバイスが選評のなかに散りばめられていて、コミュニティを持たぬ人たちには貴重なアドバイスになることだろう。
冊子内の、選考過程について説明する一文に石田波郷新人賞は、〈「俳句甲子園」で登場した若い才能がさらに大きな注目を集める「第2のステージ」として、この新人賞が位置づけられるという見方も増えています〉とのこと。確かに、学生俳人がさらに社会人をも含めた俳句の世界で羽ばたく登竜門のような感じはする。
年齢制限三十歳までコンクールだから、学生とは限らないのだが、実際には、今年の受賞作は十八歳の大学生。準賞は十七歳の高校生。奨励賞は二十歳の大学生と、二十四歳の社会人と、三十歳の院生。
ひとり三十歳がいるが、実に若い人たちが活躍していて、二十歳以下にしても成立しそうな勢いである。
俳句は年齢ではなく、俳句を読んできた数、詠んできた数、さらにはその読みがどれだけ深いか。そこに俳人の成長が関係するとつくづく感じる。
年齢的な深みも重要であるが、月に4句5句を作ってそれで終わるだけでは、年間六十句程度の作句数。作者が年齢的深みを持っていたとしても、それを作品に載せる技は、その作数ではなかなか身につかないだろう。
高校生は俳句甲子園のためにだけ俳句を作っているわけではないだろうが、俳句甲子園に出場するにあたり集中的に作品を作る。月に4句5句では済まない。数百句は作るだろう。
初学を抜け出す方法として、まずは2000句以上作ることだと西村和子さんが総合誌で発言していたことがあり、おおいに共感したものだ。俳句甲子園強豪校の部員は、三年間の高校生活で2000句ほどを作っているものと推察する。高校卒業と同時に、「初学」も卒業していくのだ。
ただ、濃厚なコミュニティに所属し、先輩諸氏との交流を重ねたドラマチックな「キャリア」の前では、作句数の話は力なく霧散するだろうが・・・。
もとい。石田波郷新人賞へ。
応募数70編。これが多いのか少ないのかわからないが、テーマを持った20編をまとめるというのは大変なことだろう。
大半の応募者は、締切りぎりぎりに追い込みで仕上げ、仮名遣いや文法のチェック、並べ方にまでは細心の注意を配れぬ人たちが大半で、締切日を遠くから見て、段階的に二十句を完成させていく人は少ないだろう。
しかもベースとして、それまでにすでに2000句を作り、しかるべき選を受けてきた人間の数はさらに限られ、コンクールの上位進出は、応募以前から決まっているようなものではないだろうか。鍛錬の場を持っていたかどうか。その差は大きい。
さて、受賞作の話。
●新人賞 『しがみつく』堀下 翔
一面に蝌蚪をりすべて見失ふ
流燈を追い越してみづ駆けにけり
に惹かれた。さらに劈頭の句も印象的。
熊ん蜂二匹や花を同じうす
たいていの18歳なら〈熊ん蜂二匹が同じ花の中〉と書く可能性が高い。この一句で、散文ではなく韻文をやっていますよとたからかに宣言しているわけだ。
しかし、四人の審査員全員が印をつけているかというとそうではなく、岸本尚樹◎、佐藤郁良〇、甲斐由紀子と齋藤朝比古は無印。これが俳句を選び、選ばれることの面白さ。
甲斐由紀子は、選評に〈自然を場として自然現象をよく観察し、写生を基本として詠出している。まだ十代であるが、俳句の骨法を熟知しており、作品の風姿が端正である〉と書きつつ、〈(略)反面、選考会では「いかにも俳句的」「若さを感じない」という意見もあった。確かに「一面に蝌蚪をりすべて見失ふ」や「秋風やかはうその尾が川のうへ」などには俳句的手口が見え隠れしている。それをあからさまにみせないのが、芸の力であろう。〉
こういう選評を若き応募者たちはどう読んでいるのだろう。わたしは興味深い。作品がある。作品を読む人がいる。そこから出てくる言葉が、どれだけ作者や座を囲むひとたちを刺激するか。この場合は冊子を手にとる人たちを、コミュニティのメンバーと考えたい。わたしには、〈俳句的手口が見え隠れしている。それをみせないのが芸の力であろう〉というところがアンダーライン。
前回、ちらりと書いたが、俳句を作り「俳句的」と言われる場合、すでにある俳句を踏襲しているという批判が含まれる。古典を学び、新しみを追求する姿勢からすると、「俳句的」であることに批判的要素が含まれることにいつも抵抗を覚えるのだが、上記の発言はとても肯える。
