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2020-12-06

【句集を読む】のびのびと幸せな歩調 小池康生『奎星』を読む 西原天気

【句集を読む】
のびのびと幸せな歩調
小池康生『奎星』を読む

西原天気



蠅生まるビル一面に室外機  小池康生

3年前に惹かれた句を、いま句集で読んでふたたび惹かれた。自分の好みや規準はあまり変わっていない。3年前にブログ記事を書いたことはきれいさっぱり忘れ去り、いま読んで、記事に載せた写真の風景、東京・湯島付近のビルの背面を思い浮かべた。風景の好みや記憶の抽斗も変わっていない。

掲句の美点のひとつは、季語のいわゆる「斡旋」(業界ジャルゴン的であまり使いたくない語だが)のたのしさ・たしかさであり、それは今回の句集でもじゅうぶんに味わうことができる。

流木はことごとく痩せ秋の声  同

季語「秋の声」は、澄んだ空気のなかで聞く自然の物音。痩せた流木(日に露わとなり乾いているのだろう)との照応が滋味深い。

近づけば灯る仕掛けや年暮るる  同

よく目にするようになった防犯用の照明と年の暮れの組み合わせは、安定的(前述の「たのしさ」「たしかさ」でいえば後者がまさる)。

そしてまた拙ブログで取り上げたこの句。

青空は微動だにせず囮籠  同

これもまた「囮籠」の巧みさで、読者を一気に俳句的感興へと連れ込む。

季語という強力な仕掛けを十全に、かつ無理なく一句に収めるにおいて秀でた句が多いなか、いちばん好きになったのが、この句。

先頭へ車輛のなかをゆく日永  同

前掲の数句に比べれば、季語の斡旋が句に寄与する度合いはやや小さいかもしれないが、このなんとも幸せな歩調!

電車のなかをおそらく連結箇所を越えて、前へ前へと歩くのは、切り開かれていく風景を見たいのか(窓を隠しているケースも多い)、乗り継ぎ・下車後の便利を考えてのことか(現実的で夢がない)、それはわからないが、この句ののびのびと幸福な空気には、「日永」という季語が大きく関与している。

季語に過度の荷重をかけずに(つまり頼り過ぎずに)、けれども、季語をきちんと活かす。きほんのところだけれど、それってとてもだいじなことのようです。


小池康生『奎星』2020年10月/飯塚書店 ≫amazon



2020-11-15

【句集を読む】ええなあ、西のお人は 小池康生『奎星』を読む 小林苑を

【句集を読む】
ええなあ、西のお人は
小池康生『奎星』を読む

小林苑を


参道の箒目に雪混じりをり  小池康生(以下同)

『奎星』は三章から成っており、各章が春・新年から冬・早春へと編まれている。最終章の一句目は「初明かり奈良は生駒の向かう側」。大阪の人である作者からすれば初明かりは生駒山の向こうの奈良の方角、つまりは天平の彼方からやってくるのだ。なんとおおどか。ほんま、ええなあ、西のお人は、と思うのです。この句に限らず地名建物名がなんともな、東国の田舎モンとしてはズルいと言いたいような佳い句がある。

それは置いときます。揚句は新年のことだろう、と言いたかったのです。早朝、境内を掃き浄める頃はまだ雪だったかもしれないし、庭ではなく参道に箒目が残っているというなら、参拝もまた早い時間に違いない。結晶のような雪が箒目に混じっていたと、それだけ。なにも言わない、だからこそ、読み手は新たな年の清冽な冷気を肌に感じます。

このように『奎星』はどの句も丁寧に詠まれており、余計なことは言わない、俳句の真骨頂ですね、とここで終わってもいいのですが、実は帯文にある作者の「大患」が投影されている句集でもあるのです。であれば、揚句の凛と張り詰めた空気の中のすぐにも解けてしまうであろう雪の煌めきが刺さってきます。

少しだけ自分のことを。健康には自信があった私ですが、体調不良で病院のお世話になり「完治する治療法はありません」と告げられてから、「いま」という時間を生きているのではなく「生かされている」と感じるのです。生かされている間に、なにができるか、なにをすべきか。大袈裟な話ではなく、当たり前だった日常のひとこまひとこまが大事な時間なのです。

《大阪の男いらちぞ祭鱧》《みかん剝くさして食べたき訳でなく》《マフラーの中で一人になつてをり》の鬱屈。なにより《ななふしのやうにどこかにゐてくれる》の情愛。誰とは書いていないけれど奥様のことでしょう。枝そのもののような擬態で知られる昆虫で、草食なのだとか。「どこかにゐて」「くれる」。自身の思いとともに、これらの句には作中主体を見つめる作者の目を感じます。『奎星』は私小説のように作者の心情が刺さる句集なのです。

恋猫は婦長のやうに戻りけり  小池康生(以下同)

鹿の子の咥へてすぐに後じさり

店よりも厨明るし寒の入

立秋や朝から昆布を水に浸け

夕空に鷹の匂ひを残しけり


小池康生『奎星』2020年10月/飯塚書店 ≫amazon

2018-10-21

【週俳600号に寄せて】土曜日がやってくる 小池康生

【週俳600号に寄せて】
土曜日がやってくる

小池康生


『週刊俳句』関係者の皆さん、600号発刊誠におめでとうございます。600号は大変な数字です。月刊誌なら50年かかります。週刊では11年ほどの歴史。創刊号は2007年4月29日でした。あの時代、週刊というのは衝撃的でした。いや、いまでも衝撃です。

俳句の商業誌は通常月刊、しかも紙媒体で有料。『週刊俳句』は、ウェブマガジンで、週刊で、フリー。結社誌でもなく、同人誌でもなく、総合誌でもなく、ただ俳句好きが集まったような雑誌が週刊でだされるのは相当なインパクトがありました。

それが淡々と600号も続くのは大変なことです。力が入り過ぎても続かないでしょうし、しかし、ある種の情熱がない限り毎週の編集は続かないでしょう。力加減を知る編集スタッフに心から拍手を送ります。これからも呆れるほど『週刊俳句』を続けてください。

わたしは今、時折読者で、時折執筆者です。でも毎週Twitterなどで週刊俳句の目次を確認し、いま、どんな人が作品を発表しているか、評論を書いているかを必ず確認しながら土曜日(日曜がやってくるのを知ります。11年間、土曜日(日曜)は毎週やってきているようです。

インターネットが普及し、『週刊俳句』がスタートした頃、若手中堅、さらには年配の俳人が結社の外に出始めた気がします。『豈』のウェブマガジンが出たことも影響しているように思います。それまで結社に閉じ籠っていた人たちが表に顔を出し交流をはじめたのです。

俳人の中には、昔から俳句世界を自由に行き来し幅広い交流を持つ人たちがいますが、それは俳壇でも活躍するような一部の人達で、一般の俳人は結社内の交流が中心のような気がしていました、それがインターネットの普及とともに関係を広げ、お互いの存在を知りえるようになったと思います。

そんな時代に俳人が外に出るきっかけに『週刊俳句』があったような気がします。

無色透明に近い存在だからこそ、そういう役割を無意識に果たしたのだと思います。

とはいえ、最初から『週刊俳句』を見ているわたしと、途中から『週刊俳句』を見ている人は、『週刊俳句』の眺めは違うかもしれません。それがどんな眺めかわたしには知りようもありませんが。

元い。600号です。

いま、599号を眺め、なんの感慨もありません。

素晴らしいことです。

これからも変わりなく、のれんに腕押しのスタッフで淡々とよろしくお願いします。

いま、わたしは季刊で『奎』をだし、作業にはくたくたですが、編集案はいくらでも出てきて楽しい毎日です。もう少し若ければとないものねだりをしますが、その内、『週刊俳句』にも老いがやってくるでしょう。わたしはそれを見るのも少し楽しみです。600号はかなりの年季です。これからも近く遠く、『週刊俳句』を眺めています。たまには声をかけてください。でも、あまり声をかけないでください。おめでとうございます。

2018-01-21

【週俳12月の俳句を読む】少し濡れていて 小池康生


【週俳12月の俳句を読む】
少し濡れていて

小池康生


堪忍と言ふて色足袋脱ぎにけり  岸本由香

京都の女性だろう。上がり框で足袋を脱ぎながら「堪忍」と呟くワンシーン。遅れてきたことを謝っているのか。雨や雪で足袋を濡らし、訪問するなりいきなり脱ぐことを謝っているのか。いずれにしろ親しさしさが伝わりドラマを感じさせるワンシーン。劇的なことは何も起こっていないのだが、そそる。

スリッパの重ね連なる雪催  松井真吾

公民館などスリッパを一組づつセットにして箱に放り込む。場合によっては、長々とスリッパをつなぎ合わせる。その連なりは反り返り、山脈を連想させないこともない。さらには埃っぽく、違和感を覚えることもある。その景で切れ、一方に雪催。意外な取り合わせで、しかし納得させる。

老人の達治朗読初しぐれ  桐木知実

書いてある通りに読もう。老人が達治を朗読しているのである。作者はそれを聞いている。
外には初時雨。今年初めての時雨。冬に入った感慨。降ったかと思うとやむ雨。そんな季語と響きあう朗読。俳優の朗読でもなく、ベテランの朗読でもなく、老人の朗読。しっとり読めたり、読めなかったり、たどたどしさも自然な渋みも含む老人が読む達治。若い作者がそれを聞いている。

捕らわれているクリスマスツリーかな  桐木知実

捕らわれているとは、どういうことだろう。大きなツリーが安全のためどこかに括られているをそう見たのか。それとも時事的に見れば、地方から神戸の港に運ばれツリーにされた木だろうか。そうだとしても、数年後、この句からその情報は消える。捕らわれているクリスマスツリー、それだけで面白い。「かな」が少し浮いているが。

青空は花鳥を育て神の留守  鈴木総史

下五に神の留守を据えながら、上の十二音のまぶしいほどの明るさ。なんとも新鮮。意外なところに直球を決められた痛快さ。

廃屋をこはさぬやうに照らす月  滝川直広

廃屋と月は合い過ぎる感じもするが、こはさぬやうにという微妙さがバランスを保ち、詩性を生む。照らし過ぎると壊れるとでもいうのだろうか。

初夢の中も単身赴任して  滝川直広

どうして単身赴任とわかるのだろう?そのシーンを具体的に知りたい気もするが、夢の中でも単身赴任とは面白い。当然、家族と一つ屋根の下に眠る正月のできごと。

北風が一方向へ人を押す  上田信治

「一方向って・・・」そういわせる確信犯。突っ込みどころを用意しておく、一見あたり前の世界。引き算に引き算を重ね、もっとも薄ぺらい世界に詩を炙り出そうとしているように見える。

タクシーの会社のありぬ冬の月  上田信治

夜道で、いろいろな場所から月を見る。なかでもタクシー会社のある場所から見る月がもっとも魅力的な場面に思えた。それだけでいいのだ。

朝はパン飛んでゐる白鳥を見る  上田信治

「パン食べて」では散文的。それを「朝はパン」とすると、信治俳句になってくる。

欲する目やがて鯨が尾をひねる  福田若之

主眼は、この目。なにを見たのだろう。何かが目に入り、巨体をひねって方向を変えた。

風邪すこし残りて財布買ひにけり  村田篠

関係のない関係性。読み手の想像力が広がり、意外な読後感を用意してくれる。

左右から別の音楽クリスマス  村田篠

例えば、商店街の右と左。別のクリスマスソングが流れてくる。これも写生と思うと、写生に軽みが生まれる。

板状に広がる寒さ日比谷口  西原天気

日比谷口ってどこだ。どんなところだ。板状に寒さ広がるところだ。

こゑとこゑ砂のごとくに十二月  西原天気

「砂のごとく」が、謎で、見せ場。わたしは、砂時計の中の砂を思い浮かべ、それが静かでかつ喧噪を感じさせるこゑと受け止めた。うるさくない喧噪。それが渦巻く十二月。なんとも深い詩性。

コートごとぎゆつとしたいけどがまん  西原天気

この軽さ。ぎゅっとしちゃえばいいのに。この人のこの軽さと、前句の深さ。油断させたり、緊張させたり。

裸木となりても鳥を匿へり  岡田由季

そうなのだ。裸木も鳥を守る。密集した枝は、小さな鳥を守る。鵯でさえ窮屈そうな裸木がたくさんある。葉も枝も小さな鳥を匿っている。裸木を見つめることで見えてくる真実。



