2020-11-15

【句集を読む】ええなあ、西のお人は 小池康生『奎星』を読む 小林苑を

【句集を読む】
ええなあ、西のお人は
小池康生奎星』を読む

小林苑を


参道の箒目に雪混じりをり  小池康生(以下同)

『奎星』は三章から成っており、各章が春・新年から冬・早春へと編まれている。最終章の一句目は「初明かり奈良は生駒の向かう側」。大阪の人である作者からすれば初明かりは生駒山の向こうの奈良の方角、つまりは天平の彼方からやってくるのだ。なんとおおどか。ほんま、ええなあ、西のお人は、と思うのです。この句に限らず地名建物名がなんともな、東国の田舎モンとしてはズルいと言いたいような佳い句がある。

それは置いときます。揚句は新年のことだろう、と言いたかったのです。早朝、境内を掃き浄める頃はまだ雪だったかもしれないし、庭ではなく参道に箒目が残っているというなら、参拝もまた早い時間に違いない。結晶のような雪が箒目に混じっていたと、それだけ。なにも言わない、だからこそ、読み手は新たな年の清冽な冷気を肌に感じます。

このように『奎星』はどの句も丁寧に詠まれており、余計なことは言わない、俳句の真骨頂ですね、とここで終わってもいいのですが、実は帯文にある作者の「大患」が投影されている句集でもあるのです。であれば、揚句の凛と張り詰めた空気の中のすぐにも解けてしまうであろう雪の煌めきが刺さってきます。

少しだけ自分のことを。健康には自信があった私ですが、体調不良で病院のお世話になり「完治する治療法はありません」と告げられてから、「いま」という時間を生きているのではなく「生かされている」と感じるのです。生かされている間に、なにができるか、なにをすべきか。大袈裟な話ではなく、当たり前だった日常のひとこまひとこまが大事な時間なのです。

大阪の男いらちぞ祭鱧》《みかん剝くさして食べたき訳でなく》《マフラーの中で一人になつてをり》の鬱屈。なにより《ななふしのやうにどこかにゐてくれる》の情愛。誰とは書いていないけれど奥様のことでしょう。枝そのもののような擬態で知られる昆虫で、草食なのだとか。「どこかにゐて」「くれる」。自身の思いとともに、これらの句には作中主体を見つめる作者の目を感じます。『奎星』は私小説のように作者の心情が刺さる句集なのです。

恋猫は婦長のやうに戻りけり  小池康生(以下同)

鹿の子の咥へてすぐに後じさり

店よりも厨明るし寒の入

立秋や朝から昆布を水に浸け

夕空に鷹の匂ひを残しけり


小池康生『奎星』2020年10月/飯塚書店 ≫amazon

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