つまりはバランスであろう。学んだものをどう昇華し、自分の文体にひきつけ、新しみを拓くか。
わたし自身、ただならぬ新人と目を見張りながら、20句全体に心躍らされたかというと話は別。感心して読んだのは事実だが(それで十分なのだが)。しかし、18歳。これからこの作者の作品になんども心躍らされることだろう。どうすれば18歳でこれだけ韻文精神を身につけられるのか。
俳句を始めたばかりの青年は、戸惑いを覚えることだろう。いや、俳句を始めたばかりの人は、ここにある技術や、抑制に気づかないかもしれない。
●新人賞・準賞 『眼を得る』 永山智郎
現役の高校生。俳句甲子園優勝開成高校の中心的メンバー。17歳。
わたしが二重丸をつけて読んだのが、
ある高さからは色なき石鹸玉
蝙蝠や玄関先に読む手紙
劈頭の
きさらぎの市場へ光りゆく轍
の「ゆく」には引っかかりを覚えたが。
選考過程を読むと、正賞の『しがみつく』と最後まで競った作品であるらしい。
この作品にもふたりの審査員が印をつけている。
佐藤郁良◎、齋藤朝比古〇。甲斐由紀子と岸本尚樹が無印。
佐藤郁良の選考評。
〈準賞に決まった『眼を得る』は最後まで『しがみつく』と議論になった作品である。とりわけ「ある高さからは色なき石鹸玉」の発見、「工具みな違ふ光やきりぎりす」の取り合わせの感覚などは秀逸である。(略)全体として抑制された表現の中に滲み出る叙情性に強く惹かれた。『しがみつく』が平明な写生を旨としているのと、ある意味で対照的な作品であった。〉
齋藤朝比古の選評は、まず、『眼を得る』と下楠絵里の『風の名』を一緒に評し、〈俳句でしか言い得ない世界観を表現しようと試みた、作者の力量が伺われる好作〉としたあとに、全体の作品に触れている。
〈いずれの作品も新人賞作品との大きな差異はなかったことは、第一次選考の集計結果や選考委員会での議論の内容から疑う余地はない。また、ここのところの本賞への応募作品のレベルの向上は著しく、先の新人賞者の活躍を鑑みるに、本賞がまごうことなく若手新人の登竜門として機能している点は、選者としてとても嬉しく思う〉。
こここで言うレベルが応募作70編全体を示しているのか、最終審査に残った12編のことを指しているのかは不明。
このあと、こういうアドバイスが続く。
〈最後に少々の苦言。毎年応募作品全体を読み、選考させて頂くのだが、「不用意な仮名遣いの間違い」「安易な当て字の使用」等により最終審査から漏れてしまうという、選考する側から見てとても残念でならない。少々の時間を割いて、今一度の推敲と辞書による確認をしてから投稿するよう、切に願う。〉
最後の〈節に願う〉を読むと、相当惜しいことをした作品があったのだろうといらぬ想像をしてしまう。
準賞の『眼を得る』に戻ると、甲斐由紀子の評は、抒情にあふれた作品を褒めつつ〈全体にバラつきがあり、受賞に至らなかった〉とのこと。
一方、岸本尚樹は、
〈「ある高さからは色なき石鹸玉」「兄いもと寝網一つに入れてやる」「工具みな違う光やきりぎりす」「冬来る嵌め絵の少女眼を得れば」などが完成度の高い秀作。私自身は『しがみつく』のユニークさ(確信犯とも思われる緩い、脇の甘い文体で読者を句中に誘い込む独特の句触り)を評価したが、句の出来では『眼を得る』も十分に正賞に値するとの認識が選考委員間で共有されていた。〉
そこまでの接戦だったようだ。次回有力候補であることに間違いないだろう。
18歳と17歳の接戦。改めて、ふたりの筆力に舌を巻き、やはり俳句は一部天才的な人たちのものではないかという考えが頭をよぎるが、しかし、『しがみつく』にしても『眼を得る』にしても、どちらもダサいタイトルではないか。そこを衝く審査員はいないのかと心の中で毒づき、特別でも天才でもない全国の17歳や18歳に思いを馳せる(ホンマかいな)。
●新人賞・奨励賞 『広がる町』 今泉礼奈
この人は、ネットの中で「俳句アイドル」を自称している人であることは知っていたが、作品に触れたことはなく、劈頭の句、
初空のふつくらと鳥受け入れる
を読んだ時には、軽い驚きを覚えた。本格的ではないか。もっと新しさを全面に押し出す主観的な句を作る人かと勝手な先入観を持っていたのだが・・・・。
双六の紙をおさえる係かな