■岸本由香 勘忍 10句 ≫読む
■松井真吾 フラメンコスタジオ 10句 ≫読む
■桐木知実 控え室 10句 ≫読む
■鈴木総史 町暮れて 10句 ≫読む
■滝川直広 書体 15句 ≫読む
■上田信治 朝はパン 10句 ≫読む
■福田若之 パサージュの鯨 10句 ≫読む
■村田 篠 握手 5句 ≫読む
■西原天気 抱擁 5句 ≫読む
■岡田由季 接吻 5句 ≫読む

2017-02-19

〔今週号の表紙〕第513号 二月の花火 小池康生

〔今週号の表紙〕
第513号 二月の花火

小池康生



2月12日日曜、わたしの住む町に花火が揚がった。京都と大阪の中間地点、国道1号線の脇、畑から有志が揚げているらしい。なんの前ぶれもなく揚がる。慌てて雨戸を開ける。毎年のことだ。花火が始まった時、月は雲に隠れていたが、5分間の花火の終わりころ、花火と月の饗宴となった。

参考

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週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

2016-10-23

【落選展2015を読む】 (2)「塔」から「一睡」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで

仲寒蟬 × 上田信治




19. 折勝家鴨 「塔」 *予選通過作品

信治選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 臘梅や水を掃きたる竹箒 *
 理科室の棚に鍵あり梅の花
 鳥雲に入る半地下の文芸部
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ *
 足首の無防備にある泉かな *
 蟬時雨腕立て伏せの胴長し
 星と星引つ張り合ひて涼しさよ
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 *

寒蝉選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 寒柝の耳にイヤホンありにけり
 蝋梅や水を掃きたる竹箒 *
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ *
 足首の無防備にある泉かな *
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 *
 雁渡し本棚本と共に古る

*「俳句」2015年11月号掲載句

信治:
取合わせのメソッドに「忠実」と言ってよいほどに、手堅く書かれています。人間的な一シーンが、スナップ的に切り取られていて、そこに季語が取り合わされている。

でも、蝋梅と竹ぼうきくらい、計いの見えにくい取合わせの方が面白いのになーと、思わないでもないです。

寒蟬:
7句しか取ってないのに信治さんと5句まで一致するとは!

実は今回論じる中では一番評価の低かった作品なんです。☓をつけたのは「雪解や轍やくかいにして愉快」「丸まつて眠る地球や栗の花」くらいなのですが余り面白いと思った句がなかった。

選んだ7句にしても寒柝の人がイヤホンしてるとか車内灯が遅れて消えるという発見はそれなりに面白いけれど「おおっ」という感じではない。

信治:
きびしいですね。

「車内灯」の句、車内はさっきまで自分がいた場所で、虫の夜は、いま自分が包まれている空間、という対比がいいです。車はそこにとり残されたように、いっしゅん遅れて車内灯が消え、そして、自分はこれからすこし歩く。という時間の幅に対する意識もあって、僕はこれは好きな句でした。

寒蟬:
顕微鏡の句は研究室か何かでしょうか、視点がちょっと新鮮でした。題名になった「塔」の句もいい句です。足首の無防備は既視感があるなあ。

出だしの2句が大雑把すぎて入って行くのがためらわれました。顕微鏡が1句目でもよかったのに。

信治:
二物衝撃は、無意識をひっぱりだすための手法だと思いますが、意識の範疇でつきすじが見えてしまう句については、ぼくも不満です。銀河→子守唄、水仙→頭痛とかですね。

でも、取り合わせの前提として、現実を12音で切り出す視線に、どこ見てんのこの人っていう面白さがあって。

顕微鏡がいっぱいとか、半地下の部室とか。あとは折紙の塔とか。それだけで面白いですよね。

 理科室の棚に鍵あり梅の花

この梅の花の、審美的じゃないかんじ、好きですね。
窓には白いカーテン。

 鳥雲に入る半地下の文芸部

上昇/下降という対比は見えやすいところですが、憧れをもっぱらとする文芸部が、地面にめり込んで(脳内で)空を見上げていると思うと、おかしいです。

 紙折つて塔の立つなり夏はじめ

紙と夏はじめは、かなり近いですけど、これはきれいさを狙った句なのでOKです。とうぜん初夏の風と光線を受けて、ちょっとピカピカするわけです。

 蟬時雨腕立て伏せの胴長し

あはは。この蟬時雨も、梅の花とおなじくらいいいな。夏休みで畳、ってことですか。

寒蟬:
ああ、なるほど。信治さんの読みを聞いて思ったのですが「半地下」の句は面白いかもしれません。

ただ選ばなかった句が大きな瑕はなくとも惹かれもしなかった。日常の細かい所を描写する力はあるんだけれど、そこから飛躍する時に力不足というか、うまく行ってない印象でした。


20. 高梨 章 「明るい部屋」

寒蝉選
 飯食ひながら夕焼のことばかり
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
 がまぐちの口金ゆるし緑の夜
 目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
 靴下をはき靴をはき初氷
 一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
 うろこぐもうまくつまめぬオブラート
 山の名もわからぬままに冬の山
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり

信治選
 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 靴先を内側に向けしやぼん玉
 ずるいなあと母のつぶやく春の山
 口あけてはるばる春のしじみ汁
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり


信治:
全体に、自由に読もうとされていることに、好感を持ちました。

 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす

中七下五は、100%のフレーズではないんですが、春の月がおもしろい。
50句ラストの「透明な夏のいちにち非常口」も、上五中七はともかく「非常口」がかなりいい。

 靴先を内側に向けしやぼん玉

なにか、この人のおもしろさの核みたいなものは、既につかまれていて、
こういう句には、わかりやすく、それがあらわれるんだろうなという印象。

 ずるいなあと母のつぶやく春の山

この句はすごくいいですね。お母さんの心には、なにが通りすぎたんでしょうか。

春の山が、母にとっての過去と現在の(同時にそれがただあることの)象徴のようにも見える。それは、語り手にとってもまた、思い出であり、同時になまなまとただある現実としての母の象徴のように見える。

 口あけてはるばる春のしじみ汁

この「はるばる」は、はるばると来つるものかな、という感慨だと思うんですけど、そう読むと「口あけて」が、口開けたままはるばる来たように読める。ちょっと置き方、むずかしいなという。

寒蟬:
しかし、俳句賞の応募作としては失敗していると言わざるをえないところがある。

たとえば6句目、8,9,12句目に母が出てくるけれども最初の母

 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡

が生きて活動している母なのに

 あれは母ではなく冬の夕焼
 母からこぼるるこなごなの枯葉よ

ではだんだん抽象的な存在になって行く。

 床下に夕焼さはぐと母のいふ

となると夕焼自体が主題のようで、しかも現実の夕焼ではないようで、よく分らない世界。季節も夏からいきなり冬に飛ぶ。その後また夏に戻る。もうめちゃくちゃ。

でも嫌いかというと嫌いじゃないんです。必ずしも成功していないけれども何かやってやろうという感じがする。

独特の世界観、感性を持った人だと感じました。

信治:
そうですねえ……。

これ、誤解される言い方になるかもしれませんが、賞は別にもう受賞しなくても、それはそれで。仮のハードルでもいいような気がするんですよ、その一年の自分の最高到達点を可視化し実現するためには、棒高跳びのハードルを棒なしで越えるくらいの気持ちの設定が必要な気がして。

そんなことを言ってるから、ぼくも予選すら通過しないのかもしれないですけどw

22. 堀下 翔 「鯉の息」

信治選
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 また中へ戻るはちすのうへの蠅
 柿の花石白く水湧きにけり
 日時計の石痩せにけり秋燕
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 空腹を木の葉の降りしきる日かな
 侘助や本棚見えて教授棟
 いくたびか氷りてしはしはとなりぬ
 切株の根にたんぽゝの短き首
 こひいつもその日のことの燕かな
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
 深秋やさうかと思ふ竹林
 散らばつてゆく春雲に空が出る
 春を唄へば浅草の筈である

寒蝉選

 濠めぐる大きな水よ夏薊
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 エアコンをとりつけて目を動かして
 葉をきはめたる尺蠖のをどりかな
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 裸木の分厚くめくれたるところ
 蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
 春を唄へば浅草の筈である
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

寒蟬:
かなり大胆で冒険的なスタートだと思いました。

1句目の「麦が笛になる」とか3句目の「池のをはりは流れ出す」など日本語の文法の範囲ギリギリのところですごくアクロバティックなことをやっている。

そう言う意味では私の取った句はこの50句の中ではやや常識的な部類に入ってしまうかもしれません。
この行き方、最初の方では成功していますが、

 峰雲のつゞきの空ぢやないかなあ

という口語が突然出て来たり

 別巻を欠き観月に出でにけり

みたいに省略が利きすぎて作者の意図を途中で追えなくなるような句に出会うとちょっと首をかしげてしまいます。

信治:
堀下さんのはじめの3句は、ふつうに失敗しているのでは?

「肉声の」は、前半後半の内容がジャマしあってるような気がします。「濠」をめぐる大きな水というのは、二重の濠を想定してる? そうでなかったら流れるプールのように、水が濠の中を回っていることになる。三句目は、人工の「噴水池」が人工の川につながっている?

ぼくも、自分の句では、最近、わざと日本語として失敗するということをするのですが、そういうのとも、ちょっと違うのかな。

寒蟬:
いや、「濠めぐる大きな水」はイコール濠の中の水なんですよ。大きな水のかたまりが濠という容れ物の中を廻っていると、そういう把握ではないでしょうか。「噴水の池のをはり」は噴水の水をためておく池から水が溢れ出している様でしょう。

確かにちょっとまだるっこしい表現で、これらが最初に置かれると読んでいる側はイラッとするかもしれませんね。その意味では並べ方が下手だ。こういう句は真ん中辺の読者の読むスピードが定まってきたあたりに置いた方がいい。

信治:

 エアコンをとりつけて目を動かして

これは「いい失敗」かも。
一読して、行為の主体が自分か他人か特定しづらくて、でも、エアコンてあんまり自分でつけないから、他人か、と。でも目を動かすのって、じつは内的な感覚じゃないですか。そこのズレが気持ち悪い。

でも、主観とか視点が浮遊するこの気持ち悪さは、写生の眼というものの非人間性と通じるものかも知れず、まぐれあたりかもしれませんが、読み直すと、いちばん好きかも、となってしまいました。

噴水の句は「をはり」が引っかかるんですよね。あと、噴水池から、水があふれるかなあ・・・。あとお濠の水は、めぐりますかねえ。「城めぐる」ですよね、ほんとは。

いや、ぼくは、言い損なって面白くなることには賛成で、作者もここで、勝負してきてると思うんですよね。

ただ語の結合をあいまいにゆるく取っただけの書き方は、ただの失敗におちいりがちなので、もうちょっとこう上手く転ばないとw と思うんです。

寒蟬:
実は「エアコン」の句、気になっていたんですが最初はここから外していました。見直して「やっぱり入れておこう」と(笑)。エアコンをこんな風に詠んだ俳句ってないでしょう?しかも取り付けて、その取り付けた人が「目を動かして」いる。何なんだ、これは??当たり前と言えば言えるが意図のない馬鹿馬鹿しさというか・・・。この一句だけポンと置かれていたら私は信治さんの句かな?と思ったかもしれません(笑)。

私は「濠めぐる」は「大きな水」の把握が大づかみで好きでした。でも他の2句は失敗ですね。だから50句としては損をしちゃってる。

信治:

 夏が始まる羊羹のつまやうじ

この抒情性、すばらしい。オブジェとしてきれいだし。

 また中へ戻るはちすのうへの蠅

すごくくだらないことを、キレイな韻律で歌ってたり。

柿の花石白く水湧きにけり

三段切れの間の空白が、自然観照的うっとり感に通じてる。いい。純粋の自然詠で、言葉であたらしいことをやって成立させてるという行き方、いいですよね。攻めてる。

 侘助や本棚見えて教授棟

いい構図。広くてきもちいい。つつましい花と老(?)教授を響かせている。

寒蟬:
つまようじの句はとてもいい。信治さんの意見に賛成です。
蠅の句の馬鹿馬鹿しさはどこか「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」に近いものがある。とても面白い句だと思いました。気合の入った(縦令失敗していようと)句の後にこういうふっと気の抜ける句を持ってくる配置の仕方はいい。

蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴

これは「はちすのうへの蠅」に近い馬鹿馬鹿しさ、そんなことわざわざ俳句で言うか?と突っ込みたくなる面白さがあります。

春を唄へば浅草の筈である

この強引な断定。嫌な人は嫌と思うでしょうね。そういう反対意見をものともしない勇猛果敢さ、その意味ではすごく若さを感じさせる句です。「上手いなあ」と思わせる種類の俳句とは全く違った行き方、私にはこの辺にこの作者の将来性を見た気がします。

パンジーの黄やうらがはにその黄透く

これはどちらかと言えば「上手いなあ」という類。まず観察が緻密、皆が見ているはずの光景を皆が見ているのとは違う方向から描いてみせる。「や」を持ってくるところとか「その」の使い方とか、テクニシャンですね。

紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

惜春の句として、50句の最後を飾る句としてなかなかいいんじゃないでしょうか。「その春」に籠められた余韻、作者はどんな春を送ったのだろうと想像が膨らみます。ただ直前のパンジーの句にも「その」があるので、ちょっと違う使い方と言うことを割り引いても気にはなりますね。

信治:
「春を唄へば浅草の筈である」これ、かわいいですね。浅草オペラかw
レトロにもほどがあるw

2015年、堀下さん他こちらで読ませていただいた若手数人は、予選通過してもぜんぜんOKだったと思いますけどね。小野あらた、青木ともじ、青本瑞季と、三人通過しているので「学生枠」的配慮もあったと思います。

ただ、堀下さんでいえば「肉声の」「峰雲の」のような、埒を踏み出ようという句があって、それが疵とみなされただろうという気はする(予選通過の人たちが攻めてないというわけでは、もちろんないですが)。

寒蟬:
かなりの冒険作、野心作と見ましたが必ずしも成功していない。大いに暴れるのはいいのです。ただ勝負に出た句が必ずしも成功していないのが残念。


27. 利普苑るな 「否」

信治選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 盆波の犇いてゐる板の下
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし
 春落葉日当るものはくれなゐに
 少年のまなじり赤し磯巾着


寒蝉選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
 流氷より戻りし人に灯せり
 抱き戻りけり朧より出し猫
 死神に否と応へし春の夢

信治:
利普苑さん、今年、亡くなられたんですよね。
闘病のあったことを感じさせる句はありましたが、まだお若いので驚きました。

寒蟬:
FBの友達でしたが亡くなったという発表が御主人からあって、本当に驚きました。長い間G(癌のことを彼女こう書いてました)と闘っておられたようですが。今から思えば

 熱帯夜病棟に棲む黄泉神
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 花野道死は弾丸となりて来る
 白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
 死神に否と応へし春の夢

などは死を予感して、或いは死と向き合っている毎日だからこそ作れたのかなと。

信治:

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな

川筋に沿って漕ぐかぎり、川岸が長いのはあたりまえなんですが、でもふしぎな実感があります。漕ぎ出したら、長い川岸の長さに、かすかな感情のざわめきを感じながらこぎ続けなければいけない。「薄暑」が祝福であり、救いであり。いい句だな。

 用水路跨ぎ花野に入りにけり

花野は異界なので、結界があるという発想はあるとは思いますが、用水路跨ぎ、というこのざっかけなさに好感。

 春落葉日当るものはくれなゐに

これは、夕日ってことですよね。春で、落葉で、没日で、それはあかあかと、はかなく美しかったと。

 少年のまなじり赤し磯巾着

ちょっとエッチでいいですね。

闘病を感じさせる句については、この作者の自分へのはげましだったろうと思います。
それでいいんだろうと。


28. 小池康生 「一睡」

信治選
 閉館のキネマの隣布団干す
 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と
 マフラーに普段着のありそればかり
 花水木住めば覚える人の顔
 たけのこの白きところに値の書かれ
 我ながら大きな文字や夏見舞
 黒南風や五人で守る草野球
 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼  

寒蝉選
 閉館のキネマの隣布団干す
 男湯と女湯代はる去年今年
 お水取り巨きな夜を燃やしけり
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ  
 台詞なき場面のつづく涼しさよ
 バナナ剥く北に東に南西に
 唐辛子売るや辛さを詫びながら

寒蟬:
ちょっとレトロな感じのこの作者の示す世界が割と好きでした。

 閉館のキネマの隣布団干す

こういう場末の映画館、今はあまり見かけなくなりました。「キネマ」という表現も古いけれどそれが閉館しちゃっている、その横では時代の流れと関わりなく「布団干す」庶民の生活が続いている。

 男湯と女湯代はる去年今年

ありますよね、午前零時になったら男湯と女湯が入れ替わる温泉。それが大晦日と正月であっても普段と同じように続けられているという発見。「色々あるけど時間は流れて行くんだよ」という感じです。

 お水取り巨きな夜を燃やしけり

お水取りは火の祭、私は見に行ったのが幼い頃だったのであまり覚えていませんが「巨きな夜」との把握にはしっかりと見てきたものの強みを感じます。

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン

秘仏の胎内をレントゲンで探るという技術。啓蟄との取合せが面白かった。

 青空を眺めに出掛け落第す

これも落第という人生の一大事に関わりなく青空は常にあるとの思いがベースにある。ただこう書くと「青空を眺めに出掛け」たという能天気な行為が落第を招いたようで面白い。それでもいいじゃないか、と言っているようで。

 鳥交る片方だけが無表情

本当なのかな、でも本当かも知れないなと思わせる。つい人間同士の行為になぞらえてしまうからなのでしょうね。

 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ

いい所に目を付けたなという句です。これまで挙げた句のような時間の流れはあまり感じさせませんが 箸休めとしてはいい。

 台詞なき場面のつづく涼しさよ

ああ、この人はこういう場面から涼しさを感じ取るんだなと。この感性は作者の時間に対する「仕方ないじゃん」という思いと無縁ではないでしょう。

 バナナ剥く北に東に南西に

いいなあ。何だか馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているいい歳したおじさん的で、好きですね。

 唐辛子売るや辛さを詫びながら

詫びているのは唐辛子売りなんだけど作者も唐辛子売りに共感していて決して腹立てたりはしていない。いいよ、いいよ、仕方ないよ、この優しさのトーンが全体を覆っていると思うのです。

信治:

 閉館のキネマの隣布団干す

これは、こてこてですねw。かつての昭和モダンが失われて、庶民の町の素地が露呈している。日当たりがいいのが救いで、この国の青春時代を思いながら、老化した町がいねむりをしている、という景。「隣」は、リアルというより、すこし簡単すぎる気もしましたが。

 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘

なかった比喩ではないかもしれないけれど、除夜の鐘をきくのに、波の間に間にたゆたってるような気持ち、暗いような、あの世のような気持ちになっているというのは、とても、よくないですか。渚男の「船」の句を思い出したりもして。

 外出はせぬがよそゆき大旦

一転、日常としての正月風景。寒蟬さんの選んだ「男湯と」の句にも通じるところがあります。
ぼくの父はこういう人でした。

 地の雪と五重塔に載る雪と
 たけのこの白きところに値の書かれ   

写生あるある。どうでもいいことを言いがち。些事が言葉になっていくときの、なんというんでしょう、無差別、無分別の楽しみがある。タケノコの皮に、白っぽいところと毛の生えてるところがあるということですねw

五重塔の句は、視点、空にあると思いましたけど、むしろ下からですかね。

 マフラーに普段着のありそればかり 
 花水木住めば覚える人の顔
 我ながら大きな文字や夏見舞     
 黒南風や五人で守る草野球        

人間にいちばん興味がある。それも、日々の、ふつうの精神状態の人に。それがこの50句、というより、小池さんのいちばんの特徴だと思います。

 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      

この鷺のひとなつっこさには、微量の謎があって。お魚もらえるのかしら、とも思いますが、意味もなく近くにいるというほうがいいな。

寒蟬:
久し振りに読み返してみたら信治さんの取った

 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と

ものすごくいいですね。大したことは言ってないんだけれども気持ちが入って来るというか時間とともにしみじみいいなと思えてくる。

 たけのこの白きところに値の書かれ

は選んでいながら前回コメント入れ損ねていました。この発見はいい。滑稽さもあるし実に生活に即しているし「あるある」なんだけど陳腐じゃないですね。全体の中でも評点の高い作品でした。

信治:
寒蟬さんの取られた、

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 バナナ剥く北に東に南西に

とかは、すこしサービスよすぎるのでは、とも思うのです。
エンターテイナーなんですね。きっと。


新人賞について

信治:
保坂和志がどこかの講演で話していた逸話です。小島信夫に、保坂和志が「小説家も、選考委員になると、評論家みたいになっちゃうから」と言ったら、小島信夫が「それならまだいい。彼らは、選考委員になってしまうのですよ」と言ったというw

作家も、選考委員という立場になると、文学の代理人として読む、のではなくて、業界の代表者として、賞のそういう性格を無意識に反映して、読み、選別するように、なりがち。それって、たとえば、新人賞が、入社試験みたいになるということですよね。

寒蟬さんはそのへん、どういうふうにお考えでしょう。

寒蟬:
よく分んないけど俳人も選考委員になったら評論家、もしくは「選考委員という人」になってしまうということでしょうか??

信治:
作家は文学とサシの関係であり、文壇に(必ずしも)従属するものではないですが、選考委員になってしまうとは、文壇という業界の機能に、なってしまうということだと思います。

寒蟬:
私のここでの発言がどう取られるかはわからないしどうでもいいですが、私自身は業界(俳壇というものがあればの話)を代表しているつもりもないし新人を送り出そうというつもりもありません。ただ俳句の作者兼読者として思う所を自由に述べさせていただいているつもりです。

先日、小澤實さん、筑紫磐井さんと3人で第1回姨捨俳句大賞という句集に与えられる賞の審査員をやりました。面白かった!自分の俳句観をぶつけて小澤さんとガチでやり合いました。(杉山久子さんの『泉』が受賞)

私は姨捨俳句大賞の公開審査でもここでの信治さんとの対話でも、言っていることにブレはないつもりでいます。

信治:
寒蝉さんが、「賞応募作としては」と言われるとき、彼らに受かって欲しいという、気持ちで言われているのだと思うのですが。

でも、「賞応募作」として、何かを書くというのは、そうとう難しい。
そんな席題が出たら困りますでしょう?

寒蟬:
ああ、そのことですね。言葉が悪かったかもしれない。賞に応募する人は応募するからには賞を取ろうと思っているのでしょう?こちらは読者としてそれを読む時に俳句の並べ方はどうか、統一されたテーマみたいなものはあるか、などと一つの作品として読もうとするということです。それは仕方のないことだと思いますが。

信治:
なるほど。50句トータルでの見せ方ということですね。
たしかに、それはかなり大きな影響あるかもしれません。

ただ、完成度や疵のない作品を、ついつい求めてしまうのは、賞というものが、業界メンバーを選ぶ選別装置であるという前提があって(文芸誌の新人賞だって、芥川賞だってそうですよね)、選考委員となった作家は、無意識のうちに、その関所の門番として機能してしまう。

寒蟬さんも、角川の選考委員の諸先生も、いつもはそういう人じゃないのに。

寒蟬:
まあ立場が人を作るし人を変えてしまうのは致し方ないと思っています。

例えば私は医者として一人の臨床医のつもりですが、同時に病院の地域医療部長でもある。ただ部長として行動する時にも一人の臨床医であることを忘れたくないし忘れないようにしているつもりです。誰かから「お前は一人の臨床医としての立場を忘れている」と指摘されたら恥じ入るし反省するでしょう。

俳人としても同じだと思っています。分って頂けます?