も意外なところを衝かれた気持ち良さがある。私の特選は。
箸くばる手に酢のにほふ晩夏かな
その他にも、たくさん印を付けながら読ませてもらった。
気になったのは、三句目
白木蓮のおほきく昼を過ごしけり
一句目で「ふつくら」、ここで「おほきく」どちらも形容詞に大事な仕事をさせ、それがはじまりの3句までに入っているというのは損な構成ではないだろうか。
●新人賞・奨励賞 『この蔦を』 黒岩徳将
審査員全員が、以下の2句を挙げて褒めた。
つまらなきものの輝く夜店かな
ポインセチア四方に逢いたき人の居り
わたしもこの2句に特に惹かれた。夜店の句は、この小冊子全体の中でも一番魅力を感じた句である。特選のなかの特選。
しかし、他の句がいただけない。作品全体のバラつきということでは、この20句が一番バラ付いているように思う。昨年も奨励賞。さて、来年は?
●新人賞・奨励賞 『月白』 堀切克洋
甲斐由紀子が二重丸。選評は、
〈「うみうしの取り残さるる磯遊び」「蝸牛しづかに泡を吹きにけり」「蟷螂の尻ふるはせてゐるばかり」など対象に対する哀憐の情が静かに沸き起こる佳句も多く、地味ではあるが言い過ぎない鷹揚な句柄に惹かれた。他の選考委員から「インパクトがない」「既視感のある作品がある」との指摘もあった。今後は、取り合わせる季語については、先行作品にあたって吟味するなどの努力が必要であろう〉。
このコメントにほとんどのことは言いえているだろうから、なにも足すことはないのだが、わたしは、
どちらかといへば汗かく人が好き
に強く印を付けた。作者の立場にたてば、既視感を指摘され場合、具体的な作品を提示して欲しいところだろう。句会でよく「既視感」があるという指摘がおこなわれるが、コンクールの選考の場であれば、具体的指摘が必要かもしれない。
「既視感がある」は決定的なマイナス要因でありながら、使い易い言葉であるところが怖い。
こうして、全体を見ると、賞にかかった作品群はすべて旧かなである。
これは応募要項に制約があるのだろうか。それとも石田波郷賞だから押してしるべしというところだろうか。
賞を得た作品群は、伝統から多くを学び、韻文精神を知り、俳句の骨法を知っている作品ばかりである。その後の活躍は約束されるのも、そういう基礎の厚みを認められているからだろう。
新機軸もあくまで基礎があればこそ。そういう意味では、王道を行くコンクールである。
しかし、気になることもある。
それはキャリアを見て感じることで、この小冊子に必ずしも学歴などは記されていないが、彼らは進学高校、一流大学を出て、俳句甲子園経験者であり、すでに俳句エリートとして注目を集めている人たちであるという共通項がある。
前回、自分自身が遅れてきたおっさんであることを書いた。
これからも遅れてくるおっさん、おばさん、婆さん、爺さんが俳句の世界に入ってくるだろうが、若手にも遅れてくる人たちがいるはずだ。そこがとても気になる。
俳句甲子園と縁なく、大学に入ってから、社会人になってからスタートを切る若者たち。この遅れてきた青年たちは、今、本当にやりにくいだろうと思う。先行している若者はたいてい俳句甲子園経験者で、すでに横のつながりもできていて、技術も身につけている。そんな同世代の先輩と座を囲むのは結構肩身が狭いかもしれない。
遅れてきた青年たちが、旧かなを使いこなし、文法を間違えず、魅力的なタイトルをつけ、20句の並べ方に演出を施し、見ず知らずの読み巧者をうならせるのは簡単なことではない。
遅れてきた青年たちに薦めたいのは、結社に入ることである。
最近、というよりだいぶ前から、若手の有力な俳人たちのネットでの発言は、図らずも結社のネガティブキャンペーンになっているところがあり、それを結社所属の人間がとやかくいうのも憚られていたのだが、一度書いておきたいことがある。
別にわたしの所属する『銀化』の宣伝でもなんでもない。
遅れてきた青年たちに、結社という存在がお勧めであるということ。
結社に入らないまでも師を持つべきである。ひとりで俳句力を身につけられるのは、天才的な一部の人たちだけなのであるから。
散文はひとりで学べると思うが、韻文は短い癖に、極端に短いからこそ、そうはいかない。あまりに特殊な表現なのである。