信治:
もちろん分かります。

寒蟬:
「賞応募作として」なんて考える必要はないと思います。自分が俳句でやりたいことを決められた50句なら50句の中で存分にやればいいのです。それが読む側の琴線に触れれば受賞ということになるのでしょう。


●


【落選展2015を読む】
■(1)「水のあを」から「梅日和」まで
……仲寒蟬×上田信治 ≫読む


補遺 全応募作より印象句 ≫読む

2016-04-10

落選展2015を読む〔2〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔2〕

大塚凱×堀下翔




»承前

●杉原祐之「日乗」

大塚:
畦塗の準備のままの猫車
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
でも、冒頭に掲げた4句のようなおおらかな捉え方が魅力です。良い句には裏切りがある。それぞれ「準備のまま」、「遠足が静まる」、「人手不足」、「消し忘れ」というところにハッとさせられます。

堀下:
遊船や屋根を開きて橋潜る
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
あたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。

大塚:
結局は語りたい10作品のうちにこの作品を選びましたが、それはその確立した文体に惹かれたのだと思います。ただ、50句作品は、書き手がいかに読者を飽きさせないかという腕の見せ所でもありますよね。執拗な写生はそれはそれで惹かれるのですが、やっぱり50句となるとワンダーというか、ハッとさせられる前掲のような作品がもっとあると、よりドキドキします。堀下くんの「体言的」という指摘は頷けました。

後半に〈演習の土嚢の積まれ枯野原〉から〈キャタピラの轍の残り厚氷〉まで、急に戦争俳句みたいになっているのは意図があるのでしょうか。句の善し悪しは別として、そこまで続いてきた流れがぶっ飛んでしまって残念でした。

堀下:
戦争俳句というか、自衛隊のイベントか何かに行ったんじゃないですかね。展示を見ながら書いた一種の吟行句かなと思いました。一般論としては、全部の句ではなくて一部分が連作ふうになっているという纏め方は特段気になりません。とはいえこの句はたしかに流れが全然違ってきてしまっていますね。視点が変わっていますから。

大塚:
ここらへんの連作としての感覚は人それぞれでしょうか。一部分が連作になっているからダメだ、なんて横暴は考えていませんけれど、これは50句のテーマ性というか、ゆるやかに連鎖する作品性が結構ブレてしまったんじゃないかという気がしたのです。結局は程度問題かとは思いますが。



●折勝家鴨「塔」

大塚:
冬銀河子が減り子守唄が減り
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
どこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。

堀下:
冬銀河子が減り子守唄が減り
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
などが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。

こういう書き方をする場合、意味の切り取り方に新しさが必要だと思いますが、たとえば
理科室の棚に鍵あり梅の花
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。

大塚:
作者の意識としては、「理科室」に「梅の花」を取り合わせることに面白さを志向したのではないかと思います。二句目は「空席」、三句目は「分解」という言葉のワンポイントで勝負したかったのではないでしょうか。それがあまり意外性の方向へ弾んで行かなかった、と。だからといって大きなキズでもないですし。フレーズに季語をぶつけるという「型」は強みでもありますし、一方でみんな読みなれている方法論ですから、高い完成度でいかに固定化されたイメージを裏切りつつけるかという根気勝負になっていくと思います。

この方法論は文体の自由度がどうしても低くなりがちです。取り合わせにおける文体をいかに更新していくか、僕も耕していきたい余地だと考えています。

堀下:
そうなんです。文体の不自由さがネックなんです。助詞や助動詞でくふうしたり、あるいは律を崩したり、取り合わせ文体の更新はやっていかないといけない。一方でこの50句の場合は、そういう革新を目論んでいるのではなくて、すでに確立した型の中で完成度を高めていこうとしている。細部の強度が必要な書き方です。たしかに「梅の花」「空席」「分解」あたりの語には瞬発力が感じられもするのですが、それ以外の部分がひどく無防備だと思いました。



●高梨章「明るい部屋」

大塚:
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。

堀下:
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。

大塚:
やはり、律の良し悪しも読後の疲労度に関わってきますよね。個人的には字余りや句またがりは好きなのであまり嫌な印象はありませんでしたが、堀下くんがそう言うのも納得はします。詩のことばはつまり暗喩に還元されると言えますが、この作者も取り合わせにおける文体をいかに個性的に、いかに書き手の味方につけるかという部分で勝負している。そうしていると、読んでいて疲れるような、律の問題が生まれてくるという側面もあるのかもしれません。この方法で作品がどこへいけるのか見てみたい。一句における韻律と意味が噛み合った時のパワー、その可能性を感じます。



●ハードエッジ「ブルータス」

堀下:
白梅のかたき莟の香なりけり
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
池に雨松の手入も済みたるよ 2014
運動会その翌日が土砂降りで 2013
と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。

大塚:
正直、採った句はそれほど多くない作品でした。理屈っぽさがどうしても拭えなかったから、当初は平明という印象ではありませんでした。ただ、読んでいくうちにそのなかに堀下くんの言うような面白い作品があったので頂いたという次第です。

堀下:
理屈っぽさというと、
新聞も三月三日ひなまつり
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
あるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。

大塚:
そうですね。〈空蝉と例へば空の段ボール〉とか、「そこで空って言う!?」って思いました。因果を感じたくないな、と思いながら俳句を読みますが、発想につながりが見えるともう因果に引きずられてしまって言葉が理知的な理解で留まってしまうような感覚です。自然の大きさと時間感覚というテーマ性においては先行句は無いとは言えませんが、〈枯野行く少し狂ひし腕時計〉なんかには因果関係がなくて好感を持ちました。それから、〈蟻の巣に入らぬものを壊しをる〉〈大根も抜きたる穴も濡れてをる〉にも素直な詠みぶりの良さを感じます。変に発想を飛ばしたり空想っぽいのものを詠んだりすると、やっぱり理知的な作り方になってしまっていると思います。

堀下:
いわゆる写生句のように見えている素朴な句も、じつは理知的に作り上げられたものなのかもしれません(だったらダメだということではないですよ、為念)。というのも、さいきん素十の句を読みなおしているのですが、写生の神様と思われているこの人の句の一部が、妙に構成的な印象を発していることに気づいたのです。
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』
という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。

でも、この句、読みようによってはたいへん構成性に富んだ句です。小さな花があって、それをつけた木があって、その木のまわりが匂っているという、三段構えの図式がある。

彼の代表句、
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』
における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。



●堀下翔「鯉の息」

大塚:
また中へ戻るはちすのうへの蠅
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。

堀下:
取ってくれてありがとう。僕はおしゃべりが好きなので自分の句ですが気兼ねなく書かせてもらいます。神は細部に宿るといいますか、助詞とか補助動詞とか助動詞とか、そういう部分で表現の精度を上げていくのがまず自分の仕事かな、と思っています。そういう意味で自分は言葉派と思われてもいい。でも技巧が風景に先んじているのではないということはぜひ言っておきたいです。どうも僕は外を歩くのが好きで、特に花があまり咲かない土地で育ったものですから、草木のうつくしさには心を奪われます。花を見ておどろいた気持ちをそのまま書きたい。美しいものを「美しい」と書いたところで何の足しにもならないのでしぜん言葉の細部で補強してゆかなければならない。机上派と言葉派は同義語ではないんです。さいきん気になっている句集に千葉皓史『郊外』があります。千葉の扱う題材は、多くは身辺や自然で、派手なところはありません。どの句をとっても、風景・表現ともにシンプルなんです。でも、こういう句があります。
東京に人影は秋来てゐたり
この助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になる
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
あたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。


大塚:
肉声の句なんかはさっき堀下くんが言ってた「理屈」の話に近いものを感じます(笑)

これは位置関係の句ではないけれど、平明なふりをして一種の理屈としても読めてしまう部分もあるかもしれない。敢えて批判をするとすれば、やや観念的であったり意味が取りづらくなっていたりしてもその韻律にごかまされてしまいそうになるときがある(笑)〈めくるめく史実を春の暑さとも〉などは「史実」という言葉が身に迫るかといわれるとそうではない。〈視力たのしく走りたり麦の中〉の「視力」なども挑戦は面白いけれど、「たのしく」への語彙選択に無理が生じてしまっている感があります。それを押し通してしまいかねない韻律の力強さはあるけれども、成功しているかといわれるとそうではないと思う。

堀下:
あはは、ごまかすつもりはないんだよ(笑) でも確かに観念的な句が交じっているのはよくないねえ。もっと即物的に書く根気強さを身に着けたいと思います。

大塚:
話がズレますが、「理屈」や「観念」という言葉においては、それをときにアレルギー的に忌み嫌い、ときに抗生物質を投与するような安易さで作品の評価に用いているという側面があるのではないかと懸念しています。これらの言葉の定義も曖昧ではあるのですが。「ホトトギス」昭和8年4月号に山口誓子が「詩人の視線」という題のアフォリズム的文章を寄せています。要するに京大俳句草創期に、婉曲的な表現を用いながらホトトギスひいては高浜虚子批判をした離脱表明とも受け取れる文章なのですが、そこには「選者はいまかいまかとその句を選から外そうとしているのだ」というような文脈があるのです。誓子の指す「選者」は虚子のことですが、われわれひとりひとりも〈選者〉だと拡大解釈するならば、その句を選ばなかった場合には理由を後付けているような気がしていて、「理屈」や「観念」といった言葉はそのような場合に多く用いられているような感覚が僕にはあります。これらの言葉には注意しないといけない。きっと「理屈」「観念」にも石に玉が混じっているような気がしていて、これらのことばで句を切り捨ててしまうことには反省がつきまとっています。本当に話がズレました。

堀下:
耳が痛い話です。「理屈」とか「観念」とか、あるいは僕は似た文脈で「意味」という言葉をよくネガティブワードとして使いますが、ほんとうにこれって切り捨てていいものなのか、切り捨ててしまうのは早計なのではないか、ときどきそんなことに思い至って真顔になります。「理屈」「観念」を否定するのが後付けの理由であるとは僕には言い切れません。俳句のポエジーはそういったものではないのだ、というフレーミングを長いあいだ俳句作者たちが重ねてきた結果だと思います。でも、そうではなくて、われわれが「理屈」だとか「観念」だとかと呼んで“いない”ものの中に、実は「理屈」「観念」に相当するものがあって、時としてそれを面白がっているのではないか、そういう虞を感じるのです。たとえば「この句は味があるね」というときの「味」なんかその最たるです。いったいポエジーとはどこに発生しているのか、きちんと選り分けて行かないと、うっかり「理屈」「観念」を暴力的に切り捨ててしまうことになりかねない。言葉というものそれ自体が観念の上にあるので、ほんとうは理屈がない、観念がない言葉というのはありえないんです。そこから目を逸らすのは戒めないといけない。以上の点、今年はもっと冷静に考えてみたいと思います。でも、やっぱり「理屈」は嫌いです(笑)



●前北かおる 「光れるもの」

堀下:
手堅い句が多いと思いました。
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの

要素が多めで、ともすれば焦点がぼやけがちではありますが、新奇さを狙わず、淡々と書き進めていく感じに惹かれました。一句目は要素が多いうえに述べ方も悠長なんですが、そのゆるゆるとした感じが景と合っています。二句目は季語がいいですね。三句目の即物性も大好きです。〈山の雨降りて明るき泉かな〉のような、自然をポエティックな印象で書きとどめようとする句よりも、掲出句のような、人間生活を着実に言葉にしていく句の方に味があります。

大塚:
僕も似た印象でした。採れる句が多かったです。なぜ10作品に入れなかったかというと言い訳めくのですが、文体に新奇性をあまり感じなかったからでしょうか。必ずしも新奇であればなんでもいいというわけではなく、それならそれで手堅さで勝負するタイプの作品も尊いものだと感じますが、それでもって強くインスピレーションを受けるほどの派手さは感じなかったです。〈立秋の候と書きさし窓の外を〉などの景色に惹かれましたが、いい意味で裏切られるような感覚はなかった。例えば花冷の句なども採ってはいるのですが、「花」の成分が「学生服」とマッチしていて、「冷」の成分が「背中」とマッチしているような感じ。句としてはいいとは思うのですが、あくまで「納得する」というレベルでの配合だったかなと思います。ちょっと順当さが拭えませんでした。

堀下:
なるほど、花冷の句の分析、納得します。たしかにその要素ごとの対応は「納得」を生むものです。一句の中にそういったいくつかの力関係があるんですよね。言葉の引力が、べっとりと全体を塗りつぶさず、微妙に拮抗している句にいいものがあると思います。



●宮﨑莉々香「眠る水」

大塚:
最初に取り上げた青本柚紀さんと同年齢ですが、あちらが象徴性の作家だとしたらこちらは切実さの抒情で読ませる書き手です(寒蟬さん信治さんの対談の方で僕と堀下くんも同年齢とされていましたが、正確には僕と堀下くんは1歳上です)。実体に対して仮想や観念を発想するという方法で作られています。