天才的な人間が、一流高校から一流大学に進み、そのなかで有力俳人のいるコミュニティに参加し、作句力や鑑賞力や俳句に関する情報を得ていく。遅れてきた青年が彼らに追いつき、自分の世界を展開し、それが独りよがりに終わらず、石田波郷新人賞受賞レベルにたどり着くのは大変なことである。
若者には、結社アレルギーのようなものが深くあるようだが、アレルギーが起こるほどたいした毒性を持つ結社などあるだろうか。あればそれはそれでたしたものである。
結社には、面倒臭いことはあるだろうが、初学のうちはない。
同人になって多少注目されるようになってからはないとは言えないが、それもせいぜい消費税程度のもので、さらに言えば、今の消費税ではなく、以前の消費税程度のものである。
それよりも、師を持つことの大きさ。良き先輩を持つことの喜びは大きいし、実際役立つ。
結社に所属する人間からは言いにくいが、結社は必要である。
確実に育つ。
俳句甲子園卒業の有力若手俳人が無所属であることが無所属に意味を持たせているのだろうが、それが勘違いのはじまりである。
彼らは俳句甲子園で有名になり、多くの知己を得て、あちらこちらの結社の句会に参加できるようになり、そこから結社の滋養も得ているのだ。無所属であるが、結社からなんらかの栄養は得ているのだ。
或いは結社で実力をつけた人たちから間接的にその栄養分を受け取っている。
一方、自分たちで新しい集団を作り、過去の俳人とは違うコースを探りつつ、その全体の活動を「運動」として自らの創作のかたりを作り上げているのだと思う。それは実に面白いことであるし、そちらに目が行きがちであるが、その前段では自力をつける場所を持っていたというところが大事で、今はその話である。
仲間作りよりもまずは、基礎を身につける場所の獲得である。
遅れてきた若者たちが、「理解しあえる同世代」と、「技術を学ぶ場」を同時に獲得できるとは中々思えない。
漠然と横のつながりばかりできていも、初歩的修練の済んでいない人間があちらこちらに顔をだしたところで、活躍も吸収も難しいのではないだろうか。
まずは、俳句文学館や柿衛文庫に行って目をつけた俳人の句集を読み、これという人を見つけるのだ。そこには毎月の結社誌もおいてある。簡単に師が見つからないのも当然。あちらこちらを見学してまわるのも一つの手だ。
エリートのことはどうでもいい。すでに道はつき、活躍は約束されている。それよりも、遅れてきた人間は、遅れてきた人間にふさわしい道筋を探さねばならない。
前々からネットの中で言っておきたかったことだが、石田波郷新人賞を読み、一層、その思いが募る。
ただ俳句に興味を持っただけの凡夫にこそ、俳句世界は面白いところであって欲しい。
高校生は2年3年で開花する。遅れてきた青年たちは何年で開花するのだろう。時間はかかるだろうが、恵まれたエリートだけでなく、ゆるゆる戸惑いながら俳句の世界に入り込んだ青年が、石田波郷新人賞を獲るなんて面白いではないか。
俳句の世界がエリートばかりではつまらない。物語の筋書きは色々あってしかるべきである。結社がネガティブなイメージを持っている時、結社にひとり飛び込み、滋養強壮を得て、突然意外なところから無名の若者が俳句の世界に登場するような物語に接したい。
凡夫たちよ、結社に潜り込め。師を選べ。いつか石田波郷新人賞を獲ってやれ。・・・まったく余計なお世話を書いてしまった。
(以上)
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第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編)
賞の輪郭
小池康生
週刊俳句から、受賞作を読めとのお達し。
わたしはすでに読んでおりました。
昨年、銀化12月号に石田波郷新人賞を取り上げたのだ。10月に書いて12月号に掲載。月刊誌の時間差はもどかしく感じることが多いのだけれど、Webの『週刊俳句』に明けて1月に書くというのは、紙媒体より遅いデジタルということになり、これはこれで面白い。
しかし、いま、再び作品と向かい合うと、いまさら受賞作のなかから選をして感想をまとめてもすでに誰かが書いたことをなぞることになり、それはとてもつまらないことに思える。
わたしの手元には、大会実行委員会のまとめた『石田波郷俳句大会 第6回作品集』がある。
これが面白い。90ページに及ぶもので、作品はもとより、巻頭言から選評まで興味深く読ませていただいた。
つまりは、受賞作品だけでなく、この作品集全体をどう読んだか、この賞をどう受け止めているか、そんなことを書くことになるのではと思いつつ、見切り発車で書き始める。
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この賞は有名で、受賞者がどれだけ活躍しているかはよく承知しているが、作品集を読むのは初めて。
お恥ずかしい話だが、『石田波郷新人賞』として覚えていたので、ここに年齢制限のない一般の部や、ジュニアの部があることを存じあげなかった。あまりにも若者の登竜門として有名なので、「新人」という冠のつかない部門を知り、失礼ながらこの部門は宣伝不足ではないかと、余計なことを考えたりもする。
かなり以前に書いたことだが、俳句コンクールで、募集要項に50歳以下、40歳以下、30歳以下と年齢制限をつけることは、若者を刺激するには面白いことだが、その年齢より上の人たちは、疎外感を覚えるし、実際「年齢を制限されると、わたしたちは用なしと言われている気がして不愉快」と鬼の形相でおっしゃる先輩がいたし、人の口を借りているが、わたし自身遅れてきた青年ならぬ遅れてきたおっさんなので、年齢制限を見るたびに、自分たちに門戸は少ないと思うし、一方で、俳句人口を支えているのは、この制限された年齢よりも上の世代なわけで、その世代にも刺激敵な賞を用意するプロデューサーが現れてもいいのではないか・・・・ということを4、5年前に書き、それを読んだ七十オーバーの先輩から強く握手を求められた覚えがある。
もとい。
だからこそ、新人賞で有名な石田波郷俳句大会に、年齢制限のない一般の部があることをもつと広く知らしめてもいいのではないだろうか。わたしだけでなく、一般の部の存在を知らない人は意外に多いと思う。
それと、新人賞は20句ひと組で、一般の部は2句ひと組もしくは3句ひと組というのも、つまらない。大人の部門ももっと個性的、刺激的な企画にしてもいいだろう。若者向けの企画にだけパンチ力をつけ、一般相手は平凡でいいというのもおかしい(そういう気持ちはないでしょうが、わたしの筆は滑りに滑っているところ)。
おじさんやおばさんや、お婆さんやお爺さんだって刺激が欲しいのである。
話を戻すと、この一般部門の句、大きな声で言えないが、さほど面白くない。新人賞の方が断然面白い。それは一般が劣って若者が優れているのではなく、一般の部の募集要項に刺激がないからだ。
こちらの部門も話題になるような企画にすれば、もっと面白い句があつまり、ここからも俳壇に人材を送り込めることになると思う。
若者の賞を充実させるのと同じように、中高年の賞にも新機軸があってもいい。クオリティの上でも、俳句出版のビジネスの上でも、実はそちらの充実も必要ではないだろうか(なぜ、わたしが俳句出版のビジネスまで考える。筆はいつもより多めに滑っておりまする)。
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話を戻そう。
作品集を読むのである。
角川『俳句』1月号にも受賞作品が掲載されているが、主催者発行の作品集は、さらに内容が詳しく読み応えがある。
読み直して気づいたことは、四人の審査員が、応募作全体の中からそれぞれ10句を選んでいて、これでコンクール全体のレベルが伺えるように思える。
なかでも、四人の審査員全員に選ばれ、しかも四人それぞれに別の作品を選ばれている人がいる。
作品名「しばらくは」の安里琉太(20歳)
濁りゆたかに寒鮒の桶を糶る (甲斐由紀子選)
ははそはの母をはじめに初湯殿 (岸本尚毅選)
天井の影騒がしき氷水 (齋藤朝比古選)
白シャツに車窓の雨の影はしる (佐藤郁良選)
20句の作品で4句も抜かれ、それで奨励賞にも届かないとは不思議なことだ。
それ以外の句でわたしがチェックした句は―――――、
甲斐由紀子選から―――
なまはげに恋しき声の混ざりけり 石塚直子
なまはげで恋心の句。新鮮な驚きを覚える。
岸本尚毅選から―――
雲母虫大日本といふ時代 藤本智子