完成度が高いとは言えませんでしたが、面白くなりそうな句がありました。〈おおきな良夜のちいさなコンビニの聖書〉は「おおきな」と「ちいさな」がすごく勿体無いけれど、目の付け所はいい。〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉〈春雨のあとの静かな象舎かな〉なども面白いと思いました。ただ、表現が粗かったり発想が安易である句も多いのは確かです。一般に「俳句的」ではない語彙、表現を用いようという志向があるのだと思いますし、そこに可能性を感じます。〈嵐や風の転校生は鹿をみる〉など独特なリズムに惹かれました。一方で、無理やり言葉を飼おうとしてしまっている感があって、言いたいことがたぶんうまく表現できていない。そこのバランスが取れるようになってくると、もっともっと面白くなると思います。

堀下:
鯛焼きを分け合い星に歴史かな
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
あたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
卒業や写真にうつる大きな木
親戚や同じかたちの雑煮餅
みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。

大塚:
堀下くんの言うように「なんでこれを面白がってるんだろう」と思う句もありますけれど、あんまりそれを指摘しても意味がないような、50句を読んでそんな気がしています。それよりも、この人にはキてる作品を書いてもらいたい。観念といえば観念の構造なのですが、それが面白い観念だという場合がある。50句作品という単位での完成度では他の方に譲る部分が大きいですが、ときどきキてる句が見られたのは幸せでした。

堀下:
卓抜した展開で揃った50句が見たいですね。そのときのために読者の方もきちんと批評できる言葉を用意しておかないと。「キてる」じゃあんまり享楽的な読者ですから。

大塚:
それは反省ですね。口走りすぎました(笑) とにかく、今後の作品が楽しみです。



●利普苑るな 「否」

堀下:
型の強みで取りました。
転校は履歴書に無し蓼の花
はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
はいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。

あと、
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
というのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿
の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記
の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリング
の「ホバリング」

は、その一語に俳句の面白味を求めすぎで、丁寧に書いてほしいです。

大塚:
利普苑さんも実感の書き手かとお見受けしました。

〈料峭やてつぺん見えぬ螺旋階〉、螺旋階段をそう略して伝わるのか微妙に思いましたけれど意外性があります。〈囀や応募葉書に貼るシール〉なんかも生活詠としていいところだと思います。その一方で〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉〈てのひらに硬き切符や冬ぬくし〉など、実感はあるけど既視感の強い作品、パターン的な季語の付け方を感じました。ここら辺が残念に思います。これらを〈転校は履歴書に無し蓼の花〉と比べると、やはりフレーズの視点、季語の配合ともに単純な物足りなさを感じてしまいます。

堀下:
ああ、切符がどうのこうのというのは、やっぱりねえ……。〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉も、薄暑だと、もうなんにも残らないですね。一昨年の秋に出た利普苑さんの第一句集『舵』、いいんですよ。
一行の編集後記夏来る
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。



●小池康生「一睡」

大塚:
手袋もをのこも行方不明なり
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。

堀下:
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔 
降り残す雨を今ごろ椎若葉
あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。

大塚:
先ほど安定感と言いましたが、それは句末がとくに名詞で着地する傾向とも関連していると思います。読後にキッパリとする感じは、この効果による部分も大きいかと思います。

2016-03-20

【週俳2月の俳句・川柳を読む】小池康生 「叫び」よりも「声」は怖い

【週俳2月の俳句・川柳を読む】
「叫び」よりも「声」は怖い

小池康生


◆中村 遥 『光る魚』   

絵襖の金ンこぼすかに鳥鳴いて

「絵襖の金ンこぼすかに」は、「鳥鳴いて」にかかってくる。
分かるようで分からなくて、魅力的だ。
鳥が鳴くことによって、絵襖の金がときどきこぼれてくるかのようにも思える。黄金溢れる絵襖なのだろうし、金をそそのかすような鳴き声なのだろう。


◆水草生ふ 『篠塚雅世』

福豆を打つや遠くへ近くへと

鬼は遠くに近くにいると。福は遠くにいるのか、近くにいるのかと。

雪洞の生絹のくすみ水草生ふ

生絹が灯りを取り囲む手燭。くすみとは汚れではなく、生絹越しの灯りのニュアンスと受け止める。それと水の変化の取り合わせは、生成される春の途上に妙に合う。


◆下楠絵里 『待ち人』

イヤホンの無音を聞きて雪の町

イヤホンを耳に嵌めてはいるが、プレイボタンの押されていない状態だろうか。雪の中、音を消しつつもイヤホンを耳にしている独特の「無音」の中にいるのだ。それは雪の中の無音と、オフ状態のイヤホンの無音の、二重の無音の中。あまりにも内面的な世界。そういう精神状態が表題を作るのだろうか。

秘密には秘密で返す室の花

「秘密には秘密で返す」はある種のパターンかもしれないが興味深く、季語でどうにでも広がるのだろうが、室の花では世界を広げてくれないのでは?


◆トオイダイスケ 『死なない』 

花樒土に声ことごとく吸はれ

樒は棺の四隅に、墓地に。土葬の時代には獣除けに周囲に置かれたとも聞く。
そんな樒の花。樒のイメージからは遠い可憐な花が咲く。花樒で切れ、「土に声ことごとく吸はれ」。死のイメージと、声なき声。地に埋もれたままの声が怖い。「叫び」よりも「声」は怖い。

舌の裏熱し辛夷に俄雨

「舌の裏熱し」と「辛夷に俄雨」。説明などできぬが、この取り合わせは、こちらの心に残る。絵画的とも違う。印象と印象の取り合わせのような世界。手強い作者だなぁと思う。

野に遊ぶ着の身着の儘来し友と

作者の背景、句の背景を存じ上げないので、「着の身着の儘」で、被災者を連   
想してしまう。野に遊ぶ二人の表情がくっきりと見える。色々な句を作れる人なのだなぁと。


第459号 2016年2月7日
■中村 遥 光る魚 10句 ≫読む
■川合大祐 檻=容器 10句 ≫読む
■篠塚雅世 水草生ふ 10句 ≫読む
第461号 2016年2月21日
■下楠絵里 待ち人 10句 ≫読む
第462号 2016年2月28日
■トオイダイスケ 死なない 10句 ≫読む

2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 28.小池康生「一睡」テキスト

28. 小池康生 「一睡」

閉館のキネマの隣布団干す     
手袋もをのこも行方不明なり    
近づけば点る仕掛けや年暮るる   
海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘  
男湯と女湯代はる去年今年     
外出はせぬがよそゆき大旦     
残り福むかし不良で貧相で     
嗄れ声冬菜いよいよ旨さうに    
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺  
地の雪と五重塔に載る雪と     
マフラーに普段着のありそればかり 
日向ぼこばかりしてゐること苦手  
描きかけの消防車なり出動す    
立春のトールサイズといふカップ  
新暦の方の二月を愛しをり     
逆光の一山は紺春の雲       
お水取り巨きな夜を燃やしけり  
一本も観ずに延滞春の雨     
春炬燵下位の力士にいや詳し   
年寄りに年寄りの役百千鳥    
啓蟄の秘仏の腹のレントゲン   
早喰ひがもつとも旨し春の昼   
青空を眺めに出掛け落第す    
石鹸玉すべて己が壊すなり    
鳥交る片方だけが無表情     
苗札のなきものばかり咲きにけり 
あかときはけふもあたらし蜆舟  
けもの道記せる地図の朧かな   
谷底に墓と笑ひや朝桜      
一睡につづく一睡ちるさくら   
春寒し伊勢はいづくも神の傍   
花水木住めば覚える人の顔    
降り残す雨を今ごろ椎若葉    
溢るるは漲るに似て菖蒲風呂   
たけのこの白きところに値の書かれ  
台詞なき場面のつづく涼しさよ    
眼帯と香水まとふ少女かな      
噴水のわづかに顔にかかる距離    
現れて消えてあらはれ死にゆく蚊   
我ながら大きな文字や夏見舞     
とめどなく水織り込んでゆく瀑布   
黒南風や五人で守る草野球      
バナナ剥く北に東に南西に      
生身魂あの世の下見済んだらし    
二百十日木偶全身を震はせて     
釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      
松茸を買つて洋服あきらめる     
澄みてなほ水は面をうしなはず    
唐辛子売るや辛さを詫びながら    
行く秋に会釈御手洗に柄杓

●

■小池康生 こいけ・やすお
銀化同人。句集『旧の渚』。

2015-07-12

【週俳6月の俳句を読む】小池康生 この人の句をもっと

【週俳6月の俳句を読む】
この人の句をもっと

小池康生


『末期』 利普苑るな

週刊俳句の『6月の俳句を読む』への執筆依頼が来たのは、編集部がこの『末期』十句をわたしに読ませたかったのではないかと推察している。昨年わたしは、角川俳句賞に『最初の雨』という五十句を応募した。これは、わたし自身が宣告を受けてからの治療、手術、術後の日々を描いたものだった。末期はのぞいていないが、末期かもしれぬという気持ちは味わった。

『末期』……あまりにも重い表題である。末期とは、死の寸前の限られた時間なのだから。作者に対し「死」という言葉を使うことさえ憚られるが、フィクションではない(と思える)作品に向かいあうためにあえて使わせていただく。

『最初の雨』を書き、相当な時間を経ての反省は、病床での俳句は、辛い悲しいのは当然のこと、本人にとって切実なことを書いても、赤の他人には、想像の範囲のことであり、悲しみや辛さはすべて「病床」という言葉の中にあると考えなければいけないこと。それは重々承知して創作にあたったつもりだったが、まだまだそれが足りず、病床の中にいる人間の幅広い感情や、意外な気持ち、意外な行動を詠いあげることができていなかった。

病の中になりながら病だけで生きていない自分や家族を、誤解を恐れずに書くことが必要だったということ。病床の中にある単調に見えつつ高低差の激しい感情。驚くほどのユーモアや、残酷さや、至ってニュートラルな感情……そういうバラエティさが欲しかった。それは書きながら意識してきたつもりだが、書き終え時間が経つとまだまだ物足りなく、反省多きデキだった。

この十句を読むということは、わたしの中のそんな背景を無視できない。

一句二句引くような読み方は難しいので、全部鑑賞してみる。

末期長くあれかし新茶啜りをり  利普苑るな

末期とは、ご病気の本人の一番つらい時期。看病する人も辛く、それでも長く生きて欲しいと願う。ここで、「八十八」というめでたい数字の隠された季語をぶつけてきた。

末期の状況に遠くにある「実り」を持ってきた。
香り高く、緑茶の新鮮な茶葉の色彩を17音に登場させた。
面白い取合せだが、作者自身が病を抱え、新茶を啜りながら、末期を長くあれかしと祈っているのだろうか。
それとも、作者は病人の看病しながら、その人の末期を「長くあれかし」と祈っているのだろうか?