ある種、いまと響きあう時代の本。危険な匂いも。
扇風機ひよいと持ち揚げられにけり 浅津大雅
強い風を送る扇風機の意外な軽さ。これも発見。
母老いて罪なき昼寝姿かな 樫本由貴
20歳の人から見た母親。これからふたりの立場は逆転していくのだろう。
梅雨寒や地獄絵に我らしき人 横田福家
寒気だけでなく湿り気も。
ふらここや後ろが冬で前が春 大池莉奈
前に向かうのは、春だから。繰り返し読むと、後ろが少し怖くなる。
齋藤朝比古選より――――
花ぐもり鯉やはらかく衝突す 高瀬早紀
衝突なんてするのかなと思いながら、ぶつかっていく光景が想像できる。
ハンカチの刺繍うらがはよりなぞる 泉かなえ
「俳句的」という言い方は悪い意味で使われることが多いようだけれど、わたしはこの言葉を肯定的に使う。
星冴えて秒針の音硬きかな 下楠絵里
見逃しそうな甘い句だが、精神性が出ているかと。
彫刻のやうな顔して冷房へ 野住朋可
冷房に向っていくのに、彫刻のやうな顔とは。
佐藤郁良選より―――
潮干狩海見失ふこともあり 日下部太亮
海を見失う・・・気持ち良い驚きを覚える。
まだ、新人賞にも、準賞にも、奨励賞にもたどり着いていないが、来週へ。
(以上)
2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る
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【週俳11月の俳句を読む】
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小池康生
■秋尾 敏「何かある」
獺祭忌眼鏡に空を置き忘れ
眼鏡を置き忘れるのではなく、眼鏡のレンズ面に空が置き忘れられている。言葉を追うと、一瞬、意識がぐらりと来ることに快感を覚える。そこに残っているのは、松山の青空だろうか。
島は吉兆稲妻はマグマに及び
日頃、自分が作ったり読んだりしている句とは別の世界。そこが刺激的。
吉兆とこられることに、戸惑いと新鮮味。句会で採るかというと採らないだろうが、しかし、採らなくても面白いものは面白い。
けやき落葉す時間を溜めすぎた
この「す」はなんだろう。〈けやき落葉時間を溜めすぎた〉では、〈けやき落葉/時間を溜めすぎた〉となり、〈時間を溜めすぎた〉のは、けやき落葉と別のものになってしまう。この句は、けやき落葉が時間を溜めすぎて、その溜めすぎた時間の落下を描いていると受け止めた。だから、〈す〉が要るのだろう。しかし、〈す〉がすんなり入ってこない。言葉は自由に使えばいいし、作者の世界で昇華されていればそれでいいわけだが、わたしには、「落葉す」がとても息苦しい。
■九里順子「心なき窗」
ここには、テーマがあり、世界がある。
構造があり、構成がある。
構造と構成は、別のものである。
心なき窗より鴫の飛び立てり
「心なき窗」とはなんだろう。「心なき」などとむき出しの言葉を使った句は、この段階ではまったく謎である。鴫であることの謎も伏線として引っかかる。
山水を嵌めて花鳥の塒かな
逆の視点。山水に花鳥の塒を嵌め込んでいるのではなく、花鳥のねぐらの周囲に山水が嵌め込まれている。そしてその塒に「かな」を捧げている。ここでぐっと、作品群に入り込む。自然界が、螺鈿で作られた世界のように展開する。
羽化登仙爪の先まで草紅葉
「羽化登仙=中国古代の信仰で、からだに羽が生え仙人となって天へのぼること。また、酒に酔ってよい気持ちになったときのたとえにいう」。掲句は、〈爪の先まで草紅葉〉。羽が生えたのではなく、草紅葉になり天へ登ってゆくという。この草紅葉、羽の代わりもできる立派なものなのだろう。ただの羽ではなく、草紅葉の羽ならば、天のなかでも特別なところへ行けるかのようだ。
ひとふでで描く稜線野紺菊
「稜線」と「野紺菊」だけの世界。「ひとふでで描く稜線」によって引き出される「野紺菊」。スマートな世界。ところで、「心ない窗」とはなんだろう。
秋寂びの声が出てくる喉ぼとけ
立派な喉ぼとけなら、低音が響き、秋寂とは別のベクトルの声が出てきそうだが・・・。
ここで、作者は、喉仏の「仏」という漢字を隠した。
野紺菊、羽化登仙、螺鈿で作られたかのような花鳥の世界、秋寂・・・〈心なき窗〉とはなんだろうか?