「末期長く」というフレーズの中には「末長く」という言葉も織り込まれているのかもしれない。末期という重い言葉を使いながら、なかなかのユーモアである。縁起のいい新茶を飲みながら、末期の闘いに挑む。魅力的な劈頭である。

麦秋や病院よりも白き墓


麦の秋の黄金色。病院の白。それよりも白い墓。三つの色彩がわたしのなかではうまくまとまらなかった。

猫の待つわが家遠しや薔薇香る

帰る、帰られないと思い。やはり入院しているのは作者なのだろうか。
「遠し」が物理的な距離だけを指していないのは誰にも明白なのだが、薔薇はどう読めばいいのだろう。見舞いにもらった高価な薔薇。しかし作者には猫の香りが恋しいということだろうか。

病床の夏暁パッヘルベルのカノン


ドイツの、ヨハン・パッヘルベル作曲のカノン。卒業式や入学式に使われることの多い曲らしい。そうくると、病床の方はご本人ではなく若い方という想像も膨らむ。数句あとの「逆縁」という言葉も引っかかってくる。

あるいは、作者本人の卒業や入学を思い出しているのか。
それとも卒業や入学に関係なく、この曲の持つ旋律が作者の好みなのか。

全体の調べから、あまり悲しい感じはしない。好きな曲を、暁という最高の時間に聴いている場面が想像される。
入学や卒業も人生の大きな区切り。末期も大きな区切り、そういうものを引っ掛けながら、美しい明けの空をベッドから眺めているのかだろう。

聖五月額に楔打ち込まれ

強烈な句。数句あとの<夏蝶や水玉柄の脳画像>と合わせて読むとかなり苛酷である。わたしも内視鏡を体内に通しながら、モニターに映る自分の腫瘍を眺めたが、それは絶望しかない画面で、そこから検体の結果を待つ時間は、いくら楽天的な性格でも希望など持ちようがない。<額に楔を打ち込まれる>は、決して大げさではない。聖五月。クリスチャンだとしたら、この状況の意味を神に問いかけたくもなるだろう。この季語に磔刑の自分のイメージを合わせ、しかも楔は額に打ち込まれるのだから、どれほどの境涯を迎えているのか。あまりに切実である。額、そこに腫瘍があるとも読めてしまうが……。

逆縁の不孝よ父よ初蛍

「逆縁」が、作者と親御さんの関係なのか。作者と作者の子供さんとの関係かがまだ分からずにいるが、本人と親御さんとの関係と判断してみる。逆縁は幾つになろうが逆縁。この「初蛍」は、一句の中でどんな摩擦を起こしているのだろう。今年の初蛍は見ることができたのだろうか。まさか、思い出の初蛍ではあるまい。俳句のルールブックを気にしているわけではないが、思い出の蛍はいいとしても、思い出の初蛍なんて機能しないだろうなぁ。一連の句が病院内と思われるので、この初蛍の場所を想像しがたい。

かはほりや隣のベッドより寝息

この句が、十句のなかで最も印象に残った。自分が重篤であるだけでなく、同じ病室の人たちも皆それなりに重い病を抱えているのだろう。そして、病人の睡眠時間はまちまちである。蝙蝠がうごきだす時間、病院は慌ただしい。見舞い客の訪問。夕食を始める人、寝息を立てている人。病室でも、ロビーでも動きがある。窓からは、蝙蝠の乱舞が見える。不吉でもあり、その動きは慌ただしさや、錯乱などのイメージのつながりを生み出す。入院病棟ならではの生き生きした時間でもある。夕暮れに動き出す「かはほり」と「隣のベッドより寝息」の対比が際立つ。

病室より線路と航路朝ぐもり

病室より両方が見えるのだろう。それは末期の先の道の暗示と見るのが当然で、そうなると線路と航路が現実のものだとしても、このふたつを並列に記す必要があるのだろうかと疑問が沸く。もし並列に意味があるなら、それが読者に伝わるような描き方が必要だろうし、暗示として割愛できるなら、そのどちらかの路をもう少し書き込んで欲しいと思うのだが。

夏蝶や水玉柄の脳画像

末期の画像は怖いものだが、作者の事情は知る由もないので、作品は作品として読ませていただけば、この「水玉柄の脳画像」は悲しくはない。明るく弾んでさえ見える。入院中の画像はすべからく怖いものだが……。それとも疑いのあった画像を恐る恐る見ていたが医師の説明で明るい気分になったのだろうか。入院中の患者が、怯え、緊張したあとの開放感は相当なものだからなぁ。とんちんかんな読み方をしているのだろうか。病床の俳句として相当ユニークだ。

目鼻消し泣きたき日あり雲の峰に

人間そう簡単には泣かないものである。しかし、長い闘病生活のなかには、「泣きたき」日もあるのだろう。<目鼻消し泣きたき>が切ない。ひとりシーツに隠れてではなく、「雲の峰に」がいい。泣いてはいない心の叫び。夕刻の蝙蝠ではなく、真昼の雲の峰と向かいあっている。それは雲の峰でありながら、自分の中に屹立する自分を指しているのかもしれない。

闘病十句、説明をせずに思いの丈を詠いあげないことには面白くない。
しかし、それはなかなかすべてを理解できるわけではなく、作者とおなじ立場には立てない。ただ、垣間見る。歌の断片を聴くのみ。この人の句をもっと読みたくなる十句だった。


『秘密兵器』 喪字男

花合歓やピアスあふるるピルケース  喪字男

この句が特に印象に残った。
ピルケースにピアスが入っているのだ。ピアスを付けるときを身近に目撃する関係なのだろう。花合歓のほわーとした雰囲気に合う。花合歓の木陰でのシーンでも気持ちいい。〈あふるる〉ほどなのだ。さぞや趣味のあう品々が溢れているのだろう。女性の備品にはあまり深入りしてはイケナイ気もするが、それを垣間見る時間を得ると、親しみが増すことがある。


『何か書かれて』 福田若之

一句たりとも読み流せない手強い句が並ぶ。でも力を入れずに読んでみる。

ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう  福田若之

そう呼ぶから、そう認識され、そういう風に存在する。

広い田に引用されてゆく早苗


〈引用〉とう言葉に別のチカラを与え、それが嫌味でないことが不思議。

箱庭の作者が映り込む水面

カメラマンや監督を刺激するような句。箱庭の映像。そこにある水面。水面を強調したアングルではないのだけれど、すぐさまそこに箱庭の作者が映り込み、観客が「あっ!」と思うなり、その顔のサイズから水面のサイズ、箱庭のサイズが認識され、小さな驚きが錯綜感に変わってゆく。

夕立の幹にべたつく手が触れる

書かれていないことは、大きな木の幹で、暑い日にも関わらず木肌は乾いているということ。その気持ち良さを〈夕立〉と〈べたつく手〉で描いているのだろう。

何も書かなければここに蚊もいない


ハンカチの句と響き合い、この句でさらに飛翔させてゆく。
この十句を読んでの感想は、インテリ臭い句は嫌いなのだが、どうしてか、嫌悪感が沸かないということ。それぞれどこかに純化という仕事がなされているのだろう。


第424号 2015年6月7日
■利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
■喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
■福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む

2015-05-10

〔今週号の表紙〕第420号 京都の、なーんにもないところ 小池康生

〔今週号の表紙〕
第420号 京都の、なーんにもないところ

小池康生


京都府木津川市加茂町を歩いた。案内役は、『木津川アート』のプロデューサーで、ここらあたりには顔が広い。写真はあるご婦人のお宅。フツーの民家なのだが、フレンチレストランと言われても蕎麦屋と言われても納得する佇まい。畑を耕し、絵を描き、焼き物をし、自給自足の生活をなさっている。しかし、ただのひとり暮らしとは思えない。聞けば谷川賢作さんのコンサートを開かれたこともあるとか。とてもいい空間で、句会に使ってくれもいいとのこと。柱、梁、テーブル、暖炉、色々撮ったが、どれも説明的な写真になる。それで天井にカメラを向けたのが、表紙の写真。「筍でも掘って行きますか」と勧められたが、予定があるのでご辞退し、次に訪ねたお家で掘らせていただいた。この界隈、おもてなしが筍堀?前日が雨だったのこともあり、実に柔らかくおいしい筍が採れた。ここ加茂町、最近アーチストや漫画などが移り住んできているらしい。なにもないけれど、穴場だなぁ。


●

週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら
 

2015-02-01

第6回石田波郷新人賞受賞作を読む  賞の輪郭(後編) 小池康生

 第6回石田波郷新人賞受賞作を読む
賞の輪郭(後編)   

小池康生

≫前編


前回にも断りを入れたが、わたしは『石田波郷新人賞受賞作』を読むというよりは、『石田波郷俳句大会第6回作品賞』の全体を読んで楽しみ、その感想を書いている。

波郷新人賞を狙う人は、この小冊子を手に入れて読むといい。

各審査員から仮名遣いの安易な間違いに気を付けるようにとか、二十句のなかに直喩の句をいくつも入れないようにとか、その他具体的なアドバイスが選評のなかに散りばめられていて、コミュニティを持たぬ人たちには貴重なアドバイスになることだろう。

冊子内の、選考過程について説明する一文に石田波郷新人賞は、〈「俳句甲子園」で登場した若い才能がさらに大きな注目を集める「第2のステージ」として、この新人賞が位置づけられるという見方も増えています〉とのこと。確かに、学生俳人がさらに社会人をも含めた俳句の世界で羽ばたく登竜門のような感じはする。

年齢制限三十歳までコンクールだから、学生とは限らないのだが、実際には、今年の受賞作は十八歳の大学生。準賞は十七歳の高校生。奨励賞は二十歳の大学生と、二十四歳の社会人と、三十歳の院生。

ひとり三十歳がいるが、実に若い人たちが活躍していて、二十歳以下にしても成立しそうな勢いである。

俳句は年齢ではなく、俳句を読んできた数、詠んできた数、さらにはその読みがどれだけ深いか。そこに俳人の成長が関係するとつくづく感じる。

年齢的な深みも重要であるが、月に4句5句を作ってそれで終わるだけでは、年間六十句程度の作句数。作者が年齢的深みを持っていたとしても、それを作品に載せる技は、その作数ではなかなか身につかないだろう。

高校生は俳句甲子園のためにだけ俳句を作っているわけではないだろうが、俳句甲子園に出場するにあたり集中的に作品を作る。月に4句5句では済まない。数百句は作るだろう。

初学を抜け出す方法として、まずは2000句以上作ることだと西村和子さんが総合誌で発言していたことがあり、おおいに共感したものだ。俳句甲子園強豪校の部員は、三年間の高校生活で2000句ほどを作っているものと推察する。高校卒業と同時に、「初学」も卒業していくのだ。

ただ、濃厚なコミュニティに所属し、先輩諸氏との交流を重ねたドラマチックな「キャリア」の前では、作句数の話は力なく霧散するだろうが・・・。

もとい。石田波郷新人賞へ。

応募数70編。これが多いのか少ないのかわからないが、テーマを持った20編をまとめるというのは大変なことだろう。

大半の応募者は、締切りぎりぎりに追い込みで仕上げ、仮名遣いや文法のチェック、並べ方にまでは細心の注意を配れぬ人たちが大半で、締切日を遠くから見て、段階的に二十句を完成させていく人は少ないだろう。

しかもベースとして、それまでにすでに2000句を作り、しかるべき選を受けてきた人間の数はさらに限られ、コンクールの上位進出は、応募以前から決まっているようなものではないだろうか。鍛錬の場を持っていたかどうか。その差は大きい。

さて、受賞作の話。


●新人賞 『しがみつく』堀下 翔

一面に蝌蚪をりすべて見失ふ
流燈を追い越してみづ駆けにけり

に惹かれた。さらに劈頭の句も印象的。

熊ん蜂二匹や花を同じうす

たいていの18歳なら〈熊ん蜂二匹が同じ花の中〉と書く可能性が高い。この一句で、散文ではなく韻文をやっていますよとたからかに宣言しているわけだ。

しかし、四人の審査員全員が印をつけているかというとそうではなく、岸本尚樹◎、佐藤郁良〇、甲斐由紀子と齋藤朝比古は無印。これが俳句を選び、選ばれることの面白さ。

甲斐由紀子は、選評に〈自然を場として自然現象をよく観察し、写生を基本として詠出している。まだ十代であるが、俳句の骨法を熟知しており、作品の風姿が端正である〉と書きつつ、〈(略)反面、選考会では「いかにも俳句的」「若さを感じない」という意見もあった。確かに「一面に蝌蚪をりすべて見失ふ」や「秋風やかはうその尾が川のうへ」などには俳句的手口が見え隠れしている。それをあからさまにみせないのが、芸の力であろう。〉

こういう選評を若き応募者たちはどう読んでいるのだろう。わたしは興味深い。作品がある。作品を読む人がいる。そこから出てくる言葉が、どれだけ作者や座を囲むひとたちを刺激するか。この場合は冊子を手にとる人たちを、コミュニティのメンバーと考えたい。わたしには、〈俳句的手口が見え隠れしている。それをみせないのが芸の力であろう〉というところがアンダーライン。

前回、ちらりと書いたが、俳句を作り「俳句的」と言われる場合、すでにある俳句を踏襲しているという批判が含まれる。古典を学び、新しみを追求する姿勢からすると、「俳句的」であることに批判的要素が含まれることにいつも抵抗を覚えるのだが、上記の発言はとても肯える。

つまりはバランスであろう。学んだものをどう昇華し、自分の文体にひきつけ、新しみを拓くか。

わたし自身、ただならぬ新人と目を見張りながら、20句全体に心躍らされたかというと話は別。感心して読んだのは事実だが(それで十分なのだが)。しかし、18歳。これからこの作者の作品になんども心躍らされることだろう。どうすれば18歳でこれだけ韻文精神を身につけられるのか。

俳句を始めたばかりの青年は、戸惑いを覚えることだろう。いや、俳句を始めたばかりの人は、ここにある技術や、抑制に気づかないかもしれない。


●新人賞・準賞  『眼を得る』 永山智郎

現役の高校生。俳句甲子園優勝開成高校の中心的メンバー。17歳。
わたしが二重丸をつけて読んだのが、

ある高さからは色なき石鹸玉
蝙蝠や玄関先に読む手紙

劈頭の

きさらぎの市場へ光りゆく轍

の「ゆく」には引っかかりを覚えたが。
選考過程を読むと、正賞の『しがみつく』と最後まで競った作品であるらしい。

この作品にもふたりの審査員が印をつけている。
佐藤郁良◎、齋藤朝比古〇。甲斐由紀子と岸本尚樹が無印。

佐藤郁良の選考評。
〈準賞に決まった『眼を得る』は最後まで『しがみつく』と議論になった作品である。とりわけ「ある高さからは色なき石鹸玉」の発見、「工具みな違ふ光やきりぎりす」の取り合わせの感覚などは秀逸である。(略)全体として抑制された表現の中に滲み出る叙情性に強く惹かれた。『しがみつく』が平明な写生を旨としているのと、ある意味で対照的な作品であった。〉

齋藤朝比古の選評は、まず、『眼を得る』と下楠絵里の『風の名』を一緒に評し、〈俳句でしか言い得ない世界観を表現しようと試みた、作者の力量が伺われる好作〉としたあとに、全体の作品に触れている。

〈いずれの作品も新人賞作品との大きな差異はなかったことは、第一次選考の集計結果や選考委員会での議論の内容から疑う余地はない。また、ここのところの本賞への応募作品のレベルの向上は著しく、先の新人賞者の活躍を鑑みるに、本賞がまごうことなく若手新人の登竜門として機能している点は、選者としてとても嬉しく思う〉。

こここで言うレベルが応募作70編全体を示しているのか、最終審査に残った12編のことを指しているのかは不明。
このあと、こういうアドバイスが続く。

〈最後に少々の苦言。毎年応募作品全体を読み、選考させて頂くのだが、「不用意な仮名遣いの間違い」「安易な当て字の使用」等により最終審査から漏れてしまうという、選考する側から見てとても残念でならない。少々の時間を割いて、今一度の推敲と辞書による確認をしてから投稿するよう、切に願う。〉
最後の〈節に願う〉を読むと、相当惜しいことをした作品があったのだろうといらぬ想像をしてしまう。

準賞の『眼を得る』に戻ると、甲斐由紀子の評は、抒情にあふれた作品を褒めつつ〈全体にバラつきがあり、受賞に至らなかった〉とのこと。

一方、岸本尚樹は、
〈「ある高さからは色なき石鹸玉」「兄いもと寝網一つに入れてやる」「工具みな違う光やきりぎりす」「冬来る嵌め絵の少女眼を得れば」などが完成度の高い秀作。私自身は『しがみつく』のユニークさ(確信犯とも思われる緩い、脇の甘い文体で読者を句中に誘い込む独特の句触り)を評価したが、句の出来では『眼を得る』も十分に正賞に値するとの認識が選考委員間で共有されていた。〉

そこまでの接戦だったようだ。次回有力候補であることに間違いないだろう。

18歳と17歳の接戦。改めて、ふたりの筆力に舌を巻き、やはり俳句は一部天才的な人たちのものではないかという考えが頭をよぎるが、しかし、『しがみつく』にしても『眼を得る』にしても、どちらもダサいタイトルではないか。そこを衝く審査員はいないのかと心の中で毒づき、特別でも天才でもない全国の17歳や18歳に思いを馳せる(ホンマかいな)。


●新人賞・奨励賞 『広がる町』 今泉礼奈

この人は、ネットの中で「俳句アイドル」を自称している人であることは知っていたが、作品に触れたことはなく、劈頭の句、

初空のふつくらと鳥受け入れる

を読んだ時には、軽い驚きを覚えた。本格的ではないか。もっと新しさを全面に押し出す主観的な句を作る人かと勝手な先入観を持っていたのだが・・・・。

双六の紙をおさえる係かな

も意外なところを衝かれた気持ち良さがある。私の特選は。

箸くばる手に酢のにほふ晩夏かな

その他にも、たくさん印を付けながら読ませてもらった。
気になったのは、三句目

白木蓮のおほきく昼を過ごしけり

一句目で「ふつくら」、ここで「おほきく」どちらも形容詞に大事な仕事をさせ、それがはじまりの3句までに入っているというのは損な構成ではないだろうか。


●新人賞・奨励賞 『この蔦を』 黒岩徳将

審査員全員が、以下の2句を挙げて褒めた。

つまらなきものの輝く夜店かな
ポインセチア四方に逢いたき人の居り

わたしもこの2句に特に惹かれた。夜店の句は、この小冊子全体の中でも一番魅力を感じた句である。特選のなかの特選。

しかし、他の句がいただけない。作品全体のバラつきということでは、この20句が一番バラ付いているように思う。昨年も奨励賞。さて、来年は?


●新人賞・奨励賞  『月白』 堀切克洋

甲斐由紀子が二重丸。選評は、

〈「うみうしの取り残さるる磯遊び」「蝸牛しづかに泡を吹きにけり」「蟷螂の尻ふるはせてゐるばかり」など対象に対する哀憐の情が静かに沸き起こる佳句も多く、地味ではあるが言い過ぎない鷹揚な句柄に惹かれた。他の選考委員から「インパクトがない」「既視感のある作品がある」との指摘もあった。今後は、取り合わせる季語については、先行作品にあたって吟味するなどの努力が必要であろう〉。

このコメントにほとんどのことは言いえているだろうから、なにも足すことはないのだが、わたしは、

どちらかといへば汗かく人が好き

に強く印を付けた。作者の立場にたてば、既視感を指摘され場合、具体的な作品を提示して欲しいところだろう。句会でよく「既視感」があるという指摘がおこなわれるが、コンクールの選考の場であれば、具体的指摘が必要かもしれない。

「既視感がある」は決定的なマイナス要因でありながら、使い易い言葉であるところが怖い。

こうして、全体を見ると、賞にかかった作品群はすべて旧かなである。

これは応募要項に制約があるのだろうか。それとも石田波郷賞だから押してしるべしというところだろうか。

賞を得た作品群は、伝統から多くを学び、韻文精神を知り、俳句の骨法を知っている作品ばかりである。その後の活躍は約束されるのも、そういう基礎の厚みを認められているからだろう。

新機軸もあくまで基礎があればこそ。そういう意味では、王道を行くコンクールである。

しかし、気になることもある。

それはキャリアを見て感じることで、この小冊子に必ずしも学歴などは記されていないが、彼らは進学高校、一流大学を出て、俳句甲子園経験者であり、すでに俳句エリートとして注目を集めている人たちであるという共通項がある。

前回、自分自身が遅れてきたおっさんであることを書いた。

これからも遅れてくるおっさん、おばさん、婆さん、爺さんが俳句の世界に入ってくるだろうが、若手にも遅れてくる人たちがいるはずだ。そこがとても気になる。

俳句甲子園と縁なく、大学に入ってから、社会人になってからスタートを切る若者たち。この遅れてきた青年たちは、今、本当にやりにくいだろうと思う。先行している若者はたいてい俳句甲子園経験者で、すでに横のつながりもできていて、技術も身につけている。そんな同世代の先輩と座を囲むのは結構肩身が狭いかもしれない。

遅れてきた青年たちが、旧かなを使いこなし、文法を間違えず、魅力的なタイトルをつけ、20句の並べ方に演出を施し、見ず知らずの読み巧者をうならせるのは簡単なことではない。

遅れてきた青年たちに薦めたいのは、結社に入ることである。

最近、というよりだいぶ前から、若手の有力な俳人たちのネットでの発言は、図らずも結社のネガティブキャンペーンになっているところがあり、それを結社所属の人間がとやかくいうのも憚られていたのだが、一度書いておきたいことがある。

別にわたしの所属する『銀化』の宣伝でもなんでもない。

遅れてきた青年たちに、結社という存在がお勧めであるということ。

結社に入らないまでも師を持つべきである。ひとりで俳句力を身につけられるのは、天才的な一部の人たちだけなのであるから。

散文はひとりで学べると思うが、韻文は短い癖に、極端に短いからこそ、そうはいかない。あまりに特殊な表現なのである。

天才的な人間が、一流高校から一流大学に進み、そのなかで有力俳人のいるコミュニティに参加し、作句力や鑑賞力や俳句に関する情報を得ていく。遅れてきた青年が彼らに追いつき、自分の世界を展開し、それが独りよがりに終わらず、石田波郷新人賞受賞レベルにたどり着くのは大変なことである。

若者には、結社アレルギーのようなものが深くあるようだが、アレルギーが起こるほどたいした毒性を持つ結社などあるだろうか。あればそれはそれでたしたものである。

結社には、面倒臭いことはあるだろうが、初学のうちはない。

同人になって多少注目されるようになってからはないとは言えないが、それもせいぜい消費税程度のもので、さらに言えば、今の消費税ではなく、以前の消費税程度のものである。

それよりも、師を持つことの大きさ。良き先輩を持つことの喜びは大きいし、実際役立つ。

結社に所属する人間からは言いにくいが、結社は必要である。

確実に育つ。

俳句甲子園卒業の有力若手俳人が無所属であることが無所属に意味を持たせているのだろうが、それが勘違いのはじまりである。

彼らは俳句甲子園で有名になり、多くの知己を得て、あちらこちらの結社の句会に参加できるようになり、そこから結社の滋養も得ているのだ。無所属であるが、結社からなんらかの栄養は得ているのだ。

或いは結社で実力をつけた人たちから間接的にその栄養分を受け取っている。

一方、自分たちで新しい集団を作り、過去の俳人とは違うコースを探りつつ、その全体の活動を「運動」として自らの創作のかたりを作り上げているのだと思う。それは実に面白いことであるし、そちらに目が行きがちであるが、その前段では自力をつける場所を持っていたというところが大事で、今はその話である。

仲間作りよりもまずは、基礎を身につける場所の獲得である。

遅れてきた若者たちが、「理解しあえる同世代」と、「技術を学ぶ場」を同時に獲得できるとは中々思えない。

漠然と横のつながりばかりできていも、初歩的修練の済んでいない人間があちらこちらに顔をだしたところで、活躍も吸収も難しいのではないだろうか。

まずは、俳句文学館や柿衛文庫に行って目をつけた俳人の句集を読み、これという人を見つけるのだ。そこには毎月の結社誌もおいてある。簡単に師が見つからないのも当然。あちらこちらを見学してまわるのも一つの手だ。

エリートのことはどうでもいい。すでに道はつき、活躍は約束されている。それよりも、遅れてきた人間は、遅れてきた人間にふさわしい道筋を探さねばならない。

前々からネットの中で言っておきたかったことだが、石田波郷新人賞を読み、一層、その思いが募る。

ただ俳句に興味を持っただけの凡夫にこそ、俳句世界は面白いところであって欲しい。

高校生は2年3年で開花する。遅れてきた青年たちは何年で開花するのだろう。時間はかかるだろうが、恵まれたエリートだけでなく、ゆるゆる戸惑いながら俳句の世界に入り込んだ青年が、石田波郷新人賞を獲るなんて面白いではないか。

俳句の世界がエリートばかりではつまらない。物語の筋書きは色々あってしかるべきである。結社がネガティブなイメージを持っている時、結社にひとり飛び込み、滋養強壮を得て、突然意外なところから無名の若者が俳句の世界に登場するような物語に接したい。

凡夫たちよ、結社に潜り込め。師を選べ。いつか石田波郷新人賞を獲ってやれ。・・・まったく余計なお世話を書いてしまった。

(以上)

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2015-01-25

第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編) 『賞の輪郭』  小池康生

第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編)
賞の輪郭     

小池康生


週刊俳句から、受賞作を読めとのお達し。

わたしはすでに読んでおりました。

昨年、銀化12月号に石田波郷新人賞を取り上げたのだ。10月に書いて12月号に掲載。月刊誌の時間差はもどかしく感じることが多いのだけれど、Webの『週刊俳句』に明けて1月に書くというのは、紙媒体より遅いデジタルということになり、これはこれで面白い。

しかし、いま、再び作品と向かい合うと、いまさら受賞作のなかから選をして感想をまとめてもすでに誰かが書いたことをなぞることになり、それはとてもつまらないことに思える。