その窗の深さに秋日差し込まぬ
また、窗が現れた。窗は深いものなのか。この窗は、どこにあるのだろうか。
わたくしを骨まで愛せ鰯雲
骨まで愛してなんて言われると城達也を思い出す。
〈わたくしを骨まで愛せ/鰯雲〉
愛せで切れて、鰯雲。愛せと誰に命じているのか。
上5中7の12音と、下5は別の世界だろうが、鰯雲に対して〈わたくしを愛せ〉と言っているようにも読める。わたしはそちらを取る。
つまり、作者は、なんらかの事情があり鰯雲に感情移入していて、骨のない鰯雲の骨まで愛している。そして、愛した量と同じだけのものを自分の方向へも求め、〈わたくしを骨まで愛せ〉というフレーズが誕生したのでないかと想像する。
壁を押せば同じベクトルで自分が押し返されるように、鰯雲を愛し、同じだけの愛を鰯雲からもらいたいのだ。
ただ、なぜ、鰯雲に心を預けているのか。そこに大きな省略があり、薄っすら「窗」というキーワードが明滅する。
すつぴんでするりセーター脱ぎながら
すつぴんでなければ、セーターはひっかかると言っているよう。
化粧を施した女性は、とてもご苦労があり、するりとはいかないご様子。
箸休めのように軽い句を読み、ホッとする。
柿色に燈るはるかな夜長かな
「はるかな夜長」とは、どういうものだろう。
柿色に灯る日本の原風景のような世界、そこでの夜長を想像させる。
「はるか」が、現代人が経験する夜長とは遠くにあるという意味の「はるか」なのか。それとも、今、経験している夜長にまだまだ奥の深い世界があるという「はるか」なのか。そこはどうも不明なのだが。
月の蝕一重瞼は窓になる
「窗」がすこし解き明かされる。
一重瞼、そこが窓であるという。ならば、〈心ない窗〉とは?
劈頭の〈心なき窗より鴫の飛び立てり〉に戻れば、窗だけが心ないのではなく、作者自身が心なき状態になっていて、心なき自らのココロの中から鴫が飛び立つと読めてしまう。深読みが過ぎるのだろうか。いずれにしても、繋がりながら謎をばらつかせ、ひとつの世界を追わせる。
■岡田一実「美食の耳」
冬帽をおほきな耳と考へる
この調べのよろしさ。この説明のなさ。気持ち良い。
耳があるつづきに顔がある炬燵
余程の耳をお持ちの方が、炬燵の向こう側にいらっしゃる。
耳へ目がいく。いつもこの人物に目を向ける時、耳に目がいき、その続きに顔に目がいく。この人は、耳なのである。耳の存在感がたまらないのだ。人格のような耳。
■太田うさぎ「シナモン」
大天使彫りたる鐘の寒さかな
神と同席することを許される大天使が掘られている鐘。
分厚い鐘。沁みる寒さ。そこに描かれている大天使。
今は鳴っていないが、美しい音色が想像できる。
大天使が掘られているからこそ。この季節ならではこその音色。
以上、勝手なことばかり。頓珍漢な深読みが過ぎるのかも。
さらに付け加えれば、取り上げた作品よりも、取り上げなかった句が気になって仕方ない。そこに、わたしの読みの至らなさがあったからかもと思うからだ。
とりあげられなかった句は、つまり書くことができない句。わたしの向き合えない句と、多少意識しつつ・・・。
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