わたしの手元には、大会実行委員会のまとめた『石田波郷俳句大会 第6回作品集』がある。

これが面白い。90ページに及ぶもので、作品はもとより、巻頭言から選評まで興味深く読ませていただいた。

つまりは、受賞作品だけでなく、この作品集全体をどう読んだか、この賞をどう受け止めているか、そんなことを書くことになるのではと思いつつ、見切り発車で書き始める。

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この賞は有名で、受賞者がどれだけ活躍しているかはよく承知しているが、作品集を読むのは初めて。

お恥ずかしい話だが、『石田波郷新人賞』として覚えていたので、ここに年齢制限のない一般の部や、ジュニアの部があることを存じあげなかった。あまりにも若者の登竜門として有名なので、「新人」という冠のつかない部門を知り、失礼ながらこの部門は宣伝不足ではないかと、余計なことを考えたりもする。

かなり以前に書いたことだが、俳句コンクールで、募集要項に50歳以下、40歳以下、30歳以下と年齢制限をつけることは、若者を刺激するには面白いことだが、その年齢より上の人たちは、疎外感を覚えるし、実際「年齢を制限されると、わたしたちは用なしと言われている気がして不愉快」と鬼の形相でおっしゃる先輩がいたし、人の口を借りているが、わたし自身遅れてきた青年ならぬ遅れてきたおっさんなので、年齢制限を見るたびに、自分たちに門戸は少ないと思うし、一方で、俳句人口を支えているのは、この制限された年齢よりも上の世代なわけで、その世代にも刺激敵な賞を用意するプロデューサーが現れてもいいのではないか・・・・ということを4、5年前に書き、それを読んだ七十オーバーの先輩から強く握手を求められた覚えがある。

もとい。

だからこそ、新人賞で有名な石田波郷俳句大会に、年齢制限のない一般の部があることをもつと広く知らしめてもいいのではないだろうか。わたしだけでなく、一般の部の存在を知らない人は意外に多いと思う。

それと、新人賞は20句ひと組で、一般の部は2句ひと組もしくは3句ひと組というのも、つまらない。大人の部門ももっと個性的、刺激的な企画にしてもいいだろう。若者向けの企画にだけパンチ力をつけ、一般相手は平凡でいいというのもおかしい(そういう気持ちはないでしょうが、わたしの筆は滑りに滑っているところ)。

おじさんやおばさんや、お婆さんやお爺さんだって刺激が欲しいのである。

話を戻すと、この一般部門の句、大きな声で言えないが、さほど面白くない。新人賞の方が断然面白い。それは一般が劣って若者が優れているのではなく、一般の部の募集要項に刺激がないからだ。

こちらの部門も話題になるような企画にすれば、もっと面白い句があつまり、ここからも俳壇に人材を送り込めることになると思う。

若者の賞を充実させるのと同じように、中高年の賞にも新機軸があってもいい。クオリティの上でも、俳句出版のビジネスの上でも、実はそちらの充実も必要ではないだろうか(なぜ、わたしが俳句出版のビジネスまで考える。筆はいつもより多めに滑っておりまする)。

●

話を戻そう。

作品集を読むのである。

角川『俳句』1月号にも受賞作品が掲載されているが、主催者発行の作品集は、さらに内容が詳しく読み応えがある。

読み直して気づいたことは、四人の審査員が、応募作全体の中からそれぞれ10句を選んでいて、これでコンクール全体のレベルが伺えるように思える。

なかでも、四人の審査員全員に選ばれ、しかも四人それぞれに別の作品を選ばれている人がいる。

作品名「しばらくは」の安里琉太(20歳)

濁りゆたかに寒鮒の桶を糶る  (甲斐由紀子選)
ははそはの母をはじめに初湯殿 (岸本尚毅選)
天井の影騒がしき氷水     (齋藤朝比古選)
白シャツに車窓の雨の影はしる (佐藤郁良選)

20句の作品で4句も抜かれ、それで奨励賞にも届かないとは不思議なことだ。

それ以外の句でわたしがチェックした句は―――――、

甲斐由紀子選から―――

なまはげに恋しき声の混ざりけり  石塚直子
なまはげで恋心の句。新鮮な驚きを覚える。

岸本尚毅選から―――

雲母虫大日本といふ時代      藤本智子
ある種、いまと響きあう時代の本。危険な匂いも。

扇風機ひよいと持ち揚げられにけり 浅津大雅  
強い風を送る扇風機の意外な軽さ。これも発見。

母老いて罪なき昼寝姿かな     樫本由貴 
20歳の人から見た母親。これからふたりの立場は逆転していくのだろう。

梅雨寒や地獄絵に我らしき人    横田福家
寒気だけでなく湿り気も。

ふらここや後ろが冬で前が春    大池莉奈
前に向かうのは、春だから。繰り返し読むと、後ろが少し怖くなる。

齋藤朝比古選より――――

花ぐもり鯉やはらかく衝突す    高瀬早紀
衝突なんてするのかなと思いながら、ぶつかっていく光景が想像できる。

ハンカチの刺繍うらがはよりなぞる 泉かなえ
「俳句的」という言い方は悪い意味で使われることが多いようだけれど、わたしはこの言葉を肯定的に使う。

星冴えて秒針の音硬きかな     下楠絵里
見逃しそうな甘い句だが、精神性が出ているかと。

彫刻のやうな顔して冷房へ     野住朋可
冷房に向っていくのに、彫刻のやうな顔とは。

佐藤郁良選より―――

潮干狩海見失ふこともあり    日下部太亮
海を見失う・・・気持ち良い驚きを覚える。

まだ、新人賞にも、準賞にも、奨励賞にもたどり着いていないが、来週へ。

(以上)

2014「石田波郷賞」落選展  ≫見る

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2014-12-21

【週俳11月の俳句を読む】小池康生 キーワードの明滅

【週俳11月の俳句を読む】
キーワードの明滅

小池康生



■秋尾 敏「何かある」

獺祭忌眼鏡に空を置き忘れ

眼鏡を置き忘れるのではなく、眼鏡のレンズ面に空が置き忘れられている。言葉を追うと、一瞬、意識がぐらりと来ることに快感を覚える。そこに残っているのは、松山の青空だろうか。

島は吉兆稲妻はマグマに及び

日頃、自分が作ったり読んだりしている句とは別の世界。そこが刺激的。
吉兆とこられることに、戸惑いと新鮮味。句会で採るかというと採らないだろうが、しかし、採らなくても面白いものは面白い。

けやき落葉す時間を溜めすぎた

この「す」はなんだろう。〈けやき落葉時間を溜めすぎた〉では、〈けやき落葉/時間を溜めすぎた〉となり、〈時間を溜めすぎた〉のは、けやき落葉と別のものになってしまう。この句は、けやき落葉が時間を溜めすぎて、その溜めすぎた時間の落下を描いていると受け止めた。だから、〈す〉が要るのだろう。しかし、〈す〉がすんなり入ってこない。言葉は自由に使えばいいし、作者の世界で昇華されていればそれでいいわけだが、わたしには、「落葉す」がとても息苦しい。


■九里順子「心なき窗」
ここには、テーマがあり、世界がある。
構造があり、構成がある。
構造と構成は、別のものである。

心なき窗より鴫の飛び立てり

「心なき窗」とはなんだろう。「心なき」などとむき出しの言葉を使った句は、この段階ではまったく謎である。鴫であることの謎も伏線として引っかかる。

山水を嵌めて花鳥の塒かな

逆の視点。山水に花鳥の塒を嵌め込んでいるのではなく、花鳥のねぐらの周囲に山水が嵌め込まれている。そしてその塒に「かな」を捧げている。ここでぐっと、作品群に入り込む。自然界が、螺鈿で作られた世界のように展開する。

羽化登仙爪の先まで草紅葉

「羽化登仙=中国古代の信仰で、からだに羽が生え仙人となって天へのぼること。また、酒に酔ってよい気持ちになったときのたとえにいう」。掲句は、〈爪の先まで草紅葉〉。羽が生えたのではなく、草紅葉になり天へ登ってゆくという。この草紅葉、羽の代わりもできる立派なものなのだろう。ただの羽ではなく、草紅葉の羽ならば、天のなかでも特別なところへ行けるかのようだ。

ひとふでで描く稜線野紺菊

「稜線」と「野紺菊」だけの世界。「ひとふでで描く稜線」によって引き出される「野紺菊」。スマートな世界。ところで、「心ない窗」とはなんだろう。

秋寂びの声が出てくる喉ぼとけ

立派な喉ぼとけなら、低音が響き、秋寂とは別のベクトルの声が出てきそうだが・・・。
ここで、作者は、喉仏の「仏」という漢字を隠した。
野紺菊、羽化登仙、螺鈿で作られたかのような花鳥の世界、秋寂・・・〈心なき窗〉とはなんだろうか?

その窗の深さに秋日差し込まぬ

また、窗が現れた。窗は深いものなのか。この窗は、どこにあるのだろうか。

わたくしを骨まで愛せ鰯雲

骨まで愛してなんて言われると城達也を思い出す。
〈わたくしを骨まで愛せ/鰯雲〉
愛せで切れて、鰯雲。愛せと誰に命じているのか。
上5中7の12音と、下5は別の世界だろうが、鰯雲に対して〈わたくしを愛せ〉と言っているようにも読める。わたしはそちらを取る。
つまり、作者は、なんらかの事情があり鰯雲に感情移入していて、骨のない鰯雲の骨まで愛している。そして、愛した量と同じだけのものを自分の方向へも求め、〈わたくしを骨まで愛せ〉というフレーズが誕生したのでないかと想像する。
壁を押せば同じベクトルで自分が押し返されるように、鰯雲を愛し、同じだけの愛を鰯雲からもらいたいのだ。
ただ、なぜ、鰯雲に心を預けているのか。そこに大きな省略があり、薄っすら「窗」というキーワードが明滅する。

すつぴんでするりセーター脱ぎながら

すつぴんでなければ、セーターはひっかかると言っているよう。
化粧を施した女性は、とてもご苦労があり、するりとはいかないご様子。
箸休めのように軽い句を読み、ホッとする。

柿色に燈るはるかな夜長かな

「はるかな夜長」とは、どういうものだろう。
柿色に灯る日本の原風景のような世界、そこでの夜長を想像させる。
「はるか」が、現代人が経験する夜長とは遠くにあるという意味の「はるか」なのか。それとも、今、経験している夜長にまだまだ奥の深い世界があるという「はるか」なのか。そこはどうも不明なのだが。

月の蝕一重瞼は窓になる

「窗」がすこし解き明かされる。
一重瞼、そこが窓であるという。ならば、〈心ない窗〉とは?
劈頭の〈心なき窗より鴫の飛び立てり〉に戻れば、窗だけが心ないのではなく、作者自身が心なき状態になっていて、心なき自らのココロの中から鴫が飛び立つと読めてしまう。深読みが過ぎるのだろうか。いずれにしても、繋がりながら謎をばらつかせ、ひとつの世界を追わせる。


■岡田一実「美食の耳」

冬帽をおほきな耳と考へる

この調べのよろしさ。この説明のなさ。気持ち良い。

耳があるつづきに顔がある炬燵

余程の耳をお持ちの方が、炬燵の向こう側にいらっしゃる。
耳へ目がいく。いつもこの人物に目を向ける時、耳に目がいき、その続きに顔に目がいく。この人は、耳なのである。耳の存在感がたまらないのだ。人格のような耳。


■太田うさぎ「シナモン」

大天使彫りたる鐘の寒さかな

神と同席することを許される大天使が掘られている鐘。
分厚い鐘。沁みる寒さ。そこに描かれている大天使。
今は鳴っていないが、美しい音色が想像できる。
大天使が掘られているからこそ。この季節ならではこその音色。

以上、勝手なことばかり。頓珍漢な深読みが過ぎるのかも。
さらに付け加えれば、取り上げた作品よりも、取り上げなかった句が気になって仕方ない。そこに、わたしの読みの至らなさがあったからかもと思うからだ。
とりあげられなかった句は、つまり書くことができない句。わたしの向き合えない句と、多少意識しつつ・・・。


第394号 2014年11月9日
■秋尾 敏 何かある 10句 ≫読む
■九里順子 心なき窗 10句 ≫読む
■かたしま真実 凹み 10句 ≫読む
■荒川倉庫 豚三十句 ≫読む
■岡田一実 美食の耳 10句 ≫読む
■太田うさぎ シナモン 10句 ≫読む